はてなキーワード: 理論とは
こういうアンフェのふりした、男にだけ仕返しさせないようにして、一方的に男性差別させようとしてる屑の理屈って、「侵略されても、武力で対抗したら相手と同じ」理論だよね。
大半がどうでもいい駄文。
どうでもいいことに執拗にこだわる文体もあいまって、部外者は「関わるだけ無駄」という印象をよりいっそう強めるだけだろうね。
これは、一見するとスペックにこだわりがない簡単な条件のように見えるけど、こういった「人柄」を第一条件にするのはマチアプのような婚活では実は一番難しい。なぜなら「人柄」を条件に検索はできないので、会ってみるまで分からないから。
年収・学歴・身長・見た目(写真)のような婚活プロフィールですぐわかるスペックを明確に条件に設定した方が、会う前にプロフィールの段階で絞り込めるので婚活を進めやすい。
人間性重視で目に見える数字条件にほとんどこだわりのない人が婚活長期化しやすい理由&対策について
→ https://youtu.be/DhMCPSjnrnA?si=ApwWs0PtMgcjA6qa
元増田を読んで思ったのは、求めている人がいる階層と実際に会っている人の階層がずれているのでは?ということ。
自分が求める人柄の人がどんな階層や集団に多いのか(年収・学歴・職業など)を考えて、その階層・集団の人に会うようにしていく。
婚活で出会えるいい人っていうのは、新規で登録して最初の頃にマッチングした人と結婚していく人なので、新規登録の人で良さそうな人にいいねして会った方が、いい人に会える確率は上がる。
元増田がいい人に会えていないのは、「いいね」待ちの姿勢でいるから「長期間婚活をしているのに結婚できない人」にばかり会ってしまっているからのような気がする。
新規の人に会った方がいいという理論はこちらをみて → https://anond.hatelabo.jp/20240228190945
人柄はプロフィールだけでは分からないので、どんどん会って、合わないと思ったらさっさと切っていく。
自分はアプリで4人会ったけど、会うまで手間がかかりすぎると感じて結婚相談所に入って24人と会ってその中の1人と結婚したので、結婚相談所に入った方がいいんじゃないの?と思う、、、
で悩み中。
先週末ぐらいにシェーバーが突然ウンともスンとも言わなくなった。充電器(全自動洗浄機)にさしても充電ランプが付かないので、充電池の寿命と判断して尼で充電池を注文。
2年程前、購入から3年目ぐらいの年にも同じことがあって充電池を自分で交換して復活させたのでまた同じ症状だと思ったのだ。
充電池が届いて交換し動作することを確認して解決と思いきや、充電器にさしても充電がされない。それどころか充電ランプが点滅するという事象が出て、ぐぐったらどうやら充電異常であるらしい。充電池に残っていた電気で動作はするので完全な故障では無さそうだが、肝心の充電ができないので充電回路が故障したのだろう。なお古い充電池に戻しても同様。ACアダプタを繋げて直接駆動できるはずなのにそれでも動作しないので電源回路周りが都合よく壊れたらしい。
パナのサイトを見ると電源系故障の修理は目安で1万程度取られるっぽい。
とはい5年使ったのだから買い替えても良い気もするので後継機を探してみたが今は6枚刃なんて出てるのな。
今使ってるのは5枚刃なので3枚刃は無し、すると同じ5枚刃か上の6枚刃。そしてパナは刃数のシリーズ毎に上・中・下というラインナップがある。
シェーバーとしての性能差は各シリーズ内には無く、ACアダプタを直接繋げる交流式対応か、充電表示の豪華さ、全自動洗浄機・ハードケースが付くか、というセンスのない分け方。ちなみに全自動洗浄機が付かない機種は全自動洗浄機との接続端子が無いので全自動洗浄機の使い回しは不可。
というパナのシェーバーの前提知識があっても現行機種は無駄に多くてどれがどう違って何がいいのか全くわからん。
シェーバー比較表 https://panasonic.jp/shaver/comparison.html?comp=lamdashpro6 なるページがあるが、結局一番下の詳細比較のところを見るしか無い。
が、この比較表もクソというか肝心の機能差分が比較項目から漏れているので結局各ページを見て絞り込んでいくしかなかった。
自分的には全自動洗浄機が必須という条件しか無いので最終的には6枚刃からES-LS9Q、5枚刃からはES-LV7WとES-LV7J、の計3つ。なお比較表の絞り込みで全自動洗浄機だけにチェックを入れてもES-LV7Jは何故か出てこない。クソですね。
5枚刃のES-LV7WとES-LV7Jの違いは交流式対応か否かだけで、市場価格もほぼ同程度。6枚刃については全自動洗浄機付属が最上位のES-LS9CXか次点のES-LS9Qしかないので実質選択肢がない。
5枚刃のES-LV7WとES-LV7Jは26k~30k程度で、まあこんなもんだろうな価格。今使ってるやつも22kで買ったので色々値上がりした状況を加味すればこんなものだろう。
対して6枚刃のES-LS9Qは43k~50k、シェーバーに出す金額としてはなかなか良いお値段だと思う。
毎日使うものに対しては金を掛けた方がQOLが上がるということを経験的に知っているが、6枚刃にすることによるメリットがいまいち想像できないのが問題だ。
理論的には、手早く剃れる可能性が上がる→時間が掛からない→剃る時間が減るので肌を傷めにくくなる、というのはわかるのだが体感的なものとそれに対するコストが適切かを評価するかは難しい。
自分の髭は濃い方では無い、しかし肌は弱い方なのか顎の上あたりにできものができたりしたりするので使える気は使いたい。
レビューっぽいのや感想を調べてみても、髭が超濃い人なら6枚刃いっとけ、それ以外は5枚刃と大して変わらんとか気持ち良くなったかもみたいなのが多いように思える。
やっっっぱ5枚刃のままでいいかなーーーーでもやっっぱ買い替えるなら6枚刃も気になるよなーーーーーーー
実際使ってみるのが一番良いんだろうが、当たり前だが他人が使ったかもしれないシェーバーなんて使いたくないしそもそも家電屋に通常並べてるのはモックなので剃れる訳が無い。
だからこそ「なんとなく高性能っぽい」アピールをしまくったサイトを作るのだろうなというのは理解するが、もうちょっと選びやすい指針を示して欲しいものだ。
生成AIの話題を見ていると「生成AIと人間の学習は同じ!」という話を見かける。
同じ、といっても「人間も模写をする」や「他人から学習をする」という理論が主。
聞くに生成AIは58億の画像を学習して成り立っているらしい。
58億、とんでもない数字なわけだが、生成AIの機械学習が本当に ”人間と同じ学習” ならば
あそこまでの画力を出すのに58億。些か ”学習下手” だなと言わざるを得ないと思う。
自分は趣味で絵を描いている人間だが人生の中でいくら絵を見続けていたとして、見た絵は50万も行くかもわからない。
その中で更に ”学習” する為に使う資料となれば5万以下にまで減る。
正直、人間が絵が上手くなる為に必要なのは ”他人の絵(資料)そのもの” ではなく ”理解力” だ。
当たり前の話すぎる。
絵が上手くなりたいならデッサンしろって言われたことはないか?
物の本質、構造を理解し、それを絵で表現する力を身に付けるためにやれと言われる。
人間は5万も要らずに多くを理解できるのに対して、生成AIは58億を以ってもまだ理解できない部分があると来た。
これを学習下手と言わずになんと言うのか。生成AIと近未来的な名前をしている割には低機能だなと思ってしまう。
いい加減本題に入ろう。
答えは否だろう。
理由は先に簡単に答えたが生成AIというものに ”物の構造を理解する能力” はない。
私はAI技術というものに詳しい訳ではないが、断言しよう。 ”物の構造を理解する能力” はない。
人間の学習というものはそもそも学習内容を正しく理解し自分の知識として蓄えそれを正しく活かせて初めて ”学習出来ている” といえるものだ。
テストの内容を丸暗記して100点を取ったとしても、それを正しく知識として身に付けていないのならばその学習に意味はない。
よく居るだろう、勉強が出来るだけの馬鹿が。テストでいい点を取っていたのに今はしょうもない平社員なんかやってる人間が。
結局そいう人間というのは正しく活かす為の知恵がなかったというだけの話。
生成AIは過去問全部引っ張り出して暗記して80点を取って「出来た!」と言っているだけに過ぎない。
要はただの数に物を言わせたパワープレイだ。
そこに知恵なんかない。
反AIと呼ばれる人々が生成AIを「コピペ」や「コラージュ」と言うのはこういう面にあると思う。知らんが。
要は他人の技術を、意味や本質学び活用し発展させるのではなく、他人の技術をそのまま切って張っただけ。
その範疇をでないから新しいものは生まれずありきたりなものになり、絵柄を陳腐化させる。
こう見るとコラージュよりも出来が悪いな。
そうではない、と言うならば。
上げればキリがない程に破綻が多い。
そしてその破綻をなくす為にはプロンプトだとかいう呪文とやらの駆使が必要になる。
そこまでやって、やっと手描きと見間違う程のものが出来る。
著作権がどうとかAI技術がどうとか、そういう側面のことは詳しくないので語らないがこれだけは確かだと自信を持って言える。
物の構造や、物事の本質、絵を描く事における技術的知識も何もなく
何一つ活用すら出来ない程度のものが、人間の学習と同じな訳がないだろ。
そもそも「学ぶ」ということをなんだと思ってんだ。
ちなみに私はこの話に於いて「著作権がどうの」 「二次創作がどうの」などという面倒な話はしていない。
だというのにも関わらず「人間が少量で理解できるものを」 「何十億と消費できる機械が理解できていない」という客観的事実を無視して
「人間と機械の学習は同じ」という理論が展開されているのはおかしいだろ、という話をしている。
アドラーの本を途中まで読んだ.
これによると,精神疾患など生きるのに役立たない道に陥るものには,幼少期から共通感覚(コモンセンス)を獲得できていないという特徴があるらしい.
そして共通感覚を獲得できなかった子供いじめられたり問題行動を起こしたりする.
この共通感覚は家庭において保護者から学ぶらしい.つまり保護者が共通感覚を有していなければその子供も共通感覚を獲得することが困難で,大人になってから苦しむのだ.
なぜこの世界では誰でも子供を持つことが許されるのだろうか.ペットですらちゃんと育てられないなら飼うなと批判されるのに.
あるいはせめて,誰でも子供を作る自由があるのなら,どんな子供も自分で死んでいい自由を認めるべきではないか.
この物語では,子供は生まれたらすぐに親から引き離されて専門の施設で集団的に育てられるというユートピアが描かれている.
作中ではこのユートピアを明示的には否定も肯定もしていないが,画一的に育てられた子供は個性がなく皆同じような表情をするという描写が描かれている.
「個性なくしたら死んでるのと一緒だよ」
共通感覚を有しない"悪い個性"を持つことは決して本人のためにはならない.
個性を持つことが良いとされるのは,個々の親が独立して子供を育てる現在社会におけるナッシュ均衡にすぎないのではないか.
消滅世界のシステムのように全員が同じ教育を受け,共通感覚を有していることこそがパレート最適なのではないだろうか.
あるいは,個性,個体差は環境が変化した際に種全体が生き延びるのに有利だと説明される.
だが,これは明らかにほとんどの平均から外れた個性を持つ個体にとっては酷な話だ.当然ながら平均から外れた個体の殆どは環境に適応できず苦しむからだ.
上のような理論を唱える者は,「お前らのような珍獣が居た方が俺/私の遺伝子が残る可能性が高まるから生きろ.そして苦しめ」と言っているのに他ならない.
現代社会は第二次世界大戦前の全体主義を反省し,個人の幸福を最大化しようとしたのではなかったか.所詮それは,正規分布の真ん中あたりにいるマジョリティの自己満足に過ぎなかったのか.
そもそも,人類が環境変化を生き抜くのに,遺伝子の多様性は必要なのだろうか.
多数のサイコロをばらまいて確率論的に変化に打ち勝とうとするその他大勢の生き物とは違って,人類は理性を持って変化を予測し,技術で環境を変えて乗り越えることができるのではないだろうか.
だが,ときに個性は天才を生み出し,その天才が技術を飛躍的に進歩させる.
こういった天才を生むために正規分布の端のほうの人間も,その殆どは苦しむ運命にあるとはいえ,大人になるまで生きていなければいけないのかもしれない.これによって,苦しむ未来の天才に生きる希望を与えることができるから.
本当にそうだろうか.電球の発明のように一人の天才の発想が大きな一歩を生み出した時代とは違って,現代の科学の進歩は過去の技術を積み重ねて積み重ねて演繹的に導き出された進歩ではないか.
いや,そうでもないか.私も理系の大学院で研究の真似事をしたことがある.今でも科学の最先端では天才の発想が不可欠だ.そしてそういう人は共通感覚を有していない人が多い.少なくともそう見える.
つまり,現代においても正規分布の端にいる,共通感覚を有しない,遺伝子的耐用性を持った人間を生きさせることは必要なのかもしれない.
私は天才ではない.だが,共通感覚を獲得することができず,苦しんでいる.正規分布の中央に行けなかった人間の中の,一握りの天才を除くその他多数の中のひとりだ.
私の意識は死ぬことがのみが正解だと確信している.だが,私の無意識が生きることを声高に主張している.そのせいで私はまだ生きていてこの文章を書いている.
理性で動く私は,なんとかして自分が死ぬことが論理的に正しいのだと結論付けたい.だが,今日も失敗した.
誰か私を助けてくれ.お前はもう開放されて良いのだと背中を押してほしい.
経済学において、均衡価格の静的理論はワルラスによって始められ、アローとドブリューにより確立された。
単一市場からなる簡明な場合、需要=供給方程式で表され、自然な力学が容易に分かるが、複数市場に関する状況は複雑である。
需要過剰は、価格のなす空間から商品のなす空間への関数Z(p)=D(p)-S(p)と考えられる。
ここでDとSはともに個々の行為の合成によって決定されている。
このとき、経済学は個人の振る舞いに関する諸条件に根拠を与え、それらの条件はZの持つべき諸公理を導く。
すなわち Z: R_{+}^{l} → R^{l} が需要過剰写像であるとは、次の公理を満たすZを言う。
これにより、Zは境界を含まない正の象限と(l-1)次元球面との共通部分上のベクトル場とみなせる。
均衡価格ベクトル、つまりZ(p^{*}) = 0となるベクトルp^{*}の存在はホップの定理から導かれる。
社会人だと少々ハードル高いかもしれないが、芝居がベストかな、とは思う。
自分も吃音やらADHDやら持病やらで対人不安はあったんだけど、
高校演劇で本当に人生が変わった。きちんとした指導者がいる学校ってなかなか無いんだけどね。
単純に、メソッドとして声と体の動かし方が理論的、感覚的に分かるのと
演劇に関わっている人ってやっぱり前向きなのよね。
ボイスドラマとかも悪くはないけれど
やはり 文字 < 音声のみ < ビデオ通話 < 対面での会話
これは間違いない。処理する情報量に圧倒的差がある。
このくらいの読み書き能力の差とくらいに思ってる。
ドラマもモノによっては半分以上がバーターの大根演技なので、きちんとした芝居経験者のいるドラマを見よう。
昔(アラフォーくらいまで?)は吃音やら、コミュ障ってのはいじめてくれてたのよ。
当人からしたら余計なお世話って思うかもしれないけど(おれも実際思ってたし)
双方心地いいコミュニケーション能力が何か、が多少なり分かるようになるし
おれも、小学校高学年くらいから、吃音だの、ADHDだのが原因ってのが分かって対策できたし
周りの子たちも単にいじるだけでもなくて、色々教えてくれた子もいたし。
今は、どのような理由であれ当人がいじめられた、いじられた、無視された、で加害者認定されるから
普通にコミュニケーションが取れる子供たちにとって、わざわざ教えてあげるインセンティブが無いんよ。
ちょっと発育が遅いのかもね~ていって置いてかれて全て自己責任の世界。
両親が専門家である確率なんてほとんど無いわけで、診断がどうあれあとは自助努力しかない。
とまあ、当事者としてはそんなことを思うわけです。
といった式について、素粒子では後者が支配し、天体では前者が支配する。
近距離における強い力のために、電子は原子核に螺旋状に落ち込むが、明らかに事実と違う。
というハイゼンベルグの関係式に従う。このため、r=0となることはなくなり、問題は回避される。
多様体上の楕円型作用素の理論全体が、この物理理論に対する数学的対応物で、群の表現論も近い関係にある。
しかし特殊相対性理論を考慮に入れるとさらに難しくなる。ハイゼンベルグの公式と同様の不確定性関係が場に対して適用される必要がある。
電磁場の場合には、光子というように、新しい種類の粒子として観測される。
電子のような粒子もどうように場の量子であると再解釈されなければならない。電磁波も、量子を生成消滅できる。
数学的には、場の量子論は無限次元空間上の積分やその上の楕円型作用素と関係する。
量子力学は1/r^2に対する問題の解消のために考え出されたが、特殊相対性理論を組み込むと、この問題を自動解決するわけではないことがわかった。
といった発展をしてきたが、場の量子論と幾何学の間の関係性が認められるようになった。
では重力を考慮するとどうなるのか。一見すれば1/r^2の別な例を重力が提供しているように見える。
しかし、例えばマクスウェルの方程式は線型方程式だが、重力場に対するアインシュタインの方程式は非線形である。
また不確定性関係は重力における1/r^2を扱うには十分ではない。
物理学者は、点粒子を「弦」に置き換えることにより、量子重力の問題が克服できるのではないかと試した。
量子論の効果はプランク定数に比例するが、弦理論の効果は、弦の大きさを定めるα'という定数に比例する。
もし弦理論が正しいなら、α'という定数は、プランク定数と同じぐらい基本的定数ということになる。
ħやα'に関する変形は幾何学における新しいアイデアに関係する。ħに関する変形はよく知られているが、α'に関する変形はまだ未発展である。
これらの理論は、それぞれが重力を予言し、非可換ゲージ対称性を持ち、超対称性を持つとされる。
α'に関する変形に関連する新しい幾何学があるが、理解のために2次元の共形場理論を使うことができる。
ひとつは、ミラー対称性である。α'がゼロでない場合に同値となるような2つの時空の間の関係を表す。
まずt→∞という極限では、幾何学における古典的アイデアが良い近似となり、Xという時空が観測される。
t→-∞という極限でも同様に時空Yが観測される。
そして大きな正の値であるtと大きな負の値であるtのどこかで、古典幾何学が良い近似とはならない領域を通って補間が行われている。
α'とħが両方0でないときに起こり得ることがなんなのかについては、5つの弦理論が一つの理論の異なる極限である、と説明ができるかもしれないというのがM理論である。