はてなキーワード: 少年マンガとは
じゃあ、書いてくぞ。ネタバレ注意。
『天気の子』を振り返る。
ていうかモノローグが多い
「少年さ~」
須賀圭介の姪。
陽菜には「陽」が入っている。
・銃
・龍
ー魚
魚は龍の派生。(SEKIROより)
・浴衣
ー花火
ー立花瀧のお母さん?
ここでは瀧のお父さん?の初盆。
後で宮水三葉も出てくる。
四葉どこいた?
・「公妨ォ!!!」
すき。
・未成年で将来を誓い合う
・涙=雨
雨は天の涙という。
実際、陽菜が泣く。
いやほんと誠さぁ・・・
・生傷だらけの顔、手錠
最後空中でもつれつつ手錠がかかさって離れなくなるとか思ったじゃん。
・狂った世界 とは?
その後、警察に確保された二人は2年離れ離れになる。
誠はエンディングの前に必ず離れ離れにしたくなる病にでもかかっているのだろうか。
お前、、、やめろよ、、、(秒速の恐怖)と思ったがちゃんと再開。
結局、銃の出どころや、水に沈んだ東京への納得の仕方は、消化不良。
だが、こんな狂った世界でもいいんだよ、というエンド(?)
まとめ
じゃあ、書いてくぞ。ネタバレ注意。
『天気の子』を振り返る。
ていうかモノローグが多い
「少年さ~」
須賀圭介の姪。
陽菜には「陽」が入っている。
・銃
・龍
ー魚
魚は龍の派生。(SEKIROより)
・浴衣
ー花火
ー立花瀧のお母さん?
ここでは瀧のお父さん?の初盆。
後で宮水三葉も出てくる。
四葉どこいた?
・「公妨ォ!!!」
すき。
・未成年で将来を誓い合う
・涙=雨
雨は天の涙という。
実際、陽菜が泣く。
いやほんと誠さぁ・・・
・生傷だらけの顔、手錠
最後空中でもつれつつ手錠がかかさって離れなくなるとか思ったじゃん。
・狂った世界 とは?
その後、警察に確保された二人は2年離れ離れになる。
誠はエンディングの前に必ず離れ離れにしたくなる病にでもかかっているのだろうか。
お前、、、やめろよ、、、(秒速の恐怖)と思ったがちゃんと再開。
結局、銃の出どころや、水に沈んだ東京への納得の仕方は、消化不良。
だが、こんな狂った世界でもいいんだよ、というエンド(?)
まとめ
女の人はフィクションの女性を自分あるいは自分と同じ属性である女の象徴とみなす人が多いように思える
それを受けてカウンターとして男でも同じ論法使う人も出てきてるけど
最初から男が男性キャラクター1人の扱いを自分がされたように、あるいは男性全体に拡大して「男が酷い扱いを受けてる」って声をあげてるのは見たことない
元々、少年マンガは、男性が描くことが多かったから、男の願望、妄想をマンガで表現してた。そういう過去の経緯があるから、そういう表現が残っているのは、しょうがない。
とはいっても、少年マンガの世界だけで、終わってた時代は、とっくの昔に終わっているから、漫画家には、そういうことを配慮した表現にする必要がある。
大手出版社にマンガを掲載してアニメ化したいとか考える場合は、セクハラ表現をどうするか判断した方が良いのだろう。
しかし、ワンピースとかも胸を強調したようなキャラとか普通にアニメになってるし、日本の場合、線引きがあいまいな気もする。(セクハラではないが、フェミニストとっては、不快なんだろうし)
マンガの表現と社会のありかたは、地続きになってるから、日本の社会が変わっていくことに伴って、マンガの表現も変わる必要がある。
https://shonenjumpplus.com/episode/10834108156652911821
http://lty.hatenablog.com/entry/2019/05/02/135439
要はコンプラ的にどうなのよという事なのかもなーとも思うけども。以下ネタバレですが最初に自分の結論から言うとこれはアリだと思ってます。
妹と姉の関係(イチャイチャ)を描きたかっただけであり、それ自体がやや気持ち悪い偏執的なものだとしてそれはまた別の話、ともかく必要だったのは姉の動機づけで。
姉の事が異常に大好きな妹と、その妹に絵の才能であっさり抜かれた事で傷ついた姉のプライド。2人の間の溝は妹が異常なほど無垢で鈍感なので姉が自分で解決するしかない。
姉が動くしかないのだけど姉には妹の絵に対抗するための強い動機付けが必要だった。それは公に妹に対してムキになってる自分を認める素直さは持ってないから。単純なライバル視ではない別の理由が必要だった。
でここで設定としてヌードと校内への張り出しというのが出てくる。自分のヌードが玄関にドーンと飾られる、それは恥ずかしいから自分の絵でそれを塗り替えてやるとう動機づけ。さらに言えばこの展開により、妹よお前の脳内で美化された私ではなく、本当の私をちゃんと見なさいという意味も含まれることになり、この辺は妹への愛情表現と姉自身の成長も一発でかましていてすごい効いてる。正直これを思いついた時点で作者はよっしゃと思ったんではないだろうか。
じゃあヌードなかったら話にならないからやっぱ重要じゃん、というのはそうだけどヌードでなくても成立はするのだ。例えばこれがヌードじゃなくて普通の着衣座り絵とかだとしても、その才能に嫉妬し自分の絵を描くという展開はできる。むしろそれならよりストレートに感動的になったと思う。ただその厚みをつけるには読み切りではややページが足らず少なくともドラマ構成に前後編くらいにはしないと難しいと思う。
この作品に全体的にややコミカルな軽いノリが残されてるのも、カウンターパンチ的に最後のオチにテンポよく持って行きたかったからだと想像する。
手放しで絶賛していいかと言われると自分もちょっとどうかなと感じた。
その違和感はブコメにある「アフタヌーン感」や「四季賞っぽさ」というのがすごくよく表してると思う。
単純明快な良い話の端々になにか作者自身の精神みたいなのが見え隠れする感がある。少年誌なら作者の顔なんてまったく見えないくらい徹底して娯楽的なものにする場合が多い。実のところ少年マンガというのは青年誌にあるマンガとかよりずっと「大人な」マンガなんだよなと改めて感じた。
なのでこの作品が少年マンガのように万人受けするタイプとはならないとは思うんだけど、どちらかというと手放しせずに大事にされる系のマンガだと自分は感じた。
きれいな姉の絵を描く妹、その絵が高く評価される、そして姉は(妹の絵ではなく)自画像を描く~という展開が素晴らしすぎる。
これがヌードでなかったらもっと良かったのになともったいない気持ちもある。ヌードのほうがインパクトがあるけどやっぱ安易になってしまうからだ。まあそれを差し引いても自分は色んな人が読めばいいと思った。
絵のタッチ含めてなんとなく香る沙村広明臭。ではこの方が同じ話で描いたらどうなっていただろうかと想像した。
たぶん、ヌードの絵は容赦なくエロい絵になる。なんなら姉が妹のヌードを描くシーンは妹の頬を赤らめさせ吐息すら漏れさすだろうと思う。絶対にやると思う。
しかしながら、全方位的に言い訳しながら描いてると思う。なんなら小さいコマで姉に「お前なんでそんなエロいんだよふざけんなよ」とか言わせてると思う。
そういうノリツッコミ的な細かい描写を必ず入れることで「許してね」と言う確かな技術が沙村広明にはあるのだと思う。これはいわゆる第四の壁の破壊というやつでこれは扱いがとても難しい。へたに入れると一気に白けて作品世界に入り込めなくなる。極端な例としては「いや読者が引くだろさすがに」みたいなのを登場人物に言わせちゃうやつ。「妹の姉」はやや軽いテンポはありつつも基本はシリアスなのでこの手はあまり使いたくはないだろうと思う。ただなんとなく登場人物がご都合主義な設定に対して軽いつっこみを入れておく、くらいはできたんじゃないだろうか、沙村広明ならそれは入れてきそうだなと感じた。
といっても沙村広明版の「妹の姉」ならあーおもろかった、で終わっちゃいそうな気もした。それくらい軽く、しかしテーマ性は感じさせることができれば一流なのかもとも思うけど。
差別という言葉を濫用すると、本当の差別が埋もれて見えなくなるのでやめろ。
少年以外は読むな、とか
少年向けに作ってあるのでそれ以外の属性の人が読むのはおかしい、とか
差別じゃない!という人がいるならなぜわざわざジェンダーバイアスをかけてあるのか納得できる説明をしてほしい
なぜ少年漫画を読む女性は肩身の狭い思いをしなきゃいけないの?
差別という言葉を濫用すると、本当の差別が埋もれて見えなくなるのでやめろ。
はぁ?????
ほんと、鈍感でうんざりする
一点の曇りもない差別なんだが?
じゃあ、お前の少なめの脳みそでも理解できるように置き換えてやるよ
腐女子はっつーか一部のおかしい出版社は人気少年マンガのBLパロディ(挿入あり)を一般流通に乗せて普通の本屋の片隅に置いたりするよ。もちろん非ゾーニング。
そうすると表紙だけ見て、あのマンガの本だと買っていく小学生男子なんかもいたりして、それは悲惨な思い出に。そんな思いをした人の話はネットでちらほら聞く。
私は腐が嫌いな女なのだけど、作品が好きでファンやってると二次創作も目にして、その中には男性キャラ同士を掛け算したものもあって、非常に不愉快。
嫌なら見るなはその通りなんだけど、ファンの質と言うか空気みたいなのってあるわけで、腐女子が支配的な空気になるともうダメだ。普通に目に見える場所でお腐れトークが始まる。
本稿では、現在の「ファン/オタク」が「関係性消費」を志向するようになってきているという事象を踏まえ、その内部の「男オタク」と「女オタク」のジェンダー格差や、関係性消費の今後について多角的な視点から分析を試みる。なお、本稿においての「オタク」は、二次元三次元を問わずある作品・概念・グループなどを愛好すると自認している人々のことを指すポジティブな言葉として用いる。拡散し多様化するオタク文化は2次元と3次元の壁を超え、全体像を画一的に語るのはほぼ不可能なため、ジャンルやジェンダーに関する詳細については各部で詳細を補完したい。
「日常系」は広大なオタク市場の中でもかなりの割合を占める作品群だ。基本的には複数の女性キャラの日常生活を描写した4コマ漫画が多く、それを原作としたアニメは2010年代以降各クールに2~3本は放映されている。基本的にドラマティックで壮大な展開や激しい戦闘を行わない、いわば反「セカイ系」カルチャーともいえるだろう。源流としては美水かがみ「らき☆すた」(2004)や、なもり「ゆるゆり」(2008)などが代表的なものとして挙げられるだろう。00年代初頭から現代まで増加傾向にある「日常系」は、現在も各メディアで売れ続けている。この背景には、やはり弛緩した日常風景の一瞬・ごく短いセリフや1コマのシーンの行間を読む関係性消費への志向への高まりが一因であると思われる。日常系の「物語性のなさ」は、逆に巨大な「行間」を生み出し、そこにオタクが各々関係性や物語を想像して消費することができるからなのではないだろうか。
関係性消費について、2,5次元舞台での「リアリティの担保に参加しつつ、舞台裏も消費するファン」や、「タカラジェンヌの四層構造」(東 2015:96-98)*1 で取り上げられた「各レイヤーを横断し、その要素を複雑に融合させながら関係性を消費するファン」は非常に興味深い。これに似た位相にあるコンテンツに、「バーチャルYouTuber」が存在する。「バーチャルYouTuber」とは、2D/3Dの二次元的アバターを現実の肉体の動きとシンクロ(トラッキング)させ、そのキャラとしてゲーム実況や雑談配信などを行う人々の事を指す。そもそも「YouTuber」の動画には前提とされる物語や世界観はなく、その動画単体でも楽しめることが前提とされており、多くのバーチャルYouTuberも同じく、上記の「日常系」にも通ずる他愛もない放送を行っている。しかしここにおいて重要なのは、「日常系」を「実在の人物が演じる」ことがコンテンツとして確立し、今流行していることである。難波優輝は「Vtuberの鑑賞の構成要素は、パーソン、ペルソナ、キャラクタという三つの身体に分けられる。そして、ペルソナとキャラクタ画像がつねに重ね合わせられ、かつ、パーソン/キャラクタとペルソナの層がそのつど関係づけられながら、装われるペルソナが鑑賞者の鑑賞の対象になっている」(難波 18:121)*2 と論じ、これを「Vtuberの三層構造」と名付けている。
そしてバーチャルYouTuberは、電子の肉体によって軽々と他のバーチャルYouTuberとの関係性を構築する。コラボ放送などでみられる仲睦まじい様子を、鑑賞者は「Vtuberの三層構造」を横断し、「彼/彼女らのパーソンのレイヤーでの関係性」が見え隠れする片鱗をSNSや動画において意識しながら鑑賞しているのである。また、バーチャルYouTuber側も当然「パーソンを消費される」ことに対する意識を持っているため、現実世界でパーソン同士が実際に会い、その時食べた飲食物の画像を投稿する、それに対して「パーソン・レイヤーにおいても継続される強い関係性」を読み取れるようになる、といった事象もあった。これはまさにタカラジェンヌの四層構造における「芸名の存在」におけるパフォーマンスと相似であり、その表象が3DCGやVR機器の発達によりさらに「オタク」向けに変化(美少女・美少年だけに限らず多様化)したものではないだろうか。「日常系」と「関係性消費」の拡張であり、またジェンダーと次元の攪乱への大きな手掛かりとなるムーブメントだと考えられる。
つまり、「実在の人物が裏に存在するという事実に裏打ちされた生々しい日常系・関係性」が、液晶内のキャラクタバターと動画配信という形態の手軽さにより、オタクの関係性消費への志向は次元を超えてさらに加速していくと予想できる。
・関係性消費における性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)の無意味さ
前章で関係性消費への志向がさらに高まると予想したが、本章ではオタクのジェンダー格差について女性向けジャンル・男性向けジャンルという分類の持つ意味合いやその内部の消費形態に差異があるのだろうか。
もちろんHL(異性愛)文化を扱う少女マンガ・少年マンガにおいても恋愛・友情・ライバルなどの相関図は存在するが、メインとなるカップル男女の恋愛関係がメインに据えられることが多い。一方BL/GL文化ではそれ以外の登場人物の関係性をより深く読み込み二次創作に落とし込む、あるいは理想の相関図を一次創作で描き出す。今後どんどん規模を増していくであろう関係性消費においては、性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)は無意味になっていくのではないだろうか。しかしここではあえて、わざわざラベリングされている「腐女子」と「百合男子」という言葉の意味合いについて掘り下げ、BL/GL(同性愛)ファンの文化それぞれの特徴から考察してみたい。
女性オタクの人文学/社会学的研究に関しては、特に「腐女子論」か「ジェンダー論」による先行研究が数多くある。その中でも数多く散見されるのは、「主体的な女性の性的欲望の解放」といった視座からの言説であった。特に「腐女子論」と「ジェンダー論」を組み合わせた言説では、「自らの女性身体が侵されない安全な領域において、性的な表象を消費するためにやおい文化は発達した」といったものも存在する。しかし、現在においてこれらの言説に私は違和感を感じる。勿論そういった側面も確かに存在する(した)と思うが、現在の日本の混沌としたオタクカルチャーの中で女性オタクの中から腐女子だけを切り取って上記のように論じるのは既にごく限られた一部の事例においてしか適用されない理論であるように思う。
今あえて「腐女子」を論ずるならば、私は「腐女子同士の関係性」に目を向けたい。腐女子であることによる世間からのマイナスイメージを払拭しようとしたり、イベントやSNSでの趣味やスラングの共有による特殊な連帯が、このコミュニティでは無数に形成されている。やおいコミュニティの特殊性について東は、「やおいを好む女性たちは、一様に異性愛から疎外されているわけでも、異性愛を拒絶しているわけでも、異性愛を欲しているわけでもない。彼女たちはただ、異性愛を排除したところで成り立つ、女同士のホモソーシャルな絆がもたらす快楽を求めているのである。」(東 2015:236)と述べている。さらに、腐女子は扱う創作物の特性上セクシャルマイノリティに対する理解が深く、またホモソーシャルな絆から発展し、腐女子同士が交際していることなどもよく小耳に挟む。シスターフッドやレズビアン連続体、ホモソーシャルな関係性を含んだ腐女子コミュニティは、作品上においても現実世界においても強い「関係性」を追い求めている集団なのではないだろうか。
では次に、GLを愛好する男性オタクについて考察してみたい。残念ながら、男性オタクの先行研究は数多くとも、その内容は美少女キャラクタへの欲望やコミケでのゆるやかなホモソーシャルな交流などになり、「百合男子」単体にスポットライトを当てたものは見つけられなかった。なぜなら、GLというコンテンツは受け手のジェンダーによって大きくその意味合いが変化してしまう場合があるからである。そして男性のGL愛好者は、「美少女キャラクタへの性的な消費」という使い古された言説の中に含まれ見えなかった存在であり、その消費の仕方は齊藤によって「腐女子との比較でいえば、男性おたくの『萌え』にとっては、関係性のプライオリティはそれほど高くない」(齊藤 2009:154)*3 と評されていたのだ。よって、ネット上でGLを愛好するファンは「百合厨」「百合豚」などと呼称され、その性別は限定されていない。これはGLというジャンルを男性だけが消費することに対することが上記の齊藤の言説のような文脈を帯びてしまうことに対する対策と、実際にファンの男女比がほぼ半々であるため、両方の理由によるものと思われる。逆説的に考えれば、「腐女子」という呼称が流行ったのはBLというジャンルを女性が消費することを蔑視されることに対するアンチテーゼとして、BLファン当事者たちが自らをそう名乗ったことに起原するのではないかとも考えられる。
また、百合厨コミュニティにおける異性愛忌避の姿勢は、腐女子コミュニティのそれに比べてはるかに厳格なものに感じられる。先に述べた「男性による女性キャラクタの性的消費」とは違うことを宣言するために「百合男子/厨」を名乗った男性オタクたちは、腐女子のようにホモソーシャルな絆を構築することはなく、二次元三次元を問わずして異性愛的な欲望を抑圧されるようになった。この構造は腐女子のジェンダー論に見られた主体的な性消費の解放とは真逆の道を辿っており、非常に面白い点だと思っている。
こうして述べてきたように、同性愛コンテンツのファンの構造は非常に複雑で特殊なルールの基に成立している。しかし、上記の性的欲望を抑圧される百合男子に関しては、百合というジャンルの男女比がほぼ同じであることに大きく由来するだろう。つまり、「同性愛コンテンツを扱うにあたり、そのファンは異性愛を忌避しなければいけない」といった暗黙の了解のようなものがオタクの中で存在しているということである。これに関しては、創作物と消費者のセクシャリティは隔絶して考えるべきであるという立場をとりたい。そして、特殊な連帯がプラスにもマイナスにもなり得るBLファン界隈と、ジェンダー問題に揺れるGLファン界隈は、第一章で述べたバーチャルYouTuberの関係性消費をモデルとして再構築されつつあると考えている。バーチャルYouTuberの関係性消費は、非常に複雑なジェンダー攪乱が日常的に行われている。パーソンがシス男性、ペルソナがシス女性、キャラクタがシス女性のキャラ同士の「絡み」は、GLともBLともタグ付けをすることが難しい議論になってくる。しかし、その関係性に惹かれるファンはキャラクタとパーソンのジェンダーを軽々と越境し、その複雑な「関係性」を消費することができるようになるのである。これに似た現象はアニメ・漫画においても進んできており、創作物と受け手のジェンダーが必要以上にファンを語るうえで関係づけられることも少なくなっていくのではないだろうか。
【続きと参考文献リスト】