はてなキーワード: 嘲笑とは
人間関係がギスギスしている。いつもエアdisが飛び交っている。正義感か何か知らないが、わざわざ突っかかっていってつまらない出来事を詰り続けることも頻繁。気に入らない人間に対しては「お前の話など絶対に聞かない」オーラ全開で、それまでニコニコ饒舌でもこちらが口を開いた瞬間に表情が曇ってそっぽ向いて黙りこくるとか。
業務は垂直分業で担当一人での遂行するのは当然。わかっている人が自分以外にいないから相談相手がいない。そもそも前述のような状況だから相談以前の問題。期限は短いし、落とし穴ばかりだし、内容は全くおもしろくない。いちいち難しいからいくら説明しても客は理解できず怒りがち。電話は多いし来客も多いしヘルプに来ないことも多いし。
寒いしうるさいし狭いし背後のフロア内の人通りが多い。気が散る。複合機待ちの行列なんなの。何をそんなにコピーor印刷してんだか。
座席配置がひどい。離島からは大陸が見えないから状況がつかめない。話が聞こえなくて業務上の話題にもついていけない。背後からの監視と嘲笑がつらい。
社会や会社を回している側じゃないスタンスの若手や学生が、回している側に対して上から目線で嘲笑を浴びせる。
残業させるなんてブラックだ。人前で怒るなんてどういうことだ。朝礼なんて前時代的だ。飛び込み営業なんて非効率だ。社訓の唱和をさせられるなんてゾっとする。
もちろん、今の回してる側が100点満点なんてことはないが、全員が落第点だなんてとんでもないってことに気付くよ。
限られたリソース(ヒトモノカネ)で、利益を出すためにはどうしたらいいか、考えて、実践していかなきゃならない側になったら気付く。
反目する、うなずかない、輪を乱すようなタイプを放置することのリスク。
研修や座学で時間を浪費することの恐怖と、効率的なインプットと意識改革をする手段の模索。
新規開拓に必要な広告費(数百万~数千万円)と、飛び込み人件費(1日1人1万円)の比較。
だから回す側になんてなりたくない、誰が出世したいなんて言ったんだ、ずっとヒラでダラダラ安い給料もらってればいい、って意見もよく見る。
社会や会社の成長期だったらそれでも居場所はあっただろうが、今は大半がそうじゃない。
役に立つ見込みが薄い人員を抱えてる余裕なんてない。
若手が相対的に役に立たないのは仕方ない。これからの伸びしろに期待だ。それ込みでの採用だ。
役に立つ若手はどんどん登用しよう、成果主義だ。(それに伴う社内の軋轢は、そもそも軋轢が発生しづらいような文化を組んでおく必要がある)
上に行くほど、個人での数字を上げるよりも、チームを機能させること、たくさんの人間に数字を上げさせることの比重がどんどん上がってくる。
個人でそこそこの貢献しかできないような人間に、未来に向かって席が与えられるって、どういう自信なんだ。うらやましいな。
社会人歴5年を超えてもお客様気分で会社批判をしてるようなやつは、文化を乱すだけだから、ゼロどころかマイナスだ。
不平不満をグチるやつは、周囲が自覚していなかった不満まで掘り起こして顕在化させる、害悪だ。
もちろん必要な改善もあるだろう。だが、回す側に立ってないお客様気分の人間から出るような改善案は、だいたいが醜悪だ。
※優秀な若手はその限りではない
もしくは利益ですらない、単にラクがしたい、イヤなことをやりたくない、という主張ばかりだ。
ただ、みんな空気を読むので、表立ってそういう主張をしてくることはない。
自分にとって不利にしかならないとわかっているからだ、優秀だ。
裏で同僚と焼鳥屋でグチってるのかもしれないが、そのくらいはまあ。
そういう主張が表に出るのは、匿名に近い場、主にTwitterだ。
匿名だが声がでかいやつはいる。それを面白がって広めるやつもいる。
そういうのは一見社会正義の皮をかぶってるから、本当にタチが悪い。
お客様気分で、回してる側の足を引っ張るな。
大半の政治クラスタと絡みたくない(見かけたらブロックしてしまう)理由はこれ
「特に30代の人間がひどいんですよ~」ぐらい言えたらよかったものの自分の観測範囲だと全年代にまんべんなくいるから多分そういうもんなんだろうなって
自分がやってるゲームよりセルランが低いゲームやってるやつは貶して良いって言葉にはしてないけど思ってる人多い
特に流行り初めの中国ゲームユーザーが某英霊召喚バトルより勢いがあると思えば喧嘩を売ってる場面なんていっつもだ
でもこれは自分の観測範囲の問題かもね 大半のユーザーはそんなことどうでもいいかもしれない てかそういうのが目立つだけかもしれない
皆違って皆良い
そういうことを小学校で言われまくって道徳の授業でようわからん問答をさせられたようだけど
どうもそう思ってない人が多いような気がするね
けど、なんだか既視感あると思ったら、男オタが女オタをバッシングしてたやつだ……。
社会運動に参加した女性が、理想を掲げて共に活動する男性を仲間として信頼したかったように、
女オタだった私は、オタクなら仲間だと信じたかった。同じオタク趣味を持つのだから、男女なんか関係なく尊重できると思いたかった。
他人の趣味を嘲笑い、晒し上げ、汚物を投げつけ、顔や体を品定めする、そんな腐った奴らと同じだとは思いたくなかった。
もちろん男性のオタクにも、善良な人は大勢いる。非オタにいるのと同じくらい。
だから、自分より弱い者相手にはいじめや差別を躊躇わない、邪悪な男性オタクもいる。非オタにいるのと同じくらいには。
参考
「主語が大きい」という言葉は有名になりすぎて誰でも脳死で批判できる領域に成り下がったが、「主語が小さい」ことはあまり問題にされない。
嫌韓が盛り上がっていた頃から指摘しているのだが、差別を行う人々は時に「一般的に成り立つはずの事象を、あたかも特殊なことのように話す」ことがある。
例えば、「韓国は下水設備が貧弱で、水洗トイレでもトイレットペーパーを流すことが出来ない」ことを嘲笑う人がいる(いた)。しかしそれは全く逆で、「日本は下水設備が優秀で、水洗トイレにはトイレットペーパーを流すことが出来る」というのが正しい。「トイレットペーパーを流すことが出来る」のは、そもそも世界的に見て日本の方が特殊なのである。(最近は海外も状況が変わっているらしいが。)
このような論理は女性差別やオタク差別などでもしばしば用いられる。
「女は嘘をつく」と言うが、そもそも「人間は嘘をつく」のである。「女は感情的」と言うが、そもそも「人間は感情的」である。
「二次元表象が犯罪や差別を助長する」と言われる時、「二次元表象以外が犯罪や差別を助長する」可能性は無視される。「たとえ二次元でも小児性愛を肯定的に描くことは、現実の小児性愛の肯定に繋がる」と主張する人は、「たとえ成人でも対人性愛を肯定することは、現実の小児性愛の肯定に繋がる」とは言わない。
以前は穏健派で、いがみ合う人たちに相互理解を促すような一目置けるコメントしてたアカウントが、
それが一人ならもともとそうだったのかなと思うところなんだけど、3アカウントも。
その人たちのブクマ少しさかのぼってみたんだけど、コメントが相手の痛いとこついたつもりの嘲笑系コメントだらけになってて、
派閥っていうのか、似たような人と同じような言葉使って、センスどっかに捨ててきてた。
昔自分の投稿につけてくれたコメント見返してみたけど、ほんと別人みたいだよ。
会って話してみたら面白そうだなと思ってたのに、ちょっとショックだわ。
そういう話題や環境に漬かってると、そっちに成長していくんだなーと思って。
これを書いたらまたしばらく見に来ないつもりなんだけど、
開票にさきがけて、合理的に勝敗を確信することはほぼ不可能だった、という前提の話なんだけど、こんなことを思った。
ネットの知り合いとかtwitterで見る経済評論家とか、みんな簡単に、「トランプ(バイデン)が勝つよ」とか言ってたわけ。開票前から。
俺はそれ見てて、自分が口にしてるわけでもないのになんだかドキドキしてたんだわ。え、そんなこと言って大丈夫なんだろうか、と。こんなに混沌とした状況で、何を根拠にそんなことを…。
そんなことを皆が目にしている前で堂々と大言壮語して、もしも真逆の結果になったらどうするんだ? 俺には、どっちが勝つか、仮に予想であっても答えられなかっただろうし、答えるにしても小声で、本当におずおず口にすることになっただろう。
ただ、冷静になって考えてみると、仮に予想を外したとして、それが実際どの程度の痛手になるんだろうか。
もちろん、批判する奴、嘲笑する奴は間違いなく出るだろうけど、別に永遠に浴びせられるわけじゃないだろう。大体、もしもそう言われたら、「○○では△△な数字が出ていたから~」とかなんとか、適当なことを言って煙に巻いてしまえばいい。
一方で、もしも予想を的中させたら(ほとんど丁半博打だが)、大手を振って自分の慧眼を主張できる。つまり、リスクとリターンで考えたら、実際はリターンが圧倒的にデカいのではないか。
俺みたいな一般人の立場でそれを口にしても失うものは一つもないし、評論家業で食っているにしても、誤答にはリスクが伴うが、それに対してずっとデカい見返りが期待できるなら、結局ためらいなく公言するのが賢い選択になる。勇気がどうこうではなく、単に判断として合理的、ということになる、と思う。
みんな、こんなものは表が出れば100円もらえて、裏が出た場合は10円しか失わないコイントスに過ぎないって気づいていたのだろうか?
これは、『天』最終巻のアカギとヒロの問答にも通じるところがある。
いびつに真面目な人格は、リスクを過剰に評価してしまう、あるいは、リスクを無視するという柔軟な発想を持つことができないのだ。そこがヒロの魅力、高潔さでもあるが、現実でもそうであることにはどの程度の価値があるだろうか。
ここで表題に戻ってきて、俺はトランプ(バイデン)が勝つと公言できる人間になりたかった…のだが、この状況でもまだ、どちらが勝つか口にするのは恐怖があったりして、なんというか、染みついてるな、と思った。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9b04e6af3b9b91b181174c0a51eb5c2896072948
ここの大将は、この記事にあるような称賛に値する人格の持ち主ではない。
出町店にはこの大将とバイトが数人働いているが、バイトに対する扱いがとてもひどい。
赤ちゃん言葉で煽るように指示をする。
後継者がいないのは明らかに店主の性格のせい。何人も働いては辞め、働いては辞め、の繰り返し。バイトの背中に靴底の跡がついていたのは有名な話(10年以上前ね)。
洗い物といっても、気に入ったお客にはフレンドリーな対応をするが、
手際の悪い学生なんかには顎で使いぶっきらぼうな態度。まあそれはしょうがないかもしれないけどね。
学生時代にお世話になった大人たちが惜しんで来訪しているようだけど、それはほんの一部じゃないかな。
気に入らない客に対しては、不機嫌で雑な対応。大人になってわざわざ行きたいと思わないのが普通だろう。
思い出すと、やはり食事をしてる身からすると、こういう雰囲気の店は、おいしく食べられない。
翔ちゃんのつくる飯がまた食べたいなあ。
エビデンスと海老男子って微妙に似てるよね。まあそれはどうでもいいとして。
女性間におけるエビデンスという概念はつまり、「そんなん嘘松やん」とか「対立煽り乙」とかそういう批判を喰らわない為に作り出された考えで、要するに、「世の中のアンチが何を言おうが現に私は現代社会において理不尽な経験をしてきたのであり、それが私の批判におけるエビデンス(根拠)になってるんです」ってな考え方のことである。まあこんなことは今更説明しなくても分かるだろうけど
で、問題はこれが主に女子だけに使用が許可され男性には使用が基本的に見送られている概念であるという点である。こう書くと、「いやいや、一部のどちらかと言えばホモソーシャルに参加していない男性陣の中からも、生きにくさを自分の体験に照らし合わせながら、つまりエビデンスに照らし合わせながら訴えている人もいますよ? 何言ってるんですか?」みたいなことを短絡的に書いてくる人間がいるんだろうけれど、いや違うんやと。
率直に言って、主にこのエビデンスと呼ばれる概念によって訴えられる事の内容は、「クソオスがいた!」ってものに限られているのに俺は疑問を感じる、ってことなんです。女子は言う。「クソオスがいた!」「セクハラするクソオスがいた!」「性犯罪に加担するクソオスがいた!」「パワハラするクソオスがいた!」「ホモソーシャルへの同調を押し付けてくるクソオスがいた!」「クソオスがいた!」ってな具合で、基本的にこのエビデンス、ってな考え方は「クソオスがいた!」という発言に終始しているんですね。少なくとも、エビデンスと銘打たれた発言、あるいは、エビデンスを自称する人間の、エビデンスと自称するに至った理由についての発言は、畢竟「クソオスがいた!」という発言に終止することが多いんです。そこが明らかな問題で、何でこれは主に女性から男性に対する「クソオスがいた!」って発言に大勢を占められなくちゃいかんのかな、ってことを率直に疑問に思うわけです。
こういうこと言うとよく飛んでくる詭弁なんですが、「全てがクソオス批判じゃないよ?」って批判でございます。今のうちにそのクソリプを封殺しておきたいんだけれど、いや「全てがクソオス批判」だなんて一言も言ってねえわ。それが大半だっつってるの。
こういうこと言うと「私の身の回りではクソオス批判に終始してるわけじゃないよ?」いやお前の身の回りとか知らんわ、可視化されるエビデンス関連の発言はクソオス批判に終始してるのは明らかだろうが。
「でもこれが私のエビデンスなんで」もうええわ。
みたいな感じの詭弁が飛んでくることとなるんですね、詭弁の見本市かな? お腹いっぱいになりそう。
それはそれとして、とにかくエビデンスというと「クソオス批判」に終始しがちです。勿論、世の中にクソオスがいることは否定しません。加えるに、クソオスに関しては僕だってクソオスだなあと思うし、僕の身の回りにもクソオスはちゃんといます。男性が女性より理性的だとも優れているとも言うつもりもないし、逆に女性が男性よりも優れているという意見を担保するつもりもないです。繰り返すように、世の中にはクソオスがちゃんといるし、そして僕の身の回りにだってそれはいる。つまりは僕だってエビデンスを共有しているし、そこを否定するつもりはないんです。つまり、僕の意見はごくフラットなものだということです。
だからこそ、もう一度言います。「可視化され周知されるエビデンス関連の発言は、クソオス批判が大半を占めている」まずこのテーゼを認めて下さい。イエス・ノーか。イエスだろうが。
(書いてる内にまた予想しうる詭弁的反論に対する反論を思いついてしまったのですが、流石にこれは後回しにします)
とにかく、エビデンスっつーのは固定されきってて――女性による男性に対する批判という形式に大体固着し過ぎていて――まあ早晩陳腐化するのが目に見えている概念なわけです。概念は固定化すると大体陳腐化します。その陳腐化の流れに介入しようとかそんな大それたことを考えているわけではないですが、とにかくこういう陳腐化が早晩発生するだろう概念(あるいは既に陳腐化しているところの概念)を見ているのは忍びないのに加え、純粋に「エビデンス」という概念に対して、それほど好意的な印象を持っているわけではない(クソオスにとかく終始しがちなため)のもあって、ちょっとこの辺りで一石を投じたくなったのです。
つまり、男版エビデンス。海老男子があってもいいんじゃね? ってことです。
いやね、クソオス、クソオス、と最近では盛んに囁かれていますが、クソメスはおるぞと。
そう、ここに男女の不均衡がある。女性が「クソオス!」と叫ぶと女性はそれに対して全面的に擁護し受け入れる体制を取る。いや分かるんですよ、仮にある女性の訴えるエビデンスが事実だったとして、その時ほかの女性がそのエビデンスを否定してしまったら、クソオスの禍に晒されてしまった女性の感情に持って行き場がなくなりますからね、そういう女性は保護しなくちゃいけない。それは分かります。
でもね。
不均衡。そう、つまりはこういうことです。男がネットの増田とかのスペースで、「クソメス!」って叫ぶと、女性はほぼそれを否定しようと掛かるってことです。
「は? お前が悪いねんそれは、責任転嫁するなボケ」みたいなこと平気で言いますよね女性は。同じこと女性に言えます? 言わないですよね?(言う人もいる、とかそういうのはいいです。)
(つーかここで仮に女性が女性に対して、「お前それ自分の責任ちゃうん? 自分が悪いの棚に上げてるだけちゃうん?」ってスタイルを取ることが恒常的になってしまうと、そもそもその時点で「エビデンス」が陳腐化してしまうんですよね。頭ごなしに他者の体験を否定しないことがエビデンスの理念なんですから)
(こんなことを言うと、「いやいやエビデンスって考えは誰かの訴えを無制限に認める立場を示しているものじゃないよ?」とか言われそうだけど、無制限ではないにしろ少なくとも、頭ごなしにすぐ相手の意見を否定する行為は、エビデンスの理念には背きますよね)
え? エビデンスはどこに行ったんですか? と言いたい。だって、例え世の中の不特定多数の人間の、「いやいや君は社会における女性の立場が適切に扱われていないって言うけれど、そんなの思い込みでしょ?笑」みたいな無神経な意見が存在していたとして、「でも!」と唱えることができる、っていうのがエビデンスの理念だったんじゃないんですか? 「でも! 現に私は被害に遭ってる! 私が理不尽な扱いを受けたのは事実だし、それは簡単に否定されていいことじゃない!」って訴えることのできる権利こそが、エビデンスじゃなかったんですか? 何で、ネットの苛烈に振る舞う女性たちは、そのような立場や権利を男性にも認めようとしないんですか?
言うたら悪いんですけど、クソオスと同じくらいクソメスはいますよ?
クソオスが多いことは僕も分かっています。どっちかと言うと、僕もホモソーシャルから脱落する側のオスだったので、オス特有の倫理とか価値観とかそういうものについては当然触れてきたし、それらについてはかなり深く熟知しています。勿論、そのようなホモソーシャルにおける固定化された倫理が女性に対して時に苛烈に、時に理不尽に襲いかかることがあることも承知しています。でもね、と僕は言いたい。
クソメスもかなりいる。
クソメスもホモソーシャルの原理で動いてクソな行動を取ってるし、それは男性におけるクソオスの絶対数に劣るものでもない。
それが僕のエビデンスなんですよ
ね? 僕の意見を認めることが、普段苛烈に発言をして、女性のエビデンス的発言に対して最大限の擁護と担保を行うネット論壇の女性の皆様には可能ですか? 本当に平等で公平な、男女同権的な振る舞いというものが、貴女達には可能ですか? と私は問いたい。
いやあ、こんなことを言うと反論が来るんでしょうね。「お前のエビデンスなんか知るかボケ」を精一杯オブラートに包んで、僕の確固たる現実をあの手この手で否定しようとする意見が来るんでしょうね、と僕は予感する次第です。「ホモソーシャルからあぶれてるとか言いつつも、お前は男性なんだし既得権益側で普段から女性に対して加害的に振る舞うことが『可能な』立場だろ? だったら自分を女性と同列に語って擁護を求めるような真似をするんじゃねえよ」とか、「お前の人間性の劣悪さがお前の現実に反映されてるだけだよ、多分お前の普段のコミュニケーションに問題があるのがそもそもの原因だろ? まずは自分のあり方を矯正するところから始めろよ」とかね。
いやいや待てや、と私は言いたい。
結構典型的な男性側のエビデンス発言に対する反論として、「お前の方に問題があるからお前のあり方を矯正しろ」って多いんですけど、いや、周囲の圧力によって理不尽に自分のあり方を変更させられることって、フェミニストやフェミニズムが最も警戒しなきゃいけないことなんじゃないんですか? と言いたい。
つーかぶっちゃけ↑に書いた予想反論は、単純な予想ではなくて実際にはてブ界隈を見てれば無数、とまでは言わなくともしばしば見かける女性側からの苛烈な意見なんですね。実際に、そういうことを言われている男性側の人間がたくさんいることを、僕はこの目でしっかり見てるんですね。そして、僕はそういう客観性と公平性と熟慮を欠いた意見を見る度に、「彼女たちに議論というものは無理なんだろうな」ってことを思うんです。恐らくは、苛烈さと理知を混同している彼女たちには、根本的に議論をすることは不可能なんだな、ってなことを思ってしまうんです。要は彼女たちは、世間の(ネットの)女性たちが訴えるクソオスの対義語であるところの、クソメスなんですよ直截に言ってしまえば。
ただ、あくまで「議論は無理なんだ」と思ってしまうような女性がネットには「散見される」、ってなだけで。勿論理知的で客観性と公平性を兼ね揃えていて、男性が切々と訴える自己の傷にまみれた体験を頭ごなしに否定したり否定こそしなくとも嘲りまじりの対応をしたりとか、そんなことをしない女性だって、たくさんいるでしょう。そういう女性の存在を否定しているわけではないんです。
ただ、マジでクソオスがこの世の中に溢れているように、クソメスも同等の数いるんですよ。勿論僕は自分に人生において、公平で客観的でまともな女性にだってそれなりに出会ってきたんですけれど、実際には男性にしろ女性にしろ、まともな人間って結構少ないんすよ。
僕自身にしたところで、本当にまともな人間なのかと問われると、正直狼狽えてしまう。まともであろうとしているのは事実なんですけどね。
だからね、女性に対して言いたいのは、「まともじゃない女性がいる」って男性が発言した時に、その発言を頭ごなしに否定したり、あるいは否定しなくとも嘲笑ったりしないで欲しい、ってことなんです。否定されても嘲笑われようと、それは僕らの現実であって、否定しようのないエビデンス。つまりは海老男子なんですから。
イエイヌのお茶を辞退したのは直前にカラカルと喧嘩して気持ちが塞いでいたからだ。
その様子はちゃんと描写されている。警告を無視して突っ込むのはそれだけ気が急いていたため。
村に残ったイエイヌが持つ危険物——キュルルちゃんの絵は金庫に入れているとはいえ、セルリアンに取り込まれれば確かに危険だ。イエイヌの飼い主的な立場の人はおそらく永遠に帰ってこない。
でもその状況は現在のキュルルちゃん本人には知りようもないので責任は当然ない。
キュルルちゃんを助けたイエイヌが取り立てて省みられないのは残念ではあるものの、キュルルちゃんの見た目の年齢からは致し方ないことに思える。それを問題視しておいてケムリクサの初回で体を張る わかば が省みられないのを気にしない態度はダブルスタンダードだ。俺はそっちはウワッきついわ… ってなった。でもあとから振り返ると致し方なし、だとわかる。
俺が覚えている限り、9話以前に感想の方向性は決していたように思う。
コメント欄はこのアニメをこれからどうやって嘲るかを競っていた。
悪意を持って否定するのを前提に作品を見れば、あらゆるポイントがヘイトに変わる。
ビーストを見殺しにした? ビーストが死んだ描写はどこにある? ホテル近くに浮くボートまで一瞬で距離を詰められるビーストの膂力で脱出できないと考える方が不自然だし、助けに行こうとすれば逆に足手まといになるだろう。
けものフレンズ2 にデリカシーは欠けていたか… 確かに欠けていた。
当時の俺の感想は、大人気のまま 9話に突入すれば、刺さる、悲劇として記憶に刻まれる、だった。
でも実際には、監督を放逐した憎しみは視聴者に蔓延して好んでヘイトを探し回る化け物に変貌させていた。そんな最中に出てきたあの話には、デリカシーが欠けていたと言っていいと思う。
だけどそんな盤外戦のことは製作中に知る由もない。製作に責任を問うのはおかしいでしょう?
前監督が一言でも「二期を楽しんでね」って言ってれば、あるいは委員会が彼の功績を評価して自分たち側をドラスティックに変えることを厭わなければ、作品の評価はまったく変わっていただろう。
利権で諍いが起こるのはビジネスである以上仕方のないことだし、様子のわからない部外者が口をはさむ道理はない。だけど…
誰かを、アニメを、嘲笑するために、わざわざ時間をとって視聴する。思い通りにヘイトを溜める。
好意的な感想を持った人を、人の気持ちが慮れない、サイコパス、などと言い「あの作品はなかったんだ」
本当にバカげている。
Q.
なぜ「期待しすぎ」たのか。
A.
「KKO」や「おじさんLINE」など、ネット上で中年男は嫌われ嘲笑される風潮がある。女性にモテず無職の自分はその「駄目なおっさん」に分類されているという意識に囚われていた。
そんな意識に囚われていたため、自分を貧民に、逆に若くてきれいな彼女を貴族的に捉えていたから。
この見解に納得できないのは同じKKOとしてそういう風潮は存在しないと思っているから?
あるいはあっても自己劣等感の原因にはならず、女性を見上げるような価値観を作るとは思えないから?
この話、「なにが無職中年男を期待に至らしめたのか」がナゾの根源だと思うんだけど、そこにはあんまり皆んな関心ないんだな。男女逆だったらブコメは、「女性を追い詰めた環境は改善しなくちゃならない」ってなりそうなもんなのに。