はてなキーワード: 嘲笑とは
Twitterで、興味ないのにオープンレターの話がひたすら流れてきて、最初は興味ないと思ってたのに目に入るとつい経緯を追ってしまい結果的に心がざわざわするので、自制の為「オープンレター」をワードミュートした。
そしたら驚くほど気にならなくなった。
そこで、Twitter見てて嫌な気分になったもの、自分が積極的に見なくて良いと感じたものはミュートし始めた。「差別」「加害」「痴漢」「性犯罪」「育児」「サイゼリア」「非モテ」「フェミ」「インセル」「ミソジニー」などなど、主に荒れやすいジェンダーや家庭や政治のワードを含むツイートは軒並みミュート。
それらの話題に無関心でいたい訳じゃないし、問題意識もあるつもりだけど、どう考えても毎日目に入れる必要があると思えない。
世の中で苦しんでる人は沢山いて、そういう人の訴えや叫びを発信する場はあって良いと思う。
過度に向き合えばこちらも呪われる。そう感じた。
ミュートした中には有益な情報も混じってるだろうけど、薬より毒の方が洒落にならない。
結果、漫画や音楽やテクノロジーや芸能やアート、ビジネスの話題しか流れてこなくなった。
今の所、以前の様な飢餓感は無い。
炎上したツイートを見て、それに対して怒ったり嘲笑ったりして、脳内麻薬がガーッと出るあの高揚感は無い。
平熱でTwitterに向き合っている。
俺は多分ジェンダー中毒、ジェンダーおたくになっていたんだと思う。
一般人に通じない様なジェンダー用語や視座、またネットスラングにいくつも詳しくなってしまった。
アホらしい奴だけど、分が悪くなったら全消し逃亡するいつもの増田かな
自分が消えて欲しくない表現に「表現の自由」と主張する人間は、この世のありとあらゆる事象に「表現の自由」だと抗弁しないといけないらしい
ここで忘れちゃいかんのは、先に言い出したのはリベサだという点な
この耳触りの良いおためごかし
BLMでも盛んに叫ばれたな
んで、いざ自分に問われてみると、「ウイグル論法」とか言い出すw
嘲笑されてんだよ
にも拘らず、それを拾って、ブーメランとか言い出す
そのレベルに堕ちてくるのか?
別にこっちは、キモオタにネトウヨなんだから、全然それで構わないんだぜww
だって、ひでぇ連中なんだろ?
で、だ
当然に、他人を嗤える程度には身を賭して社会活動してんだよなぁ?
当然だよなぁ?
前評判が芳しくないのを知りつつ見てきた。ゲタゲタ笑った。半分くらいは失笑だったとはいえ、隣の人に迷惑だったかもしれないほど笑ったさ。劇場を出て気づいた。これは嘲笑の笑いだと。
私は世代的には氷河期世代の下でゆとり世代の上、「プレッシャー世代」とか言うらしいがその名で呼ばれたことはほとんどない。氷河期後の束の間の春を謳歌することを許された世代だ。ネットでは上の世代が藁と言い、下の世代が草という中、山程の芝を生やして笑っていた世代だ。ネットで必死な右翼の書き込みを、カバオくんのAAにして笑ってきた世代だ。つまり嘲笑するのが大好きだった世代だ。
この映画のメインの部分は「今の政府はマヌケだから本気にせず適当に笑っておけ。(帯刀アラタの形をした)イデオロギーさえ信じていれば、眼前の問題はそのうち都合のいい神がなんとかしてくれる。」に尽きる。「シン・ゴジラ」が右翼的な感性に近く、「あとしまつ」は左翼的な感性に近い。私が笑えたのは私の中のそういう部分をくすぐってくれたからだろう。脚本の三木聡はバブル世代の人間であり、感性が合ってしまうのはそういうことなんだろうさ。
一方で、かつての左翼の象徴だった立憲は相変わらず不調続き、ネットが芝を使うのをやめたように、我々の世代も上や下の世代の苦しみと付き合ううちに、この手の感性を悪いことだと認識するようになって来ている。その結果が「あとしまつ」への大酷評であるのもよく分かる。
全てはココに収束する。
同じ場所をグルグル回っているだけなのを螺旋階段を登っていると言い張りたがるのだ。
その円環を進む日本人の群れにとっては嫌韓は2,30年も前のブームであり、もはや嘲笑されるべき過去の遺物だ。
今どきのディスコでジュリセンをヒラヒラさせる人間がいたら「昔の人のコスプレ」にしかならないがそれを本気でナウいと思えば「痛い」のである。
ダサい。
今のナウは人種差別をしないことだ。
門地による差別をしないことが憲法に刻まれた真面目くんルールから一周回ってイケてる今どきボーイが守るべきルールになっている。
黒人やフィリピン人とも友達のA君は格好良く、たとえ友達が100人いても日本人率100%のB君はダサいレイシストなのだ。
そういう時代だ。
これは逆に日本が「戦後の朝鮮戦争バブルで得たリードを失って本来の島国レベルになってきたから」というだけなのだが。
チンパンジーの群れとしてコケにしようものなら日本も巻き添えを食ってチンパンジーであることを認める羽目になるがそんな現実は誰も見たくない。
ゲームしてて試行錯誤を嘲笑われたと感じたことがない。誰に?開発者とかに?
ないでしょ。自分が好きでシラミを潰すような無駄なデバッグのような試行をしてるんだから。
なんもなかったら「フフフ(何やってんだ俺w)」くらいのもんで。
あまりにもノーヒントでいやらしい隠しギミックがそこかしこにあってその回収が重要なゲームだったら「ひでーな作者ひねくれてんのか」と思うこともなくはないが。
ゲームって基本的には総当りでいろいろ試していってその時間があるからこそ発見の喜びもあるわけで。
まあでもそういう感覚もファミコン時代から粗雑なゲームをたくさんやってきた経験値がないと共有できないもんなのかもしれないな。
批判だけで終わるのも何なので付け加えると、前半の「試行錯誤したものを嘲笑うようなゲームが多すぎるのが悪いんじゃないの?」の試論はとても面白かった。具体例を列挙するだけで極めて価値のある情報源になると思う。そのうちいくつかはゲームデザインのミスだと思うが、なかには攻略情報交換の交流を促すために意図的に作られたものもあるかもしれない。攻略情報交換文化説には説得力を感じた。
「ラスボス戦前に準備を怠ったら詰みセーブでゲーム全部やり直し」
「序盤のわかりにくい選択肢がトリガーになって何十時間後にエンディングが分岐」
「稼ぎプレイをしないと異常なレベリング時間を必要とするようなデザイン」
こういった攻略情報を見ないで遊ぶプレイヤーの可処分時間時間を尊重しているとはとても思えないゲームが増えた結果、皆が攻略情報を見るようになったんでしょ?
ゲームが攻略情報を見ないでプレイしないプレイヤーをちゃんと楽しませようとしていない。
でもね、それが悪いかっていうと違うと思う。
今はネットなんて皆使えるし、ネットがないなら攻略本があるわけだから攻略情報はいくらでも集まる。
結局さ、攻略情報見ないこと至上主義のプレイヤーが時代に取り残されているだけなんだよね。
ドルアーガの塔とか明らかに皆で相談しながら遊ぶ前提で作られてるっしょ?
ああいう路線がいろんなゲームと混ざり合って今のゲームが有るわけよ。
たとえばスト2で遠征先で戦った強敵と情報交換し合うことでそれぞれの地域だけじゃ見つけられなかった知識を深めることでゲームをより深く楽しめてたわけじゃん。
そういう攻略情報の交換はとっくにゲームという文化の一部なんだよね。
結局さ、自分の縛りプレイに人を巻き込んで騒いでるアホがいるだけなんだよね。
初心者救済用の強い武器があるゲームで「この武器が強すぎてつまらない」って言うなら縛れよって話じゃん?
そして同時に強い武器を縛って「クリアできない」と言うなら強い武器使えよって話じゃん?
その程度のことも自分の意思で選べないやつにコントローラーを握る資格はないよ。
プレイヤーになるのは諦めて漫画やドラマだけ体験して生きていけばいいんじゃないの?
選択することを楽しめることがゲーマーの必要絶対条件だからね。
たとえそれが「攻略情報をなぞる」ということの選択であっても、それを自分の意志で選択して選択したことに自分で責任を持てるなら立派なゲーマー。
サブカルコミュニティでよく批評対象となる、meta社をはじめとする大企業が実際の容姿をアバターに反映させたり、実名アカウントのsnsサービスとの連携といった「メタバースを現実の延長とする傾向」を皆はどのように捉えているだろうか?
私は市場拡大を目指す大企業らしい戦略だなと思う。というのも、自由な気質で人気を博すVRChatでは多くの人がコミュニケーションにおいて圧倒的に優位性をもつ女性アバターをこぞって使うため、
現実社会で身的価値に頼ったコミュニケーションが当たり前な女性は、VRChatではその身体価値による権力を思うように行使できずに居心地が悪くなりフェードアウトしてしまう。
実際にVRChatのユーザー比率は大きく男性に偏っており、男性アバターの種類も女性アバターに比べて圧倒的に少ないというのが現状である。
※逆に現実世界での身体価値が低すぎて辛いと思う女性はVRChatにきて女性アバターをまとえば生きやすくなってハマるかもしれない。
つまり、大企業が現実世界とメタバースを接続しようとするのは、身体価値による権力に頼って生活することが当たり前な女性でも”快適”に過ごせるメタバースに来て頂いて、ユーザーを増やし金を落とさせるためなのだ。
もしこれらの戦略が成功すれば、VRChatのような”現実と隔絶した世界”は敗者たちが集う恥ずべき場所扱いとなり嘲笑の対象となってしまう可能性がある。
年々、発達障害とされる人々は増えている。
以下、発達障害者を発達と略す。
あと、ここでは「発達障害は障害ではない」とか「スペクトラムの問題だから」みたいなことは扱わない。そんなこと言われても現実にあってないし何の慰めにも奮起にもならない発達は多いだろ。昔は発達にも居場所があったみたいな話も同じく。ただの社会的隔離を美化してる場合がある。
なんで発達が増えてるのか、医者と、教師の知り合いに聞いてみたことがある。それぞれの考えは違っていた。
ある中年男性の医師は、一般生活に求められる技術や社会性のハードルが上がり過ぎたから、と言っていた。つまり殆どは外部の、要因だと。
教師は、ちょっと違ったことを言っていた。後天的な要素もあるけど、それに反応してしまうトリガーについては常に先天的にあるだろうし、それには確かに遺伝があるのでは、みたいな事を言っていた。
上の意見は参考意見として、俺が言いたいのは、発達は新人類じゃないかってこと。そしてそれをめちゃくちゃに、クソみたいに、バカみたいに誇って良いんじゃないかってこと。
クソとかバカとか書いたのは、図書館とかにある上品な福祉本みたいな生やさしい肯定ではなく、社会に敵対したりキモがられたり腫れ物にされたりする存在なのを本格的に誇るために。
「発達」「アスペ」「コミュ障」・・・言葉や名前が付けられたと思ったら、すぐにそこいら中で蔑称となって蔑視が広まってる。
アスペルガーの時も、ほんの少しの間にアスペ、アスペ、アスペ。「アスペを採用しないようにはどうする?」「彼氏がアスペかも!」「アスペは犯罪気質がある!」みたいな記事だらけになった。
今度ネット上で流行ってた「ケーキが切れない」とやらもそうなりつつある。そして社会は発達障害と向き合うことなく、排除と嘲笑と腫れ物扱いのやり方だけ上手になるんだよな。
これまで、発達はそれぞれ一人一人の苦しみのなかで閉じ込んでしまっていたり、自助グループみたいなのに繋がっても「定型の、現行の社会」に矯正されるための監視された自助みたいなことしか出来なかった。
CPの人たちは「青い芝の会」という戦闘的な障害者活動をしてたし、なんなら同性愛者もラディフェミも色々やってる。発達もそろそろ似たやり方をとるべきなんじゃねえか。
発達は、よく「挨拶や謝罪の形式みたいな社会的マナーや文化が備わってない」と言われる。いいじゃん。新しい文化作ろうよ。今まで現れてきた色々な文化もマナーも、「新しく」作られた瞬間はあるんだろ。発達もそれなんだよ。それが見れて嬉しいだろ。学者は心配してないで、これについて論文書けよ。
カサンドラがどうとか「発達は身近な人を傷つける」とか騒ぐやつもいる。いいじゃん。俺たちは新しい人間関係のモデルを今作ってんだよ。なんでパートナーが発達だって分かった瞬間「答えが得られた」気になってんだよ。相手が発達じゃないなら「傷つき度25」で発達なら「傷つき度100」なのかよ。
でも、個人的な人間関係ばかりやっても限界があるし根本的な問題は解決しない。もっと根幹に切り込もう。
発達障害手帳の効果が他の手帳よりかなり少ないよな。役所にみんなで乗り込んで訴えようぜ。
発達は税金関連の処理が苦手だよな。税務署を占拠して「もっと簡単にしろ、発達の税金軽くしろ」って示威しなきゃだめだ。
「ケーキの切れない」とかなんとかで有名になって、発達がかなり牢屋に入れられてる事が分かったじゃん。それでそんな記事みて「なるほどな」って思ってるだけなの?刑務所を取り囲むべきだろ。発達を社会に返せって。社会が発達と直接向き合って新しい文化を作る機会を奪ってるって。
少数民族レベルでも自治権を得て、これから増えていく発達の数に見あった土地を得るべきでは?
強めに書いてきたけど。
発達が増えてるとかいう情報に触れて、発達自身が何で卑下しなきゃいけないのか?それに腫れ物ともキモがりともつかない態度で接する社会ってなんなの?その社会は必要な社会なの?って事なんだよな。
そしてそれは、発達が、ホモ・サピエンスの新しい形みたいなこと、そういうレベルにしないと、説明がつかない。ホモ・ハッタツトゥス。
俺は定型社会こそぶっ壊れるべきだと思うから、どんどん発達障害の社員が面接をすり抜けて会社の「慣習やマナー」を滅茶苦茶にすればいいと思うし、どんどんキモいコミュ障が「正しいコミュニケーション」を破壊してくれればいいと思ってるよ。発達と定型社会の対立軸が揃いつつある今、根本から発達障害者とされた人々が社会を問うていく必要がある。
発達は新しい人間だ。発達も、アスペも、コミュ障も、「青い芝の会」をやろう。CPがバスを占拠した様に、発達も社会を占拠しよう。「不自然」を「自然」にしよう、というかそんな言葉を辞書から消そう。
頭が悪すぎて車の運転ができない(免許は泣きながらギリギリ取った、比喩ではなく本当にできなさすぎて泣いたし適正試験?の結果もとても悪かった、10年くらいハンドル握ってない)
ド田舎に住んでてなんかブルベイエベ?とか診断してくれたり化粧を見てくれる場所がずーっと遠くに行かないとない
街の方には美容院やサロンが存在はしてはいるようだが街と言っても田舎だからレビューがなくてどういうところか分からない
バスは本数が少なかったり、バスの路線が行きたいところまで通じてなかったりする
服を変えるところはしまむらとアベイルのみ、アベイルはしまむら系列の店だから結局しまむらだけ
リングフィット始めたけどそうすぐにはLサイズの人間がMサイズになれるわけもなく
30になって初めてスカートの方がモブ女子になれるのではと気づいて履いてみたら母親にマツコみたいと嘲笑された
私はひどく傷ついたが「あなたが恥ずかしい目に遭わないために言ってるんだ」と逆ギレされた
じゃあ私が子どもの頃に服もリコーダーも筆箱も下敷きも裁縫セットもみんなと違うボロボロの物ばかり使わせてたのは何だったの?そっちの方がよっぽど恥ずかしいよ
最近は前にここで教えてもらったラファーファっていうデブ向けのファッション誌を電子で買ってデブスでもこんな風に堂々と歩いてみたいなと思う
どうしようもないんだけどね
豪富だったら毎日交通費だけに何千円何万円もかけて買い物に行くのにな