はてなキーワード: 命題とは
んなバカな不安抱えてて、それで潰れちゃうようなら大学なんて行ってもいずれ潰れちゃうからさっさと専門学校でも行って就職スべきだろ?
そうじゃなくて大学で何か学びたいならそれで選ぶべきだろ?何いってんの?
文学部、工学部の就職率が違うって?で?就職率っていうか就職先が違うよね?根本的に?それで選ぶんじゃないの?その上で、レベルの高いとこ目指すんじゃないの?
偏差値が高いほうが「必ずしも」楽ではないが、一般的には楽なのは周知の事実だろ。
勿論、偏差値5上げた所で別に大したこと無いが、んなことごちゃごちゃ言ってる前に勉強しろよ、って話だ。
不毛だろ、こんな悩みでグズグズ言ってるほうが不毛だろ。さらに言えば、お前が言ってるみたいにオープンキャンパスに行った所で何が分かる?就職先のリストなら別途手に入るだろうし、
就職先を熱心に宣伝するような大学は、中身の無いFランだけだろうが。中身がある大学はまず中身の説明だろうが
お前は一体どういう立場なんだよ?大学で何学んだんだよ?ただただ就職の資格としてしか使ってないのか?なんで大学行ったんだ?
なんで急に話し飛んでんの?
人は苦しむ
そして、その解決策を探す
どこかに自分を納得させる魔法のようなセオリーがあって、それを見つけて理解する事で自分自身が救われるのだと
そして、今は自分の怠慢や能力不足のためにそれが見つけられていないから辛いのだと信じている
しかし、"本当にそのような魔法のセオリーが存在するのか?"という問いには答えられない
むろん、それは"カラスはすべて黒いのか?"という命題に等しく、証明困難な悪魔の証明だ
しかし、直感としてそれをどこまで信じられるか、主観的な視座において論拠があるように感じられるかについては別であろう
すなわち、可能性として"世界のどこにも、自分を納得させる様な魔法のセオリーなど存在しない"という命題が成り立つ可能性について想定できているかという事だ
「 私は、たゞ一個の不安定だ。私はたゞ探してゐる。女でも、真理でも、なんでも、よろしい。御想像にお任せする。私はただ、たしかに探してゐるのだ。
然し、真理といふものは実在しない。即ち真理は、常にたゞ探されるものです。人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。人間は人間の形をした豚ですよ。真理が人間にエサをやり、人間はそれを食べる単なる豚です。 私は日本伝統の精神をヤッツケ、もののあはれ、さび幽玄の精神などを否定した。然し、私の言つてゐることは、真理でも何でもない。たゞ時代的な意味があるだけだ。ヤッツケた私は、ヤッツケた言葉のために、偽瞞を見破られ、論破される。私の否定の上に於て、再び、もののあはれは成り立つものです。ベンショウホウなどと言ふ必要はない。たゞ、あたりまへの話だ。人は死ぬ。物はこはれる。方丈記の先生の仰有る通り、こはれない物はない。 もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。 私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。自分の精いつぱいの物を。然し、必ず、こはれるものを。然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。それより外に仕方がない。それが世のジュンプウ良俗に反するカドによつて裁かれるなら、私はジュンプウ良俗に裁かれることを意としない。私が、私自身に裁かれさへしなければ。たぶん、「人間」も私を裁くことはないだらう。」
坂口安吾のこの節における真理を、"自分を納得させる魔法のセオリー"として置き換えて考える事が出来る
人間はどこまでも自分を救う究極の理論や答え、真理というものが存在すると信じている
そして、それを得る事で自分は納得し、辛さや苦しみにに一定の決着がつき、心持が安らかになると信じている
しかし、その実存について(何度も繰り返すが、それが存在するかどうか)は真剣に議論されないように思う
現実的に考えれば、たかが理論や事実などで苦しさや辛さが綺麗さっぱり無くなるとは考えがたい
人は論理や思想や思念だけで生きているのではないので、理屈や真実を突き付けられただけで楽にはならないのだ
しかし、人は真理を探そうとする
そして、時にそれはある種の成功を収め、人生観や世界観や哲学としてその人の認知的な枠組みとして機能し始める
つまり、ある一定の(その人固有の)論理構成や理屈付けの仕方が、その人自身の救いになる、指針になる
そして、それはその人自身には壊せない程度に堅牢であるだろう、思考錯誤の結果だからだ
しかし、やはりそれは部分的なものであって、生物的・生理・社会的な制約(例えば神経伝達物質の異常や個人が変容不可能な環境の要因など)をうけるので、"すべてを救い、納得と平穏をもたらす様な魔法のセオリー"足り得ない
これから社会を渡り歩く上で、是非とも知っておきたいこととして、世の中始末に負えない乱痴気野郎は数有れど、正論人間ほどタチの悪い、人生の詰んでいる人間は居ない。これは知っておいても損はないだろう。
これから社会へ羽ばたき偉業を成し遂げんとする君たちも、薄々感づいてはいるはずだ。学級委員長や生徒会長のような正論マンの不甲斐なさ、そして冬の碧空にも似た慟哭に。
世の中に蔓延る正論をなんとかして駆逐せねばならぬ、とまで考える人もいるだろう。また、正論をどや顔で言うような族(やから)にだけは俺様はならん!と固く誓っている人もいるだろう。
しかしちょっと待ってほしい。ここで大切なのは感情論の排除である。何事も感情的になっては琴をし損じる。感情的と言ってもヤキモキしたキモチを適切な形でストレートに吐き出すのはむしろ良いことである。
そうではなく本当の感情は棚にあげて都合のいい別の感情を正当化しようと論をひねりだすのが駄目なのだ。結局それは言い訳であり捏造にすぎない。自分にも他人にも嘘をつき、感情的になればなるほどその嘘の対立構造がエスカレーションする。
だから冷静に思考しなければならないよ。学生時代にロクに人と向き合うことなく2chなどをやり過ぎてきた人は特に注意。面接で俺は友達いるしサークル入ってたしバイトもしてた、なんて人がよくいるけど、
そんなのも名札(title)にすぎないのだよ。中身が肝心。素直な気持ち・意見をどれだけ適応的にやりとり出来たかどうか。その意味で正論を文字通り「正しい」と思えるような人は危ないと言ってよい。
結局のところ正論というのも名札にすぎない。正しいと名札がついたことを言えば、一応は一定の力をもつ。絶対無敵とまではいかないが、たいていの場面で有利な形勢に持っていくことが可能であるという意味において。
ところがね、第1にそもそもにおいて「勝つ」必要などないのだよ。狡黠な人間になんてなる必要ないとも言い換えられる。ずるい人間って世の中いるよね。それは一種の適応とも言えるが。
よく考えてほしいのは、適応というのは常に不適応の可能性をはらんでいるのだよ。ある方向に適応したということは、他の方向に適応できなかったからかもしれない。ズルいってのはそういうことなんだ。
あらゆるファクターがありうるので一面的に決めつけることはできないけどな。けれどもそれがもし不適応からきた果実だとしたらそんなに哀しい色の果実はない、そう思わないかいということなんだ。
第2に正論はあくまで論の正しさに過ぎない。論とは前提たる命題に推論規則を用いて演繹していくプロセスなのだがな。ともかく論の正しさはあくまで推論の正しさであり前提の正しさではないという中学校から教わってきた当たり前のことなんだ。
当たり前だがみんなすぐ忘れてしまうから常に確認しながら進んでいかないと行けないんだ論者たちは。でないと、、中学生が見てもバカじゃんこの大人たちはって言うようなことが頻発するのだ。
人間は多くの人間自身が考えているよりもスキが多い、不注意が多い、手抜かりが多い生き物なんだ。だから当たり前のことを当たり前にやれる大人になること、これが何よりも大切で、難しいことなんだ。
岡目八目と言ってハタからみて批判するのは簡単だけど実際にそういう立場になったとき自分自身しっかりやることが肝胆だよ。だから正論を畳みかけるように言われてもジト目で疑うことを怠たらない誠実さを忘れてはならない。
そういったことを抜かりなく積み重ねていく先に成長がある。正論を疑うにあたっては、繰り返すが感情的になってはいけない。感情を包み隠さず適切な形で表現するのは良いことではあるが、感情に論がくっつくと
途端に一気にタチの悪い一揆を巻き起こして塗炭の苦しみに見舞われてしまう、と述べたね。ここで1つ感情的にならないコツを教えよう。こと人間関係になると多くの負の感情は恐れからやって来る。
怒りも恐れ、恥ずかしさも恐れ、不安も恐れ、いろんなことが恐れから来ている。そしてそのことをみんな自認したがらない。だからビビり先輩ちーっすwな煽りが万国共通に通用すると。
だから恐れを常に認めないといけない。認めるためには心の余裕が必要なの。心に空きスペースがないと駄目なの。ワーキングメモリが一杯になると他の事考えられなくなるでしょう。
実は人間は生きる心構え次第で必要な余裕が雲泥の差なんです。一般には精子いや生死をかけた闘いを日々繰り広げる人ほど沢山の余裕が必要と考えられている。しかし実際は彼らの95%は忙しいの字は心を亡くすと
書くとの格言どおり忙しさのあまり心が狭くなっていますから、それでもなんとかやっていけてるということは実は大して彼らのような生き方のためには別に特段余裕が必要なわけではないんですよ。
ただしそれは「毎日をなんとかやり過ごす上では」不必要ということであり、「日々をよりよく生きるためには」あるいは「今後の人生のためには」もっと余裕が必要ですよ。狭い心のままではいつかSAN値がピンチになります。
そう、「よりよく生きるためには」もっともっと余裕が必要なんだよそこの君。倫理(ethics)とは本来は儒教的な処世術ではなく日々をよりよく生きる方法を追求する学問であった。
自分のことばっかり考えてガンガン心を狭めていては結局のところ苦しい境遇に追い込まれていくようにうまく世の中はできている。天網恢々疎にして漏らさずとは至言なり。
『オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情』の紹介文を見てごらんなさい。「感情はなぜ存在するのか。感情がその場限りの自己利益を越えてより合理的に行動を方向づける働きがあることに着目し、
今まで十分に理解されていなかった利他行動など、一見非合理的にも見える行動のメカニズムを鮮やかに解き明かす」。この問題意識と解決の試みに非常に高い知性を感じざるを得ません。
実は感情は我ら人間の誇る高級な機構であったという発見が続々と為されている。そういった感情を捨象してロボットのように正論を言ったり感情を捏造して論理で塗り固めたりするのはもう今年で卒業しよう。
来年からはきっぱりケジメをつけて全く新しい人間に生まれ変わるつもりでいこう。ただしだイチローの「変わらなきゃも変わらなきゃ」の精神は忘れちゃならんぞ。必死に変わろうとする人間がよく陥る罠。
変わろうと歯を食いしばることは現状を強く否定することになるが、実は否定すればするほど暗に弥が上にも強く肯定してしまう結果になるのだから、決して無理に変わろうとしてはいけない。
これも人間関係と同じで根底には恐怖がある。忙しさを好む精神の奥底にはしばしば恐怖があるのだ。一般に強くコミットしようとする性向の背後には恐怖があるということ。
だから強くコミットしようとするのではなく、ソフトなアプローチ。これが大原則なのだが、そのためには実はたくさんの余裕が必要なんです。だから言ったとおりでしょう心構え次第で雲泥の差。
余裕といってもロマンティック・アイロニーのやうな嘲笑や放蕩ではなく、きちんと自分の行い、思考を決める規律を自分で定めないといけない。
クラピカも制約を自ら誓約して力を手にしたのだからこの支配から卒業して賜杯を手にするには規律を自らに課すことが必要不可欠といっても過言ではなかろう。
ぱっと見なめし革のような硬質な立派さを漂わせてはいるもののそれはあくまで虚構で、その内に秘めたる醜さは計り知れない。だから俺はブランドもののバッグが大嫌いなんだ。
ともあれ人の心にハリボテエレジーのような哀愁があり、それを我々は他者や社会との関係の中で再現しているに過ぎない。しあわせに小石をなげて。
その修正を試みるのがサイコドラマの主旨である。ともあれ正論という古い規律を捨てて感性的であろうとすると俺たちはいとも簡単に自己否定のワナにかかってしまう。だから新しいマイルールが必要なのだ。
マイルーラ見かけなくなったなと思ってたら2001年3月製造中止。 テレビCMや大学の文化祭で宣伝しだしてから、若者の間で非常に人気が出て世論の批判を浴びたことが原因とな。
第三者に聞かれるようなシチュエーションの時点で公だし、
あなたも「公私を判定するという観点からすれば」どちらも公だ、と言っているのと同じじゃないですか。
いやいや同じじゃないよ、断じて同じじゃないよ、とんでもない。
繰り返しますが「公私を判定するという観点からすれば」、「公私を判定するという観点からすれば」、「公私を判定するという観点からすれば」同じです。
あなたが述べている違いは全て与える影響の規模・発生確率にすぎず、公開性を基準にするならばどちらも常に「公」ですし、立場などを基準にするならばどちらも等しく「私」でありえます。
逆に言えば、それが免罪符になるのであれば、どんな誹謗中傷、殺人予告、虚偽、脅迫に値する書き込みであっても「個人的なやりとりですー」で済まされることになる。そんなことが許されるわけがない。
不特定多数の目に触れて被害を発生させているのであれば「個人的なやりとり」でも罰せられます。
個人的なやりとりであれば罰せられない、という命題が偽です。
私的なことならどんなことをしても問題ないとは、恐ろしい考え方ですね。
その組み合わせていく作業がプログラムだよね。
forが使えます。
ifが使えます。
って4段階有るとして、2段階目と3段階目って区別が必要か?合ってもいいけど、現場じゃ役に立たんだろ。
教えてもらうこと無しに、FizzBuzzを自分で編み出せないなら、つまり1種類の書き方でFizzBuzzをといたら、少し条件を変えてたとえば、FizzBuzzKuzzにしてもできるか?みたいな追加条件も出して
本当に自力で考えだしたか?というのも含め
与えられた命題に対して、既知の事実を組みあわせて新しいアルゴリズムを作るのがプログラムだからな。それが出来なければ現場では無理だ。
そればっかりは、編み出す という行為だから 教えるのはむりだ。 暗記しても条件が変われば答えは無数にある。
詰め込み型教育では教えられないのが、プログラムではあるとおもう。FizzBuzzの答えは教えられてもFizzBuzzKuzzと1つ増えたらまた違う問題だ。
特に「渡邉美樹は社員を奴隷としか思ってない守銭奴」「社員に劣悪な環境を提供するぐらいならまずは自分で働いてみろ」みたいな批判。
違うんだ、渡邉美樹は腹黒い経営者とかではなく、本気で自分の理想を語ってるんだ。
社員が24時間365日働けるような環境を提供してお客様のためになることが
ほんとうに素晴らしいことだ本気で信じてる。
上記エントリーで書かれていたような印象をはてな村民は皆持っていると私は思っている。
では、それで渡邉美樹、和民が許されるかというとそれは全く別の話と感じているし、村民も同様の印象を持っているのではないかと思う。
私が問題だと認識しているのは、渡邉美樹が叶わぬ理想を追い求めていることであり、明らかに理想が現実と大きく乖離している。
また、そのことにより、日本の社会全体にマイナスを与えている可能性が高いためである。(※1)
多量の退職者を出し、(統計値を見たことはないが)その中には復職不能な状態になった方も多数おられるだろう。
和民の生み出す価値と負の価値をトータルで見た場合、マイナスになっているようにしか思えないことを多くの人が問題視していると考えている。
また、外資コンサル等がブラックとみなされない理由は、社会全体でトータルで見た場合プラスになっていると捉えられているためであると考えている。(※2)
では、和民はどうするべきか?
1つの道は、理想を捨て、普通の会社になることである。自分の理想が実現不能、もしくは、実現が極めて困難な夢想であったことを認識し、労働時間削減、いままでの理想を捨て経営方針を変更することである。
もう一つの道は、理想を捨てずこのまま邁進する道である。そのために、理想を実現するための具体的な手段を探求し、理想を追求しつつ、和民の持っているマイナスの価値を下げるように努力する道である。
例えば、下記のような施策も考えられるのではなかろうか?
渡邉美樹氏には、理想を持ったまま、現実を見据え具体的な施策を考えてほしいと思う。和民の目標は、大量の退職者、非納税者を生み出すことではなく、売上を上げること、またそれを通し自己実現(?)することだと思っている。で、これらは完全に背反する命題ではないと思われる。
※1.業界平均より退職率が低いと弁明しているが、業界として問題があり解決を考えていかねばならない課題と認識している。
※2.外資コンサルは労働基準法てきにはブラックだとみなされるが、和民のブラック話と外資コンサルのブラックは違う話という意で、外資コンサルはブラックではないとここでは表記している。
※3.彼の理念とは背反する施策である。「『無理』というのはですね、嘘吐きの言葉なんです。 途中で止めてしまうから無理なんです。」
おまけ.
私は、渡邉美樹には絶対投票しない。良い人で会っても、現実を見据えておらず政策実効能力に強い難がある人物とみなしているためである。
単にエレベーターを停止しないように設定してただけなら(エレベータはあったんだから) 事前にいってもらえれば設定を変えておけばよかっただけだと。
2Fに上がるのに、いちいちエレベーター使われると面倒だから、2Fには階段できてくれ。という元からバリアフリーだが、設定がマニュアル。(駅だって申請によって駅員が障害者に対応する)というタイプで
申請がなかったんですけ、という話かもしれんのに・・・
なにかというと、当人同士で解決したのに、周りがとやかく言い過ぎ。詳細もわからんのに、突っ込んでもしょうがないだろ。
全てのビルをバリアフリーには 崇高な命題だが、反論は許さんは暴力でしか無い。対応できる範囲で問題があったならともかく、お互い様なんだから譲り合え。
単なる個人間のイザコザを 大きな問題にするな。
おそらく、登れないくらいの急勾配の階段があって、愕然としたんだと思うけど、だからといって、やり過ぎだ。次から気をつけてね、お互い。で次からお互い気をつけますなんだからいいだろ。
飲食店におけるそういう細かい事故は、アレルギーとかも含め、割りとあるんだよ。だから、事前にいいましょうがルール。バリアフリー以外にも問題はあるけど、話しあえば解決するんだから話しあえよ。
というより、男が手帳を受け取って出来ることというのが実質覚悟しかないのに、お前の主張ではそれもできっこないという話になっている。男は「自分のすべき負担」から逃れ続ける。
その一方で女は知識を植え付けるという名目で「自分のすべき負担」から逃げられなくされる。「手帳まで配って出生率が上がらなかったら女のせい」にされる。
女だって手帳を渡されただけでママになる覚悟ができるわけじゃない。そもそも覚悟とかいう問題以前に社会的に環境が整ってない。なのに妊娠に必須のパートナー即ち男には逃げ道が確保されている。
仮にも政策として打ち出すものである以上、このように性別で負担が変わるものは不公平の極みで女性蔑視で差別的だと言われてもしょうがない。全部事実だ。
>「手帳まで配って出生率が上がらなかったら女のせい」にされる。
されません。被害妄想です。また書くけど、女性手帳の目的は「少子化を解決する(出生率を上げる)」ではない。「晩婚・晩産に歯止めをかける」だ。間違えるな。これは理由1でも書いた。じゃあ、「晩婚・晩産に歯止め」がかからなかったら、女性のせいか?違います。女性手帳の導入を決めた人の責任になるので、安心してください。
適齢期を外れた女性が結婚できなくなる問題と男が無知で終わってる問題を意図的に混同している。
そして、そういう理由なら結婚できなくなるのは適齢期を過ぎた女だけじゃない。結婚に向かないライフスタイルの男、即ち共働きで互いに互いを支えられるだけの家事分担の能力や意志がない男や産休育休子どもの世話に手が割けない男も結婚できなくなる。長時間労働を前提に残業代で稼いでるクチはアウト。当然不妊の男や高齢の男もだが。
>適齢期を外れた女性が結婚できなくなる問題と男が無知で終わってる問題を意図的に混同している。
別におかしくない。上から目線は上から目線。表現として反語で書いたかそうでないかという次元ではなく、事実として女性手帳政策は上から目線なのでそう言われても仕方がない。
それはお前の主観であって、客観的な事実(みんながそう思うこと)ではない。現に、僕は上から目線だとは思わない。別に「上から目線だ!」と言う分には自由だけど、それだと「こいつは感情的に批判してるな。幼稚だな」と思われるよ?
10代が「責任取れない」のは何故か? いのいちに「カネがない」から、その次には「遊びたいさかり」だからだ。
経済的・精神的に子どもを作って育てるのに適していない、だから10代は子どもを作ってはいけない。
しかし同時にこの「10代」に何歳台を入れてもこの命題は成立し得る。理由が「責任取れなきゃ」にある限り、いくつであろうと「子どもを作ってはいけない」に帰結する。
この状態で「適齢期だから子どもを産め」なる教育が成立するわけがない。年齢は責任が取れないことの理由にはなっても責任が取れることの保障にはならない。
これはちょっと誤解を招く。出産を強制しようとしているわけではない。僕がしたほうがいいと思うのは、「(産むとしたら高齢ではなく)適齢期に子供を産め」という教育。なぜ、「だから」に変えた?わざとか?意味が違ってくるだろ。
>この状態で「適齢期だから子どもを産め」なる教育が成立するわけがない。
「責任が取れるようになったら、適齢期に子供を作ってね」という教育が成立すると思うが?
>手帳の最大の問題点のひとつは、配付した時点で周知完了としてこの点における議論を封じているところだ
「妊娠・出産の適齢期と高齢出産の知識をいかに普及させるか」という議論でいいんだよな?何度も書くが、僕は女性手帳”だけ”で教育しろなんて書いてない。知識が普及しないのなら継続して議論は必要だと思っている。
これはさすがにバカすぎる。今までと何が変わると思うんだ?昔からWeb上に妊娠・出産の適齢期と高齢出産のリスクの知識は転がっていたとしたら、「知りたかった」人間は知りたいと思った時点で検索して知ることが出来ていたはずじゃないか。現にお前だって理由3を挙げている。「知ってる」と言える人間はいるわけだ。
知りたかったのに教えてもらえなかった?知りたい・知ろうとする発想すらなかった受け身人間だったというだけのことなのに、まるで知識を得ることを妨害されたかのようだぞ。意図的によくない印象を与える表現を使うな。
そりゃそうだろ。女性手帳や学校の授業などの教育によって「知らない人間(特に女性)がいないようにしないといけない」というのが僕の主張。
>知りたかったのに教えてもらえなかった?知りたい・知ろうとする発想すらなかった受け身人間だったというだけのことなのに、まるで知識を得ることを妨害されたかのようだぞ。
それを高齢出産で苦しんでいる人の前で言ってきてください。
>女だって手帳を渡されただけでママになる覚悟ができるわけじゃない。
女は覚悟ができるってどこにも書いてないけどなあ。「男”だけ”は手帳を渡されただけで覚悟ができない(女性はできる)」こう読んじゃった?
というより、男が手帳を受け取って出来ることというのが実質覚悟しかないのに、お前の主張ではそれもできっこないという話になっている。男は「自分のすべき負担」から逃れ続ける。
その一方で女は知識を植え付けるという名目で「自分のすべき負担」から逃げられなくされる。「手帳まで配って出生率が上がらなかったら女のせい」にされる。
女だって手帳を渡されただけでママになる覚悟ができるわけじゃない。そもそも覚悟とかいう問題以前に社会的に環境が整ってない。なのに妊娠に必須のパートナー即ち男には逃げ道が確保されている。
仮にも政策として打ち出すものである以上、このように性別で負担が変わるものは不公平の極みで女性蔑視で差別的だと言われてもしょうがない。全部事実だ。
>「産まなきゃ産めなくなる」という焦りだけ植え付ける。
「産まなきゃ産めなくなるという知識を身に付ける」でいいだろ?
ダメ。理由は上記。
僕はそもそも男性が妊娠・出産の適齢期の知識をつけるのは反対じゃない。けれど、そうなると適齢期を外れた女性は今まで以上に結婚できなくなりますよ、と。これもおまけの部分で書いた。
適齢期を外れた女性が結婚できなくなる問題と男が無知で終わってる問題を意図的に混同している。
そして、そういう理由なら結婚できなくなるのは適齢期を過ぎた女だけじゃない。結婚に向かないライフスタイルの男、即ち共働きで互いに互いを支えられるだけの家事分担の能力や意志がない男や産休育休子どもの世話に手が割けない男も結婚できなくなる。長時間労働を前提に残業代で稼いでるクチはアウト。当然不妊の男や高齢の男もだが。
そう、当たり前なんだよ。だから、女性手帳に限ってわざわざ「上から目線」という表現を使うのはおかしいよねってこと。これは反語表現といって広く使われるから今度からは誤読のないよう気を付けてね。
別におかしくない。上から目線は上から目線。表現として反語で書いたかそうでないかという次元ではなく、事実として女性手帳政策は上から目線なのでそう言われても仕方がない。
もちろん、学校の教育でもやるべき。女性手帳”だけ”で教育しろなんて書いていないし、僕は両方やるべきだと思っている。「責任とれなきゃ子ども作るな」と「適齢期に子供を産め」は矛盾しない。適齢期は10代じゃないぞ。
10代が「責任取れない」のは何故か? いのいちに「カネがない」から、その次には「遊びたいさかり」だからだ。
経済的・精神的に子どもを作って育てるのに適していない、だから10代は子どもを作ってはいけない。
しかし同時にこの「10代」に何歳台を入れてもこの命題は成立し得る。理由が「責任取れなきゃ」にある限り、いくつであろうと「子どもを作ってはいけない」に帰結する。
この状態で「適齢期だから子どもを産め」なる教育が成立するわけがない。年齢は責任が取れないことの理由にはなっても責任が取れることの保障にはならない。
手帳の最大の問題点のひとつは、配付した時点で周知完了としてこの点における議論を封じているところだ。
これはさすがにバカすぎる。今までと何が変わったんだ?今でもWeb上には妊娠・出産の適齢期と高齢出産のリスクの知識は転がってるぞ。それじゃあ、知りたかったのに教えてもらえなかった層のためにならないじゃないか。
これはさすがにバカすぎる。今までと何が変わると思うんだ?昔からWeb上に妊娠・出産の適齢期と高齢出産のリスクの知識は転がっていたとしたら、「知りたかった」人間は知りたいと思った時点で検索して知ることが出来ていたはずじゃないか。現にお前だって理由3を挙げている。「知ってる」と言える人間はいるわけだ。
知りたかったのに教えてもらえなかった?知りたい・知ろうとする発想すらなかった受け身人間だったというだけのことなのに、まるで知識を得ることを妨害されたかのようだぞ。意図的によくない印象を与える表現を使うな。
俺が早とちりしているというよりも、単純にお前に突っ込みどころが満載なのが問題。
オッス、元増田です。ご検証ありがとうと礼儀としちゃ言うべきなんだろうけど、そんな話じゃないんだけどなーという印象。
「僕らの世代は実際には手塚漫画を読んでないのね」は主語が大きすぎてなんともですが、個人的には少年チャンピオンで「ブラック・ジャック」終了後も「七色いんこ」や「ミッドナイト」はよく読んでました。「ゴブリン公爵」は忘れてください。
また手塚クラスになると過去の名作に触れる機会も多く、「火の鳥」(「太陽編」の前まで)は朝日ソノラマ版で読んだし「ブッダ」も床屋で読みました。
ここで全称命題の話にしますか(笑)。前世代、前々世代に比較すればあながち的外れな考察でもないと思いますけどね。もちろん統計データなんてありませんけど、クラスのほとんどが読んでいた、半分くらいは読んでいた、5人くらいは読んでいた、と比較すればほとんど読んでいないという大きな主語は、この場合、個人的にあれも読んでいた、これも読んでいたというのよりはよほど実態に即していると考えます。それともそれこそ何か統計的なデータでもお持ちでしょうか。
1971年生まれで、チャンピオンを追いかけている人は相当稀少だったのではないでしょうか。何といっても同時代的には「ドラゴンボール」「北斗の拳」「聖闘士星矢」「キン肉マン」などのジャンプ黄金時代だったわけですし、6割ジャンプ、2割マガジン、1割サンデー、残りの1割でその他というのが実感です。70年代黄金期を過ぎてのチャンピオンの凋落ぶりは言うまでもなくて、看板作品でも老若男女誰でも知っている作品というのがもうここ30年ないですよね。
たとえば週刊ポストには「弐拾手物語」が長期連載されていましたし、週刊プレイボーイが本宮ひろ志の「俺の空」を載せたり平凡パンチは岡崎京子の「ジオラマボーイ パノラマガール」を連載してました。
「漫画が一般雑誌に掲載されたのは大昔にはあるかも知れないけど80年代の文脈で言えば手塚だけだったね」は勇み足というか、元増田の興味に引っかかるのが「アドルフに告ぐ」だけだったものと想像します。
ま、これは確かにそうですね。一般週刊誌は文春、新潮、朝日のみというのが感覚的には正しいと思います。この三誌とそれ以外では、オーソリティがまるで違うからです。この三誌がクオリティマガジンとは言いませんが、WILLに連載するのと、中央公論に連載するのとでは全然意味が違うのと同じです。ロッキード事件やリクルート事件など社会的な問題でたびたび尖兵となってきた雑誌と、スポーツ新聞に毛が生えたような雑誌とでは社会的な意味が違います。それは現在に至るまで、掲載されている作品の内容でも歴然と異なります。
特に80年代は、週刊文春は花田体制の下、絶頂期にあって、100万部を毎週越えるような規模としても内容としても一軍でしたから、基本的には政治経済、時事的なトピックでそれだけ中心的に扱われているメディアに漫画が乗った(プレイボーイならいざ知らず)ということ自体がトピックであったという意味で、アドルフの例は出しましたけどね。ただしアドルフ以後、この三誌での漫画連載は定着しませんでしたが。
ブコメで「サンコミックスが昭和40年代に出るまで単行本はハードカバーが普通、ただし人気作しか単行本化されなかった」とあります。
純粋にハードカヴァーの作品自体であれば貸本屋の漫画は基本的にハードカヴァーでしたし、店頭でよく見かけるものとしては、学研の「ひみつシリーズ」もハードカヴァーでした。ただしサンコミックスなんてほとんど誰も知らないように、社会的な景色の話ですからマニアックな話をしてもしょうがないわけです。平積みにされて、多数の人が「おお、漫画もハードカヴァーになる時代なんだな」と認識することが重要であって、消費物としてではなく作品としての漫画、芸術としての漫画という意味合いを一般化したのは手塚がやはり尖兵であったという、そういう話です。「火の鳥」と「のらくろ」のどちらが先なのかは分かりませんが。
赤塚さんはあと、コロコロでは「花の菊千代」を連載しています。その後、ボンボンでも何作か連載していますが、知る人ぞ知るという程度の作品で、連載作家として仕事はしていたわけですが、雑誌の主力になるようなパワーはなく、その仕事自体が大御所としての余暇的なものであったと思います。
横だけど、
そもそもこの命題が間違ってる。
別に体目的の男にもてたいわけじゃなくて、体目的の男が積極的に女性に近づくから、結果的に親密な関係になることが多い、ってだけでしょ。
同意。
そりゃ、大雑把に言ってしまえば、体目当ての男ってのは見た目も話術も優れている傾向にあるのだろうから(というか、そもそも見た目とか話術が優れいているからこそ、女の人を食い散らかすようなことが可能になるのだろうしね)、
いい男にモテる自分はそうでない女よりいい女だという充足感を得るという要素もあるのだろうけど、それはどっちかというと結果論で、
元増田の言うように体目的な男が積極的に近づく、なおかつ、そういう男は見た目も話術も優れている傾向にあるから、結果的に即効的に親密な関係になることが多いってだけのような気がするなぁ。