はてなキーワード: メンタリティとは
「場」に参加する人間が買い手となり、売り手となる瞬間は間違い無く存在する。
しかし、それは複層的なもので、「買い手であり、売り手である」状態が継続しているといえよう。
ネット社会が発達するに連れ、「お客様」を諌める流れがより可視化されるようになった。
時に作り手、時に買い手となるマーケットにおいて、よく言われてきたことだ。
あるいは、まずコミケがあり、ネット文化が発達するに従い、オタクという媒介変数を通して文化文脈の共有が生まれた、ということもあるのかもしれない。
いずれにせよ、今は「場」において「お客様」と居直る人は、いわゆる日系企業的ビジネスシーンほどには構ってもらえない、というわけだ。
少し、話を飛躍、発展させる。
誰もが作り手になれ、誰もが買い手になれる流動性の高いマーケットにおいて先述した「お客様害悪論」は有効に機能するとは思う。
しかし、相互の分断が技術的、特権的な参入障壁の高さによってかなり決定的であった場合、果たしてこれは有効に機能するだろうか?
私は、そうは思えない。
たとえば、コンビニのバイトにいちゃもんをつける客がいたとしよう。
このとき、コンビニのバイト経験がある人からすれば、同情、あるいは不当ないちゃもんであると喝破できるようなケースもあるだろう。
しかし、コンビニのバイト経験に限らず、日本人はあまり多種多様な職業に携わり難い環境にあると言える。公務員ならまだしも、一般企業社員さえ副業をしている余裕はない。つまり、流動性ある複層関係が、固定化される単層関係に置き換わるわけだ。
こういう場合、互いが互いのバックボーンを知りえない事が多く、自分の立場を正当せしめようとする動きが心中に生まれる。このパワーバランスのせめぎあいの結果、これまでの日本ではお客様至上主義に傾き、固定化された、という見地に私は至った。
流動性を「場」が維持するには、膨大なエナジーを「場」が御しきり、かつ「場」に参与する複数の個人が自律した行動を取ることが求められる。ゆえに、そこにあるのは非常に強力なメンタルを持った個々人の集合体であり、統一された目標に向けて、エナジーを爆散させる。かくて活況となる「場」は時に外部にまで波及するほどのバイタリティを持つのである。
しかしながら、先に書いたとおり、これはかなりレベルの高い要求である。個々人のメンタリティ、バイタリティは様々であり、自律の程度においてもまた同様である。
また、人の省力的行動は、流動性を失わせる方へ作用させ、自律作用を失わせることも事実である。一度お客様の旨みを味わったものがなかなかに脱し切れないのは、ここが理由である。
さらに話を飛躍させれば、今の国政において我々国民の殆どはお客様同然である。我々も国政に積極的に参与できるのであるが、それに参与するためだけでもより高い体力が必要だろう。投票システムはこの分断を決定的にする。投票するだけで国政に参加できるなどと吹聴させられれば、より省力的手段としてそちらになびくのは仕方ないだろう。
日の丸を焼いたり自分が火達磨になったりしてる反日デモの過激韓国人と、ネット右翼って同じメンタリティですから。
というかもはやネット右翼というものの対象が広がりすぎてこの言葉が機能しなくなってきてるな。
右翼でもないしネットだけで活動してるのでもない(主活動場所はネットだけど) なんというか、「韓国人的日本人」と言ったほうがいいかもしれない(笑
えぇもちろん分かってますよ。「韓国」という言葉を頭につけて呼ばれることを彼らがどれほど嫌悪しているのか。でも、嫌よ嫌よも好きのうちって言うでしょう?
あれはね、「ほんとはお前好きなんだろ」という浅すぎる言葉じゃないんですよ。「お前あいつとそっくりだぞ」という言葉なんです。
自分が好きな人間というのは自分ととてもよく似ている人間なんです。ネット右翼さん、あなた、韓国の反日過激派さんたちとそっくりですよ~^^
「女は○○(否定的な内容)だから……」って言うとすぐミソジニ―ミソジニ―騒ぐ奴が心底ウザい。
まあ「○○」が事実でない場合にはそういう評価もやむを得ないのかもしれない。
個人的には端的に誤りを指摘すればいいのであって、わざわざミソジニ―とかレッテルはって発言者を貶める必要ないと思うけどな。
でも「○○」が事実の場合にまでそういうこと言うってのはなんなんだよ。事実なら問題ねえだろうが。女のみに顕著にみられる欠点があっても、その欠点は指摘すんなってのか?
女のみに顕著に見られる欠点なんてないって?
そんなわけないだろ。それこそフェミの連中が騒ぐように家父長制とかの下で抑圧されてきた女のメンタリティが、抑圧してきた男のメンタリティと同じわけないんだから。男にも女にも、その性のみに顕著にみられる欠点はあるんだよ。
「○○」は従来の社会制度によって女に植えつけられたものであって、女は被害者なのかもしれない。
だとしても、それが「○○」を指摘してはならない理由になるのか?ならないだろ?むしろ言ってやらなきゃ直せるもんも直せないかもしれないだろうが。
ニコニコ神社っていうユーザが画面の向こう側から参拝者にコメントをするという形式の神社
発想それ自体はどうという程でもないのだけれど
もしかして有史以来初めて人間が本当の神社を作った瞬間なのかもとふと思った
そういうチラ裏
異議は認める
2011823追記
もし仮にそうやって集合的無意識を神様として見立てるならばの話。
祀られる側に集まってる人間が“異常に優しい”
それほど可愛くもない女の子でもブスなんて文字は滅多に踊らない
不細工な男で多少うざくてもわりと大らかに受け入れている
本来ならばネットに顔を晒すような人間を馬鹿にするメンタリティーの人々とは思えないくらいにだ
荒霊や和魂的な神道信仰において祀られると魔王が強力な神になる理屈に
そのまま今回のネットの中の集合的無意識が当てはまるかもと思った
言わば、気に触ることをしただけ、もしくは触れただけで祟り殺される荒御霊は
無秩序な状態では鬼女やらなんやらになり、
一度ああやって祀られると来たものを祝福する和魂状態へなったりして
わりと興味深いかもしれない。
神様ってそう考えるとそんな感じなのかもね
(http://anond.hatelabo.jp/20110409170039からの続き)
事故発生当初から「東電は事故に関して隠している、嘘を言っている」、「政府は騙されている。メディア、記者クラブは、東電が最大の広告主、クライアントだから遠慮して言えないのではないか」と、自分の出演しているメディアやラジオ番組で言い続けていました。
いま再び、70年前(太平洋戦争末期)の大本営発表と同じことが、起こっているんだなと思います。歴史の教科書をみて「こんなことがあるわけないだろう」と思っていたことが、実際に、目の前で起こったことに、びっくりしています。まさか自分がそんなことの当事者になるとは思わなかったので(苦笑)。
日本人は小さい頃から新聞とテレビは正しい。雑誌とインターネットは嘘ばかりだ。と思い込まされているんですよ。ただ、新聞やテレビの情報は、政府の発表を記者クラブとしてそのまま報じる。彼らが独自に取材した情報と内容が違っていたとしても政府の発表を採用する。だから新聞とテレビは正しいと思っている国民は常にその情報を信じるから、今回も同様の洗脳が起こっている。ただ、これまでとちょっと違うのは、若い人たちを中心にインターネットを通じて「あれ、何か違うんじゃないか?」とわかって来ていること。私のツイッターのタイムラインも今朝ぐらいから「新聞、テレビの言っていることと事実が違うぞ!」と結構大変なことになっています。まるで、エジプトとかチュニジアみたいに。明らかにそこが変化して来ていますね。
大本営発表の再来という誇大妄想と、自分が時代を動かすんだという自己陶酔で完全に正気を失っている。
だが、科学誌『Nature』は上杉などと全く逆の見解を示している。
JS: 〔…〕私としては、現在のデータの量と質は、満足できるものだと思います。でも、ご質問のとおり、計測方法なんかの情報が抜けてたりして、データの解釈かしずらいのは事実です。これは、ひょっとしたら、翻訳の問題なのかもしれません。もしかしたら、日本語のデータレポートは、もっと関連情報がしっかり網羅されてるのかもしれません。
GB: 私がひとつ言いたいのは、報道側がこの危機をどう報道していったかは、結構問題だったと思います。報道は、最大値ばっかりをレポートする傾向にあります。とくに、放射能汚染の場合は、最大値じゃなくて、ある一定の時間内での積算値が問題なわけで、最大値は、それだけじゃ、あんまり関係ないわけです。実際、低レベルの放射線が長期間続くほうが、ほんの瞬間の最大値よりもあぶなかったりするわけで。
また、辰巳はこうも呟く。
さきほどのツイートに関連して,こうした抑制的,かつ整理された情報発信を日本の信頼出来る科学コミュニティーから出来なかったことは,今回の本当に大きな反省点だと思う.少しこんな話をするのは早いけど,望まぬ”次”が来た時,きちんと役割を果たせる体制を作ることは我々の世代の使命だと思う.
門外漢ながらこれには同感。今回の震災で、日本の学会や学会誌は何とも頼りない。下手に東電を擁護しようものなら石を投げられそうな現状には同情するが、それでもバカなマスメディアとバカなネットユーザーに好き勝手させず、学会や有志が連名で声明を出すくらいのことはして欲しい。
TBSの松原耕二は、震災発生当日から報道特番で「政府は不都合な真実を隠しているんじゃないでしょうか」と明言し、「「念のための避難命令」という政府の説明はどうも納得できませんね」と連呼していた。
僕らは不安であっていいんだ。それは僕らの中の危険の感知装置が鳴っていることだから。自分で量りきれない恐怖があるときに僕らは不安になるだろう。そして、僕らは今存在する危機に対して、その可能性の正確なサイズや輪郭をつかめないでいる。その不安は僕らのものだ。警報を切ってはいけない。
不安を増幅してはいけない、というのは、政府や既存の権力が望むことだ。なぜなら、不安は人々を駆り立て、秩序を破壊することがある。けれども、今、政府が恐れていることは、人々がどこかに殺到して怪我人や死者が出ることではない。暴動が起きることでもない。そうではなくて、原発政策が根本的に覆されることだ。今すぐ原発を止めろ、という人が増殖することだ。彼らは事故に寝るヒマもなく対応しながらも、今もそこを必死に守ろうとしている。
不安を煽るということを許さない自警的感情は、すぐに不安であることを許さない、という事態につながっていく。しかし、全員の心をそのように一つに塗り込めていくことは危険である。不安は自然であり、この危機に不安を持たないことは不自然である。不安ではない、ということを強制すれば、その感情はいずれなんらかの形で暴発する。あるいは一人一人の心がこわれ、あるいは集団的な行動を誘発する。
どこかの気持ち悪い物書きの文章。
「風評被害」というのは「悪いことでも異常なこともなく」、情報が不足した時に起こる「正常な人間の社会活動」ということです。だから、風評被害をなくすには、一にも二人も人間が自分を守りたいという本能に適した「正確な情報を提供する」ということなのです。
最近、このような主張が散見される。その理由はきっとこうだ。「政府や東電は原発行政を守るために偽りの安全を強調するに決まっている。だから安全だと強調されればされるほど不安になるのは当然だ」と。
では、何故不安を煽ってはいけないのか。それは、人は不安になると冷静な判断ができなくなり、誤った衝動に駆られるからだ。注意を促すことはよいが、不安を煽ることは絶対にすべきでない。
また、正確かつ十分な情報を人は必ず判断できる、ということもまた大いなる幻想だ。「自分が安心できないのは政府や東電からの情報が不十分だからだ。何故そうだと分かるかと言うと、それは自分が不安でいるからだ。自分が不安でいる理由は、それ以外に考えられない」。このような自己欺瞞の責任転嫁はもう止めてもらいたい。
群衆の行動や心理について詳しい新潟青陵大大学院の碓井真史教授(社会心理学)は「現在、自分が普段と違う心理状態だと自覚する必要がある。一部の極端な行動で多くの人が脅かされる。そういうことを皆が理解し、協力しようとすれば、パニックは避けられる」とアドバイスする。
「落ち着いてください」「安心してください」と言われれば言われるほど落ち着かず不安になるのは、政府や東電が悪いのでない。それはそうなる人の心理が異常を来たしているのだ。「情報や説明が不十分不正確だ」と思うのは、ただそう思い込んでいるからではないだろうか。
東電の武藤栄副社長は25日の会見で「連動地震による津波は想定していなかった」「(貞観地震に対する見解が)定まっていなかった」と釈明。東電の対応に、岡村さんは「原発であれば、どんなリスクも考慮すべきだ。あれだけ指摘したのに、新たな調査結果は出てこなかった。『想定外』とするのは言い訳に過ぎない」と話す。
震災の発生以後、殊に原発事故の発生以後、「1000年に1度の大地震を想定していなかったのは怠慢だ」「これは天災でなく人災だ」という声がよく聞かれる。こういった東電非難の意見が、私にはよく分からない。
もし国や地方自治体、東電以外の企業などがすべて1000年に1度の大地震を想定していたのならば、今回の原発事故は人災と言ってよい。だが、そんなものを想定していた団体はどこにも見当たらない。東電だけを非難するのは全く不公平だろう。
「仙台に巨大津波が押し寄せる恐れがある」と16年前に警告を発していた郷土史家がいる。津波の歴史を研究し、対策の充実を訴えていた仙台市宮城野区の飯沼勇義さん(80)。東日本大震災の大津波を目の当たりにし、「行政も住民も危機管理が不十分だった」と悔やんでいる。
飯沼さんが暮らす宮城野区蒲生のアパートも津波で壊滅的な被害を受けた。身を寄せる避難所で飯沼さんは「歴史は繰り返す。震災を教訓に、津波対策や避難誘導のシステムを早急に構築するべきだ」と語っている。
仙台への大津波を警告していた郷土史家もいたが、その本人のアパートでさえ津波で甚大な被害を受けるほどの、つまり想定以上の大津波だった。
WSJ:東電は甘かった?
米倉氏:甘かったということは絶対にない。要するにあれは国の安全基準というのがあって、それに基づき設計されているはずだ。恐らく、それよりも何十倍の安全ファクターを入れてやっている。東電は全然、甘くはない。
GB: 原発は、すべて、ある程度のリスクはこえられるように設計されてます。ここで留意しておきたいのは、福島の原発は、設計段階で考えられていた最大の災害よりも何段階も上を行く大災害にみまわれたにもかかわらず、一応は、破壊されずに、まだ残っているわけです。
今回の震災では、2万数千人が大津波の犠牲になった。筆舌に尽し難い被害だ。しかしこの被害について、「国や地方自治体が1000年に1度の大津波を想定し、沿岸から数km圏内の住民に立ち退きを命じていれば2万数千人は死なずに済んだ。だからこれは天災でなく人災だ」と非難する人は誰もいない。沿岸に原発は造っちゃいけないが人間は住まわせてもよい、などということにはならないだろう。
しかも今回の原発事故では、将来を悲観して自殺した農家を除いて、まだ誰も死んでいない。これは事実だ。まだ誰も死なせていない原発事故は2万数千人の津波被害と比べて軽微だ、などと言うつもりは毛頭ない。原発事故によって多くの福島県民の生活が破壊されたことも、また事実だ。しかし、東電のみを非難して国や地方自治体を非難しないのはどう考えても不公平だ。
「津波が想定を大きく超えた」という。早い話が、東電の想定が間違っていた。地球や自然への畏敬(いけい)が足りず、結果として津波に負ける原発を海辺で動かし続けた。天災が暴いた人災である
東電に「地球や自然への畏敬(いけい)が足り」なかったのであれば、庁舎ごと津波に飲み込まれた南三陸町なども同然なのではないか。
ここぞとばかりに反原発を唱えてる人へ
警鐘を鳴らしていた(キリッとか知った事言ってるけど
今回の津波は日本最高新記録なんだけど予想できたの?
あ、予想してた?
こんな津波来るって予想できたなら
先に堤防が無い町に警鐘を鳴らしてやってくれ
放射能汚染は元に戻るまで長い年月が掛かるから次元が違う、という意見もあるかも知れない。しかしそれだったら、犠牲者の埋葬は1年も掛からないから大したことはない、ということにならないか。死者はもう二度と元には戻らない。
ただし、「私は東電を許します」という発言は記事に見られないので、そこは印象操作かも知れない。
上記のような東電非難を口にする人は、そもそも原発が嫌いな人が少なくない。また原発嫌いでなくとも、こういった大災害では誰もが怒りや悲しみの捌け口を求める。東電は格好の悪玉候補だった。しかし理不尽不公平な非難は決してよい結果を生まない。
原発事故処理の最前線は如何に苛酷な環境かが報道されても、聞かれるのは「やっぱり東電は酷い企業だ」「国はちゃんと東電を監督しろ」といった非難ばかり。「現場作業員のために、みんなで食料や寝袋を送ろう」なんて応援活動は全く聞こえてこない。
激励慰問の手紙を送ったアメリカの小学生の方が、人としてよほど真っ当だと思うのは私だけだろうか。
危険な状態が続く東京電力福島第一原子力発電所。国民の不安といらだちが募る中、東電や社員への苦情や脅迫、嫌がらせが目立ち始めた。東電は社員の安全を守るため、社員寮の表札から社名を消した。警視庁も警戒を強める。
護憲・反核・薬害問題に対する活動をしている女性・星アカリさんが、インターネットコミュニケーションサイトTwitterで「東京電力社員の子供を全員がボイコットしなさい」などの発言をし、インターネット上で炎上状態となっている。
社員やその家族が身の危険を感じるほどの東電叩き。なのに流石は糞っ垂れのガジェット通信。
果たして現在、国民は政府や東電を正しく冷静に評価することが出来ているだろうか。
こうした政府の対応について、災害時の心理に詳しい広瀬弘忠東京女子大教授(災害・リスク心理学)は、「パニックを恐れて、余計な情報は出さないという心理が透けてみえる」と話した。避難指示の範囲が拡大された理由の説明も遅れた。広瀬氏は「わかること、わからないことをはっきりさせて、説明するのが危機管理の基本だ。大変なことが起きているのは、すでに皆がわかっている。私たちのリスク観はもっと成熟しているのにバカにしている」と批判した。
週刊現代も同様のバカ記事を書いている。
政府や東電の対応や情報公開に問題があることは事実だ。これらの記事は、不適切な対応や情報公開はすべて故意や怠慢によるものだと決め付けている。だが、このような冷酷な減点法こそが不適切だろう。
1000年に1度の大震災が発生した時点で、すでに満点の対応を期待することは出来なくなった。譬えるなら、100点満点のテストをマイナス数十点のハンデ付きで受験するようなものだ。政府と東電さえしっかりしていれば何も問題は起こらなかった、などという仮定は成立しない。
しかも、政府や東電もまた被災者だ。負傷者がより深刻な負傷者を手当てしているようなものなのだから、対応に不備があったからと言って叱責するのは余りに冷酷で不当だ。
今原発内にいる人達は、みんな命懸けです。きっと、報道されてること以上にやってることもあると思うし、報道されてほしいことが報道されてなくてってこともあると思う。私は、東電社員だったことを誇りに思うし、今原発内にいる東電社員の方々を本当に誇りに思います。予想外の津波がきて、原発での事故が起こってしまった。でも誰も悪くない。東電が悪いわけじゃない。誰も悪くないんだよって思う。色々な批判や、文句がある。でも今も寝ずに国民の安全の為に、一生懸命原発内で戦ってる東電作業員がいることを忘れないでほしいと思います
WSJ:当局への不信が国民にみられる。東電の責任問題、情報公開問題はどうか?
米倉氏:一生懸命やっている。考えられていないが、東電自体が被災者だ。従業員が津波に流され、機器も津波に流されているところがある。そういったなかで一生懸命努力をしている。
これらを関係者による身内贔屓などと切り捨てるべきでない。
GB: 〔…〕あと、付け足しておきたいのは、今の状況は、計測するにしても、かなり難しい状態だ、ということです。日本側の行っている計測やサンプリングにいちゃもんつけるのは簡単なことですし、まあ、そうやって、批判的に事態を見つめていくことも、大切だと思います。でも、特に震災の直後は、計測用の計器もままならなかったし、交通網もやられて、原発の周辺へ近づくことも、簡単ではなかったんです。
震災以前において、菅政権を信頼することは明らかに狂気の沙汰だった。それは同意しよう。私も数年前から一貫して、民主党などに投票するのは狂気の沙汰だと考えてきた。しかし震災以後、政府はかなりよくやっている。完璧ではないが、それでも国民から糾弾されるべきほどには酷くはない。
サッカーの試合で観客がすべきことは、「ドリブルで繋げ」「ディフェンスを上げろ」などと指示を飛ばすことでない。そんなことをしても大歓声で掻き消されてしまい、監督や選手たちの耳には届かない。たとえ届いたとしても、観客一人ひとりの指示に従っていたら試合を戦うことは出来なくなる。また、味方の監督や選手たちにブーイングを飛ばすことはもっと間違っている。もし味方のチームに勝って欲しいなら、観客は声援を送るべきだ。それが選手たちの士気を高め、勝利を引き寄せることになる。
現在の日本には、政権交代どころか、与野党が国会で議論している余裕すらない。国民はもっと政府を信頼すべきだ。政府や東電を信頼し、激励し、慰藉すべきだ。それが問題解決の何よりの手助けとなるだろう。
また、マスメディアは徒に政府への不信や不満を煽ってはならない。政府や東電の説明に不十分なところがあれば、その意を酌んで誤解のないよう報道しなければならない。政府や東電を叩いて足れりとするような報道は厳に慎むべきだ。
政府は日本の政府であり、東電は日本の電力企業だ。日本が一つになって頑張るために、今は政府や東電とも一つになって頑張ることが求められている。文句があるなら試合が終わってから伝えればいい。
■「不謹慎」を発しちゃうのは、無礼なマイノリティを認められない心の狭さ?
今回の震災のようなときだと、ブラックジョーク(あるいはbad joke)発言をすることに対して、「今は有事なんだから貴様の発言は不謹慎だ!」などと言いたくなる人はそれなりにいるのだろう。
■悪いジョークを言うような”無礼な個性”を、非日常でも認められるかどうか
多少礼を失したキツ目の物言いを目にしたとき、日常でなら我慢できていても、こういう時には沸点が低くなり、ついカッとなって表面に出てきてしまう。
「群れて同じ感覚を共有しなければ、そうじゃない奴はオカシイ→がんばるときは皆で猪突猛進、泣くときは皆で泣こう」
ってのは、日本人多かれ少なかれが持ち合わせている(良い)メンタリティなのだろうけど、有事になるとマイノリティを認めない (or スルーできない)ってのは、要は、多様性を心の底から認めていない証拠である。
ネトウヨというひとくくりにする言い方はできるだけしたくないのだけど。他にいい言い方が思いつかない。
俺の祖母は特定アジアではないけど、共産圏だった国の出身だった。父方と上手く行かなくて、他にも様々な原因があり家庭状況は最悪だった。
近所からのバッシングも酷かった。俺が生まれた80年代、クソ田舎ではまだまだ偏見があり、陰湿な村八分や非難があった。町内会でもPTAでも。
祖父は立派な人だった。祖父自身、外国人と結婚したことで散々な目にあったと聞いた。でも祖父は色眼鏡で世界を見ないように、ありったけの行動力と知識で知性というものを教えてくれた。あんなにクソみたいな家庭状況で、なんとかまともに成人できたのは祖父のおかげだ。
在日外国人問題。差別の当事者を直に見ていた俺は、ずっとずれを感じている。日本人らしいメンタリティが足りないと指摘されることも多々ある。
韓国の人が「日本を侵略しようと」土地を買い占めたり生態系を破壊して自国の植物を植えたり威張り散らしたりするのは絶対に認めたくないし、こういう連中がいなくならない限り彼らの外国人参政権を認めたくない。けど、そうではない人までいっしょくたにしてバッシングして、特定アジアの人と仲良くしただけでどんな人でも「非国民」と煽り、村八分にする空気は、あのクソ田舎の陰湿さと何もかわらねえ。ネトウヨの言ってる事に同感できる部分もあるけど、殆どは陰湿さから燃え盛る炎だ。俺はそれに生理的に嫌悪感を感じてしまう。
しかし、ネットや職場でそんな自分の思いを強くいえない。ネトウヨ的要素を持つ人は何処にでもいて、うっかり彼らの導火線に火をつけると、それまでなんでもなかった平穏なコミュニティが炎上してしまうのを何度も経験したからだ。ことなかれ主義を後押しするつもりはないが、関係ない人達まで陰湿さから燃え盛る炎に巻き込んでしまうのはもうごめんだ。
と思っていたのだが、うっかり前原問題を振られて導火線に火をつけてしまったよ。ああ、俺には本当に、日本人らしいメンタリティが足りない。
私は卒研のテーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年間自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せでした。ですので、後輩にもぜひ好きなテーマで卒研をして欲しいと思っていました。
私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいました。しかし、後輩に「今の自分の研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました。
どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした。
そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOのwikipediaの考察がいかに素晴らしかったか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました。
また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです。
これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)
他にもネットを探すとユニークなテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手と結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります。
卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです。
たしかに、「好きだからテーマにしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です。研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。
もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。
論文とは「問い」です。一般的に論文のテーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。
「ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなぜラノベが好きか」ということになるのでしょうか?
これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。
「「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」
つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです。
そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです。
さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義」ですが、混沌としているようですね。
程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性(20~30代)でしょうから。(成人男性が青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)
また、文学・物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念を引用することが結果を導く前から既に必要となります。
例えば、物語的に観れば大塚英志が提唱した「物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。
ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。
オタクたちのメンタリティには、教養主義や文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。
ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワード(カテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。
ところで、先ほどラノベの定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義の文学に「SF」がありますね。
サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました。
小谷真理の『女性状無意識』に対する松岡の批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。
最初にハーバード大学のフェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネーシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノガイネーシスはそれにもとづいて提案した新概念で、
父権的な社会が蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。
長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会の価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世の魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動やセクハラ問題が噴出してきた。
では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性的無意識を象徴するガイネーシスになるのではないかと見た。
それにしてもいつのまに、女性こそが文学の可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。
まずはエレイン・ショーターが父権的文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFとフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した。
(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。
しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFとフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。
ということで、ここでは「外部の他者」たる女性と文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとではないのではないでしょうか?
では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます。
そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は
「【デリダとは】仏哲学者。20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学の呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」
とツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))
デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪の彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要ではないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーのニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)
ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。
女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである。
女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性の本質は存在せず」、「女性の真理は存在しない」。
女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性の本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分が存在しないということを知っているということである)。
実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニストの女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性が男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)
ニーチェの『善悪の彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。
真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。
そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか。
デリダは女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした。
つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから、女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。
見事にややこしいこの解釈から、女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。
ニーチェは芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。
であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)
十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉を発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレートな表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる
という指摘もあります。
例えば、オタクにとっての現実における外部性にインターネットがあります。
○オタク男性であろうツイッターユーザーのアイコンが、イラストやアニメの美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性を無意識に象徴しているのではないでしょうか。
また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユングの提唱したアニマ(男性の女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。
このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性が
先程のツイッターのイラストやアニメの美少女アイコンを無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?
以上より「ラノベ読者はなぜラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ、家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです。
○ラノベの本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?
具体的に言うと、会社が先に潰れるよね。
なるほど確かに.
あとは日本人の特性からいってそこまで天晴なグータラぶりを発揮できるかどうか.
完全サボタージュになるとどうしようもないが,
ある程度のことはゆるゆるやる人たちだとすると,どうなるだろう.
実際問題として何割の人が真面目なら企業は成立するのだろう.
IT化やアウトソーシングが進んだら,日本の大企業なんて2割の優秀な人がいれば,
残り8割の人の主たる業務は「優秀な2割の邪魔をせず黙っておくこと」だとすると,どうなるだろう.
2割を選出するための多様性としての8割.
1億円の宝くじ1枚を当てるために買われた外れクジ999枚みたいな.
outputは天と地でも,いずれも買値は同じ300円.
もちろん8割にただ飯食わせることに,優秀な2割が耐えられるかという話があるが,
ここもまた日本人のメンタリティ的にふんばれてしまいそうな気が.
まぁ2割だけで戦う無理のある組織は,
いずれそうでないところに負けて,淘汰が進むのかな.
そして「そうでないところ」ってのは多分,外資なんでしょうねぇ.
俺はメンタリティがかなり女性よりと言われることがあるけど、一応立派な男なので俺の経験を少し。
うちは付き合って二年二か月になりますが、セックスがあったのは付き合い始めの半年ほどで、それ以降の1年半は受け入れてもらえません。
どちらも遅咲きで、セックスという意味では互いがほぼ初めての相手と言っていいと思います。
最初の半年で10回弱ほどセックスしましたが、それ以降はしていません。
というのも、経済的事情から、彼女の妊娠を僕がどうしてもおそれてしまうし、彼女は生理周期が不順でした。
そうなるとセックス後のしばらくはお互い少し精神的に重荷を抱えて過ごす日々でした。
彼女の排卵周期を予測して、確実に安全だろうと思えた日にだけ、ちゃんとゴムをつけてしていても、やっぱりそんな気分になります。
そこで僕がもっとどっしり構えていればよかったのでしょうが、過去の経験の少なさから、そうもできず、不安を伝えてしまっていました。
また、僕からしても、セックスしたあとに彼女の生理を望むっていう矛盾がなんとなく不愉快でした。
本来ならセックスしたあとに望むことは妊娠だと思うし、なんだか不自然で不健全だなって気持ちが正直ありました。
結局ある日、もう結婚するまでしない、と言われてしまいました。
僕は彼女が大好きで、結婚したい気持ちでいたので、今はセックスができなくても構わないと思っています。
それで1年半以上経過しています。
これでも良好な関係(と私は思っているのですが)が築けているので、心配する必要はないと思います。
・将来を考える
やはり、結婚する気持ちがお互いにあって、結婚するまでしない、という話だから納得している部分があります。
将来の結婚をまったく考えていないカップルでは、セックスは今現在の重要事項かもしれないですし、拒否した上での関係は難しいかもしれません。
彼と将来についての話をしてみてはいかがでしょうか。
・拒否するのは行為だけと伝える
なので、我々がセックスしていた付き合い初期のことですが、セックスを拒否されたときは、
セックスができないことよりも、彼女に受け入れてもらえないことに僕はショックを受けました。
そのショックさが問題をややこしくするので、拒否するのは彼の気持ちではなくて今の行為なんだ、と伝えることで少しはショックはやわらぎます。
「したいって言ってくれて嬉しいけど、生理きそうでおなか痛いの。ごめんね。好きだよ」
そんな言い方なら僕だったらショックは少しも感じずに、むしろ彼女の体を心配できます。
「んー、きょうはちょっと…」では問題が大きくなるかもですね。
・できることはしてあげたほうが無難
これはすべきだ、とは言いません。
しかし、たまには体を触らせてくれたり、射精させてくれたりすると、とても心は落ち着きます。
しなきゃだめ、と言っているわけではないですし、気乗りしないことをする必要はありません。
ただ僕は、彼女と一緒にいることで、射精を焦らされることに慣れていますが、他の男は違うかもしれません。
濃厚なスキンシップをしたあとで射精できなければ怒る男性もいるかと思います。
僕の場合は、彼女の性器を舐めた後、もう無理ーといわれればそこで終わりますし、射精しなくても満足しています。
そのあたりでしょうか。
ただ、はっきり意思を伝えられないのは女の子としては仕方ないのかもしれませんが、そんなことを無理して受け入れる必要はないですし、
曖昧な態度をとり続ける元増田の行いも、はっきりしていなくて悪いです。
相手に誠実に、言うべきことはきちっと言うべきです。
なので、話し合ってください。
その結果、セックスなしではどうしても無理、別れる、といわれたら別れたほうがたぶん幸せです。
それでも別れたくないのなら、したくないセックスをしてセフレみたいになっても付き合いたいのか? って考えればいいと思います。
セックスはコミュニケーションのひとつで、ふたりでするものです。
僕だったら、彼女がしたくないのにしたって、幸せじゃないと思いますから。
男にもよると思いますが、セックスの拒否ははっきり言っていいし、好きなら何年だって待ちます。
だから、自分に正直になって、自分を大切にして、幸せになってくださいね。
ただひとつだけ。
浮気は絶対だめだと思っているので、素人女性と関係をもつことはしないです。
しかし、どうしても我慢できないときに、こっそり風俗店を利用することはあります。
本末転倒かもしれませんが。
逆に、お互いが納得した上で円満にセックスしないことにしても彼氏がこっそり風俗を利用していると知った場合、どう思いますか?
僕としてはそこを教えてくれると助かります。
上記のこと、すべて僕のことなので、あてはまる部分のある人もいれば、違うという人もいるかと思います。
まあ、一意見として聞いてください。
大衆を、「〇〇が安くなる」「〇〇をタダにする」と即物的なプランで釣っておいて、
「今までこれができなかったのは既得権益に縛られてたから」と、あたかも自分を改革者のように装って、
まともな人が実現性や継続性が皆無な点を指摘すると、「抵抗勢力だ!改革の敵だ!」と吊るし上げ、
いざ実行する段になって本当に実現性も継続性もないのがわかると、負担や責任を他人に転嫁して、
「改革に失敗はつきもの」なんてことを平然と言ってのける「自称・坂本龍馬」は、全員死ねばいいと思うよ。
つーか、こんな輩に騙され続ける日本の大衆(の一部)も死ねばいいと思うよ。
ガンダムって、日本でしか産まれ得なかった作品だと思いますし、そういう意味ではガンダムと日本人っていろんな切り口があって面白い題材だと思うんですよね。
しかし、これはひどいです。この人、ガンダムも日本人も知らないのでは?
物語上の架空の設定から連想される過去の事象をこじつけて、「あれって歴史上のこれに似てるよね」と言っているだけ。大体、ファーストガンダムが
第二次世界大戦を参考にしてるなんてガンダムファンには常識だし、今更言われてもねぇ。
日本人論と言えるものもほとんどなく、具体的に説明される人物は二人居ますが...
富野氏がシャアと似たメンタリティを持つのは今更指摘するほどの事でもないし、小沢一郎とシャアのエピソードの似てるとこだけピックアップして並
べる事になんの意味があるのか分かりません。ほとんど飲み屋の与太話レベル(赤い彗星のオザワにはちょっと笑いましたが)。
さらに、ほとんどファーストの話しか出てこない...どころか、非常に断片的なキーワードだけで、ファーストの話すらほとんど出てこないというか....
ガンダムを知る人にも、知らない人にも全く薦められない本ですね。これを読んでも、ガンダムも日本人も、その関連性もさっぱり分からないです。
よくわかった。
ただ俺は最後にこうも書いている。
ただ、そういう家柄を国家の補助のもと税金を大量投入して残す必要があるのか? という論議は、またどんどんすればいいと思う。
だから俺は天皇制云々はシステムの問題としていろいろ議論してもらえばいいとして、尊敬の念を忘れてはならないと言っているのだ。
天皇を崇めている人の神経がわからない。なんでただの「人」をああも崇拝できるのか。神様だと思ってるの?いちいち敬語とかつけて、あほみたい。
こういう主張から天皇制廃止に飛躍しているのだと思ったから、俺はもう少し他者に敬意を払うべき、ということを言いたかったのだ。
元増田の意図を取り違えていたのだから、元増田の求めるものに対しては結果的にずれた主張になってしまったのだと思う。
これはねえ。
難しいな。
確かに言っていること自体はおかしくない、間違ってないとは思う。
しかし、そんなに色濃くないとは言え日本には儒教精神のバックボーンがあるし、年長者を敬うべきとか、そういう慣習がある。
その点からすると、増田の言っていることは、間違ってはいなくとも、広く日本で受け入れられる考えか、と言えばそうではないように思う。
というか、俺を含む人間で、受け入れられないと思う層は必ずいる。
天皇は色々仕事をする→尊敬されるべき→天皇制っていいね→(天皇は色々仕事をする……
↑このサイクルができてるわけでしょう?このサイクルを除けば実際、天皇制を支えるものなんて迷信によって支えられてきた歴史の「過去」しかない。
そのサイクルが尊敬を生み出す、と言いたいようだが、それだけでは絶対にない。
歴史の「過去」しかない、と言っているがその歴史こそがもっとも重く、最も尊いものだと俺は思う。
つまりまあ、ちょっと飛躍するけど、功労者って言われて何年も働いてないのに高額契約する野球選手もいるでしょう。
すっかり変わってしまった元彼女ではない、かつての優しかった彼女のことばっか思い出して行動するやつもいるでしょう。
そういう感じで、いま働かなくなったから何十年かですぐさま尊敬に値しない一族になるとは俺は思っていない。
歴史上の偉人の末裔は尊敬していいと思うし、日本で一番高貴な血筋を保っているのだ。
他国の歴史では権力構造が変わるときに前王室を虐殺して、自らが王になることが多いのに対し、日本ではそのようなことは行われなかったのだ。
日本の権力者は天皇に自らを高官に任命させる、または天皇の子を娘に産ませる、それしか考えていない。
天皇家を虐殺して自ら天皇になろう、という発想のものがあらわれたっておかしくはないのに、だ。
あとついでに全然論理的じゃないことも書いて申し訳ないけど、俺は権威主義なんだ。
だから現在も続く徳川家の末裔だって、いまや民間人だけど俺は尊敬する。
こういう考えの人も、少なくはないと思う。
学会の開会式に皇太子来るって聞いたら、見にいきたくなるじゃん? というか、行ったしね。
論理的じゃないことをさらに書いて申し訳ないけど、天皇家は問答無用で、制度によらず、尊敬すべき家柄だと俺は思っている。
ただ、税金をどの程度使うか? 大臣の任命権などの社会的役割をどう扱うか? などの天皇制については、廃止を含めて議論したっていいと思う。
しかし、廃止するのであっても、家や伝統の維持のために、小額の補助を出すことくらいは、認められてもいいんじゃないかと思っている。
ただでさえアイデンティティを失った日本人が、これ以上失う必要はないのだから。
元増田の言いたいこととかみ合う部分は最後の三行だけになって申し訳ないです。
アイコさん障害児っぽい風貌だけど。
ガンダムって、日本でしか産まれ得なかった作品だと思いますし、そういう意味ではガンダムと日本人っていろんな切り口があって面白い題材だと思うんですよね。
しかし、これはひどいです。この人、ガンダムも日本人も知らないのでは?
物語上の架空の設定から連想される過去の事象をこじつけて、「あれって歴史上のこれに似てるよね」と言っているだけ。大体、ファーストガンダムが
第二次世界大戦を参考にしてるなんてガンダムファンには常識だし、今更言われてもねぇ。
日本人論と言えるものもほとんどなく、具体的に説明される人物は二人居ますが...
富野氏がシャアと似たメンタリティを持つのは今更指摘するほどの事でもないし、小沢一郎とシャアのエピソードの似てるとこだけピックアップして並
べる事になんの意味があるのか分かりません。ほとんど飲み屋の与太話レベル(赤い彗星のオザワにはちょっと笑いましたが)。
さらに、ほとんどファーストの話しか出てこない...どころか、非常に断片的なキーワードだけで、ファーストの話すらほとんど出てこないというか....
ガンダムを知る人にも、知らない人にも全く薦められない本ですね。これを読んでも、ガンダムも日本人も、その関連性もさっぱり分からないです。
鬱病が治るまでってあって、
http://hamusoku.com/archives/3803914.html
まあまあ、俺も似たような足跡を辿ってきたのだけど、カウンセリングを受けて自分を受け入れるという過程はやっぱり必要なんだろうか。
なんだかんだでダラダラと7年間薬を飲んでいい加減に生きてきたら直ってしまった。そこにこのまとめの中にある自分を受け入れるという過程はなかったように思う。
なので、夜は良く眠れるし、仕事もそこそこやる気を持って取り組めてる。ただメンタリティはうつのときのままで、俺いらない子みたいに思ってる。
結局のところ仕事で家族や昔からの友達からも離れて、仕事以外ではほぼ自分が必要とされない環境がとても心地よくて、なんとかかんとか生きてる感じ。
仕事だけなら俺でないとできないことなんていうのは殆どないので気楽でいい。いないと困るなんて重くてこっちが困る。
これまでうつが直った人で俺のように薬だけ飲んでて、心情的な変化は特にないって人はいるんだろうか。いたとしてどのくらいの割合か。
あとうつになったことで何かあったかというと、7年間外部の情報と遮断され、本来ならそのくらいの年でしてた仕事とか、友達付き合いとか、彼女作ったりで随分してなかったことがあったなあということ。思えば損失ばかりで、無駄に過ごした感じがとても強い。
良かったことといえば、自分があまり無理できない人間であることが分ったこと、それまで尖ってて、色んなことにこだわりがあったのが、逆に色んなものがどうでも良くなって気楽になったことかと。それでもそうなるのに7年は長過ぎる。もし昔に戻れるならあの病気がなかった7年前からやり直したい。
【北朝鮮砲撃】朝鮮学校無償化の適用「重大な決断する」 高木文科相、見直し言及 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/life/education/101124/edc1011241031002-n1.htm
リベラルな「普遍的人権」の信念もなければ、ナショナリズム的な「国益を守る」信念もない。
ただ右往左往した挙句に、最悪のタイミングで最悪の決定をする。
人気取りのつもりだろうが、見え見え過ぎて逆に人気を落とす。
思想の左右を問わず、「もうこの政権ダメだ」と思わされる稀有な例。
自民党、補正予算案採決前の問責提出見送り 民主党幹部「北朝鮮砲撃は党にとって神風」
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00188466.html
隣国の戦争も、兵士や民間人の死も、党利党略のためなら赤飯炊いてお祝いするようなメンタリティ。
政権維持のためなら、人命など羽毛より軽い、信念などちり紙くらい簡単に捨てられる。
この辺の感覚は、千葉景子が信念を打ち捨てて死刑執行した事例にも通じる。
この政権は、平気で人権や人命を踏みにじることができる政権だということだ。
しかもそれが、何の信念によるものでもなく、その場の空気によって成されてしまう。
今回はその矛先が在日朝鮮人だったが、いつ日本国民に矛先が向いてもおかしくない。