はてなキーワード: ウンチクとは
https://blog.8arrow.org/entry/2019/09/19/080000
をぼんやり読んでいて、SI企業に勤めていて、色んな案件があり、その中に当然OSSがあるわけだ。
で、我々はSIerはソースもロクに読まず(英語は読めないのでマニュアルも読めない)ググり、やり方を試行錯誤するわけだ。なお、仕様書がないのを不満に思っているお年を召した人もいるけど、まぁそれは別の話
あと、俺詳しいぜ系の人でもOSSにソース書いてるなんて話聞いた事ないなぁ。評論とかウンチクはめっちゃするけど。
機能がないからと文句は言うが、プルリクは出す気はないし、当然ソースを書く気も工数もない。っていうか、GitHubへの投稿なんて制限されている。
SFマニアが流行ってるオタクコンテンツに特攻して噛みつくたびに炎上するネット世界。僕ら世代には「またかよ!」って感じなんですが、世代交代による認識の変化で、SF警察がなにに怒ってるのか? とか、あれもこれもSFなのに、なんでSF衰退とか言っちゃってんのか?
とか理解不能に陥ってる方も続出している模様。
そんなわけで、過去を知る者として、ちょっとまとめてみました。
ただ、だいぶ背景をさっぴいてます。
受験戦争の加熱とから、今よりさらにひどい男性中心主義社会である昭和日本での負け組男子化への怯えとか。
○
今でもその名残はありますが、かつて、オタクというものはヒエラルキーによる特権意識を良しとする人の集まりでした。
全員ではないとは思うけど、なんかそう言う感じのが台頭してました。
『オタクの教養』をたっぷり学んだオタクエリートがクールで良しとされたのですが、これもまた、今でもその名残はあります。
クールジャパンとかが、その流れですね。
どこの誰とは言わねぇでおいてやりますが、京アニ事件の時に、どっかの大学教授が書いた懐古エッセイみたいな記事。
今時の人たちからは謎扱いされてましたが、あれが、あの世代の『オタクエリート』意識のあらわれです。
彼だけの特殊な思想ではないことは「記事の内容には賛同できる」とか言ってる人が、ちらほらいたことから分かりますね?
今でも名残はありますね?
○
ところで
『オタクエリート』
政治家ですらオタクに媚びる今では、下手したら生死に関わることだとまでは信じられないかもしれませんが、昔は、オタクであること自体が恥でした。
今でも自嘲ネタではあるし、からかわれることもあるとは思いますが、かつて、「オタク」と呼ばれることは、社会的死や、学校や家庭でイジメの対象になることを意味したのです。
ググれば怨嗟の声で溢れているとは思うので割愛しますが、オウム事件や宮崎事件は「オタク」を犯罪者予備軍として世間に認知させる結果を生みました。
当時のオタク的趣味を持つ人たちは、自分はオタクではないことを証明するのに躍起になっていました。
あるいはオタクではない人のフリをして、その行為を自嘲気味に「擬態」などと呼んでおりました。
今でも名残はありますが、生活や生死が関わってるので真剣度が段違いです。
そこで『教養』の出番です。
○
オタクにとっての『教養』とは、自分が頭のいい人間であること、社会にとって有益な優れた人間であること、犯罪者予備軍=オタク以外のなにかであること、それを証明するためのものでした。
と言う事にしかなりえず、オタクであることを認めるか、認めなくても勝手にレッテル貼りさせられました。
しかしながら、そうすると犯罪者予備軍の一員にさせられてしまいます。
自分がオタクであることを認めながら、『ただのオタク』以上の上位の存在である事を示す概念を必要としました。
それが、『オタクエリート』です。
○
世間ではいっしょくたにされる『オタク』カテゴリー内での優位的立場を築きたいオタクエリートにとって、自分を相対的に上位に位置付けてくれる下位の『オタク』たち、それは「フィギュア萌え族」とすら揶揄された二次元美少女オタクでした。
……今でも名残はありますね?
誰とは言わないが…と言うよりも、京アニ事件の記事でアニを持ち上げる時に使うのは
『萌え』ではないこと。
『萌え』でないこと。
○
そして、そんな知能の少なそうな動物的オタクたちを堂々と見下し、自分はあいつらとは違うと胸を張りたいオタクエリートのための教養のひとつが
だったのです。
なにしろ動機がそれですから、あちこち弱そうな敵を見つけては出張って「批評」したりweb日記に書いたり、得意げにウンチクを吹聴しまくり、相手や相手の趣味を貶して、論破論破とサディスティックな優越感に浸る日々を送ることになります。
やがてハードSFは衰退し、論拠としているものの権威が失墜してしまいますが、それでもやることは同じでした。
そうでしょう、そうでしょう。
いい迷惑なのが、ただのSF小説好きや、そんな歪んだ時代を知らない新しい読者です。
彼らは
あれもあれもSFだ。
と言います。
残念。
のですよ。創元やハヤカワから出ていて、各種映画化されている大家のディックはSFには入らないのです。
彼らの概念では、SFにはなんか厳格な作法があり、その作法を守るものだけがSFなのです。
どんな作法かって?
……知るか!
○
彼らSF警察が、ことあるごとにグチグチと高圧的かつ上から目線どウンチクを語っては、嫌われまくってるのは見ての通りです。
「SF衰退はSF警察のせいじゃない」、それは、あるいはその通りかもしれません。
しかしまあ、そのSF警察が、現在進行形で「彼らが信奉するSF」の衰退や、「正しい科学知識」への嫌悪を植えつける大きな要因になっているのは、その嫌われっぷりを見れば一目瞭然です。
……とは言え、です。
最近隣町に続々と新しいカフェがオープンしている。何だかみんな似たような感じで、小さな店に少ない座席。下手をすればカウンターでの立ち飲みを前提として、店主と顔を付き合わせてコーヒーを飲まなければならないようなお店。
たぶんこういうカフェを開く人たちはコーヒーにすごいこだわりがあって、どんな豆をどんな風に焙煎して、どう淹れれば一番美味しいかを研究したうえで、お客さんの反応がすぐ見える小さなお店を開いたんだろうと思う。(単に広い店は賃貸料が高いという理由かも知れないけど。)
だけど、そんなにコーヒーの味の違いにうるさい人って沢山いるもんなんだろうか。少なくとも私はあまりコーヒーの味の違いにうるさくない。ドトールやマクドナルドの安いコーヒーの味に特に不満を感じたことはないし、もっと高い店でコーヒーを飲むときも座席の広さや居心地の良さを重視しているだけで、「いや~、やっぱりこの店のコーヒーは美味しいなぁ」と思って飲んでいるわけではない。
どっちかといえばやたらとこだわったコーヒーを店主の目の前で飲んで、もっともらしい感想を述べなければいけないようなカフェは面倒くさいとしか思えない。単純に「美味しいですね~」ぐらい言っておけば許されるなら良いけど、「そうでしょ?このコーヒーは、豆が○○で××で焙煎して…」とかウンチクを聞かされるなら二度と行きたくない。
こういうカフェを開くのが一種の自己実現だと思って店を始める人が結構いるんだろうと思うけど、そのうち何軒が長続きするのかなぁ…と意地悪な目で見てしまう。もともと評判の高い喫茶店で働いていて、常連だった客がついて来てくれるとかなら良いけど、単なる憧れで始めて持つもんだろうか。
だいたいカフェとか喫茶店に「美味しいコーヒーが飲みたい」だけの目的でくる人はそんなにいないと思う。「お茶を飲みながらおしゃべりしたい」とか「美味しいスイーツと一緒にコーヒーを飲んでまったり過ごしたい」とかそういう客を呼び込まないと商売は成り立たないんじゃないかと思う。
私が一番よく行くカフェは最寄り駅の構内にあって、味は可もなく不可もなく…という感じだけど、ちょっとした買い物やお出かけの前に一杯コーヒーを飲んでくつろぎたいときにちょうどいい。近所なので顔を覚えられているかも知れないけど、いちいち常連扱いして来ないところが気楽で良い。
NHKの番組で、チコちゃんに叱られるっていうウンチク番組があるのやで
あらすじ知ってても楽しかった
説明やうんちくがクドいSFこそ映画化・アニメ化すべきだと強く感じた
なんとなくのあらすじは知ってた
でもあらすじ知っててもそれなりに飽きずに見させられたのはすごい
ところどころでマットデイモンがディカプリオに見えた
産業でも書いたけど、SF小説ってたいてい説明とかウンチクとか作者の自慰的文章が大半占めててうんざりさせられることが多いけど、
ビジュアル化するとそういうの一切なしでスパーンと頭に入ってくるからホント楽
ラノベなんて原作がそのままビジュアルとして読んでるときに脳内再生されるものがほとんどだから改めてアニメ化されてもあんまりってのが多いけど、
SFはピッタリだなあ
それとも今更やってもお金にならないってのが大きいのかしら
たいてい有名なSFは一度手に取るけど翻訳の読みづらさとかSF小説ならではの説明過多で挫折するんだよなあ
それがSFだと言われたらまあそうなんだろうけど