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はてなキーワード: お断りとは

2015-09-22

好きな人がいる

二人で飲みに行くこともある友達

彼が仲間内合コンに誘われるのをやんわりと断るのをみてるうちに、そうかそのうちこの人にも彼女ができたり結婚したりするんだなぁ…彼女ができたら今までみたいに気軽に二人で飲みに行ったりできなくなるなぁ…と思って、半年片思いしていてなんかいろいろ疲れていたかお酒の力も借りてなんとか告白した。

最初から断られると思ってたし、断られても今まで通りとはいかなくても他の友達みんなの前では普通に友達でいたいとも言った。

はっきりお断りとも了解とも言われなかったけど、そのあと、誘われて二人で映画とかテーマパークなんかに行ったり、特に理由もないのにお茶代とか少額だとおごってくれたり…明らかに扱いが友達から変わってしまって、なんか、違う違うそうじゃないそうじゃない期待しちゃうからやめてって思ってしまう。

普通なら良い方向で考えてくれてるんだって喜ぶようなところなんだろうけど、学生時代職場でも影で笑われてたり、通りすがり若い子に指差し馬鹿にされたりもしたこともあるし、誰かに恋愛とかの対象に見られることが客観的に見て有り得ない感じの容姿だし、前向きな展開が考えられない。

誘われるたびに、周りの人に、あの男はあんな女とよく平気で一緒に過ごせるな、とか思われてたらどうしようとか、そういうことが気になってなんか純粋に喜べないし、彼の知り合いに見られたらどうしようとか思うと人の多いとことかもつい離れて歩いてしまうし、そもそも私なんかといて何が楽しいんだろうどうせ周りに笑われるのにとかそういうことばっかり考えてる。

万が一うまくいっても、多分、カップルみたいなことができない。今、並んで隣歩くのすらガッチガチに緊張してる。お店で隣あって座ってる時なんかも、全然相手の方向けなくて顔も見れないし、真向かいに座ってても視線が上げれないし、普段も相手の顔見ると視線があうから酔っ払って頭ふわふわしてる時でもないと顔とか見れない。酔っ払ってても視線があった時はどうしていいかわかんなくてへらへら笑って俯いてしまうんだけど。なんであんなに普通に他人の顔見てられるんだろう。リア充ってみんなああなのか?

いろいろ、どういうつもりなの?って聞きたいことがたくさんある。でも聞けない。

今くらいの関係が私なんかにはちょうど良いのかもしれないけど、でもすごくもやもやする。

間内ニラヲチしてるとか?誘われて舞い上がってるのを笑ってるとか?さすがにそういう人たちじゃないって信じたいけど、わかんないよね…

もうすぐ彼の誕生日だけど、お祝いのメールを送ってもいいのかとか、何かあげたりしてもいいのかとか…友達の頃にはとくにそういうのしてこなかったから、お祝い言いたい気持ちはあるけどそういうの異性の友達同士でやるの普通なのかな、とかなんかもう。

告白なんかしないで、諦められるまで距離おいとけば良かったのになあって今更思っても遅いんだけど、彼のこと考える時にはいつも後悔してる。

明日お土産もらうついでに会う約してるけど、最近は会う前はだいたいこんな感じでうじうじしてる。我ながら気持ち悪い

2015-09-15

http://anond.hatelabo.jp/20150915212226

紹介させてくれと来る、え!?タダで?

「幣ブログ反社会的なので・・」と丁重お断りしている

Google Adsense? 遠の昔にごきげんを損ねて出禁を喰らった

1PV0.3円かぁ、、遊んでいるだけでチャリチャリン落ちてくるってうらやましい

増田にこんなこと書いているから、ネタ更新しないのだが

2015-09-09

自分オタクだけどオタ男は絶対に御免だ

冴えないけど根は良い奴という化けの皮はもはや完全に剥がれ

ネットで女叩きをしている犯罪者予備軍のクズというイメージしかなくなった

勿論向こうだってお断りなんだろうし

レベル釣り合いが取れてるとかいって押し付けようとするのはやめて欲しい

既読無視 or お断り返信

そこまで決意を固めてはいるわけではないけど転職サイトにいくつか登録してる。

その中に Wantedly ってサービスがあるんだけど、企業担当者からたまにスカウトという名前のお誘いがやってくる。

ここは他の転職サイトとは違ってて、転職する前に「一度オフィスに遊びに来ませんか」とか「情報交換しませんか」とかの

まずは会ってみませんか、というメッセージがくる。

しかFacebook連携して使うから企業担当者実名メッセージがくる。

スカウトがきた企業の中にはもちろん興味がある企業もあれば、あまり興味のない企業もある。

興味のない企業(でも担当の人は実名)のメッセージ場合無視すればいい気もするけど

相手の名前わかるし(Facebook検索すれば顔とか共通の友人とかも見つかる)、無視するのは申し訳ない気もする。

でも返信しても断りのメッセージなんか わざわざ送ってくんなよとか思われる気もする。

こうやって悩みつつ実際は無視してることになってる。

2015-09-08

ていうか若いだって

若さ理由に寄ってくる男なんてお断りってなりそうなものだが…

年を食うと売れなくなるんだから若いうちに結婚しろしろって言われても

年をとっても私を愛してくれる男の方がいいです、無理なら一生独身でいいですって思うよ

2015-09-07

http://anond.hatelabo.jp/20150907075922

えーと。すみませんが、何にそんなにお怒りなのかよくわからないです。

もちろん病気の種類とか症状による話ですが、現実的に考えて、病気持ちで共働きまでならともかく、その上家育児全て負担というのは無理です。市場原理以前に体力的にきつい。

病気持ちを嫁に貰ってやるんだから家事育児原則そっちでやってくれ」という殿方はこちらでお断りせざるをえません。お金持ちでもです。そういう発言のある方は病気持ちの嫁のためにお金を出して家事育児外注しようとは考えないと思われますので億万長者でも無理です。

で、そういう方々とは私はいわばニーズが違うわけで、こちらとしては病気を盾にそういった要求を立てられてもすり合わせの余地がないので、お互いにアウトオブ眼中というやつで済む話なのではないでしょうか。

「そういう要求の男が多数派なの、それが現実なの!」ということかもしれませんが、その現実とは厳密には多数派の殿方のニーズであって、市場揶揄されてはいますが「多数のニーズを掴んだものが勝つ」という商業上のそれと違って、婚活市場ではマッチングの程度が高いペアが最も満足を得る=勝つのであろうと思われますから大勢から叩かれようが炎上しようが、具体的な名前や顔を持たない多数派ニーズに構うのはむしろ悪手と判断せざるを得ません。

「俺ならこいつは選ばねえ」「そうですか、残念ですね。貴殿の益々のご活躍をお祈り申し上げます」でおしまいです。

2015-07-26

4つ設置された小便器に対する初手の考察

前提条件:「小用を足しているとき隣に人が来ると落ち着かない。ただし万人がそうであるとは限らない」「位置取りの最適については、自分だけを考察対象としない」

状  況:誰も居ない便所で、右が入り口、上が壁、左が窓として奥から「○○○□」と便器が並んでいる。□は障害者用の手すりが設けてあり少し用を足しにくい。

考  察一定割合で人が来るとして、この場合最適の位置取りとはどこか?……これを、我が職場における実践と観察を素材に考察してみた。

第一段階「初手」

「1○○□」:(1が一人目として自分が入った場所である。)この位置取りの優れた点は、次の自分と同じような入場者にも「1○2□」or「1○○2」と二通りの選択を用意している点である。つまり「優しいポジション」といえる。しかしながら、逆に言えば選択余地がある時点で弱い。次に入った人間ベストポジションを取るとは限らないかである。この点は後で考察する。

「〇1〇□」又は「○○1□」:これは一見等価ポジションだが、相手に残す選択肢が「○」か「□」かの点で大きく異なる。相手に「□」しかさないのは、感心しない。従って、左は考察対象としない。右は、左右が広く空いて非常にフリーな感じであり、また、相手にAのポジションを与える点でとてもよく見える。「バランスポジション」として多くの利用者に用いられているポジションであり(便器の汚れからからそれは想像がつく)、私も愛用者であった。しかしながら、後述するようにこのポジションには大きな欠点があり、それが、そもそも私がこのような考察を始めた理由にもなっている。

「○○○1」:自分に不利を強いるという意味では「自己犠牲ポジション」と言える。もし、第二段階以降で他者が素晴らしいポジション取りができるならオススメできるが、一方で自分が出るまで誰も来ず、結局無駄自己犠牲に終わる危険性もある。やはり、初手を与えられた利点は生かすべきだという考え方は十分ありである

第二段階「誰か来た!」

Aの場合

A-1「1○2□」:これは、Aから理想的な展開である一見自分が奥においやられて2が偉そうに中央を陣取ってるかのように見えるが、「3」が来た時点でその印象は覆る。多くの場合、この状態で入った「3」は、奥で二人に挟まれポジションよりは、多少使いにくくても、入って直ぐのポジション選択し、「1○23」という状況が発生しやすいかである。つまり、混雑した時間帯にも強いのが最大の利点である

A-2「1○○2」:これは、Aを採用した場合リスクである。2がシャイ場合、あるいは最大限気を遣った場合、この状況になりがちなのだが、この状況は、次に来た利用者を大変迷わせる。結果として、「13○2」となる可能性は半々よりやや大きい(理由として、手前の2をスルーして奥にきた段階で3にとって2の存在感が大きいためということが挙げられる)。だが、この状況は、単に「隣り合わせた」以上のBADシチュエーションである。なぜなら、3が来た段階で1である自分はほぼ用を足し終わっており、3が隣に位置しておもむろにファスナーをおろす頃に席を離れるため、一方的チンコ見られ状態に陥りやすいかである。いわば不戦敗であり大変不公平な感じである。Aがよいポジションであるにも関わらず、軽々にこれを取れないのは、このA-2リスクがあるためである。状況によりこのリスクをどの程度に見積もるかが、ポジション取りにおいては大変重要な点だ。

A-3「12○□」:こんな状況あるのか?と思われるかもしれないが、実際にあったからとしか言いようがない。世の中には、デリカシーとは無縁な、あるいは単に「奥から詰めるのがルールなのか」とか、無駄空気を読んでくだらない行動をする輩一定数いるものなのである。確かに、依然として片側は空いているのだから心理的圧迫は最悪状況(「312□」)に比べればいくらかマシではあるものの、窓際に追い詰められた後がない圧迫感はなかなかクルものがある。これに比べれば、まだしも「○○21」の方が、出口側がフリーなだけ心理的負担は少ない。

以上を踏まえると、Aは危険もあるが、いきなり一番奥とかねーわ!というイメージの割には、バランスも良く展開もよい、悪くない初手である

Bの場合

B-1「2○1□」:Bを取った時の基本状況であり、理想である体験的に6割はこの状況にもちこめる。だが、言い換えれば「6割しかもちこめない」でもある。また、6割でこの理想状態に持ち込んでも、次の一手で確実に隣が埋まる、というところが、このバランス型の欠点である。次の3人目は、自分の隣のどちらか以外に入る場所が無く、A-1型に大きく劣るのである

B-2「○21□」:B-1に次いで起こりやすいのがこの状況である体感では3割はこの形になる。理由としては、奥に押し込められる危険、また、「どうせ片側に人が来るんなら、平等に分かち合おうぜ」という変な平等感などが挙げられる。オレも我慢するからお前も我慢しろよ、というヤツである。また、この形になると、自分が去った後の形が最初考察から外した「最低の初手」の状況になるのも感心しない。立つ鳥後を濁す形で、後々尾を引く敗戦と等しい引き分けと言えるだろう。

B-3「○○12」:またまたこんな状況あるのか?だが、2のポジション入り口に近いということを考えると、余裕なく飛び込んできた2がいる場合には十分考慮しなくてはいけない陣形なのである。ただ、これは見た目ほど悪い状況ではない。余裕無く飛び込んできた2に対しては、隣とは言え心理的に優位な状況に立ち得るし、また3がやってきても隣にくる可能性が低い(人間というのは奇妙なもので、さすがにこの状況で「○312」と並ぼうとする人は余りいないのである。「あ、奥空いてるやん」と気付いた時点で、一番奥=一番空いてる=気付いたオレ賢い!となって、距離の不利を気にせず奥へ突っ走ることが多いのである。)

以上を踏まえると、Bはバランス型を標榜する割には危険も多く素人向けでない初手であると言える。相当に状況を読んだ上でないと使うべきではない。

Cの場合

C-1「2○○1」:Cを取った場合に一番多いのがこの形である。この形になると、1と2は、お互いに「使いにくさ」「距離の遠さ」という不利を分け合った形になり、妙な紳士連帯感が発生する。しかも、物理距離があるので、その連帯感が妙な感情へと結びつく可能性も低いのである。また、A-2の丁度逆で、3が来たとき「23○1」という状況になるケースが、半々よりやや大きいのもメリットである。そんなメリットだらけなら、もうC一択でいいんじゃね?と思われるかもしれないが、そこはそれ、障害者用手すりがついているとガードが甘くなり、やはりなかなか使いにくいものなのである

C-2「○2○1」:これもA-1と同じく、理想的な状況と言える。弱点が見当たらない。ただ、自分が最高であるこのポジションは、同時に、「最悪の初手」を残す形でもある。折角Cという自己犠牲ポジションを選びながら、残すのは最悪の初手…というのは、自己矛盾であり、なんのために犠牲はらったのか分からない。

C-3「○○21」:「ハッキリ言うけどお前狙ってるだろ」と言いたくなるのがこの状況であるデリカシーなどという言葉では説明できない。A-3ではこのポジションを「いくらかマシ」と書いたが、それは逃げ場があるからという消極的理由であって、障害者用手すりによるガード値低下は、間近に迫られた時にときとして致命的なダメージに結びつく。頼むからこの形にならないで欲しいと祈る状況である。ただし、この後の展開を考えればおそらく「3○21」であり、自分が去った後、2が去った後に残る形は悪くない。

以上を考察すると、Cは自己犠牲を払いすぎるか払ったのに意味がないという展開に陥りがちで、自己満足の初手だと言える。

結論

以上の考察から現在のところ私は我が職場ではもっぱら人の多い時にA、人の少ない時にCを採用しているのだが、さらに4手目、5手目への変化を考えると、まだまだ多様な展開が考えられるのであり、これはあくまで現時点の仮説に過ぎず、実践検証は引き続き行われていることをお断りしておく。 

2015-05-23

※冒頭のお詫びとお断り検索対策のために、略字を多用することになりました。読みづらくて申し訳ありません。

お勧めいただいた『R』、読了しました。小説を読むこと自体が、わたしには滅多にないことなので、読み出し当初は困惑しつつも、広大な小説世界に潜り浸るという新鮮な体験を楽しむことができました。作者NA文体も、読み慣れてチューニングが合うようになると、とても心地よく感じました。そんな読書の幸いを少しだけ、感謝を込めて共有させていただけたらと、拙い感想をお届けいたします。ご笑覧いただければ嬉しいです。(わたしには本当に文才がないので、つぶやき投稿のように、思いついた順番で書き散らかしまうことを、どうかご容赦ください。いわゆる「感想文」を期待されませんように…。)

『R』のなかに見出した、タイトルとなった人物RRと、修史を完成させたSS、そしておそらく、作者であるNAの、幾重にも折り重なった宿命との葛藤が、深く胸に響きました。読書中は熱い臨場感をもって読み進めていたのが、いま、こうして彼らについて語ろうとすると、静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ちになるのは、なぜだかわかりません。書きながら、自分感情文字にして確認してみたいと思います

RRが、内に抱えた矛盾を少しずつ自覚し、揺れていく様は、わたし自身も覚えがあり、とても身につまされました。B帝に誤解され、国に残した愛する老母も妻も子供も弟も、みな殺されてしまう。RRは、大いに怒り、忠誠を誓ったはずの国とのつながりを見失う。思い返せば、これまでR家の忠誠に国は報いてくれたことがあったかと疑い、むしろ辱しめを受けただけだと失望する。そして、首を取って戻るという目的喪失したものの、よく似た身の上で、誰にも認められなくとも、国への愛情と忠誠を抱き続けたSBに、尊敬の念と敗北感を抱く…。

でも、と、その余白をわたし想像します。

家族を殺された怒りの大きさのあまり、B帝に誤解させたであろう同姓のR将軍の「存在」を怒りの矛先として、即座に彼を殺害したRR。けれど、B帝の誤解の原因が本当にそうであるか、定かでないはず。B帝と同様に、RR自らの誤解の可能性が、R将軍の命を奪い、彼を愛した皇太后を悲しまたかもしれないことに思いは至らなかった。ただ怒りに身を震わせて、衝動的に行動してしまった。おそらくは、B帝がRR裏切りだと誤解して、衝動的に一族皆殺しを命じたように。

しかに、身分の違いによる命の重さの違いを当然とする価値観が、受け入れられていた時代だったかもしれません。それゆえ、別の場面では、砂漠の中、戦局が厳しく、少しでも確実に部隊を生き延びさせるために、RR自ら、部隊男装して混じっていた妻たちを殺害する命令を、冷静に下したこともあった。同様に、愛する妻を殺された部下は、敵に寝返って、RR部隊の勝機を完全に奪った…。

RRは、自分がされて苦しんだことを、他人に対して無自覚にしてきたということ。それゆえ、RRが直面した苦しみの本質は、因果応報自業自得というメカニズム、…などでは「決して」ないと、わたしは思います。そもそも、RRの行動は、彼なりに状況に応じて最善と思われる選択をした結果でした。作者も、そんなRR「悪」として描いてはいません(むしろ宿命との格闘を活き活きと描写する姿勢には、愛情を感じます)。状況に追い立てられ、もがきながら生き延びてきた選択の愚かさを、もしも誰かが(分析好きのわたし自身が)指摘するなら、それは一生懸命さに対する揚げ足取りにすぎず、そもそも人間はそういう愚かな存在だし、渦中にあったら、わたしもそうしたはずだと(ましてや、さらに低きに流れていた可能性のほうが大きいと)、反論せずにはいられません。

SBと邂逅後のRRは、自らの抱える矛盾二面性に気がついて、苦しみを深めます。B帝の死後、かつて望んだように、国から彼が認められ招聘が掛かるのですが、それを断る弱々しい(元気のない)声のRRが印象的です。RRは、ここでもまた無自覚で、言葉を結んでいないものの、自らを通じて、人間存在の内にある矛盾二面性に、また国(人間社会)の内にある矛盾二面性に直面して、途方に暮れているのではないかと、わたしには感じられました。さらにいえば、SBのように国への想いを貫ける強さも持ち合わせず、そのSBを羨望する弱い自分を恥ずかしく思うRRは、それゆえ人間矛盾二面性を丸ごと生きているのでしょう。RR覚悟悲壮であるとすれば、そのような自分気づきつつも、両極に引き裂かれてどちらへも動けない苦しさゆえと感じました。正しい道はあまりに険しくて進めず、かといって居直ってダークサイドに落ちることもできないと自覚した以上、どっちつかずのまま生きながらえます(B帝の死後、7年目に没)。おそらくはRRも、自殺による幕引きを自らに封じた一人でした(文中では、現地での恩義や家族などのつながりをRRはあげていますが、対して、RR祖父は、親のいない孫を残して、義憤から自死を選んでいます)。

ところで、RRは、自らとSBとを「隔てる根本的なもの」に直面し、自らへの「暗い懐疑」を自覚するに至るのですが、SSとの関係もまた非常に興味深いです。

SSは、RR名誉を守ろうとしてB帝らに反駁し、結果、死よりも恥ずかしむべき宮刑を受けます。ところが、このことを伝え聞いたRRは、自らの沈む絶望が深く、SSに対して何の特別感情も抱きません(し、そのようなクールRRの反応を、SSは伝聞することもありません:そこに作者NAの優しさを感じます)。対してRRは、B帝のため国のために信義を尽くそうとするも、相手から誤解され、罰せられて一族が殺されたことを知り、大いに絶望して反転します。しかし、自らが、為を思って働いた相手に無碍にされることが、どれほど当人を傷つけうるかに、思い至りません(し、それも尤もだと説明を書き添える作者NAには、RRへの深い愛情を感じます)。

そんなSSですが、42歳にしてようやく父の遺言を継ぎ、修史の編纂に取り組むことが叶います現代の人々に知らせるために記録するにとどまらず、人間の叡智として後世へ伝え残すための歴史、なにより自分自身が書き残したい歴史には、「人間についての探求」が不可欠だと考え、「述べる」と「作る」との違いを熟考する。しかし、真摯に取り組めば取り組むほど、歴史上の人物自分自身とが渾然一体となるような文章、まるで描き出す歴史上の人物の中に自分が生きているような表現、憑依し憑依される活き活きとした文体が流れ出る。そうした箇所を削除すれば、たちまち修史はいくつもの死人に関する記録に成り下がる。削った字句を戻して、ようやく歴史上の人物たちが「安心してそれぞれの場所に」落ち着くように思われる。

このSS創作風景に、作者NA自身創作風景を重ねて見るのは、自然でしょう。わたしは、NAについてほとんど何も知らないけれど、この『R』やその他の彼の短編小説なども、歴史書を下敷きにして創作されたと(文庫巻末の解説に)目にしました。憑依し憑依される関係性のなかで、自らの書く小説の中に(のみ)活き活きとした自由を感じられたのは、SSだけでなく、NAもそうであったと想像します。

先を急ぐ前に、もうひとつSSについて。時代的・文化的な特徴と思われますが、宮刑を受けて「男」でなくなった自分の身体は、「完全な悪」に落ちたと苦しみます。心の傷は癒えても、醜悪な身体は、死ぬまで自分を苦しめる。それは、自分という存在のものが、悪である証しであり、生きる限り続く恥辱だ、と。これが、「盲目的な獣」としての苦しみの段階です。(が、作者NAの有名な短編『S』では、狼へと変身して初めて思い至った気づきを、数日で通り過ぎてしまうあたり、作者NAが、SSに託した気持ちの大きさを思います。)

その後、SSは、我が身に降りかかった苦悩・人生への懐疑とは別の、意義を疑えない「畢生の事業である修史に「無意識の関心」が向いており、それゆえ自ら死を選ぶことができないでいるとハッキリと自覚します。ここから、「より意識的な・人間」としての苦しみが始まります。この、獣から人間への飛躍が、とても深いことに感嘆しました!

「獣」と書いていますが、つまり世俗社会的価値観のなかで「盲目的に」生きている段階のことです。ここでは、「身体=身」と「心」という対比が支配しています(「身/心」という二元論で捉えられています)。舞台となった漢の時代的・文化的な特徴として、名誉や忠誠といった「心」を守り通すためには、人々は死を恐れず、むしろ喜んで「身体」を自ら差しします。SSも、死刑を恐れてはいませんでした。しかし、醜悪な「身体」となったSSは、その恥辱から「心」解放すべく死を願うも、それを押しとどめるもの存在を予感します。自宅に戻ると、それは父に託された修史編纂の完成であることを理解します。自らに刻み込まれた「宿命的な因縁」として、「肉体的な」仕事とのつながりを放棄できないことに改めて気づかされます。ここから、「より意識的な・人間の苦しみ」へと飛躍するわけです。

ところで、世俗社会的価値観(=知覚や意識)は、SS「心」=「我」と、「身体=身」とを形成してきたものです。しかし、託された使命への自覚は、既存価値観にとって、おめおめと生き恥さらすような人生を続けることを求めますSSの抱く既存価値観(=知覚や意識)にとっては、耐え難く、非情要請です。そのため、「知覚も意識も」持たない、修史編纂のための「機械」に過ぎないと、(既存価値観=知覚や意識で)自分定義しなければ、自らに言い聞かせなければ、生き続けられなかったのだろうと思いますSSSSであるという意識の土台となる「心」=「我」も、そのために捧げる「身体=身」も、当時の社会的解釈の上に成立してきました。この解釈いつまでも安住できたら、まだSSの苦悩は浅かったかもしれません。「宿命的な因縁」、すなわち、いにしえから脈々と受け継がれて自分生命(魂)を与えた血統のように、時代を超越した「肉体的な」つながり=使命(魂)への自覚は、SSに当然視してきた当時の社会的解釈に安住し続けることからの飛躍を求めたわけですから。「心/身」という二元論を越えて、使命を抱く「魂=肉体」として自らの存在のものを捉え直すことは、当時の社会的解釈から、漢の時代的・文化的制約から、身を引き剥がすことでもあります。それは、昭和時代から当時を見つめる、超越的な作者NA視点でもあります

ここで描かれたSSの姿は、作者NA解釈したSSの苦悩であり、おそらくは、昭和現実を生きて苦悩したNA自身の苦悩の姿であるのかと思います。作者NAもまた、病床のなか不遇のなかで「心」も「身体」も傷つきつつ、作家として生きる使命によって、自らの小説の中に「魂=肉体」を解き放したのかなと思いました。(ちなみに、「魂」という単語は、作者NAは使っていません。でも、明らかに、「身体」=「身」と、「肉体」というのを使い分けています。その差を強調するために、わたし勝手に補ってみました。)

そういうわけで、困難な戦場を生き延び、また自らに暗く懐疑するRRも、自らの信じる正義を貫き、恥辱に苦悩しながら使命に生きるSSも、その抱えた宿命の重さにも関わらず、活き活きと自由に躍動する姿には、作者NAが重ねられているのだと思いますNAにとって、小説を書くことというのは、憑依し憑依されてその世界を生きることなのだろうと感じました。事実、『R』のなかで、RRSSの二人について「だけ」、歴史上の人物としての事実描写だけでなく、その場にあって思い感じたこと、彼らの知覚と意識まで作者は思い描き、詳細に語っています。(わたしは、新潮文庫を購入したのですが、その文末の解説に、『R』はRRSSSBの三人の物語だと紹介されていて、そりゃちょっと違くないか?と違和感を覚えました。それもあって、今回の読書では、基本的に予備知識なく、勝手に読んでいます。)

からこそ、冒頭に書いたような「静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ち」を抱いてしまうのかなと思いますRRSSが抱えた宿命の重さも悲壮覚悟も、作り物としてのフィクションではなく、また単に歴史を題材にした半分史実・半分フィクションといったものでもなく、作者NAが抱えたであろう実体験を(ノンフィクション、と片仮名で書くには軽すぎる経験を)、わたしはそこに感じたからだと思います

作品は、読者の能力に応じて・読者がそこから読み取れるものしか、読むことができないのだろうと思います。(それゆえ、例えば同じ聖書であっても、子供が、若者が、大人が、死を前にした老人が、それぞれが自分必要ものを、そこから読み取ることができるのだと思います。) だからわたしが読むことができた『R』は、私の興味・関心に限定された、豊穣な作品全体のごくごく小さな断片に過ぎないと自覚しています。きっと、H.H.さんからしてみれば、幼い読み方だと笑ってしまわれるような感想だったかもしれません。それでも、この作品出会えて、とても嬉しいです。作品を作ることに込める覚悟のようなものを、改めて考えるキッカケをもらえました。ありがとうございます

最後に、『R』を読みながら、H.H.さんがそこに読み取ったであろう痕跡をいくつか感じました(例えば、存在することが悪であること、それでも書写機械として生きる覚悟をしたSSの中に)。そんな大切な小説を、紹介してくださって、本当にありがとうございます。とても光栄です。でも、もしかしたら上述した私の感想は、そんなH.H.さんの想いを、まるで現国試験問題に答えるかのように切り刻み、分析し、曲解した失礼なものと映ったかもしれません。もし、不快気持ちにさせてしまいましたら、本当に申し訳ありません。(あなた真摯さに敬服するファンとしては、自分の正直で素直な感想真摯に伝えるべきで、あなたのご機嫌を取るために媚びを売るような接し方こそ失礼なのでは、と勝手に考えてしまいました。決して、あなた否定するものではありませんこと、ご理解ください。)

自分について思索する道を、Kさん=H.H.さんに教え導いてもらえたように感じていますあなたの魂=肉体の存在に、感謝します。(勝手ファンの願いであり、余計なお世話かと思いますが、だからこそ、どうかご無理をされず、くれぐれも心と身体を大切にしてください。) あなたの幸いを心からお祈りしています

h_s

2015-03-08

週刊少年ジャンプ連載/原作:附田祐斗作画:佐伯俊・協力:森崎友紀/「食戟のソーマ」スタジエール編における、『洋食三田村改善に関する疑問と解答例

食戟のソーマ スタジエール編における、創真と秘書子が手掛けた、『洋食三田村改善に関し、諸々と毀誉褒貶議論が出ているので、要点を整理してみた。


・完全予約制では、新幹線需要一見客や、以前からの客だが予約してまでは利用したくない準常連客が、利用しなくなるのではないか

→どのみち、改善前の状態でも、万全の対応が出来ていない。

それが続く様では、おそらくは今後の評判にも響く。

故に、何らかの変革を要した。

・店側の対応能力に合わせる(=キャンセルを減らし、有意な回転率を改善する)べく、席数を減らせばどうか

→席数を減らした場合でも、満席状態ならば、時間内に入れない人の方が多い。

改善前と同様で、「利用出来ない/利用し辛い」のは同じ事。

現状、大勢の客が来る状況は変化しないならば、折角の固定客である常連を含め、食事したい客の利便性を損なう

特に、昔から常連が利用し辛い状況は、オーナー理想に反する。

利益率向上にも繋がらない。常連のみならず、一見であるが急いではいない客、評判を聞いて訪れた新規の客が利用し辛くなる状態は、機会損失

行列が出来る状況になるとして、それは、予約制に近いものである

ならば、より徹底して完全予約制とし、確実に食べたい客が利用し易い様に(及び、その様な客の過剰状態も調整出来る様に)して、即刻入りたい飛び込み客・時間が無くて持っていられない新幹線需要の客は、最初からお断りする方が堅実で誠実(なお、作り置きのサンドウィッチやお弁当テイクアウトとかでの対応なら、アリかも知れない)。

・店側の対応能力に合わせる(=迅速に提供し、キャンセルを減らし、有意な回転率を改善する)べく、メニューを減らせばどうか

豊富メニューが店の売りの一つである

それを損なえば、常連客を失望させ、オーナー理想にも反する。

・予約して入店した常連客が、ナポリタンなど注文していたが。客数は減ったのだから、客がもっと高額な料理を注文してくれないと、客単価が上がらず、営業利益が減少するのではないか

→あの常連客は、サイドメニュー2品と、食後のコーヒーも注文している。サイドメニュードリンクは、粗利率が高いものであるメニューの斯様な構成によって客単価を上げる手法存在するのである

なお、あの常連客には、塩分控えめというきめ細やかな対応も行なっている。数を熟す慌ただしい店では困難なサービスである

・店側の対応能力向上の為、人手を増やせばどうか

→常時混雑しているなら兎も角、新幹線需要一見客は、新幹線時間に応じて波状に押しかける。

細かくシフトを組むと、多分、その管理が極めて煩雑になる。

だが、従業員に一日中居て貰ったら、一日全体から見ると、費用対効果的に、無駄になってしまうかも知れない。

また、少数でどうにかしてくれる優秀な人材など、そうそう都合良く確保出来る訳が無い。創真や秘書子級の、修羅場を少数で何とかしてくれる人材は、滅多に居ない。

数だけを増やせば、当然更に人件費が嵩む(料理人場合はなおの事であろう)。機材の増強も要される。売り上げが増えれば増える程、経費も嵩み、営業利益が減り、赤字となる理不尽な状況すら有り得る。

なお、創真や秘書子らは、遠月茶寮学園の教育課程である「スタジエール」の制度によって派遣された人材であり、おそらく給料不要である

・来店客数が、店側の対応能力を超え掛けたら、席が余っていても、満席の札を出し、入店制限を掛ければどうか

→それは、席数を減らす手と、あまり変わらない。

入店制御を行うなら、完全予約制の方が、より万全である

・客が多くて困るなら、いっそ引っ越せばどうか

→立地の良さは、完全予約制であっても有意である宣伝面での負担も激減する。

また、引っ越しは、相応の費用と手間が必要

店舗を、三田村オーナーが所有しているとして、それを売却するか賃貸に出し、もう少し地価の低い所へ、新店舗を買うか借りるかして移転するなら(適切な飲食店向けの建物を居抜きで確保出来るなら、なおの事)、賄えるやもだが。

場所が変わる事による、常連利便性低下の問題も出る筈。

もし、現在地からごく近い場所なら、地価もさして変わらない。或いは、居抜きで移転可能な適切な建物が無いかも知れない。然るべき改装も伴い、一大出費になりかねない。

常連や、評判を聞いて来た新規客は、空いてる時間帯に来て貰えばどうか

→客にも、それぞれの都合が有る筈。客が合わせろという態度は、ホスピタリティ無視している。それはオーナー理想から外れる。

ずっと店を支えてきた、一番固い常連客の軽視は、営業的にも悪手。

・完全予約制ではなく、予約優先制ならどうか

→結果として、大量の客(特に新幹線需要一見客)の波状殺到が店側の対応能力を超えるならば、現状とさして変わらない。

・そもそも、一見客の切り捨ては損ではないのか

対応が困難ならば、上述の理由により、絞るのが合理。

そして、オーナー理想は、討論によって再確認されたが、常連客の重視である

洋食三田村』の苦境の本質は、三田村オーナーが、どの客層を対象とし、どの様な店にするかを決めかね、見失って居た事に起因する。

オーナー常連客こそが重要と改めて認識した事により、あの店の最大の問題点は、「新幹線需要一見客を捌きかねていた事」ではなく、「常連客が寛ぐどころか入店も困難となり、折角の常連客・固定客・リピーターが離れていきかねない状況になって居た事」となったのである

よって、店が対応しかねる大量の一見客は、商機ではなく、むしろノイズの様なものとなったのである

それに、作中の改善は、一見客の完全な切り捨てではない。美味いという評判を聞いて、予約してでも来たがる、新しく常連客に成ってくれるかも知れない客も居る筈(作中明記はされていないが、予約即入店も、余裕が有るなら可能かも知れない)。

また、現在新幹線需要一見客激増は、バブル的なものかも知れない。

先々、駅周辺が更に栄え、飲食店が更に増える可能性は高い。

その時は当然、新幹線需要一見客は、相対的に減少するかも知れない。

また、大手チェーン店が出店すれば、其の方が、大量客を手際良く捌く方向には向いているであろうから、勝機は薄い。

その事態において、常連客が、もし粗末にされ、離れていたら、営業的にも不都合

なお、上述したが、飛び込みの客(及び、待ち時間が無い客)への、テイクアウトでの対応は、アリかも知れない。

・繁忙時においては、時間が掛かる旨の告知を行えばどうか

→それは、実質、待ち時間が限られている新幹線需要一見客、或いは長時間待つだけの熱意の無い準常連客への、切り捨てに近い。その意味では、完全予約制への対案には成り辛い。常連客の利便性の面でも万全ではない。

半年間無策で通したあの無能達が、完全予約制にしたところで、上手く経営出来るのか

→「洋食三田村」の面々は、料理面では無能ではない。

以前は、新幹線需要一見客増加という要素無しでも、常連客が付いていて、経営を支えていた。

また、相応の数の従業員を抱えていた事象が、その必要性(相応の来客の存在)を示している。

この半年間の宜しからざる状況でも経営出来てきた事象も、店の評判や経営的な体力の存在を示してる。

遠月茶寮料理学園が生徒のスタジエール先に選んだという事象も、料理面では優れているという状況証拠になるかも知れない。

特に料理の美味さについて、作中の設定的に絶対の信用が置ける感覚を持つ創真・秘書子らも認めている。

新幹線需要発生以降において、駅周辺に飲食店複数有る中で、あの店に客が殺到する事象も、あの店は美味いという評判が立っている証拠かも知れない。

料理が美味いなら、客は来る。

客が来るならば、完全予約制の方が、サービスホスピタリティの強化なども含め(上述したが、完全予約制故に可能サービス存在する)、状況を制御し易い。

完全予約制は、仕入れなどでの無駄が出辛く、従業員休みを取り易くなるなど、客が来る自信が有るなら、経営面でも好都合である

料理の腕以外は頼りないオーナーには、その意味でも向いているかも知れない。

なお、今後更にオーナーの思案に余る問題が発生すれば、外食コンサル問題解決外注すれば良い(特にこの作品世界では、遠月グループが、その部門も備えている筈。そもそも、創真らに助言を仰ぐ手も有ろう)。

要するに。

・「洋食三田村」の料理は美味い

三田村オーナーには、貫きたい理想が有る。創真達は其れ尊重せねばならない

洋食三田村」の改善について、これらの要素の無視は、NGである



追記

洋食三田村』は、完全予約制移行後、客の減少により(従来の常連客が、速やかに復帰するとは限らない)、従業員リストラ必要になるのではという意見が有るが。

完全予約制移行より後の『洋食三田村』においては、従来の常連客の或る程度の復帰のみならず、リピーターになるかも知れない新規客の微増も見込まれる。

あれだけ大量に来ていた一見客の流れが完全に絶無になる事は、考え辛いかである

美味いという評判も有ったが故に来店していた新規の客も居た筈だからである

故に、そこまでせねばならない営業利益経常利益の低下は起こり得ないのではないか

ただし、あの従業員達が、新幹線需要一見客の殺到していた時期以前からあの人数だった訳ではなく、一見客の激増後、それに対応すべく多少は増員していたなら、また別かも知れない。

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