はてなキーワード: 火山灰とは
結論として、コメ不足はさほど問題にならないだろうと思っている。
米の不作というのは、いろいろな原因で起きるが、
飢饉が何度も起きていた江戸時代とは違うので、虫や病気の被害はまだ農薬である程度なんとかなる。
日本で蝗害(バッタ)というのは、ほとんど聞いたことがない。ウンカは何度かあったと思われる。
現在起きる食糧不足を招くような不作というのは、俗にいう梅雨寒からの冷害が一番だと思う。
1993年の米不足もそれが原因だ。
全然関係ないけど、なぜバッタが同一方向に移動するかというと、後ろのバッタに食われないようにするためという説を知り驚いた。恐ろしい。
減数分裂期と呼ばれる、イネが花粉(精細胞)と胚珠(卵細胞)を作る時期のことで、
コシヒカリの場合は17度に2時間当たるとで不稔(実ができない)が発生し始めて、10度ではほぼ全滅すると言われている。
9月中旬の収穫であれば、減数分裂期は7月中旬ごろになるだろう。
ちょうど梅雨の終わりくらいの時期にあたるけれど、梅雨前線の北側が冷たい空気で、南側が暖かい空気だ。
梅雨前線がしっかり北上してくれないと寒くなりやすく、特に東北地方は奥羽山脈の西側で低温なうえ霧が出やすくなる。
米の国内生産ランキングは新潟-北海道-秋田-山形-宮城と続き、東北で約30%が栽培されている。
また、低温多湿になると、コメの最大の病害であるイモチ病が発生しやすくなる。
火山灰などのチリが日光を遮り、低温になること、雲が発生しやすくなることなどが原因としてあるようなのだけど、
しかし、フィリピンの噴火は北半球で、今回は南半球だ。果たして影響があるのか?
軽く調べた感じでは、1600年のペルーの噴火が同じ緯度で起こっていて、ゆるーくまとめられたのがこの記事。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/24/
何かの手がかりにするにはあまりに情報量が少ないけど、北半球でも大きな影響があったようだ。
ワインが壊滅的というのは、おそらくブドウが壊滅したということで、
果樹が致命的なダメージを負うのは開花期の降霜、多雨・日照不足による病気の多発なんかではないだろうか。
低温・多雨というのは十分に起こりうると思う。
それでも、コメについて93年ほどひどい状況にはならないと思う。
93年は需要1000万トンに対し生産740万t。当時の備蓄米は20万t程度だったとwikipediaには書かれていた。
現在の米の需要量は700万t程度。生産量が720万tくらい。備蓄量は100万tとされている。
93年よりはるかに凶作に備えられていると言っていいだろう。
飼料のほとんどはアメリカからの輸入だし、小麦はアメリカ・カナダで80%だ。
93年当時より食糧事情はグローバル化し複雑になっているけれど
自国で不足したら輸出が減るというのは今も昔も変わらない。
それになんかしょっちゅう「コムギがー」というニュースは見る気がする。
コメが足りないより、小麦・飼料が足りないの方が問題になる気がしていて、
結果的にコメの需要が伸びで値段が上がる程度であれば、最近低価格が続いて困っていた農家としては大助かり。
そんなシナリオ、期待しない方がいいのはわかってるのだけど。
元増田です。
窒素は空気から合成するのにエネルギーを使います。全世界の消費エネルギーの1.2%だそうです。
https://www.asahi.com/articles/ASM594WBSM59ULBJ007.html
火山灰土ではリンが反応して植物に吸われなくなるという現象があり、日本ではリンはとても大切な資源ですが、
残念ながら日本には資源がありません。100%輸入だったと思います。
一部では肥料工場も止まり、値上がりで済むのか、来年分が手に入るのかという状態です。
何にしても有限な資源であることは変わらず、リン枯渇という問題は随分前からあります。
過去にはグアノというコウモリの糞がリンの主原料でしたが、取り過ぎて枯渇して国家滅亡寸前までいった島があります。
有機の技術を使うと、例えば窒素はマメ科を栽培して共生菌である根粒菌に空気中の窒素を肥料に変えさせるという方法があります。
稲作の前にマメ科であるレンゲを育ててすき込んで肥料にするという方法は昔からあります。
リンは既に過剰投与と言われているので、共生菌などを利用して固定化されたリンを吸い出すなどができると思います。
近くで手に入るものは何より手軽で安い。カーボンフットプリントという観点では肥料成分が薄く量が多くなっても間違いなくエコです。
引用URLは無い。ネットとかTVでの池袋の扱い全般への反駁&雑語りと思ってくれい。
これ嘘だから!元池袋史跡公園っていうのを豊島区がこしらえちゃってるけどこれ嘘だから!
あのさ、駅周辺のこの辺が池袋になったのって日本鉄道が池袋駅を開設してからの事なんだけど?
それまで池袋っていうのは東上線二駅目の下板橋駅周辺が池袋だったの。今でもこの辺は「池袋本町」って地名でこれは池袋本村、池袋村のメインの集落だった所なのよ。
「袋」っていう地名は川が湾曲してその内側の土地の事を指すのな。江戸袋とか大袋とか色々あるがみんなそう。
今は暗渠化された谷端川っていう川が屈曲しててその内側の高台が池袋本町(村)。池やら沼があったんじゃないかと言われているが記録が残ってないので池が付いた理由は不明だ。
そもそもこの元池袋史跡公園がある場所っていうのは昔は雑司ヶ谷村だったのな。池袋村と雑司ヶ谷村の境界は大体今の池袋駅南通路の辺り。
それなのに遥か数キロも離れた池袋村の名の由来になるはず無いだろ。豊島区は誤解の元だからあの公園撤去するか説明書書き換えろってーの。
余談だが山の手の台地の上で井戸を7~10m程掘ると水が出てくるんだが、それって粘土の関東ローム層の下に砂礫層があるから。だからこの谷端川がそれだけ谷を刻んだ下流では小石だらけになる。なので下流は小石川って呼ばれて地名にもなってる。
東京山の手って山あり谷ありって言われるけど、そうじゃなくて谷だけがある地形なんだな。富士山と伊豆の山が噴火した火山灰が積み重なって西高東低のかなり緩い勾配のまっ平らな台地ができた。
ここに多数の小河川が切り込みを入れた地形になっている。だから尾根の部分はほぼまっ平らな訳です。これは国道246の赤坂→渋谷手前とか国道254の春日→池袋六差路とかを走れば判る。この二つは尾根道の街道を車道化したものでとにかくまっ平ら。
因みに上野~赤羽等の線で台地がきっぱり切れ落ちて下町になってるのは海進時にそこからが海だったから。
というか、台地はもっと東に伸びていたが波に削られて海食崖が後退したと考える方が自然。上野~赤羽って京浜東北線に乗れば判るが崖が真っすぐでしょう?これって海食崖の特徴ですわ。
あと、陸地が角になっている所って波の入射方向、角の先に真っすぐな海岸線が延長されるように砂嘴や砂州が出来るけど、上野、赤羽の角地形の先には砂嘴の痕跡がありますよ。上野の場合は根岸砂州というのがあり微高地になっていてこの上に日光街道、千住宿が作られていた。赤羽の方は名前不詳なれど川口、戸田の喜沢の辺りに筋状の微高地がある。
脱線したがこういう地形だから山の手ではまっ平らな尾根部分では水を引けない。だから水田は出来ない。水利は限られたもので貴重だった。
農村である雑司ヶ谷村の水源だけ池袋村に属してる訳無いし(トラブルの元だ)、遥か離れた他村の水源地の名前に因んで池袋の村名が決まる訳ないやろ。
だから駅周辺が池袋になったのは駅が出来て以後の事なのだ。因みに古典落語でも池袋は結構出てくるんだけど、当然それは下板橋駅周辺の事ですよ。
駅にはそこに至る道路があるのが当たり前。でもそれは今の事であって日本鉄道って鉄道が官営鉄道1本しか無い時代に鉄道を敷いた道なき道を行くパイオニアだった訳。だから日本鉄道側が既存の街道に面して駅を作らなきゃいけない。
でも江戸時代には道路というのは軍事施設でもあった。だから数少ない街道以外は道らしきものはない。勝手に道を普請して罰せられたケースは数多くあり、その殆どは死刑だった。
それで、品川線(現山手線~赤羽線)から新規開業する土浦線(現常磐線 当初の始発駅は田端)に繋げたい日本鉄道は目白分岐としたかったが、雑司ヶ谷村に難色を示され更に巣鴨村に建設予定の近代的監獄(巣鴨拘置所、現サンシャイン)に重なると政府にダメ出しされてしまう。
そこで目白の北側のまっ平らな辺りで分岐する事にした。ここまではよく説明される事だ。
問題はここからで、雑木林しかない、集落すらない場所で乗客が駅に来れる様にするにはどうすればよいか?
中山道板橋宿の平尾追分から川越街道(現首都高中央環状線JCT~大山サンロード~ハッピーロード)が分岐し、そこから直ぐに分岐して雑司ヶ谷を抜けて早稲田に至る雑司ヶ谷道という道があった。これは金井窪~ローソンストア100池袋本町1丁目店を右折して平和通り~WEロード~明治通り~鬼子母神電停前~と続く現存する道だ。
この道と日本鉄道の線路が交わる所は踏切になっていた。駅を設置するならここしか無い。他に適当な街道に接近するところがないからね。
って事で今のP'パルコの左側に駅が作られることになったのだ。WEロードの正式名称は雑司が谷隧道だ。線路が増えすぎて踏切では危ないのでガードになったのだな。
Wikipediaの池袋駅の項には日本鉄道時代の駅の写真が貼られている。
これはWEロードの前身の踏切から撮られたもんだ。場所はP’パルコの裏手。
なのでこの汚いガード(の前身の踏切)は池袋の全ての始まりなんであるのよ。
サンシャインの前身は巣鴨プリズンで有名だがそれは東京裁判が決する迄の一時期で、東京拘置所だった。
東京拘置所を小菅に移転して跡地の再開発の話になった時に周囲の地権者、縁故者を集めて合意形成の場が開かれることになった。
ここで特に問題になったのが池袋駅直通地下街の建造で、強硬な反対派が居てその筆頭が東口の洋菓子店タカセだった。当時タカセは小売店の有力な顔役だった。地下道ができたら当然人の流れは変わり地面店は売上激減する。
その為に駅直結地下道の話は流れてしまい。東急ハンズ横からの短い地下道と東池袋駅がアクセスルートとなる中途半端な形になってしまった。
この地下道建設流れで当時タカセの地元での評判はかなり低下したらしい。
しかしその後の埼玉の植民地化=池袋駅~ハンズの学生向けの店舗の隆盛を見れば反対して正解だったとしか思えない。通路を兼ねた地下街なんてどうせ碌な集客力がない。そもそもハンズ前の道には丸の内線が埋まっているから地下街の幅は取れないんである。
なので学生向け店舗の経営者は出退勤の途上に今はやや寂れた感のあるタカセ前で一礼すべきである。若年向けのP’パルコだって地下道があったら出来てなかっただろう。P' のテナント一同もタカセ参りはすべきである。
ここなんだけど、池袋行く人でここのおかしさに気づく人ってどれだけいるだろう?
https://goo.gl/maps/UQN2f86tQk8xXQPv5
逆を向いてほしい。西武の搬入口だけがある。なのに信号機で管制されている。何故だろうか?
そのわけは南のびっくりガードの途中にある。
https://goo.gl/maps/BR5VUwN7iYPUv5Zx5
ここから入るとJR線路と西武線の間の空き地に出る(入っちゃダメよ)。実は当初のびっくりガードはここを上がってから西武線を踏切で渡って明治通りに出るというルートだった。
この坂の上はJR用地で昔は国鉄の貨物駅だった。つまり初代びっくりガードは国鉄をガードで潜って直角に折れて急坂を上り国鉄貨物駅の中を通り西武線を踏切で渡る。そして出てきた先がさっきの搬入口前の交叉点だったって訳。
現在の中央東口っていうのは元は西武線の改札だった所で、西武が運営するデパート、武蔵野デパートはエルメスがあるあたりにちょこんとあった。
しかし当時の西武の社長は貪欲な堤康次郎と堤義明。もっともっと増床だ!でも駅が邪魔だ!ならば線路を縮めて駅を向こうに追っ払えばいいじゃん。
という事で駅をずらすのに邪魔な踏切は廃止。その代わりに国鉄ガードの延長にガードを作った。そして踏切跡はデパート搬入口に転用。
井の頭線渋谷駅や世田谷線三軒茶屋駅とか、商業ビル建てるために駅をその向こうに追いやって客はその分歩けっていう工事するのがあるじゃないすか。あれムカつきますよね。
こういう訳で「西武デパートの搬入口だけの為に信号がある」状態が生まれた。一見それに見えなかったものがトマソン的である事を発見するとその由来が見えてくるって事ですわ。そしてびっくりガードなんて間抜けな名前が公的に使用されてる事の方がびっくりだわ。
昭和29年に地下鉄丸の内線が開通することになりそれに合わせて建築されたビルが結構残っている。LABIの建物が代表格でここは元三越。今も所有者は三越な筈。
昭和28年頃の完成なので今でも売り場の裏は非常~に古い。客用エレベータもエレガ時代は真鍮蛇腹式だった。それでは客がセルフオペ出来ないのでかごは替えられてしまった(着床位置も手動ハンドルで調整する方式だった)。
LABIの裏にマックがあるがここは三越が所有していて地下にLABIの搬入通路がある。マックの裏の建物はLABIの搬入口になっている。
新しそうなパルコも昭和32年竣工の東京丸物デパートの居抜き。
昔は携帯電話が無かったから待ち合わせ場所を家の電話で打ち合わせておく必要があった。新宿駅や東京駅には待ち合わせ場所としてアルプス広場や銀の鈴があるが池袋駅には無かった。
そこで末期の国鉄の人らが考えて作ったのがいけふくろう。いけぶくろだからいけふくろう。
国鉄はそれまでの親方日の丸体質ではダメな状況に至り、色々とサービスアップの為の試行錯誤をしていた。現在のJRより熱心だったが如何せんセンスがダサい。
いけふくろうもかなりの失笑を買ったと言われているがその後豊島区などがフクロウの里などの歴史修正主義を始め定着するに至った。
いけふくろう像があるのは北通路の階段付近という半端な場所だがこれはパルコの土地ぎりぎりのJRの土地であるから。いけふくろうのダジャレを考えた国鉄マンの同定をしなくていいのだろうか?疑問である。
サンシャインの地下駐車場のそのまた下には地域冷暖房の施設があって付近のビクトリアスポーツや東池袋駅やハンズのビルなどに熱供給を行っている。
これは触れている本やサイト、番組が多いが、実はその下に東電の変電所がある。これはサンシャインで働く人も知らない秘密なのだが、数年前にあった新座でのケーブル火災による東京大停電での停電地域によって変電所の場所が割れてしまった。
城北線豊島変電所というのがここで、終端変電所は内幸町の東電本社の地下である。
https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/hoan_shohi/denryoku_anzen/pdf/014_06_00.pdf
雑司ヶ谷道の駅北側は戦後商店街となって平和通りと名付けられた。だがどういう訳だかヤクザの事務所がこの道路沿いに林立するようになり、やがて抗争が勃発、殺し合いまで始まった。
90年代後半になるまで路上駐車というのはルーズに見逃されておりその辺にとめるドライバーが多かったが、事情を知らぬ者は平和通りの組事務所前にとめてしまう。
玄関前塞いで車止められたら誰でもいい気分はしないが組となればメンツの問題でもある。戻ってきたドライバーはそのまま事務所にお持ち帰りとなって凄まれ絞られ少なくない詫び賃を置いていく羽目になる者もいた。
お巡りさんに泣きついても「こんな通りに駐車したら身の危険になるのは当たり前でしょ」と説諭される始末。平和通りなのに。
やがて銃撃事件などが相次ぎ非常線で封鎖される事もしばしばとなった。シャブで錯乱したヤクザが突然暴行を加えたり物を破壊したり自分を刺して血だらけで歩いていたり警察に保護具で簀巻きにされている所がみられる事もあった。結構な高頻度で。北口のレンタルビデオ店G〇〇が入居するマンションなどは上がほぼすべて893となってしまった事で有名だった。
暴力団新法の施行でヤクザは激減してこれらの風物詩は過去のものとなった。
あの事故のあった道路はほぼ直線なのだがどういう訳か事故が多い。飯塚のは運動能力の問題だろうがスピードを出しすぎる車&Jウオークする歩行者両方に問題があるケースが多い。見通しが良すぎて油断するのだろう。
過去の事例では130km/hで邁進するフェアレディZがUターン中の1Boxカーに衝撃して1Boxの助手席女性が死亡するという事故があったが、普通Uターン側にも責任が問われる所、相手の速度が速すぎて予見不能として1Box運転者に無罪判決が出るという事件があった。
10年近く争っての事だが異例な判決である。その後も事故が続くので信号機を増やしたりしたのだがあんな予見困難な大事故が起きてしまった。
池袋にいわゆる駅ビルみたいなものはなくてデパートばかりだが、戦争で駅舎が燃えてしまったので戦後に鉄筋コンクリートで国鉄駅舎というのを作った…のだが直後に民間資本の建物を誘致する民衆ビル構想が立ち上がったので駅ビルは解体され丸物(現パルコ)や西武のデパートが建つ事になった。計画性無さすぎである。いや勢いがあったのか。
開通当時は武蔵野鉄道(買収)→西武、東上鉄道(買収)→東武だったから最初は変じゃなかったよってのが定番の豆知識記事だが、「東に東武」もあった。
サンシャイン手前~飯塚事故現場辺りの一帯は戦前東武鉄道の根津嘉一郎が所有しており根津山と呼ばれていた。雑木林だらけの池袋駅~護国寺に道路と都電を通す事になり全部手放したのである。
池袋東側の住人なら赤尾敏は誰でも知ってるけど日ころとか朝生とかに出てるらしい赤尾由美見た事ある人いない。だってあんた道場に居なかったじゃんよ。何赤尾敏赤尾敏って名前使ってるの?
お祭りには欠かさず来るね。で、それだけで「地元の人」って認知受けちゃう。贅六の落下傘なんだけどな。
いろんな人がいろいろ、そして概ね好意的に書いてくれて面白かった。
いくつか触れておきたいトピックがあったので、農業の中の人として個人的な見解と感想を書いておこうと思う。
そういえば、一つ書き忘れたんだけど、借地料について。
ミスタイプではないです。300坪、年間で6000円。
なんで直進が必要かというと、作物を均質に作るために均等な環境を用意するため。
つまり同じ深さで耕して、同じ量の肥料を撒いて、同じだけの根圏を用意するためなんだけど、
圃場の長さが70mくらいなら目印なく直進できるけど、100m超えたあたりから絶対曲がるんだわ。
ただそんな圃場は当地にはほとんどないので、僕らの地域にはいらんけど。
水稲の農薬って剤形もいろいろあるんだけど、幅が40m超えたあたり?からどうやっても水田の中を歩かないといけなくなってくる。
水田の中なんてできれば、歩きたくないのよ。うちでも40枚くらい、ほんとの大規模なら何百枚も田んぼあるのよ。
それは違う。効率を重視しすぎた結果、人間が対応できなくなっただけ。
効率的な肉体労働は、効率的に疲労を生み出し、効率的に人間の体を壊す。
ネギを抜くにしてもそう、手で抜くのか、腰で抜くのか、足で抜くのかを変えるんだ。
一番早いやり方でやり続ければ、必ず体のどこかが痛くなる。
でも足の置き方変えたり、肘を体につけて支点を変えたり、ネギを順手で持つか逆手で持つか変えたり、
出力に使う筋肉はできるだけ大きい筋肉、例えば背筋を使うのか大臀筋を使うのか、こういうのを意識的に変えたりすれば、
少し効率は悪くなるけど、ずっと続けて(休憩はいるけど)作業できる。
こういうのを教えるのは大変なんだ。言葉が通じないと尚更。
うちは日本人。ここでいう外国人というのは、外国人技能実習生のことを指してのことだろう。
この制度に賛成か反対かは政治的な議論になってしまうから避けたいところ。
利益とリスクという観点から日本人を雇用するという選択をした理由は以下2点。
1、制度の建前と実行内容が矛盾している。突然はしごをを外される可能性がある。
研修生という名目で労働力を得ているのはよく言われる通りだと思う。
ただ、研修生も技術を持ち帰るためではなく金を稼ぐために来ているというのもあり、どっちもどっちだとも思う。
技術を持ち帰るのであれば、きちんと農学を学んだ人が来るべきだと思う。
そもそも日本の農業には参考になる点はあっても、技術をそのまま母国に持ち帰っても使えないはずだ。
日本の気候は特殊すぎる。暖かすぎず、寒すぎず、四季がある。世界で最も雪が降る。各地で気候が違いすぎる。
冬がなければ、土中の有機物が年中分解し続けてしまうので肥沃さが失われる。
寒すぎれば泥炭のように未分解の有機物が溜まりすぎてこれまた作れるものが限られる。
それに火山灰土が多い、当然だが火山がなければ火山灰土はない。
そんな絶妙なバランスの中で培われた技術が日本の農業であって、だからこそ日本各地に農業改良普及センターが存在する。
気候や土が違えば技術が変わるし、技術を選択できる領域に達するのに2-3年は短すぎる。
他業界と比較して農業の特殊性を訴えるアプローチは嫌いなのだけど、
研修という名目で人を入れているのに、どう考えても研修自体が成立しないのだ、
大体、外国で研修しなくても、モナコ・シンガポールのような都市国家は除いてどんな国にも自国に農業はある。
国際世論からバッシングを受けたら制度自体が突然なくなっても不思議ではない。
人がいなくなってどうしようもなくなったら、規模縮小せざるをえない。
規模拡大の阻害要因は農地の獲得だが、規模縮小の阻害要因は借金だ。
一度大きくするために借金してしまったら、土地を返して済む話ではなくなってしまう。
今現在、農家数が著しく減少している、それは農政が票田として魅力的ではなくなることを意味する。
はしご外しはされるべくしてされたのだ。
全然関係ないけど、ホンダのアクティがなくなったのも農家数減少のせいだと思っている。
当地は夏秋作が中心の地域だ。12月から3月までは農作物はほとんどできないし、土は凍結している。
一度、トラクターを動かそうと思って地面に置いてあったロータリー持ち上げたら爪が折れてしまった。氷は恐ろしく固い。
日本人なら年間の変形労働制で対応できるが、外国人技能実習生はそれができないはずだ。(たぶん)
農業は仕事がない時はないのだ。稼げる時にしっかり稼いで、稼げない時は充電期間だ。
強引に自然に逆らうと利益は出ない。ちょっと逆らうくらいがちょうどいい。
●個人で売って儲けてる実績はある?農協と喧嘩するとどうなる?
これは国が助成金をもらった新規就農者にアンケートを取って調査した実績がある。
内容がネットで公開されているかは分からないし、僕も見た後に捨ててしまったのでソースを示せないのが残念。
記憶では個人販売で儲かるのはコメ。野菜は難しいという結果が出ている。
野菜はあっという間に悪くなるので在庫がほとんど持てない。取れる量も気温と日照で倍くらい余裕で変わる。
値段をつけられないが全量取ってくれる市場に出荷する方がロスが少なく圧倒的に楽。
農協の取り分は3%ほど。なお運賃・予冷代・箱代などは別でかかる。
農協は優秀よ。運賃なんて1箱数十円、個人ではトラックのチャーター便とか出せないからね。
あのインフラは生かすべき。
農協については、まず誤解を解くところから始めなければいけない。
今ここでいう農協とは単協、つまり農協組織の末端である地域の農協のみを指す。
農協解体とか言われるのは単協の上部組織の全農とか中央会とかの、つまり農協のための農協のことだ。
前提として、農協は敵対する組織ではない。言うなれば農家自身だ。
農家が集まって作った協同組合という体になっていて、農家は生産者であり出資者でもあり、顧客(肥料などの購入)でもある。
株式会社との一番の違いは、出資額や出荷額に関係なく一人一票制という民主的な組織であるという点。
意思決定において販売額が10万円でも1千万円でも権利は変わらない。
小さくても人が集まれば政治が発生する。農協がノーというのは、実は農業者の世論?がノーと言っているのである。
僕が農協と喧嘩をするということは、地域農家と喧嘩をするということであり、それは絶対に得策ではない。
ましてや僕のような移住者を支えるのは、地元出身の農業者からの信頼と必要性だ。
角界を維持し盛り上げるのに必要だから存在が許されるのであって、役割を終えたら国に帰る。理事会にまで入ることはない。
(それほど相撲に詳しいわけではないので、間違ってたらすまん。でも年寄りは相撲が好きだ。だからこの話は通じやすい。)
地域の農業には歴史がある。それをちゃんと理解し、説得し、それで初めて若者として提案ができる。
そう、若いだけで目立つ、目立ちすぎる。
なにせ60歳で「期待のルーキー」とか呼ばれる業界だ、40歳未満の若造なんてどう見られるか想像してもらいたい。
でも農協職員は農協ではないのだ。彼らは転属になって数年でいなくなる。
僕らが向き合うのは農協職員ではなく、これまで地域農業を支えてきた方々だ。
●青年就農給付金(現 農業次世代人材投資金)の効果はあったか
僕もこの制度は使わせてもらった。150万円ね。
150万の計算根拠は当時の最賃で月160時間程度働くと大体年間150万円くらいだからと理解している。
僕個人で言えば本当にありがたく有効に使わせてもらった。もらったお金は全部農機具に変わった。
ただし全体で見れば追跡調査の結果、5年後の給付金打ち切りとともに経営が成り立たなくなるケースが多かったとのこと。
この調査結果は公開されていると思うので、興味があれば調べて欲しい。
当時は制度が始まったばかりでアラが多かったけれども、今はだいぶ洗練wされて、条件が厳しくなってもらいにくくなっているはず。
当時の専門はWebプログラミング。SE続けてもそこそこ稼げたと思う。
多分生まれるのが20年早くってメインフレーム触ってるような時代だったらそのまま続けていただろうね。
そういうプログラミングは大好きだった。
ちょっと偉くなったところで社内で事業を立ち上げるようなものが求められるようになって、
僕にそういう企画力はなかった。
僕はHackしているのが好きだったのだ。
農業は実にHackしがいがある。いいところに流れ着いたものだ。
確かに稼ぎは多くない。
でも、農家が稼げる時というのは食糧危機の時だ。そんな時はもうきてはならない。
実は農業に限らず法人がもらえる補助金はとても種類が多く、給与所得者の多くは遠回りに恩恵に預かっている。
DanKogaiがツイートしていたように、雇用が社会保障のチャンネルになってしまっているからだ。
問題は農業の事業体がほとんどが個人であって、事業と個人の財布が区別されていないことにある。
だけどこれもじきに解決していくと思う。
大規模になればなるほど、個人の財産では事業の赤字・負債を処理できなくなっていく。
税務署は貸借対照表の左右が合わなくても受け取ってくれるそうだが、
(いくら儲かっていくら払ってくれるの?ってのが分かれば、税務署的には問題ない)
そんな会計していたら回らない。
農家がどうやって食っているのかという元エントリーの話に戻すと、
兼業や年金などで誤魔化していて農業では食っていないというのが、おじいちゃん農家の大多数の実情だ。
規模が小さければそれができる。プラマイゼロくらいには割と容易にできるし、それで十分だと思う。
その上食っていけているなら、それは仕事として必要十分ではないだろうか。
僕は定年後に農業を始めたいという60歳くらいの人は応援したいと思うし、ウェルカムです。
どうか、農家を生かさず殺さずにしておいてもらえればありがたい。
これは謙遜しているのではない。
金をジャブジャブ投入されたら、それは何も考えなくなる。
金がありすぎるのは、ないよりも問題だ。少し足りないくらいが一番いい。
アグリテックについて書いて欲しいと言ってくれた人、ありがとう。
今は過渡期で、ネットで言えばADSLを普及してるような段階だと思うよ。
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農地は農家でなければ借りられない。しかし農家になるには農地がなければならない。
ニワトリタマゴみたいなこの参入障壁を非農家は越えなければいけない。
どうやって超えるかは書かないので調べてね。
追記2:ネギが1本5円になったらどうすんの?ってブコメがあったので。
それはネギ作るのやめるよ。機械投資の回収も全て諦める。これまで学んで身につけた栽培技術も全て捨てる。
未練はない。埋没原価は回収できないから埋没なんだ。何をしてきたかではなく、これから何ができるかだけを考える。
借金は?ってなるけど、詳しく書かないがそれをカバーする金融スキームは存在する。大丈夫。
事業の失敗は事業で取り戻すしかないんだ。もう個人資産でカバーできる範囲は超えてるんだから。
明日から5円になったら、ネギ畑を半分潰して5年経験があるブロッコリー作るかな。
6/15播種なら9/5には採れる、めっちゃギリだけどネギ収穫開始をカバーできるな。
育苗期間が25日ほどあるので、とりあえず播種だけして、その間がネギを潰すかの検討できる猶予期間になる。
作ったことない作型ではあるけど、技術的なフォローは種苗会社・普及センターがやってくれるし、栽培している仲間もいる。
それ以外にも考えられる方法はまだいくつかある。こんな感じでオプションは存在する。
僕のネギを待っていてくれるお客さんがいて、その人が再生産価格を出してくれるのであればその分は栽培は続ける。
中国に勝てる?って言われても、僕は別に中国と勝負してるわけじゃないし、
日本のネギ栽培の運命背負ってるわけでもないので、戦わないという選択をするね。
前提を崩すようで悪いが、ネギ1本5円は産業構造上、実現しないと思われる。
輸入は青果業者がする。青果業者が全国に販売するには市場というインフラを使うわけだが、
市場は手数料を売上からパーセンテージで取る商売なので、そもそもそんな安いくせにかさばるものは取り扱いたくない。
どんなスーパー・外食チェーンであっても、市場の世話に全くならないところはないだろう。
それ故、そのネギはシェアを取ることはできない。多分市場に到達する前にどこかで、市場価格まで上がるだろう。
普通に考えれば生産業者の総取りになり、5円でネギを作れる業者はウハウハだろうけど、
大量に作りすぎても販売上不利になってしまうので、ほどほどのところでやめるのではないか。
風が吹けば桶屋が儲かるくらい遠い話のような気がするが、こう聞けば納得してもらえるだろう。
安いものは消費者は喜ぶだろう。でもそれに関わる業者は適切な利益が取れなければ、産業として成立しない。
農家はしぶといよ。じゃないとやってられない、心がもたない。
就農初年度に建てたビニールハウス、100年に1度の大雪で潰れかけて徹夜で雪下ろししてなんとか守ったのに、
九月二日
一郎と五年生の耕一とは、丁度午后ごご二時に授業がすみましたので、いつものように教室の掃除そうじをして、それから二人一緒いっしょに学校の門を出ましたが、その時二人の頭の中は、昨日の変な子供で一杯いっぱいになっていました。そこで二人はもう一度、あの青山の栗の木まで行って見ようと相談しました。二人は鞄をきちんと背負い、川を渡わたって丘おかをぐんぐん登って行きました。
ところがどうです。丘の途中とちゅうの小さな段を一つ越こえて、ひょっと上の栗の木を見ますと、たしかにあの赤髪の鼠色のマントを着た変な子が草に足を投げ出して、だまって空を見上げているのです。今日こそ全く間違まちがいありません。たけにぐさは栗の木の左の方でかすかにゆれ、栗の木のかげは黒く草の上に落ちています。
その黒い影かげは変な子のマントの上にもかかっているのでした。二人はそこで胸をどきどきさせて、まるで風のようにかけ上りました。その子は大きな目をして、じっと二人を見ていましたが、逃にげようともしなければ笑いもしませんでした。小さな唇くちびるを強そうにきっと結んだまま、黙だまって二人のかけ上って来るのを見ていました。
二人はやっとその子の前まで来ました。けれどもあんまり息がはあはあしてすぐには何も云えませんでした。耕一などはあんまりもどかしいもんですから空へ向いて、
「ホッホウ。」と叫んで早く息を吐はいてしまおうとしました。するとその子が口を曲げて一寸ちょっと笑いました。
一郎がまだはあはあ云いながら、切れ切れに叫びました。
「汝うなぁ誰たれだ。何だ汝うなぁ。」
するとその子は落ちついて、まるで大人のようにしっかり答えました。
「風野又三郎。」
「どこの人だ、ロシヤ人か。」
するとその子は空を向いて、はあはあはあはあ笑い出しました。その声はまるで鹿しかの笛のようでした。それからやっとまじめになって、
「ああ風の又三郎だ。」一郎と耕一とは思わず叫んで顔を見合せました。
「だからそう云ったじゃないか。」又三郎は少し怒おこったようにマントからとがった小さな手を出して、草を一本むしってぷいっと投げつけながら云いました。
「そんだらあっちこっち飛んで歩くな。」一郎がたずねました。
「うん。」
「面白いか。」と耕一が言いました。すると風の又三郎は又笑い出して空を見ました。
「うん面白い。」
「昨日何なして逃げた。」
「逃げたんじゃないや。昨日は二百十日だい。本当なら兄さんたちと一緒にずうっと北の方へ行ってるんだ。」
「何なして行かなかった。」
「兄さんが呼びに来なかったからさ。」
「何て云う、汝うなの兄あい※[#小書き平仮名な、82-14]は。」
「風野又三郎。きまってるじゃないか。」又三郎は又機嫌きげんを悪くしました。
「あ、判わかった。うなの兄※[#小書き平仮名な、82-16]も風野又三郎、うなぃのお父さんも風野又三郎、うなぃの叔父おじさんも風野又三郎だな。」と耕一が言いました。
「そうそう。そうだよ。僕ぼくはどこへでも行くんだよ。」
「うん。」
「岩手山へも行ったが。」
「岩手山から今来たんじゃないか。ゆうべは岩手山の谷へ泊とまったんだよ。」
「いいなぁ、おらも風になるたぃなぁ。」
すると風の又三郎はよろこんだの何のって、顔をまるでりんごのようにかがやくばかり赤くしながら、いきなり立ってきりきりきりっと二三べんかかとで廻まわりました。鼠色のマントがまるでギラギラする白光りに見えました。それから又三郎は座って話し出しました。
「面白かったぞ。今朝のはなし聞かせようか、そら、僕は昨日の朝ここに居たろう。」
「あったりまえさ、あったりまえ。」又三郎は口を曲げて耕一を馬鹿ばかにしたような顔をしました。
「そう僕のはなしへ口を入れないで黙っておいで。ね、そら、昨日の朝、僕はここから北の方へ行ったんだ。途中で六十五回もいねむりをしたんだ。」
「何なしてそんなにひるねした?」
「仕方ないさ。僕たちが起きてはね廻っていようたって、行くところがなくなればあるけないじゃないか。あるけなくなりゃ、いねむりだい。きまってらぁ。」
「歩けないたって立つが座ねまるかして目をさましていればいい。」
「うるさいねえ、いねむりたって僕がねむるんじゃないんだよ。お前たちがそう云うんじゃないか。お前たちは僕らのじっと立ったり座ったりしているのを、風がねむると云うんじゃないか。僕はわざとお前たちにわかるように云ってるんだよ。うるさいねえ。もう僕、行っちまうぞ。黙って聞くんだ。ね、そら、僕は途中で六十五回いねむりをして、その間考えたり笑ったりして、夜中の一時に岩手山の丁度三合目についたろう。あすこの小屋にはもう人が居ないねえ。僕は小屋のまわりを一ぺんぐるっとまわったんだよ。そしてまっくろな地面をじっと見おろしていたら何だか足もとがふらふらするんだ。見ると谷の底がだいぶ空あいてるんだ。僕らは、もう、少しでも、空いているところを見たらすぐ走って行かないといけないんだからね、僕はどんどん下りて行ったんだ。谷底はいいねえ。僕は三本の白樺しらかばの木のかげへはいってじっとしずかにしていたんだ。朝までお星さまを数えたりいろいろこれからの面白いことを考えたりしていたんだ。あすこの谷底はいいねえ。そんなにしずかじゃないんだけれど。それは僕の前にまっ黒な崖がけがあってねえ、そこから一晩中ころころかさかさ石かけや火山灰のかたまったのやが崩くずれて落ちて来るんだ。けれどもじっとその音を聞いてるとね、なかなか面白いんだよ。そして今朝少し明るくなるとその崖がまるで火が燃えているようにまっ赤なんだろう。そうそう、まだ明るくならないうちにね、谷の上の方をまっ赤な火がちらちらちらちら通って行くんだ。楢ならの木や樺の木が火にすかし出されてまるで烏瓜からすうりの燈籠とうろうのように見えたぜ。」
「そうだ。おら去年烏瓜の燈火あかし拵こさえた。そして縁側えんがわへ吊つるして置いたら風吹いて落ちた。」と耕一が言いました。
「僕お前の烏瓜の燈籠を見たよ。あいつは奇麗きれいだったねい、だから僕がいきなり衝つき当って落してやったんだ。」
「うわぁい。」
耕一はただ一言云ってそれから何ともいえない変な顔をしました。
又三郎はおかしくておかしくてまるで咽喉のどを波のようにして一生けん命空の方に向いて笑っていましたがやっとこらえて泪なみだを拭ふきながら申しました。
「僕失敬したよ。僕そのかわり今度いいものを持って来てあげるよ。お前※[#小書き平仮名ん、85-9]とこへね、きれいなはこやなぎの木を五本持って行ってあげるよ。いいだろう。」
耕一はやっと怒るのをやめました。そこで又三郎は又お話をつづけました。
「ね、その谷の上を行く人たちはね、みんな白いきものを着て一番はじめの人はたいまつを待っていただろう。僕すぐもう行って見たくて行って見たくて仕方なかったんだ。けれどどうしてもまだ歩けないんだろう、そしたらね、そのうちに東が少し白くなって鳥がなき出したろう。ね、あすこにはやぶうぐいすや岩燕いわつばめやいろいろ居るんだ。鳥がチッチクチッチクなき出したろう。もう僕は早く谷から飛び出したくて飛び出したくて仕方なかったんだよ。すると丁度いいことにはね、いつの間にか上の方が大へん空あいてるんだ。さあ僕はひらっと飛びあがった。そしてピゥ、ただ一足でさっきの白いきものの人たちのとこまで行った。その人たちはね一列になってつつじやなんかの生えた石からをのぼっているだろう。そのたいまつはもうみじかくなって消えそうなんだ。僕がマントをフゥとやって通ったら火がぽっぽっと青くうごいてね、とうとう消えてしまったよ。ほんとうはもう消えてもよかったんだ。東が琥珀こはくのようになって大きなとかげの形の雲が沢山たくさん浮うかんでいた。
『あ、とうとう消けだ。』と誰たれかが叫んでいた。おかしいのはねえ、列のまん中ごろに一人の少し年老としとった人が居たんだ。その人がね、年を老って大儀たいぎなもんだから前をのぼって行く若い人のシャツのはじにね、一寸ちょっととりついたんだよ。するとその若い人が怒ってね、
『引っ張るなったら、先刻さっきたがらいで処とこさ来るづどいっつも引っ張らが。』と叫さけんだ。みんなどっと笑ったね。僕も笑ったねえ。そして又一あしでもう頂上に来ていたんだ。それからあの昔むかしの火口のあとにはいって僕は二時間ねむった。ほんとうにねむったのさ。するとね、ガヤガヤ云うだろう、見るとさっきの人たちがやっと登って来たんだ。みんなで火口のふちの三十三の石ぼとけにね、バラリバラリとお米を投げつけてね、もうみんな早く頂上へ行こうと競争なんだ。向うの方ではまるで泣いたばかりのような群青ぐんじょうの山脈や杉すぎごけの丘のようなきれいな山にまっ白な雲が所々かかっているだろう。すぐ下にはお苗代なわしろや御釜おかま火口湖がまっ蒼さおに光って白樺しらかばの林の中に見えるんだ。面白かったねい。みんなぐんぐんぐんぐん走っているんだ。すると頂上までの処にも一つ坂があるだろう。あすこをのぼるとき又さっきの年老としよりがね、前の若い人のシャツを引っぱったんだ。怒っていたねえ。それでも頂上に着いてしまうとそのとし老よりがガラスの瓶びんを出してちいさなちいさなコップについでそれをそのぷんぷん怒っている若い人に持って行って笑って拝むまねをして出したんだよ。すると若い人もね、急に笑い出してしまってコップを押おし戻もどしていたよ。そしておしまいとうとうのんだろうかねえ。僕はもう丁度こっちへ来ないといけなかったもんだからホウと一つ叫んで岩手山の頂上からはなれてしまったんだ。どうだ面白いだろう。」
「面白いな。ホウ。」と耕一が答えました。
「又三郎さん。お前まいはまだここらに居るのか。」一郎がたずねました。
又三郎はじっと空を見ていましたが
「そうだねえ。もう五六日は居るだろう。歩いたってあんまり遠くへは行かないだろう。それでももう九日たつと二百二十日だからね。その日は、事によると僕はタスカロラ海床かいしょうのすっかり北のはじまで行っちまうかも知れないぜ。今日もこれから一寸向うまで行くんだ。僕たちお友達になろうかねえ。」
「はじめから友だちだ。」一郎が少し顔を赤くしながら云いました。
「あした僕は又どっかであうよ。学校から帰る時もし僕がここに居たようならすぐおいで。ね。みんなも連れて来ていいんだよ。僕はいくらでもいいこと知ってんだよ。えらいだろう。あ、もう行くんだ。さよなら。」
又三郎は立ちあがってマントをひろげたと思うとフィウと音がしてもう形が見えませんでした。
一郎と耕一とは、あした又あうのを楽しみに、丘を下っておうちに帰りました。
九月三日
その次の日は九月三日でした。昼すぎになってから一郎は大きな声で云いいました。
「おう、又三郎は昨日又また来たぞ。今日も来るかも知れないぞ。又三郎の話聞きたいものは一緒いっしょにあべ。」
残っていた十人の子供らがよろこんで、
「わぁっ」と叫びました。
そしてもう早くもみんなが丘おかにかけ上ったのでした。ところが又三郎は来ていないのです。みんなは声をそろえて叫びました。
それでも、又三郎は一向来ませんでした。
「風どうと吹いて来こ、豆呉けら風どうと吹いで来こ。」
空には今日も青光りが一杯いっぱいに漲みなぎり、白いまばゆい雲が大きな環わになって、しずかにめぐるばかりです。みんなは又叫びました。
又三郎は来ないで、却かえってみんな見上げた青空に、小さな小さなすき通った渦巻うずまきが、みずすましの様に、ツイツイと、上ったり下ったりするばかりです。みんなは又叫びました。
それでも又三郎はやっぱり来ませんでした。
ただ一疋ぴきの鷹たかが銀色の羽をひるがえして、空の青光を咽喉一杯に呑のみながら、東の方へ飛んで行くばかりです。みんなは又叫びました。
その時です。あのすきとおる沓くつとマントがギラッと白く光って、風の又三郎は顔をまっ赤に熱ほてらせて、はあはあしながらみんなの前の草の中に立ちました。
「ほう、又三郎、待っていたぞ。」
みんなはてんでに叫びました。又三郎はマントのかくしから、うすい黄色のはんけちを出して、額の汗あせを拭きながら申しました。
「僕ね、もっと早く来るつもりだったんだよ。ところがあんまりさっき高いところへ行きすぎたもんだから、お前達の来たのがわかっていても、すぐ来られなかったんだよ。それは僕は高いところまで行って、そら、あすこに白い雲が環になって光っているんだろう。僕はあのまん中をつきぬけてもっと上に行ったんだ。そして叔父おじさんに挨拶あいさつして来たんだ。僕の叔父さんなんか偉えらいぜ。今日だってもう三十里から歩いているんだ。僕にも一緒に行こうって云ったけれどもね、僕なんかまだ行かなくてもいいんだよ。」
「僕の叔父さんかい。叔父さんはね、今度ずうっと高いところをまっすぐに北へすすんでいるんだ。
叔父さんのマントなんか、まるで冷えてしまっているよ。小さな小さな氷のかけらがさらさらぶっかかるんだもの、そのかけらはここから見えやしないよ」
「去年は今よりもう少し早かったろう。面白おもしろかったねえ。九州からまるで一飛びに馳かけて馳けてまっすぐに東京へ来たろう。そしたら丁度僕は保久大将の家を通りかかったんだ。僕はね、あの人を前にも知っているんだよ。だから面白くて家の中をのぞきこんだんだ。障子が二枚はずれてね『すっかり嵐あらしになった』とつぶやきながら障子を立てたんだ。僕はそこから走って庭へでた。あすこにはざくろの木がたくさんあるねえ。若い大工がかなづちを腰こしにはさんで、尤もっともらしい顔をして庭の塀へいや屋根を見廻みまわっていたがね、本当はやっこさん、僕たちの馳けまわるのが大変面白かったようだよ。唇くちびるがぴくぴくして、いかにもうれしいのを、無理にまじめになって歩きまわっていたらしかったんだ。
そして落ちたざくろを一つ拾って噛かじったろう、さあ僕はおかしくて笑ったね、そこで僕は、屋敷やしきの塀に沿って一寸戻ったんだ。それから俄にわかに叫んで大工の頭の上をかけ抜ぬけたねえ。
甘いざくろも吹き飛ばせ
酸すっぱいざくろも吹き飛ばせ
ホラね、ざくろの実がばたばた落ちた。大工はあわてたような変なかたちをしてるんだ。僕はもう笑って笑って走った。
電信ばしらの針金を一本切ったぜ、それからその晩、夜どおし馳けてここまで来たんだ。
ここを通ったのは丁度あけがただった。その時僕は、あの高洞山たかぼらやまのまっ黒な蛇紋岩じゃもんがんに、一つかみの雲を叩たたきつけて行ったんだ。そしてその日の晩方にはもう僕は海の上にいたんだ。海と云ったって見えはしない。もう僕はゆっくり歩いていたからね。霧きりが一杯に
どうしても根本のゲーム性として単調になりがちなので、作業ゲーが苦手な人は向いてないと思う。農作業で能力を高める→ダンジョン探索する、という流れを繰り返す。
ダンジョン探索部分は羽衣を使ったワイヤーアクションや敵をぶつけて吹っ飛ばすアクションなんかは楽しい。技のカスタマイズやコンボ繋げる部分とかも結構凝って作られている。ただしインフレが激しくて、相手の能力値が高いとまるでダメージが通らないし自分の能力が高いとほとんど一撃で倒せるような調整になっている。この大味なバランスを雑にどっかーんってできて楽しいと捉えるか実力が混ざる要素が減ってつまらないと捉えるかは微妙なところ。個人的には(後述のように)稲作を適当にやってれば適当に強くなれる仕様との噛み合わせはよくないよなあと思う。
米を収穫するたびにサクナの能力が上がるハクスラ要素。かなり細かく作られている。雑に肥料をガンガン与えて栄養を増やすだけではよくないらしい(トライフォース農法という言葉が有名になった)。土壌の様子を見ながら肥料に気を使ったり欲しいステータスに応じて稲作の方針を変えたり、本気でいい米を作ろうとするとなかなか沼の世界になる。肥料を最低限に抑えて雑草を減らすとか、農薬をドバドバ入れるとか、わざと防虫のパラメータをマイナスにして蜘蛛を養殖するとか、手段も様々。ストーリーを進めるごとに設備が整い、どんどん便利になっていくのも牧場系ゲームの定番って感じで快適。
ただ、ぶっちゃけ年数を重ねる方が大事。どんなに雑に稲作してもステータスは増えていくし、マイナスになることはない。ほどほどにこなして収穫するだけでかなりのステータス上昇になるし、十分に気を使って稲作した場合と上昇幅に大差がない。じゃあ適当にこなして回数を重ねればいいよねってなってしまう。食事効果なんかもあるんだけど、凝った料理を作ろうと思うと素材管理が大変なのとやっぱり稲作の上昇幅にはかなわないという都合上、どんどん雑な扱いになってくる。
ここもまた捉え方次第だと思う。余計に難易度が高くても大変だし、農作業の雰囲気だけでも楽しいし。稲作難易度(!?)の設定を変えればまた違った感想になるかも。
とてもよかった。稲作してハクスラするゲームねハイハイ、って思ってたところから異常なまでに濃い世界観と胸熱なストーリーに魅せられた。
3~4分ほどの長時間、"サクナたちが歌いながら田植えするだけ"という異常なムービーシーンがある。そこに至るまでの過程もある。なぜ農民は歌うのか?文化は、信仰はどのように作られるのか?"文化としての稲作"というものまで正面から向かい合った作品であることを象徴するシーンだった。
新鮮さも薄れてきて、延々と死んだ目で稲作とダンジョン探索を繰り返す作業ゲーの先を乗り越えた頃。ゲーム終盤に入る頃。
農作業を繰り返して心まで農民に染まりきったプレイヤーに、ラスボスの登場によって(以下ネタバレにつき反転)
という衝撃の鬱展開が襲う。
それに伴ってサクナの力も失われ、全てがなくなり、絶望を味わうことになる。
それでも立ち上がって一つ一つ取り戻していく。その過程が本当涙腺に来た。農民は負けないのだ。プレイヤーも負けないぞ。作業ゲー?そんなもん知るか、俺は稲作に忙しいんだ。さあ今日も仕事だ。
「また美味い米を作るぞー!!」
全てが終わり、サクナが歩いて家に帰るところでスタッフロール。今まで費やしてきた思いと映るヒノエ島の風景が合わさり、心に残るエンディングになった。
・適当な稲作を回数繰り返してステータスを上げる以外の選択肢がないバランス。明らかな格上の敵相手にプレイングスキルで勝つことはほぼできない(ダメージが通らない)し、稲作に気を使っても大してステータスは変わらないのでひたすら繰り返すしかない。
・ラスボス戦で唐突に別ゲーを強いられる。今までの快適アクションはどこに!?
・一部ダンジョンの探索条件が鬼畜。宝のために隠し通路なんかを探す作業は割と好きだけど、ランダム素材を集めることが条件になっていたりすると苦行になる。ちなみにダンジョンの探索条件はゲーム攻略の間接的なヒントになってたりして、弱点属性を教えてくれたり食事効果の大切さを教えてくれたりする部分もある。
とてもいいゲームでした。
わたしが伝えたかったのはドラえもんは間違ってはなかったよということです。つまり褒めています。
うまく伝わらなかったようなので書き直しますね。
ドラえもんが最新の知見を取り込んだ結果、昔の知識しか持たないおじさんおばさんが「これは間違っている」と騒いでいるのです。
羽毛恐竜と恐竜の進化という、すごい勢いで研究の進んでいる分野において「これは間違っている」とか「あっている」とか本当はいいたくありません。
わたしにそのような知識も能力もありません。でもさすがに始祖鳥が出てこないから歴史改変だなどという発言はいくらなんでもないでしょう。だって現在の図鑑には始祖鳥はのっていません。始祖鳥は10年前に消えました。載っていたとしてもそれはアーケオプテリクスという名前で、扱いはかなり小さくなっています。「科学の軽視、子供たちへの影響が」などと言っていますが彼らはその子供達の持っている図鑑を開こうともしていません。
ドラえもんのキューとミューは中国の白亜紀前期〜後期から現在大量に見つかっている羽毛恐竜が元ネタです。
「舞台が白亜紀なのはおかしい恐竜から鳥への進化はジュラ紀に終わっている」と言っている人がいましたが、恐竜から鳥への進化とはそのような単純なものではないですよ、以前と違い鳥と恐竜の境目はかなり曖昧になっていますよ、と前回の記事に書いたとおりです。
白亜紀の中国におおきな湖があってその周りでは火山が噴火を繰り返していました。
羽毛恐竜の死骸が湖の底に沈み火山灰が降り積もり、羽毛の状態が確認できるほどの素晴らしい魚拓として機能したのです。
そのため中国の白亜紀から大量の羽毛恐竜がみつかりすごい勢いで研究が進んでいるのです。
そもそも「正しい知識」ってなんでしょうね?知識なんて数年で大きく変わるのに。そんなことを言っていたら恐竜を扱う作品は何も見れなくなります。
作品に「正しい知識」を求めるのではなく、知識を得る方法、専門家の探し方、勉強すること、考えることを教えた方が建設的ではないでしょうか。
魚を与えるのではなく取る方法を教えるというやつです。知識なんて研究とともに変わっていきますし、正しい答えを誰も知らないなんてのもよくあることですから。
https://m.youtube.com/watch?v=n3gmHuekb4E
この前けっこうスゴい雷雨がきて、光ってから音がするまで2秒もないくらいの距離感になり、しばらくそりゃもうとんでもない音が聞こえていた。
コンクリートの立派な建物の中にいて、雷で自分がどうにかなる確率はほぼ0%と分かっていて、雷がどういう仕組みで起きる何なのかという知識も雑ながらあるのにスゲー怖かった。ってことは古代の人が感じる恐怖は比じゃないだろう。
家はショボく、雷の挙動は謎、なんなのかもわからん。なんなのか分からないが天がものすげえ光ったと思ったら突然目の前の木が炎上して砕け散り、えげつない轟音が鳴り響く。至近距離の雷、マジで太鼓と絹を裂く音を合わせたような怪音で怖すぎる!
そりゃ神というか、とてつもない力を持ったなんらかの存在が何かしているとも思うだろう。
https://m.youtube.com/watch?v=4hY_jodOecU
この動画の一本目がすげえ好きなんだよな。ムチャクチャでかい噴煙、火山灰と分かっていてもやっぱり迫力がすごい。
俺も火山県の出身だから噴煙はある程度見慣れてるはずなんだけど、やっぱりある程度デカい噴火があるとつい見入ってしまう。
突然5000mとかのバカみてえな高さをもつ灰色の塊が空に立ち上がるわけで、なんなのか分かんなかったらさぞかし怖かろうと思う。それこそ神にも見えるに違いない。
つか、太陽のアホみたいな明るさといい月の綺麗さといい海のバカデカさといい、なんつうか世界ってすごいよなあ。
文明社会で育ったせいでどうしても自然を舐めてしまうというか、いわば攻略を読み漁ったあとゲームに臨んでるようなところが自然に関してはあると思う。
俺もこの世界がなんなのか全然分かってない状態でポンと放り出されたら、雷は神の怒りだと思うし月は空にあいた穴だと思うし地平線の向こうは無だと思うし噴煙は神そのものの顕現だと思うに違いないと思う。
去年の話。
ひさしぶりに帰省して、せっかくだし故郷鹿児島を堪能してみるか!と思ったので桜島に出かけた。桜島はそれなりの頻度で噴火する活火山で、浪人時代にはよく予備校の最上階まで登って噴煙を見ようとしていた(さすがに噴火してないときの方が多いので、時々噴煙を見られると嬉しかった)。おい桜島よお…なんて語りかけるくらいに親しみを持っていたのだが、じつは行ったことがない。このままではいけないなと思ったのだった。
数年ぶりに乗った鹿児島本線は阪急と比べて揺れが激しい気がした。いっぽうで線路周りに建物が少ないからかどことなく車内が明るい感じもして、案外普通列車にもカラーが出るもんだと感心した記憶がある。
道中にある上伊集院駅から見えるホーム周辺の景色がけっこう好きだ。松陽台という新興住宅街があって、それの乗っかる丘がよく見える。なかなか爽やかな丘で、学生たちが坂道を登っていく様子がなんだか素敵だ。坂の上には松陽高校というのがあるが、ここは制服が全身緑色なことで悪名高い。松陽高校に行った友達と駅で出くわして、「マジでズボンまで緑色で最悪、なんなのこの制服、頭おかしい」と愚痴られたのをよく覚えている。松陽の話終わり!
鹿児島中央駅もけっこう好きだ。正直あんまり全貌を把握してないんだけど、とつぜん屋久杉のオブジェみたいなのがあったりするのが愛らしい。メインの出口から出たところでバァーンと桜島が見えそうな位置なのに、ホテルか何かのでけえビルに阻まれてイマイチ見えないのもいい。故郷のダメさは愛嬌にみえる。
鹿児島中央駅からフェリー乗り場まで徒歩で行くには暑かったので、市電に乗った。路面電車というものに憧れがあって、地元で進学してたら毎日路面電車に親しんでいたのかなと思うとちょっと惜しい気もする。まあ阪急とトレードオフなのかもしれない。阪急も悪くない。赤いし…
フェリー乗り場は水族館の近くにあって、その辺りは道も広いしヤシの木(?)も植わってるしでかなり雰囲気がいいんだよな。車通りに比べて歩行者が少ないのもなんだか孤独感があって良かった。かつて家族で水族館に来るたびすげえワクワクしてたのは周辺環境のよさも手伝ってたのかもしれない。
広い道のデカい横断歩道を歩行者ひとりの状態で渡ろうとすると、小心者なのでどうしても走ってしまう。暑いからちょっと走っただけで汗まみれになる。そうして汗まみれになりつつも歩いていくと、フェリー乗り場につながる赤い連絡通路が見えてくる。この通路は水族館にもつながっているらしい。一瞬やっぱり冷房の効いた水族館に行こうかとも思ったが、初心一徹!と思い直して桜島フェリー乗り場に向かった。潮の匂いがしてテンションが上がってくる。
フェリーは安かった。500円くらい取られるかと思っていたがなんと片道160円だった。コンビニのサンドイッチより安い。阪急一駅分くらいだ。もっと乗っておけばよかった…と後悔しつつ船に向かう途中に水族館がよく見えるのも心憎い。鹿児島水族館はオーストラリアのオペラハウスをショボくしたような外観をしていて、なかなか心に残るのだ。
フェリーはかなり大きくて、わりと見応えがあった。甲板に観光地特有のコイン式双眼鏡があったんでなんとなく近づいてみる。と、どうも様子がおかしい。コインを入れるところがない。よくみるとなんとタダで見放題らしい!全体的に太っ腹だ。つっても見るもんなんて大してないのだが…しかし港にいる見られているなんて全く思ってなさそうなオッサンを一方的に見るのには奇妙な快感があった。港にいるオッサン1を船の上からオッサン2が双眼鏡で覗く。いいね。いいか?よくないかも…
桜島は中心市街から20分くらいで行けるわりに離島らしい趣があって大変よかった。道は水族館あたりよりさらに広く、なぜか三車線あるところすらあるのに車通りは少なくて、歩く人の姿もまばら。特に目的地なしに来たのでちょっと途方に暮れたが、グーグルマップを見ると少し歩いたところに足湯があるらしい。とりあえずそっちに向かって歩き出す。道路の隅のあちこちに火山灰が溜まって黒いまだら模様ができていて、火山島に来たぞ!と思った。まあ地元の街にも灰は降るが…
途中に巨大な駐車場のローソンがあって、なんだか逆に寄る辺ない感じがした。知らない土地に見慣れたものがひとつだけあるとかえって寂しい。たしか入ってみたけど、中のことはあまり覚えていない…ってことは、まあ普通だったんだろう。水を買ったような気がする。
国民宿舎なんてカッコいい名前の建物の横を抜ける。ネコがたくさんいて、日差しを避けて木陰に集まっているのがいかにものどかだった。
足湯近郊は遊歩道になっているようだった。ザ・火山性って感じの黒くてゴツゴツした岩場、なんとなく見慣れない感じの植生、灰まみれの道。特に何があるというわけでもないが、目に入るものすべてがなんとなく普段目にするものと違う感じで楽しかった。
歩いてる人はあまり多くなくて、足湯までに数組とすれ違っただけだった。人の少ない遊歩道は最高
暑かったが足湯には入った。火山らしさのある(?)濁った湯で、悪くなかった。対岸が見える鹿児島湾とはいえ海が見えるのもよかった。タオルを持ってなかったんでどうしようかと思ったが、サンダル履きだしよく晴れた夏の日の昼だったからすぐ乾いた。
遊歩道を抜けようと思ってたんだけど、足湯を過ぎてちょっと歩いたところで通行止めになってたから泣く泣く帰った。
遊歩道の入り口あたりに戻る頃には昼時で、何か食おうと思って見回したり地図を見たりしながら帰ったんだけど、どうも気軽に入れそうな飯屋が見つからなかった。
しかたないし本土に戻ってから食おうかなと思ってフェリー乗り場に戻ったところでいい感じのカフェーを見つけて、そこで「桜島マグマバーガー」なるものを食った。辛めの味付けの鶏肉がメインのバーガーで、まあまあうまかったが異常に熱くて口をやけどした覚えがある。外国人向けに英語で「噴火ににビビるな!」みたいな内容の張り紙がしてあって、食いながら興味深く読んだ覚えがある。
それからフェリーで本土に戻って、結局水族館にも寄って帰った。水族館もなかなか楽しかったが、子供の頃のほうが楽しめた気がした。
桜島、最高!なんせ安い。ほとんど何もやってないのに妙に楽しめた。あんまり人がいない。非日常感がある。行きやすい。100点!
https://twitter.com/pink_yellowish/status/1057925168406773761?s=20
【2012年】
□第2次安倍内閣発足
【2013年】
●アベノミクス発表
●東京五輪決定
【2014年】
●消費税8%引き上げ
□第3次安倍内閣発足
【2015年】
【2016年】
【2017年】
●森友問題
【2018年】
【2018年続き】
●省庁の障害者雇用水増し発覚
【2018年続き】
□第4次安倍改造内閣発足
【2018年続き】
●平井大臣 選挙運動費用収支報告書に約700万円分の無宛名領収書61枚
【2018年続き】
●片山さつき 暴力団交際者から事務所無償提供&秘書給与肩代わり
【2018年続き】
【2018年続き】
【2019年】
【2019年続き】
【2019年続き】
●安倍首相「自衛隊募集は都道府県6割以上が協力拒否」実際は9割協力
●政府統計 2018年1月から日雇労働者120万人外し賃金操作
【2019年続き】
【2019年続き】
【2019年続き】
【2019年続き】
●消費税8%据え置きの軽減税率食料品 政府指針で増税前値上げを推奨
●エジプト・シナイ半島で活動する多国籍軍に陸上自衛官の派遣決定
●塚田一郎副国土交通相 下関北九州道路建設計画「私が忖度した」発言辞任
●新元号「令和」に米NYタイムズ紙「Order and Peace(命令と平和)」
【2019年続き】
●米WSJ紙社説 日本の消費増税が「自傷行為」になるとの見解
●F35戦闘機 米報告書で未解決欠陥966件 100件以上は安全に関わる重大欠陥→政府100機追加購入
【2019年続き】
【2019年続き】
●WTO逆転敗訴 政府の「日本産食品の科学的安全性認められた」は虚偽説明
●日の丸掲揚と君が代斉唱に従わない教職員の懲戒処分 国際労働機関ILOが是正勧告
【2019年続き】
○元号が令和となる
●経産省キャリア職員 覚醒剤使用で現行犯逮捕 省内の机から注射器押収
●自民党兵庫県議谷口氏 選挙期間中当て逃げ 親族が身代わり出頭
【2019年続き】
【2019年続き】
●トランプ氏来日 過剰接待 大相撲でソファ土俵にスリッパ 日米で批判
【2019年続き】
【2019年続き】
●人口自然減 初の40万人超 出生率3年連続減 出生数過去最少更新
【2019年続き】
●国家戦略特区 政府WG委員関連会社 提案者から指導料200万円
●非正規雇用者 10人中4人に増加 年収200万円未満75%
【2019年続き】
●老後2000万円報告書「質問への答弁控える」政府が閣議決定
【2019年続き】
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●国連特別報告者 日本メディア独立性疑念への日本の拒絶反応に「驚愕した」
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