はてなキーワード: 苦痛とは
とにかく文字を読んでないと落ち着かない
内容はなんでもよくてとにかく文字を目に入れておきたい
だからと言って全部覚えてるわけじゃないし、ぶっちゃけ本じゃなくてもいい
でもよく言われる説明書とか調味料の裏とかは個人的には文の意味をなしてないから苦痛
とにかくスマホで5ch、まとめ、Twitter、ここ、pixiv、漫画アプリと文字ばっかり追ってる
ニコニコ>YouTubeだったのも文字が流れてくるから
FGOもやってたけど自分の速さで文字が読めなくてイライラしてしまいゲームをやめた
これを治療したい
どこにいけば治るの?
というのも、増田は
理論経済学的には、最低賃金を設定することで、死荷重(最低賃金以下での雇用機会の損失による非効率)が発生し、労働市場の効率が悪くなり、社会全体の効用が下がる、という予測が導き出される
と書いているけれどもこれは正しくなく、経済学の理論の上ではまさにあまりに低い最低賃金(あるいは最低賃金がない)でもあまりに高い最低賃金でも、どちらも社会厚生を悪化させるという予測が導き出され、これが実際上にも問題になってくるから。どうして理論の上であまりに低い最低賃金が問題になってくるかといえば、雇用者と労働者では交渉力に違いがあるため、労働市場は完全競争市場ではないので価格規制的な最低賃金が雇用を増やすケースがあるためだ。興味のある人は「最低賃金 買手独占」で検索してみると色々と解説が見つかるだろう。
では、最低賃金は低すぎても高すぎてもだめな、いわゆる程度問題という時に、たとえば現在の日本で全国一律1500円というのはどのような具合と想定できるかであるが、これは高すぎ(つまり社会厚生を悪化させる)な可能性が高い。
そう考えられる理由は3点。一つは、平均的な人にとっては別に高すぎる最低賃金ではなくても、これまで就労による技能獲得の機会に恵まれなかった人たちなど特定の層にとっては高すぎる最低賃金となり得て、その人たちに皺寄せが行ってしまう可能性があること。もともと恵まれない層に苦痛が集中することは社会厚生を著しく悪化させることである。これは可能性だけではなく、これまでレベルの最低賃金引き上げでも実際に観察されており、ここからさらに1500円まで引き上げればさらに悪化すると予測される。
二つ目は、各都道府県別に時給の分布を見ていくと、1500円というのは時給の中央値を超えてくることもあるくらい非常に大きな数字であるということ。最低賃金が雇用を大きくは傷めない、高すぎない数字は時給分布の中央値の約6割くらいだとされているので、これはやはり雇用に悪影響を与えて社会厚生を悪化させる可能性が高いであろう。
三つ目は、1500円というのは海外で出されている数字を持ってきている面が強いものだけども、日本と海外では労働生産性に大きな隔たりがあるのに同じ数字を求めれば、当然日本にとっては高すぎになってしまう可能性が高いこと。
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO72122240R20C21A5KE8000/
ここで日本の時間当たり労働生産性(就業1時間当たり付加価値)は米国の約6割の水準である。
https://www.jpc-net.jp/research/detail/005009.html
最低賃金に関係してくる層の賃金分布の形状にも日米で違いがあるとはいえ、大まかに言って米国での最低賃金15ドルは日本でいえば全国一律950円程度のものである。1500円はあまりにアグレッシブ過ぎる数字であり、社会厚生を悪化させる可能性が高いであろう。
以上、最低賃金というのは程度問題なので、上げるのがいい下げるのがいいという議論には具体的な数字がないと意味に乏しくなること、そしてたとえば1500円というものを考えると社会厚生を悪化させる可能性が高い、という話でした。たかが1500円でもこうなるのだから、最低賃金に頼らない貧困対策が必要ということですね。
掲題の通り。
コロナ禍で週5在宅勤務になり、作業通話というものの存在を知ってからdiscordをよく使っている増田が、必ずと言っていいほどどんなサーバーでも遭遇するのが
雑談用や誰でも参加OKなVCチャンネルに入室して「初めまして」から30分以内で自分の病名やら飲んでるお薬やらを話のタネに持ち出すメンヘラ。
隙があれば自分語りをされて嫌な思いをされた方も少なくないだろう。
増田もその一人だ。
こいつらの思考をなぞってみる。
なぜなら自己肯定感が低いのでその場が静まり返るとセルフ反省会という名の自己攻撃が始まってしまい、耐えられないから。
ただ人が黙っているだけで気まずくなってしまう。
また、自分を客観視する能力が低いため、自分の身の丈以上の承認欲求がある。
沈黙に耐えられず無理矢理話題を出そうとするが、承認欲求がデカすぎて自分と会話してる相手のことを知ろうとするのではなく、まず自分の話したいことを話題に出してしまう。
しかし病気のため仕事はしていなかったり、コミュ障なため恋人や友人もいなかったり、出かけることも少ないため話題のインプットがない。
自分のことで他人に話していちばんリアクションが返ってくるのは「私病気なんですよ〜」の一言。
通りすがりの優しい人からしたら、面白くない話を面白そうに聞くのは難しいが、人の苦労話に同情を示してあげるのは容易いからだ。
そうして「病気ネタ」での成功体験を積み重ね、そのネタに反応しない人は「冷たい人」と認識することで「コミュニケーションの初手でメンタルの病気をカミングアウトしてしまうメンヘラ」ができあがるという訳。
正直なところ反応に困るし、「構ってちゃんなんだな」としか思えないし、引かれるのが関の山なのは正常な思考回路をしていれば分かりそうなもんだがなあとドン引きしながら「へ〜そうなんすね〜」と鼻くそをほじりつつ流している。
なかなかオンラインのコミュニティで馴染める場がないメンヘラよ、
まずは初手で病気のカミングアウトをするのはやめて、○○さんのご趣味は?とか
このコミュニティってどんな人が集まってるんですか?と聞くところから始めろ。
病気ネタで反応してもらえるかどうかのガチャを引き続けるのをやめろ。
そこで積み重ねる成功体験はお前のコミュ力の賜物ではなく、お前のカルテに書かれた内容への同情だからだ。
それを辞めればdis○oardやらTwitterで「雑談」という看板を掲げてメンバー募集をしているサーバーに入っては最初のVCで気まずい思いをして、顔を出さなくなるループから抜け出せる一歩を踏み出せる。
世間じゃスニーカーブームだけど、自分はここ数年、革靴にのめり込んでた。主に中古品を買ってメンテして履く。飽きたらメルカリで売る。最近やっと熱が冷めて一息ついた感覚がした。暇なので増田に書き散らす。革靴に飽きたわけじゃないです。今手元にある気に入った靴で所有欲が満たされたと思えたので。ちなみに革靴の所持数は10足。スニーカーやサンダルも含めて15足くらい。男にしては靴の数が多めなのかな。
自分は革靴であっても中古品を買う。がっつりお湯に浸けて家庭用洗剤で洗ってから履く。メルカリやヤフオクで買うこともあったけど、最近じゃebayとか海外から輸入していた(革靴の個人輸入は関税がクソ高いのでおすすめしない。それでも日本じゃほぼ手に入らないものが買えるので使ってしまうんだが)。
新品で買ったのは新卒1年目の冬ボで買った奴だ。ジャランスリワヤの黒ストレートチップ。3万円也。買ってから8年経ったが現役。途中ソール交換にも出した。壊れるまで手放さないはず。
自分が革靴に求めることは実用性だ。履いてて苦痛な靴は地獄なので手放すべき。靴は相棒でもある。いや相棒を中古で買ったり10足もあるのはおかしいかもしれんが。ははは。
推しメーカーはアレンエドモンズだ。華々しさはなく無骨。だが履いてみるとしなやかな柔らかさを感じる。ベタ惚れした。10足中4足はこのメーカーだ。ベタ惚れしてても中古しか買ってたことがないのでいつか新品も買いたいな。
多くの批判が寄せられている一方
医師などの診断で精神的な問題があると認められる場合ならば、ストレスを軽減する必要があるが
そうでないならば
いうことだとすると、選手は自分の都合で大会の収益システムの一部をボイコットすることになる
試合の獲得賞金を半額受け取る契約などを付帯すればいいのではないか
返上する賞金はスポンサーに分配して返金、もしくはスポンサーがOKなら他の選手の賞金に分配することでバランスが取れる
『試合をたくさんしたのに、会見拒否だけで半額はおかしい!』と言う方もいるだろうがそうは思わない
事前の取材を受ける、大会の放送に試合を流す、インタビューを受ける、大会主催のパーティーなどに参加するなどの行為全てに同意した上での報酬として賞金が設定されていること
そして、ここが重要だが、選手の活動とは別に多くのスタッフがスポンサー獲得に向けて尽力し、大会を設営し、その広報活動に従事し、放送局との調整、ボランティアの確保、会場の確保、警備、集客、アコモデーションなど様々な業務をこなしている
その上で優勝はじめ優秀な成績とメディア露出を果たした選手への最大のリスペクトとしてスタッフの年収の数十倍から100倍にもなる高い報酬が設定されている
その上で
選手の努力や技術と、スタッフの作業はイーブンな関係にあると思う
選手の高いパフォーマンスが無ければ試合は成り立たないがしかし、大会関係者の尽力がなければ大会は開催されないか、もしくは賞金のないアマチュア大会になるだろう
ならば関係はイーブン
手に入れるのは名誉のみでもいいはずだ
名誉は欲しいがスポンサーメリットを確保する行為は不参加だと言うなら半額の賞金を受け取る契約で試合に出れば良い
名誉が手に入れば
個人へのスポンサーは獲得できて収入は確保できるし、返上した金額を分配する事で、大会側の損失も補填することができる
誰を責める事もなく、選手の精神状態にも配慮しつつ問題を解決する事ができる
そこに関係するどのスタッフの生涯賃金にも登る数億円の報酬が手に入る
主催者や大会スタッフ、スポンサー企業のスタッフたちも、あらゆるストレスと戦いつつ職務をこなしている、全ての職務がストレスなく精神状態をキープできるものではないと思う
そんな中、年に一度行われるビッグイベントにおいて選手だけがストレスを理由に職務を拒否することは、フェアではないし、それが許されるならどんな仕事も『これは精神的な健康によくないからやりたくない』と拒否され成立しない
懲罰的な意味合いではなく、収益などに対する仕事量として、競技力を高め、試合で発揮することとメディアの露出はそのくらいのバランスで成り立っていると感じる
最低限のラインがどこにあるか、が全員同じでない限り、誰かがストレスを処理しなければ世の中は成立しないし
という話は高額な報酬を手にする立場では簡単に処理できるものではない
その報酬を手にできる『理由』が自分のみの経済活動の結果ではなく、あくまで『楽しいスポーツ』をプレーしていたら
「ストレス」と戦いつつも職務をこなして、自分よりも遥かに低い報酬でその報酬を獲得する努力をするスタッフや大会関係者の尽力により用意された報酬にたどり着いただけ
『スポーツが上手い』
それだけで手にできる報酬などどこにも無い
『理解が足りない』と誰かを責めることも
どちらも不毛な争いだ
仕事の作業量と報酬を巡るシンプルな契約の問題であるべきだと思う
もう一度言うが
この世の中に『スポーツが上手いだけ』で手に入る報酬は存在しないのである
スポーツが金を産むのではない
そこに携わる全ての人の『業務』により
そしてこれは私見だが
自分自身の感じる
『ストレス』も同じく
みんなでシェアしつつ、思いやりつつ
争わず軽減していければいい
多くの批判が寄せられている一方
医師などの診断で精神的な問題があると認められる場合ならば、ストレスを軽減する必要があるが
そうでないならば
いうことだとすると、選手は自分の都合で大会の収益システムの一部をボイコットすることになる
試合の獲得賞金を半額受け取る契約などを付帯すればいいのではないか
返上する賞金はスポンサーに分配して返金、もしくはスポンサーがOKなら他の選手の賞金に分配することでバランスが取れる
『試合をたくさんしたのに、会見拒否だけで半額はおかしい!』と言う方もいるだろうがそうは思わない
事前の取材を受ける、大会の放送に試合を流す、インタビューを受ける、大会主催のパーティーなどに参加するなどの行為全てに同意した上での報酬として賞金が設定されていること
そして、ここが重要だが、選手の活動とは別に多くのスタッフがスポンサー獲得に向けて尽力し、大会を設営し、その広報活動に従事し、放送局との調整、ボランティアの確保、会場の確保、警備、集客、アコモデーションなど様々な業務をこなしている
その上で優勝はじめ優秀な成績とメディア露出を果たした選手への最大のリスペクトとしてスタッフの年収の数十倍から100倍にもなる高い報酬が設定されている
その上で
選手の努力や技術と、スタッフの作業はイーブンな関係にあると思う
選手の高いパフォーマンスが無ければ試合は成り立たないがしかし、大会関係者の尽力がなければ大会は開催されないか、もしくは賞金のないアマチュア大会になるだろう
ならば関係はイーブン
手に入れるのは名誉のみでもいいはずだ
名誉は欲しいがスポンサーメリットを確保する行為は不参加だと言うなら半額の賞金を受け取る契約で試合に出れば良い
名誉が手に入れば
個人へのスポンサーは獲得できて収入は確保できるし、返上した金額を分配する事で、大会側の損失も補填することができる
誰を責める事もなく、選手の精神状態にも配慮しつつ問題を解決する事ができる
そこに関係するどのスタッフの生涯賃金にも登る数億円の報酬が手に入る
主催者や大会スタッフ、スポンサー企業のスタッフたちも、あらゆるストレスと戦いつつ職務をこなしている、全ての職務がストレスなく精神状態をキープできるものではないと思う
そんな中、年に一度行われるビッグイベントにおいて選手だけがストレスを理由に職務を拒否することは、フェアではないし、それが許されるならどんな仕事も『これは精神的な健康によくないからやりたくない』と拒否され成立しない
懲罰的な意味合いではなく、収益などに対する仕事量として、競技力を高め、試合で発揮することとメディアの露出はそのくらいのバランスで成り立っていると感じる
最低限のラインがどこにあるか、が全員同じでない限り、誰かがストレスを処理しなければ世の中は成立しないし
という話は高額な報酬を手にする立場では簡単に処理できるものではない
その報酬を手にできる『理由』が自分のみの経済活動の結果ではなく、あくまで『楽しいスポーツ』をプレーしていたら
「ストレス」と戦いつつも職務をこなして、自分よりも遥かに低い報酬でその報酬を獲得する努力をするスタッフや大会関係者の尽力により用意された報酬にたどり着いただけ
『スポーツが上手い』
それだけで手にできる報酬などどこにも無い
『理解が足りない』と誰かを責めることも
どちらも不毛な争いだ
仕事の作業量と報酬を巡るシンプルな契約の問題であるべきだと思う
もう一度言うが
この世の中に『スポーツが上手いだけ』で手に入る報酬は存在しないのである
スポーツが金を産むのではない
そこに携わる全ての人の『業務』により
そしてこれは私見だが
自分自身の感じる
『ストレス』も同じく
みんなでシェアしつつ、思いやりつつ
争わず軽減していければいい
そう考える強さもアスリートとして、タレントとして持ち併せたいと思う
https://www.facebook.com/story.php?story_fbid=10226286385974717&id=1493110918
こう言うと否定するんだろう。「そんなことないよ」「ハンデと思うキミの捉え方が悪い」「親孝行しなよ」「親がいなければキミは存在してないんだよ」「女手一つで育ててくれたんでしょ?お母さんに感謝しなきゃ」
うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさい。
両親の離婚は私にとってハンデでした。
批判したり攻撃してくる人のご両親は離婚してるの?ご両親揃ってるなら黙っててよ。
ご両親が離婚してる人もいるでしょうね。その人はこう言うんでしょう。
「仲悪い両親とずっと一緒にいる方が苦痛。」
「離婚してくれて私は良かった!一緒にしないでください」
「同志」もこんな感じで否定してくる。
それもうるさい!!
女手or男手一つで育てた親を子供が感謝して思いやり心優しく素直に育つなんて、そんなの親のエゴだよ。ドラマの見過ぎだよ。
私は思ったよ。両親の離婚とか完全に親ガチャ失敗だって。両親の離婚イコール皆が皆不幸ではないかもしれないよ。そんなことは百も承知だよ。
でも私はハンデだったの。
どうしてそれを否定するの。
両親の離婚がハンデに思ってる人って他にもいっぱい居ると思うよ。でも殆どの人はそれを口にしないの。何でか分かる?親に気を遣ってるからだよ!「良い子」ではなくなるのが怖いからだよ!
ハンデなんて言ってみなよ、親に泣かれるから。「片親でも健気な良い子であるべき」を勝手に期待してる人たちから攻撃されるから。
マイノリティが救われる必要はないし現実に存在するとしても見えずさわれないものに配慮する必要もない
もしか実際に肉体と精神の性別が異なり苦しむ事があったならそれによる損害を補償したらいい
性不一致本人が実際には本人に苦痛はなく都合よく言い訳だけして関係ない第三者に被害がでてからそれを補償するよりずっといい
ならばわけるしかないのに 実際に自分は男だ女だ男らしく有りたい女らしく有りたい男として扱ってほしい女として扱ってほしいとあまりにも性にだけこだわって性を分断したどちらかの極にいたくて扱ってほしくて扱うという差別の局地がまかり通るのを防ぐ方法を考えてから 野放しの許容を考えても遅くない
常に食欲が無いんだよね
ご飯食べないと体調が悪くなったり色々バグりやすくなるから食べなきゃいけないのは分かる。でも何を食べればいいのか、空腹にはなるんだけど食欲が無いから何も食べたくない。なんとか食事の用意をしても、食べてる時の感情は「無」。腹が満たされるにつれてどんどん苦しくなって気持ちが悪くなる。もう…ゴールしてもいいよね…?って思ってもまだ半分以上残ってるから絶望すら覚える(外食したときとか特に)。
人にこのこと話すと大体「何言ってんだコイツ」って目で見られるから、大多数の人は食事が苦痛じゃないんだなって最近気付いた。朝ご飯に何を食べるのかが楽しみで朝起きるんだって。俺は朝ご飯が憂鬱だから朝なかなか起きられないタイプです。
どうすればご飯が楽しみになるんだろう
デカルトといえば有名なのが「われ思う故にわれあり(コギト)」。ここから近代的自我が始まった。
自我というものの存在を確立したデカルトの三段論法は西洋に影響を与えまくったが、特に注意しなくていけないのは神の存在を使わなくても自我の存在を規定できるという点だった。
でも実際のところデカルト自体はコギトから神の存在証明を行っている。神の存在を証明する時代の要請があったのだけれどそれについては後で触れる。
時代は流れてフランス革命が起こり国民国家が誕生する。国民国家が誕生すると神が死ぬ。
どういうことかというと、それまでの王による国の支配がどういう理屈で正当化されてきたのかということを説明する必要がある。
「王権神授説」というやつだ。それまでの王族による支配権は神が王に与えた権利だった。
神がこの世界を作って人間も作ったのだから神には人間を支配する権利がある。王は神に権利を与えられたので国民を支配する権利がある。
中世の神学者たちが大真面目に神の存在証明に邁進した理由がこれでわかるが、
彼らは頭の体操をしていたのではなく、国家の礎として必要な公共事業として神の存在を証明し続ける必要があったのだ。ご苦労さま。
ところが、王が打倒されて国民が自分たちの代表によって自分たちを支配する国民国家が生まれると、神は必要なくなる。
そして神に変わったものは国民の自我と理性のみとなり、国民は唯一絶対なものであるそれらによって自分自身の足のみによって立つことになる。
これにて「近代的自我」いっちょあがりだ。
なぜなら人間が生まれてくるのは神が「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」といったからだし、日本で言えばイザナキ神が妻ともめて「いとしい妻よ。あなたが千人殺すなら、私は、一日に千五百の産屋を建てよう。」といったためだからだ。
なので神がいる前提だと反出生主義は成り立たない。
フロイトといえば精神分析だが、あとで精神分析の手法が全然間違ってたということがわかったせいで、その功績についても一般的には忘れられている気がする。
フロイトの偉大な功績は2つあって、1つ目は「精神を科学のまな板の上に載せたこと」それ自体。
フロイトは夢分析の過程で人間が表層意識には浮かんでいない、既に忘却している過去のトラウマに影響されて現在の行動を選択していることに気がついた。
患者自身は自分が理性的に考えて選択した結果だと思っていても実は意識に登ってきていない「無意識」によって人間の行動や症状が変化する。
これはすごい発見だった。それまでは人間の行動は意識、つまり自我がコントロールしているとされていたのだから。
フロイト的無意識の例で言うと、チャップリンの「ライムライト」という映画がある。
あの映画のオチでヒロインは忘れていた過去のトラウマを思い出し、それを乗り越えることで身体的な症状も克服する。
これはフィクションだし、ちょっとフロイト的すぎるので、もっと卑近な例を出すと、
犬が苦手だなあと思っていたら、実は記憶にないくらい小さな頃に犬に噛まれたことがあった、とか
梅干しの写真を見たら、「梅干しをこれから食べよう」と意識しなくてもつばが出るとか(パブロフの犬)。
映画の映像の途中で肉眼では認識できないように一枚だけコーラの写真を入れておくと映画館でコーラの売上がのびるだとか(サブリミナル効果)。
こういう感じで無意識が人間の行動に大きく影響を与えるということは、今では常識にまでなっているけれど、これを言い出した始めの人がフロイトというわけだ。
フロイトは原始的な欲望とかが無意識の正体だと考えてなんでもそれで説明しようとして失敗したわけだが、(夢分析の本とか何でも性欲で説明しようとしていてやばい)。フロイトの後続の研究者たちは無意識の概念をさらに発展させていった。
表層意識に上らないのに人間の行動に影響を与えているもの、といえば「不随意運動」だ。
たとえば、眩しい光みたら瞳孔が小さくなるとか、膝を叩いたら足が上がるとかが有名だけどそれだけじゃない。
心臓が動くのを意識して止めたり動かしたりできる人はいないから鼓動も不随意運動には入る。
呼吸も意識すれば止められるけど意識しなくても止まるわけじゃない。意識しているときは随意運動で意識していないときは不随意運動といえる。
ところで人間の意識は脳の一部である大脳新皮質で起こっている反応であることもわかってくる。
脳のその部分以外で起こっているこのと大半も無意識下で行われている。細胞の代謝とか。
さらにさらに、全ての行動に当てはまるわけじゃんないみたいだけど、「人間がある行動をとろうと表層意識で考える一瞬前に、既にその行動を取るためのニューロンが発火している」なんて話も出てくる。
さてそうすると、どうなるかというと、人間が自分の意識で自分の体をコントロールしているという考えは実は間違いで、人間の活動の大部分は無意識がコントロールしていることになる。
意識が肉体(無意識)をコントロールしているという従来の主従の逆転がここで起こっている。
ここまで来ると「無意識」を拡張しすぎて「無意識」ってなにって話になってしまう。細胞の代謝のことを「無意識」という言葉でまとめるのは違和感があるから。
ここでいいたいのは「表層意識下に上らないすべてのもの」みたいな意味であり、一般的な言葉の「無意識」とはちょっと違うものになってしまうので哲学者はこれに「エス」とかいう名前をつけた。
意識ではなくエスが人間の行動を決めるのである。というか人間が何を考えるのかもエスが決めているといえるのだとするとコギトがおかしなことになってくる。
「われ思う故にわれあり」ではなく、「われ思わされているゆえにエスがある。われはあるかどうかわからない」に修正しなければならない。
「生きるのは苦痛である。苦痛でない場合もあるが生んでみないと分からないのでいわばギャンブルである」
「生まれる際に両親は子に生まれてもいいかという同意を取っていない」
「よって生むのは無責任であり生むべきではない」
しかし人間の9割は無意識下の存在であることを踏まえて見ると、見え方が違ってくる。
第一の登場人物である「子」は産まされるという受動的な立場ということになっているが、同意を取るべきタイミングには意識が存在しない。つまり無意識である。
無意識の相手に無理やり生まれることを強制するのかと反出生主義者はいうのだが、これまでの議論で無意識(エス)こそが人間の大部分であることをこれまで延々と説明してきた。
で、重要なことはその「エス」自体は生まれてこようとする方向性を持っている、ということである。
今だに現代人は意識がなければ何も決定することはできないと思っているが、むしろ無意識が先にあって意識が後から形付けられたといえる。そして人間の肉体の不随意運動は生き残ろう、という方向で行動を起こす。
精子の蠕動だって不随意運動だし、卵子の排出だって不随意運動なのでこれらはエスである。
胎児は産道を通るとき自分の体をねじって頭蓋骨を変形させながら外に出てくる。生まれてこようとする意志がそこには感じられるが、もちろん意識も自我もない。
だがそれらの反射が自分自身ではない、というのもおかしな話である。
それらが全て生まれてこようという方向に方向付けられているのに、「本当は生まれてきたくなかった」というのはどういうことなのだろうか。
自意識、理性を過大に評価するのが現代人の病巣であってこれは単に、いまだにデカルトの呪いがとけていないのだと思う。
「生まれてこないほうがよかった」という人間だって、それはそれで大変な状況なのは間違いないのだけれど、ひざを叩けば足が上がるし、急に熱いものに触れられたら自分を守るために手を引っ込める。
生きたくないとか言うけど呼吸は止められなければ、心臓は勝手に動いている。
どう見ても肉体は生きようとしている。
やっていることと言っていることが違う。
でも不思議なことは何もない。自意識なんて人間のほんの一部でしかないからである。
自己の定義を自我に狭めるべきではない。それは単にその方が精神衛生上いいというだけの話ではなく間違っている。
エスの定義は自意識に上がらないすべてのものと書いたが、哲学者によるとこれはつまり「自我」以外の「世界全て」のことを指すらしい。
流石にそこまで悟ることは難しいが、自己の定義を自分の不随意運動、や無意識の習慣程度にまで広げておけばデカルトの作った罠にはまらないで済む。
ある程度楽しみである事は分かるけど、選手側に苦痛を強いてまで絶対にして欲しい事なの?
イマイチ分からないんだが、例えば自分のその楽しみの為に、選手に苦痛を与えるという犠牲が伴う事について、罪悪感とかは無いのだろうか?
個人的には「少し楽しみだったけど、そっか、会見は苦痛な時もあるのか、なら苦痛じゃない時だけしてくれたら嬉しいな」位の気持ちなんだけど、そうじゃなくて、やはり苦痛でもやって欲しいのだろうか
「スポーツ大会の趣旨にとって些末」である、という事であって、
「選手が受ける精神的苦痛等の多寡が些末」であるという意味では無かったんだ
要するに、(少なくとも個人的には)会見のルールはメリット(スポーツ大会という趣旨への寄与)は些末だが、デメリット(選手に与える苦痛)は大きい、という事だな
「かぁー!試合なんかより試合後の会見見に来てんだよこっちは!」なのか?会見はじまったら「うひょーこれこれぇ!」ってビール開け始めるのか?
しないだろ?会見とかどうでも良くね?
会見が有ったら誰が嬉しいんだ?精々会見の様子をニュースとかで流すメディアだけじゃね?
観客もスポーツファンも嬉しくない、選手にとっても精神的苦痛、それをメディアの為だけに続ける意味、本当に有る?
メディアがスポンサーだから?でも、だとしたら会見は観客ファーストでもファンファーストでも無く、選手ファーストですらない、スポンサーの為だけの事ってことでしょ?
そんな物の為に罰金とか言い出してる大会主産側こそ叩かれるべきなんじゃないの?
大阪なおみのこれまでの言動に腹を立ててる人が叩いてるのかもしれないけど、よく考えてみて欲しい、今回の件は少し毛色が違うんだよ
例えばあなたが大阪なおみのこれまでの言動に「スポーツ選手はスポーツだけしてろよ(政治的な事を言うな)」と思ってたとしよう、
でも今回の大阪なおみの行動はまさにそれでしょ?「私に(会見などという)スポーツ以外の事をさせるな」「スポーツだけさせろ」と言ってる訳で、
これまでのあなたと整合性を保つなら、今回は大阪なおみに同意すべきなんじゃないの?「そうだ!スポーツ選手にはスポーツだけさせろ!」って
俺自身はスポーツ選手が政治的発言しても別に良いと思ってるけど、それは「政治的発言してもいい」であって「政治的発言しなきゃダメ」じゃない
同じ様に「会見してもいい」とは思うけど「会見しなきゃダメ」とは全く思わん
会見が選手に精神的な負担や苦痛を掛けて選手のパフォーマンスを落とすなら猶更そう思う。本末転倒でしょどう考えても
いらんよ会見なんか