はてなキーワード: 拡散とは
お金を持っていないというのは、恋愛においてかなり大きな悪影響をもたらすと思う。おごるおごらないとかそういう話じゃなくて、行動範囲が狭まるのがまず問題。
行動範囲が狭くて、ひとつのコミュニティにしか属していない場合、恋愛出来るのはコミュニティ内ヒエラルキーの上位者が優先になりがちだ。こと男子は、「モテる男がモテる」傾向がある。何らかの理由でヒエラルキー上位の女の子に近づかれ構われた男子に、女子はわらわらと寄ってくるものなのだ。
そして、コミュニティ内での恋愛事情はすぐさま情報が拡散され共有されるので、ヘタなことが出来ない。コミュニティ内で相手を取っ替え引っ替えするのは無理。時には失敗をバラされて屈辱を感じることもあるだろう。
コミュニティ内で下位に属してしまいモテない人は、コミュニティの外へ出るといい。
コミュニティ外から来た人間というのは、ヒエラルキーの中で最下位に組み込まれるわりに優先的にモテる傾向がある。珍しいものに人は惹かれるものだし、コミュニティ内の力関係からまだ自由であることも魅力的だ。
しかし、お金がなければ複数のコミュニティを渡り歩くことは出来ないので、狭い一つのコミュニティ内で粘ることになり、非モテの烙印を押されると、誰にも見向きされなくなる。
元増田は大学四年だから、これからチャンスは巡ってくる可能性がある。まず、就職によって人間関係がシャッフルされる。それに収入があれば行動範囲が広がる。そして、周囲の人達も学生時代に比べて交遊範囲が広いので、女の子を紹介される機会もあるかもしれない。
そんな訳なので、元増田は腐るな。まだまだチャンスはあるよ。
最近のインターネットコミュニティは東京一極集中ならぬツイッター一極集中と化した状態だと言って誰も異論はないと思う。
政治家や企業、識者や芸能人、萌えオタクやフェミニスト、児童ポルノなどのアングラまで
はてブのホッテントリはツイッターかtogetterが埋め尽くし、
5chではツイッターの話をソースに立てられたスレッドが多くを占めるようになった。
デマや憎悪を簡単に拡散できてしまうサイトがネット上で最大級の力を持ってしまった。
しかも、流行り始めてからけっこう経つのに全く廃れる兆しがない。
最近のバズりツイートは十数万いいねの数字を頻繁に見かけるようになった。
むしろ人口が何十倍何百倍に増えていることをひしひしと感じる。
「こんなひどい出来事があった」「これは間違っている」「あいつは愚かだ」など何かに憤ったり攻撃したりする話題ばかり。
もともと難読漢字だった「貶す」「晒す」「私怨」はみんな読めるようになった。
俺は男性性という自認があり、異性愛の性的嗜好があると思われる。
んで、標記の通りだ。
足で踏まれたいな〜と思っているんだけど、どういう女性に踏まれたいかよく考える。
初めはロングヘアーのお姉さんに踏まれたいな、シチュエーションとしてはスーツでヒール履いてて、ヒールで踏んだ後脱いで直に踏んで欲しいなぁと思っていた。
ところがそのうちお姉さんじゃなくてもいいやと思ってきた。ロリっぽい子に踏んでもらえても良いと思う。
そしてSっぽい女性に踏んでもらった方が興奮するのではないかと思っていた。
ただそのうちMっぽい女性に逆にやってもらうのもありかな、と思ってきた。
しかのみならずショートヘアーの女性でもいいやと思えるようになってきた。
加えて靴下でもいいやと思えるようになってきた。
すると女子高生とかでもいいのかもしれないと感じ始める。
しかしあくまでこれは空想の範囲内でだ。法に触れることはしてはならない。
すぐにハイソックス履いた女子高生でなくタイツでも良いやと心が動く。
それなら初めのお姉さんがタイツでしてくれていた、という妄想に近似し始める、と理解する。
そうなるとお姉さんのタイツも黒でオッケーになってくる。逆に女子高生が肌色のタイツでもよかろう。
それでは一個下の女性くらいにしてもらうのもあるいは良いかもと夢想の領土は拡大する。
そして最終的には素足が良いということになった。
あらゆる女性、否全ての人間にでも踏まれるのならば良いのではないかと無限の思想への端緒を得る。
初めから扉は開かれていた。私は宇宙に放り出された。思考は無限に拡散し、ありとあらゆるところに遍在する。
初めその砂糖は、お姉さんだとかロリだとか靴下だとかタイツだとか、個別の粒子を持っていた。
ところが世界のバケツにそれらは溶け込み、ごちゃ混ぜになり、なおかつ遍在していた。
相反する、あるいは両立しうる全てのシチュエーションが、同時に甘みとして脳を貫く。
そうしてようやく足フェチとしてのスタートを切ることができるのだ。
できるのだ。
文春オンラインの”オリラジ中田敦彦を「フェイク問題に警鐘を鳴らす芸能人」扱いしたNHKの罪 「YouTube大学」問題の核心は、内容の誤りではない”という石動竜仁の記事を読んだのだが、江戸の仇を長崎で討とうとしてる感じが否めない。
それは世の中に責任ある立場でフェイクやデマを垂れ流してきた人があまりにも多く、Youtuberとして教養バラエティやってるだけの中田の間違いを殊更にあげつらうことの正当性を主張することの難しさにようやく気づいたからだと思われる。
NHKはマスメディアそのものであるので誤報に対する責任はただの芸能人やYoutuberとは比較にならないほど重い。
中田敦彦自身をダイレクトに批判することはためらわれても中田敦彦を発言に責任を持つ人であるかのように報じたNHKに対してならば堂々と批判を展開することができる。
あわよくば今後中田敦彦をNHKに出演させないことで自分にとって腹立たしい誤りを垂れ流した中田敦彦に対する意趣返しとしたいという意図が透けて見える。
2018年の関空孤立時の悪意なきフェイクの拡散が一人の外交官の命を奪ったというようなことを石動は書いているが、ネット世論の暴走や中国側の情報操作の可能性などさまざまな要因がからみあうこの事件自体を教養バラエティでの誤りをフェイクは人命に関わる問題だと短絡させるのはかなり無理があるし、誰であってもそういうニュースに対してコメントを求められればそういうしかない無難なコメントをあげつらって、あのときに「責任をもって発信することが大事」といったのに発信に責任をもっていないというのも少々大人げない。
大人げないからといってNHKに対しておまえがあの番組で中田を持ち上げた責任を取れというのも筋の違う話だろう。
多数の中田敦彦ファンからの(理不尽な)批判を浴びてついかっとなって勢いで書いてしまったのかもしれないが、進んで誤りを訂正する気にすらならない人命に関わるでもない問題に他人の金儲けに対するやっかみから中途半端に首を突っ込んだ自身の不明こそ反省してもらいたいと私は思う。
もうひとついえば発信の責任には発信者の身元を明らかにするというものがある。
増田の私は発信者としての責任を放棄している(責任を追求することも可能だろうが)、筆名だけで顔も出さない自称”ヴァーチャルネット売文業者”の石動竜仁(dragoner)はリスタートできる退路を残している点でやや無責任、低品質な教養バラエティも自分の顔と名前で発信している中田敦彦は自身のブランド毀損についてそれなりの責任とリスクを負ってやっているということもできるだろう。
https://this.kiji.is/590516105410217057?c=539383836944122977
スマホ・ゲーム規制に関する松井市長の記者会見、該当部分を文字起こししました。条例化や行政による規制について、極めて慎重な態度であることがわかります。大阪市や松井市長がゲーム・スマホを規制するかのような記事は現時点ではミスリードです。ぜひ拡散をお願いします。https://t.co/PrLbeACw1w pic.twitter.com/c3NpLJNtif— 音喜多 駿(参議院議員 / 東京都選出) (@otokita) 2020年1月16日
「大阪市の松井市長、ゲーム・スマホ利用を規制」記事は不正確。真相を解説します
https://otokitashun.com/blog/daily/22414/
ただ一番悪いのは寄りにもよって香川県で炎上している最中なのにわざわざミスリードを誘う様な返答をし、火に油を注いだ松井市長なのだが。
音喜多議員がどう言おうが松井市長自体どう考えているか判らないからね。
スマホ・ゲーム規制に関する松井市長の記者会見、該当部分を文字起こししました。条例化や行政による規制について、極めて慎重な態度であることがわかります。大阪市や松井市長がゲーム・スマホを規制するかのような記事は現時点ではミスリードです。ぜひ拡散をお願いします。https://t.co/PrLbeACw1w pic.twitter.com/c3NpLJNtif— 音喜多 駿(参議院議員 / 東京都選出) (@otokita) 2020年1月16日
さてどうなるかな?
産経とどっちが正しいのやら。
しかし維新と言うか松井市長に関しては今までの失言とかが多くて、どうも信用度が落ちるね。
何にしても上司がこれだけやらかしてくれたら、少ないだろうけど維新の規制に慎重に議員とかはさぞかし大変だろうね。
どちらにしろ四国新聞にしろ産経新聞にしろ毎日読売朝日にしろ、奴ら新聞社こそがこの手の規制に熱心だと言う事だろうね。
いまラジオを聴いてたら京王百貨店の駅弁大会の話をしてて、「そういえば駅弁大会に出品してる弁当名を組み合わせてエロい言葉を生み出す大喜利みたいなハッシュタグ、毎年Togetterのまとめを楽しみにしてたな~。あれ最近もやってるのかな~」と思い出して検索したら、ずいぶん前にやらなくなってたっぽくて悲しい
確かにTogetterまとめで知って実際にハッシュタグ見に行ったら「玉石混交」というか「玉石石石石糞石石石石石糞石混交」ぐらいのクオリティで、つまらないだけならともかく、チラシに存在しない単語を混ぜてるようなレギュレーション無視の投稿もちらほらあったし、提唱者が嫌になったとしてもしょうがないな~と思った
誰かが始めたおもしろい遊びも、拡散すると大喜利大会になり、やがて趣旨を理解してない人が参入してくるようになる。ぼくが駅弁大会チラシのエロ駅弁やめたのもそれが理由だし、地味ハロウィンにも同じ問題が潜んでる。— とみさわ昭仁 (@hitoqui_ponko) October 30, 2019
ところで「つまらない人がつまらないことをする段階」というフレーズを正確に書こうと思って「つまらない人が参加する」(うろ覚え)で検索したら、
いや神にも絵師にも限らず。
世にいる同人作家たち、どうか匿名でメッセージを送ることのできるツールの使い方について、今一度考えてくれ。
ここ数年、匿名で感想を送れるツールが大流行する一方で、匿名で送られる悪意あるメッセージを送る輩が大量に出現している。
なかには、悪意に晒され続けた結果、ジャンルから立ち去ったり、危機感、不安感でメンタルを正常に維持できずに作家であること自体をやめた人もいた。
その度に、返答のツイートや、作家の気持ちを綴ったツイートが拡散され、多くの人はコメントする。
「ひどい、こんなことを言う人がいるだなんて」「同人誌は趣味だから、作家に文句を言うべきではない」などなど…
うん、そうだね。私も思う。
なんなら、私の敬愛する神絵師に貴様なに晒しとんじゃワレ!!くらいは思うし奥歯もガタガタ言わせたい。
だって神作品を生み出す作家が、匿名の下らない逆恨みで筆を折ったらすごく悲しい。恨める先があるなら恨んでしまうと思う。
できるなら時を遡って、そいつが匿名くだらなメッセージを送るのを止めたい。
でも、それって無理なんだよね(当たり前体操
というか、そういう悪意のあるメッセージを回避することは匿名ツールを使っている以上はもう無理なんだと思う。
ここで例え話をしたい。
ひとつの会社があるとしよう。記事を書くところとから、印刷のデータまで、雑誌を作る会社。
その会社にいる人って、写真素材を集めるカメラマンさん、記事を書くライターさん、編集をするデザイナーさんだけだと思う?
そうではない、経理法務そのほか事務…お客様の対応するお仕事のひともいるはず。
「この記事すごく良かったです」「この記事は面白くなかったから、この系統の特集やめて」「なんだこの記事、ふざけてるのか?」「どこの書店にもないんだけど、この号はどこで入手できる?」など、いろんな声を聞く役職のひとがいるはずだ。
その人たちは「良かったという気持ちを伝えたい」から「より良い記事を求めている」、「二度と買わない」までいろんな気持ちを持っている。でも企業ですら、この声を選んで聞くことは叶わない。
さてさてお察しの方、話が早いな。
そう、この会社のすべて役職の仕事をこなしている(ようなもんな)のが同人作家なのだ。
ネタ出しから原稿して編集までやってなんなら告知も宣伝も頒布もぜんぶ自力でやってるのえらい!!
ただカスタマーセンター設置したらもうどうしても変な奴は来る!
オールタスク、オールセルフである同人活動においては、どうしても感想以外に通販のご相談やクレームなど届いてしまう!
前置きが長くなったが、ここまでの話でもう「悪意ある匿名メッセージは届いちゃうもの」であることは分かったと思うのでタイトルに戻ろう。
同人作家たち。どうか匿名メッセージはいっそのこと置かない、と選択できないか?
くだらないクレーム対応をするのが面倒くさいだとか、作業中にアドバイスメッセージが来ると凹むとか……悪意のあるメッセージを受けて、筆を折ってしまうとか……
悪意がなくても、中古で買いました、良かったです!友達に読ませてもらいました、良かったです!みたいな言葉にも傷ついて仕方ないとか
兎にも角、「匿名ツール」を利用することでストレスを感じて、メンタルを損なうおそれがあるなら、
リスクマネジメントとして、いっそ「置かない」を今一度検討してほしい。
これほど多く、匿名メッセージのせいで筆を折った作家がいるのだから、そろそろ「匿名で傷つけてくる奴がいるだなんて酷い!」だけじゃなく、同人作家側も「傷つくかもしれないリスク」があることを学習して、
自衛として匿名ツールを撤廃してみるのも、無しじゃないだろう。
長くなってしまい失礼。
最後になるけど、前述したとおり悪いのは悪意のあるメッセージをわざわざ匿名で送ってくる卑怯な輩だと思うので、そこは大前提にしておいてもらいたい。
それでは。読んでくれた人ありがとう。
Youtubeのおすすめに中田敦彦の近現代中東史解説動画が流れてきたので暇つぶしに見ていたのだが、あまりの酷さに絶句してしまった。(リプに続く) pic.twitter.com/etqc32NMqs— れおぽん (@PentanO102) January 11, 2020
例のイスラム教の動画で槍玉に挙げられて以来、ちょっとずつ中田敦彦の動画に対する内容批判が出てきているようだけれど、あのチャンネルの動画に対する正しい視聴方法を教えるので参考にしてくれ。
まず、中田敦彦本人が再三繰り返しているように「エクストリーム」の名のもと、かなり流れや内容を省略したエンタメにして物事を紹介している。興味を持つきっかけになれば、という旨のことも何度も繰り返している。主目的は詳細解説ではないのだ。その分野に対する興味を喚起することなのだ。
だからこそ、基本的にこのチャンネルの動画に対する正しい態度は、興味を持ったら追加の自習をすること。動画の中で紹介されている参考図書を買うなり、他の資料を手に入れるなり、動画をとっかかりにその分野の勉強を始めよう。その過程の中で、実は動画で紹介されている内容は大きく省略された事が分かったり、もしかしたらそもそも間違っている事が分かったりすることもあるかもしれない。でもそういう事実に気づいている段階で、知識がかなり血肉になりつつある。
動画で紹介されている内容は、識者から見ればかなり省略されているのだろう。省略で済めばともかくとして、おそらく誤った内容すら含まれている。これが問題だと指摘する声も大きい。でも安心して欲しい。あの動画だけで「為になった」とか言って満足している視聴者は、誰かにその知識を拡散するようなこともなく、ブラウザを閉じると同時にその内容も忘れてるよきっと。
基本的にはあの動画のおもしろさは中田敦彦のドラマチックなトーク力で、つまらない、難しいと思っていた教養的内容をエンタメとして見せてくれるところにある。扱っている内容が教養であるので、視聴者はなんだか賢くなったような満足感があり、毎日更新される動画を麻薬のように求め、中田敦彦のファンになっていく。でも実はその内容は身になってない。瞬間的な気持ちよさ。何のインプットもアウトプットも無いし、思考も行動も変わらないのに「なんか成長した気がする!」って自己啓発的な気持ちになってるの。
だから多少の間違いがあっても目くじらを立てる必要無いと思うんですけどね。というか、もし正しい知識を広めたいって気持ちがあるならば「中田敦彦のここが違うので詳細解説します!」ってやってよ。でも、そんなことは面倒だし、そもそもなんで間違った本人が訂正しなくて他人がコストかけて修正すんだよって話でしょ?。そんな手間暇かかることをやるような人は現れない。現れてほしいけど。そもそも識者に監修でも受けて、間違いの無い完全無欠な内容の動画を最初から作ればいいって?たぶん中田敦彦はそこまでガチガチに正しい知識を広める使命感があるわけでもない。内容そのものじゃなくて、学びの面白さを伝えているだけなのだから。
結論として、こんだけの内容を無料で公開してくれるような人間、コストをかけてくれる人間は今のところ中田敦彦しか存在しないので、その存在は貴重であり、視聴者にも求められてチャンネル登録者が増えた。そして内容に多少の間違いを含んでいるかもしれないけれど、学びのきっかけになるかもしれない動画は存在していた方が良いと思うんだよね。
某シロクマせんせのエントリに端を発する言及する文化が云々ってやつ読んでた、だいぶ前にブログとかやめたおっさんの感想です。
ネットの一般層への普及をどこに置くかなんだけど、自分の肌感覚でいうと、2008年~2010年くらい。例によって根拠はない。少なくとも2010年以降はSNSからの流入がだいぶ多くなったような感じ。拡散の速度もそのへんで上がったような。
先に結論だけいっとくと、ネットの主役がだれになったか、ということだと思う。送る側、受ける側両方含めて。
ネットの黎明期ってのをどこに置くかはまた議論になるところだが、まあ原ネット期みたいなのは、1995年~2000年くらいのあいだかなと思う。その時期にネットに参入した人間って、基本的に送り手も受け手も文章に関するなんらかの訓練を受けた人が多かったんじゃないだろうか。だから、それらの人に対応したコンテンツが盛り上がる傾向があった。それ以降はそうじゃない人が増えた。まあ大雑把にそんな印象。
初期からネットにいた人って「自分が情報発信の主体になりうる」ということに対する感動がわりと大きくて、それゆえ「語る」ことにかなりの使命感あったと思うんだよね。使命感っつーか……なんだろ、自分が主役である、というような。たとえばシロクマせんせのエントリに殴りかかったら、もう対等じゃないですか。まあこのへん、はてなのUIの問題もあるんだろうけど、かなりのアクセス見込めたしな。そういう意味では、殴りかかる相手はでかけりゃでかいほどリターンあった。ハイリスクハイリターンですけども。
また、ブログの存在感そのものがでかかったですからね。これはもう「SNS以前」ってことになるでしょうけども、個人がなんかでかい声で叫ぼうとしたら、ブログが最短距離だった。個人の持ってる数字の動員力みたいなことでいうと、やっぱブロガーだったんですよ。
ただそこは、読むほうも書くほうも、それなりに文章に関する訓練されてるもんだから、つまんねー内容で殴りかかると返り討ちにあいますわね。しかし本気でブチ切れてたり、それなりにガチで提言しようと思ったらやっぱ書くしかない。言及なんかされた日にゃアクセスどっかんで、より「俺が言わねばだれが言う」みたいな気分にもなるし。それは悲喜劇を巻き起こしがちではあるんですけど、少なくとも張りではありますし、強力なモチベーションでもありますわよね。やっぱ「なんか言う」というときに、場末でこっそりやってると、飲み屋の片隅でクダ巻いてるような気分にもなるんで、人は晴れ舞台で正々堂々と殴り合いやりたいんですよ。だから観客は可視化されなきゃだめだし、観客のなかからリングに上がれるようなシステムがなきゃだめで。
ところが、SNSに慣れてると、このへんだるいんですよね。まず、遅い。スピード感が致命的に遅い。あと観客も通りすがりじゃないですか。
なんか書いてて思ったんだけど、これプロレスとストリートファイトの違いみたいな感じありますね。ブログはプロレス、SNSはストリートファイト。まあそんな感じ。拡散したものの宿命なのかなあ。コミケにお客様はいません、全員が参加者ですっていったって、人数増えりゃんなこと言ってらんねーだろうし。そんで古参は昔のコミケはよかったなんて言う。実際によかったかどうかは、ここんとこコミケ行ってないからよく知らないですけど。
じゃあどうしたらいいかって考えるんですけど、新しい団体立ち上げて興行でもするしかないのかなあと思うんですけど、問題は「文章」というツールを用いてる時点で、このスポーツそのものがすでに「ネット」というこの場においてはレガシーになりつつあるってことですわ。もちろん俺は文章というツールの持つ公共性の高さ、情報の圧縮率の高さ、参入障壁の低さみたいなものを信じてはいるんですが、たぶん動画みたいなもんが、このへんを軽々と乗り越えてくる時代になるんだろうなあと。
俺は、自分が文章書く以外なんにもできない人間なので、このツールの持つ力を疑いたくはない。なにしろそれは人間の生理にいちばん近い道具なんです。人がどうしようもなくなにかを表現したいとき、それは言葉によってなされる。叫びってことですよ。あとは書き留めるだけじゃないですか。
でも動画にそれができないかっていったら、できるんだよなあ……。さっき知の集積っていうことをいいましたけど、それは悪い意味でも「レガシー」ということなのであって、それがないメディアである動画のほうが、いろいろとフットワーク軽いように見える。フットワークの障壁になりうる編集ツールだとか回線だとかハードの問題は、今後解決してく一方でしょうし。
それでもまあ、俺にはこの道具しかないんですけどね。