はてなキーワード: 拒絶反応とは
http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20141225/1419531038
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20141227/p1
2002年のアニメ挙げてみましょうか。
「キングゲイナー」「おジャ魔女どれみドッカーン!」「シスタープリンセスRePure」「灰羽連盟」「最終兵器彼女」「まほろまてぃっく」「東京ミュウミュウ」「朝霧の巫女」「アベノ橋魔法☆商店街」「あずまんが大王」「ラーゼフォン」
上に挙げられた作品の六・七割がたは見ていたので、当時の深夜アニメ(一部朝アニメも入ってるけど)が持っていた独特の「濃さ」みたいなものは、何となく分かる。
翻って十年そこらで、深夜アニメを取り巻く環境が激変したことも。
でも、自分はそれを前向きに捉えているのだが。
てか普通に良いことじゃね?
だからこっちも鼻息荒くとか、理論武装()するみたいに身構えることなく、世間話や何気ない日常会話でもするみたいなノリで気さくに話しかけられる。
その流れでごくごくライトに語り合うだけで楽しいもんだし、それだけで「ここまで何とか生きてきて本当に良かった」と心底思うけどね。
自分より若い人間がより幸せになる方が世の中絶対良くなるし、何よりアニメが好きというだけで偏見を持たれるとか、今振り返れば絶対おかしいだろって空気が変わったのを実感するだけで、自分のことのように幸せな気分になる。
「お前らはそれでいいんだ、自由にやれ、行く道はきっと楽しいから」と思いながら話している。
そんな自分からしてみると、「オタクが融解した」のではなく「オタク文化が世間一般と融和した」という見方になるというか、そういう見方しかできない。
少なくともアニメが「俺らだけのモノ」だった時代はメリットよりもデメリットのほうが遥かに大きかったわけで、あんな状態が今の今まで続いていたら・・・想像すらしたくない。
むしろ問題なのは、特に90年代に中高大学時代を「非オタ」あるいは「一般人」として過ごした、まさに自分と同年代の人ら(30代後半がメインボリュームかな)の、未だに強いアニメに対する拒絶反応だろう。
依然として「興味ない」「理解できない」ゆえの嫌悪感を抱いている人間が少なくない。
まあ深夜アニメは今も昔も10代・20代がコアターゲットなので、その年齢で興味を持てなかったらずっとそのままだろうから、普通に予想できたことではあるけど(2006年のハルヒ放映の時点でアラサーだった彼らが認識を改める可能性は非常に低かった)。
どうしてあんな馬鹿なの?
アセンブリとかソースとかコードとか、どうして中途半端にカタカナ英語なんかにして、和名を付けてあげなかったの?
ノムリッシュじゃないけど、ファルシのルシがコクーンをパージみたいに字面見てるだけで拒絶反応バリバリ出るんだけど?
たまーに構造体とかちょっと分かりやすい和名つけてるけど、基本カタカナの羅列で頭痛くなってくる。お前はルー大柴か。
フールプルールとかフェールセーフとかフォールトトレラントとか、こんなもんカタカナ表記にするよりまだ英語表記にした方が覚えやすいだろ。
俺も少し前までなら元増田とその母親を責めていたかもしれない。
自分、男だし。姓が変わる悲哀とか、想像と同情はできても共感はできないし。
だから今でも男親視点で、あんなにすばらしい子たちを育てられる幸せなんてこの世にまたふたつと無い体験なのではないかと思っている。
うちの場合妻もそう思っているのでその面に関する衝突は無い。
だから、元増田の母のような人を知ると驚きが脊髄反射して拒絶反応を示してしまう。
子育てをして何も得るものが無いなんて、そんな馬鹿なことはないはずだとおもってしまう。
が、普遍的な論調でなければ悪い話でもない。
実際に天才肌と呼ばれる女性たちは、結婚しないか結婚しても離婚を選ぶかして、わが道を進む。
そんな論調なら俺は元増田の母の話をしみじみと聞いてみたくなる。
つい最近話題になった「生物界は弱肉強食ではない。適者生存だ」というYahoo知恵袋のBAを思い出した。
種が生存するためには多様性を受容し、適応可能な種類を増やしていく必要がある。
ギャンブルは絶対にするな。誘われても麻薬レベルの拒絶反応を示せ。
飲食店のアルバイトはするな。ホワイトカラーのバイトをしとけ。
肉体労働の日雇いは、何度かは体験しておいた方がいい。異なる文化を見れて勉強になる。
趣味は大事だ、運動系の趣味を持つか、運動系サークルに入るのもよい。
テレビは見とけ。ただし選択は重要で、厳選した番組を録画して見ろ。
若い頃にしか体験できないことは、積極的に体験しておけ。若者の恋はとても重要だ。
プログラムは早いうちにやっておけ。できたらアルバイトができるといい。
海外旅行はしておけ。アジアあたりの貧乏旅行、ヨーロッパ一周、アメリカ横断など。
留学もできたらしておけ。英語圏のどこかの国にトータル3ヶ月以上。1年以上もあり。
住むアパートはとても重要。キッチン広めでスーパー近め、料理をマスターしておけ。
住む住所もとても重要。山手線内が良く、あとは近くに大きめの本屋があるといい。
新卒で入社する会社は、絶対に大企業にしておけ。2年後に転職してもいい。
貯金は30歳までは意識するな。30を超えると、能力に比例して貯まるようになる。
投資と消費を分けて考えろ。自炊してメシ代の節約はアリだが、体験の節約はするな。
とりあえず思いついたところを。今後追加するかも。
バカ とはセックスしたくないとか
ふつうに本能の範囲だろ。 だけどわざわざ ブサイクとはセックスしたくないとか いわないから
セックスしたくない って 言ってるだけだろ。日本語の行間を読もうぜ
それこそ セックスしたくない 理由は そういう理由を含めて 人それぞれだろ。
不細工のキモメンだから、セックスすることができません。ってのはそういう意味だ。 理想が高過ぎるとか金で何とかしろとか、色んな話はあるだろうが、
強がっちゃってってのは馬鹿すぎるツッコミだよ。 よくわからないけど セックスしようとすると体が拒絶反応を示して 吐いちゃうんですとか アトピーがとか EDが とか そんな話はどこにも書いてないだろ。
日本人はとかくファッションの一貫性に欠けると叫ばれる。確かに日本文化は和洋折衷、何でもありの文化であるな。例えば、仏教国の1つでありながら、年末になると突然「ジングルベ~ル」などとバカ騒ぎしだすwそしてどういうわけか年明けには神社で初詣。おめでてーな正月。
で、世界的に見れば一貫性がない、主義主張の曖昧なことは「ダサい」「気持ち悪い」とみなされることは知っておいて損はない。これは単なる主観ではなく明確な根拠がある。日本のような画一社会(個人単位では一貫性に欠けるくせに社会単位ではある意味一貫性がある)では想像つきにくいだろうが、欧米は基本的に多民族社会であって、国内の民族間対立や隣国との民族間対立が深刻な問題であるから、こと人間関係においても相手がどんな人間か知ることが差し迫った課題になるわけよ。だから、「はじめまして」の次には「あなたの宗教は何ですか?」などといった話題がポンポン出てくるのが常なわけ。日本じゃ「ご趣味は?」などと言えば「お見合いかよ」と思われる始末で、相手のことはある程度「お察し」するのがお約束になってゐるが、海外のほとんどの国ではまず初対面の人には最初に相手の思想区分を分類する作業がお約束なわけだね。そんなわけだから、日本人のようなスタイルのよく分からない謎タイプのキャラというのは、文字通り「えたいのしれない」人間として扱われるのよ。だから、もし貴方が日本人でこれから国際社会で活躍したいなら、まずスタイルを一貫させること、そこから始まると言って良い。ビジネスで信頼を勝ち得るには、もちろん人間性やコミュ力も大切だが、実はそれと同じくらい明確なスタイルを持っていることが大事なんだ。そもそも日本文化とは何なのか?自分はどんな人間なのか?そこから考えてみたらどうだろう?
それとは別に、一貫性を持つことは実を言えばとても気持ちの良い生き方だということも知っておきたい。一貫性がないとは裏を返せば裏表があるということで、表の時に裏が気になり裏の時に表が気になるという状態だ。遊んでる時に仕事が気になり、仕事の時に遊びが気になる。そんなんではダメだろう?いくら仕事ができてもダメ。遊びがいくら楽しくてもダメ。仕事も遊び、遊びも仕事と思えて初めて一貫し、そこで初めて心の平安が訪れる。断っておくが、ここまで来ると日本人だけの問題ではなく、全人類の存亡がかかった問題とさえ言えるものだ。この先人類が生き残るには、スタイルの一貫性いかんにかかっていると言っても過言ではない。というのも、今の情報社会において「気になる」ことが大きな文明衰退の原動力になっているからだ。最近スマホでソシャゲをやっている人をよく見かける。ソシャゲも一貫したスタイルの一部に組み込まれているなら良いが、多くの人はそうではない。「気になる」から続けてるのだ。古くは「mixi中毒」と言われた社会現象に始まる。本人は「遊び」「気分転換」でやってると主張するがその内実は全くことなる。「気になって仕方ない」のだ。GMailのinboxも気になって仕方ない。ケータイメールも気になって仕方ない。神経症は現代人共通の病と言っても過言ではなかろう。心の整理が我々人類の急務なのである。1つのことに落ち着いて集中できず絶えず気になることに囲まれた生活が本当に健全と言えるのか。それを今こそ問い直すべき時期に来ている。
問題を叫び立てるだけではあまり意味がない。ここに解決策を提案しよう。その前に一貫性の定義を確認しておこう。勘違いされがちなのだが、一貫性とは無駄なものを削って1つに絞ることではない。一貫性一貫性と繰り返していると、近視眼的なイメージを持つ人もいるようだから、このことは強調しておく。例えば、目標を1つ決めてそれに自分の全てを費やす人生はいかにもアメリカ的成功哲学で受け入れられないと拒絶反応を示す人がいるが、そういう話ではないんだな。それはむしろ最初から一貫性を諦めて、一貫性から外れた「気になる」ことがあっても気にすまいと頑張る行為だから、一貫性とはある意味真逆とさえいえる。「仕事一筋」「柔道一直線」と言えば聞えはいいが、それは微粒子レベルのシビアな見方をすれば一貫性とは言えない。なぜなら簡単なことで、厳密には仕事のことだけ、柔道のことだけ考えていては、生きていけないから。もう分かっただろう。そんなまがいものの一貫性を目指してはならない。一貫性というのは、既にあるものに「統合性」をもたせることでなくてはならない。
であるから、解決策もおのずと見えてくる。統合的な目的を持てばよいのだ。目標ではなく目的。低いレベルでは相容れないものどうしを高いレベルで統合させるにはそれしかない。ウメハラが著書において「目標はもたない」と書いている。目標をもたないのに何故彼のスタイルは一貫しているのか?それは高いレベルの目的があるからである。彼の場合、日々の成長がそれにあたる。とても簡単なことにみえる。だが、考えれば考えるほどやればやるほどこれが簡単ではないのが分かってくる。先ほど一貫性の定義を確認したのはそのためだ。ただ単に、成長のために全ての人生をなげうつ、持てるエネルギーの全てを投入するだけではダメ。それだけでも難しいじゃないかと思うかもしれないが、それだけ出来ても1%も出来たことにはならないという話である。無駄な努力乙というやつで、まるで方向性が違う。早い話、今日から成長という統合的な目的のために生きてウメハラになるぞと思った時点で、君は自分の多くの「無駄」を捨てるだろう。それは自分を削って見せかけの一貫性を作っているだけで、実際一貫性でもなんでもない。ハリボテのエレジーである。ハリボテだから必ずしわ寄せがくる。今日からソシャゲをやらないと決めた所で気になるものは気になるのである。ソシャゲ自体は気にならなくても形を変えて繰り返し噴出してくる。だから我々は「捨てずに」統合する必要がある。捨てて統合出来ましたと言ったってそんなの出来て当たり前であって統合でもなんでもない。
さらにもう一点、オレの目的は毎日の成長だといくら声高に主張したところで、中身が伴ってないと意味がない。我々のしないといけないのは広い目的のもとに自分という人間を「再整理」することであって、大風呂敷を広げることではない。何を整理するか?自分の全ての行動と状態である。それをパソコンのファイルを整理するように整理していく。ルートディレクトリにあたるのが先ほどの統合的な目的だ。そこに全部入れてそれでおしまいというわけにはいかない。それでは整理にならない。なぜ整理しないといけないかというと、殆どの人は自分の行動と状態を支離滅裂な判断でしか決めていないからである。人間完全に合理的な生き物ではないが、少しは整合性を持たせないとダメである。それが出来て初めてスタイルが一貫してくるのであって、単に「オレの人生は全てカネのためだHAHAHA」といったところでまるで一貫性は保証されないわけよ。だから、自分の(行動と状態の背後にある)考えを統合的な目的のもとに整理しなきゃ。そうして初めて、1つのことだけを考えれば良くて、他に何も気にしなくて良いタノシイ状態になれるのである。また、「君のこの行動はどんな意味あるんですか?」と聞かれた時につねに論理的に説明ができるので、「ああなんてスタイルの一貫した美しい生き方をした人なんだろう」という感動を呼ぶのである。これを少しゆる~く解釈すると、人生の限定的な場面において一部の価値観しか扱わずに済む時があって、そのときは一時的に1つのことだけを考えれば済むこともある。そういうときは、柔道一直線が真の意味で実現して、一見美しい生き方に見えることもある。ただしそれは一時的であって、まやかしの一貫性だということだな。これを永続化させるのが我々日本人の責務いや人類の責務と言えよう。
http://anond.hatelabo.jp/20131019221106
今まで知人・同僚の一人として普通に接してきただけの事を勝手に好意を募らせる燃料にされるのも不快だ
仕事で困ってそうだったし、そこの遅れが私にも響きそうだったから手伝っただけ
金が無い時は助かると思ったから昼飯おごられてやっただけ
合コンのメンツが足りなかったし、それなりにトークスキルがあるから誘っただけ
なるべくレンタカー代や宿代を安くしたいから皆で行くスノボに誘っただけ
ていうか、皆で泊まった宿で襲われる可能性があったのかと思うと寒気がするし
だいたいからして、他の連中にマジで申し訳ないと思うばかりだよ
私が今も社内のイケメンに熱を上げてて、実際いい雰囲気になってんのを知らないんだろうけど、
つまり、そんなことおかまいなしっていうか、断られるはずがないって感じで告白してくるのがキモい
横恋慕も相手がイケメンなら、ここまで不愉快じゃなかったと思うけど、非イケメンはキモくてしょうがない
強引に迫ればどうにかなると言わんがばかりに、必死に来るのも必要以上に恐怖を感じたわ
私の世界に入ろうとするんじゃなくて、二次元でも入っててくれ。
そんで二度と出てくんな。あと、わたしはキモオタですってバッジつけといてくれ。
二度と不愉快な思いをしないために、適宜、差別させてもらうからさ
今まで知人・同僚の一人として普通に接してきただけの事を勝手に好意を募らせる燃料にされるのも不快だ
仕事で困ってそうだったし、そこの遅れが俺にも響きそうだったから手伝っただけ
合コンのメンツが足りなかったし、それなりにトークスキルがあるから誘っただけ
なるべくレンタカー代や宿代を安くしたいから皆で行くスノボに誘っただけ
ていうか、皆で泊まった宿でホモが居たのかと思うと寒気がするし
だいたいからして、他の連中にマジで申し訳ないと思うばかりだよ
俺が今も社内の女の子に熱を上げてて、必死になってんのを知ってながら、
つまり、俺はおホモだちでもなければ、誰かの事を好きでいる事を知ってて告白してくるのがキモい
横恋慕も相手が女なら、ここまで不愉快じゃなかったと思うけど、ホモはキモくてしょうがない
強引に迫ればどうにかなると言わんがばかりに、必死に来るのも必要以上に恐怖を感じたわ
俺の世界に入ろうとするんじゃなくて、おホモだちのクソ穴にでも入っててくれ。
そんで二度と出てくんな。あと、わたしはホモですってバッジつけといてくれ。
二度と不愉快な思いをしないために、適宜、差別させてもらうからさ
ホモってのは見えない、一見してホモだと分かることのほうが少ない
一度恐怖を覚えると、再び同じ思いをしないために差別する事で忌避する以外の手はないんだよね
ホモは常にホモだと分かるように、レインボーカラーの何かを身につけるとかしとけよ。
さっきまで普通の人のふりしといて不意打ちのように告白してきたり襲いかかっても
なら答えはノーだよ。
あそこで描かれてる厨二的発想・行動は思春期を経験した人ならだれでも多かれ少なかれ覚えがあることだと思う。
ただ、それを適切に受容できない未だ思春期の人にとって、それは見たくない過去の自分を見せられるようなもので、それゆえに拒絶反応を示すんだろうなって言ってるんだけど。
やっぱり少し誤解してるんじゃないかな。
私は一部の人たちが「現実と違う!」といって拒絶反応を起こしていると思ってるわけではないよ。
むしろ、見たくない現実、思春期の頃の自分を見せつけられて(もちろんこれはあなたの言うように勝手に見出してるわけだけど)動揺しているのだ、と思ってるの。
これはあなたの言ってることに近いだろうから、「そういう事じゃない」ということにはならないと思うんだけど。
ちなみにここからはまったくの余談だけど、「頭文字D」とかに関してはほとんどの人が鈍感なんだと思うよ。
実際にヤンキーだったり走り屋だったりハッカーだったりする人がどれだけいるの?っていう。
たとえば私には割とガッツリハマっている趣味があるけど、その分野の漫画でリアルっぽい感じで的外れなこと描かれたりしてると、やっぱりシラけるし。完全にぶっ飛んだ荒唐無稽な漫画ならそれはそれで楽しめるけどね。
だから、そういう事じゃないよって話。
半端にリアルなヤンキー物を作ったら同じような拒絶反応が出るかって言ったら、そんなことないよ。
半端にリアルな走り屋物を作ったら同じような拒絶反応が出るかって言ったら、そんなことないよ。
半端にリアルなハッカー物を作ったら同じような拒絶反応が出るかって言ったら、そんなことないよ。
頭文字Dを楽しめる奴は、訓練された奴か鈍感な奴、とか言ったら笑わんか?
そんじゃ「頭文字D」は脱臭されてて、「たまゆら」はされてない?
起こってる事象は逆で、荒唐無稽なフィクションに対して、見てるやつが自分の中のリアル()を投影するから、勝手にずれを見い出すんだ。
http://anond.hatelabo.jp/20130731235147
訓練されたオタクか鈍感力の高い人しか楽しめないというのは同意。
ただし、あれに拒絶反応を示す人というのは世間ずれしているわけじゃなく、思春期を乗り越えられていないのだろうと思う。
あれがある種の人に受けつけられないのは「純粋な善意しか存在しない」からではない。たとえば、かみちゅ!なんかも「純粋な善意しか存在しない」感じのアニメだけれど、あっちにはたまゆらのような拒絶反応はあまり見られなかったと思う。
じゃあ何が問題なのかっていうと、主人公たちの発想や行動が厨二的であって、それが自虐やからかいを交えず肯定的に描かれていること。もっとも顕著なのは「私たち展」だね。厨二というよりはさらにその前段階、小学校高学年くらいかもしれないけれど、まあ厨二病のバリエーションの範疇でしょう。
思春期を乗り越えるとは単に厨二的行動をしなくなるということではなく、厨二的行動を適切に受容できるようになること。黒歴史とか言って身悶えている間は思春期を脱していないんだよね。で、厨二的行動を適切に受容できない思春期の人が主人公たちの発想や行動に拒絶反応を起こしていると、そういう構図じゃないかなと思ってます。
http://anond.hatelabo.jp/20130708005320
これはごく当たり前のことなんだけど、今のお前が応募するであろう求人の労働条件を、働く当人であるお前自身が、冷静に吟味したとするよな?
そしたら、そういう拒絶反応が出るのが普通だから。悲しい現実だから。
仮に職場がブラックだろうが何だろうかどうしたって働かなきゃいけない俺らは、ただ単に、そのへんの感覚を麻痺させてるだけだから。
まともなのはお前の方で、おかしいのは働いてる俺らの方だから。
賃金労働はあくまでも必要に迫られて行うべきものであって、好んで進んで行うようなイイものじゃないんだから、どうしても労働する必要が生じた時になってからしぶしぶ働く覚悟を決めればいいから。
ラブライブは「スクールアイドルの甲子園(花陽談)」なので、年に二回ある。
たぶん9月と3月。9月が選抜で3月が選手権、みたいなものだろうか。
三年生最後の大会ということで夏の甲子園が盛り上がるように、3月開催のラブライブのほうが盛り上がりとしては大きいだろう。
9月開催のラブライブがランキング上位の選抜だったのに対して、3月開催は地方予選からトーナメントで一回負ければ終わり…かどうかは分からない。
とはいえ再始動したμ'sが3月開催の第二回ラブライブに向かっていく姿が2期では描かれるのだろう。
三年生の卒業式か、春になって雪穂と亜里沙が部室に入ってくるところで終わるとかそういう感じか。
(作中では描かれないが、卒業生は大手芸能事務所によるドラフト会議にかけられる。)
2期の最後で新メンバー加入を匂わせるかどうかで3期の展開は変わるわけだが…
μ'sのメンバー構成が変わってしまうのは拒絶反応が大きいような気がするからやっぱり新加入は無し。
だから3年生の卒業によってμ'sは解散、伝説にしてしまおう。
時は移ろい3期の舞台は解散から数年後、それぞれの場所でそれぞれに活躍する元μ'sの面々が再びあつまってμ'sが復活するまでを描く。
うん、5期くらいまではなんとかなるな。
女性で少年漫画を描いている作家は、男性名か、あるいはどちらともとれるような名前にする人が多い。
http://matome.naver.jp/odai/2127442514883895001
このへん参照。
最近は女性名のまま連載をはじめる人も多く、変化を感じてきているが、一昔前は柴田亜美とか浅美裕子とかそのくらいしかいなかった。
これはなぜなんだろう?とちょっと考えた。
2.中2的発想(中性や男性名を名乗る時期がなんとなくある)同人からのPNの人に多いかも。
3.アンチよけ(女とわかると「腐女子だ!」と叩く層がいるため)
特に3番に関して、女が少年漫画を描くことに拒絶反応を起こす男性がいるのはなぜだろう?
荒川弘や森薫なんかの男性にもウケがいい作家さんは「心が男だからOK」という意見も見かけた。
逆に男性が女性名にして少女漫画を~という話はあまり聞かないが、そもそも少女漫画を描いている男性はほとんどいない(手塚治虫とか赤塚不二夫とか横山光輝とか、少女漫画も描いていた漫画界の重鎮たちは時代が違うので割愛)
青年誌だと少女漫画出身の作家が女性名のまま少年(青年)漫画を描いているというのはけっこうある。
読者対象が男性じゃない純然たる少女漫画雑誌で少女漫画を描いている男性がいたらぜひ教えてください。
蛇足だけど、少年誌に対する青年誌のような、少女誌に対するちょっと年齢層を上げた雑誌の呼び名がないのがちょっと不便。
アラサーとかの主人公が多い、読者が大人なのに少女誌ってなってるフラワーズとか、ちょうどいい呼び名ないのかな。
追記)いろいろご意見ありがとうございます。
幼女誌とかなるほど、と思ったんですが、青年に対応する女の青年期の呼び方がないから名前がつけられないのかもしれないですね。
先日、友人が意識高い系の話を持ってきて、ついてはFacebookに登録してくれと言われた。
私は半年ほど前に二度目の再登録をしたのだが(一度目は二年ほど前)、そのときに言いようのない拒絶感を覚えて即日退会してしまった。
本当に嫌だったのだが、必要に迫られてはしかたないと思い、三度目の再登録をした。このときにもログインした瞬間に寒気がした。
この寒気の正体はなんなのだろう。ずっと考えていたのだが、それは私の自己承認の弱さにあるのだと思う。自分を常に過小評価する私は、ナルシズムすら感じるFacebookの空気感に圧倒され、また、ナルシズムを感じながらでなければ楽しめないというFacebookの空気に吐き気がしたのだと思った。
私は、SNSはSNSでもTwitterは楽しんでいる。これは、完全な自己承認が基盤にあるのではなくて、他者承認が基盤になっているからなんだと思う。実際、Twitterにはメンヘラの鬱イートがFacebookよりも圧倒的に多い気がする。Twitterがネト充メンヘラの集まりなら、Facebookはリア充とギャルの集まりに感じた。
もう何年か前に貸してくれたあるものが返せない。
貸してくれた人とは途中で付き合うことになったが、すぐに私が勝手に何もかもいやになってしまって連絡を絶ってしまった。話してはいなかったが、その人と付き合うことによって、そもそも私が恋愛できない人間であることがわかってしまったからだ。ほとんど拒絶反応で連絡を絶ってしまった。
貸してくれたものは頼んで借りたものではなく、自分にとっても良い物であったから試しに使ってみてほしい、という好意で貸し出されたものだと思う。それが相手との初対面の出来事であったせいか私は断ることもせず、にこにこと無意識の愛想で受け取ってしまった。この時の自分にずっと後悔している。私はこれを借りてから一度も使っていない。ずっとしまったままである。のちに家族が誤ってばらしてしまったため、後にあわてて探し出したものの、最初に貸し出された数と合っているのかすらあやふやである。見たくないし、考えたくないのだ。
借りたものもまともに返せない私が考えるのは自分のことばかりである。
もう私の中では呪いかなにかのように扱われていて、「持ち主に返す」という正しい手順を踏むことすら恐ろしく、気持ちが悪い。
そもそも会いたくない。今の私はその人に、自分を棚に上げて罵る事しかできないだろうから。
私はもう友達になった人とは付き合ったりしない。