はてなキーワード: アイコンとは
AdobeのLightroom CC(Classicでないほう)は使うべきではない。人生の時間を大切にしたいのであれば写真管理は別のアプリケーション、サービスを使うべきだ。以下はそれを実感した私の体験談である。
ことの始まりはLightroom CCの画像ファイルのローカルバックアップの場所を変更しようと思ったことである。写真データは古いDroboに置いていたが、さすがにUSB 2.0では遅く感じるようになったことと、ライブラリを複数のPCで管理したかったので、写真データをNASに移動させることにした。「ピクチャ」フォルダに置いていた”Lightroom CC”のフォルダをNASにコピーし、Lightroomの環境設定でNASのフォルダを「元画像の保存場所」に指定してLightroomを再起動。それほどたくさんの写真があるわけではない。枚数で言えば2万枚超、データサイズは90GByteほどである。私の目論見では、このまま放置しておけば数時間でクラウドとの同期が完了し、データの引っ越しは終わるはずであった。ところがこんな単純なことがうまくいかないのである。
同期にとにかく時間がかかる。「写真をチェック中」とのダイアログがでてカウンタが進んでいくが一秒に2〜3枚くらいづつしか進んでいかない。ときたま考え込んでカウンタが停止したまま数分経過することもある。あまりに長時間動かない時はさしもの私もしびれを切らしてLightroomを再起動させた。再起動させるとまたカウンタが進み始めるのである。そんなこんなを繰り返して7時間ほどかけてようやくチェックが完了。さあこれでクラウドとローカルの照合が終わり引っ越しは完了かと思いきやそうではなかった。次に「写真を移動中」とのダイアログが出てDroboからNASへの写真データのコピーが始まったのである。
は?
写真データははすでにNASにコピーしてあるだろ!「写真をチェック中」って一体何と何をチェックしていたんだよ?!クラウドとNASのデータをチェックしていたんじゃないのかよ!?なぜ古い場所から改めて写真をコピーしてくる必要があるんだ!?
最悪なのはこのコピーのプロセスも途中で止まるということである。途中でうんともすんとも言わなくなる。しかたないので「次の起動まで停止」のボタンで抜けてLightroomを再起動する。普通に考えれば次に起動した時はコピーの続きから再開すると思うだろう。さにあらず、Lightroom CCはまた一番最初のファイルの照合プロセスからやり直し始めるのである。なぜこんな仕様にしているのか理解できない。そしてコピーの途中でまた停止。再起動するとまた一番最初からやり直し。こんなの終わるわけがない。
私もとうとうこのやり方には見切りをつけて、Lightroom CCをアンインストールし、全ての設定データを消してクリーンインストールし直すことにした。
クラウドにはオリジナルの写真が全てアップロードされている。クリーンインストールしたLightroom CCを起動するとまずカタログデータをダウンロードする。そしてローカルバックアプとの照合を行い、ローカルにデータがなければクラウドからデータをダウンロードする。
クリーンインストールしたLightroom CCは古いライブラリからファイルをコピーしようとするような謎動作は行わないようだった。しかし今度もカタログデータのダウンロードで止まる。再起動するとまたダウンロードを始める。そして止まる。また再起動の繰り返し。
ようやく数時間かけてカタログデータをダウンロードし終わると今度はオリジナルデータのダウンロードである。ローカルにバックアップがすでに存在するのにまたクラウドから再ダウンロードするような無駄を私は望んでいない。しかしこれまでの格闘で私は疲れ切っており、もう勝手にしろという気分であった。そしてまたここでも頻繁に停止するのである。停止している時に右上のクラウドのアイコンを押すと、「ネットワークに接続できません」と表示されていることがある。ネットにはもちろん接続されている。何らかの事情でクラウドサーバとの接続が切れてしまい、接続を回復できなくなるのが停止の原因のようにも思われる。それがサーバ側の問題なのか、クライアントの問題なのかはわからない。わかるのはLightroom CCのフォトプランというサービスが、サーバもクライアントソフトウェアもひっくるめて極めて低品質なものであるということだけだ。
Lightroom CCのクラウド同期に問題が発生しているのは自分の環境だけではないようだった。
ネットではいくつかの対処法も見つけることができる。たとえばあるサイトでは同期停止の対処法としてLightroom library.lrlibraryの中にある”Managed Catalog”で始まるファイルを別の場所に移動してアプリケーションを再起動することを提案している。
https://lifehacking.jp/2018/04/lightroom-cc-spinning-wheel/
私もこれをやってみたが何の解決にもならなかった。今までの同期情報が消えてまた最初から同期プロセスが始まり、また停止しただけだった。
Adobe本家のサイトでは同期が止まった場合に写真にフラグを設定することで同期を再開するという対処法を提示している。
https://helpx.adobe.com/jp/lightroom-cc/kb/stuck-syncing.html
私はこれもやってみた。しかし何も起こらなかった。何度フラグを付け直そうが停止した同期プロセスが再開することはなかった。停止した同期プロセスを再開する方法はLightroom CCを一旦終了してまた再起動することだけだった。結局、ドモホルンリンクルを見つめる人のようにずっと同期の進行を監視して、止まったらLightroom CCを手動で再起動するという方法しか対処法はなかった。
はっきり言ってネットの情報は嘘ばかりである。一般ブロガーのサイトの情報があてにならないのはしょうがないが、Adobe公式のヘルプに堂々と嘘が書いてあるのは許しがたい。
これまで写真管理はiPhoto、Apertureを使ってきた。Appleが両ソフトウェアをサポートしなくなり移行先として選んだのがLightroom CCである。Appleへの依存率を下げたいという意図もあった。しかしとんだ見込み違いでLightroom CC/フォトプランはどうしようもなく低品質のプロダクト/サービスであった。たかがローカルバックアップの場所を変更するだけのことに大変な労力と時間を無駄につかわされた。
私はもうLightroom CCは捨てることにする。もともとRAW現像などするような写真趣味があるわけではなく、写真の管理とクラウドバックアップ、カジュアルなレタッチができればよいユーザであった。これからは写真管理とクラウドバックアップは写真appとiCloud+、レタッチはLuminar AIを使うことにする。
これを読まれた読者諸賢も貴重な人生の時間と労力を無駄にしたくないのであれば、Lightroom CC(そしてこんな品質の低いアプリケーションとサービスしか作れないAdobe)には金輪際関わらないことをお勧めする。
アプリ内のブラウザでサイトを表示して、一度でもブクマページを開くと、移動先のページのブクマページしか開けなくなっていた。
アプリ下部のコントロールバー(?)でのブクマ数はそのページのものに変わるのに、開けないのダサいな…とは思いつつなんとか回避していた。しかし最近になって、ブクマページならなんでもアプリでブコメを開くようになったみたいだ。
適当な増田を開いてトップに行き、そこから最新のものをちらちら見て閉じるようなことをしていた。下部のブクマアイコンから見られないときは、増田の右下のブクマ数のリンクからブコメを見ていた。
今はもうアプリから開いたページのブコメ一覧しか表示されない。
どういう作りだとこんな挙動になるんだろ…
右か左、フェミかキモオタの組み合わせだけでも、それなりに幅の広い設定が存在します
ネトウヨでキモオタ、リベサでツイフェミ、などの極端な設定のキャラは、詰めが甘いとぼろを出しがちです
・星がつくことに一喜一憂せず、それがどのスタンスの★かを吟味する
左設定なのに右寄りの★が集まった場合、あなたのコメントは想定と異なる解釈をされています
反対陣営を皮肉るのも文脈を理解する必要があり難しい時があります、気を付けましょう
・過激なコメントを付けたくなるでしょうが、初手からそれをすると左右どちらからも敬遠されてしまいます
自陣の米に星を付け、自分のスタンスを周知するとともに、その米におもねった内容にするのが無難でしょう
・記事ごとに意見が変わるのも避けた方が無駄な攻撃を避けられ心労を少なく出来ます
意識の高い人が多く、中庸を気取りたい人が多いため、割かし演じなくても良い
意見としては、日本(とりわけ自民)を批判し、ポリコレを意識、オタク文化に否定的とするだけで、キモオタと違い自陣営の知識をそれほど必要としません
注意点としては、目立つリベサ垢は初心者の参考にならない点です
面倒臭いのでここにまとめるけど、「どう見えようと自由意思」とか「ジェンダーアイデンティティ」とか個人レベルのことを言っているのではなく、あまたある服装・キャラの中で、ある一つがアイコンとして公的機関に選択された時、それは公的なメッセージ性を帯びたものとして看做され得るということ。 https://t.co/FQ9dMl7CVt— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) September 24, 2021
なんかよく分かんないんだけどさ、そんなにみんな仕事中に自分の服装の自由を行使するっけ?表現として。
その場その場でふさわしい格好をすることと、関係ないところで自由に好きな格好をすることは両立するやろと思うんだけど。https://t.co/2m1PlygZom— 石川優実11/22「もう空気なんて読まない」🇯🇵🌈🥺👞👠 (@ishikawa_yumi) October 4, 2021
攻める側より守る側になってしまったということだろうか
公共広告というのは基本的にすべての人を対象としたものだ。今回の広告は若者がターゲットということだったが、若者以外が見ないわけではない。誰かが不快になる表現はなるべくあってはいけない。
も上記2件ほどではないが前置き癖を感じた。
犠牲になったのはSurface Pro6
管理者権限で起動しないと入らんよ
ライブタイルが廃止されてアンドロイドでいうドロワー的なのになった。
使いづらいし、インスタとかフェイスブックとかの糞アプリがインストールされてた
なんかよくわからん
どうせ使わんのでいらない
タスクマネージャ開くのにタスクバークリックして開いてたんだけど、設定しか表示されなくなった
やっぱwin10は神。
今となっては懐かしいスティーブ・ジョブズの「いつもの格好」を覚えているだろうか。
黒タートルにウォッシュのかかったストレートデニム、NBのハイテクスニーカーというもの。
まさしく彼の制服であり、このアイコン的な定番ルックのお陰で、制服の学生が勉学に部活に勤しむが如く、身なりに余計な思考を使うことなく仕事に邁進できた。
自分は、ジョブズと比べることも烏滸がましいハナクソ以下の雑魚だが、「いつも同じ格好が楽」というのは同意する。
マジでもうスーツ以外の外出着も、部屋着や寝間着同様、制服のようにほぼ同じ格好で365日過ごしたい。
世の中には「今日は何着ようかな」の結果「いつもの格好」になってしまう人間がいるのだ。自分のことだが。
さて、同様の考えを持つ読者諸兄が希望する「自分の制服にしたい格好」はどんなものだろうか。
かくいう自分はギンガムチェックのボタンダウン、ワンウォッシュデニムのスキニー、VANSのオーセンティックという「こどおじ」スタイルだ。
筋肉量が少ない上に骨も細い、ヒョロガリの下半身デブ中年にはお似合いだろう。
ということで自分の手の内は晒したので、他の人も心置きなく「アイコンにしたい格好」を書き捨てていってもらえれば幸いである。
長々書いてるけどブコメのこのやりとりで話終わるな
nikakuinikaku id:nanamino 「人格を持った多様な姿」がモノ化を受けていない事を指すなら、いらすとやさんは対象の機能を抽出しているので道具性と代替可能性に引っかかりそう、増田と同様にイラストに適用不可、で回避できるけどね
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【追記はじめ】
air77et1980 "俺らの方が先進的であるとすら言える"くっさ。きっも。こういうアホな文言さえなければ国語力増田さんっぽい書き味なんだけどなぁ。一応、リストに加えとくか
俺はくさくてきもいのはご存知の通りで別に言われたって気にはしないが
おまけ : これは俺は書いてない
【追記おわり】
「人格を持った多様な姿」じゃないと駄目ってどういうこと?
確かにこの文は違和感ある。ガイド内に散々登場してるいらすとやのアイコンには多様な人格なんて感じないのに
こんな文言が入ってしまった原因を紐解くために、ラディカルフェミニズムの用語「性的モノ化」について調べたので今回書いてみる
おそらくこの理論が半端に入ってしまったことが今回の問題の原因だ
sexual objectificationの訳語で性的対象化、性的客体化とも訳す
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E7%9A%84%E5%AF%BE%E8%B1%A1%E5%8C%96
性的じゃないモノ化も当然あって、上記wikiでは「企業が従業員を交換可能な機械として扱う」ことなども事例に上がっている
マッキノン・ドウォーキンなどラディカルフェミニズムの提唱者にとって、ポルノがなぜ悪いかというと不道徳・風紀を損なうからではなく
価値が肉体の魅力などのパーツに還元されてしまうことにあるとした
ヌスバウヌがこれを具体化して、下のような例を上げている
1.道具性 : ある対象をある目的のための手段あるいは道具として使う。
2.自律性の否定 : その対象が自律的であること、自己決定能力を持つことを否定する。
3.不活性 : 対象に自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めない。
4.代替可能性 : (a)同じタイプの別のもの、あるいは(b)別のタイプのもの、と交換可能であるとみなす。
5.毀損許容性 : 対象を境界をもった(身体的・心理的)統一性(boundary-integrity)を持たないものとみなし、したがって壊したり、侵入してもよいものとみなす。
6.所有可能性 : 他者によってなんらかのしかたで所有され、売買されうるものとみなす。
7.主観の否定 : 対象の主観的な経験や感情に配慮する必要がないと考える。
この理論がガイドライン「人格を持った多様な姿」という文の根底にあると考えられる
要はモノのように交換可能なパーツとして魅力を描くのでなく、被写体でしか得られない魅力を表現してほしいと言っているのだ
女性をアイキャッチに使うなと言う要望もこの理論から派生していて
実際は広告にはアイキャッチ自体は不可欠で(そうじゃなきゃみんなに見てはもらえないでしょう)
アイキャッチの内容に人格を無視したモノとしての価値しかないところが問題になっている
それゆえ、スポーツ選手などの有名人のスポーツしている姿などはアイキャッチにしても問題ない
この理論は本来人格を持った対象がモデルになった絵や写真の人格を剥奪する行為には適用できるけど
無から創造された絵にはそもそも剥奪する人格がないんだから適用できなさそうに思える
実際、いらすとやの絵には元々の人格がないし、それが代替可能だったり主観が否定されたりしても問題はなさそうだ
実は今回の問題はさっきまで議論していた性的モノ化とは別の議論で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%8A%B9%E6%9E%9C%E8%AB%96
府のガイドラインは萌え絵以外はずっとこれのことを言っていて、メディアに男女不平等な描写が盛りこまれていると
人々も釣られて男女不平等な行動をしてしまうのでよくない、という事を言っている
じゃあ素直に萌え絵禁止の条文にも「ふしだらで不道徳な姿を描写してはいけない」とか書けばよかったんだろうけど
男女不平等と違ってふしだら・不道徳はなぜそれが悪なのか理論立てが不明瞭なんで
しょうがなく既存の理論で構築に問題がなさそうな性的モノ化の理論を元に注意書きを付随させたんだろう
ただこの理論は非実在のキャラには使えないのだが、そこはあまり考えてなかったんではないか
とはいえ、中の人がいるVTuberみたいに人格が備わっている存在の場合、いらすとやの絵や文字だけのロゴのように人格のないものと扱うわけにもいかない
男女共同参画ちゃんみたいに元々人格がない存在にも人格を見出してしまうのが俺らオタの習性だ
https://togetter.com/li/1781336
であれば、そもそもの最初の議論に戻って「あくまで俺らはアイキャッチになった事物を交換可能なパーツとは考えていない」と表明し続けるのが正面突破の道だと思う
例えば宇崎ちゃんの献血ポスターは乳袋さえあれば顔やセリフは別のものに差し替えても効果は変わらなかっただろうか
そんなことはなく、あれは宇崎ちゃんだからファンが注目したんだ
碧志摩メグもキズナアイも戸定梨香も、それぞれ背景があってそのキャラは他とは交換できない魅力があるという声が多くなれば
また、隠された動機である「ふしだら・不道徳ではないか」という異議立てに関しては
それを隠した理由をもって堂々と反対を主張すればよいと思う
すなわち、「人をふしだらと断定するのは失礼なのではないか」という反論だ
この反論を避けたいためにガイドラインでは性的モノ化の理論を持ってきたと思われる
道徳・不道徳という価値判断は旧来からある価値観を保存しようという動きであり
本来男女共同参画という旧来の価値観を是正する方向の運動とは相性の悪いものである
なんでそのアイコンなん?って尋ねたら、この曲が好きだからーってウソをついたことを知っている
なんで急に紫色にしたの?って尋ねたら、綺麗な色だからーって言う
ウソかなあと思っている
そんでまたそれが秘密なわけね
信用できなくなってるなー
キャラクターの人格って言葉は、主観的な領域が含まれるのは確かなんだけど、簡単な例としてはそこら辺のWebサイトの「お問い合わせ」ボタンのアイコンに、長髪(かつポニーテールだったりする)20代女性っぽいイラストが使われていたりするだろ?これはその女性イラストに物語性はなくて、「電話オペレーターっていうと若い女かな」みたいな、テンプレートイメージとしての姿形だけがあるわけ。別にこれ自体が悪ということではないけど。
こんな感じで、さらに露悪的に考えていくと、若ぇ女は笑顔で愛想振りまいて乳揺らしときゃいいんだ、キャラクター性も物語性も特にない、アイコニックな存在としての女性キャラ置いとけ、みたいなクリエイティブもあり得る。人の目や耳を引くことはできるだろう。
ゲームが好きだ
子供の頃は家庭の事情やお金の問題で思うようにプレイできなかったゲームも、大人になった今では好きなだけプレイできる
自分が子供の頃は「いい歳してゲームなんて」と言う大人が多かったが今はそんなこともない
そのうちただプレイするだけじゃなくゲーム実況をYoutubeに上げるようになった
好きの延長線上にそれがあったから始めた
最初はこの楽しい気持ちを誰かと共有できたらいいなーとか、バズったらどうしようとか、そういうことを考えてた
どれだけ動画を上げても再生数は毎回1桁、チャンネル登録者数はピクリとも増えない
動画の離脱率が高く1分未満の視聴がほとんど、それですらまだマシ
動画の構成、サムネイル、動画説明文を見直し、イラストレーターにキャッチャーなアイコンを描いてもらい、毎日動画をアップロードする
それでも状況に変化はない
なんだこれ
前はご飯も食べずに徹夜でプレイし続けていたのに、今では動画撮影以外でゲームの起動すらしなくなってしまった
ゲームが楽しめなくなった今、当然自分の上げる動画も面白くない
最初の頃の楽しそうにプレイする自分を見ると今の自分との差にビックリする
なんだかな、何してるんだろう
だが、アニメを作るプログラムを作るというのは、あまりなかったように思う。
当時はFlashがあったから、わざわざ作る必要もなかったのかもしれない。
Flashやgifが衰退するに従って、個人がアニメを作るのも減ったように思う。
最終的には顔出し、声出し文化がとどめを刺した。
時間をかけてアニメを作るよりも、顔出しで何かを買ってきてしゃべる方が、早いし需要もあったのだと思う。
日本から個人でもアニメを作るようなプログラムが多く出てこなかったのは、
結局の所何が原因だったのか。
複数の画像をパラパラ漫画のようにする、というプログラムはあった。