はてなキーワード: 遊園地とは
そんな若者がいる。
初めてさわったティッシュはやわらかくていい匂いがした。
だって生まれてこのかた暮らしが良くなったことなんてないんだもの。
…とはいえロイヤルファミリーを倒す術なんて今の自分にはないもんな。
聞くところによると資本主義も現界に来てるらしいけど、
社会主義よりはマシなはず。すでに時代遅れなのは重々承知だけどもやらないよりはマシなはず。
…とはいえ俺1人の力じゃムリだな。同志を見つけなくちゃ。ご近所のアイツを説得してみるか。なあなあ今の体制に不満ない?このままでいいのかなぁ?
…そうかなぁ…いや俺こないだ日本人の友達と話してさー話聞く限り資本主義も捨てたもんじゃなさそうなんだ
なにいうか!!将軍さまのご英断にケチをつかるつもりか!国家の恥だ!非国民め!!
…そうかなぁ…気分悪くしたらごめんね。でも思わない?このままだとこの国やばいんじゃないかなぁ。日本のこと教えるからさ、ちょっとだけ聞いてくんない??
うるさいっ!そんなものは必要ない!お前は今の生活でなんか困ることあるのか!!毎日笑って暮らせてるではないか!!これ以上の生活を望むのか
たしかに笑ってはいるんだけどさぁ…たとえば俺いっつもお腹すいてんだ。もうちょっと暖かい場所で眠れたらなとも思う。それって贅沢かなぁ
贅沢に決まってる!!そんなことつべこべ言わず黙って昔のやり方を踏襲すればいいではないか!ずっとこのやり方でやってきたんだ!お前の考えは危険思想だ!!場の空気を読め!輪を乱すんじゃない!!上のもんの言うことは絶対なんだ!!
…そっかぁ…ごめん。たしかに俺が間違ってたかも。ごめんね。でもなんだかこのままじゃヤバイ気がしてさ。みんな限界を見て見ぬ振りしてるだけなんじゃないかって。思考停止してるのは楽なんだけどさぁ。でもたしかに輪を乱しちゃったねごめんね。
というのがここ2、3日の実感。
なんだか疲れてきちゃった。
コストパフォーマンスだけを考えると結局のところ娯楽に金を使うだけ無駄だし、おいしい料理とか考えずに小麦粉とサプリメントだけで生きたほうが良い。
さて、俺自身は宝くじの業務に間接的に関わっているので、ここから先は眉に唾つけてから読んでほしいのだけれど、宝くじは本当に買うべきじゃないのかということを擁護していきたい。
そもそも宝くじを何のために買うのか。
これは、宝くじ購入者が言うように『夢を買っている』ので間違いないと思う。もうちょっと具体的に表現すると、『当選発表までのワクワク感を買っている』ということになる。
買ってしまえばあとは当選発表を待つばかり。今年の年末ジャンボだと12月13日に発売し、31日に当選発表するので、だいたい2週間ちょっとワクワク感が持つ。『もしも数億円と言わずとも数百万当たったら』という自分の中だけのワクワク感もあるし、知り合いとの会話のネタにもなる。
ワクワク期間が長すぎるならばロト6やナンバーズを買えば数日で当選発表される。競馬ならば馬券を買ってから馬が走るまで。ぱちんこならば4円の玉が穴に入ってスロットが当たるまでの数十秒間。
言い換えると、基本的にギャンブルというのは「当たるまでのワクワク感を買ってる」ということになる。これが無駄と思うか有意義と思うかは人によって異なると思う。
移動だけ考えるならばジェットコースターは始点と終点が同じなので全く無意味だし、映画なんて2時間も椅子に座らされる。しかし、ジェットコースターの爽快感とか、感動的な映画での号泣とか、そういうのをストレス解消や人生の楽しみにする人は多い。
なので、そもそも娯楽に対してコストパフォーマンス云々を言うのは全く持ってナンセンスだと思っている。
ここからは、個人的に「宝くじ買ったほうがいいんじゃないの?」と思える点。冒頭にも書いたけど、宝くじの業務に間接的に関わってるので、眉に唾つけて読むように。
ポイントは2つ。1つはランダムであること。もう1つは当選発表までの期間が長いということ。
最初のポイントは、『完全にランダムである』という部分。バラと連番という違いはあったとしても、自分で番号を選ぶことができない。これが良い。
というのも、外れた時の原因が『運が悪かったから』になるから。当選率の高い宝くじ売り場に行くとか、黄色い財布に入れておくとか、そういうゲン担ぎはあったとしても、結局は運になる。そもそも宝くじにおいてのゲン担ぎなんて、夏祭りに浴衣着るのと同じぐらいの気分を盛り上げるための手段だし。
競馬やぱちんこといったギャンブルになると、技能やセンスに依存する割合が若干増える。言い換えると、「馬の状態を勉強すれば当たる確率が上がる」とか「釘や設定の見極めをできるようになれば当たる確率が上がる」ということでもある。
こうなると、負けた時は運だけでなく実力も問題となる。自分に実力があればもっと稼げたはずだという思いが強くなってしまう。そうなると射幸心を煽られて、結果的にギャンブル狂になってしまう。
ところが宝くじの場合は運が悪かったからで終わらせることができるので無害。運以外の要素が絡まないからこそ、純粋に運のせいにできるので、自分自身を呪うことなく「残念だったね」で終わらせられる。
もう1つのポイントは当選発表までの時間が長いということ。冒頭でも書いたけど、長ければ長いほどワクワク感を持続させられる。
一度購入したらあとはワクワクを心に秘めながら生きるだけ。映画や遊園地といった娯楽は長くて数時間で終わってしまう。旅行は実施までの期間は長いものの準備が必要となる。宝くじは何も考えずに待つだけで良い。
仕事や子育てや学校が忙しくなったとしても、何も準備する必要が無い。買ってしまえばあとはワクワクし続けるだけで良い。たった数千円で当選まで2週間楽しむことができる。
また、ジャンボ宝くじは年に数回のため、競馬やぱちんこといったギャンブルと比べて、『アツくなってすぐにもっと使いたくなる』ということが無いのも大きい。「くそぅ! 次はもっと当てるように頑張る!!」と思っても、次が来るのは数か月後だから、だいぶ熱が冷めている。
他にも、「収益金の一部が公共事業に使われる」とかあったけど、その辺は人によって好みが分かれるんで割愛。
そんなわけで、たった数千円で当選発表までの2週間以上を心のどこかでワクワクし続けられるのが宝くじ。「そんなの儲からないよ」と冷めた目で見るのも別にいいけど、試しに1セットだけ購入して、こっそりとワクワク感を秘めながら生きるのも悪くないと思う。
石景山遊園地を米国の巨大テーマパークの模倣と揶揄するの前にかつて日本にも横浜ドリームランドや奈良ドリームランドという遊園地がありまして、その2つともパークの設計やアトラクションのコンセプトが米国にある本家のそれにそっくりすぎて、舞浜にあるアレを日本に誘致するときにあのドリームランドは何様なんだと本家に断られそうになったエピソードがあったことを思い出してください。
・パークセンターの西洋風のお城→シンデレラ城(パークによって城の種類は異なります)
詳しくは、調べてください。昭和30年代の出来事だし、ドリームランド自体が淘汰されてしまったので、難しいかもしれませんが。
本家も、著作権の切れている小説・古典や昔話や童話といったものをコンセプトとして、二次創作(再創作)しているもポイントかもしれません。著作権が切れそうになるとパート2やリニューアルを作っています。
大陸のやり方を快く思っていませんが、わが国もかつてはそうだったということを頭の片鱗に覚えておいてほしいと思いました。
高度成長していく過程でより先進国の行動を模倣するというのは、どこの国にもあることなのではないか。
アニパロ同人誌を作ってコミケで売りさばく漫画家の卵とか学生のように、二次創作という名の模倣ですよ。無許可便乗商法です。
ある程度大人になったら、無許可の模倣では商売できないことがわかって、グレーゾーンから卒業していく。大陸の国はその課程にあるのではないですかね。
マーケティングの一環として、年中お祭り騒ぎをしていなければならない今の商業形態もどうかと思いますけどね。
・8月の末になったらコンビニに肉まんとおでんが登場(まだ夏なのに、冬に向けたイメージ付け)、敬老の日
・9月にはハロウィン(こちらは10月の末ですね)、秋祭り(このパンチが弱いのかも)
・12月にはお正月。(クリスマスメインのところは12/26から急にお正月ですね)
・1月にはバレンタインとごり押しの恵方巻き(普通にスライスして食べたいですよね)
好むと好まざるにかかわらず、日本の伝統的なお祭りが弱い月に海外のお祭り的なものをその意味や趣旨を考えずに楽しいところ取りをして企画として押し込んでいるのが、消費を無理に喚起しようとしている今のマーケッターの手法なんでしょうね。一過性でものが売れればよくて、そのコンセプトや趣旨なんて微塵も考えていないというのが正直なところなのではないでしょうか。
アメリカの本家は、その最たるもので、毎日世界のお祭りが各国のコンセプトを無視して楽しいところ取りで行われているのが興味深いところです。
何であれ、拡散したものを元に戻すことはできない、特に文化の世界では。「覆水盆に返らず」だ。
乱暴な(ただのレスリングでしかない)「柔道」をやる外国人選手を見ると、多くの日本のマスコミ・識者・日本人たちは「こんなの柔道じゃない!柔道をやるなら、(もちろん日本人になる必要はないが)ちゃんと柔道の精神を理解・尊重したうえでやれ!」と不快に思いますね。しかし、だからといって「柔道やるなら日本人になれ!」と言っていることにはならない。
これと同じことです。
申し訳ないが、私は彼らが柔道をやることを特に不快には感じない。柔道を一旦外に持ち出したからには、彼らがそれをどのように解釈しようが自由だ。文化とはそういうものなのだから。
ゴータマ・シッダールタが、もし今の「仏教」や「寺」を見たら卒倒するかもしれないし、イエス・キリストがバチカンの司教たちを見たら「神の庭を汚す者どもが!」と怒り狂うかもしれない。そもそも「クリスマス」が始まったのは、イエスが死んで何百年も経ってからの話である。…だが、それは、それらがことごとく「偽物」でありそこに捧げられた全ての人の思いは全て「偽り」であるということを意味するのだろうか? そう考えるのが妥当であろうか? 私はそうは思わない。それは余りに狭量なものの考え方だと思う。
正当、正統にこだわる、いわば原理主義的なものの考え方は、物事が混乱する時期により確からしい指針を求める意味から人々にもてはやされるものではあるが、ある物事の出発点に「より純粋な原理を確立する」という発想が強く強くあったというのでない限り、結局のところ出発点の思いとはずれたものとならざるを得ない。原理主義は、しばしばその意に反して、「原理」とは異なるものに変質する。
たとえ石景山遊園地がどれほど見苦しく見えようが、親に連れられてそこで遊んで楽しかった子どもの思い出を否定する権利が誰にあるのだろう?
「あなたの遊んだ遊園地は偽物なのですよ!だってそれはディズニーに版権があるのですからね!!なんて見苦しい思い出なのかしら?1」
文化とは、今生きているもので、今を生きている人間のものである。生きている人間に本物も偽物もありはしない。まあ、この島国の人間が、自分たちのもたない、世界のどこかにある「ホンモノ」幻想を追い求めることで、千数百年間自国文化発展のモチベーションとしてきたことも事実であるし、その歴史を否定するつもりもないのではあるが。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20131117-00029863/
別に人としてといっているわけじゃない。
「怒っても、怒鳴っても、懲りずにやるのは何故なのか分かりませんが」
ってそりゃそうでしょ。
怒る、怒鳴るというのは手がセットになって初めて効果を持つもの。
最近のゆとりは怒っても効果なしっていうのは、小さい頃から手をあげられてないから。
で、手をあげないでいうことを聞かせるにはどうしたらいいか。
答えは簡単。
情強になること。
それだけ。
では何の情強か?
どうも子供になめられている。
なぜかというと、子供がハマっているプリキュアの話題についていけないからだ。
その子供の中ではプリキュアのことをどれだけ深くわかるかどうか。
それで格上か格下か判断している。
ちょっとハマった。
その結果、格上とはいかないまでも、認めてもらえるくらいになった。
このように今そこにいる子供の「業界」で如何に上に行けるかどうかで
子供を動かせるようになる。
つまりは、情報強者かどうかはiPad>>>>>超えられない壁>>>>>山本さん だということ。
もうゴミですね。
これは相当口が上手くないといけない。
口が上手い友人がいるが、ある日遊園地に何人かの子持ちと行ったんだが、
友人はアトラクションに乗れないので5、6人ほどの子守を任された。
皆山本家並のワンパクばかり。
ってなんかよさそうだなってふと思った。
でも美術館めぐりが趣味っていうと、芸術自体じゃなくてだたの小旅行マニアと同じだと思われそう。
他人からの評価なんか気にしないとしても、そもそもまず実際行っても楽しくなさそう。
エジプト展とか歴史のロマンが感じられるものだったらまだいい(経験済み)けど、ごく普通の絵とか見ても何も面白く無いって感じてしまいそう。
2chとかだとバカにされてるけど、美術館とかで見て楽しいのは現代アートとかだなと思った。
一体何があるのかわからないというワクワク感が欲しいのかな。
うーん。
でも日々の仕事に疲れた自分には遊園地や映画よりは美術館のほうがまだ落ち着けるなとも思うのも確かだなあ・・・
うーん・・・
でもそれも最近は館内イヤホン案内みたいなのもあるし必須じゃないか。。。
うーん。。。僕は何がしたいんだろう。
もちろん、仰るとおりなんですよ…。
「スマホでサンプル用として出る画面を撮影する=設備にかかる費用・運用費にタダ乗りする行為=万引き」ってのは分かる。
スマホの普及(とカメラ撮影のしやすさ)と、SNSに日常の写真をアップするのが当然という感覚の中で
「写真を撮る」ってことの、敷居がどんどん下がってる気がするんだよね。
メモ感覚っつーか、なんつーか。自分のことを考えても、何かに使うという訳でもなく料理の写真は一通り押さえてたりするし。
それに伴って「写真を撮ってもいいですよ」という場所も増えてるし。
「撮影禁止」という設定自体が、無理がある時代になってきたのかなと思う。
1. アトラクションの後に写真ブースを設け、全ての写真を展示する
1. 写真が欲しい人は、アトラクション開始前に +100円を払えば、JPEGをメール等を使いデジタルデータで貰える。
2. 気に入れば、印刷物 / マグカップなどを追加で購入する。
(アトラクション後に、写真が欲しくなった人は、スタッフにサンプルを見せて貰って購入)
そもそも、現状のビジネスモデルを諦めて
アトラクション中の写真データが貰えることを、遊園地自体の差別化として使うとか。
猿とゴリラの違い分かるか。
猿とゴリラの違い分かるか。
ゴリラに聞こう。「すいません、ゴリラさん、あ、ゴリさんって呼んでいいですか」
「いいですよ」彼はゴリさんだ。
「ゴリさん、猿とゴリラの違い、あ、猿とゴリさんの違いでいいのかな」
「猿と私の違いですか、なんでしょうね、私はゴリラなので、猿ではないので、分かりませんね」
猿とゴリラの違いは、ゴリラのゴリさんに聞いても分からなかった。残念なことだ。
じゃあ、誰に聞けばいいのだろうか、というか、私は猿なのか、ゴリラなのか、分からない。
腹立つ。悶々と腹立つ。ゴリラだったら、この苛立ちを自分の胸元へぶつけるだろう、ウホウホて。やってみよう。
ドンドンドン、痛い。悲しい。腹立つし、痛いし、何より悲しい。骨が折れたかもしれない。悔しい。もう少し筋肉が欲しい。
ということは、私は今は猿なのかもしれない、猿じゃないかもしれない。どっちだ。
どちらにしても、私は明日も何もしない。何もしたくない。猿でもゴリラでも、動物園でも、遊園地でも、映画館でも、飛行場でも、ない。
嬉しいのか、悲しいのか、猿とゴリラの違いは分からないけれども、明日もしたいことをするだけだ、猿とゴリラ、ゴリさん元気かな。
先日の在特会の桜井会長のニコ生・惜別編(http://live.nicovideo.jp/watch/lv135646855)で、興味深い話があったのでメモ。というか書き起こし。2:00:00~から。
朝鮮問題だけでなく部落問題までと、タブーに風穴を開ける会長はまさにパイオニアですなぁ。
TBSから聞いた話だと、在日問題と部落問題はTVでは絶対と言っていいほど報道できないタブーなんだとか。
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昔同和対策事業ってありましてね。30年の間に15兆円ぐらい突っ込んだんですか、ホント馬鹿なことをやってくれまして。でその部落民ってのがですね彼等は公称300万人いるって言ってるんですよ。で、部落の実数は100万人と言われてるんですね。その100万人を養うために皆さんの税金が15兆円使われてるんですよ。
まず部落地域を国に申請するわけですね。その申請数が出てまして、2位が兵庫県で60箇所か70箇所あるんですよ。1位が福岡県で、600何十箇所あります。桁が違います。部落だらけでございます。
で、その部落地域に指定されるとどうなるかというと、そこにバンバカバンバカ金が入ってくるんですよ。
福岡に香椎花園という遊園地があるんですね。この香椎という街は元々部落地域なんですよ。で、行けば分かるんですけどもこの部落地域、すっごい綺麗なんですよ。道路にゴミも落ちてないぐらいに綺麗なんですよ。何処がこれ部落なのってぐらいに綺麗なんですけれども、何でこうなったかと言えば香椎が部落地域だと申請してそこに公共事業を呼び込んだんですね。お金は全部国が払ってくれますから。ところがそれすると今度は逆差別状態になりましてね、香椎以外の地域が未開発地域になってしまって、で香椎だけは綺麗な道路と綺麗な街並みになってるわけなんですよ。
綺麗な街になればね、皆やっぱり住みたがるじゃないですか。部落と関係ない人間がどんどんどんどん入って来ましてね。そうすると、香椎という街自体は元々は部落の街だったんだけども、関係ない人がどんどん入ってきて、いわゆる「血縁」というものが消えていったわけなんですよ。元々ここは部落の地域だったんですよって言ったって綺麗に整ってるから皆が入ってきちゃってもうそんなの気にしなくなってきたんですよ。
それで、一番困っているのが部落解放同盟ですよ。
部落差別がなくなって一番困るの誰かって言ったら部落解放同盟ですからね。
彼等は差別を食い物にして、今ね部落解放同盟の本部は六本木ですよ!六本木ヒルズの横のでっかいビルの所に部落解放同盟の本部があるんですよ。
差別されると六本木にビルが建つんですよ(笑)。お願い誰か私を差別して。
かつて日本人ってのはねこういう差別差別と言われると本当に弱くてね。とにかく何でもいいからお金で解決、彼等が言うことは黙って言うこと聞きましょうと。それが結果として差別問題を引きずり回したわけなんですよ。ずっと引きずってきた。部落解放同盟の思う通りですよ。
ところが平成14年、これ以上同和対策する必要はないとその同和対策事業が無くなって、今度は部落解放同盟何言い出したかと言ったら人権擁護法案ですよ。
こんなもんなんですよね。
皆さんが勝手に(在日や部落を)怖い怖いと思い込む、ここが問題なんですよ。一番恐ろしいのは部落でもなければ在日でもなくてね、差別を怖がる皆さんの心が一番恐ろしいんですよ。何でもかんでも差別差別でね。結局ね一番被害に合うのは一般国民なんですよ。皆さん自身が一番被害に逢うんですよ。税金搾り取れるだけ搾り取られて、その金が皆ね差別利権の団体に入っちゃうんですから。これが一番おっかないって言ってるんですよ。
生まれたこどもは、上が健常者だけど下が障害持ち。
自分は上のこども。
まだ小さいころ、下の子が障害持ちになったのは父親の責任だと父親自身から聞かされた記憶がある。
困ったような笑い顔しながら言ってた気がするけど、本人に対してじゃないとはいえこどもにそんなことポロッと言っちゃうなんて、相当後悔してたんだろうな。
そのせいか、父親はあからさまに下の子には甘く、自分と扱いに差をつけた。
その寂しさの反動で下の子に無意味に辛く当たったりしたことは後悔している。
家族で遊園地に行くと、身体障害者の父親と歩くのは恥ずかしいから、それとなく母親と手をつないで歩いた。
父親は少し距離を開けて、ズボンのポケットに手を突っ込んでさびしそうに一人で歩いてた。
父親からすればすぐわかっただろうから今思えば申し訳ないことをした。
でも休日はいろいろ連れて行ってくれたし、父親のことは基本的に好きだったと思う。
そんな父親だけど、こどもが小さいときはわりと明るく振舞っていたのに、中学生、高校生と成長するにつれて口数が少なくなって仕事にばかり打ち込むようになった。
それでも下の子びいきはずっとあったけど。
もともと頑固、完璧主義、潔癖症だったし、仕事でいつ呼び出しがかかるかもわからないような神経をはりつめる生活をしていたことも重なったんだと思う。
一方、母親。
もう自分を含めてこどもはみんな実家を出ているけれど、父親が無口で鬱だから寂しがってるようだ。
たまに他愛もないメールが届く。
まだ今ほど障害についての理解がない社会で、こどものために粉骨砕身していろいろとがんばってくれた母親。
でもそれも結局下の子だけのためだったんだよな。
大したことない振りをしていたけれど、下の子に合わせた生活をさせられるのは上の子のストレスになっていたことに気づいてくれていたんだろうか。
加えて、以前帰省したときに母親が自分の陰口を叩いていたのを聞いてしまってからなんとなく距離を置いてしまっている。
家族全体がなんとなくぎくしゃくしてる。
今年も帰省する予定はない。
結婚もしたくない。
健常者として生まれたけど親からの愛情に飢えていたことと、障害もちとして生まれたけど親からはしっかり愛情持って育てられたことってどっちがよかったのかなあ。
俺はオリンピックを観ていない。
別段観たいとも思わなければ観る必要性を感じたこともないから。
まして今は二人の幼子の成長をFacebookにアップするために必死で加工しているのだ。
目の前のSNSが大切であり目の前のSNSで精一杯であり「いいね!」してくれない誰かの応援などどうでもよい。
メルアドも電話番号も知らないような相手なら尚更応援する必要性を感じない。
しかし、それは私の考え方であり、他人がどうしようとそれもまたどうでもよい。
世の中の多くの人がオリンピックの応援に興じているところをみると、
私のような人間の方が少数派なのであろう。
そう思っていた。
だがどうにも堪えがたくなってきたので吐き出させていただく。
そんなに常に見ていないといけないものなのか。
一日くらいそれらを観ていなくたってなんてことはないと思うのだが、
そんなに片時も離れられないものなのか。
妻。あんただよ。
いつもオリンピック中継を観ている。
朝起きたらまずオリンピック。
朝ごはんを食べる。一人で速効食べ終わる。
そしたらまたオリンピック。
俺は1歳の子に離乳食を食べさせた写真をSNSへアップし、3歳の子が不器用に食べるのを、instagramでオシャレに加工してアップ。
その合間に何とか自分のごはんを口に流し込んでいる状態だというのに。
その後も食器の片付けやら洗濯物干しやら登園準備やら
その間子が泣いていてもオリンピック。
もちろん夕食もひとりで速効食べ終えてすぐオリンピック。
それはまだいい。もう諦めた。
家族で出かけてる間くらい、そのオリンピック速報はしまっておけないのか。
何故その間もオリンピック結果速報とやらをチェックしないといけないのか。
もしくは、審判の誤審だとか何の役にも立たない極めて他人的な情報を議論しないといけないのか。
電車の中、
遊園地、
外食中、
いつもいつもオリンピック。
なんでオリンピックばっかり見てるんだよ。
目の前にいるお前の家族は、
まあSNSでボロクソにdisられた夫なんかに興味はないとしても、
いいね!100件越えしたFacebookフィードは目に入らないのかよ。お前の子供の写真だぞ!
常にワンテンポ遅れて子を見ないで返事してる。
もしくは全然聞いてなくて生返事か「今、いいとこ!」
レストランで、
「ごめん今から決勝」
つってオリンピック中継観てる。
一番、いらいらする。
本当にわからない。
オリンピックやっている人、教えてくれよ。
そんなに常に見ていないといけないものなのか。
なでしこ決勝進出!
だの
メダル確定!
だの
リアルタイムに知る事はそんなに欠かせないことなのか。
他人の応援にいいね!とかするのは
そんなにも楽しいことなのか。
妻。
あんたにとっての現実は一体どこにあるの?
http://anond.hatelabo.jp/20120721222138
誰か教えてください
私はxvideosもpornhostもやっていない。
別段やりたいとも思わなければやる必要性を感じたこともないから。
まして今は二人の幼子の子育て中だ。
目の前の生活が大切であり目の前の生活で精一杯でありそこにいない誰かとのつながりなどどうでもよい。
用があればそのときには直接モバゲーGLEEアメピグなりLINEなりすればよい。
用もないのに生活の断片を垂れ流し知らせる必要もない。
メルアドも電話番号も知らないような相手なら尚更コミュニケートする必要性を感じない。
しかし、それは私の考え方であり、他人がどうしようとそれもまたどうでもよい。
世の中の多くの人がxvideosやpornhostに興じているところをみると、
私のような人間の方が少数派なのであろう。
そう思っていた。
だがどうにも堪えがたくなってきたので吐き出させていただく。
そんなにxvideosやpornhostは大切なものなのか。
そんなに常に見ていないといけないものなのか。
一日くらいそれらに触れられなくたってなんてことはないと思うのだが、
そんなに片時も離れられないものなのか。
旦那。あんただよ。
いつもオナーニホルーをいじっている。
朝起きたらまずオナホ。
朝ごはんを食べる。一人で速効食べ終わる。
そしたらまたオナホ。
私は1歳の子に離乳食を食べさせ3歳の子が不器用に食べるのを見守り
その合間に何とか自分のごはんを口に流し込んでいる状態だというのに。
その後も食器の片付けやら洗濯物干しやら登園準備やら
その間子が泣いていてもオナホ。
もちろん夕食もひとりで速効食べ終えてすぐオナホ。
それはまだいい。もう諦めた。
家族で出かけてる間くらい、そのオナホはしまっておけないのか。
何故その間もxvideosやpornhostとやらをチェックしないといけないのか。
もしくは、どこに出したやら今出したやら
何の役にも立たない極めて個人的な情報をアップしないといけないのか。
電車の中、
遊園地、
外食中、
いつもいつもオナホ。
なんでオナホばっかり握ってるんだよ。
オナホの先の厚く隔たれたやつばっかり握ってるんだよ。
目の前にいるお前の家族は、
まあ育児でボロボロですっかり枯れた妻なんかに興味はないとしても、
お前の子どもは目に入らないのかよ。
常にワンテンポ遅れて子を見ないで返事してる。
レストランで、
みんなでいただきますしてさあ食べようってなった瞬間に
「ごめん写真観る」
一番、いらいらする。
本当にわからない。
xvideosやpornhostやっている人、教えてくれよ。
そんなにxvideosやpornhostは大切なものなのか。
そんなに常に見ていないといけないものなのか。
だの
いったー
だの
呟くのはそんなに欠かせないことなのか。
他人の夜のおかずにいいね!とかするのは
そんなにも楽しいことなのか。
旦那。
あんたにとっての現実は一体どこにあるの?
別段やりたいとも思わなければやる必要性を感じたこともないから。
まして今は二人の幼子の子育て中だ。
目の前の生活が大切であり目の前の生活で精一杯でありそこにいない誰かとのつながりなどどうでもよい。
用もないのに生活の断片を垂れ流し知らせる必要もない。
メルアドも電話番号も知らないような相手なら尚更コミュニケートする必要性を感じない。
しかし、それは私の考え方であり、他人がどうしようとそれもまたどうでもよい。
世の中の多くの人がtwitterやFacebookに興じているところをみると、
私のような人間の方が少数派なのであろう。
そう思っていた。
だがどうにも堪えがたくなってきたので吐き出させていただく。
そんなにtwitterやFacebookは大切なものなのか。
そんなに常に見ていないといけないものなのか。
一日くらいそれらに触れられなくたってなんてことはないと思うのだが、
そんなに片時も離れられないものなのか。
旦那。あんただよ。
いつもスマートフォンをいじっている。
朝起きたらまずスマホ。
朝ごはんを食べる。一人で速効食べ終わる。
そしたらまたスマホ。
私は1歳の子に離乳食を食べさせ3歳の子が不器用に食べるのを見守り
その合間に何とか自分のごはんを口に流し込んでいる状態だというのに。
その後も食器の片付けやら洗濯物干しやら登園準備やら
その間子が泣いていてもスマホ。
もちろん夕食もひとりで速効食べ終えてすぐスマホ。
それはまだいい。もう諦めた。
家族で出かけてる間くらい、そのスマホはしまっておけないのか。
何故その間もtwitterやFacebookとやらをチェックしないといけないのか。
もしくは、どこに出かけたやら今着いたやら
何の役にも立たない極めて個人的な情報をアップしないといけないのか。
電車の中、
遊園地、
外食中、
いつもいつもスマホ。
なんでスマホばっかり見てるんだよ。
スマホの先の遠く離れた相手ばっかり見てるんだよ。
目の前にいるお前の家族は、
まあ育児でボロボロですっかり枯れた妻なんかに興味はないとしても、
お前の子どもは目に入らないのかよ。
常にワンテンポ遅れて子を見ないで返事してる。
レストランで、
みんなでいただきますしてさあ食べようってなった瞬間に
「ごめん写真撮る」
一番、いらいらする。
本当にわからない。
twitterやFacebookやっている人、教えてくれよ。
そんなにtwitterやFacebookは大切なものなのか。
そんなに常に見ていないといけないものなのか。
だの
きたくったー
だの
呟くのはそんなに欠かせないことなのか。
そんなにも楽しいことなのか。
旦那。
あんたにとっての現実は一体どこにあるの?
共依存の行く先は、ぐずぐずとした破滅に他ならない。エンターテイメントは、それが逃避という形であっても、最終的には現実と戦うためのものでなければならない、と思っている。それが作り手の良心であり、矜持であるべきだ。
「現実と戦う」ためのエンタメみたいのはもう厳しい感があると思うの。個人的には舞城王太郎がピークだった。
みんな正直既に疲弊してる。だからボカロ界隈の歌詞はあんなドロドロに暗かったり過剰に過激だったりみたいな感じになるんだと思う。
なんてったってボカロで現実と戦う系の歌は(知ってる限り)ひとつ残らず自己犠牲ネタ(悪けりゃ単なる自殺)だかんね。
『メアリーと遊園地』、『カゲロウデイズ』、『悪ノ召使』、みんな最後にグスコーブドリが火山に残るとこだけやりたがってる。
宮澤賢治の自己犠牲だってもやもや来るところが全くないとは言えないのに、ボカロはみんなして「誰かのために死ぬ」とこは嬉々としてやりたがるくせに「その誰かといばら道を生きる」方は誰もやらん。
「いばら道でも何でも切り開いてもがいてもがいてもがく」ようなのは誰もやらん。あるいは「やったけど無駄でした」くらいの描写に留めて省く。
もうみんな疲れてんだよ。うんざりしてんだよ物心ついたころからろくでもない未来像ばっか聞こえてきて。
自分の人生割とクソかもと思ってるし、そのクソ人生投げ出して「誰かのため」と等価交換できるんなら御の字だとか思ってんだよ。
それが現実とやらに報いる一矢たり得ると思いこんでいてそんなものまともな逃避以下の自己正当化だって事実からは目を逸らし続けてんだよ。ガキだから。
本当の「誰かのため」のためには自分が命捨てて済ますんじゃなくて困難てんこ盛りな道を寄り添い続ける覚悟がナチュラルに要るってことから逃げ続けてんだよ。
だって既にしんどいからこれ以上しんどくなるのってごめんだもの。
"どうしてこれが、これがハッピー?"♪、終わりも始まりも見えない道に寝そべって身体がグズグズに崩れていくのにゼイリブドハッピリーエバーアフターって納得なんてするはずないわってなものよ。
がんばってるみんな、がんばろうぜ。がんばるから。きっと現実は変わる。第一に、そう信じてなきゃ、まっとうなものをつくる方法なんて無いのだから。
頑張れるのはもう作り手だけだよ。
消費する側はもう現実が何をどうやったって変わんない気がしてるよ。
つーか消費するばっかり受け身ばっかりで「現実が変わる」なんて奇跡のようなことが起きると思ってる時点で頭があたたかい感じの人間だってことになるわけだけど、もうぬるい露天にぬるぬる浸かってたせいで肺呼吸でぜーはー言いながらのたうつようにして地を進むなんてできないんだよ。
もう頑張れるのは作り手だけだよ。マジで。
おれは頑張りたいからまだ作ってるけど。