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はてなキーワード: 貴族とは

2021-05-30

暇や

平安貴族ってスマホもってないのに何してたの?

2021-05-29

未亡人転生[0001]~プロローグ

 あれ? ここはどこ?

 子供たちが独立して、パパが亡くなって……

 そっか……あたし……死んじゃったんだ……

 ふわふわしたところで神様っぽい人から説明を受けてたような気がするけど、あたし自身ふわふわしてたから何も覚えていない。

 気が付いたら、なーろっぱ風の街並みの中にいた。

 部屋着姿なのが恥ずかしい。

「あのーちょっとお聞きしたいんですけど……」

 まず日本語が通じるかどうかの確認

 娘たちと一緒に見たアニメ暇つぶしに読んでいた漫画とかでなんとなく異世界セオリーはわかってる。ほんとになんとなくだけど。

 こういう時は果物やさんっぽいおじさんが優しい。

「ひょっとしてお貴族様ですか?」

「え? 貴族? 違いますけど」

 そう、あたしは平民の平凡な主婦未亡人)だ。

「そーかい。変わった服着てるからてっきり変わり者の貴族が来たのかと思ったぜ。で、なんだ? 聞きたい事って。客じゃねーのか?」

「出来たら、そこの美味しそうな果物を幾つか頂きたいところですけど、多分お金がないんですよね」

「財布を忘れたのか?」

「ええまあ(現実世界に忘れたというか、神様から貰い忘れたというか。神様お金くれたのかどうかはわからないけど)」

「で?」

「ええと、お聞きしてよろしいでしょうか?」

「ああ、多少はな」

 やっぱり親切な方でした。顔は怖いけど。

「あの、お金もないので宿も取れないのですけど、こういう時ってどうしたらいいんでしょうか?」

「もんなし、やどなしか。要は仕事が欲しいってことだろ?」

「まあ、そうなりますね」

「そこをまっすぐ行って(中略)ギルドがある。ねえちゃんでもなにがしか仕事はあると思うぜ」

ありがとうございます

 お礼を言って、ギルドに行くことにした。

 親切なお兄さん(ひょっとしたら年下)は、「これやるよ。どうせ売れ残る」とぶっきらぼう果物ひとつくださりました。

 ということでギルドに向かうことにしましょう。

オリンピックというよりコロナコロッセウムになって来た感ある

ヘイトを向けられた筋肉貴族が酒飲んで配られたコンドームで親睦を深めつつ常に死のリスクと戦いながら競技に励む感じとか

2021-05-28

エッジを付けるなどと今っぽい単語が次々と使われるようになっているけど

要は罵倒とか冷笑とか侮蔑の成分が入っているか否かなんだよな

そして最近大手新聞でもそれをタイトルに平気で使うようになってきた

かぎかっこ「」で括るくらいならまだ良心の欠片が残っていると思われるが、

そもそもわざわざかぎかっこ付きで表現しなくちゃいけない必然性があるかどうかというと、まあ9割ないな

これからいろいろ積み重ねていきたい

まず単語として強い言葉を判定材料にしてみる

絶対」「上級」「貴族」「滅ぶ」「頭がいい」「頭が悪い

皮肉

他人事

anond:20210528143743

本人たちはあの振る舞いで紳士貴族の嗜みだと思ってるらしいぞ

擁護してるジャップもそのつもりでいるらしいw

anond:20210528092633

勘違いした貴族意識

スポーツは金が全て

は今回のオリンピック問題スポーツ全体の体質として明るみになった

あなたの思い描く優等生などスポーツ界には存在しないのだ

anond:20210527221543

物に当たる行為試合中の適切なアンガーマネジメントであるかのごとく正当化する評論家の口調を見て、自分テニス界に失望した。ヨーロッパではスポーツ社会的地位が高いとされ、いくらスポーツに秀でていても社会人としての振る舞いが適正でなければ批判対象となる、という。その中でもテニストッププロ社会意識が高く、しばしばその「ノーブレスブリージュ」な振る舞いが例に挙がるくらい「スポーツ界の優等生なのだというイメージがあった。だが、この件でそれが「勘違いした貴族意識」なのではないかとさえ思わされた。

「物に魂が籠もる」というのは、決してメジャーではない勝手信仰に過ぎないのかもしれない。だが一方で、「金さえ払えば好きにしていい」という考えがメジャーものだとも思わない。一流の料理人は、客が金さえ払えば自分の渾身の一皿を床にぶちまけられても平然と対応するべきか? 一流の家具職人は、客が金さえ払えば全力で作った家具を落下実験に使われても平気か? それでいいなら、テニストッププロとやらは、自分らが命を賭けて戦った大会映像を使ってネタ動画作られても、一言文句を言う資格もないことになるだろう。

何かを壊したいのなら、最初から自分で土をこねて焼き物でも作ってそれをベンチに置いておけと思う。別に彼女に限った話ではない。そもそもラケットを壊すな。少なくとも人の見本になろうとする人間の振る舞いとして、それは見苦しいことこの上ない所行である

anond:20210528084901

民主主義について根本から勘違いしているか暴力しかないって話になる

民主主義が前提しているのは啓蒙主義

「そりゃあ民衆たちも今は学がないし、直近では貴族エリートのほうがちゃん政治するだろうが、それだと権力の横暴とか問題が出るから民衆教育して経験積ませて長期的に良くしていこうね」という発想が根本にある。

 

から、いまジジイどもがクソなのは当然で。

だってジジババが新しい教育受けたりしてるか?

 

それをすぐにどうこうしようって考えるのが間違いで、ジジババが死んだ後の五十年後に今よりマシになってればそれでいいんだよ。

2021-05-27

anond:20210527202637

しろ目先のニンジンに飛びつくことしか考えてない貴族指導者が信頼を失っているターンだと思うが。

anond:20210527201923

WHOも開催支持する中で中止してIOCをはじめ世界を動かす上級貴族喧嘩したら二度と日本では五輪が開催できなくなるのだから世論に阿るのは目先のことしか考えないからだよね。

anond:20210527163828

んなことみんなわかってるよ

IOC現代に生き残ったクソ貴族っていうのが国際常識から

2021-05-24

anond:20210524004948

そういうのは関心を持っている人の問題しかないだろう

あえていうなら農民がお殿様はどんな生活してるんだべ…貴族様はどんな生活してるんだべ…興味あるべ…と言ってるレベルの話でしかない

関心を持っているのはあくま一部の人間であって全員ではないし一般的だと思わない方がいい

2021-05-23

あしたは総選挙結果発表ですね


アイドルマスターシンデレラガールズの話です。

去年のボイスオーディションは、蓋を開けてみれば公式推したい順です!ドン!みたいな結果であった。あかりあきらは言うに及ばず、つかさもボイス無しで限定SSRを持っているという、あの時点では希少な公式供給アドバンテージがあった。彼女らの活躍に関して、去年の今頃はニコニコがどうだとかインスタがどうだとか担当Pの草の根活動がどうだとか、いろいろ『理由』を付けたい人たちで溢れていたし、自分もその一人だった。でもであるだってさ、君たちたまたまニコニコ動画でエモいダイマがあったとして、わざわざそのゲーム始めた上でそこに何万も課金して票田になろうと思うかい?いやもちろんいるだろうが、そんな人はごくわずかだ。それが大勢を決したんだとすれば、既存ユーザーを全く無視した浮動票大勢を決したということになり、それは企画として失敗だろう。失敗があるのは仕方ないが、それなら今年の総選挙形式が多少なりとも変わったはずである。今年の総選挙が同じ形式で開催されたということは、去年の結果がある程度運営にとって想定されていた、つまり彼女らに投票したのは既存ユーザーだったということだ。すなわち、ボイス総選挙大勢を決したのは、「総選挙の票は持っているけれども、ボイス無しアイドルへの興味はあまりなく、公式供給に流されやすい」層だったということになる。


まずそもそも普段ボイスなし担当が当たり前ぐらいの界隈にいると忘れがちなのだが、ボイス無しのアイドルに興味がない人というのは居る。むしろボイスオーデに情熱を注いでるのは一部の限られた層であることを認識する必要がある。すると、そういう人たちにとっては総選挙のついでについてくるボイス票が余る。ここで票交換をしたり、ダイマ募集したりすれば票が市場に出回り、プロデューサー選挙活動の活発さを反映していくだろう。が、しかし、そこまでデレマスに興味を持っていない人も少なからず居る。そういう人のボイスオーデ票は、どっかで名前を聞いたことある子とか、たまたま限定SSRを引いた子とか、そういう子のところへ行くのだ。これはまさしく、「総選挙には興味があるけれども、ボイス総選挙に興味はない」層ではないか

もちろん、そんな票は本当に存在するのかという懸念もある。そのような票は性質twitterやその他SNSから観測できないからだ。しかし筆者はあると考えている。総選挙上位常連の子たち、どこの誰がこんなに票を入れてるんだろうって考えたこと、一度くらいははあるのではないか?そういう票の「あまり」が、ボイスオーデに反映されている、と考えるのは、モデルとして十分ありうるのではないか

まあこの議論、一から十まで推測なのだが、それでもニコニコ票とかインスタ票に根拠を求めるよりかは説得力があって、そして面白みのない結論になったんじゃないかな、と思う。

で、そういう票がボイスオーデの大勢を決しているんだとしたら、やはり現状のボイスオーデに関する選挙活動はあまり意味がなくなってしまうな。上の理論でいけば、ボイスオーデの主票田は、我々がどれだけ選挙カーを走らせても届かないタワマンの中にあるのである。それを打開するには、そういう主票田の方々に、ボイス票に興味を持ってもらうしかない。とはいえ、そういう層にアイドルのものに興味を持ってもらうには公式供給を増やしてもらうしかなく、公式供給を増やしてもらうなんてのは経営陣の弱みでも握らない限り不可能なので、現実的なのはやっぱりアイドルではなく「ダイマ募集」に興味を持ってもらうことだなあ。札束でぶん殴れば数十件もダイマリプがつく貴族感覚を覚えてもらって、我々はその前に頭を垂れながら、そういうもともと動かない票を選挙活動フィールドに流してもらう。それしかないんじゃないかな。そのためにどうすりゃいいのかは、ちとわからんけど。

で、ここまで書いても、今年のボイスオーデが誰になるのか全くわからん。なんとなく妥当感があって、公式供給のそれなりに来てた子になるんじゃないかなあという予感はする。

2021-05-22

背が高い男の余裕

180cm超えると

服も大してこだわらないし

トレーニングも大してしないし

ダイエットもしないし

女に媚びることもない

それなのに明るく大らかでカッコよく見える

そりゃ余裕だよな

それに引き換えチビ男の足掻きときたら

髪伸ばしたり美容液塗ったり筋トレしたり脱毛したりファッションヲタになったり

ねぇ?

それでカッコよくなれるなら良いけど高が知れている

まるで貴族と貧民みたい

2021-05-20

はてなブックマーカーの在宅勤務とオリンピック

https://anond.hatelabo.jp/20210519211130

結局はてなほとんどの人はこういう貴族なんだよね。

コロナ禍で職を失ったりもしてないどころか快適な労働環境を手に入れている。

あの大嫌いな満員電車も乗る必要はない。

から全くクラスタが発生しない満員電車に対して苛立ってるし、「実は満員電車クラスタは裏で起きている」というなんの根拠もない陰謀論スターがいっぱい付く。

別に飲食店20時に閉まろうが関係ない。家にいるんだから

たまに出社しても18時に上がるから20時閉店で問題ない。

20時以降にしか夕食を取れないようなやつはブルーワーカーかブラック勤務の底辺だろって心の底では思ってる。

周囲も同じような人ばかりなのでコロナで困ってる人のこと知識としては知っているがリアルには感じていない。

若い人や女性自殺率が上がろうが関係ない。だってオジサンばかりだから孤独になるための友達も元々居ないのだ。

からコロナが大したことないとむしろ困るんだよね。快適な生活が失われるかもしれないから。

そして元々の傾向として保守スポーツが嫌いから来る五輪嫌い。

アスリートみたいな下賤なものが偉そうに国民の注目を集めるイベントなんて冗談ではない。

コロナ筋肉バカの祭典を潰してくれる救世主でもあるのだ。

なので五輪中止が決定するまで絶対コロナ絶対に弱まってはいけない。

そうやって変異株は物凄い!家を出たらどうやっても感染するよ!今までの経験値なんて通用しないよ!コロナ後遺症は物凄いから!絶対に治らないから!

ヒステリックに喚く。

在宅勤務とオリンピック。この2つのためにはてなでは今日コロナを大げさに怖がってみせる。

このだっさい貴族たちの意見世論と同一して正論だと思ってる人。

早めに気づいて軌道修正したほうがいいよ。

anond:20210520062454

県としても、他所の国の王侯貴族に徒歩でこられるよりは、鹿島建設に移動する道を作ってもらったほうが良いと判断

2021-05-19

貴族転生が貴族に転生する話なら

無職転生無職に転生する話ちゃうんか

2021-05-15

メモ選手応援したいがオリンピック続行はヤバいというジレンマ

これはある意味典型的認知的不協和なんだろうな。

あるいは、オリンピック続行に反対だが、選手応援したい、というジレンマ

全国的感染が急拡大する中、こうしたジレンマに悩んでいる人、多いと思う。

wikipediaによると以下。

認知的不協和とは、人が自身認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語アメリカ心理学者レオンフェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、矛盾する認知定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている。

オリンピックに反対であるがゆえに、応援もしない、さらには選手軽蔑する、という形で自分自身の内心の一貫性を持たせようとする心的な傾向は、まさに日的不協和典型例なんじゃないだろうか。

しかし、近代社会というのは、個々人の内心が一貫していることを求めるものでもなく、むしろ個人の好みと社会にとって正しいと思うことがぶつかり合うことを前提とした制度設計がなされている。

例としては、うなぎ大好物だが、乱獲は抑止すべきだ、とか、プラスチックは便利だがプラスチックごみ規制すべき等も思いつく。

自分欲求社会のありようが完全に一致しているひとはまずいないだろうし、ありとあらゆる社会問題は、自分なかに矛盾した形である、個々人の選好と個々人の描く社会の在り方(正しさ、善)を調整する営みなんだろう。

うなぎの例でわかるように、「したいこと」と「よいこと」が矛盾した認知的不協和というのはごく当たり前の心理状態であり、大好物という認知と乱獲防止への政策支持の不一致を解消する必要はない。

うなぎは好きで食べるけれども、乱獲防止政策に賛成という態度はあって当然のこと。むしろこの二重性がなければ、公共判断は成立しない。

うなぎを食べながら規制に反対する、というのも、認知的不協和の解消方法ひとつといえる。人々が矛盾を抱えたままで「正しいこと」に合意し、公共判断を下せるのは、とても合理的制度設計だ。

しかし、人間心理矛盾をなんとか解消

公共的な意思決定は、決して個々人の選好の集合や多数決ではない。

そう考えると、現代民主政が直接ではなく間接民主制なのか、納得がいく。

個人的には好きではないけど自分社会の在り方として正しいと思っていることを代表者が討議し、社会として選択する、という場が必要になる。

そうなると、意思決定者にも、討議に参加する代表者にも、欲望だけに囚われない、人間的にも理性的にも分別のあるマトモな人間であってもらいたい。

近代民主主義を築き上げた初期の人たち、例えばアメリカ建国者のひとりジェファーソンは、

公共的な討議の場を設定するためには、市民としては、そういう矛盾する認知を整理し、公共課題自分欲求から分けて考えることができる分裂症的気質こそ、民主政必要市民資質だと考え、他方、代表者議員)に必要資質アリストクラシー自然的貴族)と呼んだ。

しかし、一般市民としては、自分のなかの矛盾に耐えられない、というのが当たり前。

社会はこうあってほしい、という思いと、自分はこれが好きだ、という、ふたつの矛盾する認知に直面したとき

ふつうの人々は、自分内面を整理するために、どちらかの認知一貫性を持たせるよう、知らず知らずに認知修正してゆくことになる。

今回のオリンピックの例でいえば、特に運営側の闇の側面をいやというほど見せつけれられてきたので、人々のオリンピック嫌いが加速し、中止または延期の世論は7割以上になった。さらに、自分のなかでの論理的一貫性を保つために、選手にも賛同しない、という考えすら生まれてきたのは周知のとおり。

オリンピック選手に対するある種の攻撃的な感情は、こうして醸成されてゆく。

社会規範に合わせて自分に対して一貫性要求しがちな日本人特に自分欲求我慢するのはストレスなので、場合によっては、自分だけではなく、他人にも一貫性を強く要求するようになるからだ。

別の例を挙げれば、60年代セクト化が加速したサヨクの動きが典型例。

エスカレートした「総括」要求など。

また、原発反対するなら電気使うな、オリンピック反対するなら、テレビをみるな、といったよくある論法も、同じ認知一貫性他人に求める一例。

サヨクのみなさんは、極端に走り勝ちで、じゃあ電気をつかわない、といって原始人のような生活を始めたりもしてしまう。

自分のなかで一貫性を持たせようとして、あえてオリンピックをみない、応援しないといった姿勢を貫こうとする人も少なくないようだ。

まさにこれが心理学が扱う認知的不協和テーマなのだろう。

党派性それ自体は、個々人の選好が異なれば自然発生的なものだろうが、

それが過激化するのは、認知的不協和へのストレスのほかに、もうひとつ社会的な原因がありそうだ。

ますます両極化が進んでいき、相手方一貫性のなさを批判し合うようになるまでには、認知的不協和を解消しやす立場の人とと

そうではない人たちとの分断が背景としてあるのかもしれない。

認知的不協和を解消しにくい人々。解消しやすい人々。

コロナ対策では人流の抑制課題なので、パンデミックが始まった一年前、ステイホームが大きく取り上げられた。

しかし、ステイホームできない、したくない人たちの現実、そして経済再開を望む多くの圧力を前に、

次第に言葉の力は失われ、今では行政政治家も口にしなくなってしまった。

もっとも同時に、自粛警察あんまり姿をみなくなったのは喜ばしいこと。

ステイホームができる人と、できない人の立場の差。それを声高に叫べば叫ぶほど、軋轢を生み、社会の分断が加速する。

思い出すのはベトナム反戦運動ベトナム反戦真っ盛りの60年代アメリカブルーカラーと呼ばれる労働者階層が、ベトナム反戦に熱を上げる若者たち

反感を抱いたのは、自らは徴兵されず、安全場所から口だけ反戦を叫ぶやり方が気に食わなかったからだ。

コロナ禍でのステイホームムーブメントでも、それと似たような分断が生じたように思う。

自粛、在宅など社会に貢献できる人々と、ステイホームという形では絶対に貢献できず、むしろ足を引っ張ってしまうようにも見られてしま業界

それが特に浮き彫りになったのが、エッセンシャルワーカーというカテゴリからこぼれ落ちた飲食業界だ。

オリンピック選手もまた、一般人以上に、社会安全自己実現との間の認知的不協和に引き裂かれ、なおかつ、オリンピック反対派の標的にされるという意味では、深刻な犠牲者だろう。

以上の話は、人々のジレンマ構造的にとらえたらどうかな、という試みだけど、

自分自身が考えた正しさは、オリンピック賛成であれ、反対であれ、現在自分社会立場のなかで認知的不協和を解消しやすい形で論理化されたものであり、

自分自身党派性無自覚であってはいけない、

知らず知らずに自分の都合のいいように、正しさの論理的一貫性アピールされているに過ぎない。

しかし、そんなふうにと口でいうのは簡単だが、ふつうはそんな悟りを開いたようなことはいえないし、そんなもの誰とも共有されない。

重要なのは、こんなふうに構造化して達観する、というか、悟りを開け、ということじゃなくて、

相手立場を知る、という機会自体重要なんじゃないかな。

オリンピック観戦は選手の思いを知る絶好の機会。オリンピック反対がトーンダウンした、という論調もあるようだけど、

そうではなくて、自分的には反対は反対だけど、選手たちの置かれている立場もわかって、攻撃性が選手に向きにくくなったということだろう。

飲食でも、これまではタレコミにも怯え、苦しめられてきたけれど、最近は、ある意味、腹を括ったお店も多い。

タレコミも減ってきたという声もきかれる。

こうした寛容さは、行政飲食業界への不十分な手当が報道されたり、飲食の場で実感することで、人々の認知が再修正された結果だと思う。

人々の認知には多様性が生じるものの、異なる立場の姿が可視化されることによって、自分のなかで矛盾する二つの認知をよりクリアに整理することにつながる。

しかし、人々の寛容が進めば、自粛警察抑止力を期待した政策は効力を失う

こうして考えてみると、自粛要請ベースとした日本流政策は、人々の認知が多様になるとかえって不都合なのがわかる。だからこそ政権与党は、人々が同じ方向を向きやすタイミングを狙って、オリンピック直後の選挙を好機とみたりするのだろう。

自粛要請は、政策決定(ルール)に従う形で自分自身の好みという認知的不協和を解消しようとする日本人メンタリティと、同じ社会構成員にも同じ一貫性要求したがる相互監視ムラ社会的なメンタリティが合わさって発揮して初めて効果的だといえるけれど、昨今のオリンピック運営のゴタゴタにみられるように、公共的なルール判断への人々の不信感が強まると、必ずしも政策決定者に都合のいいような仕方で人々が一丸となって、認知的不協和を解消してくれるとは限らなくなる。

ましてや大阪市市長さんのように、それを体現たかのように

感染者がいなければオリンピックもやっている。一生の思い出に残る行事実施したい

などと、都合のいい解釈認知的不協和の解消を政策決定者自らが行うとなれば、

人々は、ルールへ従うことの意味不明瞭になり、ああ、結局、好きなようにやっていいんだな、という思いを強め、相互監視機能せず、自分生活を変えることなコロナへの懸念自分認知のなかで両立させてゆくだけだ。

しかし、現実には、2020年4月に実現した日本人一丸となったステイホームは夢のまた夢だし、飲食業界は我慢限界をとっくに超えているしで、

人々はデルタ株猛威の現実にピンときておらず、人によって温度差のある、かなり適当自粛をしつつ、コロナから目を背けられる絶好の機会とばかりにオリンピックに夢中になっている。

自粛に頼った政策は、結局のところ、オリンピックへの賛否が開催とともに揺れ動いてきたことに典型的に表れているように、認知的不協和の解消の仕方に多様性が出てきた瞬間、崩れ去ってゆく。「コロナ心配、、、」といいつつ普段通りに暮らす人々であふれかえるだけだ。

本来政策というのは、そんな人々の認知世論)など無関係に、討議されるべきであるし、人々は討議の結果に対して法的な拘束力を受け入れるべきだ。

例えば、自分の考えと相反していても、オリンピック応援しているし、これからもしたいが、もし中止という政策決定がなされるならやむを得ない、

あるいは、オリンピック懸念しているが、もし続行という政策決定がなされるならやむを得ないという態度でいられるほどに、政策決定者への信頼が重要になる。

「ほらみろ五輪楽しんでいる奴らが増えただろ」などという次元政策を決めるべきではない。

しろ個人としては五輪は楽しんでいるけれども、政府には感染対策として中止するなら、中止を決定してもらいたい」という、ジェファーソン流にいえば分裂症的な市民判断を見極めたほうがいい。

しかし残念ながら、いまの政権にはそうした信頼が全くといっていいほどない。

いつどんな判断をするか、全くわからない。データは出さない。モニタリングもしない。事実に基づかず楽観論でしか答えない。

将来シナリオを示さない。予測分析を共有しないから、いつも唐突首相が何かを決心したかのように物事が決まって、人々がついていけなくなる。

ある意味ガバナンスの基本ともいえる、こうした事柄に目を背け、

政策への信頼を、世論(最大多数の認知)で推し量ろうとする、その姿勢こそが日本ガバナンスのガンだと思う。

2021-05-14

anond:20210512103035

議会二世三世議員(お貴族様)とタレントでいっぱい。そして彼らによる利益誘導中抜き、お友達人事、証拠隠滅書類改竄日常茶飯事。疫病の中で一般国民の多くはもはや学習性無力感に苛まれ為政者はそれを尻目に無意味なショーに莫大な金をつぎ込み、日夜会食に明け暮れる。科学者知識人忠告は、無視するどころか「日干しにするぞ」と脅しをかけて自分たちの思うとおりのことを言わせようとする始末。やり過ぎて「国民の死者数などさざ波ww」と余計なこと言う太鼓持ちがいたとかいないとか。

なあ、「民主化兆しすらない独裁国家」ってどこの話なんだぜ?

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