はてなキーワード: 自分本位とは
初めて投稿する。
誰かに読んでいただくことを意識しながら書こうとすると、どうもちぐはぐな文章になってしまう。
そこで、いつもの紙の日記に書くかのように、独り言を発するかのように、書いていくこととする。
***
いや、今もまだ、受け入れ度合いは7割くらいで、
残り3割くらいは、「制服好きなんてキモい」「人に言えない趣味」「むっつりスケベ」なんて思ってしまう。
しかし、もしも将来、自分が娘を授かったら、これは懸念ではないか。
まさか我が娘に対して、いやらしい目線を向けてしまうのではないか。
まだ結婚もしていないというのに、杞憂に終わるかもしれないことを、気にしている自分がいる。
何を言いたいのかというと、
私はごく自然な人生を送ることを難しく感じるときがあるのである。
そんな目線を向けたくもないのだが、どうやら私の脳は、
女子高生の制服が、性的興奮の起動スイッチになっているようなのだ。
この10年の間に、ありとあらゆる角度から、自分のこの性質について、
私は、女子高生の制服そのものに性的興奮を覚える、ということが分かった。
だから、私服姿や体操着姿、ジャージ姿の女子高生では、あまり反応しない。
実は中身が男でも、高校の女子制服を着ていれば、ドキドキする気持ちがあることを確認した。
でも、だからといって、イメクラに行くとか、ブルセラ買うとか、メルカリで注文するとか、
そういうことはしない。
そういう人生には、したくないのだ。
いそいそと夜中に、女子高生とかjkとかを検索ワードに入れて、
「女子高生の制服が好き」という自分を認められていないと、虚無感に襲われる。
いわゆる街撮りという、女子高生の制服そのものに焦点を当てた画像サイトも好きだ。
不覚にも見てしまうと同じく興奮するのは悔しいのだが、
もし実際に駅のエスカレーターなどで盗撮しようとしている輩を発見した時には、
女子高生の制服フェチと、脚フェチ(靴フェチ、においフェチ含む)である。
女子高生の制服フェチは、おそらく私の生い立ちが関係している。
接点を作る努力を怠った、とも言えるが、
中高を共学で過ごした人は、女子との接点を作る努力など、そもそもする必要がない。
なぜ私は、一度きりの人生の中で、共学高校生活を経験すらさせてもらえなかったのか、と。
もう1つ、脚フェチについて。
女子の素足のにおいを嗅ぐのが好きだった。机の下に入って、女子の脚を見るのが好きだった。
小学校に上がってからも、女子のちょっと汚れた感じの上履きが好きだった。
ここに、女子高生の制服フェチが重なると、紺ソとローファーに強烈な性的興奮を覚えるのは頷ける。
紺ソ、ローファースタイルにスーツを着て、普通に仕事をしているときもあった。
ふざけ半分ではなく、真面目に捉えて、悩んでいる男性は、
私の、10年間の考察結果を、この日記で(これ、増田って言うんですね!)、
共有していきたいと思っている。
絵柄がイマイチだなと思って敬遠していたが、つい最近読み始めた。
さて、キングダムにはさまざまな魅力的な武将、人物が出てくる。
キングダムは史実をもとにアレンジしている。当然と言えば当然であるが、そのアレンジも歴史の流れを理解する能力がなければ魅力的な人物を描くというのは大変難しいと思う。
中国に伝わる物語をアレンジした漫画といえば封神演義を思い出すが、あちらに関してはどうやって物語を着地させるのか、そっちが気になって仕方がなかったのを覚えている。ただしキングダムに関しては仙術のたぐいはほとんど出てこないので、超技術でどうこうという話にならないのが確定的な分、安心して読んでいられるのが救いと言えば救いか。
さてそんなキングダムのキャラ、読者はそれぞれお気に入りの人物がいると思うが、私なりにいろいろ考察したことをつらつらと書いていこうと思う。ちなみに私は史書(原作)を読んだことがないので悪しからず。
・信
三国志なんかでもそうだが、古代中国の人物の名前は概ね姓名各一文字の二文字の名前が多く、稀に姓が二文字の人物が出てくる、という感じだ。
その中でも漂や信は下僕であったので、姓がない・・・のかと思ったが、騰はまだしも貴族の出である壁など、意外と一文字の人物が出てくる。
彼は最初、政を助けた後に将軍職を望むが、説得されて結局は戸籍と家をもらうことになる。あまり細かくは語られていないが、これはかなり重要なことだと思う。
物語が進んでいくとよくわかるが、各将軍には有能な副官、部下がいる。彼らの働きこそが将軍たちを支えているのであり、将軍単体でまともな仕事をする人物というのはなかなかいない。ヒョウコウはとくに優秀な副官らしい人物は出てこずヒョウ公自身がひっぱっている感じで描かれているが、その裏では岳雷をはじめ彼のことを理解し補佐する副官たちが存在したはずだということはわかる程度になっている。
仮にあの時点で信がポンと将軍職をもらっていたとすると、部下のいない将軍が出来上がる。それでは夢の大将軍にはなれないので、イチから始めなさいと言われたわけだ。
当時は下僕に限らず、よっぽどの家に生まれない限りはまともな教育など受けられないはずだが、それを差し引いて考えてもおバカなのである。
物語上、登場人物にとっては当然のこと、常識であっても読者にとってはそうでないことを説明させるのに便利なのだ。キングダム内に置いては、特に地理の説明などに重宝していると言えるだろう。また、序盤はそうでもないが、それなりに話が進んでくると登場する人はたいていそれなりの役職にいる人=優秀な人であるので、説明せずとも理解しないで話が進んでしまうこともままある。それでは読者が置いてけぼりになってしまうので、主人公、あるいはそれに近い人物が物を知らないのは大事なのだ。他の作品で言うと、ワンピースの主人公ルフィはおバカなので、要所要所でナミやそのほかの人に解説を受けている。(その多くをルフィは理解していないが)
・昌文君
彼と王の出会い、心酔するに至るエピソードは明らかになっていない。あえて言うなら紫夏の回想のくだりで初対面を果たしているはずだが、その部分はあの話にとって重要ではないのでまったく語られていない。
登場時点ですでに文官に転じているため、基本的に戦闘シーンはない。時代的にも文官だからといって剣は持たないというようなこともないので、ちょくちょく佩剣しているのを見かけるが、信のように一騎打ちするシーンは出てこない。
(元)武官らしい働きをするのはサイの防衛戦くらいか。彼が武官としてどの位置まで上がったかも今のところ語られていないが、風向き有利な西壁において抜かれている辺り、やはりそんなにでもないのかな・・・なんて思ってしまう。
文官としても、時折シシに諫められていたり、超一流ではないことを伺わせるシーンが折々に挟まれている。リシに頭を下げるシーンなど、彼が文官として(も)頂点に上り詰めるほどの才がないことを強く感じさせるが、そんな完璧超人でない部分が重要な人物であるように感じる。完璧でないからこそ彼の脇を支える壁やシシの働きが際立つのであろう。
信からも「オッサン」と呼ばれ侮られている感があるが(盟友である漂を殺される原因となった人物であり、諸手をあげて尊敬することはできないだろう)、その信も昌文君こそが政を支え、自分も手助けしてくれる存在であることを認知している。特に冒頭に述べた「一の臣」であることを信すらもが認めていることがわかるシーンがある。加冠の儀を終え、アイ国軍を鎮圧したあとの「あんたの口から言ってくれよ」というセリフだ。あのシーンは呂不韋との政争の勝利宣言であるが、勝利宣言というのは勝った側の、頂点に立つ人が行うものである。つまりあの場にいる一番は誰なのかという問題であった。殺されてはならない王族を救った信でもなく、実際に反乱軍を鎮圧するのに必要不可欠であった将を打ち取った昌平君でもなく、政に長く寄り添い、支え続けた昌文君に託され(しかも信から)、彼の口から行われることに意味があった。バカな信でもそのことを理解していた。
長年の苦難を回顧し、その一部を共にしてきた読者にとって、勝利を実感している彼の姿はやはり感動的なものがある。映画版がどこまで話を追うことができるかわからないが、このシーンはぜひとも再現して欲しいと思っている。
・壁
昌文君を大王政の一の臣と評したが、その昌文君の一の臣である。
文官となった昌文君に代わり、「武」を司る人物となるべく存在しているはずだが、実際のところそのあたりはだいたい信に取られてしまっている。王センに捨て駒にされたり、食料を焼かれたりと頼りないシーンが多く、出番の割に見せ場は少ない。合従軍戦でも当て馬にされている。
しかしいぶし銀な働きで大王を支える昌文君を支えるだけあって、地味だが必要な仕事をこなし続ける。合従軍戦においてはヒョウ公と信と共に南道に入り、ヒョウ公を討たれ激情に駆られた信を諫め王都に向かい、サイの守城戦では信の南壁に続く東壁を守り抜いた。また、アイ国戦においては本人の出番はないが、旧友に根回しして軍を率いる将を確保している。
今後の彼に見せ場はあるのだろうか。
・龐煖
ある意味において面白みのないキャラだな、という感じはする。個人的には最初から最強のキャラはかなり好きなのだが、非常に自分本位なキャラであり、どうしても強さ以外に魅力がない。
が、おもしろいなと思う部分はある。彼自身が信が説得され諦めた「ポンと手に入れた、部下もいない大将軍」なのである。幸いなことに李牧という強力な参謀の駒として動くことになるためついてくる部下がいるが、もし彼がいなければ本当に裸の大将だっただろう。
そういう対比という点においてはよいキャラだと思う。
あとは気が向いたら
これ、第三者としては「愚かな人だな」とは思うけど、別に醜悪だとは思わない。個人的にはどうでもいい、ごく普通の世間話の一つに見える。しかしこれを以ってして何か「女性性を貶めたい」という空気も感じていて、それは嫌だなぁと思う。
「供養」という表現も含めて、この人はむしろ友人として愛を込めて「笑い話」に昇華しているのだろうとは思う。私が問題視したいのは、それを消費する側の態度。
そもそも「既婚男性と未婚女性の不倫」という構造に非対称性・搾取構造がないとは言えないと思うんだよな。「お金が貰えなくなると生活が厳しくなる」という依存状況も、法制度に無知という情報格差も含めて、「個人の自由。自業自得」で済ませていい問題には思えないかな。
まあまずはポリアモリーを認めろという話ではあるけど、一方でポリアモリーという選択肢が認められた後でも「不倫」問題は残り続けるとも思う。
弁護士だと友人から相談を受けることもままあるけど、今回のは流石に酷過ぎるwww
女性も自分本位な人がいるのか?(笑)
お前が不倫の浮気相手なのに財産貰えるわけ無いやろ!!こんなの弁護士じゃなくても分かるわ!
あまりに面白かったのでツイートして供養します•••幸せなってくれよ••• pic.twitter.com/xmZaRSoDkt— 藤吉修崇@ユーチューバー弁護士(登録者2万人突破!) (@fujiyoshi_ben) November 2, 2019
私は幼い頃に発達障害と診断されました。当時は広汎性発達障害と診断されましたが、これは現代の言葉で言うと自閉症スペクトラム(ASD)にあたります。
発達障害というのは「自閉症スペクトラム・ADHD・学習障害」と3つに分類こそされていますが、それぞれの症状を併発していることが珍しくなく患者を3つに区分するのは難しいそうです。たとえば私が持つ障害は自閉症スペクトラム的なモノが主ではありますが、ADHDの区分に入るモノもございます。この境界はとても曖昧なのです。
ですから、自閉症患者ではなく発達障害者と名乗らせていただきます。
早い段階で自覚できたということが幸いし、人にも恵まれたためこの障害と上手く付き合っていくことができました。それらについて思ってきたことをつらつらと書き連ねていきます。
まず私の主だった症状を紹介しましょう。
上2つが自閉症的なモノ、多動性はADHD的なモノとなります。以下にそれぞれ項を分けて書いていきます。
”コミュニケーション障害”という言葉は”コミュ障”というネットスラング・若者言葉として広まっていますが、”コミュ障”の意味するものとコミュニケーション障害が指す症状はやや違いがあったりします。
何が医学的な”コミュニケーション障害”に該当するかと言えばたとえば吃音などがそうですし、言語習得が困難な状態も分類されるそうです。有名な症状は冗談や婉曲表現などが理解できないことでしょうか。適切な言葉遣いや声色が出来ないということもコミュニケーション障害になります。
喋ることが機能的に困難だったり、相手の言っていることが理解できなかったり、言葉の使い分けが出来ないことなどが”コミュニケーション障害”です。
”コミュ障”っていうのは単純に会話が下手な人のことを指すのでしょう。医学的な”コミュニケーション障害”とは違った意味合いでしょう。でも相手のことも考えず自分の言いたいことだけベラベラ喋るタイプのコミュ障は『適切な言葉遣い』ができていないということで医学的な方に該当するかも…。
で、私の場合は『適切な言葉遣いができない』という症状があるそうです(ベラベラは喋りません)。
だいたい思ったことをそのまま言ってしまっている、というのが友人らの指摘です。ようは空気が読めません。
人のコンプレックスを平然と口に出したり、みんなが思っていても心に秘めていることを言い出したりとにかくドストレート。分かりやすいところで言うと、先生のつける香水に対して「臭いですね」と言ったことがあります。
しかしまぁ困ったことに、やはりこれもどこら辺が変と思われるのか分からないんですよね。上述の例だって「お前そういうことを口に出すんじゃないよ」とか言われたからダメなことだったらしいと理解しているだけです。自分の知らぬうちに変な発言は多分しているし、モロに変な顔をされるときもあって最近は「俺また何かやっちゃいました?」という文言が頭に思い浮かびます。
「そういう特徴があるらしい」とは理解できても、いつ発揮されるのかなぜ悪いのかということは理解しにくいことは自閉症的、ADHD的な症状の共通点かもしれません(私は学習障害ではないので、それについては何とも言えませんが)。
とにかく自覚がない。「発達障害なんだよね」とカミングアウトするも「例えばどんな症状があるの」と返されると、何が悪いのかはイマイチ分かってないせいでうまい実例が思い浮かびにくい。それが発達障害者です。まぁ実例を挙げられなくても、そのうち向こうが実例に立ち会うので心配ございません(心配ございますけど?)。
”他人に無関心”というのはそのままでございます。他人からどう思われてもいいし、世間体に無頓着なのです。社会性がないと言い換えてもいいでしょう。
自分が変と思われても、物心ついた時から「変である」とずっと言われているので今更どうとも思いません。尖った性格ですから万人受けしようはずもないのですし、誰かが私を嫌って近寄らなくなるならこちらも諍いがなくて済みます。
オタクの方に分かりやすく言えば、現実でもツイッターみたいな付き合い方をしていると考えてください。
特に気兼ねなく自分の思ってることを言うし、その結果フォローされれば嬉しいしブロックされるならまぁそれも良し。自分も好いている人はフォローするし、嫌いならブロックする。まさしくああいう感じです。
この症状こそ自閉症が自閉症たる所以でしょう。こんな風に思っているから障害を抑えようともせずに、結果世間から浮くということになるのです。
上述しましたスラングの”コミュ障”は『社交辞令のような世間話が苦手』なんて特徴を指したりもしますが、他人への無関心さから自閉症患者も同様に世間話が苦手だったりします。
というのも自閉症患者は”他人に無関心”ゆえに友達でもない人と世間話をする意味が分からないのです。だって楽しくないでしょう。緊張してできないというより、やる意味が分からずできないのです。無言になろうが無関心だからどうでもいいのです。
この世間話に関する感覚のズレに気付いたのはつい最近だったりします。発達障害でない人の感覚が分からず比較ができないため、障害を自覚していてもどこが変なのか気づきにくいものなのです。
今書いていて気付きましたが、自分は平気だからって無言でいたら相手に気まずい思いをさせることになるのですね。なるほどそれで変な目で見られたのか!
とまぁこんな風に自身がなぜ悪いのかということを私は全然理解できていないのです。期せずして良い実例ができました。
では他人はどうでもいいから無作為に人を傷つけたり公共の場でなんでもできるかと言われれば、そうではありません。なぜかと言えばそれは自分で見ていて不快だと理解できるからです。自分が嫌だと思うことは嫌なのです。
他人に優しくすることもありますが、それは見過ごしたら気持ち悪いからだとか、古典的に言えばおてんとうさまが見ているからとかという理由です。自分の尊厳のためです。つまるところ、自分本位なのです。
薄情に思えるかもしれませんが、友人とは一緒にいて楽しいからいますし家族は大事にしたいから大事にしています。自分で言うのもなんですが、こう素直に生きられるのは素敵だと思うのです。
世間の人が社会で感じるストレスを感じずに済んでいる気もしますし、この症状は特にお気に入りだったりします。
まず私はジッとしていられません。私は常に体が揺れているそうです。座っていてもやや揺らいでいるとか、自転車をこいでいるとまっすぐ進んでいないとか色々言われます。これは本当に自分ではまったく意識していないことなのです。昔はとてもひどかったようで、散髪に行くと髪を切る人のほかに頭を抑える人がついていたりしたものです。
あとは突っ立っていることが苦手で、人を待つときなどは近くをウロウロと歩き回ることが多々あります。
これだけならまぁいい方ですが、多動症というモノはこれだけで終わらないから厄介なのです。
例えば、学校では整列をする機会が多くあるでしょう。多くの人はその列からなんとなく離れがたいというか、乱してはならないという集団の磁力のようなものを感じるはずです。しかし多動症の人間はそういった意識が弱いのです。
ゆえに人にかまわず突拍子もなく動き出してしまいます。私としては突拍子なく動いているつもりはないのですが…。
私は友人らと固まって歩いていても、何か気になるモノがあれば集団から抜けてそちらの方に歩いていってしまいます。旅などでは特にそうですね。「よくいなくなる」と言われます。
いやこれに関しては本当に申し訳なくは思ってはいます。ただ本当に集団意識が皆無でして、浮かれて気を抜くとこうなってしまうのです…。
これも幼い頃はもっと酷く、幼稚園からよく脱走していました。悪いことをしている意識もなく「帰りたいから帰る」というごくシンプルな理由で自主帰宅していたものです。
これに関してはまるで制御が及びません。
いや、散髪中に頭を抑える係が来なくなりましたし帰って良い時間までは帰らなくなりましたし成長はしたのです。落ち着きレベルを-1000から-100にはしただけ頑張ったのです。それでもマイナスなだけで。
なんとまぁ手前勝手な性分なのかと、自分でも呆れるくらいです。
苦労したのは私よりも担任や両親なのでしょう。
こんなにも迷惑をかけたというのにこのことでボロクソに怒られた経験もありませんので、私は先生にも親にも恵まれています。-100に出来たのはこの人たちのおかげなのです。
さて以上のような障害がございましたが、私には一つ医師からも明確に欠点と言われているがございます。
この文章から察する方もいるでしょう。自分のことながら「~~らしい」だの「~~だそうです」だのそういった言い回ししか出来ない部分が多いのです。
しかし「自分が発達障害者である」としか理解していなかった”自分が客観視できない”私がこうも自分の障害を理解できるようになったという点は、なによりも成長した部分だと思うのです。
こんな風にたとえ話だとか実例だとかを挙げて説明をできるようになるというのは、発達障害者としては快挙なのだと思います。こうやって理解が進めてこられたから、今私はこの障害を負い目と思わずアイデンティティとして大事にしていられるのです。私は、自分に正直でいられる私が大好きです。
「なんとわがままな奴か」と私を嫌悪する方もいらっしゃるでしょうが、人は所詮わがままなものです。中途半端に取り繕うよりはいいかなと思っております。というか、そういう風に受け入れてくれている方以外は離れてくれて構わないのです。
ただし我々発達障害者が人に迷惑をかけている時はぜひとも言っていただきたい。まことに恥ずかしいことではありますが、私は何歳になってもハッキリと言われないと分からないのです。
Uber eatsを利用した際に、釣り銭間違いがあった。1000円少なく貰ったのだ。
対人間なわけだし、そういうことがあってもしょうがないと思う。すぐに玄関へ戻ったが、配達パートナーはもうすでにいなくなっていて、わたしはサポートセンターへ電話をかけた。
サポートセンターでは、釣り銭分をウーバークレジット(いわゆる仮想通貨である)で同額返金すると伝えられた。今後も利用しようと思っていたので了承し、手続きをしてもらおうとしたところで、このように言われた。
「次回からこのような対応(釣り銭間違い分の返金)は致しかねますのでしっかり確認してください。」
はじめ、()内の言葉抜きでサラッと伝えられたため、何のことかと聞き返すと()内の言葉を添えて返答があった。
どうやらUber eatsは釣り銭間違いは私たち利用者にも確認を怠った責任があるという。私は確認した上で、間違いがあったからサポートセンターへ問い合わせたというのに。
ということは。配達パートナーは、現金のお釣りをくすね放題なわけだ。よくテレビなどで特集される、お札を何枚か渡すときに下にある何枚かをサッと抜き取る。そうしてお釣りをくすねても、気付いた頃にパートナー本人は不在、サポートセンターは非対応。なんていい商売だろうか。配達パートナーは参考にしてみてほしい。
さておき、利用者側としてはあまりに酷い対応なので納得がいかず、「これはHPなどにも載っているのか?このような利用条件なのか?」と問うと、「HPなどには載っておりません。」と答えたのだ。なんとHPや利用規約には一切表記せずに、釣り銭間違いをこちらの責任だと言い、次回からは非対応だと言う。
私はもうこの時点で今後Uber eatsを利用する気が一切失せた。とにかく現金で返金してほしい、と伝えると「パートナーへ連絡することもできますが…」と言う。なぜそれを初めからしないのか?なぜ間違いをしたパートナー自身への連絡がまだされていないのか?結局のところ、パートナーへ連絡はできても返金の強制はできないと言う。
Uber eatsにとって1000円ははした金だから諦めろ、ということだ。
手持ちに現金としてあるはずだった1000円が、いつのまにかUber eatsの身勝手な自分本位の対応により使う予定のない仮想通貨に生まれ変わってしまった。
読者はたかが1000円ごときで、と思うだろうか?そう思うのなら私へそのはした金を渡してほしい。私は二度とUber eatsを利用したくないのだ。
最後になるが、ここまで読んでくれた読者がUber eatsを利用する際は釣り銭間違いは自己責任とのことなので、しっかり確認してから釣り銭を受け取ってほしい。
前は泣くことなんか一年に一度あるかないかぐらいだったのに、泣いてしまう。syrup16gの生きているよりマシさを聴きながら泣いている。
今いる界隈はどうしても絵優遇で、できることがなくてつらい。わたしがそう感じているだけなのかもしれないけど。
別にわたしが書いたものが注目されるされないは大きな問題じゃない。「目立つ(人権がある)/目立たない(人権がない)」以前に界隈に貢献できることが「ある/ない」という感じ。
2次創作なんか自分本位なものだから、誰かから見られたいとか評価されたいとか、そういうのは二の次でいい。けれどそもそもの行動の選択肢が無いように感じてしまう。
自分でも、こんなことを思ってコンプレックスに感じてしまう自分が嫌で仕方ない。僻まないとメンタルを保てない自分が嫌で仕方ない。できるならもっと健やかに生きていたいものだ。
最近寝付きが悪すぎる。不安になることばかりでそわそわしてしまう。心臓の下のあたりがずっとそわそわしてキュウっと締まる感じだ。落ち着きたい。落ち着いて眠りたい。
それなのに少しぐらい不調な方が、せめてものハンデを負っているように感じて自分が生きていることを少し許せる。生きている罰をもらっているような気がして安心してしまう。二律背反だ。
自分の「愛を試したい」本能が暴発して話をハチャメチャにこじらせてしまう。
もう自分でもぐちゃぐちゃでわけが分からなくなってるけど、ここで吐き出させてほしい。
もしこれが仕事だったら、細心の注意を払うしちゃんとできるはずなのに。
身内(彼と私の親)相手になると、「ご挨拶」のスケジュール取りでさえガバガバな対応をしてしまう。それでまた、険悪な空気になってしまった。
それぞれの顔色をびくびくうかがって、そのくせ自分の都合のいいように勝手に解釈して、暴走して失敗して機嫌を損ねる。
そう、前にもあったんだよねこんなこと。その時は私と彼の別れ話にまで発展して、一応よりは戻ったんだけどなんかもうそれがトラウマになっちゃって、もううまくいく気がしなくなってきちゃった。
で、また同じような失敗をして……の悪循環。
彼には「(彼と私の親を)わざと仲悪くさせようとしてるよね」「いつも自分本位で、俺に対しても親に対しても、相手の立場になって考えられてないよ」と言われる始末。彼に対しても親に対しても、無意識のうちに「これだけ自分の好きにさせてもらっても大丈夫だよね」と愛を試そうとしてるから、そんな傍から見れば非常識な言動をしてしまうんだと。
全然そんなつもりはないのに。できることなら、私だって円満に話をおさめたいよ。何で同棲・結婚関連の話になると私は冷静で合理的な判断力を失ってしまうんだろう。焦っているから? 何に?
ちなみに、私も彼も現在地方在住・実家住み・フルタイム勤務(収入は互いに多いとはいえないくらい)。
都会的な価値観で言えば全然焦るような年齢でもないと思うし、私も「そもそも当分は子どもをつくらないんだったら今すぐ結婚する必要性ある? 別に同棲くらい普通じゃない?」ぐらいのスタンス。
でも、やはり地方だからか結婚適齢期や「同棲=結婚、ないしは結婚前提」の価値観は未だ色濃く、私の親も例外ではなくて「同意をとらずに同棲するなり、好きにしてもいいけど、その場合親子の縁は切る」と言われてしまった。私の伝え方がめちゃくちゃ下手すぎたのもあるけど……。何だかんだ良い家庭環境で今まで割と親とも仲良くやってきたので、そのためだけに親と縁を切るということにも踏み切れず。
数少ない女友達の中でも、都会で同棲している友だちが多いということもあり、自分では確固として都会的というか自由で多様性のある家族・恋愛の価値観を持っているつもりでいたけど、無意識化では地方的というか保守的な価値観(結婚して子供を持ってこそ一人前、みたいな)を内面化しているという、そんなアンビバレントな状態がハチャメチャな言動につながっているっていうのもあるのかな。
生来のコミュ障も原因のひとつかもしれないけど、これが人間の、雌の本能の発露だって言うなら、もう降りたい。やめてしまいたい。
いっそ、ここから先に進めなければ今まで通り喧嘩もほとんどなく、週末に楽しくデートする関係を円満に維持できるのなら、続く限りずっと彼氏彼女のままでいいのかな。
会社の人間を観察してると、バランサーで周りのことを考えてそうな努力家ほど独身で、逆に自分本位であんまり気を使わない感じの人ほど結婚してる。
個人的にも付き合いたいって思うのはやっぱ結婚してる人達。なんとなくそう感じる。
他人に対する支配欲や執着を感じない。常に自分本位でいる。適度に距離感取って、無理せずやりたいようにやってる。やりたい事やってやりたくない事からは無理せず上手く逃げてる。
結婚できてない人間は他人の期待に過剰に応えようとする。合わない奴とも無理して合わせるし、やりたくない事も頑張って克服してしまう。
他人の期待に十分応えて、評価や見返りを貰おうとしてる感じ。直接自分の欲望を満たそうとしない。プライベートがスカスカ、仕事が全てで、そこから人生の承認を全部貰おうとしてる。