はてなキーワード: 煽情的とは
巨乳の女性に対して、「ずいぶんエロくて煽情的な乳をしてはりますなぁ」なんて思っても絶対口に出さないと思うんですよ。
たとえ、その巨乳女性が、乳袋のように乳の膨らみがくっきりと分かるような煽情的な服を着ていたとしてもね。
ところが2次元になると、とたんに、この乳は煽情的だ、エロ過ぎるからダメだと言い出すのは、どう考えてもダブるスタンダードであって、
許されるべきではないんですよ。
この話、もちろん漫画での描写が前提にあって(つまり煽情的な描写の是非が問われている)、
もともと「煽情的」と対比して「魅力的」が出てきているのになんか勝手に「知らない奴にいきなり魅力的と言われたら〜」みたいなシチュエーションに固執しはじめただけじゃん。
キャラのいちばんの特徴を部分的に出したあと全身像を見せるのは漫画では定番の手法ですし。
身体的特徴を戯画化することは危険である、ということがこの記事の論点です。
身体的特徴とは、人種、肌の色、性別、体型、はげ、あざ、病気、怪我、血液型などのことです。
まず前提としてポスターのイラストがステレオタイプ、身体的特徴の戯画化であるか否かについて説明します。
実写のポスターで同様のポーズがとられていたとしてもなかなか乳房を強調した写真だなあというのが個人的感想ですが、
イラスト特有の技法として、顔は鼻がなかば省略されるレベルの簡略化が為されており強くデフォルメの利いた絵柄であるのに対し、
胸まわりの生地がぱつぱつであることを示すためのボタンホール周辺の皺が描き込まれています。かなり肉感的であるよう意識された描写です。
これらを無視して単純に衣装やアングル、ポーズだけで実写と比較することは、意味がありません。
実写に引き写すのであれば、胸の部分だけ立体的にするとか、胸の部分以外の彩度を下げるだとか、かなり強調の利いたデザインにせざるをえないと思います。
「ただ描いてある女性が巨乳なだけ」というのは、ちょっと、無理です。巨乳を描こうとして巨乳の描かれたイラストです。以降の文章はそれを前提としますのでその点はご了承ください。
ステレオタイプのなにが人権的に問題なのかという説明をします。
黒い肌は白い肌に比べて醜く劣ったものである、身体障碍者の物真似をして面白がって喜ぶ、A型は生真面目、などは判りやすい例かとおもいますが、
女性の乳房は性的・煽情的なものである、というのもまたステレオタイプの一種です。
上記すべてただの身体的特徴です。ただ存在するだけのものです。醜い、滑稽、生真面目、煽情的、などはあとから意味付けされたものです。
「乳房=煽情的」なのではなく、「乳房を煽情的であると意味付けした観測者」が存在するだけです。
女性の乳房に興奮するのは男性の性欲として自明のことでありそんなにもってまわって考える必要はない、という意見は恐らく出るとおもいます。
しかし普遍的人権侵害というのは存在するので、普遍的であること自体は免罪符にはなりません。
女性の月経を穢れとみなす文化は全世界普遍的にみられるものですが、現代日本でまったく問題なく受け入れられるべき価値観だと考えるひとはさすがに存在しないでしょう。
衛生面や科学的無知などから当時は合理的な慣習であったとしても、現在においては現在の合理性と人権思想において捉えなおす必要があります。
また繰り返しますが、ここで批判されているのは男性性欲ではありません。これはステレオタイプの問題です。
また、「もし男性器が戯画化されたものが公共の場にあったら」という例え話に対して、「極端だ」「大真面目にコメディのようなことを議論して馬鹿みたいだ」という反応を見掛けました。
ここまで述べてきたとおり、身体的特徴自体には意味はなく、ただ意味付けを為す観測者が存在するだけです。
男性器と女性の乳房は完全には対応するものではないとしても、すくなくともここまでの違う反応を引き起こすほど別種のものであるとは思えません。どちらも性別特有の器官であることは共通です。
ならばなぜこの反応の差は生まれるのか、それを考えると、女性の乳房にどれだけ過剰に意味付けが為されているのか、それが自明のものとされ続けてきたのか、多少は推しはかることが出来るかもしれません。
ここまでを踏まえて、「ただ描いてある女性がたまたま巨乳なだけだろう。なにがいけないんだ」というのは実は大変意義深い指摘です。
実在の女性の乳房は様々です。ですから表現としての女性も、自由に、様々であるのが本来です。これは正論です。
ですがそれはステレオタイプの危険性について合意形成が為された社会ではの話です。
また、混乱させてしまうかもしれませんが、「乳房がアプリオリにエロなのではなく、意味付けを為す観測者がいるだけなのだ」という合意形成へ向けて、必ずしも宇崎ちゃんポスターへの批判を経由する必要はありません。
たとえば、短くまとめることを優先して極端な例えになりますが「明日から全女性が乳房を露出して生活する」ルートなどです。
恐らくこのルートのほうが合意形成までにかかる年数は短時間で済むでしょう。メリットはあります。
しかしこれらの方法論は女性がステレオタイプから被る犠牲を一時的にであれ増大させるものでもあり、私は提案できません。これを弱さであるとする指摘は受け容れます。
最後に、「結局萌え絵が気に入らないんだろう」という指摘も見掛けましたが、それは間違いです。
ビールの広告ポスターがかつては揃って水着女性のグラビアばかりだったことはご存じでしょうか。
しかしこれらは十五年近く前に既に廃れています。実写ではとっくに消えたとおもわれていた手法が繰り返されていることにぎょっとされているだけです。
表現の新しさゆえではなく古さゆえに批判はなされています。それは確かです。
質問・疑義には私からは回答しません。専門家ではなく危険だとおもうので。
もしこの記事を読んでなにかしら腑に落ちた気がするいう方がいたとして、なにぶん素人のいうことなので鵜呑みにはせずみずから調べるなり考えてみるなりしてもらえたら本望です。
でも全年齢向けの露出が少なく煽情的でもない漫画だろうと「これはアヘ顔ってやつなんでしょ!」とか「あんたたちこれをズリネタにしてオナってるんでしょ!」とか決めつけて排除するんですよね?
>「女性の体は、目で見て楽しむためのものである」というメッセージが含まれてしまう。
わかるよ古典的な強いフェミニズム論だもの。どっかで勉強したんだろう
しかし、こういった負のメッセージを一切排さねばならないという話が最終的にどうなったかまで勉強しなかったのか。
80年代のフェミニストたちは、この理屈を「ブラジャーは抑圧」というスローガンとともに用いた。
ブラジャーをして胸のかたちをよくするのは男ためだと思われたからね。
セクシーさが市場で売れることは女が男を歓ばせるのはいいことだというメッセージだったからね。
胸が開いた服の女性やミニスカートの女性もやり玉にあがり、フェミニズム的じゃない女性、名誉男性扱いされた。
そうしてフェミニズムは、むしろ女性をこそ攻撃することになり、衰退したんだ。
今、お前も同じ轍を踏もうとしている。
悪いメッセージを読み取り得るものを全て排するなら、どんなものだって排することができるし、してしまう。
お前がオタだっていうなら、何か好きなコンテンツを上げてみろよ。俺はそれについて、これこれこういう悪いメッセージが含まれるから公共の場に出るべきではない、と述べることができる。そうだな? ヒプマイとかか? なんでホストに貢ぐこと推奨しているの? それらは決して表にでるべきではないのか? 町おこしのためのコスプレはどうだ? エロい服もけっこうあるぞ? 煽情的な上に公共がやってるのでは?
学問の本質に関係ないものは取捨して評価しようと頑張っているがぼくには耐えがたいことがあった。
すらりと伸びたかかと、
ギュッと締まった太ももから女性ホルモンの賜物である尻にかけての曲線美。
見るものへ対する飽和攻撃は続く。上半身は着衣度100パーセントなのに防御力ゼロという感じの小さすぎるTシャツ。
生物としての逞しさすら感じる尻と胸に挟まれた領域、すなわちくびれ
暴力的でないギリギリの大きさの胸についた脂肪、その形が布越しに完全に感じられる。
もう、レーザ測定器で全身の寸法をくまなく測って3Dデータとして博物館に公開したいレヴェルの実質全裸だ。
彼女は全く法に触れるような恰好をしていないと同時に、実質全裸であり公然わいせつなのではと感じられる。
えっちえっちというほうが、エッチなんだぞ。というならば、ぼくはえっちなことを認める。
とにかく、人の服装にはとやかく言わないという原則と、いやでもその恰好はえっちすぎますという対立が収まらない。
正直に言えば、こっちは学問しに来てるんだから煽情的な身体で欲情を掻き立てないでほしい。仕事に差し障る。というか採点に差し障る。
あれこれと悩みに悩んだ挙句に僕の中に残った感情は、どうしてあんなえっちな服装が誰にもとがめられずに公共空間で認められているのかという社会に対する怒りだ。
こういう状況ってみんなどう感じてるの?
このまとめを見た。
【またお前らか】『なんでここに先生が!?』のブースのツイートに、いつもの連中がイチャモン付けに来た。 - Togetter
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1331836
このおっぱい展示を擁護してる人を見るとある共通点に気づく。それはラノベオタクばかりということだ。
最近は社会学VSオタクという構図になってきているが、同時にほとんどの場合、社会学VSラノベオタクでもある。
なぜラノベオタクはラノベという人文・社会科学の産物を超好意的に嗜んでいながら反文学部的なスタンスなのかは興味深い話題でもある。
ひとつの仮説として考えたのは、ラノベオタクは人文・社会科学系の専門書を大して読んでいないということだ(多くの人は理系なのだろう)。そして彼らはラノベや彼らが「一般小説」と読んでいる類の大衆文学ばかり読んでいるということ。
彼らは人文・社会科学の産物であるラノベを大量に読んでいながらも、その文脈を理解しないままただ漫然とストーリーを楽しんでいるということになる。
これでは人格の涵養など望めないし、ネトウヨ的感性のまま年を取っても仕方がないのかもしれない。
ラノベオタクたちは「俺たちは賢い」「他のやつらはバカ」というスタンスが基本になっている。
とても自信に満ち溢れているように見える。
彼らは自分は「読書家」だから知的な人間だと思っているのだろう。
彼らが読んでいるのはたかが「小説」にすぎないのだが、しかし「小説」も「本」には違いない。
「本を読んでいる=賢い」というような思い込みがあるのではないか?
ラノベオタクたちの高慢さ、傲慢さを見るとそういったものを感じる。
彼らを観察していると、年齢の割に教養のなさ(雑学的な浅い知識だけは豊富)、バランス感覚のなさ、他者への配慮のなさ、といったものをすごく感じる。
深い理解に基づく知識のなさや教養の欠落などは大した問題ではない。問題なのはラノベオタクたちが社会の中で厄介者化していることだ。彼らは被害者意識がとてつもなく強く、他者への攻撃性が高い、ということは外から観察している人にはよく見えていることだろう。
いい大人なら社会というのは人と人との衝突(それも陳腐な衝突だ)が日常的に起きるということを知っている。主義と主義、思想と思想、思惑と思惑、そういったものは衝突するものだ。
彼らが絶対の原理として掲げる「表現の自由」だが、もちろんこれも他の主義・思想との衝突は避けられない。どんなものも絶対不可侵ではいられない。それが社会というものだ。絶対の安全圏などない。ここは永遠安寧の天国ではない。
だが、ラノベオタクたちにはこういったことがわからない。社会とは他者との関わりあいだということが理解できない。教条主義に陥っているラノベオタクたちは結果的に文字通り「信者」のようなものと化す。したがって、思考は粗雑になり、「正義のオタクVS悪のフェミ」という安易な構図・構造がでっちあげられるに至る。ここには「対話」「相互理解への意志」といったものはない。
「表現規制への反対」これは大いに理解するし共感もする。ただし、攻撃的だったり刺激的・煽情的な表現はつねに他の主義・思想と衝突することにもなる。だからそこで「対話」が必要になる。議論をして社会の中で落とし所を見つけていくことになる。もちろん一方的な排除であっては絶対にいけないし、かといって完全な許容にもならないだろう。
社会の中で生きるということは自分を全肯定されることでもなければ全否定されることでもない。こういったバランス感覚がラノベオタクには欠けているように見える。とてもナイーブで0か100かという思考になっている。彼らには「中間」の状態が理解できないのかもしれない。
あるいは溢れる想像力が「中間」から「極端」への推移を瞬時に見越してしまって危険信号を受信するのかもしれない。
だがそれこそが教養のなさというものであり、現実の複雑性を理解していない証拠ともいえる。極めて幼稚な思考といっていいだろう。幼稚な想像力に溢れる彼らには大人の想像力がない。
ここまでいろいろ書いてはみたが、ラノベオタクには何を言っても無駄だろうということも感じている。
したがって、社会でラノベオタクという厄介者をどう取り扱っていくのかという問題になってくる。
今回書いたようにオタクの一方的な排除であってはいけない。オタクにも生存権を与えなければならない。ただ、オタク的表現は社会の規範と衝突することが極めて多い。
しかしオタクは「ゾーニング」を「表現規制」と言い換えて反発している。
さあどうしたものか。
長々と書いてるけど、結局「俺の気に入らない表現は隠せ。従わない奴は教条主義アホ」って言ってるだけじゃん。
「社会とは他者との関わりあいだということ」が理解できてたら、他人の表現をも尊重するだろ。
それが分かってないから規制派は自分のお気持ち一つで人権侵害をする。
落としどころなどない。「攻撃的だったり刺激的・煽情的な表現はつねに他の主義・思想と衝突することにもなる」からこそ、表現の自由は絶対でなくてはならない。
しかしオタクは「ゾーニング」を「表現規制」と言い換えて反発している。
さあどうしたものか。
このまとめを見た。
【またお前らか】『なんでここに先生が!?』のブースのツイートに、いつもの連中がイチャモン付けに来た。 - Togetter
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1331836
このおっぱい展示を擁護してる人を見るとある共通点に気づく。それはラノベオタクばかりということだ。
最近は社会学VSオタクという構図になってきているが、同時にほとんどの場合、社会学VSラノベオタクでもある。
なぜラノベオタクはラノベという人文・社会科学の産物を超好意的に嗜んでいながら反文学部的なスタンスなのかは興味深い話題でもある。
ひとつの仮説として考えたのは、ラノベオタクは人文・社会科学系の専門書を大して読んでいないということだ(多くの人は理系なのだろう)。そして彼らはラノベや彼らが「一般小説」と読んでいる類の大衆文学ばかり読んでいるということ。
彼らは人文・社会科学の産物であるラノベを大量に読んでいながらも、その文脈を理解しないままただ漫然とストーリーを楽しんでいるということになる。
これでは人格の涵養など望めないし、ネトウヨ的感性のまま年を取っても仕方がないのかもしれない。
ラノベオタクたちは「俺たちは賢い」「他のやつらはバカ」というスタンスが基本になっている。
とても自信に満ち溢れているように見える。
彼らは自分は「読書家」だから知的な人間だと思っているのだろう。
彼らが読んでいるのはたかが「小説」にすぎないのだが、しかし「小説」も「本」には違いない。
「本を読んでいる=賢い」というような思い込みがあるのではないか?
ラノベオタクたちの高慢さ、傲慢さを見るとそういったものを感じる。
彼らを観察していると、年齢の割に教養のなさ(雑学的な浅い知識だけは豊富)、バランス感覚のなさ、他者への配慮のなさ、といったものをすごく感じる。
深い理解に基づく知識のなさや教養の欠落などは大した問題ではない。問題なのはラノベオタクたちが社会の中で厄介者化していることだ。彼らは被害者意識がとてつもなく強く、他者への攻撃性が高い、ということは外から観察している人にはよく見えていることだろう。
いい大人なら社会というのは人と人との衝突(それも陳腐な衝突だ)が日常的に起きるということを知っている。主義と主義、思想と思想、思惑と思惑、そういったものは衝突するものだ。
彼らが絶対の原理として掲げる「表現の自由」だが、もちろんこれも他の主義・思想との衝突は避けられない。どんなものも絶対不可侵ではいられない。それが社会というものだ。絶対の安全圏などない。ここは永遠安寧の天国ではない。
だが、ラノベオタクたちにはこういったことがわからない。社会とは他者との関わりあいだということが理解できない。教条主義に陥っているラノベオタクたちは結果的に文字通り「信者」のようなものと化す。したがって、思考は粗雑になり、「正義のオタクVS悪のフェミ」という安易な構図・構造がでっちあげられるに至る。ここには「対話」「相互理解への意志」といったものはない。
「表現規制への反対」これは大いに理解するし共感もする。ただし、攻撃的だったり刺激的・煽情的な表現はつねに他の主義・思想と衝突することにもなる。だからそこで「対話」が必要になる。議論をして社会の中で落とし所を見つけていくことになる。もちろん一方的な排除であっては絶対にいけないし、かといって完全な許容にもならないだろう。
社会の中で生きるということは自分を全肯定されることでもなければ全否定されることでもない。こういったバランス感覚がラノベオタクには欠けているように見える。とてもナイーブで0か100かという思考になっている。彼らには「中間」の状態が理解できないのかもしれない。
あるいは溢れる想像力が「中間」から「極端」への推移を瞬時に見越してしまって危険信号を受信するのかもしれない。
だがそれこそが教養のなさというものであり、現実の複雑性を理解していない証拠ともいえる。極めて幼稚な思考といっていいだろう。幼稚な想像力に溢れる彼らには大人の想像力がない。
ここまでいろいろ書いてはみたが、ラノベオタクには何を言っても無駄だろうということも感じている。
したがって、社会でラノベオタクという厄介者をどう取り扱っていくのかという問題になってくる。
今回書いたようにオタクの一方的な排除であってはいけない。オタクにも生存権を与えなければならない。ただ、オタク的表現は社会の規範と衝突することが極めて多い。
しかしオタクは「ゾーニング」を「表現規制」と言い換えて反発している。
さあどうしたものか。
徴用工の問題がネット上を駆け巡り、韓国非難が飛び交っている。
そんな情報をボーっと考えながら「そういや韓国人ってどんなイメージだっけ?」とふと思い、書きなぐってみた。
完全に私の主観であり、客観的データもなく、一度もググってもいない。
だから揚げ足取られまくりの文章だけど、「30歳前後の人はこんなイメージを韓国に持っているんだな」という
私が小学生の頃、冬のソナタが流行り、ペヨンジュンブームが起きた。
その時のブームは凄まじいもので、韓国=アジアの情愛の国というイメージが植えられたような気がするし、
冬のソナタ後も、韓国の恋愛ドラマはいくつも放映された(名前はほぼ憶えていないが。)
ぶっちゃけ、それまで現時点の日本人の韓国という国のイメージは「キムチ」でしかなかった。
隣国と言えば、中国だったし、ドラマでもアニメでも「~アル」というキャラクターはそこら中にいた。
インターネットもあったが、一般日本人の情報収集といえば、新聞とテレビのニュースだけで、
多分、アラサーが小学生、中学生位のころは、一番、対韓国の好印象が高かったのではないだろうか?
その時も水面下ではインターネットでネトウヨのような活動もあっただろうけれど、わざわざパソコンを開いて検索することもなく、
iモードという世界に閉じられた世界で僕らはモバゲー小説で王様ゲームを読み、チャリ走を爆走させた。
つまり、韓国のニュースは冬のソナタ以降、そこまで情報は入っていておらず、印象も「キムチ・情愛・観光」くらいのものだった。
iPhoneが爆発的に売れ、だれもが手のひらにインターネットを握っていた。古今東西、人はニュースが大好きであり、
ヤフーニュースを読む人も多かったが、今のインターネット同様、ちょっと横道にそれると、玉石混交の記事や、
特に2chまとめが大流行していた時で、PVを稼ぐために、煽情的で攻撃的なタイトルが氾濫しており、
・領土問題
などはその時、ネット上で広く知れ渡った。(真実かどうかは別問題。)
それと同時に「韓国人はレイプ魔だ」「韓国人は遺伝問題で感情が抑えられない」など本当かどうか全くわからない問題も広く流布した。
公には言わないけれど、その時から「反日・嫉妬・攻撃的」が韓国のイメージになってきたと思う。
表面を見ると、KポップとAKBが日本の音楽で圧倒的存在感だった。
ドラマでも昼間のおばさんしか見ない時間帯はチャングムの誓い?かよくわからない韓国ドラマが流れっぱなしだった。
放映料が安いとかもあるけれど、ある程度、数字がとれる人気ドラマだったのだろう。
当時の中学生女子は間違いなくAKBではなく、KARAが大好きであったし、Kポップをリスペクトしていた。
彼女らは現在は大学生だが、化粧も「なるべく素できれいに見えるメイク」ではなく、
韓国系の「肌を白く、唇を真っ赤にするメイク」が流行っている。
色々と文章がとっ散らかったが、
要はネットで情報を得る男性と、テレビで情報を得る女子中学生は韓国人に対するイメージが断絶されていたのだ。
しかし、今回の徴用工の問題では、どの紙面でもテレビでも「韓国の判断はありえない」という論調だ。
慰安婦問題や土地問題ですら、各局バラバラで玉虫色の報道しかしなかったのに、
これは私の記憶の中だと初めてだったと思う。
そのため、これから私の韓国人観がどう変わるのか、楽しみにしている。
ちなみに私の個人的考えだと、ここまで急激に対韓国のイメージが悪くなったののは、
だから、冬のソナタが大流行した時は、「日本人観+情熱」みたいなのが韓国のイメージであり、
しかし、インターネットを通じて、韓国の反日の実態を知ることになる。
文章やニュースだけなら「そういう国なんだ・・・」と思うだけだが、
日本の首相の首を切るパフォーマンスや韓国の子供への過度な反日教育を画像で見れるようになると、
「日本人観+情熱」なイメージを壮大に裏切ったため、イメージ悪化になったのだと思う。
考えてみれば、韓国は民主主義として近代化したのもごく最近だし、
私達が冬のソナタやKポップ、似た面影のイメージだけで、過度の期待を持ってしまったんだろう。
これからは韓国という国に過度に期待せず、絶望もせず、淡々と事実を積み重ねて、
その事実の塔を見上げて、「韓国というのはこのような国」と判断していきたい。