はてなキーワード: 権化とは
親は物心つく前に片方死んで、家父長制の権化のような毒祖父に叱られ続けた学生時代。毒祖父のせいで家庭は崩壊してた気がする。
物理的に包丁向け合ってた家なので子供が得るべき基本的な安心感みたいなのは育まれてないと思う。何をするにも劣等感にまみれてたし、運動音痴だし、友達は少ない。インターネットに救いを求めてた。当然ブスでオタク。承認欲求だけが育ち、当たり前だがスクールカーストで地を這う。田舎でむくむくと恨みを育て続けた。自分を取り囲む環境の全てに復讐したかった。
で、まずは大学受験をしたけれども経済力と偏差値が足りず県内進学。私は頭の出来も普通に悪かったようだ。死にたい。ただし、国立だったので地元では「頭の良い学生」になれた。ギリギリ自尊心が壊れずに済んだ。ついでに目の上に線を足す整形もした。
だがカスみたいな地元で上位層になっても仕方ないので「地元で結婚して子供を産みなさい」という大人たちを振り切って上京し企業就職した。
希望の業界だった。まあまあの大きな企業。唯一、業界内で貰えた内定。
希望の職種ではなかったが、こんな自分なんぞが業界に入れただけで誇らしかった。あとゴミみたいな地元からも足を洗えて最高だった。このままコネ作れば希望の職種に就けたりして、と妄想してた。第二の人生始まると思ってた。
が、同業界で希望の職種に就いてる人間を見ていると圧倒的すぎる。
「東大卒です」
「センター利用でMARCHは受かってたのでそこから大学選んだよ」
「実家に家賃として毎月3万円納めないといけなくて大変なんだよ」
「同業界の最大手に受かってたけど、弊社の方が雰囲気良さそうだったから選んだんだ!」
ふざけんな。
こんなに恵まれてる奴らと同じ職種を目指してたのがバカすぎる。同じ土俵で戦える訳あるか。家柄、経済、学歴、容姿、すべて最初から持ってる奴らに勝てる訳ねえ。初期条件が違いすぎる。
ところで、こうしてやいのやいの言ってる自分の職種だが、先輩には高卒の方がいる。仕事ができる人というのは分かるし尊敬もしてる。ただ、なんか色々頑張ったけど東京に住む高卒=地方Fラン国立大卒は同じレベルの仕事をやらされるんだなと思いやりきれなくなった。そもそも最終学歴や出身地にこだわってる自分がゴミすぎるしな。あーマジで何だこれ。
自分がそんな愚かなクソボケだと認めたくなくて足掻いている。頑張ってることしか取り柄がないので、この頑張りを諦めてしまったら○ぬしかない。
自分が首を括るか、希望の職種に転職できるか、幼少期の環境全てが爆発するか、そのどれかでしか報われない気がする。助けてくれ。
それ以前にど田舎だから近くに美術館とか博物館がなかったんだけど。
小学生入場無料だったのと夏の時期に館内がめちゃくちゃ涼しいって理由つけて自転車でめちゃくちゃ通ってた。
まが玉づくり体験とかもやってたんだけど「そんなのに参加してなんになるの」と親に一蹴されて終ぞ参加できないまま成長してしまった。
就職して自分で金を稼いで一人で東京に旅行に行ったとき、上野博物館に初めて入って感動した。
本当は記念メダルが目的で、しかもそのときは朝まで友達と飲んでてめちゃくちゃ二日酔いで体調最悪だったんだけどそんなの吹き飛ぶくらいの感動だった。
新幹線の時間もあって長くは居れなかったんだけど、東京の人はこういうところにすぐ来れるんだと思うと羨ましかった。
水族館とかもそう。
薄暗いところで魚を見るのが好きで何周もしたいんだけど、水族館に行くっていうと着いてくる親にあからさまにめんどくせぇみたいな顔をされる。お前がついてきたんじゃろがい。
不機嫌になられるほうが面倒なので泣く泣く帰ることばかりだった。
親曰く「泳いでる魚見て何が楽しいのかわかんない」って言うけどなんで着いてくるんだ。断ろうとすると不機嫌になるのも本当にやめてほしい。
動物園に行くのも結構好きなんだけど、親に「その年になって動物園?(笑)」みたいな馬鹿のされ方をするのでとてもつらい。
これもまあ案の定近場には存在していないので気合いを入れて行かねばならない。
帰りの運転をする体力も考えなきゃいけないのでなんか今一つ楽しみきれない。
ライブだってそう。好きなアーティストは田舎に来ない。隣の県にはかろうじて来る。車で2時間かかる。
ライブで騒いだ後に夜道を2時間運転して無事に帰れる自信がない。
帰る時間とか体力を気にせずに文化資本に触れられるって本当に恵まれてると思う。羨ましい。
高卒で親に促されるまま受けた公務員試験に受かってのんべんだらりと地方公務員をやってて、ようやく親を説き伏せてアパート暮らしをしてる。
自分の行動に口を出されずに、馬鹿にされなくなってとても精神的に楽になった。家の中で顔色を窺わなくていいってこんなに楽なんだな。
家が心休まる場所とか何の冗談だよって思ってたけどこれは心休まるわ。
東京に引っ越したい。でもこんな田舎で30年近く生きてきた高卒が東京に出て就職できるんだろうか。
面倒くさがりの権化だからなんの資格も持ってないし、タイピングが速いわけでもない。物覚えも悪いし人の顔も覚えられない。
でも文化資本に気軽に触れられるところに住みたい。
この間だって、好きなクリエイターが個展を開くって言って、金土日の三日間だけここでやりますっていう告知をしてた。
うらやましいな~~~~~東京。
まず私のプロフィールを明かしておく。
大学院生。社会学と文学のあいの子みたいな分野で、とくにジェンダーとかセクシュアリティとかそういう事を学んでいる。
映画は学部時代に少しかじった程度で、評価はB+だった。だから的外れなことも言うかもしれない。すみません。
匿名なのでもっと書くと、同性愛者で、SMの実践者で、フィクトセクシュアルに片足つっこんでいるので、わりとどの界隈でも少しなじめない気持ちになりがち。
「映画としてはちょっと……」というような意見が主にアカデミックや評論の場で散見される。
これは分からないでもない。ちなみにここでは個人攻撃みたいにするつもりはないので、引用は特に必要でない限りはしない。
「すげえ! マリオってこういう解釈ができるんだ!」みたいな「新しいもの」はなかった。しかし、「マリオの映画といえばこういうのが見たいよね」という「見たいもの」が詰め込まれており、「新しいもの」を入れる余地は90分にはないように思われる。
メディアミックス映画としては一つの模範解答であり、文句なしの一級品といってもいいかもしれない。面白い映画といい映画は別だが、以下では「いい映画」(いい映画って何すか?)としての切り口を見てみたい。
ゲームをアニメとしたら、キャラクターの解像度や物語の運び方だけでなく、どのようにゲームの快感が写し取られているかが重要ポイントに思う。
マリオのゲーム体験を思い返すと、快感は大きく二つに分けられる。
「スーパーマリオブラザーズ」ならステージクリアのタスク消化に似た快感。
「スーパーマリオ64」に連なる「箱庭マリオ」なら新しいマップを開いていく探索の快感。
マリオシリーズだけでなくゲームの快感はむしろこの二者に共通する「試行する」快楽が大きいのではないか。
私はといえば、ゲームが苦手だった。
クリボーに激突する。穴に落ちる。ドッスンに潰される。空から落ちる。燃やされる。溺れる。
我ながらヘタクソなプレイである。しかし、プレイを重ねると、一つ一つそれらを回避なり消化できる。そこにゲーム的快感がある。
翻って「映画マリオ」に戻る。キノコ王国に迷い込んだマリオは、ピーチ姫の旅についていくためにゲームばりのアスレチックに挑むわけだが、このプレイングも経験者ならば笑ってしまうほど失敗に満ちている。そしてその分だけマリオは「試行」を試すことになる。
アスレチックだけでなく、ドンキーコング戦、クッパ戦と繰り返し作中で強調される「諦めの悪さ」が導くゲーム的快楽とはこのような「試行」の快楽が適切だろう。
文学研究者の藤田直哉は上記のようなことも含めて、「物足りなさ」を指摘している。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/1655397557198278662
ここは鑑賞者のバックボーンも関わってくるのかもしれない。
周回前提のゲーム「ドキドキ文芸部」「UnderTale」「シュタインズ・ゲート」の記憶が私にはすごく強くあるし、マリオシリーズから距離を取っていたので(ここまで多くの作品に触れたわけでもない)、試行錯誤性は面白く観た。
また、勉強不足と笑われそうだが、3Dの映像で2Dのフィールドを表現する映像も、私としては十分に真新しいものだった。
「反ポリコレ」とか、「ジェンダーから距離を取っている」いう話も聞く。
しかし私はそうは思わない。LGBTと「マリオ」作品群の関わりは以下のコラムに詳しいため、これ以上は言及しないが、さらに男性性との関わりについて分析する。
https://cinemandrake.com/pokemon-musashi-kojiro-lgbtq
こちらも藤田直哉の評を引用する。私のマリオ映画への評価は彼とは異なるが、この評と私の見解は一致している。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/1656110486713434113
クッパは名誉と所有、暴力を原理においたキャラクターであり、婚姻と幸せを直結させる家父長制を背負った男である。
ピーチ姫に対し無茶な論理で婚姻を迫ったり、彼女の知人も含めた囚人を婚姻の犠牲として殺そうとしたり、人の論理の届かない人外らしさが映画における彼の輝かしい魅力でもあることは間違いないが、それは悪しき男性性の発露でもある。
この「有害な男性性」を退けることを軸にマリオ映画を見てみると、マリオは退けた先に何を得たのか。
それは物語のラストが示すように、ピーチ姫ではない(ピーチ姫とマリオとの恋愛の成就がほのめかされてはいる。しかし、ほのめかされていることと明らかであることは違う)。
マリオはゲームにおいてプレイヤーの分身であり、あまり感情を発露しない。
葛藤もあまり読み取れず、さらわれたピーチ姫を取り返すため、躊躇いなく絵画に入ったり火山に行ったり宇宙に行ったりしているように見える。
しかしマリオ映画においては、夢を追う自信のなさげな男として描かれる。
イタリア系アメリカ人の家庭で育ち、家族仲はおそらく悪くないが、「父親に認められたことがない」ということが恐らく影を落としていて、自分のやりたいことと、父親に認められたいという二つの想いが両立できていない。
そしてマリオは映画の終わりに藤田のいうところの「有害な男性性」の発露であるクッパを倒し、父親からの承認を得ることとなる。
婚姻に大きな意味をおく家父長制の権化を倒した先に、父という家父長に認められるというメビウスの輪的な権力のねじれについて、私はまだうまく説明ができない。こういう嫌な書き方をすることで、妙な引っ掛かりを表明するしかできない。
その是非について何か言いたいわけではない。
現実では家父長制や異性愛規範や同性愛差別やトランス差別や人種差別が吹き荒れている。そのような不均衡な権力は改められるべきだし、悪しき男性性とは決別すべきである。
その是非についても何か言いたいわけではない。
ここまでが建前。
「家父長制の権化」と表現したけれど、理屈の通じない愛情を持て余す魔王クッパが大好きだ。
本気で惹かれると言っていい。
そして彼は多くの部下に愛されながらも、彼の愛はどこにもたどり着かない。
槇原敬之の「軒下のモンスター」から「いっそ妖怪にでもなって 君を軒下からただ見ていたい」を引いてもいい。
三島由紀夫の「仮面の告白」から「お前は人間ではないのだ。お前は人交わりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生き物だ」を引いてもいい。
ピアノを弾きながら「ピーチピーチピチピチピーチ」とか歌ってる彼のカットでは劇場で笑い声が起きた。
「悪しき男性性」の回路ではもう誰かと心を交わしあうことはない。ピーチが振り向くことはない。彼の歌うラブソングは哀愁に満ちて、あるいは滑稽かもしれない。
私も笑った。でもぶっちゃけ泣きそうにもなった。
今ギリギリこの男を笑って愛でながら見られるくらいには私もマジョリティにいられてるんだろうけど、こういうジェンダーやクィアの批評は規範を可視化させ内破する営みであって、次に生み出される新しい規範にいられなくなったら、次は私が笑われる番なのだ。
本当は、弱者はクッパの方なのかもしれない。でも私は彼にあまりに感情移入しているから歪んだ読みをしているのだろう。
お前の横暴さも、報われなさも、情けなさも、関われなさも好きだぜ。ほんとに。
と昨日ホッテントリに入ってた生産性に関するブログを読んで思った。
竹中平蔵は新自由主義の権化みたいに言われてるが、実際に彼がやったことは
「社会全体の生産性を下げ、労働者一人ひとりの取り分は減ってもより多くの人が職にありつける社会」
だと思う。
そのため雇用の流動性は生まれず、かわりに業務の効率化より非効率でも安い労働力=非正規雇用を使ったほうが業績が上がる仕組みになった。
その結果、効率化で居場所がなくなるはずの低スキル労働者の雇用が守られるようになった。
更に年金引き上げて60以上も働かせるが、その老人が若者の職を奪うほど出しゃばらないようにするために、残業して働きすぎると給料が減るシステムを導入し安い給料になるよう強制し、それなりの仕事をさせるように仕向けた。
これにより、低スキル労働者も若者も高齢者も職にありつける仕組みが樹立された。
これを新自由主義と呼べるだろうか?
低スキル業務の自動化/効率化による生産性向上より、労働者をたくさん雇用して業務を進めたくなるように企業を誘導し、日本の生産性向上はみるみる落ちているが、失業率は世界と比べ低く誰もが非効率だが働けている社会になっている。
ただ、彼が彼の望む新自由主義を推し進める上で譲歩してしまった「正規雇用の廃止」と、年金不足対策で高齢者雇用を促進させたものの、「老人は老人なりの仕事をさせ、能力を発揮させない」という若者が有利になる条件により、
彼の新自由主義施策は生産性向上による弱者(低スキル労働者や若者)の切り捨てではなく、低スキル労働者=非正規雇用者や経験のない若者という労働者階級の職の確保とその人たちが死ぬまで働ける社会を担保する共産主義政策に変容した。
https://hokkeookami.hatenablog.com/entry/20230505/1683298772
このブログのコメントが記事を読まずに書いたのか、それとも読解力に難があるのか、はたまたサヨク的指向のあるブログ主だから盲目的に批判したいだけなのか分からんが的外ればかりで困惑している。
Gragra 「消した」んじゃなくて「書かなかった」だろ。わざわざ手間をかけてやったのと、手間を省いたのでは全然印象が異なる。こうやって犬笛を吹いて分断を煽る意図はなんだ?
kotobuki_84 単なるミスや省力化と解釈するべき現象に、悪意を幻視して陰湿な怒りの娯楽やるのはまあそりゃ自由だけど、その世界観だと例えば「法華狼は園子温を意識的に擁護している性犯罪フォロワーだ」くらい言えてしまうよね
このような、背景からハングルと中国語を消したのは差別という事がこの記事の主旨であるかのようにコメントしている人が多く、それにスターまで集まっている。
読めば分かると思うのだが、この記事で法華狼が言いたいのは、結論にある「『さくら荘のペットな彼女』で韓国料理の描写が追加された時、原作からの改変自体が批判の根拠」とした連中は、このハングルと中国語を消すという改変も批判しないとダブスタだし、差別意識があったことを証明することになるけどいいの?である。
だから、ハングルと中国語が消された理由は断定できなくてもいいのだ。この記事が主張したい相手にとっては「改変」されていることが重要なのだから。
そもそも最後にわざわざ「念のため、媒体の変化にともなう改変は良くも悪くも必然的だと私は考えているので、改変それ自体を批判の根拠にするつもりはない。しかし当時に改変そのものを批判の根拠として、制作者に非難をあびせた人々はどうだろうか。」
と書いているのに、ブコメはハングルと中国語を消した理由を推測したりとそこまでは別にいいんだが、引用したブコメのように法華狼が作品自体に差別問題を見出しているかのようなコメントは阿呆としか言いようがない。