はてなキーワード: 少数意見とは
少数意見ってことにしたいんだろうな。
https://twitter.com/mizloq/status/1594608637208850434
https://twitter.com/mizloq/status/1594554415045742592
WJSの調査をまとめ直しただけなのだけれど、こういう視覚化が珍しかったのか、たくさんの反応ありがとうございました。
https://pbs.twimg.com/media/FiEvYdVacAIZ4Rg?format=jpg&name=medium
あの表から読み取っていただけることはいくつもある中で、表を作ってTwitterに投稿した者として是非注目していただきたかった点は次のとおり。
この点はあとで少し詳しく書きます。
「いま国民的議論の対象とするべきものはこれだ」「次の政権はこの論点で選ぶべきだ」を提示するのがマスメディアのしごとだ、ということですよね。この項目が上位に来るのは、世界67カ国調査をざっと見たところ、日本と韓国だけです。韓国マスメディアについては詳しくないので触れませんが、日本のマスメディアについては、その発祥と発展の経緯がこれに大きく関わっていると思われます。
萬朝報が中心となって1901年に「理想団」が結成されて以降の日本のマスメディアは、社会主義的な思想をベースに、自分たちの役割を
と任じ、そうやって自らが牽引して作った「世論」にマッチした政治が政府によって実施されるかどうかを「監視」していました。したがって、政府がその世論に従わなければ反政府反権力的な言論を展開しましたが、政府が世論どおりに運営されれば権力と一体化して少数意見を封殺する言論展開を躊躇いませんでした。その尻尾がまだ残っているんだなあと、個人的にわりと感動したところです(褒めてません)。
アジェンダ設定のような能動的行為は「客観的観察者であること」を大きく損ねますから、それをジャーナリズムの重要な役割とすることには拒絶ないし躊躇があるのが当然でしょう。日本以外のすべての国で「政治的アジェンダを設定すること」への重要度認識が低いのはそのためです。
この「人々が意見を表明できるようにする」の原文は "Let people express their views” なので、「人々の意見を表明するツールとして自分たちのメディアを使わせる」というニュアンスも含まれます。世論を醸成し政策アジェンダ設定が重要と考えているくせに、いや、だからこそかもしれませんが、実際の「人々」の意見を汲み上げて報じることにはあまり重要性を感じていないわけです。120年前と同じように、「自分たちが良いと思う世論を作る」という意識なのだとすれば、そうでないさまざまな意見の表明はあまり好まないのも不思議ではありませんね。
「政治リーダーの監視と精査」 「時事問題の分析の提供」 「人々の政治的決定に必要な情報の提供」については、それらへの重要度認識が高いこと単体に違和感はないし、しっかり頑張っていただきたいものですが、「事実をありのままに伝える」「客観的観察者」などを差し置いてそれ以上に重要と感じていることには強い嫌悪を覚えます。
特に、「政策アジェンダを設定するのは自分たちの重要な仕事」とこれら3点がセットになっているのを見ると、吐き気すら催します。
全部に対応するのは無理ですが、いくつか類型化して主な反応にお答えしてみます。
はい。「お国柄はあるものの」と書いているとおり、この回答には各国それぞれのジャーナリズムの歴史がほんのりと現れていて興味深いものです。大雑把に言うと、
という感じでしょうか。
それでも日本を敢えて「異様」と書いている理由は、この調査で「事実をありのままに伝える」トップにならないことの異常性です。
この項目は、ジャーナリズムを体系的に学んだ者なら誰でも気づく、他の約20の項目とは完全に異質の質問です。他の項目は「お国柄が出ますね」で済むけれど、この項目だけは別格です。
いわば、「あなたはジャーナリストとして最も基本的な動作を正しく重要視していますか?」とほぼ同じ意味の項目です。
と問うような質問なのです。
「勝つことだけが重要ではない」「ほかにも大切なことがある」という選手はいるでしょうけれど、「勝つことの重要性はあまり高くない」と答える選手はかなり少ないでしょう。そう答える選手が1/3も存在するチームを応援する気にはならないし、スポンサーになる気にもトトを買う気にもならないですよね。ほかにどんなに重要と思うことがあったとしても、実際に勝てないとしても、プロスポーツ選手である以上は「勝つことは大切」と思っていて欲しいじゃないですか。
まともなジャーナリズム教育を受けた人であれば誰でも、「事実をありのままに伝えることはジャーナリズムがジャーナリズムであるための最も重要な要件」と学びます。
別の言い方で「ファクトとオピニオンを明確に区別せよ」とも言います。
たとえば、40年ほど前に私が専攻していたジャーナリズムの学科はジャーナリズム研究と並行してジャーナリスト実務者養成の要素が強く、1年間ずっと報道文の宿題を提出して「この表現は客観的でない」「ここはファクトにオピニオンが混じっているからオピニオンを削れ。さもなくば明確に分けろ」と重箱の隅をつつかれ再提出させられ続けるという地獄のような講義がありました。
そういった養成訓練を受けた人なら、あとからどんな思想的政治的干渉を受けたとしても「事実をありのままに伝えることはジャーナリストの最も重要な仕事」という考えが覆ることはまずありません。だから、中露ですらこの項目はトップになるのです。
「日本人にアンケートを答えさせると5段階の5をめったにつけないから・・・」という擁護も来ましたが、今回の表は4と5を合わせて集計したものですからその影響は小さく、現にたとえば「政治リーダーを監視精査する」は堂々90%を超えていますから、その考慮は必要ないでしょう。ていうかそもそも、仮にそうだったとしてもほとんど条件反射で「5」と回答して欲しい質問なわけですよこの項目は。日本のジャーナリストの1/3が、建前としてすらも「極めて重要/とても重要』と答えない。これは嘘吐きかどうかとはぜんぜん別の「恐怖」です。
そういう思いから、日本のジャーナリズムを「異様」と書きました。
それは情報の誤読です。「事実をありのままに伝える」を重要と思っている度合いの相対的に弱い人が35%いるというだけです。その人たちが日常的に嘘を書いているというわけでもないし、逆に、重要と思っている人が嘘を書かないというわけでもありません。
・・・まあそうは言っても、たとえば「自分が伝えたいことや自分の設定したいアジェンダにとって都合の悪い事実があったときの行動」は違うだろうと容易に想像できますから、信用問題ではありますね。
それは情報の誤読です。この調査は「あなたは事実をありのままに伝えていますか」ではないので、ご希望の数値はここには表示されません。
さきほどのプロスポーツ選手の喩えでいうと「勝つことが重要だ」と言いつつ練習もサボり試合にもボロ負けする選手ですね。「勝つことが重要だ」という建前すら言わないで練習をサボりボロ負けする選手よりはずっとマシだと、私は思います。まあ感じ方次第ですけど。
これは別のデータ等をもとに別に議論されるべきでしょう。もし感覚だけで言うなら、私はそうは感じていません。日本のジャーナリストには「ファクト」と「オピニオン」を厳密に分ける教育も訓練も不十分な人が多く、そのせいか、「ファクトのように読める部分にオピニオンが混じり込んでいる」というフェイクニュースではないけれどフェイクニュースよりもたちの悪い報道が多数見られます。
現状の「原因」としては大きいと思います。ただ、読者や視聴者と異なりジャーナリストはそれを職業とする人々であり、現状への「責任」を同列に語るのは適切でないと考えています。原因と責任は別物です。
ぜんぶ来ましたw どれも当たっていてどれも間違っているんだと思います。
これらの評価(罵倒)を言ってしまうのは、ご自分たちの考えと合致した世論を喚起し政策アジェンダを設定していく役割、もっとあからさまに言うと、ご自分たちにとって都合の良い機関紙としての役割をジャーナリズムに求めているからです。ジャーナリズムは本来そのようなものではありません。「事実をありのままに伝える」を重視して「客観的観察者」の実践を続け「政策アジェンダを設定する」から遠ざかっていけば、ジャーナリズムがそういう評価の対象になること自体がもっと減るだろうと考えています。
私もそう思います。世界の一般的なジャーナリストにとって「報道の自由度が低い」とは「事実をありのままに伝えることや自由な表現を阻まれる」を意味します。日本のジャーナリストは世界の一般的なジャーナリストと異なり、自分たちによる政治アジェンダ設定や世論形成を重要視している度合いが強いので、それを言いっぱなしにさせてくれず邪魔されたり反論されたりそのとおりに世論が形成されなかったりするのを「報道の自由度の低さ」と勘違いしていると思います。
これはいろんな考え方があるでしょうが、私は、「事実をありのままに伝える」というジャーナリズムというものの普遍的な存在意義にかかわる話は、法律等の要請やメディア運営指針に過ぎない「政治的中立性」と同列に語ることは全くできないと思っています。また、たとえば日本のマスメディアがよくやる両論併記は政治的中立性の名のもとに行われますが、科学的知見に基づくコンセンサスと大きく異なる異端論をいつまでもいつまでも書き続けるような形で現れることが少なくなく、「政治的中立性」はあまり褒められたものではないと思います。
https://twitter.com/mizloq/status/1594608637208850434
https://twitter.com/mizloq/status/1594554415045742592
WJSの調査をまとめ直しただけなのだけれど、こういう視覚化が珍しかったのか、たくさんの反応ありがとうございました。
https://pbs.twimg.com/media/FiEvYdVacAIZ4Rg?format=jpg&name=medium
あの表から読み取っていただけることはいくつもある中で、表を作ってTwitterに投稿した者として是非注目していただきたかった点は次のとおり。
この点はあとで少し詳しく書きます。
「いま国民的議論の対象とするべきものはこれだ」「次の政権はこの論点で選ぶべきだ」を提示するのがマスメディアのしごとだ、ということですよね。この項目が上位に来るのは、世界67カ国調査をざっと見たところ、日本と韓国だけです。韓国マスメディアについては詳しくないので触れませんが、日本のマスメディアについては、その発祥と発展の経緯がこれに大きく関わっていると思われます。
萬朝報が中心となって1901年に「理想団」が結成されて以降の日本のマスメディアは、社会主義的な思想をベースに、自分たちの役割を
と任じ、そうやって自らが牽引して作った「世論」にマッチした政治が政府によって実施されるかどうかを「監視」していました。したがって、政府がその世論に従わなければ反政府反権力的な言論を展開しましたが、政府が世論どおりに運営されれば権力と一体化して少数意見を封殺する言論展開を躊躇いませんでした。その尻尾がまだ残っているんだなあと、個人的にわりと感動したところです(褒めてません)。
アジェンダ設定のような能動的行為は「客観的観察者であること」を大きく損ねますから、それをジャーナリズムの重要な役割とすることには拒絶ないし躊躇があるのが当然でしょう。日本以外のすべての国で「政治的アジェンダを設定すること」への重要度認識が低いのはそのためです。
この「人々が意見を表明できるようにする」の原文は "Let people express their views” なので、「人々の意見を表明するツールとして自分たちのメディアを使わせる」というニュアンスも含まれます。世論を醸成し政策アジェンダ設定が重要と考えているくせに、いや、だからこそかもしれませんが、実際の「人々」の意見を汲み上げて報じることにはあまり重要性を感じていないわけです。120年前と同じように、「自分たちが良いと思う世論を作る」という意識なのだとすれば、そうでないさまざまな意見の表明はあまり好まないのも不思議ではありませんね。
「政治リーダーの監視と精査」 「時事問題の分析の提供」 「人々の政治的決定に必要な情報の提供」については、それらへの重要度認識が高いこと単体に違和感はないし、しっかり頑張っていただきたいものですが、「事実をありのままに伝える」「客観的観察者」などを差し置いてそれ以上に重要と感じていることには強い嫌悪を覚えます。
特に、「政策アジェンダを設定するのは自分たちの重要な仕事」とこれら3点がセットになっているのを見ると、吐き気すら催します。
全部に対応するのは無理ですが、いくつか類型化して主な反応にお答えしてみます。
はい。「お国柄はあるものの」と書いているとおり、この回答には各国それぞれのジャーナリズムの歴史がほんのりと現れていて興味深いものです。大雑把に言うと、
という感じでしょうか。
それでも日本を敢えて「異様」と書いている理由は、この調査で「事実をありのままに伝える」トップにならない』の異常性です。
この項目は、ジャーナリズムを体系的に学んだ者なら誰でも気づく、他の約20の項目とは完全に異質の質問です。他の項目は「お国柄が出ますね」で済むけれど、この項目だけは別格です。
いわば、「あなたはジャーナリストとして最も基本的な動作を正しく重要視していますか?」とほぼ同じ意味の項目です。
と問うような質問なのです。
「勝つことだけが重要ではない」「ほかにも大切なことがある」という選手はいるでしょうけれど、「勝つことの重要性はあまり高くない」と答える選手はかなり少ないでしょう。そう答える選手が1/3も存在するチームを応援する気にはならないし、スポンサーになる気にもトトを買う気にもならないですよね。ほかにどんなに重要と思うことがあったとしても、実際に勝てないとしても、プロスポーツ選手である以上は「勝つことは大切」と思っていて欲しいじゃないですか。
まともなジャーナリズム教育を受けた人であれば誰でも、「事実をありのままに伝えることはジャーナリズムがジャーナリズムであるための最も重要な要件」と学びます。
別の言い方で「ファクトとオピニオンを明確に区別せよ」とも言います。
たとえば、40年ほど前に私が専攻していたジャーナリズムの学科はジャーナリズム研究と並行してジャーナリスト実務者養成の要素が強く、1年間ずっと報道文の宿題を提出して「この表現は客観的でない」「ここはファクトにオピニオンが混じっているからオピニオンを削れ。さもなくば明確に分けろ」と重箱の隅をつつかれ再提出させられ続けるという地獄のような講義がありました。
そういった養成訓練を受けた人なら、あとからどんな思想的政治的干渉を受けたとしても「事実をありのままに伝えることはジャーナリストの最も重要な仕事」という考えが覆ることはまずありません。だから、中露ですらこの項目はトップになるのです。
「日本人にアンケートを答えさせると5段階の5をめったにつけないから・・・」という擁護も来ましたが、今回の表は4と5を合わせて集計したものですからその影響は小さく、現にたとえば「政治リーダーを監視精査する」は堂々90%を超えていますから、その考慮は必要ないでしょう。ていうかそもそも、仮にそうだったとしてもほとんど条件反射で「5」と回答して欲しい質問なわけですよこの項目は。日本のジャーナリストの1/3が、建前としてすらも「極めて重要/とても重要』と答えない。これは嘘吐きかどうかとはぜんぜん別の「恐怖」です。
そういう思いから、日本のジャーナリズムを「異様」と書きました。
それは情報の誤読です。「事実をありのままに伝える」を重要と思っている度合いの相対的に弱い人が35%いるというだけです。その人たちが日常的に嘘を書いているというわけでもないし、逆に、重要と思っている人が嘘を書かないというわけでもありません。
・・・まあそうは言っても、たとえば「自分が伝えたいことや自分の設定したいアジェンダにとって都合の悪い事実があったときの行動」は違うだろうと容易に想像できますから、信用問題ではありますね。
それは情報の誤読です。この調査は「あなたは事実をありのままに伝えていますか」ではないので、ご希望の数値はここには表示されません。
さきほどのプロスポーツ選手の喩えでいうと「勝つことが重要だ」と言いつつ練習もサボり試合にもボロ負けする選手ですね。「勝つことが重要だ」という建前すら言わないで練習をサボりボロ負けする選手よりはずっとマシだと、私は思います。まあ感じ方次第ですけど。
これは別のデータ等をもとに別に議論されるべきでしょう。もし感覚だけで言うなら、私はそうは感じていません。日本のジャーナリストには「ファクト」と「オピニオン」を厳密に分ける教育も訓練も不十分な人が多く、そのせいか、「ファクトのように読める部分にオピニオンが混じり込んでいる」というフェイクニュースではないけれどフェイクニュースよりもたちの悪い報道が多数見られます。
現状の「原因」としては大きいと思います。ただ、読者や視聴者と異なりジャーナリストはそれを職業とする人々であり、現状への「責任」を同列に語るのは適切でないと考えています。原因と責任は別物です。
ぜんぶ来ましたw どれも当たっていてどれも間違っているんだと思います。
これらの評価(罵倒)を言ってしまうのは、ご自分たちの考えと合致した世論を喚起し政策アジェンダを設定していく役割、もっとあからさまに言うと、ご自分たちにとって都合の良い機関紙としての役割をジャーナリズムに求めているからです。ジャーナリズムは本来そのようなものではありません。「事実をありのままに伝える」を重視して「客観的観察者」の実践を続け「政策アジェンダを設定する」から遠ざかっていけば、ジャーナリズムがそういう評価の対象になること自体がもっと減るだろうと考えています。
私もそう思います。世界の一般的なジャーナリストにとって「報道の自由度が低い」とは「事実をありのままに伝えることや自由な表現を阻まれる」を意味します。日本のジャーナリストは世界の一般的なジャーナリストと異なり、自分たちによる政治アジェンダ設定や世論形成を重要視している度合いが強いので、それを言いっぱなしにさせてくれず邪魔されたり反論されたりそのとおりに世論が形成されなかったりするのを「報道の自由度の低さ」と勘違いしていると思います。
これはいろんな考え方があるでしょうが、私は、「事実をありのままに伝える」というジャーナリズムというものの普遍的な存在意義にかかわる話は、法律等の要請やメディア運営指針に過ぎない「政治的中立性」と同列に語ることは全くできないと思っています。また、たとえば日本のマスメディアがよくやる両論併記は政治的中立性の名のもとに行われますが、科学的知見に基づくコンセンサスと大きく異なる異端論をいつまでもいつまでも書き続けるような形で現れることが少なくなく、「政治的中立性」はあまり褒められたものではないと思います。
多数派の専制でよく思うのがまさにこのコメ欄です。例えば料理チャンネルでレバーを扱う動画が上がるとコメ欄は
「美味しそう!」
「作ってみてすごく美味しいかったです!」
「家族に好評でした」
「久々に料理して5個も食べちゃったよ」
「寝る前のメシテロやめろ」
「わーいいなー」
「レバー美味しいし動画の通りにやれば臭みも抜けるし鉄分豊富だし安いし最高」
「いやいやレバーはビタミンA多すぎるから鉄分目的で食い過ぎたらかえって毒だぞ」
「苦手だけどこれなら食べれそう」
「すみません正直私には合いませんでした」
って感じになって、少数派はビタミンAに触れてる人と不味かった人。
それ以外のコメはほとんど動画を漠然と肯定してるだけで、その数に見合うほどの具体的で価値ある事を特に言ってない。
だったらコメ欄をまとめれば(そういう動画見る人はレバー=鉄分くらいの知識は誰でも持ってるものと考えれば)
「美味しそう(まだ作ってない人)」
「食べてみて不味かった人(作った否定派)」
「ビタミンAに注意」
の4つだけでいい、これで少数意見が目立てる。疑似意見はいちいちツリー立てて書かずに既に書かれてる所にいいねするだけでいい。
でもそのビタミンさんと不味かったさんは発言したくても肯定的なコメだらけの中で細かい事やネガティブな事言ったら
空気読めない奴みたいに思われるから勇気が必要になるし、書いたところで多数の疑似コメに埋もれて見つけて貰えない。
俺も少数派でいる事が多いので疑似コメ増やして他の少数意見を埋もれさせる加害者になりたくないので、
なるべく全てのコメを読んで既に言いたい事が書かれてればそこにいいねするだけにして同じ内容は書かないようにしてるし、コメツリーをいくつも立てません。
長文を書きはするけどツリーが一つだけなら読みたくない人はさっと飛ばせる。もしこの文をツリー10個に分けたら他人に迷惑がかかる。
でもこんな事考えて書いてるのたぶん俺くらい、どの言語の母語話者でもです。
日本の動画はどんなに人気のものでもコメは4桁だけど英語動画になると5桁がザラにある。
その5桁のコメも内容ごとに整理したらきっとせいぜい100通りくらいしかない。
500回くらい書かれてる意見は大勢の目につくけど3回しか書かれない意見は誰にも気づいてもらえない。
コメの多さが動画主の収入に繋がるなら疑似コメを増やす事は否定できないけどyoutubeにその仕組みは辞めてって言いたくなる。
でもyoutube以外のどんなサイトでもそこを効率化できていない。
みんな多数派に属していたい気持ちと、自分個人のオンリーワンそうな意見に耳を傾けて欲しい気持ちがある、
概説
二大政党制は通常、国家制度や政党制度としては複数政党制だが、二大政党が大半の集票・議席・影響力・政権担当実績などを保持している点で、多党制と対比される。しかし、どこからを二大政党制または多党制と呼ぶか、もしくは何をもって二大政党制に当てはまるとするかについては学者や時期や観点によっても異なり、明確な定義は存在しない。2大勢力が拮抗していることを条件とする考え[1]や、選挙での一時的な勝敗は度外視して10年以上などの長期間で2つの主要政党による政権交代が行われていることを条件とする考え[2]などがある。
二大政党制では政権交代が比較的容易だとされる。二大政党のいずれかによる単独政権になることが多く、多党制で多く見られる連立政権は、政党同士で長期的な連立協定や選挙協力を組んで一体化している場合(下記のオーストラリアなど)を除けば頻度は低く、二大政党がともに過半数を確保できなかった場合などに限られる。何らかの理由で二大政党を共に含んだ連立が組まれた場合は大連立や挙国一致内閣などと呼ばれる。なお多党制も政党間のイデオロギーの差異によって穏健な多党制と分極的多党制とに分けられる。
ジョヴァンニ・サルトーリの指摘では、二大政党制はイギリスや、イギリスから独立したアメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどのアングロサクソン諸国で多く見られる。
二大政党制の背景には、主要な二大政党以外からは大量当選が困難な選挙制度である小選挙区制や、国民のイデオロギーや支持層が「保守と革新」など2種類または2方向に大別できること、更に両政党が比較的穏健かつ民主的であり現実的な政権交代を相互に許容できること、などが挙げられる。
二大政党制の利点には、二大政党による政策論争が国民にわかりやすく、二大政党への参加や支持が容易で、現実的な政権交代が容易なため国民に実質的な選択の余地があり、長期政権に発生しがちな腐敗防止や、政権獲得時に国民の支持を背景にした大胆な政策転換を行いやすいこと、などが挙げられる。また、中間層の有権者の支持を得る為に二つの政党の政策が似たものとなる傾向があり、少数派の意見をくみ取る政党がなくなるという問題があるが、ジョヴァンニ・サルトーリの主張ではイデオロギーの差異が小さいことは良い政治であり、この点を利点とする立場もある。
二大政党制の欠点には、二大政党の思想や政策が離れている場合にはイデオロギー的あるいは感情的な対立になりやすく、政権交代の発生時には大幅な政策変更により政治の不安定化を招く場合があること、逆に二大政党の思想や政策が接近している場合には国民に選択の余地が狭く多様な意見や思想を反映しにくいこと、同じ政党・政策・支持勢力などが長期間存続しがちなため政党内の新陳代謝や政策転換が進みにくいこと、特に二大政党間で談合や汚職などが常態化した場合には致命的な政治不信を引き起こしやすいこと、あるいは二大政党制へ誘導するための小選挙区制では大量の死票が発生すること、などが挙げられる。アーレンド・レイプハルトの合意形成型民主主義の考え方に立てば、二大政党制を基盤とする多数決型民主主義においては多党制を基盤とする合意形成型民主主義より、少数意見の代表性が相対的に低いとされる[3]。
そういうちゃんとした理由のない校則って今メチャクチャ批判されてますよね。
私もそういうつまらない校則とか学校のルールはどんどん無くしたらよいかと思うんですけど、
「通学時は制服を着る」っていうところに疑問持つ人全くいないのよね。
「そもそも制服を強制されているのはおかしい」っていう風にはならない。
これって何でです??
先回りして、ある程度回答の予想を書いとくと
「風紀のため」ってやつね。
アメリカの学校とかでは制服を導入したら、非行に走る生徒が有意に減って学校や周辺地域の治安が
実際良くなったりするらしく、制服導入の強い意義になるのよね。
でも「風紀のため」が理由として認められると、
それってつまり「見た目や格好が本人の規律や全体の雰囲気に影響する」っていうことを認めているということだから、
「ポニーテールはうなじが性的だからダメ」みたいなアホ校則もあるけど、
「風紀を乱す私服」と「制服」の間の服装に具体のボーダーラインって引けないのよね。
そうすると多数意見か少数意見かのグラデーションはあれど「ポニーテールはダメ」にも合理性が出てくるのよ。
そういこと考えてると、
結局、生徒側が好き好んでor少なくても拒絶 してないからだけが理由であって、
校則の良し悪しが判断されてるのって結局単なる生徒側の「主観的な」好悪だけなんじゃないのと思ったわけです。
どう??
https://twitter.com/YoichiTakahashi/status/1391207118502383621
https://twitter.com/rikakoikee/status/1390638021943316482
これ見てると、個人の感想の羅列しかなくて、個人の感情の延長戦上に果たして理想的な政治はあるんだろうかと思ってしまう。
アスリート目線で言えば、オリンピック開催して欲しいに決まってるけど、参加したいなじゃなくてオリンピック開催して欲しいなって高橋洋一みたいに呟いたら矢のような非難がくるわけでしょ。
まぁ高橋洋一が笑笑とかつけたのは馬鹿としか言いようがないけどさ。
理性的な人は、池江さんみたいな個人にオリンピックの開催是非を問うたり辞退の要請をするべきではないっていうけどさ。
じゃ、高橋洋一ならいいわけ?って思うのよ。いや、内閣官房参与という立場だから、というのはわかるんだけどさ。
それで、人の死に敏感な人を慮って内閣官房参与はオリンピック開催を推進するべきではない、というのならば、アスリートのためにオリンピックを開催しようとする政治家はどうすればいいわけ。
少数意見だから無視なのかしらん。人の死を軽んじるな!だったらお前が死ね!くらいまで言われてもアスリートのためにオリンピックを開催しようとするのは自由だから、そういう主張をするならば、死ねと言われても仕方がないってことになるのかな。
そんで「コメントが羅列されている」だけにすぎないのに、あたかも世論がそこにあるかのような話がされているのとかが気持ち悪くて仕方ない。