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2022-03-19

40マイル

https://twitter.com/tomiahonen/status/1502588098777079808

このへん英語までさかのぼって読んだけど結局どういうことなのか謎だった

・なぜかキエフまであとちょっとのとこにきてる補給トラック(積み荷は重い弾薬系メイン)が2週間60キロにわたって列をなして路上駐車したまま。2週間自主ひきもりはさすがに退屈なのか道からそれてそのへんの民家にこんにちわしてる民間トラックドライバーもいるらしい。で、キエフ周辺のロシア軍、弾無し状態らしい。

←なんですすまないの? 前後にけっこう戦車いるんでしょ? やっぱロシア軍徴発された民間トラックドライバー反抗的なの?戦場にいくとこまでは俺の仕事じゃねえよって? たんなるよくある共産的怠慢? まあ犬5匹で羊100頭ってうごかすことはできても人で人動かすのは無理なんかね…

 

・なぜかウクライナ側はそっちからなら必ず通るってわかりきった一本きりの国道(意訳)を待ち伏せ攻撃もしてないらしい。←一時的に橋でも落としたのかとおもったけどそういうこともないらしい。まあ人道的にはそうなんだろうし、そもそもウクライナの所有する大事国道なんだろうな。大事交通路自分から壊してしまうほどおいつめられてもないし。

 

・なぜこれでほぼ負け確なのにますます悪行詰んでるのプーチンさん…←やぶれかぶれなんかね?

 

別途

プーチン中国レーション売ってくれってもちかけてるらしいけど補給路あるの?

2020-11-28

北海道更別村歴史

anond:20201128171308

北海道更別村という自治体がある。

で、「元更別」という地名があるんだが、実は現在は「元更別」は更別村にはない。

更別村北側にある中札内村という自治体に「元更別」はある。

開拓の昔、現在の中札内と更別は同じ幸震村(大正時代には大正村)という自治体に属していた。

大正村にあった市街地から次第に開拓が進んでいったわけだが、当時は中札内と更別には村の境界はもちろんなかった。

大正時代第一次大戦好景気に湧くころ、島根県から移民団更別村語源になったサッチャルベツ川水系開拓を始めた。

昭和4年にこの地域鉄道ができると、現在の更別市街が発展し新市街誕生した。

そして、もともと開拓団が入植して市街地があった旧市街が「元更別」と呼ばれ、次第に「元更別」市街は寂れていった。

昭和22年大正から札内と更別が分村した時、「元更別」は中札内所属するようになった。

こうした歴史的経緯をみるとき「元」という言葉は非常に輻輳するニュアンスを持つと感ずる。

増田がいうような「もともと何かだったもの」というニュアンスももちろんあるんだが、元ちとせの「元」を「はじめ」と読むことが示すように、物事の源をさし示すことがあるだろう。

おそらく「元」という言葉ニュアンスシークバーみたいに切り替えることができる。

源に近いところから、変わってしまったその先を想像させうる。「元」は言語としてそんな守備範囲を持っているような気がする。


今は「元更別」の地名を訪ねる人は少なくなった。

現在では鉄道に近い形で高規格道路が走っており、自動車十勝南部を通ろうとすると元更別は通過しない。

しかしかつては、中札内村札内〜元更別〜大樹町尾田へ抜けるルートこそが主要交通路であった。

開拓団もそうした経路に沿って第二の故郷となるよう汗を流した。

旧道にはいまでもいくつか小さな集落があり、歴史を確かに伝えている。

2017-03-03

旅行至上主義者だった。

・移動時間が長くてすごく疲れる

18切符の旅が好きで毎年やってたこともあるが今は疲れるし昔ほどあれじゃ回れないしもうできないかもなあ。若いうちは楽しい飛行機は乗れなくはないが正直3時間限界から海外は行ったことがない。

観光ガイド確認作業をするだけでなにも面白くない

ここに行くと決めるだけであと何するかはそこで決めるので旅行ガイドは見たことがない。そういう無駄旅が好きだ(今はほとんど旅行しないから好きだったかもしれない)。ただ無駄が多すぎるので9割以上の人にはお勧めできない。

お金がめちゃめちゃかかる

今思うとまったくその通りで否定のしようがない。安く上げる方法検討するのはあっても結局行かないのが一番安い。

まあ、私が旅行しなくなったのは金ではなく、昔楽しみにしてはるばる遠征した温泉中国人団体客とぶち当たり温泉汚いわうるさいわで嫌になってしまった、あと富士山に行ったときに人しかいなかったのに呆然としてもういいかな…と思ったのが理由ではある。

後者10年以上前富士山に行きその時は閑散とした登山道たまたま気のあった陽気なアメリカ人の人とわいわいしながら登ってたのと比較からまりの落差に呆然とした。登山ブーム発生自体は知ってたけどあれほどとは…ね。

人込み見たかったらわざわざ観光地じゃなくても別に東京で構わない。せっかくそういうとこに行くなら多少閑散とした雰囲気があってほしい。わがままなもんだと自分でも思うけど、私が旅行至上主義者だったころの観光地はそうだった。京都でも人は多いがもう少しゆったり散策してられるだけの余裕が昔はあった。今は宿もないが。

そういうのに取り残された崩壊寸前の地も多数あることは知ってるけど、そっちは今度は交通路がない。閑散を通り越した虚無に近い何かだ。鉄道切れて一日たってもたどり着けないとか。思い立って行ったら数年前にあった土産屋が軒並みなくなってたとか…。考えるのもわびしくなる。

金の問題は止めたあと気づいた。もともと金に困ってはいなかったがしばらく旅行をやめていたら貯金が倍貯まっていた。使い道は老後の備えくらいだろうが…。

こんなんだから私も旅行先を毎回聞かれて答えに窮する者の一人だ。困ってはいる。

私の場合数年前私が筋金入りの旅行絶対主義者だったのを周りが皆知っており、今も旅行絶対主義者だろうと思って休みになるたびにどこに行くのと聞いてくるから問題がでかい(苦笑)。

いやもう旅行行かないんですよとも言えない。

キトーに思いついた名所に行くよとお茶を濁して実は全く行っていないことが多々ある。

2014-07-08

会社の外部講演者による話を聞いていたときに思いついたこと。

身近にあるものが無くなる未来想像してみよう、それがイノベーションだ、

って話の文脈で、信号機が無くなる未来ってなんだろうか?と

演者が投げかけた質問に、「自動車が完全自動化」とか絶対嫌だと思って必死に考えた妄想

……徐々に信号'機'は廃止されていく。

その理由として、遺伝子操作された街路樹通称クリスマスツリーの普及と

the Internet of Biologyの技術実用化、人口減少による社会インフラコストの削減があげられる。

二十世紀に、南部博士により発見された蛍光遺伝子

バイオインフォマティクス興隆遺伝子操作技術熟達により

あらゆる生物に組み込まれることになる。

その中の一つ、最も早く作成された蛍光樹は単に観賞用にとどまらず、

かつて化石燃料を消費することで点灯した照明の代替として、あらゆるところで普及することになった。

街灯用街路樹としても使われていた蛍光樹だが、信号樹として使用されるまでは、依然長い道のりと解決すべき複数問題があった。

その一つ、蛍光樹を信号樹として導入しようと検討を始めた当初より課題に挙げられていたのが複数本の同期制御である

植樹された周囲の自動感圧機能を持たせた蛍光樹は、人通りの少ないところや道が交差しない特殊な条件下では

その任を十分に役に立てたものの、依然通行量の多い都市外郭の主脈交通路などでは

中央制御方式による信号機制御を行っており、外部制御しづらい蛍光樹による代替化は長らく行われていなかった。

ところが、ある技術革新により状況は打開されることになる。

The Internet of Biology(IoB)である

狭義では、有機的結合による相互情報交換の技術コアと関連特許群を、

広義では、21世紀初頭に流行したThe Internet of Things(IoT)を生物で再定義した概念を指す。

前述のIoT時代より概念上はその派生として普及の可能性が予測されていたものの、

エジソンの再来とも言われるとあるGE所属研究者に端を発する技術革新連鎖により半世紀を経て日の目を見た技術である

蛍光樹の登場から、IoBの実用化に至るまでは三十年の月日を要したが、

IoBの実用から信号樹に応用されるまでは二年とかかっていない。

当初は信号機制御していた既存インフラ蛍光樹の情報結合による信号機の単なる代替だったものの、

環境問題の深刻化によりアスファルトの非舗装化及び緑化が進行した際にその一部に情報通信路の機能が組み込まれたことから

やがては蛍光樹と蛍光樹とを舗草により情報共有させる完全な有機的ネットワークとして、有輪用車両交通網は完成するに至る。

当時の遺伝子操作技術への過信と熱狂は、やがて緑の党Big Biotherの台頭を許すことになり、

彼らにより作り出された、長い夕凪時代において蛍光樹は原初の道を留めたまま、そこで輝き続けるのであった。

ヨコハマ買い出し紀行大好き。

後、筒井康隆人柱の話も思い出したり。

シンフォニアグリーンの筆者さん、戻ってきて(ノД`)...

 
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