はてなキーワード: ストレートとは
例として挙げると
「文系女子」「文系お姉さん」「文系痴女」「文系淫テリ女子大生」とバリエーションは様々。
旧DMM(現FANZA)ビデオを「文系」で検索すると86タイトルが出てくるが、このうち41作が2018年以降に配信されたものである。さらに今年2019年に絞れば19作が発表されている。たった3ヶ月で22%を占める量が配信されていることになる。これは「文系女子」ブームといっていいのではないか。
AVにおける「文系」とは単純に文系理系の「文系」という意味だけではなく、他に
去年から今年にかけての作品パッケージを眺めると、主演女優が本を持っている写真が多く、今回は「文学好き女子」という意味での「文系女子」ブームだとわかる。
もう一つのパッケージからわかることはメガネと髪型。今年発表の19作中11作品がメガネ着用している。髪型はストレートのロングの黒に近い色が多い。制作陣にとっては、「文系(文学好き)女子=黒髪メガネ女子」というイメージなのか。
内容にも特徴がある。ジャンルが痴女、お姉さんものばかりということだ。今年の作品では痴漢ものは一つだけ。陵辱ものなどは一切ない。AVを見てると「文系女子はエロい」というイメージが刷り込まれる。
これだけ「文系」タイトルが制作されているということは、それだけ売れているからだろうが、この「文系女子」ヒットの理由が知りたい。
サンフランシスコンに10数年住んでたんですが、当方はストレートです。SFではゲイカップルと一軒家をシェアしてて3人で住んでました。週末はしょっちゅうパーティしてたのが懐かしい。
住み始めた1996年頃はシェアしてたゲイカップルの片方がエイズだと知りおどろき、そいつが台所のシンクで歯ブラシすることに嫌悪したりしてたけど、エイズとHIVの理解が深まりました。当時は現地でも無知からのエイズの職場差別とかはゲイに理解のあるSFでもありましたよ。そんな時にエイズの彼と別れた同居人が遊びまわってHIVになりました。当時は大変きついお薬で大変だった模様。そんな彼も今でも元気に働いています。
10年程前に帰国して今度は日本がLGBTって名前で声高々に都市部では勢いがある模様。とても結構です。ただし一般のストレート民がLGBTをお洒落なワードとして鵜呑み、感化されていくのがとても心配だなと…。 エロのパワーでITコンテンツや産業が発展したと思ってる我としては誤解して感化されることの内容に理解の成熟を願ってやまないですね。 エロコンテンツが日常アメリカよりも目にする事が多い日本ではエロに慣れてるのでハードルが低い(貞操観念が低いとは思いたくないけど)のでこのままオシャンだから流れに乗ってバイセクシャルになりましたーとかにはなってほしくないのですよ。
地味でモサくておとなしそうな女にまともな男なんて寄ってこない。
濃いめのルージュを引け、アイラインを引け、でなきゃ赤でも青でも緑でも黄色でも
おしゃれは色気づくんじゃない、
スク水着ててもシスターでもブルカかぶってても欲情されるんだから意味ない
まともな男はそんなやつは外見はともかく中身までそんなやつは
つまらないと知っている。
どうせ男が妄想するような清楚でもない意志もわがままもある生身の人間なのだから人形のフリをする必要はない。
女だってあたしは男を選ぶよ、って主張していいんだ。
それははしたないことなんかじゃない。
高校もそれなりの進学校に行き、大学にもストレートで合格した。私立文系では一番いいところに行けた。
でも、その先が僕には見えてなかった。
大学はバイトもサークルもそれなりにはしていたはずだったが、思い返してみると思い出などほとんどなかった。
そして、いよいよ就活解禁まで1週間になった。
何がやりたいのかわからなくなってしまい迷走した挙句、公務員試験を目指してはいる。
しかし、全く集中できず、勉強が手につかない。説明会の申込みも忘れてしまっていた。
なぜ、こんなにもうまくいかないんだろう。大学受験までは全てうまくいっていたはずだった。
どこで失敗したんだろう。どこで歯車が狂ったんだろう。戻れるなら高校1年生の春に戻りたい。そして、勉強だけが全てじゃなかったと自分に伝えたい。
乱文失礼しました。
LGBTQがそこらへんにいる社会になったら、無垢な子どもたちがLGBTQになってしまう〜的な保守層の心配?差別?に対し「いいえLGBTQはなるものではなく、生まれつきそうなのです」みたいに反論するのがセオリーだ
これがなんかこう、モヤっとするというかねえ。自分は生物学的に男性として生まれ男性として30年くらい疑問なく生きてきた。おそらく、LGBTQコミュニティの言葉を借りれば、俺はシスのストレートなのだろう。
でもLGBTQという考え方とか社会の潮流を見て、「男性を愛してみるのもいいなあ、女性になってみるのもいいなあ」と考えはじめてるんだよね。自分に違和感があって深刻にそう思う感じじゃなくて、今の自分のまま選択肢が増えた感じ。
こういう考え方は、あんたは生まれつきのゲイでもバイでもないし、トランスジェンダーでもないのに!って反感を買ってしまうのかなあと、「LGBTQはなるものではなく、生まれつきのものだ!」という強い主張を前に思ってしまう。俺にとって選択肢が広がったのは一体、じゃあ何なの?っていうかさあ。影響されてLGBTQになっちゃいかんのか?っていうさあ
デビュー作以来、鳴かず飛ばずで、うだつのあがらない脚本家・竹田雲太。
ある日、そんな彼の元に大きな仕事が舞い込んで来る。
だが、その作品はテレビアニメの放送後、何かとトラブル続きな作品の劇場版だった。しかも依頼してきたのは竹田の宿敵とも言える制作会社の極悪プロデューサー。何かあるとは察しつつも、生活のため背に腹はかえられず引き受けることにした竹田。
そんな彼のところに「お兄ちゃんが貸したお金を返せ」という少女が押しかけてくる。彼女は、かつて竹田の相棒だった男の妹である佐江だった。
ただでさえ曰わく付きの作品の脚本を書くことになって大変なのに、騒がしい佐江がやってきてパニックになる竹田。
しかも佐江は、竹田の言う業界で生き残るために必要な「大人の事情」などお構いなしに、視聴者側のストレートな正論でことごとく竹田を論破する。
仕事では振りまわされ、家に帰れば佐江に振りまわされーー。
だが竹田は、佐江のそんな理想論に振りまわされていくうちに、かつて相棒と共に戦っていた頃の情熱を取り戻していく。
厳しい現実に押し潰されながらも夢物語を書き続ける男の、再起と情熱の物語、開幕!!
『ゾンビランドサガ』『けものフレンズ2』のますもとたくや氏がおくる、お仕事ラノベです。
まず定量化できないものだから簡単に比較できないし、私はこの言葉が嫌い。
私は子供のころ、ピアノとクラシックバレエと乗馬、フルートと書道を習っていた。
教育熱心な親だ。
ピアノは大嫌いだった。先生が異常に厳しいのだ。最初はみんなでおなじ曲を弾いていたけど、私が少し弾けるようになると、先生は母親を呼び出して、個人レッスンを勧めた。
私が褒められたと感じた母は、嬉しそうにそれを快諾した。
最初は楽しかったピアノがどんどん苦痛になってきた。家での練習もさぼり気味になり、そうするとレッスンにどんどん行けなくなる。
運指、とか、フットペダルをどう踏むかとか、スラーがどうとか、楽典がどうとか(まあ、楽典は面白かったけど)、そういうのが私は本当に苦手だった。聴いた音楽をなんとなく弾くことは人より得意だったけど、それだけ。
「どうしてちゃんとやらないの?」と先生に何度も聞かれた。そのたびに答えられなかった。
「才能があるかもしれないのに!」と先生は言った。それを聞いた母も同じようなことを言った。
私には姉がいて、同じ習いごとをしていたが、確かに姉に比べると少しだけ私の方がなにごとも得意だった。
でも、それは才能があるということとは関係ないと、子供ながらに思っていた。
姉は、ひたむきに努力できる人だった。思い通りに弾けない時、怒った母が「もうやめなさい!こんなこと!」と言ってピアノ教本を窓から放り投げた時も、
庭から泥だらけになった教本を拾ってきて、泣きながら「ママ、私頑張るから、やらせてください」と言っていた。
これが才能でなくてなんだというのだろうか。私は姉がうらやましかった。
捨てられても、泣いても、縋りつけるくらい執着の持てることが私にはなかったから。
クラシックバレエ。これは結構好きだった。ピアノは生演奏で、ジュニアクラスの先生は優しくて、バレエの日は姉と一緒に髪をお団子にして手をつないでバスに乗った。
小学校高学年になり、そろそろ中学受験のためにバレエを辞めるという話をしたとき、先生が母に意外なことを言った。
「この子はバレエに向いています。辞めさせるのは勿体ないです」
そんなこと、先生からも一度も聞いたことがなかった。母は少し悩んでいるようだった。
中学受験とバレエの両立は、できなくもなかった。ただ、バレエというのはなかなか厄介なもので、休むと取り戻すのがすごーく大変なのだ。
「あんたがやりたいなら、両方やってみなさい」と母は言った。
もう暗くなったバレエスタジオで、いつもニコニコの先生が真面目な目で私を見ていた。
やれない、と私は家に帰ってから母に伝えた。
「そうよね、あんたに才能があるとは思えないし。それに努力もできないでしょ」と母は言った。
その時すでにピアノ教室を不登校気味になっていた私に、その言葉はストレートにぐさっときた。
乗馬は、私が最も才能がある習い事だったと思うし、私がいちばん好きな習い事でもあった。もともと動物が好きで、通うのが楽しみで仕方なかった。
早く上のクラスに行きたくて、先生の言うことを真面目に聞いて、雨の日も、寒い日も通っていた。
大した怪我ではなかったけど、それを機に兄弟全員が乗馬クラブを辞めさせられた。
私は泣いて泣いて懇願した。こんなに何かをお願いしたことはないんじゃないかというくらい。
私は馬から落ちたりしないから、落ちても怪我しないから、怪我しても勉強はするから、と、土下座もしたけど、「危ないから」の一言で全部なしになってしまった。
まあ、仕方ない。決めるのは親だ。
さて、長々と書いたのには理由がある。
相変わらずやりたいことも見つからず、器用貧乏な私に、ちょっとしたチャンスが舞い込んできた。
「とってもやりたい!」というほどのことではない。
「へえ、できたら楽しそうだな」くらいの感覚だが、興味はあった。
その話を持ち掛けてくれたのは、綺麗な女の人で、もともとその業界にいた人だった。
淡々と話を聞く私を、その人はじっと見ていた。
「やりたいってことでいいの?」、と聞かれ、
「そうですね、やってみたいです」と私は答えた。
その女の人はため息をついた。怒っているんだなと思った。
「あのね、やってみたいとかじゃないの。本当にやりたいのかどうかを聞いてるの」
出た、と私は思った。久々だなこの感じ。
「私はね、あなたが本気でやりたいと思うなら応援するし、なれると思う。才能があると思うから」と、その人は言って、すごく綺麗な目で私をじっと見ていた。
「でもね、才能だけじゃダメなの。努力しないと。本人がやる気ないのにお膳立てはできないの。」
「それはわかります」
「全然わかってない。この仕事はね、やりたいっていう人がたくさんたくさんいるの。努力して努力して、ほんの一握りの人が成功するのよ。今みたいにノホホンとしたまんまじゃダメなの。頑張れるでしょ?本当にやりたいのなら」
そこではい!と即答できるほど私はできた人間ではない。好きな映画である「花とアリス」をなんとなく思い浮かべながら、曖昧な笑みを浮かべて、ひたすらこの「努力と才能の嵐」が過ぎ去るのを待った。
結局、私がどうしたいのかは自分で決めなければいけない、と言われた。
私は迷っている。なんで才能があると思われたのかも正直わからないし、そんなにすぐやりたいと思えるようになる自信もない。
普通に大学を卒業して、就職するんだろうなと思っていたが、就職したくないなら、そっちの道に行くのもいいだろう。
でもきっとその世界では、みんながああいう目をしているんだろうな。
やりたくて選んだ道なんだからって、すぐ言われるんだろうな。
努力家の姉は、夢を叶え、ものすごく狭き門をくぐりぬけ、やりたい仕事をしている。
ピアノはたまに弾く。お遊びのようなものだけど、好きな曲を弾いていると落ち着く。
バレエは、大学に入ってから再開した。もちろん本格的にではないけど、姿勢がいいと褒められることはある。
やってきたことはたぶん無駄ではなかったけど、でも結局、努力する才能は得られなかった。
私はきっとあの綺麗な女の人に、「できません」と言うだろう。
私は甘ったれた子供だから、すぐに弱音を吐いてしまうし、それを許してほしいと思ってしまうのだ。
才能があるとかないとか、そういうのはたぶん他人が決めることではない。
本人がそう思えない限り、才能は「ない」のだ。
甘えと言われても、何と言われても、あんなこわい目に晒されて生きていくことは、私にはできない。
先日の増田をはじめ「自分の機嫌を自分で取る」という言葉がバズるのを最近良く見かけるけど、正直危ないなあと思う。
突き詰めたら、人間がロボットのように無機質に振る舞うことを良しとする世界が来そうだから。
そもそも人間は普通に気分の波がある。そうじゃない人は多分いない。
それで、腹の虫が悪い時に癇に障ること言うやつとか、モタモタ対応するやつとか、怒られて当然じゃん?
つまり人として当然の反応なわけだが、冒頭の慣用句が支持される程度に、そういう人間らしい自然さが否定されるとかヤバくない?
「怒るのはいい、でも言葉を選べ」とも言われるけどさ、怒りや悲しみでキレてる人間に言葉選ばせる?それすげー酷くね?
怒ったり悲しんだりするほどナメた対応された人に、冷静な対応とか言って更にストレスかけさせるのかよ。
人非人のやることだよなそれ。
そうやってストレートな喜怒哀楽を否定するどころか、「バカあるある」みたいに茶化すやつとか、「お前の怒りなんか知るか」と切って捨てるやつとか、本気で言ってるなら人の血が通ってんのか?って疑いたくなるよ。
パワハラとか、アンガーマネージメントとか、心理的安全性とか、口の減らない生意気なやつを甘やかして調子づかせる最低なムーブメントだよマジで。
そしてどんどん世の中が窮屈になってゆく。
そういう人の気持ちを軽視する風潮、やめませんか?
こんなことは普通に働いていれば常識的にわかることだ。もちろん常識に縛られないタイプのトンデモ経営者もいるが、前沢氏がさすがにこんなことはしないことくらいわかるだろう。ブコメで指摘されていた「8割がた食事会のフランクな場に彼女もきた」というのがギリギリ考えられる線なのでは。
Pgm48p 面接を行う会社には、応募者のプライバシーに配慮し保護する責務がある。面接の場に部外者を招き入れるのは保護義務違反。普通に労働局から注意を受ける
http://b.hatena.ne.jp/entry/4664588532088062305/comment/Pgm48p
ZOZO、新潮記事に「法的措置も含めた対応」 「剛力彩芽、面接官」報道で
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190215-00000003-jct-ent
許斐先生がTwitter始めてから盲信して崇めてる人ばっかりになってつまらないよね。
「昔はみんなたしけ(笑)って言ってたのに最近はそういうの言えない。昔のTwitterは楽しかった」
「たしけ()」呼びとか空耳テニミュとか、楽しみたい人は楽しめば良いよ。
馬鹿にするような呼び方や違法アップロードして笑いものにするのは正直不快だったけど、それも先生が拒んでないなら良いよ。
好きにすればいい。
でもその「おふざけ」を私たちにまで強要しないでくれ。私たちにまでたしけ()呼びを強要しないでくれ。
去年のサマバレやディナーや、最近だとカップヌードル関連のこととか、先生の言動を不審に思うこともあるだろう。
先生のファンである私でも「そこはちょっと別の言い方した方が良かったんじゃないかな」と思うことは時々ある。
私たちは今までテニスの王子様にたくさんのものを貰った。色んなハッピーを貰ってる。
99のハッピーを貰っておいて、1過失があったら「こんなことをするコンテンツは信頼ならない。もう嫌い。でも今まで関わった時間がもったいなくて腹立たしいから黙って離れたりなんかしないで叩いてアンチ活動する」っておかしいよ。
そこは「今までありがとう。ばいばい」か「そこは訂正した方がいいよ!」となって欲しい。
たしけ()呼びも空耳も好きにすればいいし、先生批判も作品批判も好きにすればいい。
でもずっと黙って我慢してた私たちが「実はたしけ呼びも空耳も嫌いなんだ」って呟くことくらい許して欲しい。
「昔はみんな楽しくたしけ()って呼んでたのに」じゃなくて「ふざけた愛称でもそこに何がしかの愛があるのは分かっていたから黙って我慢していた人が我慢せずに済むようになった」だけなんだよ。あなたの楽しさは誰かの我慢の上に成り立っていたものなんだってことわかって欲しい。
極端な例えになってしまうけど、18歳まで優しく厳しく健康的に育ててくれた親が18歳の誕生日に「選挙権持てたね!じゃあ次の選挙山田さんに投票して!お父さんが世話になってるから!」と言った時に『選挙法違反だ。こんな親に育てられて恥ずかしい。こんな親嫌いだ。こんな親とは二度と連絡を取らないし、選管に通報してSNSで晒して他の知り合いにも教えて社会的にバッシングして孤立させよう』って発想にならないと思う。
悪いところは注意しようor考え方が合わないからちょっと距離をおこうorそこは賛同できないけどこれまで受けた恩は返す。というあたりが妥当でしょ。
2~3年の通り過ぎて消えていくコンテンツじゃないんだよ。約20年お世話になり、またこれからも続いて欲しいコンテンツの生みの親なんだよ。
貶し愛みたいな愛があるの分かるよ。私はそれをしたいとは思わないけど、そういう身内ノリ的なものが楽しいことは理解出来る。
ただ、貶し愛がストレートなファン心理より上だとは思わないで欲しい。もちろんストレートなファン心理が貶し愛より上ってこともない。ただ愛の表現方法が違うだけだ。
「たしけ()って呼ぶ人がいなくなって窮屈」「駄目なことをしても擁護意見ばっかりで反吐が出る」
そう思うのは自由だけど、どうして呼ばないのか、どうして擁護意見が多いように見えるのか考えて欲しい。
もちろん盲目的に許斐先生を盲信して先生がおっしゃることは100%正しい!とか言う人もいる。そういう人はどうかと私も思ってるよ。
でも、ただ「貶し愛が得意ではない」「悪いことは悪い。毎日美味しいご飯を作ってもらってるのに味噌汁の味が1回濃かったくらいでちゃぶ台ひっくり返すみたいな恩知らずなことをしたくない」という人の方がずっと多いと思う(私の周囲の体感でしかないけど)
今日の味噌汁は味が濃いね。次から気を付けてね(指摘)とか、お湯少し足していい?(サポート)とか、味噌汁作るの苦手ならインスタントも美味しいよ(作品外のことは編集その他に任せる提案)とか、そういう当たり前の意見が突飛な熱烈信者やアンチに押されて見えなくなってしまっている。
要は
(1):たしけ()呼びが許されなくなったわけじゃない。我慢していた人たちが嫌だと言える世界になっただけ。呼びたければ呼べばいい。これ以上こちらに我慢を強いないでくれれば良い。
(2):20年も世話になってるコンテンツには多大な恩がある。一緒になって叩かない人を全て一律に『盲信的な擁護』と思わないで欲しい。間違いに対する対処は指摘や叱咤、解決策提案、今後の動向見守り等が妥当だと考えているだけ。
ということが言いたかった。
「ミスしたら批判だけでなく叩きも甘んじて受けなければならない」
そういう考え方ももちろんあるだろう。
そうじゃない考え方もあること、知って貰えたらいいな(と思って書いたけどこれをその人たちが見ることはなさそうだなぁ。まあ、テニプリに限らずどのコンテンツでも言えることだと思うので目に止まった誰かの思考材料になれば幸い)