はてなキーワード: うごとは
昨日発表サイトができたというのでアクセスしてアカウントを入れ、動画見ると「おめでとうございます!」となった。
え?ほんとうに?と思ってびっくりした。
しかし、サイトの品質というかバグがあり不安定なようなので、信用できない。ぬか喜びはしたくないし。
でもまあ正直、100万円は大金だしもし本当にもらえたら嬉しい。
しかし3,000万くらいなら人生に影響あるけど100万円なんてちょっとした臨時収入レベル。人生は変わらない。2週間位楽しめるくらいだろうか。
もう2年以上使っているくたびれたスマホを新しくしようか。iPhone11を自分と妻のぶんを買えばもう残りは70万だ。
あぶく銭だしと高い店で美味しいもの食べて、温泉旅行でもすれば残りは50万だ。
フライパンで先にパンをトーストし、そこに切ったアボカドを乗せ、マヨネーズをかける
次にパンを皿に移し、温まったフライパンでベーコンエッグを作る
普段、目玉焼きは半熟かつ醤油派だけど、今日は食べやすさを優先してサニーサイドダウンだ
美味しゅうございました
洗い物はまた今度
サークル参加ではなく、一般参加だけどイベントに行ってきた。数年ぶりである。
到着してまず会場の空気感でも気分は高揚しだしていたけれど、下調べもせずに来たからまずはパンフレットでどんなサークルがあるかを見た。それにまたテンションが上がった。
その中でも行きたいサークルが数サークルあって、なんだかとてつもなく言いようのないドキドキ感を胸にお目当てのサークルの方へ向かった。
けど、もう、本当に何故か尋常じゃない程にドキドキし過ぎて、最初はすーっと通り過ぎてしまった。告白する時みたいな。好きな子の所に向かうかのような。でも行かないと買えないので、また意を決してサークルに向かう。
そしていざサークルに辿り着いても、自分の全身にあるコミュ障エネルギーを全て集めて丸めたみたいな行動しかできなかった。
手はぷるぷると震えるし、行動もモタモタしてしまうし、何故か照れてしまうし、会話を振っていただいても上手く返せない。普通だったら喋れそうなのに、全然だめだった。多分神に話しかけられた平民ってこんな感じだと思う。
それで本を手渡されて表紙を見た瞬間、もう、すごくすごく、幸せで嬉しくてたまらない気持ちになった。もうニコニコが止まらない。(多分第三者から見たらニヤニヤした変なやつだけど)
目的も終えてモノレールに乗り込んで帰っていると、会場に行くまでの景色よりもね、キラッキラして見えるの。本当に。大げさじゃない。本当にワクワクして仕方がなかった。
同人イベントとかじゃなくてもそう、なにか純粋に嬉しいことがあると心から太陽が出てくるように暖かくてキラキラして眩しい気持ちになる。内側から。世界も綺麗だって本気で思える。心から温泉湧いてる~!みたいに暖かい。幸せってこういう事だってマジで思う。
大げさだなぁって引かれる事もあるけど、とにかく!すごく!活力になった。
どんな面においても創作する人はとても尊敬するし、私にとってとても憧れだ。正しくこのドキドキは、私で当てはめれば恋。本を買うのは告白。
3人兄妹の真ん中で生まれた私はたぶん、軽度の虐待を受けて育った。
兄からずっといじめられていたのに、誰もかばってくれなかった。
両親からの直接的な暴力こそほとんどなかったものの、私だけ誕生日を祝ってもらえなかったり、サンタクロースからのプレゼントがなかったりした。
決して貧乏な家じゃなかったとおもう。世帯年収で1500万円ぐらいあったらしいし。
こどものころは「そういうものかー」と思っていたけど、高校生のときに、私だけご飯が出なくなってから異常であることに気づいた。
未成年に住むところを貸してくれる会社もなければ借りられるお金もない。
教科書を買うお金もない。理系だったから (?) なおさら教科書が高かったように思う。
奨学金も借りられない。一般的な日本学生支援機構の奨学金は親の収入証明が必要になる。
親に収入証明を出してもらおうとお願いし、土下座までしたが蹴り飛ばされて終わった。
今までで一番ひどい暴力だったが、痛みよりも呆然とした気持ちでいっぱいだった。
なんとか、友人の家や先輩の家に転がり込んで、生活費を稼ごうと居酒屋でバイトした。
まかないは好きなだけ食べて良いお店だったから、食べるのは1日1食でなんとかしのいだ。店長が理解してくれる人で、余り物をもらって持ち帰ったりもした。
ずるずると4年生になって、研究室に配属された。
その頃にはバイトでなんとかお金を貯めることができて、家も借りられた。家賃1.5万円の築40年以上経過してる、寝るためだけの場所。
研究は、目の前のことに集中していればいいから楽だった。まわりは大変そうだったけど、私にとっては現実逃避のようなものだった。
ふと冷静になると、友人や同級生は家族に支えられながら、心配されながら暮らしているのに、私はなんてみじめなんだろうと感じた。
そういうのを感じたくないから年末年始もお盆もただただ研究してた。
別に楽しいとか好奇心とかはなく、逃げるために研究してたのかもしれない。
ラボのスタッフには褒められてうれしかったけど、どこまでもみじめだと思ってた。
就活もしたかったけどお金がなくてできなかった。地方大で就活する場合、一般的に30万円ほど必要になるらしい。
例年、4年生の9割近くは大学院修士課程に進学する大学で、同級生は当たり前のように進学を希望していて、もちろん親に援助してもらっていて、なお一層つらくなった。
就活するにも進学するにもお金が必要で、でも親の協力を得られないとなんにもできない日本が嫌になった。
ここまで生きるのを頑張ってきて、必死でやってきたことを無駄にしたくなかったから、理解してくれた知人を尋ね回って進学する資金を集めた。
そのまま修士課程も必死に頑張り続けて、ようやく修士論文提出の直前まで来た。
ただ、やっぱりふとした瞬間に、どこまでもみじめで、どうしようもないやるせなさに襲われる。
来年度からDC1に採択されてきっと生活は楽になるけど、ここまでで350万円も奨学金以外の借金を背負ってしまった。
確かに奨学金は親の収入が少ない学生には配慮しているけれど、私のような親との関係性が悪い学生のことは考慮してくれないのだろう。
つくづく日本という国のシステムが嫌になる。他国がどうなってるかは知らないけど。
理系の博士課程1人を育てるために、1億円近い税金が投入されているらしい。
そりゃ確かに1 mLで10万円もする試薬もざらにあるし、多分本当にそのくらいかかっているんだろう。
一方で私が払った学費はたかだか500万円にも満たないものだ。
でも、どうしても日本という国が好きになれない。もっと人間らしい生活を送りたかった。もっと大学生らしいことをしたかった。
服だって新しい服を買いたいと思ったし、趣味にお金を使うこともしたかった。旅行にいける友人がうらやましかった。
私の青春はきっと、来ないままで終わるんだろうなって思うと無性に悔しくなる。
ちょっと前までは全部親が悪い、日本が悪いと思いこんでやり過ごせていたけれど、最近はすべてなにかに責任を押し付けようとしてそれらしい理由を探しているんじゃないかと思ってきた。
何が正しいのかはわからないけど。
どうすれば正解だったんだろうなぁ。一般に楽しくて自由な期間は全て終わってしまった。私にはモラトリアム期間はなかったんだろう。明日も明後日も漫然と研究して、過ごすんだろうなぁ。
今後もずっと親と国を憎みながら、過ごすんだろうなって想像できる。
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1/22 追記
はじめて投稿してみましたが、予想以上の方々に反応していただきありがとうございました。
賛同・同情してくださった意見や批判してくださった意見のどちらも、ありがたく受け止めさせていただきます。
また、本文中で触れていませんでしたが、私の大学生活を支えてくれた祖父母・知人には、当然ですが心から感謝しています。
(引用) 本人に貸与されるタイプは親のいらないし そもそも働けばいいのでは?
前半部分について、本人に貸与されるタイプでも親のサイン・判子は必要になると思います。最も一般的な日本学生支援機構の第一種、第二種奨学金でも、機関保証を用いている場合だとしても親・もしくは後見人の同意確認が必要でした。そのため、私は借りることができませんでした。企業や財団法人からの奨学金に関しては、すべてをチェックしているわけではないので100%ないとは言えませんが、ご存知でしたら後学のためにおしえていただきたいです。
また、後半部分についてですが、これはそのとおりだと思います。大学に行きたいというのは私のわがままであることは自覚しています (言い訳としては、大学入学時には祖父母が健在だったため、途中で、資金が大きく不足することを予定していませんでした) 。その上でですが、50%は大学進学しないというご指摘いただいたように、言い返せば50%が大学進学できる日本で、親の援助が受けられないという理由だけで大学進学ができなくなるとしたら、それは大きな問題であると思います。借金を背負ってでも大学で勉強したいという意思がある場合には、最低限人間らしい暮らしの中で、勉学に集中できる程度の援助が受けられる体制があれば良いなと思っています。とはいえ、国が憎いというのは確かに過剰な表現でした。申し訳ありませんでした。
(引用) 親が貧乏なケースよりも、親が金持ち(年収1000万超とかで色々な支援がなくなる)だけど非協力的な方が詰むケース多いよね。
(引用) 自分だけメシがない、っていうのは平等にメシがないより辛いよね
私が一番強く言いたかったのはこれです。簡潔にまとめてくださりありがとうございます。
はじめて自分の経験を文章にして、自分の考えがまとまったようでスッキリしました。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
姉は昔から「お勉強」はできるけれど、世間知とか常識とかにはあまり聡くない、いわゆる天然なお嬢さんだった。
小学生くらいの頃から「医者になる」と公言していて、周囲もそれが当然と考えていた。頭がいいのもあったし、なにより勉強に関しては誰より律儀だった。
不真面目な学生だった俺はなんであそこまで毎日真面目に机に向かえるのだろう、と不思議だった。
彼女は県内でも一番といわれる高校(もともと男子校で、姉の入るタイミングくらいに共学化された)に進み、そこでもしゃかりきに勉強に励んだ。
成績も「医学部には普通に入れる」くらいをキープしていたらしい。
だが、落ちた。
姉は本気で悔しがっていた。
俺は「やはりお医者さんになるのは大変なんだな」くらいにしか思わなかった。
そうしてつつがなく医学部を卒業し、今では立派に医師として働いている。
世間の人もそう言うに違いない。頭の良い子どもが勉強をして医学部に合格し医者になる。なんのひっかかりもない。
でも、例の一連の入学試験性差別報道に触れ、その考えが間違っていたと知った。
姉は下手したら人生を潰されていたのだ。
十分な能力があるにも関わらず、夢を諦めることを強いられてかもしれないのだ。
高校時代の姉は(少なくとも俺からしたら)勉強ができた。ものすごくできた。でも「ものすごくできる」では足りなかった。
おそらく、姉と同等に成績が良かった同級生の男子たちは普通に現役で医学部に受かっていたことだろう。
そして、それに応えた。
姉は昔から俺のことをよく褒めてくれた。
彼女にはないアート方面の才能(もちろんさして大したものではない)を持っていた俺を「すごいね」と何度も讃えてくれた。姉としての欲目もあったかもしれないが、そういうことを素直に言うタイプでもあった。
一方で俺は姉をどこかで見下していた。姉ほど勉強ができなかったというコンプレックスが一番大きかったかもしれない。同じ中学に姉と入れ替わりで入学した年に、かつて姉を受け持っていた教師から「おまえはお姉さんほど頭良くないんだな」と蔑まれたのが不快な記憶として残っている。
そういう比較を拭いたくて、生活人としての姉のおっちょこちょいぶりやおっとりした性格を家族内のジョークとしてよくイジっていた。両親も「お姉ちゃんはそういう子だからねえ」と俺のイジりに乗っていた。母は「本当の意味で賢いのは○○(俺)くんのような子なの」とよく俺を贔屓にした。
姉からすれば俺は親の寵愛をいいことに暴君のように振る舞うわがままなクソガキ、という印象だったかもしれない。
でも、仮にそう考えていたとしても、それを口に出すようなことは絶対になかった。いつでもやさしかった。
俺の制作物を「すごいね」と褒めて、友だちにまで自慢していた。うちの弟はすごいんだよ。
今ならわかる。
本当にすごいのは姉のほうだった。
俺が現在所属している業界にも性差があることは否定できない。自分が男であることが陰に陽に有利に働いていたんだな、という場面は思い出すだにいくつかある。
自分の業界で生き延びるのは大変だという自負があり、それに比べると医者は安泰でよろしゅうございますね、というようないじけがどこかにあった。
姉にとっては安泰でもなんでもなかった。俺よりよっぽど激しい戦場で戦い抜いてきたのだ。
あの一浪が二浪になり、二浪が三浪になったら、姉の人生はどうなっていただろう。
姉が医学部に合格したとき、母親が親戚だか誰だかに「先生はもう一浪したら絶対(当初の姉の志望だった)国立もいける、っていうんだけど、本人が絶対受かったところに入学したいっていうから……浪人がよほどイヤだったんだろうね」と漏らしていたのを思い出す。
姉は知っていたのだ。
どの程度までかはわからないが、医学部入試のからくりを知りながら、それでもなお試験に挑んでいた。
俺には無理だ。
謝りたくなった。
知らなくてごめんなさい。
わからなくてごめんなさい。
でも、姉にしてみたら謝られたところで意味不明だろう。
他人からしたらそれでも全部話して謝ればいいだろ、と思うかもしれないが、
俺と姉はそういう「真剣な人生の話」を語り合ったことは一度もない。
姉弟仲は悪くなくて、むしろ良いほうだと思うのだけど……わかるかな、とにかく「そういう話」はしない間柄だ。
だから、できない。
ちうごく辺りでもう出てるだろう
寒くなってきましたね。
寒くなってくると、嫌でも思い出してしまうことがある。
あれから一週間、1ヶ月、半年、一年と経つたびに整理しようと文章を書こうとしたけど、いつも纏まらなかった
なぜか今なら書ける気がするので、書いておきたい
それで急にいつか必ず来る、吉野くんがやめた時のことを真剣に考えようと思った。
「その時が来たときは青いペンライト持って、KMBのときはユーキさんだけを双眼鏡で追って、新曲は3枚買って、タカシくんの歌を真剣に聞くのだ」
具体的なプランを据えて、私は推しの引退に備えられる優秀なオタクだなぁなんて誇らしげにしてた。
翌朝、起きて一番に見たのが吉野晃一が脱退するという報告だった
正直昨日の今日でこんなことある?って頭で自分は笑っているつもりだったし、「分かっていたことだから仕方ない」と落ち着いてるように錯覚してた。
ただ頭から順番に爪先まで急に血が凍ったみたいに冷たくなって、自分の意思で動かせない肉の塊になったのは感じていた。
きっと身体の方が正直だったのだと思う。
その日は学校があったから、動かないと思っていた肉の塊をなんとか人間みたいに仕立て上げて家を出た。
涙は出なくて、まだ悲しいも寂しいも腹が立つも感じることはできてなかった
今思えばよくやったなぁと思う。
脱退する、と未来形みたいな言い方だったけどもう仕事はなくて、今撮り終えたものの放送が終わればその時点でいなくなる
事実上の事後報告だった。
ファンと直接お別れする場がないどころか、何かの放送を通してメンバーが吉野くんを送り出す事もない
極め付けは脱退報告の謝罪文が、リョウガさんのものだったことだった。
何回読んでも分からない。
「方向性の違い」?
何も悪くないリーダーに謝罪させておいて自分は一言も発さずこのまま逃げるつもりなのか?
個人で更新してるブログで謝る可能性は充分にあったけど、公式の脱退発表での報告は本人のものであれよ。
そろそろ2年も経つし、すっかり忘れたつもりでも思い出す度に腹わたが煮え繰り返る感覚を思い出す。
朝からボーッとする頭で授業を受けているうちに頭が正常に戻り始める。
脳が回り始めるとだんだん疑問が生まれてきて、感情が沸き起こってくる。
悲しいとか寂しいとかより真っ先に悔しいとムカつくが溢れ出してきて、昼まではとにかく笑うしかないっていつもよりハイテンションだったのが、午後からは一言でも発せば大暴れしてブチギレてしまいそうで喋れなくなった
初めて涙が出たのは夕方実習が終わってやっと1人になった帰り道で、「お前が辞めても絶対超特急は東京ドーム行くからな」と思った瞬間だった
だって本当に、上がり目だったんだ
日に日に大きくなるキャパシティと分かりやすく伸びていくYouTubeの再生回数を見れば誰だって分かった
超特急が今一番最強の7人だってファンに思わせることができる人たちだった
そんなところにこんな最悪の水の差し方するなんて、推しとか関係なく許せなかった。
辞めることはわかりきってたくせに、いざ辞めると言われれば「もっと後でよかったじゃん」とか言ってる自分が滑稽だったけど、理性で感情は抑えられないものだと知った
そんな怒りは一週間も続いて、怒って泣いてを繰り返すうちに、ある日やっと寂しいという感情が湧いてきた。
好きなところを思い返したり過去の映像を見たりして吉野くんが恋しくて泣くようになった。
もう彼が楽しそうに歌う姿もクセ強すぎて目立つダンスも、MCのときニヤニヤしながら6人を眺める姿も何もかも見れなくなると思うと辛くて苦しくて寂しくて耐えられなかった。
早く彼のことを綺麗さっぱり忘れたかった
そう、脱退が発表されて初めて涙を流してから、私はずーっと吉野晃一という存在を忘却したかった
差し迫るテストに集中するのに、彼を思い出してる暇なんてなかった
好きだったこと、寂しいこと、怒ってること、悲しいこと、彼に付随してくる感情はどれも強すぎて私の心では受け止めきれなかった
心を守る正常な防衛本能だったと思う。だって彼を忘れてしまえばこんな不毛な感情は全部消える。
私にとってコーイチは初めて好きになったアイドルだったけど、その後色んなグループを好きになっていたから情報の海に飲まれようと思った。
ライブにもたくさんいったし、色んな番組見たし、雑誌もたくさんかって色んなところに散らばった好きな人たちを追うことで忘れようとしてた
私にとって、他のグループは超特急をグループとして特徴づけるための比較対象として見ている部分があったことに、そこで気が付いた気がする。
例えば後輩グループは超特急が切り開いた道を広げてくれる人たちだったし、もっと大きな事務所のグループは追い越す対象だった。
超特急は私にとってアイドルだったけど、いろんなアイドルを見ることによって超特急はやっぱりちょっと王道じゃないことを確認できた。
だから他のグループを見ていると、どうしてもこれからコーイチの脱退によって落ちるであろう超特急の人気のことを考えてしまっていた気がする。
その辺の時期の記憶はあまりなくて、ただ段々自分がアイドルの応援に疲れていることをなんとなく自覚していた。
特に、脱退発表直後から「自分は絶対コーイチがいなくなったことに引きずられない」と豪語していたくせに、日を追うごとに周りが好きなタレントを純粋に応援できていることを羨む気持ちが芽生えてしまっていることがつらかった。
あんなこと言ったくせに、自分はいつまでも彼を引きずっていることが恥ずかしくて言えなかった。
そうして私は、夏のある日ぷっつりとアイドルを見るのをやめてしまった。
情報が全く入ってこないアカウントで、いろんな二次元ジャンルに手を出してみたりした。
昔好きだった作品をたくさん見返して、今までちゃんとできてなかった勉強をして、私がドルヲタしてたことを知ってる周りの友達には何度も「休日何してるの?」と聞かれた。
本当に何してたかあんまり記憶がないけど、その間にもずっと吉野君のことは忘れたかった。まだ思い出してチクチク胸が痛んでいたし、考えることがなくなると吉野君のことばかり思い出してしまっていた。
早い段階で彼は個人での活動を開始していたけど、早く忘れたいから見なかったことにしていた。超特急が進むための一員としての彼が好きだったから、自分のために歌う彼は私にとって知らない人だった。
維持を張っていたから、今でも超特急のCDは絶対買っているしFCの更新も迷わずしているけど、現場に行くことはなくなってしまったし全ての仕事は追っていない。
今、二年目の冬にしてやっと、吉野くんが好きだったことを忘れ始めている
そして同時に、忘れることが怖くなってきている。
このままきっと私は吉野くんのソロの現場に行くこともないし、昔の友達に会って吉野君の話をすることもないと思う
十年引きずるだろうと思っていたけど、案外1/5の時間で記憶はなくなってきた
彼のどんなところが好きだったかは思い出せるけど、それで胸がぎゅっとなったりはしないし、彼の顔やかたちは鮮明に思い出せるけどそれで死にたくなったりはなくなった
きっと今思い出せることもいつかばやけていって消えるのだ
私が一番怒って泣いて傷ついて死にたくなったのはタカシ君のことをかんがえるときだった
まだ二人が実家に住んでいたとき、仕事で東京に行くのは二人だった
タカシくんが実家から東京に行くとき、泊まるのが吉野くんの家になった夜は二人だった
動物園に行った二人
初めて顔を合わせて、「めっちゃ真面目」「すごい人」と思い合った二人
最年長と最年少だった二人
凸凹だった二人
黒と白だった二人
月と太陽だった二人
背中合わせの二人
きっと気もそんなに合わなかったと思う
大親友でもなかったし、家族でもなかったし、師弟でもなかった気がする
だけど二人だった
日に日に歌が上手くなるタカシをいつまでも待っていた吉野くんと、いい加減並んだように見えるのにいつまでも吉野くんを遠い目標みたいに語るタカシくん
みんなが持ち上げるほど濃い仲じゃなかったと思っているけど、きっと蓋を開けてみれば私が思いもしない仲があったような気もする
ここが好きとか、こういうエピソードがあったから好きとかじゃなくって、二人が出会って一緒に歌を歌うことになって、超特急としてふたりが奏でる歌声が大好きだった
私は勝手に、タカシくんがおいていかれたと思った。捨てられた、放り出された、一人にされたって勝手に傷ついていた。
きっとそんなことはなくて、タカシくんは私が思うよりずっと大人でそうでなくとも五人が守ってくれた
だけど吉野くんがタカシくんと袂を分かつ決断をしたことが本当に本当にショックだった
色んな「ふたり」の別れを聞いたけど、こんなにつらいことはないと思った。
だってお互い話し合って決めた別れじゃなくて、一方の明確な拒絶なんだ。そんなの受け入れなきゃいけないのはつらすぎるし、そんなことを言い渡す方は最低だと思った。
不幸なんて比べれるものじゃないってわかってたけど、その時心の中で私は世界一不幸だと思った。
1・17に更新されたタカシくんのブログは、他のみんなと違ってまだ受け入れられていないのが感じられて涙が止まらなかった
カイくんがタカシをサポートするから安心して、って言ってくれたのがうれしかったけど、やっぱり吉野くんがいなくなることで一番助けが必要になるのがタカシくんなんだって思うと悔しくて悲しかった
こんな終わり方は嫌だった。ずっと嫌だ。
二人の物語は、きれいでなくてもいいからせめて終わらせてほしかった。
かなわないと知りながらも、今でも二人が終わらせてくれるのを待ってる。
吉野くんのことを好きになったのは彼が我慢できないくらい楽しそうに歌う姿を見たからだ。こっちが笑っちゃうくらい、馬鹿みたいに楽しそうにステージで歌い舞う姿は誰よりもかっこよく見えた。
しゃべるとおもしろくて、もっとしゃべってるところを見たいと思った。
日本語の曲もバラードも全く聞かなかったけど、この人とタカシくんが歌うならずっと聞いていたいと思った。
好きな理由なんていくらでも後付けできるからあんまり意味はないけど、アイドルが嫌いだった私がこんなにも人を応援したいと思わせてお金も時間も感情も捧げるようになったのは吉野くんのせいだってことは事実で、それが何より私にとっての影響の大きさを示していると思う。
大好きだった。きっと今も大好きだ。だけど、それを確かめることはもう怖くてできない。
これから先、誰も応援できないとは限らない。きっと浮気性で人間観察が好きな私だから好きなアイドルができて、自主的にコンサートも行けるかもしれない。
もしかしたら、その人のために何かしてあげたいと思えるような人が現れるかもしれない。
だけど、きっと吉野くんのことみたいに全てを投げ出して好きになることはないだろう。
それは初めて好きになって、一番長く見ていたからでもあるけど、なってはいけないとも思うからだ。
きっとあれは私にとっては毒で、あなたにとっても重荷だった。だからそんなことはないと、明言しておきたい。
そうして世界に、吉野晃一が私という人間の中では世界一の存在であり続けるということをささやかながら伝えておきたい。
ずっと悔しいから言えなかったけど、せっかくだから最後に言っておこう
吉野晃一くん、どうかこれから先あなたが幸せでありますように。
微塵も思えなかったあの日から二年が経って、やっぱりあなたが幸せじゃないと誰も報われないと思うから。
そんな不純な動機だけど、あなたにとっても私にとってもこれから比率が小さくなるあの大好きだった時間は、やっぱり本当だったと思うから
それを忘れたくない、と思う今なら幸せになってほしいと心の底から願える気がする
あなたにとっての幸せが私にはわからないから、あなたがそう思える形に落ち着けますように。
っていうのを一か月前に書いたんだけど、マジで今回の炎上でなにもかもぶち壊されました
大嫌いだと思えば思うほど好きだったこと、今もまだ実は好きなことを思い出す
大好きだった時間を否定しなきゃいけないのがつらくてしんどいよ
赤の他人に入れ込むことのこわさを知ったよね
ああ。私もラジオが好きです。名前を呼ばれるときの嬉しさは一生慣れないでしょう。自分のお便りで番組が盛り上がったときの喜びは他に例えようがないです。
演者だから番組だから、彼女たちはあまり言葉にすることができないけど、長い間応援を続けたリスナーのことを、関係者は大切に思っていると思います。
私の話になってしまうけど、推しやプロデューサーとお話する機会があると、いつも実況やお便りありがとうと、そう言ってくれるんです。