はてなキーワード: 煙草とは
煙草を吸ってビールを飲んでいればあまり食欲は湧かないので、簡単に体重が減ることがわかった。これで10日でで4kg近く減らしている。
逆に煙草をやめた時に10日くらいで8kgくらい増えたので、てきめんに痩せたければ酒飲んでたばこ吸っておけばOKということだな。目標まで減ったら煙草辞めればいいけど、辞めれるかどうかはあなた次第
よく顔をあわせる人が喫煙者なのだが、私の鼻はタバコの煙を感知するとくしゃみが止まらなくなって社会的に死ぬことがわかったので、「煙草吸っていいですか」と言われても断ることにした。くしゃみが止まらなくなると言うと快諾してくれたが、それも最初のうちだけだった。タバコを吸うために喫煙室や外に出ていかなければならない手間をあからさまに面倒臭そうにするようになった。「あー、今いいところなのにタバコ嫌いがいるせいで外に行かないとダメなんだわ。うぜえ」という感じ。そして周囲の非喫煙者からは、増田さんはタバコの煙くらいで神経質すぎるでしょ。ほんの数分くらい我慢すればいいのにって目で見られてる。なんでだよ。なんで健康を守ってるだけでこんな目で見られるんだよ……
いつもは散歩がてらコンビニとか弁当とか買いに行って、会社の食堂(食べるだけ、買う場所とかは無い)で食べて、ちょっと一息して(人によっては喫煙タイムかもしれない)、歯磨きしたりお手洗いに寄って戻って、1時間がギリ終わる。
でももう1時間長くて2時間あったら、めっちゃいいなと思う。11時~13時くらいまで。
私は通勤自転車10分なので、晴れなら絶対家に帰る。んで昼ご飯作って、夜ご飯の支度(なんなら炊飯器の予約までだっていい)して、気兼ねなく好きなテレビ見ながら食べてのんびりしてリフレッシュして、また自転車10分漕いで戻る。
春は自転車には良い季節だよね。多分夏と冬と雨の日はバス利用になって、移動で往復30~40分取られちゃうのでやらない。
1時間休憩が延びた分は帰りにまわしたい。朝は既にギリギリもいいとこなので。それにうち帰ったら炊き立てごはんが待ってるんだよ?という余裕があるので、1時間くらい遅くなっても全然いい。
最初はもう1時間昼に時間があれば、夜ご飯の支度とかまでできるなってとこから考え始めたけど、私はお昼休みを『休み時間』とか『自分の時間』として取りたいのであって、会社の人とのコミュニケーションで気を遣うっていうことなく1人でのんびりやりたいだけな気もする。
同僚や他部署の人との世間話からいい情報が手に入ることがあるのも分かるので、そういう機会自体はすごくいいことだと思うんだけど、給料が発生しない自分の時間をそういうのに取られたくないのよね。会社への忠誠心が欠けててごめんだけど。出世欲もなくてアレだけど。
だから飲み会も会社から補助出るんじゃない限り行かない。社員旅行も補助は出るけど、拘束時間が長くて息がつまりそうなので正直行きたくないし、実際断れた年もある。まぁこの辺はもう少し下っ端じゃなくなれば楽かもしれないけど。
来月から、うちの会社は支社も含めて敷地内全面禁煙になるらしいので、煙草コミュニケーションも少なくなっていくのかなと思うとそれはちょっと複雑。私自身は吸わないけど、同僚がそうやって拾ってくる情報はすごいなと思ってたので。男性版井戸端会議って意味では喫煙所とかって重要だったと思うのよね。就業時間内の離席も成果があるなら致し方ない感じはあった(※あくまで個人の考えです)。まぁ規制されることで結束力というか仲間意識?は上がるのかもしれないが。
まぁでも、昼だからって2時間も担当者が留守にする会社はだめって言われそうだな。もうちょっとさ、「あの人は昼休みが長い仕方ない人」みたいなこと言われずに、個人個人が好きにやれたらいいのにねぇ。フレックスタイム制が一般的になるというか。でもそれでも昼ごろがコアタイムとかもあるよね。中間なのはわかるけど、昼休み重要だよ…なんだか昼休みがゲシュタルト崩壊しそう。
思ったより昼休み長くしてほしいって人とかやりたいこととか見られて楽しい
役所とか銀行とか病院とかに行きやすくなるのも利点かなって私も思った。(その場合役所とか銀行とか病院の人は…しょぼん)
1時間かつみんながいる休憩所だと昼寝はとってもしづらかったので(おじさんレベルにならないとできないやつ)、2時間あったら私も家でお昼寝して英気を養うと思う。寝過ごすのだけ心配だけど。
そうか、7時間労働なら会社滞在時間はそのままでイケるな!と思ったけど、どれだけ自分の仕事を早く済ませても、休憩が増えるより仕事の量が増えるだけなので、今のこっそりちゃちゃっと終わらせてこっそりのんびりしとく位が現時点では上出来なのかもしれない…
たいていの妊婦さんは妊娠が発覚すると煙草をスパッとやめてしまうのです。そのひと吸いで赤ちゃんに障害が出ると知ると、恐ろしくて吸えなくなるからです。
つまり辞められないあなたは既に依存症になっています。辞められないのはあなたの意思が弱いからではなく病気だからです。
現在妊娠4ヶ月目。お腹が張ってきてはいるけれど最初に比べると楽になってきた
仕事は辛くないし、夫は妊娠が分かってから優しいしで順調に進んでいると思う
でもここ最近一番悩んでいるのはタイトル通り、妊娠中なのに禁煙できないってこと
もともと過去の自分はヘビースモーカーで、高校生の時に親の影響から初めて最盛期は一日50本は吸っていた(流石にお金がやばかったのでやめた)
自分をよく見せたくて煙草を吸っていることは絶対に言わなかった
臭いで気づかれることが嫌で歯磨きを何回もして香水もかけまくって抑えた
それでもどうしても夫は煙草の臭いに気づくようで、そんなときは「実家ぐらしだから親の煙草が身体に付く」で乗り切った
就職してからも付き合い続けて去年妊娠してることが発覚、結婚することにした
今でも夫のことは大好きだしすべてのことを本音で話せる相手だと思っているけど、気がかりなのはやっぱり煙草
私は二人暮しを始めても煙草をやめられなかった
『煙草を吸っているのがバレないように「銭湯に行く」という名目で車に乗って戦闘へ。車から降りて駐車場で一気に吸ってから銭湯に入って服を着替える』
今はこの手法で乗り切ってる
でもここまで隠しちゃったのを今更言うわけにも行かないし煙草をやめるなんてもう考えられられないしどうしようもできない
夫に理由も告げずに慰めてもらって収めてるけど。
昔が酷かったんじゃなくてジェネレーションギャップを受けてるだけ
なんでそういうのを切り分ける能力がないのかなあ…
当時の普通ってことは、
ちょっと未来の視点で見てみれば自分の言ってることも間違えてると思わないの?
どうでもいい自由を求めた結果、子どもすら作れず孤独死するやつだらけの社会
夫婦なんてそもそも喧嘩して当たり前だし、俺の祖父母も殴り合いの喧嘩くらいしょっちゅうしてたよ
君には選択肢が与えられたように見えるけど、結局、能力がないとその選択肢はアンロックされない
高収入でなければまともに育児できない世の中になったなんて誰も知ったことでしょ
昔を話すなら、まずそのことについて話したら?
女性の育児が評価されないからこそ、昔の女性は尊敬に値する母だったんだよ
子どもを産まないし育てない女性になんて価値も尊敬もない、母になって初めて尊敬される
ところがその評価が金になってしまい、男も女も金で評価になった
凡人がついていけると思ってんのか、それに
ッあぁ~~~これ書いたら大人の人にめっちゃ怒られるかもしれない。でももういいや。もういい。もう嫌だ。だから書きます。 口調とかもあまりきれいじゃないかも、ごめんなさい。 私は自分が絶対に正しいとは思わないし自分と違う考え方の人に対してどうこう言うつもりもないのでそこだけご承知願います!
人間って生まれてからたくさんのものを獲得して生きていくものだと思ってる。 たくさん選んでたくさん捨てて積み重ねてきた時間がその人を作る、よく聞く話。そんな中で生まれた瞬間から決まっていてどうしても覆せないものって一つだけある。
親
って言われているもの。誰から生まれるか、どこで生まれるかなんて誰も選べない。
逆に親も子を選べないのもまた事実で、これを皮肉って『ガチャで出てきたはずれが自分だ』みたいなこと言う人もたまに見かける。
そういうわけで『親を好きになれなかった』話について。
その引っ越し、自立とかきれいごと抜かしてるけど親との同居に限界を感じて決行したものだった。 実家がどういうところだったか、少しだけ書くと 2017年夏(当時20歳)の時点で
•自分の部屋がない
•昼間は机が置いてある2.5畳の仕切りのないスペースで生活
•就寝は祖母と一緒の布団
•窓を開けてはいけない
•カーテンも閉め切る
•オーブントースターの温度設定は使い終わったら母親の使う温度に戻さなければならない
などなど。
母親も祖母も私がいうことを聞かないとすぐに怒鳴り散らすのでとにかく怒らせないように生活するのに必死だった。それで今でも大声で人を怒鳴りつける人が苦手。
これでも成人してよくなったほうで小学生頃なんか今思えば地獄度段違い。
母親が19の頃にデキ婚で私が生まれて小学生のころに離婚していて、次の男が一時期実家に住んでいたこともあった。いわゆる『ママの彼氏』。
「これから私たちの生活を支えてくれる人」って紹介されたこと。
誰だったんだろうあいつ。
見た目的にはホストっぽかったけど今となっては素性はよくわからない。 私が8歳当時なら母親はちょうど30手前くらいで離婚もしてまだまだ遊べる年だったんだろうな、と。
最初のほうは仲良くしてたと思う。私の目の前でいちゃついてて、それ見てたら男が母親いじめてるみたいに見えて止めに入ったら怒られてのけ者にされたりした。懐かしいなぁ。 そんな生活も長くは続かず1年経たないうちに仲が悪くなって男は出て行った。
そっから家に男が入ってくることはなかったので本当に父親という存在を知らずに育ってきた。 だから好きになった人や付き合った人に父親みたいな安心感を求めがちなんだって最近になって気づいた。
祖母も同居することになったのはそのあとで働く母親の代わりに家事全般をやってくれた。 それだけでも本当は感謝しなきゃいけないというか、感謝はしてるんだ。それは本当。 働いて私を育ててくれたのは母親で、そのことも理解しているつもり。
祖母は祖母で私が拒食症になって口に入れたもの目の前で全部吐き出してしまった時はブチ切れて木の棒で全身あざだらけになるまで殴ってきたけど書くとさらに長くなるから割愛。(重視すべきは体調不良よりも作ってくれた親への敬意 という考え方)
そういうわけで『産み育てた恩があっても殺す権利はない』というのが持論で、言ってしまえばこの世に生まれた瞬間から、 へその緒を切られたその瞬間から私は母親の体の一部ではない一人の人間になったはずなんだ。 その事実を『感謝』とか『育ててくれた恩』とかとごちゃまぜにして見えないところに押し込むことは私にはできなかった。
そして労働に費やした分子供と親が触れ合う時間が減ることで親子という関係に不具合が生じるのもまた事実だ。
私は本当に親がわからない。
親もしばしば私のことを「わからない」と怒鳴りつける。
今歩み寄れないのは間違いなく幼少期に信頼の基盤がつくられていないからなのにまるで私が親を突き放しているかのような物言いで、 そこに「親不孝者」という便利な言葉を着せてことあるごとに罵られてきた。
母親の中には親子とはかくあるべし、という理想像があって、何もしなくてもそこに収束するのが普通だと思っているようだった。 だから自分は普通で私が異常なんだと言って私を矯正したがった。
生まれて何年たっても私はまるで親の一部かのように扱われていた。 いい学校に入っていい会社に入っていい大人になるための第一歩として幼稚園のころから通信教育の教材をやらされた。 幼稚園の頃病弱で、入院している私のベッドのそばで
「こんなに頭の悪い奴なんか見たことない!」と叫んで帰っていく母親の姿はなぜか今も鮮明に思い出せる。
小学生のころは学校のすぐそばに煙草を買いに行かされて、同級生に見つかって噂されて、勇気出してそれが嫌だと親に伝えたら 「身勝手な奴だ」と怒られ、「親のためにこんなこともできないなんて」と貶されたことがあった。
服は短くても1週間同じものを着せられてた。長いと1〜2ヶ月くらい同じものを着てたと思う。当時皮肉抜きで「その服本当に好きなんだね」って言ってくれた友達のことをたまに思い出す。大人になっても1度着た服を洗おうとするとめちゃくちゃ怒鳴られた。
私はとにかく母親の思い通りにならないと怒られてた。当時はよく泣く子供で泣くとさらに怒られた。 私が大きな声を聴くと自然と涙が出てくるなんてことを親は知らないみたいで、もうそのころからまともに意思疎通をはかろうなんて気持ちすら持てなかった。
中学生になるとひたすら成績を気にしだした。テストの成績はクラス順位5位以内でないと怒られた。「他の人はできるのにお前は何でできないんだ」が常套句だった。
幸いそのころは勉強が楽しかったので学校の成績は良かった。 しかし受験勉強が始まると私は親ではなく私のために勉強しなければならなくなった。過去問は学校のテストよりはるかに難しくて思うように点数が取れなかった。 もう手一杯で親のご機嫌取りのために数字を気にしている暇なんてなかった。数字が下がると怒鳴る頻度は上がって以前みたいに勉強が楽しいと思えなくなった。
結局中学の好成績を生かして公立の高校に推薦で入学した。 ひざ下まであったスカートをひざ丈まで上げたら烈火のごとく怒られた
「そんな恰好をするな!不良め!誰とつるんでいる!」 挙句の果てに「そんなに妊娠がしたいか!」と。 スカートの丈をひざまで上げただけで。 意味がわからなくて怖くてたまらなかった。
親のなかでは
ひざ丈のスカート
=男にもてたい
=恋人ができる
=セックス
=妊娠
という式があるらしい。
一番成績がいいのは1組、悪いのが7組だと信じて疑わなかったので3組になったときも説教された。いくら違うといっても聞く耳は持たなかった。
大学は必ず行け、しかし国立以外許さないと言われた。自分でも裕福じゃないのはわかっているから学費の負担を少しでも減らしたくて志望を国立に絞った。 しかしここでも親の謎理論は炸裂、大学に行ったこともないのに「私大は頭の悪い人間が行くところ。落ちこぼれが金で大卒の資格を買っている。」とご高説を垂れる。 この辺まで来るともう物事の判断がつく年齢になってしまった私には親のめちゃくちゃな説教は気持ち悪くて仕方なかった。 知らないものをぼろくそにこき下ろすのも、進路の悩む私に寄り添うどころか選択肢を狭めて重圧をかけるのも鬱陶しい。
結局興味のある分野に近いコースの国立大に入学して3年が経とうとしている。 実家から離れた大学に通うことも気に入らなかったらしい。 「もっと近くにあるだろうが」
帰りが終電になればまた怒られ、
「美術なんかやって何になるんだ」
といった風な小言も絶えなかった。
掘り返せばきりがないくらいこの手の嫌な思い出は出てくるのでこの辺にしておこう。積もり積もって今の私を形作っている思い出たちだ。
場所もない、理解もない、朝は母親と祖母による自分の悪口で目が覚める。 ストレスばかりが溜まって心も体も限界だった。
2年次の後半はほとんど学校に行けなかった。 家にいると親に対する嫌悪感で頭痛や吐き気が止まらなかったので出来るだけ外にいた。
学校終わりはバイト、予定のない日は大きい本屋をうろついてたまに本を買って近くの喫茶店で読んだ。
もうどうしようもないと思って3年次は休学手続きを取って1年間フリーターみたいに働きながら家を出た。
講評の当日深夜につらくて泣きながら教授に「授業を休ませてください」という旨のメールを送った日からもう1年が経ったらしい。
実家を出ることに関しては強行突破でかまわないくらいの心意気だった。 どのみち自分には帰る場所なんかないのだから居場所を作るしかないと思ってのことだった。
親には一言も伝えずに休学、
お金を貯めて部屋まで決めて、
もう後に引けない状態で家を出ることを伝えた。
自分の判断能力と精神的の限界、苦しみ続けた20年間を鑑みてもうこれが自分に残された最後の、そして最善の手段だと思った。
「自立したくて家出た」なんていうと「行動力があるね」と言われることがあるけれどその実
ただ「実家にいたらいつ精神崩壊するかわからないから生きるために逃げ出してきた」くらいが正しいんだろう。
少なくともこの半年、
「家に帰りたくない」なんて1度も思わなかった。
時間潰すために夜の公園で電池なくなるまでスマホいじることもなかった。
自分だけがいる部屋で誰の目も気にすることなく笑ったり泣いたりできた。
窓を開けて部屋の換気ができた。
たったそれだけの事だ。
私はたったそれだけのことをするのに21年苦しんだ。
春の暖かい風が部屋の中に吹き込んできたとき「生きててよかった」と心から思った。 ようやく自由になれた気がした。
家を出たら出たで大変なことはあるけど、少なくとも今のところは後悔なんかしていないと言い切れる。 誰かが掲げてた『苦労はできるだけ少ないほうがいい』という主張はまったくその通りだと思う。 部屋の窓を開けるのに21年かかるなんてばかばかしくてやってられない。
ただ、21年かけて開けた窓からは確かに未来が見えた気がした。 自分の人生はこの1度きりしかないのだから、自分が幸せになるために生きなければもったいない。
4月から大学に戻る。仕送り0で学びながら働きながら「家賃を払わず整形手術のローンを組む同居人」と共生、というか矯正。それから休んだ1年分の学費を貯めなければならないのでやることは山ほどある。大好きなお絵描きができないかもしれないがそういうフラストレーションは学校の課題へのモチベーションに変えよう。
レールを外れて生きていくっていうのはそれ相応の覚悟が必要で、残念ながら社会はそういう人間には優しくない。
こんな文章垂れ流したら知らない人に「この程度で甘えんな」「自分なんかもっと大変だ」「大学まで行かせてもらってるくせに」って言われそうだけどそれでもいいや。
彼ら彼女らの放課後と土日を「強制管理」する手段として部活が強化される。
強制的な部活動の悲喜こもごもはいろいろと聞いたことがあるだろう。
しかも、運動系の部活に参加しない人間は、まともな扱いをされなかった。
せめて卓球部……とまで言われたが、初志を貫徹した。
歴史研究部では遺跡の発掘調査に参加して話題になったりとそれなりに頑張ったつもりだ。
それでも、(運動部じゃないから)「部活動に熱心ではない」と本当に内申点を下げられた。
志望校の公立高へ合格するには、本番の試験でリカバリーするしかなかったのを思い出す
おっさんになると、管理する中学当局や教師、PTAの立場も理解できるが、
現場の空気が相も変わらずと聞くと、なにか遠い目をしたい気分になる。
部活動のリスクが大きくなり、学校や教師は本音ではやりたがらない。
そんな話を生で聞いていると、