はてなキーワード: バスジャックとは
冒頭着替えようとしてたふぇイリスとまゆりのところにバスジャックがきて、
過去学習済みオカリンがアルパカのきぐるみかぶって事なきを得る
その後はナエちゃんがゲームかいにいくために並ぶのにつきそうけど割り込まれて買えなかったのでまた過去に戻って買う
でも根本はテンバイヤーだっつーことで元締めにダメージ与えるためにまた過去に戻る
そしたら元締めはMrブラウンだったから金がまわらなくなったおっさんが自殺してしまう
もっかいやりなおして今度は転売も容認するけど早めにならんでゲームもGETできるようにする
そのあとまゆりが実は死んでたってことに気づいてラボメンにいろいろ言われる
この世界線はまゆりが殺されることを回避できないと考えたオカリンがあきらめた世界だったのだあああ
だけどもっかい1年前のラウンダーがくるときに戻ることにしておかりん覚醒ってとこまでプレイ
そっかーその世界腺なのか
なんとなくまゆりもクリスも救えた世界戦の続編なのかと思ってたけど
まあその世界はひよくれんりのだーりんのほうなのかな
それに両方救えてたらもうなんの問題もなくて面白みもなくなるからまあしょうがないね
2chもバスジャック以前は、陰気で気持ち悪さはあったがわりと冷静なやつが多かったが
電車男以降もなんか変なのが増えた気がする
vipperとかなんjなんかみたいにね
とにかくノリ重視なやつら
はてながhatenablogはじめたときは、日記となにが違うんだよって思ってたけど
互助会ってやつなんだろうか
とにかくエモさ重視のくっせーブログ記事が上位に並ぶようになった
独自ドメインのもあるけど、サービスがhatenablogな場合が多い
proだと独自ドメインとれるんでしたっけ?とにかくわかりづらくてかなわん
人力でhatenablogはじくようにしてるけど、独自ドメインはわからないからね
右か左かの違いはあるにせよ、はてながこうもエモい連中であふれるとは思わなかった
http://dic.nicovideo.jp/a/%E2%80%BB%E9%B3%A5%E8%82%8C%E6%B3%A8%E6%84%8F%E2%80%BB
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6月11日に、「絶歌」は発売された。その直後、この本の刊行を報道で知った遺族のうちの一人が、遺憾であるとコメントを発表した。
以来、今日に至るまで、様々な人々が—— 専門家、知識人、芸能人、ライター、クリエイター、etc——、この本についてコメントをしたり、記事を発表している。
少しだけ、どこかで見たような光景だな、と俺は思った。
原発だ。
震災以来、原発というのは、賛成だろうと反対だろうと、何かしらの意見を持たなければならないような問題になった。「どうでもいい」「どっちでもいい」というような態度は許されない。誰しもが原発に対して、真剣に考えなければならない(あるいは、そのフリをしなくてはならない)、そんな風潮が蔓延している。
そんな光景に、どこか似ている、と俺は思った。この本の出版に関して、肯定的だろうと否定的だろうと、有名人(というかライターやクリエイター、芸能人)は、何かしらコメントをしなくてはならない。そんな雰囲気が漂っているような気がした。
また、ネットでもあちこちで、この本のことが言及されている。その内容(というか質)も、原発に関するもの似ている。有意義なものあるけれど、ほとんどが似たり寄ったりな退屈な意見で、特にAmazonのレビューに関しては、まぁ、平均的な人間の平均的な意見が読める、という以上の価値はない。
なんというかまさに「脱法ハーブ、握手会、風営法、放射能、ダサい、ダンス、ダウンロードって言ったら負け」状態だ。
2
俺がこの本を読んだ理由は、端的に言えば好奇心だ。この本が発売されると知ったとき、純粋に読みたいと思った。ただの好奇心。
この際だから、書いてしまおう。俺は小説を書いている。ほとんどの人は知らないと思うが、Amazonで販売出できるKDP(Kindle Direct Publishing)で発表もしている。つまり、創作をする人間として、この本に興味を持った。
この本の元になった事件は、説明するまでもなく、後のフィクションに多大な影響を与えている。俺が知っている範囲だけでも、舞城王太郎や佐藤友哉あたりは確実に影響を受けているだろうし(舞城の『阿修羅ガール』に出てくる鬼畜殺人鬼グルグル魔人を知っているか?)、奥浩哉『GANTZ』に出てくる西なんかは、もうまんまだ。他にも探せばたくさん出てくるだろう。
創作をする人間として、そんな風に後のフィクションに、作家たちに影響を与えた事件の当事者が書いた手記に興味を持つことは、そんなに不思議ではない、と思う。だから手に取った。ただ、これは弁解だ、言い訳だ。下世話な好奇心で読んだ、と言われても反論は出来ない。
(これは余談だが、先述したとおり、この本は6月11日に発売された。ニュースになったのも、その二三日前だったと思う。しかし、振り返って見ると、五月の終わりに、この事件をモデルにした窪美澄「さよなら、ニルヴァーナ」が出ているし、そのちょっと前には、34歳になったとある小説家が事件現場を巡礼(?)するという内容の佐藤友哉「ドグマ34」がすばる4月号に掲載されいてる。偶然か? さらに余談だが去年放映されていた、金城一紀脚本のドラマ「ボーダー」の第三話は、殺人を犯した元少年が手記を出版しようとして遺族に殺されてしまう、といった内容だった。まぁ、偶然だろう)
3
事件当時、俺はまだ小学生だった。けれど、この事件のことは、やはり印象に残っている。
俺は子供のころ、モデルガンが好きで、アクション映画などの銃撃戦のシーンを見てはひとり興奮していた。シュワルツェネッガーがバンバン人間を撃ち殺しているのを観ながら熱狂している俺を見て、母親も心配していた。俺も子供心に「自分は人が死ぬことになにも思わないのか」などと普通のことを普通に思っていた。平均的だ。
そしてこの事件以降、子供によるセンセーショナルな事件は、たびたび起こる。「キレる17歳」などいうキャッチコピーがつき、まるで急に少年犯罪が増えたかのように報道された。
フィクションも影響を受ける。バスジャック事件を題材にした青山真治の映画「ユリイカ」などだ。
開き直るわけではないが、俺は上記の作品たちが好きだ。だから作者に興味があるし、その作者に影響を与えた題材、事件にも興味がある。センセーショナルな事件は、良くも悪くも、フィクションに影響を与えているのだ。
ただ、報道のされ方、ニュースの選ばれ方のせいなのか、はたまた「事実は小説より奇なり」なのか、現実では悲惨なニュースが相次ぐ。自然災害は仕方がないにしても、凡人には理解できない理由で、または理解できないほど身勝手な理由で、色々な事件が起こる。無差別殺人、闇サイト、児童虐待。世紀末を過ぎても、この手のニュースには事欠かない。
「近頃はありきたりのリアリズムに追いつかれそうにも見える」
これは、とある賞の選評の一部だ。とある一作品に向けられた言葉ではあるが、なんだかフィクションがひどくしらけてしまうときに、この言葉がふと思い浮かぶ。
我ながらバカなことを書いているな、とは思う。でも、俺は嫌なのだ。俺はフィクションが好きで、物語が好きで、小説が好きなのだ。だから、読むし、書いている。書いては直して、また書いている。
この本が出たときも、似たようなことを思った。批判が溢れ出ているのに、蓋を開ければベストセラーだ。売れているからって、優れたものじゃないってことは判っている。それは音楽も映画も本も同じだ。
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そして、この本を読んでみた。内心ドキドキしていた。偉そうな事を言っておきながら、日本の犯罪史上稀に見る(仰々しい枕詞だ)事件を起こした、当事者の手記。正直、影響を受けてしまったらどうしようか、とも思った。俺は本を読む以上、どんな本でも最大限影響を受けるつもりで読んでいる(そうでなければ読む意味なんてない)。ただ、この本だけは、少し怖かった。
しかし、どうだろう。前半はネットで揶揄されている通り、自己陶酔しきった糞ポエムだった。ガラガラのライブハウスで演奏しているクソみたいなバンドの歌詞でも、これよりはほんの少しマシだろう。ただ、文章自体は上手いな、とも思った。読ませる文章だ。特に、後半の面会に来た弟のやり取りの場面では、ちょっとぐっと来た。少しだけ泣きそうにもなった。
でもこれは(ここまで書いておいてなんだが)、所謂ただのお涙頂戴話だ。当たり前の反応というか、けして面白かったというわけではない。
そう、端的に言って「つまらなかった」というのが、この本を読んでの感想だ。
一部で神格化、カリスマと化している「殺人鬼」だが、彼はつまらない、ただの普通の人だったのだ。多くのフィクションに影響を与え、ひとたび本を出版すれば大いに話題になる「あの人」は、普通の人間だった。
前半のあの糞ポエムが、それを象徴している気がした。あの稚拙で過剰な修飾表現は恐らくわざとで、そうやって過剰に飾らなければならないほど、内容は、実は普通なのだ。
これについてはロマンポルシェのロマン優光さんが書いた記事に頷ける箇所があった。
“この本には特にそういうところがないのだ。(性的偏向については代入される対象がおかしいだけで数式は同じなので、対象がいくら理解できなくても根本的に理解できないというわけではない。) 普通の人が普通に想像したような話が続くだけである。 ”
http://bucchinews.com/subcul/5203.html
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少し前になるが、日曜の午前にやっている「ワイドナショー」という番組で、店の商品に爪楊枝を刺す場面をYouTubeに投稿した少年のニュースをやっていた。
それを観た松本人志が、「全然おもしろくない。声も張ってないし」とコメントしていた。他の出演者は「そこですか?w」といった感じだったが、俺は、松ちゃんはこういうコメントをどんどんしていったほうが良い、と思った。
つまり、つまらないものは、つまらないというべきなのだ。そして、松本人志のようなおもしろい人は、こういうくだらないことをする人間に向かって「全然笑えない。おもしろくない」ともっというべきなのだ。
同じ番組で、松ちゃんは、この本は読まない、といっていた。遺族の方がここまで言うのなら、と。立派な態度だと思う。下世話な好奇心で読むヤツに比べたら、遥かにマシな態度だ。
でも、俺は松ちゃんに読んでほしい。この本を読んで、おもしろくない、と言ってほしい。
「俺に影響受けてるのかもしれへんけど、お前の本、つまんなかったで」と言ってほしいのだ。
舞城でもユヤタンでも乙一でも、こんな本より、俺の小説のほうがおもしろいぜって言ってほしい。なにがベストセラーだ!っていってほしい。
だから、俺は敢えて言う。
自分に取っての本当のことを書いたのかもしれないが、ハッキリ言ってフィクションのほうがおもしろいぜ。普通の理由で普通の狂い方をした普通の人間なんかより、グルグル魔人のほうが狂ってるぜ。なんせウンコパン三世〜♫ デレッデレ〜♫ なのだ。
だから俺は、この本を批判するならおもしろい人たちに、「つまらない!」って言葉こそ、声高に叫んで欲しい。
6
“結局のところ、人生で起こるすべての本当のことは、陳腐で薄っぺらで通俗的なのだ。そうじゃないことは小説の中にしかない。だから小説の中で、つまんないなあと思うとき、わりとそれが人生の本当のことを書いているってのがあって、だから小説って難しい”(舞城王太郎/パッキャラ魔道)
まったくその通りだ。
そんで、つまんない本のことで、
いちいち騒ぐのはやめようぜ。
おわり。
2chって昔は面白い奴が面白いことをして、それに対するコメントがコンテンツとしてまとめサイトに使われていたんだけど、今はTwitterやほかサイトで盛り上がったコンテンツのリンクが張ってある事が多くて、コンテンツとしての役割は終わったんだなあと思った。
昔はコンテンツの魅力としてバスジャックやらキャットキラーやら電車男やらがあったけど、今はほとんどない。なんJの某大学生と弁護士ぐらいしか有していない。
一般人が電車で盗撮しているおもしろ画像のほうが集客力強くなっている印象を受けます。
むしろTwitterがネット炎上物件として昔の2chが担っていた役割を果たしているのだと思う。ゆっくりと2chがトップサイトから引きずり降ろされたのは大多数の人間がスマホを介してTwitterに投入され、一定数の面白い奴がTwitterに存在するからなのだろう。
今から2chに新規参入する経路が思いつかないし、これからはネット普及に伴い、匿名化が薄れ、生放送形式のコンテンツがさらに主流化していくのだろう。
そろそろ時代的に地下鉄サリン事件を知らない世代が表に出てきてもおかしくない頃合だと思う。というか、かく言う自分がその辺りの人間である。
事件のあったときに生まれてなかったという訳ではないけれどあまりテレビとか見てなかったしそもそも住んでいた場所が事件のあった霞ヶ関辺りとは遠く遠く程遠い場所だったのであまり実感も何もなかったってのもあるしあまり詳しくは知らない。でもじゃあ今になって事件を詳しく調べてみようなんて気分には正直全くならない。寧ろ出来るだけ触れるべきではない話題なんだろうなあと何となく怖がっている節がある。世間的な大事件といえば酒鬼薔薇の件や宮崎の件、バスジャック云々ってのもあったしあと最近なんかだと加藤の件とかも、とにかくセンセーショナルな物といえば他にも色々とあったはずなんだけど、それでも口に出すのも憚られるってレベルじゃあない。一体どこら辺が差を生んでいるんだろうなあと思った結果「被害者が進行形で後遺症に悩まされている」とか「関係者がつい最近まで逃亡生活をしていたり何らなの形で事件がまだ続いている」みたいな印象があったりするせいなのかなー、とか。何かと聞くのも調べるのも気が乗らないし不謹慎みたいな感覚があるんだよなあ。ポア鳥とかネタ的な感じで使われてる奴とか見ても結構笑いづらくて勝手に困っちゃったりしてる。とはいえこちらが調べるつもりじゃなくてもある程度耳に入ってきちゃったりする話なんかを聞いていると事件当時ないし事件が起きるまでの間にどういう風な感じでオウムが扱われてきたのかとか色々と聞こえてくるしやっぱり興味がないわけではない。怖いけど。
事件が起きるまでは「ちょっと変な宗教とその教祖」程度の扱いで結構普通にメディア露出していたとか、反面映像作品に教祖の写真をサブリミナルでぶち込んで視聴者に刷り込もうとしたとか、選挙活動していたとか(歌、有名らしいけど)、今思うと結構引く様な風景だけど当時としては割と日常風景だったんだなあ……何か怖い。いや寧ろそれ位まで浸透してきた辺りで事件が起きてしまったからこそのセンセーショナルなんだろうか。どうなんですかね。
日本人の宗教嫌いはオウムのせい、なんて話も聞くけどそれはちょっと言いすぎだと思う。多分もっと昔から結構ひねくれてる人種だからオウムだけのせいとはいえないと思うけど、まあ宗教自体に対する偏見とかあからさまな忌避みたいなのはオウムが決定的にしちゃった部分はあるのかもしれない。まあやっぱ当時の事知らんからなんとも言えんけども。実際海外に行って無宗教なんて言うと酷く胡散臭がられるらしいなんて聞いたけど、その場でちゃんと「日本では新興宗教が化学兵器テロを起こした事があってそのせいで宗教に対する偏見が強くなったんだよぅ」とか理由付けをしっかり述べてあげれば先方も納得するとは思うけどね、っつーか寧ろショックで口半開きになるよきっと。何せそんな事件なんて世界広しっつってもこの国だけでしょうし。自爆テロなら今でもチョイチョイ見かけるには見かけますが、「新興宗教が」「化学兵器を自作して」「地下鉄にばら撒いて人を殺す」んですよ。色々な意味でツッコミ所が多すぎる内容ですよ。
……オウム。結局は得体が知れないから怖いって事なのかなあ。新興宗教ぶち上げて人殺して、結局何がしたかったんだろうか全く分からない。分かるわけはないですし実際に首謀者たるヒゲ教祖(昔から生理的に苦手な風貌ではあった)も今では鉄格子の向こうで気が触れてらっしゃると聞くし、真相は闇の中って奴なんだろうなあ。何かやだなあ。怖い。
ここでいう苦労人とは、進学するお金がなかったり、家庭環境にめぐまれなかったり、いろいろとめぐり合わせが悪くて、自分の判断や努力以外でのっぴきならない境地に立たされた人のことです。
まず、苦労人であることは特に触れられることがない限り隠しておきましょう。別に自慢することではありません。
苦労人であることやそれによって得た経験やスキルは評価の対象になりません。
とても残念なことでありますが、あなたが引退して、成功者インタビューを受けるときまで、そのエピソードは封印しておくのがベターです。
苦労だったり、他人の失敗に巻き込まれたり、天災に巻き込まれたりした経験は、自分にとってプラスではありますが、水平飛行の人生を送ってきた人からみれば、特異値をもったスキルや考え方は脅威です。ツメは隠しておきくことをおすすめします。
苦労したタイミングで、徹底的に誰かに助けられるような状況ならば、問題がないのですが、苦労人は、その苦労をなんとかぎりぎりで克服できたのではないでしょうか。克服できたことは大変大きな自信につながります。自信は持っていいのですが、この自信もそっと胸のうちに秘めておきましょう。
どん底から見てはいけないものがあります。水平飛行の人生を送っている人たちの不平不満です。
車で歩行者突っ込んだ人、バスジャックしちゃった人のように感情の高まりがすべてをリセットさせる方向へ暴走しかねません。しかし、そのくらいのことで世の中は変わりません。より多くの水平飛行の人生を望む人がいるからです。
恵まれてくると、生きる困難に立ち向かうためでなく、どうでもいい人生の枝葉のことに対して不平不満をいうようになります。
そういう人に近づかないことは重要です。近づかなくてもインターネット上の交流サイトでは、見たくなくても見かけてしまいますので、情報の取捨選択には過分に注意を払ったほうが、余計な気持ちのフラストレーションを発生させることもなくいいと思います。
水平飛行中の人の悪事を偶然にも目にすることがあるかもしれません。しかし、これはあなたにとってチャンスではなくトラップです。
あなた自身がかかわることは何のプラスにもなりません。義侠心や正義感から何かしらのアクションを起こしてしまうかもしれません。
それは、災いを招く以外のなにものでもありません。積極的に応援しない立場をとるのが今後のためです。
あなたのコツコツした積み重ねよりもむしろ、降って沸いた幸運のほうがはるかに効率がよかったりします。
幸運があったら、大切な人とこっそりと分け合ってください。人に見せてはいけません。
あと、あわてる必要はありません。われ先にいった人は次の信号で止まって待っています。
一日に寝る時間も、一回で食べれるごはんもお金持ちでも貧乏人でもそんなに変わりません。健康食材を食べても死ぬ人は早死にしますし、ジャンクなものを食べて長生きする人は長生きします。
一人の人が管理できるものの絶対量は決まっています。たくさん持ちすぎるととそれを管理することに時間と手間をとられて楽しめません。
死ぬときは手ぶらです。持ち物を少なくしておかないと残った人に迷惑をかけることもあります。
大切な家族といっしょにご飯が食べれることのような他愛もないことが実は一番のしあわせだったりします。そんな他愛もないことからすら見放されてしまったかのように思い込みがちです。
そのくらいの幸せならば、ちょっとしたきっかけで、ふっと幸運が沸いてくるのではないでしょうか。
それでも、へこたれそうなときは、あなたが祖国やふるさとの一員であることを思いだしてください。あなたが締めるネジが、あなたが読み取るバーコードが、必死に打ち込むプログラムコードが、「ありがとうございます」という挨拶が、あなたの運ぶ荷物が…、私たちの国を地域を作っているのです。このような考え方は、戦後の日本ではタブー視されてきたかもしれません。苦しいとき、つらいときにこっそりと心の中で思い出してください。あなたは一人ではありません。
ぜんぜんアドバイスにもなっていないかもしれませんが、あなたの大切な人をいちばんに思って生きてみてください。それだけです。
以上、送ることばでした。
たまに聞かれるんだが、いつ頃からかアホらしくて答える気にもならなくなった。それでもまだ聞いてくるヤツがいるから呆れる。私と同じ立場だったとして、理性があれば本当にそんなことを考えるだろうか?それとも、単純に相手が私の立場を見えていないだけだろうか?
確かに、同世代で結婚している人間もいるし、子供がいるヤツもいる。友人の中にもいる。でも私にとっては、そっちのほうが特殊に見える。それが彼らの当たり前なのかもしれないが、少なくとも私にとっては特殊だ。だったら単に私のことが見えていないだけなんだろうな。私は特殊なんだろうか。果たして。そうは思えない。とても。
27歳。団塊ジュニアより5年ほど下か、ゆとりより5年ほど上か。
我々と大体同世代になるのは、サカキバラの東くん、バスジャックのネオ麦くん、芸能人はよく知らないけど、最年少で芥川賞だった人とか、思いつくのはそれぐらい。
我々の世代の流行といえば、イジメ、キレる十代、円光、バタフライナイフ、オウム真理教、あとなんだろう、時事としてはそんなもんか。
ソ連も一応は知っている。ベルリンの壁も知っている。教科書でも習った。ソフホーズとかコルホーズとか、五カ年計画とか、過去としてではなく。
私は映画が好きだったから、子供の頃はベトナム戦争の映画ばかり見て育った。洋画と言えば、ハリウッド映画と言えば、どこもかしこもベトナム戦争だった。
バブルも崩壊直前直後だけを知っている。平成米騒動とかもあったっけ。覚えてないけど。
小学生の途中で土曜日は完全に休日になった。確か卒業間際だったと思う。
小学校は4クラスあった。中学は6クラスだった。我々以降はどんどんクラスの数も減っていっていたと思う。少子化の走り。
失われた20数年とかリーマンショックとか重なっているけれど、もう物心ついたときにはそういうのは当たり前。
日本が経済世界一だったことがあるってのも幼い頃の記憶であるかないか程度で、実感としては残っていない。
だから、老人が言っていることは何一つ信用できないし、そもそも老害としか思っていないし、老人が作った会社も信用していない。そしてその老人が作り上げ、老人にて成り立っているこの社会も信用していない。参加したいとも思わない。早く逃げ出したいというのが本音だ。
老人は我々を食い物としか思ってないだろう。我々を奴隷としか思っていないだろう。彼らは自分の息子に対してでも、まともに人扱いしているのか疑問に思う。私から見れば、彼らは自分にへつらうか、同調するか、そういう人間以外は取り合わない。取り合ったところで果たして人間扱いしているのか、上手く使おうとしているだけにも見える。そして、私はそれだけは絶対に出来ない。吐き気がする。
今思えば、そういう反発、反発ではないな。脱却、逸脱、それはずっとあったのかもしれない。子供の頃から、学生の頃から。大人になっても。
老人と若者の世代間闘争とか、感覚のズレとか、大昔からある話だと言うけれど、今と昔が違うのは、その数の割合であって、社会が成熟した今は老人が圧倒的に多い。若者の反発などは、存在したとしても見向きもされないほど無力だ。そのことが老人には理解できるだろうか。丁度今中国と日本が戦争するようなもので、力も数もジジイたちが握っている。我々は既に諦めている。
私は外国のニュースを見るたびに思う。40代の首相がいる国だったり。26歳のCEOが老人たちの会社を、一瞬で、理解も出来ないようなサービスで、追い抜いたり。老人たちはその自らが作り上げた狭き共同体の中で、どう考えているのだろうか。狭い中で権力を奮ってはいるものの、それが井の中の蛙であるということに対して、そしてその井戸は、自らの無能によって自ら侵食や崩壊を招いていると言う事実に対して。老人帝国は無視されて終わるか、食いつぶされて終わるだろう。このままだと。私は別にどっちでもいい。同国人として多少なりとも憂う気持ちはあるけど、関係ない。どうしようもない。
一芸がある人、世渡り上手な人、金のある人、上手くいってる人は同世代にだっていくらでもいるだろうから、彼らはただ好きにがんばってください、としか言いようがない。ただ、それらを何一つ持ち合わせていない私のような人間は、ただただ毎日を成り行きに任せて過ごすしかない。普通の人が普通に暮らし、普通に過ごせて普通の人生を歩み、普通の生涯を終える、そういう絵に描いた普通は、今の私にとっては理想でしかない。理想、理想ですらない。私はそういう普通を望むことすらしなくなった。どうでもいい。
「2ちゃんねる研究」を閉鎖してから、いくつかブログをやってきました。
どれも芳しいものではありません。単純に言えばアクセスがない。
8年前は、毎日軽く1万はアクセスがありました。あれは私の力ではなかったのです。丁度2ちゃんねるが流行りだした頃に「2ちゃんねる研究」というサイトを始めたタイミングがよかったのです。
初音ミクが流行り始めたら初音ミクのサイトをやる。iPhoneが流行り始めたらiPhoneのサイトをやる。そういう具合にタイミングがうまく合ったサイトにアクセスが集まるのです。
初音ミクやiPhoneの定番サイトをやっている人でも、どこかで人知れずブログを立ち上げたら、自分の力の無さに気づくはずです。初音ミクやiPhoneのブームにうまく乗れただけの自分の姿が見えてくる。
「2ちゃんねる研究」も同じことで、人より早く2ちゃんねるのサイトを始めたというだけだったのです。
(追記)
本人かどうか疑問を持たれる方もいるでしょう。サイトは7年前に消してしまっていますが、当時のメールアドレスは今でも有効です。たとえば、ある程度名前の知られているサイトの人にメールを送ってもらって、私が返信すれば、その人にこのエントリーの真実性を証明して貰えるでしょう。(もはやどうでもいいことですが)。
(追記)
「2ちゃんねる研究」をやっていた頃、個人的な文章というコーナーを評価して貰ってました。(私の評論を書く欄です)。私はzenhiteiというハンドルを捨ててから数年間サイト運営をやめていて、2006年から評論系のサイトを始めました。これまで700くらいのエントリーを書きましたが、かなり地味なアクセスしかありません。はてブが付いた総数は五年間通して約400くらいです。大手という補正がなくなると、この程度というのがよくわかりました。アクセス数があると発言に<影響力>が付加されるので、素晴らしいことを言っているように思えるのです。それくらい理屈ではわかっていましたが、実際に肌で感じると、「誰も読まない評論」というのはテキストとしてあまりにも無力だと実感しました。発言の価値は媒体の強さの問題です。
(追記)
このエントリーを書いた目的。前述したようにブログのアクセスが伸び悩んでいるため、8年前のzenhiteiという名前がどれくらい記憶されているのかリサーチしようと思いました。場合によっては、今のブログを宣伝しようと考えていたわけです。晒すという表現の方が的確かもしれませんが。
(追記)
8年前「2ちゃんねる研究」を閉鎖した理由について書いておきましょう。あの当時でも広告とかアフィとかありましたが、使っている人は少数派でした。私は使う気はまったくありませんでした。信念というよりは、あの時代の普通の感覚です。ではお金も貰えないのになんで一生懸命更新していたのかと言えば、「他人に評価されるため」です。これも私独特の信念というより、あの時代の感覚だと思います。大手サイトをやっていると、様々な悪口を言われます。今ならアフィ収益があるから悪口言われても平気で更新するのでしょうが、2002年当時はそうではありませんでした。「自分が他人に評価されているか」という手応えが重要でした。「他人に評価してもらう」ということに手詰まりを感じたのが閉鎖の理由だと思います。直截に言うなら、褒められたくてやってるのに褒められないという、今では笑われるような理由です。昔はサイトを閉鎖する人が多かったのはそういうことではないですかね。
(追記)
まだ私の本人確認は出来てません。前述したように昔のメアドが生きているだけなので、ある程度有名な人にメールして貰って、私が返信することで確認するしかありません。(ある程度有名な人でないと、客観性をもって証明するには弱いですよね)。ちなみに昔のサイトのURLはちょっとわかりづらいのでコピペしておきます。http://www24.big.or.jp/~faru/。internet archiveに過去ログは残ってますから、そこで昔のメアドも確かめられます。
(追記)
当時の私は女性だと言われていました。「2ちゃんねる研究」が始まったのは2000年ですが、この当時のネットはマナーにうるさかったです。だから出来るだけ丁寧な言葉で書いていました。最初に2ちゃんねるを見た時は、ユーザーがタメ口で話しているので恐かった記憶があります。「2ちゃんねる研究」の閲覧者は2ちゃんねらーですから、私の過度に丁寧な言葉遣いが女性に見えたのでしょう。文体は私の性格もありましたが、2000年当時のネットの空気でもあります。
(追記)
このエントリーは意図的に2000年仕様の文体で書いてます。ネットの文化も大きく変わりましたので、今では昔のような丁寧な文体は選択してません。
(追記)バスジャック事件が起こったのが2000年5月でした。あれで2ちゃんねるは注目を集めました。「2ちゃんねる研究」を始めたのは2000年6月です。私がはじめて作ったホームページなので、戦略性があったわけではありません。2ちゃんねるをよく見るようになったので、サイトを作っただけです。
とにかく他人に受け入れられたい欲求が強すぎるという根本的な原因は同じでも、自己愛性人格障害は男のほうが多く、演技性人格障害は女のほうが多いらしいよ。ということは、男は「俺が認められないのは俺を認めない周囲がバカだから」という思考になる傾向にあり、女は、見境無く体使ってみたり「可哀相な私」を装って周囲の同情を引いてみたりと、キ○ガイじみた努力をする傾向にあるんじゃないだろうか。
酒鬼薔薇事件や17歳バスジャック事件や秋葉原通り魔事件なんかが、自分を認めてくれない世間に対する報復だな。んで、「子供を殺された可哀相な私」を演出して世間の注目を集めようとしたのが畠山鈴香であったと思う。
だから、非モテ女というのは、「モテたいとは思うけれど、キ○ガイじみた努力をしてまでモテたいとは思わない」と思ってる、それほど受け入れられたい願望が強力ではない人間なのではないだろうか。
先日、愛知県で14歳の少年がバスジャックをするという衝撃的な事件が起きた。
動機については、
「彼女にふられたから」
「親に叱られたから、嫌がらせでやった」
「家族をめちゃくちゃにしたかった」など色々あるようだが、、、
ちょうど本棚を整理していたら出てきたのが、明橋大二著『輝ける子』(一万年堂出版)。
どうやら人気マンガシリーズ『子育てハッピーアドバイス』シリーズのもとになった本らしい。
その中に、こんな一節が。。
中学3年から、家の中で激しく荒れだしたのですが、
やはり小学校から中学校にかけて執拗ないじめを受けていたといわれます。
自分がいじめられていることを親に言っているなら、まだいいのですが、
全然親に言っていないことがあります。
となると、この子は人が変わったんじゃないかとか、
あるいは狐でも憑いたんじゃないかと思われたりするんですが、
実はよくよく聞いてみると、それ以前に激しいいじめを受けていて、
それをひたすら我慢していたということが多いのです。」
もしかしたら、事件を起こしたこの子も、被害者だったのかもしれないね。
やったことは許されないけど。
おいおい、なんでお前がそこまでキレる必要があるんだよ。お前が犯人を「いじめられっこ」と仮定して、いじめられっこであることを前提として話しているのに対して、「いや、その前提間違ってると思うんだが。そもそもその犯人、いじめられていたという要素が見当たらないんだが。学校でも人気者だったみたいだし、単に自分勝手だっただけじゃね?」と言っただけだぞ。お前が勝手に犯人に共感して自分と同一視して、犯人を自分と同じいじめられっこだと思っただけなんじゃないのか?
犯人が友人と携帯でしたという、「東京に遊びに来ないか?」→「仕事あるから無理」というやりとりは、至極普通のものだ。社会人ともなれば、いきなり誘われて行くのは難しいだろう。そこで「友達一人もなし」とか思い込む犯人がおかしい。この程度で「友達なし」とか思うんだったら、犯人にとっての「友達」の基準は、「俺が誘ったら、たとえどんなに仕事が忙しくても、俺の誘いを優先するやつ」ということになる。まさしく自分勝手。相手にも都合があるということすら考えられない、想像力の欠如。
そもそも、いじめられっこだったら、特に会わなければならない用事もないのに人を誘うということ自体が、けっこうなハードルだと思うんだがな。声を掛けても無視されるか罵られるだけという体験が身にしみてるから。返信の内容は、無視してるわけでも罵ってるわけでもない、まともなものだ。
あと、根本的な原因は親だと思う。こういう無差別通り魔殺人というのは、大抵の場合、幼児的万能感が爆発したものだ。他人を自分の思い通りにしたい。皆に注目されて特別視されたい。でも大人になってしまった今、誰も自分を特別扱いしてちやほやしてくれないから、無差別通り魔殺人という、マイナスの形ででも特別視されたい。言ってみれば、精神的赤ちゃんプレイ。
外的価値が優先する価値観は、他者から見て「すごいな」と嘆声の声をあげられることが重要なのである。したがって、その価値観は一般基準から見て必ずしもポジティブなものに限らない。価値観の反転が起こり、通常では否定的な価値を持つようなものでも、人が容易にまねすることが出来ないこと、人があっというようなことに価値があるという特徴がある。「ネガティブでもポジティブでも、特殊であることが大事なのです」「福岡の少年バスジャック事件は僕にはよく分かります。あれはかつての僕だった。ポジティブに生きられないなら、ネガティブでもよい。自分が他の人と違った、神から恩寵を受けた人間であり、何でも許される万能者であることを示したかったのだと思います」というような価値観である。
こういう、赤ちゃんの精神が修正されることなく育った人っていうのは、大抵親の育て方に原因があるところが大きい。甘やかしたり、逆に突き放したり、あるいは全く無視したりと、子供を人間扱いせず、自分の願望を叶えるための道具として利用すると、大きい赤ちゃんが育ちやすい。甘やかすと、世間に出たとき、他人が自分の思い通りにならないということに耐えられないし、逆に甘えさせるべきときに突き放すと、後から失われた幼児期を取り戻そうとして、何かのきっかけで傍若無人に振舞ったりする。加藤の場合も例に漏れず、「親が書いた作文や絵で賞をとった」「子供を自慢したいから、自分を完璧に仕立て上げた」とか言ってるしな。おそらく、親に本当の自分を見てもらえず、いい子の演技をする偽の自分しか他人には認められないのだという思い込みで育ったんだろう。
赤ちゃん時代の「皆自分を特別扱いしてくれる」「泣きさえすれば、他人が全部願望を満たしてくれる」という世界観から、大人の「特別扱いされないのがデフォ」「他人とは、自分の思い通りにならないもの」「願望があれば、叶えるにしろ諦めるにしろ、自分でなんとかする」という世界観に、年齢に応じて徐々に移行させるような子育てをする必要がある。
しかし、根本的な原因が生育歴にあるということは、世間は認めたくはないわな。自分の成育歴に問題があるとか思いたくない。特に子供を持つ親御さんなら尚更。だから自分とは関係ないゲームとかのせいにするわけで。文科省ですら、「理想の子供は石川遼と浅田真央」とかいう、大人の勝手な理想像を子供に押し付けるような内容の冊子配ってるしな…
元オウム?の某アルファブロガーが、はてなでブログを書いているとか、それだけの話を針小棒大に騒ぎ立ててるだけでは?
それくらいではてながオウムの手先になるのなら、2ちゃんねるはバスジャック犯や殺人犯の手先という事になるぞ。
かつてid:Hayashidaが自分こそ痛いキモオタなのを棚に上げて「オタクはオウムと同類」とか出鱈目を抜かしてたし、十年くらい昔はゲスッが「エヴァオタはオウムと同類」扱いをしてエヴァ関連サイトの掲示板を執拗に荒らしてた。
自分の気に入らない連中をオウム呼ばわりして中傷する事は、昔からあちこちで見かけるもの。
カルト宗教は思い込みが激しくて聞く耳を持たない傾向があるけど、カルト宗教に噛みつく連中の一部も、さらに輪を掛けて思い込みが激しくて聞く耳を持たない上にすごく暴力的だったりするもの。
だからと言ってカルト宗教のやってる事が免責されるという意味じゃないけどね、やり方を間違えると「反カルトという名の新しいカルト」になるだけだってこった。