おいおい、なんでお前がそこまでキレる必要があるんだよ。お前が犯人を「いじめられっこ」と仮定して、いじめられっこであることを前提として話しているのに対して、「いや、その前提間違ってると思うんだが。そもそもその犯人、いじめられていたという要素が見当たらないんだが。学校でも人気者だったみたいだし、単に自分勝手だっただけじゃね?」と言っただけだぞ。お前が勝手に犯人に共感して自分と同一視して、犯人を自分と同じいじめられっこだと思っただけなんじゃないのか?
犯人が友人と携帯でしたという、「東京に遊びに来ないか?」→「仕事あるから無理」というやりとりは、至極普通のものだ。社会人ともなれば、いきなり誘われて行くのは難しいだろう。そこで「友達一人もなし」とか思い込む犯人がおかしい。この程度で「友達なし」とか思うんだったら、犯人にとっての「友達」の基準は、「俺が誘ったら、たとえどんなに仕事が忙しくても、俺の誘いを優先するやつ」ということになる。まさしく自分勝手。相手にも都合があるということすら考えられない、想像力の欠如。
そもそも、いじめられっこだったら、特に会わなければならない用事もないのに人を誘うということ自体が、けっこうなハードルだと思うんだがな。声を掛けても無視されるか罵られるだけという体験が身にしみてるから。返信の内容は、無視してるわけでも罵ってるわけでもない、まともなものだ。
あと、根本的な原因は親だと思う。こういう無差別通り魔殺人というのは、大抵の場合、幼児的万能感が爆発したものだ。他人を自分の思い通りにしたい。皆に注目されて特別視されたい。でも大人になってしまった今、誰も自分を特別扱いしてちやほやしてくれないから、無差別通り魔殺人という、マイナスの形ででも特別視されたい。言ってみれば、精神的赤ちゃんプレイ。
外的価値が優先する価値観は、他者から見て「すごいな」と嘆声の声をあげられることが重要なのである。したがって、その価値観は一般基準から見て必ずしもポジティブなものに限らない。価値観の反転が起こり、通常では否定的な価値を持つようなものでも、人が容易にまねすることが出来ないこと、人があっというようなことに価値があるという特徴がある。「ネガティブでもポジティブでも、特殊であることが大事なのです」「福岡の少年バスジャック事件は僕にはよく分かります。あれはかつての僕だった。ポジティブに生きられないなら、ネガティブでもよい。自分が他の人と違った、神から恩寵を受けた人間であり、何でも許される万能者であることを示したかったのだと思います」というような価値観である。
こういう、赤ちゃんの精神が修正されることなく育った人っていうのは、大抵親の育て方に原因があるところが大きい。甘やかしたり、逆に突き放したり、あるいは全く無視したりと、子供を人間扱いせず、自分の願望を叶えるための道具として利用すると、大きい赤ちゃんが育ちやすい。甘やかすと、世間に出たとき、他人が自分の思い通りにならないということに耐えられないし、逆に甘えさせるべきときに突き放すと、後から失われた幼児期を取り戻そうとして、何かのきっかけで傍若無人に振舞ったりする。加藤の場合も例に漏れず、「親が書いた作文や絵で賞をとった」「子供を自慢したいから、自分を完璧に仕立て上げた」とか言ってるしな。おそらく、親に本当の自分を見てもらえず、いい子の演技をする偽の自分しか他人には認められないのだという思い込みで育ったんだろう。
赤ちゃん時代の「皆自分を特別扱いしてくれる」「泣きさえすれば、他人が全部願望を満たしてくれる」という世界観から、大人の「特別扱いされないのがデフォ」「他人とは、自分の思い通りにならないもの」「願望があれば、叶えるにしろ諦めるにしろ、自分でなんとかする」という世界観に、年齢に応じて徐々に移行させるような子育てをする必要がある。
しかし、根本的な原因が生育歴にあるということは、世間は認めたくはないわな。自分の成育歴に問題があるとか思いたくない。特に子供を持つ親御さんなら尚更。だから自分とは関係ないゲームとかのせいにするわけで。文科省ですら、「理想の子供は石川遼と浅田真央」とかいう、大人の勝手な理想像を子供に押し付けるような内容の冊子配ってるしな…