はてなキーワード: 逆効果とは
これをプリントアウトして、透明なクリアファイルに入れて郵便受けに投かんしておけば読んでくれるのではないでしょうか。
https://style.nikkei.com/article/DGXDZO78519080X11C14A0W02001
※
普通の折り込み広告のようにそのまま入れると読んでもらえず捨てられる可能性があるので、
広告を抜けば、クリアファイルが使えるという付加価値として、読んでもらえるようにします。
正直逆効果で、周囲はうるさいし、叩いている人の周囲は布団の奥に眠るダニをさらに拡散させていて不潔極まりない徒労と知れば、
既婚未婚問わずオジサンが若い子に受け入れられるための最低限だと思うので書き残しておきます。
40を超えたオジサン以外は読まないでください。
とにかくニオイに気を遣う
無理に若作りしない
自分 40代前半、会社員、年収450万円前後、お小遣い制、フツメン低身長
相手 20代前半、美容健康系の店員、おそらく年収300万円くらい、痩せ型美人
若作りしないが、うまく年齢差を感じさせない
オジサンになると実感があると思いますが、首の後ろ、ワキ、頭皮、口からニオイが出ます。
ニオイには死ぬほど気を使ってください。
ニオイのないオジサンがモテるわけではありませんが、ニオイのあるオジサンはモテません。
とにかく暇があれば歯磨きしてください。
爪が長いのは論外。忘れがちですが足の爪も切る。
これはいろいろな意味で大事です。デート前日は必ず切ってください。
おじさんになると髪にツヤとハリがなくなります。
シャンプーは今使っているものより1000円高いものを買ってください。
コストをかける必要はありませんが月に1度はカットしてください。
とにかくニオイには気を使います。
デートのときはデニムパンツかチノパンにシャツ、ジャケットを合わせています。
直近のデートはZARAのシャツ、無印良品のジャケット、GUのデニムでした。
ただ、袖が余る、肩が落ちるほどダブダブのコーディネートはオジサン感が増します。
正直若い人が着るようなものをオジサンが着てしまうとオジサン感が増すだけです。
オシャレに自信のない一般人は白シャツに紺ジャケットが無難です。
高い靴を履く必要はありません。
靴の汚れには常に気を使ってください。
オジサンになってから安い小物を持つとかなり安い人間に見えてしまいます。
普段は好んでシルバーチェーンやバングルをしていますが、客観的に見てあれは痛いオジサンファッションです。
目が小さいのと、どうしても目の周りに加齢が出てしまうので、伊達メガネでごまかしています。
メガネはなるべくシンプルなものを、ショップに行って女性店員に選んでもらってください。
流行りでない定番のものを選ばないと、痛いオジサンになってしまうので気をつけてください。
マットのヘアクリームをつけてハネを抑えるくらいにしています。
オールバックや7:3にしてしまうとオジサン感が増すと思います。
この辺は顔の造りもあるので普段から美容師さんに相談しましょう。
オジサンになると、急なえずき、鼻水などに苦しむことになります。
飲食店のお絞りで鼻をかむのは論外です。席を外して離れたところで鼻をかみましょう。
ハンカチはブランド物のものを持ってください。大して高くないです。
ティッシュはコンビニで売ってるポケットティッシュで十分です。
ヒゲが濃い人は、T字カミソリでデートの前に再度剃っておいてください。
必ずデートの前に鏡でチェックしてください。
あまり高い店に行って奢りまくってしまうと、それはそれで「距離感」が出てしまいます。
「友達」「おにいさん」感をうまく出しつつ、大人としてしっかり対応してください。
明るいところで会ってしまうとお互いの年齢差を感じてしまうものです。
あからさまな高級店に誘ってしまうと、「こいつワンチャン狙いだな」というのがミエミエになってしまいます。
相手に負い目を感じさせてしまうと二回目の誘いに乗りにくいものです。
この辺の心理戦は自分と相手の懐具合でうまく調節してください。
私はだいたい客単価6000円前後のイタリアンかカジュアルフレンチにしています。
フォークとナイフの使い方に自信のない方は和食でもよいですが、靴を脱がなくてはならない店は避けてください。
個室だと相手も構えてしまうので、適度なブラインドがある半個室がおすすめです。
これは超重要なことですが、かならず一度行ったことがあるお店にしてください。
「こいつワンチャン狙いだな」というのを隠すために、私はいつも「割り勘ね」と言って出してもらっています。
と言いつつ、会計時に伝票を相手に見せずに「いくらですか」と聞かれたら「1000円です」と言います。
なるべくチャーミングに「ひとり1000円ね」というのがポイントです。
2軒目があることを想定して、必ず近場のバーをロケハンしておいてください。
どれだけ近くても移動はタクシー。女性を歩かせてはいけません。
また、移動のまえに「お手洗い大丈夫?」と声をかけるのを忘れないでください。
女の子の喜びそうなカクテルを3つくらい頭にいれておくと捗ります。
3つです。たくさんカクテルの話をするオジサンはひたすらウザいです。
3つまでです。
このへんは得手不得手あると思いますが、大事なことは「相手の話をひたすら聞く」です。
「そうだね」
「そう思うよ」
「大変だったね」
相槌はこれだけで大丈夫です。
とくに「自慢話」「昔の話」は相手がどれだけ笑ってくれても距離を広げるだけなので注意しましょう
相手を「さん付け」で呼ぶ、共通の知り合いを「さん付け」で呼ぶというのは重要です。
よく自分を大きく見せようとして「あいつは俺の知り合いだから云々」という話をする人がいますがはっきりいって逆効果です。
「○○さんならよく知っていますよ。お世話になってますからね」くらいにしておくのが無難です。
断られたら、お相手に帰りのタクシー代を渡して泣きながら帰宅してください。
決してしつこく食い下がってはいけません。
その日に行けなかったとしても、後日またチャンスがあるかもしれません。
ポイントは執着心を見せないことです。
以上です。
取材先でそう耳にする機会が増えた。企業のプロモーション担当者は、どのSNSで若者にアプローチをするか頭を悩ませている。
実際に高校生や20代の女子に聞くと、「気付いたらLINEを使わなくなった」と“LINE離れ”を口にする。
「LINEが久しぶりに鳴ったかと思ったら、『広告かよ』って」(27歳女子)
彼女たちがアクティブに使うのは、もっぱらインスタグラム(Instagram)だ。「インスタのDM(ダイレクトメッセージ)で連絡を取るようになってから、あまりLINEを使わなくなった」そうだ。しかも、彼女たちは独自の手法でインスタを駆使している。
都立高校の女子高校生(17)の日常は、スマホとともにある。帰宅後は終始、インスタ→ぶつ森(どうぶつの森)→インスタ→YouTubeのサイクルを回す。
「気が付けば、LINEを使わなくなった。前は未読も既読も溜めなかったけど。LINEはすぐ返す方が少ない。友人には未読が30~40件溜まっている人もいる。未読スルーを嫌がる人もいると思うけど、今は当たり前になっている」と話す。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171214-00010002-binsider-sci
確かに
ただ、うっかり一日ネットサーフィンとか一日寝たきりとか一日ソシャゲとかしてしまい
英語の授業とかで、やたらゲーム形式とかグループでどうこうとか、先生たちは「楽しんでできるように」っていうのを何度も連呼したけど、普通に逆効果だと思うんだよね。
少なくとも、私にとっては一ミリも楽しくなくて、みんなの晒し者にされるゲームとか私のせいでグループ全体が連帯責任を負わされるグループでの発表とかは本当に苦痛でしかなかった。
というか、基本的に、勉強なんだから楽しくなくて当たり前だと思う。勉強における楽しさとか面白みっていうのはゲームにおけるそれとは違うんじゃないの?っていう。いや本当のゲーム、テレビゲーム的な、そういうものとは似通った部分があるかもしれないけど。
例えば、英語の授業で苦痛を受けた私みたいなやつにとっては、英語=授業でやらされるゲーム=苦痛みたいな、そういう思考になって、英語自体がもう嫌なものになるわけ。
最近(?)体育の授業のせいで運動が嫌、苦手みたいな意識が染みついてしまったみたいなのよく見るけど、それと同じことが英語にも言えると思う。もちろん数学にも。日本史にも。
英語の、そういう、ゲーム的でない、例えば長文読解のためにわからない単語を辞書で引いたり、英文を和訳するのにうまい言い回しを考えたり、文型を理解してそれに当てはめて英作文をしたりとか、そういうのはすごく楽しかったわけよ。私にとっては。
実際、無理に英語の先生および"英語"のキャラクターに気に入られるような、英語のゲームなどを楽しめる明るい生徒になろうとすることはやめて、私の楽しいと思えることをガリガリやることによって、英語の成績は上がった。私のような人間にとっては、成績が上がる=楽しさにもつながる。
もちろん、今の私は英語なんて全く話せないし、TOEICだってペロペロだけど、英語=楽しんで身に付けよう!!楽しまなきゃ!!みたいな強迫観念を持っていたままだったら、英語という概念死ねの気持ちは消えなかったと思う。
だから、ECCジュニア~~みたいなそういうスタート、今小学校で実際に英語の授業として何やってるのかわからないけど、あの一面的な「楽しさ」押しのスタートっていうのは、そりゃ好きな子どもにはぴったりだろうけど、私みたいなそういうのがとにかく嫌っていう子どもにとっては、英語死ねのスタートにもなりかねないのでは、と思っている。
それからずっと一生続く苦しみの中で必死にもがいている私とその元投稿の人似てるなぁと思って。
最近、そうやってもがいている人を自殺に見せかけて殺すという嫌な事件がありました。
その人がもしも変な人に引っかかって自殺してしまいたくなったら私は泣くから、ここに出来る限りのことを書きます。
死なないでね。
私のこと信じられなくてもいいから死なないでね。
苦しかったら助けを求めてね。
てか、あの投稿をした時点であなたは助けを求めてるし、それに応えてくれる人はいるよ。
助けに来てくれる人、実はいるよ。
昔の私
誰のことも信じられなかった。
だって道行く人は自分のことが可愛くて、『助けて!』の言葉さえも言えずにただ泣いて殴られ続けている私を見捨てて去っていったから。
母のことも信じられなかった。
私が家の前でいじめっ子に首筋にナイフを突きつけられているときに、
何もできなかったから。
当時鉛筆削りとして使われていた折りたたみ式のプラスチックケースが着いていたもの。
肥後守に似てるけど、それよりももっとチャチな、当時の小学生が普通に買って使ってたようなもの。
もう机にくくりつけて使う大型の安全な鉛筆削りも普及していたけど、
そんなチャチなナイフでも首筋に突きつけられたらそりゃ怖い。
頸動脈の近くだったし。
今の私だったら当時の母やそう、近所のおばさんもそばにいたけど、手を出したら私に命の危険があるから何もできなかったってわかるけど、
当時の私にそんなことわかるわけがない。
助けてもらえなかった
それしか頭に残らなかった。
もうさ、朝は近所の子なんかと一緒に登校できるから怖くなかったけど、
安住の地とは思えなかった。
まあ色々ありました。
本当に誰のことも信じられないから、成人して仕事についても同僚のことが信じられないのね。
全部悪い方に捉えちゃう。
よくニュースでいい人が出てきたり、仲の良いクラスの話が出てきても、
同じ世界のこととはとても思えなかった。
とてもじゃないけど信じられなかった。
(念のため。
今そのナイフは持っていません。
持ち歩くのをやめてからも保管してたけど、自分にはそのナイフを使う資格がないと思ったので警察に持っていって正式に処分しました)
私がナイフを持ち歩いていると知ったとき止めてくれた人がいましたが、その人のことも完全に信じたわけではありませんでした。
でも一応、持ち歩くのはやめました。
本当に誰のことも信じられなかったのよ?
誰も私が困ったときには助けになんて来てくれない、そう思い込んでいました。
そのとき、アレって思ったのね。
あれ?あの人たち本当に助けてもらえてる。
すごくビックリした。
もしかしたら声を上げたら助けてもらえるの?って生まれて初めて思った。
その直後に起きたのが地下鉄サリン事件でね。
ショックだった。
私は人を信じられないけれど、それでも自分の子供時代と同じような思いをする人が出ないように、自分だけは助けるんだ、助けることでちっちゃかった頃の私も喜んでくれるに違いない、そう思って仕事を選んでいたから。
その仕事は脳の研究をする人たちのお手伝いで、生活できるようなまともなお給料なんてもらえていなかったけどね。
でも、必死になって働いてた。
その私と教祖が合わせ鏡のように見えたのね。
別の言い方だとドッペルゲンガー。
鏡のお化けかな。
ほんのちょっと砂一粒分違っていたら、私はこの人になっていたのかもしれない。
その時、それまでの自分が壊れました。
それで初めて人に助けてと言いました。
それまで自分が心の中で憎んでいた恵まれた頭と恵まれた環境にいた人に助けを求めました。
信じてはいない人に助けを求めました。
それからいろんなことがありました。
どの土地も私には故郷よりも優しい人が住んでいるように感じました。
しがらみがないから新鮮な目で見られたのでしょう。
初めて人を信じることを覚えました。
で、もう大丈夫だろうと思えた頃、故郷に帰ってきたのだけれど、やっぱり昔の傷がうずくの。
それでも私が子供の頃から比べると通学路は随分と安全になっていました。
大人があちこちに立ってて、通学中に襲われる心配をする必要はないように思いました。
それでも傷はうずく。
精神安定剤が欠かせません。
なんで自分をいじめた人間が苦しむのではなくて、私が苦しまなくてはいけないのか!
道端でベルトをムチ代わりにしてぶたれていたときに、家の中から飛び出してきて助けてくれた人がいたの。
吐けば助けてもらえるとでも刷り込まれたか、苦しくなるとそれ以降吐くようになっちゃいましたが。
最悪の結果にならずに大人になれたのはその時のことがあったからかもしれないと思うことがあります。
お前は助けてもらえたじゃないか、自分はそんな経験ないぞ!って思ったでしょ?
違うからね。
あなたの投稿を読んで、どれだけの人がブックマークしたと思ってる?
助けてもらえないなんて嘘だからね。
信じられなくてもいいから助けは求めなさい。
助けは来ます。
効果があるのか、それとも逆効果になっちゃったらどうしようなんてことを考えながら、必死になって言葉を紡いでる。
気づいてください。
助けは来ます。
でもって傷ついたままでも、
生きていけます。
とりあえず、酒飲んで精神科の薬っつうのはやめて、
私が今やってるみたいに増田に書き込んでもいいと思う。
毎回じゃないだろうけど反応があるかもしれない。
本当に助けは来るのよ。
うつヌケ?
そんなもん信じられなくてもいい。
助けは来る。
それでも信じられないなら、自分が人を助ける側に回れ。
そうしたら少なくとも例数1確保できるから。
何度でも言う。
助けは来る。
自分自身のことさえ信じられなくてもいい。
それでも助けは来る。
私のことも信じられなくてもいい。
それでも助けは来る。
だから助けを呼ぼう!
このままほっとくと再生に失敗したドイツみたいになるわけじゃん
そうすると嫌でも変わらなきゃいけない
変るためには誰か1人に権力を集中
集中させないと相手が反抗してきて変れない
なあなあだとずっとそのまま
けどまだ全部途中
今政権交代とかしてる状況じゃない
昔の話でいえばフランス革命のときも独裁だったしドイツも戦後は独裁で立て直した
はじめに断っておく、
つまり、私の言いたいことは政治ではなく選挙における投票行為の意味であって、それ以上それ以下でもない。
議論をしたいわけでもなく「せめてこれぐらいはわきまえて議論してほしい」と願うだけの文章である。
であるが普段論考に慣れていない人には少し細かすぎる理屈かもしれない。
だが、「せめてこれぐらいはわきまえて議論してほしい」の理由には意味のある主張には必須だと思われる。
必ず読んで!ではないので、できれば読んでほしい。あと僕の思想がにじみ出た範囲は勘弁してほしい。
言うまでもないが、投票する権利は国民に与えられている。条件は18歳以上。日本国憲法は具体的に指示まで出してくれないので、”民主的に”国会によって法律で決められる。
選挙活動も年齢などの条件を満たせば認められる。
選挙活動は”他者の投票行為”に関与する行為(強制は除く)を含むので、「ルールを守って投票先をおすすめしましょう」となる。
因みに「できるだけ投票に行きましょう」も選挙活動と言える。理由は後述する。
選挙活動がなければ、メディア以外の情報はなくなるので、選挙を行うのは事実上できないと言える。メディアも選挙活動の様子と、世論調査結果を報道するとが主な発信となるし、選挙活動が起点となって世論調査となるので、選挙活動を嫌う人は多いが、そもそも選挙活動がなければ選挙という民主主義は成立しない。
選挙活動を嫌う根本的な理由は自身の行動について指図される嫌悪感からくるもので、加えてめんどくさいので、ついつい選挙活動について、文句を言いたくなるのだ。
わかりきっていることだが、選挙はめんどくさいです。
紙で投票する選挙方法は時代遅れだ。選挙に行ける人は時間と心に余裕がなければ行けない。これは明らかに時代にあっていない。だが、ルールを改正するには投票しなければならない矛盾を常にはらんでいる。
プロパガンダは悪い意味で使われることが多い用語だが、ここではその意味を含まない。「選挙に行きましょう」は政府広報だという意味だ。もちろん例外はある。
なぜ政府広報は「選挙に行きましょう」というのか、それは投票率の低下は民主主義の崩壊を意味するからだ。
だから「選挙に行きましょう」は「民主主義を守ろう!」と転換できる主張である。だが、大多数が選挙にいかない(行けない)ので、これはすでに一部の国民と政府広報における実質的な選挙活動になっている。
「選挙に行きましょう」が民主主義の唯一の回答と捉えられかねないが、それは間違っている。だが、他に現時点で有効な対策は考えられていない。
白票は「政治に対する不信感への表明」と受け取られるのに対して、棄権票は「政治に対する無関心」と言われているのが通説だ。
めんどくさくて白票にした人だっているはずなのにそれは糾弾されない。
だが、この通説には根拠が無い。”選挙に行く人”は「選挙にいかない人」と「選挙にいけない人」を区別できないので、
体良く意味付けをしただけだ。ここに気がつくかつかないかで、棄権票の意味が大きく変わってくる。
論理的に言える白票と棄権の違いはせいぜいが「投票所にきた人」と「来なかった人(来れなかったを含む)」だ。これに勝手な意味付けをしても議論は空論に終わる。
つまり、棄権票は一方的に「政治に対する無関心」とまとめられがちだ。だが、「選挙に行きましょう」運動の意味するところは、政府が”投票システム”の変更に前向きではない印象を与える。
棄権には様々な理由があるに違いない。最近は棄権理由を一方的に決めつけて、自己の主張を通そうとする人が目立ってきた。
あえて定義するなら「平和に平等に国家運営しましょう」というぐらいの意味だと僕は思っている。今の投票ルールでは国民の約半数が政治に参加していない事実があるので、残りの半数をいかに参加できるようにするか、これがより良い民主主義を目指す起点となるべきだ。
オウム返しに同じことを言われては、嫌になるに決まっている。
この辺の共通認識が足りていないので、投票率に対する議論は不毛に終わることが多い。共通認識が確認できないのですれ違いになり、互いの主張を誤解しあうのだ。