英語の授業とかで、やたらゲーム形式とかグループでどうこうとか、先生たちは「楽しんでできるように」っていうのを何度も連呼したけど、普通に逆効果だと思うんだよね。
少なくとも、私にとっては一ミリも楽しくなくて、みんなの晒し者にされるゲームとか私のせいでグループ全体が連帯責任を負わされるグループでの発表とかは本当に苦痛でしかなかった。
というか、基本的に、勉強なんだから楽しくなくて当たり前だと思う。勉強における楽しさとか面白みっていうのはゲームにおけるそれとは違うんじゃないの?っていう。いや本当のゲーム、テレビゲーム的な、そういうものとは似通った部分があるかもしれないけど。
例えば、英語の授業で苦痛を受けた私みたいなやつにとっては、英語=授業でやらされるゲーム=苦痛みたいな、そういう思考になって、英語自体がもう嫌なものになるわけ。
最近(?)体育の授業のせいで運動が嫌、苦手みたいな意識が染みついてしまったみたいなのよく見るけど、それと同じことが英語にも言えると思う。もちろん数学にも。日本史にも。
英語の、そういう、ゲーム的でない、例えば長文読解のためにわからない単語を辞書で引いたり、英文を和訳するのにうまい言い回しを考えたり、文型を理解してそれに当てはめて英作文をしたりとか、そういうのはすごく楽しかったわけよ。私にとっては。
実際、無理に英語の先生および"英語"のキャラクターに気に入られるような、英語のゲームなどを楽しめる明るい生徒になろうとすることはやめて、私の楽しいと思えることをガリガリやることによって、英語の成績は上がった。私のような人間にとっては、成績が上がる=楽しさにもつながる。
もちろん、今の私は英語なんて全く話せないし、TOEICだってペロペロだけど、英語=楽しんで身に付けよう!!楽しまなきゃ!!みたいな強迫観念を持っていたままだったら、英語という概念死ねの気持ちは消えなかったと思う。
だから、ECCジュニア~~みたいなそういうスタート、今小学校で実際に英語の授業として何やってるのかわからないけど、あの一面的な「楽しさ」押しのスタートっていうのは、そりゃ好きな子どもにはぴったりだろうけど、私みたいなそういうのがとにかく嫌っていう子どもにとっては、英語死ねのスタートにもなりかねないのでは、と思っている。
俺は英語の教師とか全員嫌いだったけど、割と英語出来る。TOEIC900点くらい。(完)
話せないしTOEICも駄目なら意味ないんじゃ?