はてなキーワード: 大陸とは
ITが業界として成り立ち始めた当初から、IT業界全体にリベラル気質があふれていた。
それはApple IIのようなパソコン文化だったり、BSD・Linuxといったオープンソースだったり、あるいはM$帝国といったアイコン化などでもよく分かる。
IT関係者が当初のユーザーに多くいた"はてな"、特に"はてなブックマーク"にも、それは強く表れていた。
自由な環境を好み他人に寛容な典型的なリベラル気質の人が多く、東アジア諸国を見下すような愛国主義的なネトウヨもいないわけではなかったが見下されていたように思う。ただ、軽く見られて相手にされていなかったというところかも知れない。
いつの頃からかよく分からないのだが、"はてな"の特に"はてなブックマーク"の雰囲気が変わり始めた。
それはIT関連の記事がホットエントリーに上がらなくなってきた頃からか、政治や社会の記事がホットエントリーの常連になってきた。世間的には民主党政権の前か、最中か、後か、どうなのだろう。
それと共に、寛容さは失われ、攻撃性が増してきた。
「汚物は消毒だ~」というフレーズと共に半ばジョークとして半ば真剣に語られていた「モヒカン族」が、特にジョークであったはずの部分が現実化してきたようだ。元々「モヒカン族」は論理の棍棒で相手を打ちのめすという合理性と暴力性の合わさった存在として恐れられていたが、その合理性が独善化して自己完結化した結果、自分の正義に合致するか否かで暴力を振るう相手を特定し攻撃を正当化するように変容していった。これは、モヒカンの各氏が変わっていたのではなく、モヒカンを許容する"はてサ"社会が変わっていったと考えるのが正しい。
それは、表現規制やフェミニズム、その他様々な社会問題・政治問題でよく観察される。
一方、現実社会では、民主党の政権奪取と凋落などもありリベラルという看板が色褪せてきたためか、あるいは大陸中国の台頭もあって国際協調路線から民族主義的な危機感からか、世の中が左翼的な傾向から右翼的な傾向へ移行し始めている。それは、リベラリズム・グローバリズムが自分を救ってくれないという限界に対する失望感なのかもしれないし、対照的に自分を助けてくれそうな地域社会から見直しているからかもしれない。
"はてサ"が変わっていった一つの要因としては、そういった現実社会でのリベラリズムの退潮と無関係ではないだろう。
正義が揺らぐとき、その正義の正当性の是非が問われ、是であれ非であれ互いに正統性を主張することになる。それは寛容さを失わせ、自分の考え以外を異端と排除する方向へ向かうことになる。
正統性を求めるあまり狂気に走った事例というのは、古くは宗教戦争からフランス革命のジャコバン派の暴走、スターリン粛清・クメールルージュの虐殺など数えきれないほどある。昔から、人を狂気に駆り立てるのは、悪ではなく正義なのだから。
いずれにせよ、そのようにして"はてサ"の寛容さは失われた。
"はてサ"でも現実社会の左派でも結局残ったのは、他人に対して攻撃性を示す人たちばかり。政治の世界でも、報道でも、自らの正当性を主張して他人を非難・攻撃するのが左翼の姿になっている。かつてケネディが言った「あなたの国があなたのため に何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい」という精神は、現状のリベラルの中には全く残っていない。
そのような有様で党派抗争に夢中になっている人々からは、何かを成し遂げようとする人は離れていく。
何かを成し遂げるためには、党派抗争は有害で邪魔なだけなのだから。けれども中にいる人には、その党派性こそが守るべき正義であり全てであるから、離れる人をも攻撃してくる。不正義に協力していると。そして更に教条的になり、異端排除、先鋭化していく。
もう、"はてな"ユーザーの中には、新しく何かを産み出すという気質は失われてしまったのだろう。
それは仕方のないことかもしれない。
円満なサ終のソシャゲ、少し古いがグリー版「英雄になりたい!0」が該当するのでは。
プレイヤーはとある大陸に存在する三ヶ国のうちどこか一国に所属し、英雄となって戦い、所属する国が大陸を支配するのを目指すゲームだった。
当時サ終までプレイしていたが、運営が「一国が大陸支配したらゲームクリア」と言っていた通り、一国が大陸をほぼ支配したためエンディングを迎え、サービスが終了した。
一応シリーズ物だしシリーズ共通NPCもいたが、他のシリーズを知らない自分でも普通にこのソシャゲ単体で十分に物語を楽しく遊べた。
とはいえ、自分が勝利国に属していたからそう言えるだけで、敗戦国のプレイヤー、特に課金していた人やランカーの方々が円満と思ったかは分からない。しかしソシャゲのサービスとしては、予定通りの終了を迎えられたゲームだと思う。
FFがムービーゲーとして舵を切った時期は意外と早かった。それは4(IV)。
4からキャラクターが強制的に会話するシーンが増え、キャラ名も任意の名前はつけられるものの、実質固定イメージで攻略本などが表記するようになった。
もちろんIIあたりでもフリオニールなどの名前で雑誌に書かれていることはあったが、IIIまでのFFはドラクエと同じく素材としてのキャラに名前をつけて楽しむものだった。そこに重厚な裏設定なども存在しない。あくまでもキャラを自由に育ててそこに没入してほしいという立ち位置でしかなかった。
ところがFF4は違った。暗黒剣で苦しみ、苦闘の果にパラディンへとクラスチェンジするセシルと、仲間を不本意にも裏切り続けるカイン、という対象的なキャラが設定された。主人公たちは主観的な没入型から客観的なムービー型へと変わった。端的には会話数が増えて、伊集院の言うところの「クラウドが勝手に自分にできない技をガンガンきめて置き去り感がある」状態を当作より現出させたのだ(伊集院の深夜の馬鹿力 2020/5月中のもの)。物語はドラマチックになったが、その反面終盤までストーリーに沿って強制的に進行するきらいが強くなり、浮遊大陸を抜けてすぐに広い世界が広がったIIIとは真反対のアプローチをとったといえる。上の伊集院氏の言ではないが、ラスト付近ではキャラを操作してもいないのにWメテオなる技をかましてくれたりする。あの演出には感動した人と白けた人に別れたのではないか。何しろ上限9999の技でしかないWメテオを決死の覚悟で繰り出すのだが、その後主人公たちがフレアなどで容易に9999を出してしまえるのだ。決死のWメテオは全くの無駄である。
ネットもないこの頃の全国的な風評は定かではない。しかし個人的には手狭になったな、と感じたことを覚えている。そしてFF5でジョブチェンジシステム復活とキャラ性を押し出さない、良い意味で無個性なパーティーメンバーによりユーザービリティの回帰を狙ったが、FF6(VI)では再びムービー寄りのゲームになってしまい、7以降はこの路線をついに変えることがなくなってしまった。最近では毎作ごとのにーちゃんのホスト化を止めることができないらしい。
ムービーを大胆に挟むといえば、他にもストライダー飛竜や忍者龍剣伝が思い浮かぶ。しかし両者はアクションであり、RPGムービーの先駆はやはりFFなのだろう。
実はFFシリーズは6付近までは死に泣きゲーだった。IIでのミンウは仲間をかばって死に(実はヨーゼフも味方をかばって石の下敷きになるが、何故かあまり語られない)、IIIの不幸な巫女のエリアは水中に没して死亡。IVはカインとの決別、シドの自爆。Vではギルガメッシュが主人公たちをかばって自爆する。VIのティナは不幸から生まれてきたような少女で、子どもたちを支えるために立ち上がる。
この泣きゲーの伝統は7から大きく崩れる。というより7から徐々に痕跡を消していった、というべきか。かろうじて残っているのはFF10でユウナの人身御供が発覚するあたりだろう。何れにせよ、グラフィックスの進化と共にFFがハリウッド化してゆくのはやむを得ないことだったのかもしれない。
愛知の田舎から東京に出てきたのが10年前。そのときは、こんなに外国人が多いなんて!とインターナショナルシティぶりに感激した。
アジア人はあんま区別つかないけど、白人は顔ですぐわかる。物価安いから旅行に来てるんだな~と思っていたが、このコロナ騒ぎで、彼らが日本に住んでいることがわかってきた。この事態で日本に残ってる奴らは全員住む家がある奴だ。そして、大陸で流行ってる黒のマスクで、大陸系外国人も典型的な邦人とやや識別できるようになった。
私は白人を差別するつもりはないが、日本で何をしているのか、とても気になる。特に邦人女性を白人が食い荒らしてるという話を知ると、正直何じゃそりゃと思う。「ピカチューとか言っとけば日本の女はいくらでも食える」とかのたまう連中にホイホイついてく女もろくなもんじゃないが、それにしてもなんっか納得いかねー。
他国と比べて日本でコロナの死者数が限定的だった理由は不明なままだが、それは脇に置くとして、日本人は(飽くまで傾向として)、文明を知ってる程度には賢く、しかしながら議論を通じた意思決定が苦手で、戦略的にふるまえない点で愚かだと思う。日本は地政的にかなり恵まれる反面、それが仇となり、住民は議論に基づく意思決定や戦略的な思考が弱い傾向にある。
「中国という歴史上有数の文明から遠すぎず近すぎない距離を海で隔てられた、温帯にあって、ときどき大きな自然災害に見舞われる、割と大きな島。」というのは国家運営の前提条件としてかなり有利だ。日本海は大陸からの侵略のほどよい障壁になる一方で、交易や交流の妨げになるほど大陸と遠いわけでもない。四季をともなう厳し過ぎない気候は人の精神と活動を活発にする。時々起こる大きな自然災害は経済に大打撃を与えるが、かといって主要都市を壊滅させるほどのインパクトをもたらすものは極めて稀にしかない。むしろ短期的には住民間の結束力を高め、長期的にはおそらく経済発展への刺激となっている。北東から南西に伸びる細長い国土なので、主要都市が同時に激甚災害に見舞われる確率が低いのも幸運だ。平地面積と地下資源にはあまり恵まれていないが、それでも1億人が暮らせる程度の国土がある(こうした環境で、日本は文明の産物は適宜取り入れながら時々の紆余曲折を経ながら経済発展してきた。今では国民の皆保険制度や基本的な防疫にも十分なリソースを回せる程度の国になった)。
しかし、それら有利な前提条件の下で半ば必然的に発生する不利な条件がある。日本は頻繁には侵略されなかったことで住民のバックグラウンドに多様性が乏しい。結果、異なる考え方をする人間同士の議論による意思決定が下手くそで自閉気味。多数派の考えと異なる考え方をする人間は突き抜けた能力を持たない限りは、コミュニティに同化するよう「教育」されるか無視されるか排除される。また、「強力なリーダーを立て、目的を固め、現状を分析し、戦略を練って実行、大失敗は避けつつ戦略は状況に応じて適宜修正。」といった思考回路は内乱に明け暮れた歴史の一時期を除いて希薄だ。短所は長所の裏返しなのだ。
まとめると、元寇を退けたのも高度経済成長もコロナで死者が少ないのも巨視的に見れば地理的条件のおかげ。住民は文明的だが議論と戦略思考が苦手。
ファンタジーなんだから現実の中世西洋にぴったり合致しなくてもいいと思う。
ファンタジーの地球Bが必ずしも現実の地球Aと同じようになるとは限らない。大陸の形や気候が違えば当然違うものになる。
人名に和風っぽい名前があってもいい。和風でも洋風でもない、聞き慣れない響きの名前でもいい。
世界は昔1つの国家に統一されて人種も風習も混ざり合ったという設定で和風と洋風の名前が混在していてもいい。
世界が1回繁栄して崩壊した過程で特定の技術のみが残って、中世西洋的な見方をすればオーバーテクノロジーな物があってもいい。メガネとか?
昔すごく英雄的な伯爵がいたので公爵より伯爵の方が上など、爵位のヒエラルキーが現実と違うものでもいい。単純に現実と同じ言葉を使うと混乱の元になるが。
コロナ禍に伴う外出自粛で持て余した時間を有益に費やそうと、学生時代ぶりに読書をしようと思い至る。
以前からゲームに時間を奪われてばかりだが、「良質な人生」やら「スキルアップ」やらのため読書をすべきと思ってはいた。
そうした気分と、今回のコロナ禍という状況を鑑みて、前々から気になっていたジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」を読むことにした。
学生時代に同著者の「世界史」を読もうとしてギブアップした苦い記憶があり、今回はしっかりと読み込みたいと思っていたので、こうして読んだあとのことをアウトプットしておきたいと思った。
しかし、数多の名だたる知性人たちが読み漁り語り尽くされた名著を、今更に教養のない者がまとめても誰も得しないので、ただ個人的に気になったところをいくつか己の言葉にする程度にとどめておきたい。
今回は、特に気になった「病原菌」がどのように世界において役割を果たしていたのかという所である。
「病原菌」とは他の生き物の構造に感染し、伝播することによって己を増殖し存在を拡散していくものと大雑把に理解した。
時に細菌は突然変異によってその性質を変えることがある。ネコにだけ感染する菌が、ネコからヒトへ感染するようになり、さらにヒトからヒトへ、という具合である。
しかし、この問題は前提に「異種」が接触する範囲に存在し、更に突然変異を発生させるだけの試行回数を重ねる環境を要する。
世界では、先んじて家畜と共に暮らす人びとが家畜からの細菌と接触し、そして(結果的に)その耐性を得て、遺伝子に刻み込んでいった。
逆に、家畜を持たず生きてきた人びとは、こうした機会を得ることはなかった。それだけの理由で、家畜を持った人びとと比べて、免疫という力において圧倒的に不利になる。
その「家畜化の条件」から「栽培可能な植物」、果ては「大陸の形」に至るまで様々な要件を読み解き、現在の世界情勢に至る起源を多面的に語り尽くそうとしたのが本書だった。
私は「人やイベントの名前を覚えるのが致命的に苦手」で、歴史という学問にあまり興味が沸かない。
それでも、今に至る歴史の流れの中に、ただ条件が悪かったと言うだけで死んでいった者たちで溢れていると思うと、今生きている私が明日を迎えるかどうかすら約束されてはいないという事実に思い当たり、陰鬱とまでは行かなくとも、逃れがたい何かに流されているような、言いようのない浮遊感を覚えてしまう。
むしろどこに生産余力があると思ってた?ピエリ守山が来月からマスク工場にはさすがにならんぞ。
たまたまシャープの工場が遊んでただけで、なおかつ鳥取でマスク生産設備を寝かせてたのは鳥取だからだぞ。
二束三文の土地と税金だからな。それも売れない使い潰しの設備を酔狂な経営者が捨てなかった程度のものだ。
大体の日本の製造業の土地は売られてイオンモールかマンションになって、売れそうな生産設備は大陸に流れていくんだ。
もし来年から石炭が必要になったからって、夕張で掘ろうと思ってもたぶん5年後にしかならないぞ。こんなノロマな日本国ではな。
製鉄所も高炉の火を止めたら炭鉱みたいに廃墟萌えみたいな場所になって、いいとこ産業世界遺産でも目指すくらいしか用途はないぞ。たぶん二度と戻らない。
どこにも余裕もないし、メンテするような暇人もどこにもいないし、だいいちもう土地がない。
アビガンの原材料は富山の化学メーカーがコストで負けて寝かせてたプラントを7月までに立ち上げ直すらしいけどな。良くてもそんな程度だぞ。