はてなキーワード: 口説きとは
https://anond.hatelabo.jp/20181013125559
IT業界は比較的新しい仕事で、エンジニアに女性を受け入れる事に抵抗はないし、無制限に門は開いてるけど、社会的に成功している技術者の男女差を見て見ればいい。
この増田の主張のうち、女性比率が少ないと挙げられている医者・学者・政治家あたりは古代からある伝統的な職業ということで、歴史的な性差別の積み重ねで女性が入りづらい強固な差別構造のようなものがあるのでは、という反論はできそう。
しかし、IT技術者だけは、以下の通り、女性に向いている職業なのにこの女性比率の低さは不思議に思っている。
・筋力はいらない
・若手のエンジニアに求められる長時間集中力を保つ持久力は必ずしも女性が男性に劣るわけではない
・学校で優等生タイプだった女子のように勤務時間外に真面目にコツコツ勉強を続けると報われる
・入り口はそもそも相当におかしな経歴の人間でも受け入れているので性別による参入制限は無い(もちろん日本の文系出身ITエンジニアの枠の話)
・経験者であれば、出産育児で数年のブランク程度なら今の人手不足なら大歓迎される
・転職だけでなく、派遣やフリーで家族のライフステージに合わせてかなり融通が利く働き方ができる。
(少なくとも、大企業事務系総合職を出産育児で退職した後に類似の待遇・業務内容のポジションに戻ることの困難さに比べれば、遥かに女性が生涯にわたるキャリア形成をしやすい)
・比較の問題ではあるが、伝統的なメーカー・商社・金融の男性よりはITはリベラルで男女の社会的役割分担意識の弱い男性が多い。
(というかオールドエコノミーに就職した学生時代の友人たちの「俺はジェンダーロールを疑問無く引き受けるし他人にも押し付けますよって」方向の人格の変貌は恐ろしい……)
・飲みニケーションでホモソーシャルな派閥を作るタイプの男性は少ない。飲みニケーションに参加しにくい/したくない女性でも不利な取り扱いをされにくい。
たぶん9月中くらいには界隈でニュースになるだろうけど、とある知人が経営する会社が(事実上)先月倒産した。年初くらいから経営状態がやばいという話は共通の知人づてで聞いていたのだけど、その割に先輩経営者たちと飲み歩いてばかりいるようだったので訝しんでいたら、案の定というかなんというか。
というときにタイムリーで 「プライベートでは一切勉強したくない」と言っていた社員のこと - 株式会社アクシア という記事が炎上しているのを見て、その辺の事情は経営者も労働者も案外変わらんのだなと思った。
その社長とは1年前くらいに会ったときに、一応5年来くらいの知り合いではあるので、社交活動も重要だけどもう少し社内で事業に集中したほうがいいんじゃない?みたいなことをやんわりと忠告したんだけど、「〇〇さんと飲んで話聞くと凄い話が多くて勉強になる」だの「人脈の重要さを分かってない」だの、微妙に痛いところを突いてしまったらしく、猛烈に反論を受けて関係が疎遠になっていたんだけど、結局その散々一緒に遊び歩いていた人たちにとっては、しょせん遊び友達は遊び友達であって、やっぱり本当に会社が潰れそうなときに助けてくれるわけじゃないんだなと、すごい納得した。
確かに秀でた実績を出している経営者の中にも、遊び歩くの大好きな人も多いし、そういう遊び友達から仕事につなげている人も少なくないけど、実際に遊び友達から仕事につなげてる人は、遊びのように見えて実のところ営業活動になっているというか、遊ぶのは目的でなくて手段なんだよね。もしくは遊びはストレス解消と割り切って、深夜まで飲んでるけど朝は9時にバチっと出社してバリバリ働いているか。
サイバーエージェントの藤田社長なんかも割と「遊んでる」方だと思うけど、これまたタイムリーな記事だけど、これなんかAbemaTVに島田紳助に出てもらうためにわざわざ口説きに会食に大阪まで行ってるわけで。
【引退から7年】ホンマ、平和な日々ですわ……庭いじりで日焼け「62歳 島田紳助」隠居生活を語る | デイリー新潮
ネット業界に出入りするようになってからもう20年近いけど、やっぱりコンスタントに成長している会社の経営者は勉強熱心な人が多いよ。ちょっとした人事制度1つとっても、取材記事とかを見て興味もったら、facebookで話聞きたいんだけど今度飲まない?みたいのをすぐに連絡とってきて「実際どうなの?」みたいのを詳しく聞いてくるし。女の子がつくようなお店に行っても、女の子ガン無視で話してるのはひたすら事業の話、みたいなことも多い。本とかも本当によく読んでる。
経営者なんかは分かりやすく「勉強不足」「努力不足」が、業績不振に直結するし、ちょっとした情報が数億・数十億円の価値を持ったりするので、勉強がより「自分事」なんだけど、労働者はどうしても勉強や努力が給料とリンクするのを実感しにくいので、どうしても「他人事」になりやすくて、下手すると勉強の重要さに気が付いたときには人生手遅れになってそうで、これはこれで大変だなと思った。
しかし一昔前に比べると、ベンチャー系のサミット/カンファレンス増えて、それ自体は資金調達の活発化にもつながってていいんだけど、まだ何も成し遂げてない若手経営者が、そういう場に参加しているだけで、自分をイケている経営者だと勘違いしやすくなっちゃってるのは本当に良くないと思う。賢い連中は資金調達のためにだけそういう場を使って、あとは社内に引きこもってプロダクト磨きに専念しているけど、社交活動が経営者の仕事だと勘違いしてしまった連中は本当に救い難いことになってる。
もう立派な大人なんだが、未だに苦手なことがある、それは自分のことを"わたし"と名乗ることだ。
小さい頃は"うち"を使っていたけどそのあとが決まってない。"うち"はビジネスにおいて使えないから"わたし"をつかっているのけどなんだかずっとしっくりこないままだ。
女として生きてきてたまにモテたりすることもあったのだがそれが嫌で堪らなかった。なんだか喋ってるうちに可愛いね、優しいね、なんて口説き目的の会話が気持ち悪い。ちゃんと普通に人として会話して欲しかった。
そういう経緯もあり自ら女を主張する行為に感じて苦手らしい。かといって男になりたい訳ではないから"僕"も少し違う。ちょっとサブカルっぽいし。"自分"は文面とかでたまに使う。
先日友人と二人で行き付けの居酒屋でご飯を食べていたら、隣の男二人組が相席を求めてきた。一人は塚本高史のようなチャラ男のイケメンで、もう一人はドランクドラゴンの塚地のような不細工な男性だった。暇だったのと、ご飯代を出してくれると言うので話しに乗ることにした。二人組は33歳。私達よりも9歳年上だった。
チャラ男は見た目通りチャラかった。塚地似はそんなチャラ男のチャラいエピソードと自分のモテなさの比較で笑いを取っていた。そして、今まで自分が女性にどんな酷い目にあってきたか話すので、同情してしまい、いい人だと思った。
飲み会が終わり、LINEとFacebookを交換し店を出た。家に帰るとLINEが来てて、チャラ男からはまたご飯行こうとシンプルなお誘いメッセージ。塚地似からは私の容姿を大げさに褒めるメッセージと一緒に今日の楽しさの感謝のメッセージがつらつらと書かれていた。何回かLINEを往復したが、塚地似からは誠実でまめで優しく情熱的なメッセージが何通も届いた。うっかりときめいてしまいご飯に行く約束をした。
ある日、一人でその居酒屋にご飯を食べに行った。大将とは顔見知りでカウンター席で話していた。チャラ男と塚地似も常連らしく、大将にこの間のことをからかわれた。そして、塚地似には気をつけろ。といった。
塚地似は女癖が悪く、出会った女にまめに誠実そうに口説き、何回かセックスした後に捨てるという事を繰り返しているらしい。女は最初の誠実さと酷い仕打ちに耐えられず、高確率でメンヘラ化するらしい。それだけならまだしも、3ヶ月前に上司の娘と結婚したばかりだという。それなのに、女癖は治るどころか酷くなっているらしい。
話しを聞いて引っ掛かりそうになった自分に情けなくなったし、塚地似に猛烈に腹がたった。不細工なのに調子に乗っているからだ。不細工から誠実さを抜けば不細工が残るだけ。誠実で真面目であるからこそ不細工にも恋愛を享受できる権利が与えられるのではないか。と思った。
大将いわく、チャラ男の方は彼女がいないときは色んな女の子に手をだすが、彼女がいるときは一途だそうだ。
イケメンはチャラくても良い。イケメンなのだから。遊ばれたって顔がよければ納得できる。
誠実なフリした不細工は許せない。性欲が有り余った不細工は一人の女で我慢できないのなら24時間オナニーしていればいい。
もう二度と不細工な男の誘いには乗らないと決めた。誠実そうでまめな不細工は遊んでいるし、誠実でもまめでもない不細工には存在価値など無い。
別に他の人の基準じゃなく、増田の価値観で決めたらいいんじゃない?
「素直にキモい」って言ってるのが、友人に対するのか、おっさんに対するのか。
俺は、ある友達が青春時代の昔話で「不起訴」って言葉が出るようなアレな過去の人で、多分いろいろ他人を食い物にするようなことしてた人だったけど、それは友達への感情になんの問題もなくって、それより目の前で半同棲してたセフレの目の前で別の女に乗り換える口説きの瞬間見せられた方が「おい!」ってなって、「あー、俺の価値観は人とは違うんだな」って思った。
増田自身の感情や、増田の半径5mの人間関係っていう極めて個人的で私的な感情の問題を、他人の価値観と比較して判断しようってのも変な話に思える。
増田トラバーの方々とかぬかしてるけど、長文でマウンティングかましてるのは全部俺だぞ。
それはいいとして、元増田の疑問や問題意識にはあまり響いてないようなので、少し切り口を変える。
【伝統】
様々な試論はあるが俺個人の考えでは、いくつかの文化が政治的経済的な諸々の要因と分かち難いレベルで結びつき、民族という単位でまとめあげられたものが伝統と呼ばれるものの正体なのだと思っている。
便利だから続けているライフハックの類は習慣と呼ばれるが、こちらには民族的な色彩はない。
伝統はそうではない。伝統は自らの民族を語る上で欠かせない要素であり、我々を我々たらしめるものだ。
そして我々と彼らを分け隔て、区別する為のものでもある...というのがギリシャ時代からの人々の認識だ。
しかし、伝統とは漠然と存在するものではない。あくまで異文化と接触して、彼我の違いを知り、
その違いこそが我らの唯一無二の価値だと見出すことなしには伝統という名を冠す事ができない。
だから、常に伝統は危機に晒されている。文化は戦争だ。負けたら我が民族の権威が失墜する。
そんな政治的経済的文化的な理由で弄ばれてきたのが伝統の正体なんですよというのが輪島さん達の考え。
そこまでは元増田も正確に読み取ってるなと思ってる。
「伝統は良くも悪くも我々の根幹に関わるものである」というある種の信念ではないかい?
というのも、実際にそういう人達にスポイルされた悲しい伝統というものが古今東西あって、
その問題提起が例の本だったと思うんだよな。
バルトークという作曲家がいるのだが、彼は作曲家であると同時に民俗音楽研究家でもあった。
今にも失われそうな子守唄、労働歌、踊り、気晴らしの遊びや口説き歌など膨大な歌と音楽や舞踊を採譜した。
それらの蒐集とそれぞれの作品の分析を通じて、民族の音楽とは何ぞやというテーマを深く掘り下げ、
彼らという民族を民族たらしめるものを特定し、伝統という名のバトンの受け渡しの大きなうねりに作曲家として、愛国者として身を投じようとした。
バルトークの作品群の中でも編曲作品は明らかにこうした政治的意図を持っている。
しかし、彼の音楽研究は結局の所、労作であるハンガリー民謡を読めば分かる通り、うまくいかなかった。
暗雲立ち込める祖国の中で閉塞感を感じ、積極的に行ってきた民謡の蒐集からもやがて興味を失い、
音楽的ひきこもりといえるような苦悩を臆面もなく吐くようになってしまう。
追い討ちをかけるように、愛国者バルトークはハンガリーウヨからもルーマニアサヨからも批判される事態に陥る。
大学教授のニュースについて。この人は刺激的な言葉を使って人の反応を愉しむような講義をしていたし、その刺激的な言葉に面白さを感じて講義を受ける学生から人気だった。
今回のニュース、つまるところ恋の話なんじゃないかと思っている。
恋に落ちることは、悪いことなのか。自制の働かなかったことが悪いことなのか。
教授は女子学生が本当に好きで、きっとこの口説き方ならついてきてくれるんじゃないかと思ったんだろう。その時にはもう恋に落ちていて、批評家だったから、その子の文書や容姿や仕草から、自分への好意を読み切ったつもりだったんじゃなかろうか。そしてそれが誤読であって、女子学生は嫌な思いをしてしまった。
時代は変わっている。ハラスメントという言葉、考え方、配慮は当たり前で、その配慮のない人が恐ろしいとされる時代で、いままさに書いているこの言葉だって槍玉にあげられかねないくらいだし、自分でもそう思うくらいだ。
年老いた批評家はその時代感覚を読み違えたんじゃなかろうか。恋にも落ちていた。時代も変わっている。きっと自分を好きであろうと考えた目の前の相手が、本当は自分が好きなだけであったことに気づけずに口説いてしまった。
しまっただけ、ではない。その読み間違いがひとりの女性を深く傷つける至ったのは事実だ。ただ、師として尊敬していた教授が、自分への想いを誤読していたことへの失望と、いままさに時代のなかで嫌悪されているハラスメントを同時に行っていること。
そして、大学側の対応の不誠実さ。ここにも、事情はあるのだろうけれど、この教授の心を慮ったばかりに、学生へ不誠実な対応となったのじゃないか。
批評家は誰よりも客観的に、そこに立ち現れている物語の裏側をひっぺがえしてしまう人だ。言葉遣いに隠された、当の作者でさえ考えてもみなかった意味を、作用を、炙り出してしまう。読者にとってはそんなことどうでもいいよということもあれば、全く新しい思考の世界を開かせることもある。人のモノの見方をがらりと変えてしまう職業だ。
その批評家が「読み誤る」ことの恐ろしさ。それはプロとしての批評家としての失敗であり、今回に関して言えば権威の失墜であり、何より当人がことの重大さを一番にわかっているのだろう。
そしてそれを引き起こしたのが、恋だ。
問題は多々あるけれど、根幹には、人間の抱えている美しく、罪深い、この恋という厄介な性質がある、ということがこのニュースが伝えていることのひとつなんじゃなかろうか。さびしくて、かなしいニュースだ。女子学生の心がせめてきちんと、救われるような結末になるといい。
youtubeで民事再生法違反で逮捕された経営者のニュースを見た。彼は不景気で資金繰りに困っている経営者などに高利で金を貸し出し荒稼ぎしていたが、法律の改正によって資金繰りが悪化し自らの会社を倒産させた人物だ。経営者としての爪の甘さは否めないがそれでも優秀な人物だと思う。物事を深く考え慎重に行動する客よりも、感情的になり思考停止に陥っている客を相手にした方が何倍も楽に稼げるからだ。あとは倫理観の問題だ。無知な人をことば巧みに口説き不利な契約を結ばせることに良心の呵責を感じなければ大金を稼ぐことができる。成果を出している企業の多くはこの戦略をとっているが、自分はこの戦略をとることに抵抗を感じる。子供の頃に刷り込まれた「人を騙してはいけない」という倫理観のせいで良心の呵責を感じてしまうからだ。孫子は兵は詭道なり(戦争は所詮、騙し合い)と言ったそうだが心のどこかでその事実を受け入れることができずにいる。不合理な考えから抜け出すにはもう少し時間が必要だ。
まずバーフバリは父子共に女性へのアプローチの仕方は気持ち悪い。
アヴァンティカに忍び寄りタトゥーを描くところ、特に樹上のシーンはヒイッって思った。
その後1枚ずつ服を脱がせていくところも鳥肌が立つ。
CGがしょぼいのも否めない。
王の凱旋では父親が女性を口説くシーンがあるが、子よりはだいぶマイルド。
激流の中でまっすぐ立っているのがおかしいとか、手がかりが仮面だけなのに人を探せるのかとか、その辺の不自然さは「そういう話だから」としか言いようがない。この映画にリアリティを求めてはいけない。
リアリティラインがぶれぶれだったら混乱するかと思うが、彼らは終始常人の能力から逸脱しているので、そんなにおかしくはないんじゃないだろうか。
首を獲ったバラーラデーヴァでなくバーフバリが王に選ばれたのは、開戦時相手のカーラケーヤとの交渉が決裂した時にシヴァガミが侮辱され、
「生かして連れて来い」と指示したところが根拠となる。
バーフバリはあくまで生かしてシヴァガミに差し出すつもりだったが、功を焦ったバラーラデーヴァがその前に殺してしまった。
カーラケーヤ軍に囚われていた自国の民を助けずに車で突っ込んでったところもシヴァガミにばっちり見られていて、
それが「百人の首を斬る者を英雄と呼ぶ、たった1人の命を救う者を神と呼ぶ」という科白に繋がる。
あとは細かいところだが、少年期から青年に成長するまでのエピソードでも「実力的には大差ないが、バーフバリの方が人格的に優れている」という描写がなされている。
とにかくカッタッパと父バーフバリのふたりがかわいい。いつか気が向いたら観てみてほしい。
それとひとつ気になったのだが、勧められた映画がつまらなかった、自分に合わなかったからといって「不幸になった」というのはちょっとなと思った。