はてなキーワード: 不自由とは
なんでそれを政治家や世の中に影響力を持つ奴はわかってねえんだよ。
成功も金稼ぎもリスキリングにも興味ないし何者かになろうともしてないし個性だの自由だの求めてねえよ!
俺が求めてるのは!
ボーナスも貰って!
結婚して!
子供2、3人持って!
家かマンション買って!
仲良い同僚とかと上司や部下や仕事や政治の文句を言いながら新橋で昼飯食って!
65あたりで定年して!
定年したら退職金と厚生年金と企業年金で金持ちでもないけど不自由もしないほどほどの生活を送って!
そんな世の中を生きたいんだ!
とりあえずそのスタートラインには入れたんだ!
年功序列で終身雇用で得意分野はがっしり抑えてるけど規模を拡大させるのは大嫌いで総合職は男性のみ事務職は女性のみ(寿退社した分だけ新卒採用で欠員補充し勤務中は制服着用)で飲み会も多くて人間関係も濃くて普通に楽しい俺好みの会社に総合職で入社できたんだ!
だから!
ほどほどに仕事してほどほどの家をローンで買って定年後は確定申告シーズンの税務署バイトとかしつつ基本は厚生年金と企業年金で何不自由ない暮らししてる俺の親父と母親みたいな人生を送りたい!
外国人もいらない!
多様性もいらない!
AIもいらない!
――――――――
押す側の人はわかると思うんだけど、車椅子ってちょっとぶつかっただけで超痛い。
だから押す側はだいぶ神経使う。重いし。
繊細な人なんだなとか思われるかもしれないが、身内は人並に大雑把で人並に優しく人並に理不尽な人だ。
――――――――
例えば、人混みを通らなければならないとき。
介助者の自分は当然「すみません」って声をかけて通るんだけど、
乗ってる側としては「何で謝らなきゃならないんだ」って悲しくなるらしい。
そんなことで?ただの声かけじゃない?と思った。
大体人混み通るときって健常者だって「すみませーん」ぐらい言うし。
で、よくよく話を聞いてみると、そもそも「頭を下げないと道も通れないことが悲しい」というような旨を言う。
それは意味が違うと思うけどなあ…と思い、
そのときは「SorryじゃなくてPardonの意味だから、受け取り方が違うよ!」と慰めた。
そういうことを言う人でもなかったので、何となく引っ掛かりを覚えた。
よくよく考え、「そういう風に考えてしまう」こと自体が、身内の内情を表している、そんな気がした。
――――――――
金銭的に依存したいとか、恋愛的に依存したいとかは健全じゃないながらあると思うが、
『身体を動かす点において依存したい』という人間は、多分いない。だって不便じゃん。
最初は周囲に助けられてなんとかなるかもしんないけど、それがずっと、死ぬまで続くなら本当に毎日毎日うんざりすると思う。
周囲だって、毎日毎日世話することに疲れてくると思う。そう考えちゃうのも、周囲を信用できていないみたいでいやだし。
でも車椅子の人って実際こうなんだろうなと。
傲慢な人だとか、人を使役することに慣れている人なら、「でも俺は動けないし」で済むかもしれない。
本当~に一般の、どこにでもいる普通の人が突然そんな状況に置かれ始めたら、段々だんだん「申し訳ないな…」って気持ちになるのは必然な気がする。
「自分の要求のために絶対人が動かなきゃならない」が毎日毎日、この先もずっと…って考えたら、しんどくなるわそりゃ。
つまり、身内の中に蓄積された「また頼ってしまった」「また助けて貰ってしまった」という無力さと、
「それに対して自分が返せるものが何もない」という良心の呵責、周囲が自分をどう思っているかへの不安、
それらが蓄積した結果、「何で謝らなきゃならないんだ…」という最初の言動そのものになってるのかなと思った。
――――――――
いや、これはマジでよくない。と思った自分は「もっと外に出て元気でいて欲しいな」と安易に考えた。
だってずっと家にいるってことは、やっぱり生活に彩りがなくなるし、体力も筋力も落ちてくる。
これって、人によっては段々生きる気力が減退する場合もあるし、ネガティブになることも多くなると思う。
外に出て沢山刺激があった方が、色んなことが塗り替えられるじゃない。
でも、それも難しいんだよね、車椅子だとさ…。
だから多目的トイレを探さなきゃならない。で、もし使用されてたら使用が終わるまで待たなきゃならない。
車椅子用トイレが使用中で、仕方なく待つことはある。大体お仲間だったり、赤ちゃんだったりする。
ただ、10分後ぐらいに水を流す音もせず、ばっちりメイク決めたJKが出てくると流石にムッとする。
いや確かに多目的だけれども…苛つく気持ちは理性では抑えられない。
もしかしたら彼女も何か抱えているのかもしれないので口汚く言いたくはない。
かもしれないが…しれないが…しかし…世の中には多目的トイレでセックスをするアホもいたりするからな…。
健常者なら、許容できる範囲かもしれない。だってそんな苛立ちも抱えず他のトイレに行けば済むのだ。
車椅子の人だって介助者だって別に、自分に関係なければ許せるかもしれない。
そういうありもしない未来・過去がそのたびに去来し空しくなる。
――――――――
他の例だと、地方の美術館では2階に行けないこともあったし、砂利道はガタガタしすぎて危ないから通れないこともある。
外出の選択肢として楽なのはアウトレット。舗装されてるし広いから一人当たりの占有面積もゆったり。でも数は限られてるし場所によっては早々行けない。
海辺の砂浜なんて車輪がもたれるから絶対だめだ。山を登ることも、ハイキングもできない。
エスカレーターも階段も使えないから常にエレベーターを探さなければならない。
エレベーターって意外と辺鄙なところにあるから、実際探し当てるまでもかなり大変な目に遭ったりする。
一度エレベーター縛りで移動してみると、面白いと思う。それをこの先ずっと続けるとなると辟易だと思うが。
見つけたとしても、必ずしも乗れるわけではない。混んでたりするからね。
降りて譲ってくれる優しい人がいると、この先この人に今の五万倍の幸せがあるといいな!と思う。有難いことこの上ない。
実際バリアフリーは沢山あるし、色んな公的機関では配慮されてることが多い。
障害者オンリーの観覧日を設けてくれる美術館などは本当に助かる。
若ければ車椅子サッカーとかバスケとか、そういった活動もあるかもしれないが、年をとるとインドアなことしかできなくなるので。
とんでもない角度の段差の補助?だったりすると「あーっ惜しいですね」となってスルーせざるを得ない。
エレベーター行くのに遠回りしなきゃいけなかったりするし。まあ、仕方ないんだけどね。やってくれるだけ有難い。
(この「やってくれるだけ有難い」も、身内の「何で謝らなきゃいけないんだ」の一部だとは思うが…)
施設は、入場料がいらなかったり、半額になったりする。
でもまあそれは「平等なサービスを受けられないことによる減額」なのかもなと思う。
美術館だと照明が反射して、絵がよく見れなかったりする。健常者と見る位置が違うから。
コンサートなら車椅子用の席は固定で、「可も不可もない中間よりちょっと遠い席」が普通かも。
たまに逆にえらい良い席なときもあるけど。最後尾があたる可能性もないが、最前席があたる可能性はない。
本人は車椅子に乗ったまま、介助者の自分はパイプ椅子…なんてこともあった。
クラシックコンサートだったが、ずっと尻が痛かった。ちゃんとした席が横にあるんだからそっちにして欲しかったなあと思ったけど、まあ仕方がない。
「尻が痛かった…」と少し溢すと、申し訳なさそうな顔をされて「しまった」と思ったりする。
――――――――
マジで行ける分いいと思うのだ。行ける分良い。でも、ざっと書いただけでもこれだけ大変なことがある。
自分が車椅子だったらと考えると、そりゃ外出たくないよなって思う。
望んだわけでもないのに、同じサービスが受けられない。周りに迷惑だと思われているし、介助者にも迷惑がかかる。遠回りさせる。自分がいるから存分に楽しめなかったりする。そもそも、自分の行動や欲求に付き合わせている。
そういった事実によって生まれた葛藤が『何で謝らなきゃならないんだ』、ひいては『何でいちいち感謝しないといけないんだ』になるのは、わからんでもない。
そういう立場を体験していない自分が、その感情を否定することはできない。
ただ「しょうがないよね」って茶を濁して共感することしかできない。無力だなあと思う。
身内の気持ちは身内にしかわからないから、ここまで考えているか感じているか実際は知らないけど、まあ大外れではないと思う。
当初は「そんなことで?」と困惑した自分も、もう肯定するほかないなと思ってる。
――――――――
社会に生きる人間は良くも悪くも社会にある程度迎合しなきゃならないというのが個人的な持論。
人間は全員が「違う」から。違うから、お互いを譲歩し適切な距離を保って、険悪にならない距離でコミュニケーションをとる。
これは最近のトランスジェンダー関係の話でもそうなのかなと思う。
自分のすべて受け入れてほしい!と思うなら、そういう社会に行くか、新しく作るしかないんじゃないだろうか。
平和に生きてる人たちを脅かしてまで自分を押し通したいと思う人と、手を取り合いたいなんて思わないだろう。
だからまあ、身内の心情に心をいためつつも仕方ないよな、なんて思う自分もいて、
なんていうか…罪悪感じゃないけど、申し訳なさを感じたりもする。
色々人生楽しめるものを用意できるよう、無理じゃない程度にやっていきたい。
無理させてると思わせるのが一番、本人にもよくないと思うので。
――――――――
そういうわけで(?)
車椅子を押す側として思うのは、優しく見守ってくれる人がたくさんいてくれればいいなと思う。
助けてくれなくたっていい、通り過ぎたって全然良い。
舌打ちしたり、からかったり、邪魔になることはしないでくれれば。
こんなん、健常者でも当然のマナーだと思うんで、改めて言うのも変な話だけど。
――――――――
おまけ
テレビの某野外音楽フェス特集を見て「一回ぐらい行きたかったなぁ」と言われた時は「それは…無理だな…」と思った。
「そりゃ車椅子なんだから無理でしょ」って当然のように言う人はいると思う。
いや無理なんだよ。そりゃそう。無理なの。物理的に。
確かに頑張れば行けるかもしんないけど。知らないけど、配慮もされてると思う。
でも立ち見の音楽フェスに行くというハードルがそもそも高い。そこに行くまでの道程のハードルも高い。
立ち見だから見るとしても多分後ろの方でしっとり見るしかない。車椅子にぶつかると怪我させちゃうだろうし。
そういったリスクをひっくるめて考えて「無理」となる。勿論フェスを非難してるわけではない。
「金がないから無理」とか「忙しいから無理」とかと違って、「車椅子だから無理」は本人にはどう努力もできない「無理」だ。
介助人としては軽く「え!行きたいなら頑張るよ!」なんて返したりするけど、身内は難しいことを知ってるから、何も言わずに首を横に振る。
こんな無力なこと、ある?
自分はまあ行こうと思えばいつでも行ける。
身内はこの先あの景色を体験することはないんだ。と思ったら無性に悲しくなった。
――――――――
インドネシアの謎の民族だったか、南米の謎の民族だったか忘れたんだけど、なんかの少数民族であったよそういうの。いまだにITを拒絶して狩猟採集やってる民族。
男はただ日々を狩猟採集しながら生きてるだけで、女を口説くとかしない。一定の年齢、たしか10代後半か20歳くらいになったら自動的に結婚が決まる。
女同士が打ち合わせて、A子はB男に行く、C子はD男に行く、みたいに被らないように決める。女コミュニティの一存で決まる。
覚えてるのは、B男からしたら普通に生きていたら、A子から「魚料理を作ったから食べろ」みたいなことを急に言われる。
言われたら、A子の家に行って魚料理を食べることになっていて、食べたら自動的に婚約が成立して結婚することになる。そういうルールになっている。
食べないという分岐とか、食べたけど結婚はしないという分岐はない。A子に声をかけられた時点で一本道に入ってて、そこで生涯の伴侶が確定してしまう。10代後半から20歳で!
でも生き物として、女性のストライクゾーンが狭くて、男性のストライクゾーンが広いというのだったら、これが逆になるよりは功利主義的な気がしなくもない。
10代後半から20歳まで生きていたら、口説くような積極行動をしなくても、だれか女性から「魚料理を作ったから食べろ」と声をかけられて自動的に既婚者に、父になるわけだ。
非モテは不幸だ不幸だと言ってる受け身の男にとっての正解のシステムのようにも思う。ただなあ、日本のこういう男はポルノを見て目が肥えてるからなあ。
テクノロジー、メディア、といったものが全く入ってこない、選択肢が無く、すべてが理不尽で問答無用なことが当たり前だと思っている狩猟採集民族だからこそ成り立つんじゃないかという気もする。
日本人男性、こんなに日々選択肢を与えられて好きなコンテンツを見ることができていたら、妻を選ぶことができないなんて、女コミュニティに問答無用でピックアップされる存在だなんて、そんな不自由には耐えられないだろう。
我々は世の中すべて運(自分の責任はない)世界を生きていますので、弱者男性になったのも体が不自由なのと同じように運が悪かったからなったのであり、自分が介入する余地はなかったと考えております
体が不自由なのと選ばれないのは別だろう
Linux だと操作性が大きく変わる GUI が出てきた時に、以前と一貫した操作性をキープするために分岐してメンテナンスしてくれることが結構多いからこういうことはないぞ。
Windows 7 → 8 → 10 の時とか、完全に MS に振り回されてるだけでよくあんな OS 使ってんなって哀れに思ったもんだよ。
まあ、Linux を毛嫌いする奴らは無理に使う必要はないが、自ら不自由に飛び込んでいっているという認識は持った方がいい。
残念ながら、個人が自由に移動したいときに移動できる時代は終わりました。
路線バス事業者や国、自治体はそれぞれ頑張っていますが、構造的な欠陥から立て直しは既に不可能です。
これから数年で都市部・田舎を問わず無くなります。(残ったとしても、利便性は著しく損なわれます。)
足が不自由だったり免許を返納した高齢者など、いわゆる「交通弱者」の方々は、今後は自力で(公共交通に頼らずに)移動する手段を確保してください。
確保できないのであれば、移動しないで生きていってください。文句を言っても解決しません。
また現在、車を運転できたり健康で移動手段に苦労しない人は表面上問題ありません。
しかし、あなたが自分で移動できなくなったとき、もうあなたを運んでくれる手段は恐らく残っていないので、今のうちに覚悟しておいてください。
路線バスの運転手は昔から労働時間が長く、休みもあまり取れないため労働環境が良くありません。
そこで、2024年4月から、働く時間を規制することによって運転手の労働環境を改善したり、しっかり休むことによって運転時の事故を減らしたりすることを目指しています。
これだけ聞くと、運転手の労働環境が改善されるだけで、何が「問題」なのか良く分かりません。
働く時間を規制するということは、昔は1 日14時間働いていた人が10時間しか働けなくなるということです。
(これは例えで、本来の規制時間はもっと条件があり複雑です。詳しく調べたい人は「改善基準告示」で調べてください。)
しかし、今の路線バスは1 日14時間働く前提でダイヤが決められているため、4時間分運行できなくなります。
4時間分を運行するためには、もう一人運転手を雇用して運転してもらえば問題ないのですが、そもそも労働環境が劣悪であったためなり手がおらず、運転手の確保もままなりません。
運転手が確保できなければ、4時間分は運行できないため、減便や廃線となります。
運転手のなり手がずっと居ないため、運転手の高齢化が深刻化しています。
更に、1日14時間働けたのが10時間まで減るため、時給としては「稼げなく」なってしまいます。
労働環境は改善しても、賃金が上がらないため、そもそも運転手になりたい人がいないのです。
今後は、退職者が常に多い状態が続くため、そもそも路線バスを運行させることができず、路線バスはなくなります。
これは、国が厳格に運賃の決め方を定め、市民の足として高価にならないように制限しているからです。
故に、例えば運賃を2倍にして収入を増やすといった方策は簡単にはいきません。
これまでは、どこの路線バス事業者も、赤字の路線バス事業を観光業や別の事業で補填することで、体制を維持してきました。
ですが、昨今の新型コロナウイルス禍で環境需要は蒸発し、新しい生活様式で移動需要も激減しました。
これによって、赤字を補填する事業の存続すら危うくなり、そもそも赤字の路線バス事業は成り立たなくなりました。
しかし、税金で運営される国や自治体が運行するならば、赤字はさほど問題なくなります。
(路線を維持するため交通税のようなものは必要になってきますが。)
問題は、全国にある民間路線バス事業者を全部官営に転換するのが事実上不可能(民主主義国家なので)ということです。
民間の路線バスに事業を維持してもらうには、赤字を補填してかつ運転手の賃金が上昇するぐらい税金を投入すれば解決します。
(1)と同様に、交通税のようなものを創設し、それを原資に路線バスを維持します。
問題は、路線バスを維持しなければという機運を日本全国で高め、国のトップが舵取りして決定していかなければ実現は難しいということです。
一事業者や一政治家、一市民が騒いだところで大きなうねりは作れないでしょう。
また、「なぜ路線バス事業者だけに税金を投入するの?」という問題も発生します。タクシー事業は救わなくていいのでしょうか。
** (3)完全自動運転に転換する
技術的ブレイクスルーが起き、路線バスが全て完全自動運転になれば、運転手も不要であり、また労働時間の問題も解決されるため、路線バスは生き残れます。
希望があるとすれば、今の若者が高齢者になったときに、完全自動運転が実現しているかどうかです。
それ以外の今を生きる人は、路線バスによる移動は諦めてください。
昔は駅にエレベーターついてないところ多かったけど障害者の要望でつくようになり、結果的に体脂肪率が不自由な俺も助かっている
じわじわ変わってくれる部分もあるんじゃない
お前らは食べ放題のよろこびを忘れてしまった。ああ、なんと悲しいことだろう。
思い出せ、食べ放題のよろこびを。食べが放題なのだ。何をいくら食っても良い。いくらばかり食っても良いし、肉ばっか食っても良い。その喜びをお前は忘れてしまった。
原因はわからない。きっと加齢だとは思う。胃が弱り、ガツガツするのをみっともないと思うようになり、アブラを受け付けなくなり、鶏肉とブロッコリーを蒸したやつしか食わなくなり、そしてお前らは食べ放題のよろこびを忘れた。
思い出してほしい、小学校6年生。サッカーか?野球でもいい。スイミングでもいい。運動会というパターンもあるだろう。なんでもいいが、試合の終わり、打ち上げですたみな太郎に連れて行ってもらった日のことを思い出せ。そういう記憶が無いなら脳内で捏造してもらっても構わない。
まずお前らはすたみな太郎の席につく。土曜日、ランチ。値段は2580円くらいだろうか?子供はちょっと安いから1580円くらいかもしれない。値段なんて覚えていない。親が払ってくれるからだ。
まあ、お前が小学生だった頃のすたみな太郎がいくらなのかは知らないが、とにかく驚くほど安い。最近はセブンイレブンでちょっと弁当とファミチキとアイスとコーラとコーヒーを買っただけで1580円くらい行くよな。しかしすたみな太郎なら食べ放題、食べが放題なのだ。
そしてまず肉を取りに行く。すると広がっている、肉が。食べホならではのよろこびだ。何をとってもいい。大人になると、すたみなたろうに置いてある肉が、ほとんど固形燃料か、あるいはゴムかの、どちらかであることに気づくが、野球終わりの小学生にはごちそうにしか見えない。
そして山盛りにとって席に戻り、ひたすら食べる。とにかく美味い。どうやって食べてもいい。適当にたべてもいいし、じっくりていねいに焼いてもいい。ここで問題なのは、食べホじゃない焼肉屋では"じっくりていねいに焼く"以外の選択肢が存在しないことだ。なんと不自由なのだろうか。
お前は小生意気だからきっと小6にして"すたみな太郎の肉とかゴムだろw"とか言って、少しでもマシそうに見える原価の高そうな肉ばかりをとるかもしれない。
だが、そんなことをされてもすたみな太郎は痛くも痒くもない。なぜなら、すたみな太郎にとって、お前の笑顔こそが一番の報酬だからだ。ほかの食べ放題屋はそうではないかもしれないが、すたみな太郎だけはお前の幸せを真剣に願っている。お前の打ち込んでいる、サッカーか、野球か、そろばんか、プログラミングか、なんなのかは知らないが習い事の成功を願っている。そして今でもお前の幸せを願っている。お前は今、幸せか?
お前は忘れてはいけない、食べホの魅力を。たとえお前が老いから食べホに行かなくなったとしても、食べホに魅力があったことだけは忘れてはいけない。
食べホには自由がある。何をどれだけ食ってもいい。殺人以外は何をしても許される。
たまに「デザートは一人1品」とか抜かす食べホもあるが、最初に告知しているのであれば別にかまわない。後出しジャンケンは卑怯だというだけの話で、最初からルールが決まっているのなら問題はない。食べホにおまけでデザートがついているのだと解釈すれば許せないことなど何もない。
食べホの魅力は食べが放題な部分にある。「ほかの客のためにほどほどにすべき」「ほどほどにしないと変なルールができて全員が損する」「品がない」などと抜かす奴は食べホの魅力をわかっていない。品がないのが食べホの魅力だ。(ホテルのレストランがやっている「高級中華注文制食べ放題」のように品のある食べホも世の中には存在するが、そういうのは例外かもしれない)
食べ放題の魅力は、後出しジャンケンをされないところにある。明文化されているルールの範囲であればなにをやっても許されるフリーダムさこそが食べ放題の魅力だ。「俺の行為で周りが迷惑するかも」なんて考える必要は1ミリも無い。マジで1ミリも無い。
自分にルールを決める権限がありながら後出しジャンケンをするカスの資本家店長も食べホの魅力をわかっていない。「スイーツは1品のみ」「フカヒレは1皿のみ」「一度に注文できるのは5皿まで」とルールを明文化して戦っている食べ放題屋さんは今ではありふれている。実にフェアだ。隣町のスポーツ少年団をサッカーでボコボコにしたあの輝かしい日のお前のように、完璧なスポーツマンシップにのっとっている。そういう店と比べると、ルールを決める権限があるのに明文化せず、シンプルなルールでお得そうに見せかけて客を呼ぼうとするのはフェアじゃない。
確かに、外れ値というものは存在する。赤字にならないようになっているはずの食べホに赤字の打撃を与える猛者というものは確実に存在する。だから外れ値が出たときの赤字を吸収できるように、それ以外の客で収益を上げられる仕組みにしておくべきだ。人間は食べる量が一定ではない。食べるものも一定ではない。だが平均すれば一定だ。
外れ値のせいで少食の人間は損をするかもしれないが、だからと言って外れ値を後出しジャンケンで排除したら、次に外れ値として後出しジャンケンで排除されるのはお前かもしれない。
後出しジャンケンで損をするのは外れ値の人間だけではない。お前も損をする。後出しジャンケンが横行すると心理的安全性が下がり、お前のような大して食べない老人までもが食べ放題を心から楽しめなくなる。だから、そういう資本家の横暴を許してはいけない。万国の労働者よ、団結せよ!
お前は年老いてしまった。豚バラを一切れ食べれば胃もたれする肉体になってしまった。店の弱点を突き、店長が泣くまで食ってやろうというガッツを無くしてしまった。そのガッツこそがお前をサッカーで活躍させたパワーの源だったに違いないのだが、お前はそれを忘れてしまった。
それ自体が悲しいことだとは思わない。老人には老人の役割がある。老人にガッツがあっても大して役にはたたない。お前のような老人には、威厳と、少しのユーモアさえあれば良い。
真に悲しいのは、お前がガッツを無くしてしまったことではない。お前が、食べ放題を楽しみにしていたあの頃の自分の気持ちを想像できなくなっていることだ。
老いてしまった肉体は取り戻せないが、老いてしまった想像力は少しくらいなら取り戻せるはずだ。今からでも間に合う。
だからこそ思い出せ、食べ放題の魅力を。そして行け、すたみな太郎に。
すたみな太郎に行きなさい。
そしてゴムみたいな肉を食え。それに飽きたらほとんど燃料としか思えない真っ白な肉を食え。そして黒毛和牛ではなく"黒毛牛"と書いてある謎の肉を食え。黒毛牛はそれでも他の肉よりは高そうだから、黒毛牛ばかりを食え。飽きたらラーメンを食え。タフな老人になれ。サンチュを焼け。手羽先を焼け。黒毛牛を焼け。ラーメンにカレーをかけろ。そのかわりに必ず全部食え。アイスを食え。他人の気持ちがわかる良い老人になれ。寿司にラーメンスープをかけてお茶漬けを作れ。黒毛牛を焼け。そしてサッカーで優勝しろ。サッカーじゃないのなら野球でもいい。お前が優勝できないならお前の子供が優勝しろ。子供も無理なら近所のガキでもいい。なんでもいいから優勝しろ。幸せになれ。お前の幸福、ただそれだけがすたみな太郎の望むことだ。そしてドリンクバーを混ぜろ。"黒毛牛"をラーメンに乗せてチャーシュー麺を作れ。そして唐揚げを焼け。寿司を焼け。
ニュースを見てつくづく思うに結局被災者の人達って今となってはとっくに社会復帰して、順風満帆な人生を歩んでるんだよね
親を亡くした子供だの子供を亡くした親だのも、みんな何不自由なく進学したり結婚したり替わりの子供を産んだりと
結局、まともな環境に恵まれた人達は震災くらいじゃ人生損なわれないし大したダメージは受けない
就職氷河期で新卒就職に失敗した人間が、20年でも30年でも這い上がれずに底辺をさ迷い続けるのとはえらい違い
だから今年1月1日に起きた能登半島地震だって、どうせすぐに復興して被災者の人達は順風満帆な人生を歩むんだろう