はてなキーワード: 表現の自由とは
結局、表現の自由なんてどうでもよかったんだな。
ポスターや広告の表現が女性蔑視だ女性差別だと批判されれば、批判するなあれは表現の自由だ表現の自由を守れと抗議して、批判に対応して業者が引っ込めればキャンセルカルチャーだとまた抗議してたのに。
今や「おじさんの詰め合わせ」と言う表現に男性差別だの大合唱。その嬉しそうなこと。その程度の表現を叩く事で溜飲を下げる姿に心底がっかりした。ここはそれぐらいいいんじゃね、それ表現の自由を抑圧してるよねって言うのが筋じゃなかったのか?それを言わないなら今まで散々批判してきたのはなんだったんだ?自分達が批判してきた行為を当然のようにやり返すのか?そうであるならこれからは言葉狩り表現狩りの応酬になるだけじゃないのか。
また、これくらいはいいとは思うけどなどと逃げ道を残しつつ仕方ないだろ今までやってきたんだからと容認するような奴、こういう奴こそ一番タチが悪い。これこそ表現の自由なんて関係ない女性が悪いって言いたいだけだということの見事な信仰告白じゃないか。
結局自分達の好きなものが女性に批判された、攻撃された、お気持ちが侵害された事に腹を立てていただけだった。それに復讐したかっただけで表現の自由なんて関係なかった。
本当にがっかりした。
ワイはどの政党を支持したらいいんや。
憲法改正は消極的、表現の自由は手厚く保護されるべき、表現の自由への法的規制は消極的、LGBTの法的保護は賛成、生活保護の切り下げには反対、ネット上で盛り上がってる自称フェミニストには否定的、ワクチンは積極的に打つべし。
自民党は統一教会、立憲民主党はツイフェミあたりがくっついてくるのが嫌。
でも維新もなぁ。
ワイはどの政党を支持したらいいんや。
憲法改正は消極的、表現の自由は手厚く保護されるべき、表現の自由への法的規制は消極的、LGBTの法的保護は賛成、生活保護の切り下げには反対、ネット上で盛り上がってる自称フェミニストには否定的、ワクチンは積極的に打つべし。
自民党は統一教会、立憲民主党はツイフェミあたりがくっついてくるのが嫌。
でも維新もなぁ。
俺自身リベラルのつもりはないが反自民なので、自然と立憲やれいわに投票してるんだけど、こいつらが入れ込んでるフェミどもが本当にネックなんだよね。クソ邪魔
anond:20210818022828 これって俺が書いたんだけど、あの後考えて、主に左派と呼ばれるところに投票している人たちにとって「旗」というか、重要視してるのって、「自分はなるべく感情を排してロジカルに思考できてるか」なんじゃないかと思うんだよね
で、多くの日本人は奴隷労働をしてるわけじゃん。じゃあ、労働者のためになるような政治を志すべきだよね?っていうのが大多数の日本人にとってロジカルな思考な訳じゃん。
そこで韓国ガー国防ガーとか言っても、俺ら一般人の生活に何の得もないわけじゃん。それどころか韓国カルトの統一教会経由で北朝鮮にミサイル代が渡ってるわけじゃん。この期に及んで韓国ガー国防ガーで自民選んでるのはロジカルに思考できてない人なんよ。景気よくするのも国防の一環なんよ
よく、こういう「人を見下すような態度が左派の支持を遠ざける」みたいなこと言う人いるんだけど、「なるべく感情を排してロジカルに思考できてるか」って部分にフォーカスしてる人たちからすれば、そういうの嫌う人たちって感情に振り回されてるだけなんよw
政策を吟味して投票するんじゃなくて、支持者の態度が気に食わないからとかいう理由で投票先決めてしまってるんよ。政策を吟味する段階で、ほかの支持者の態度とか気にする必要ある?
政治家の態度は重要だよね。自民党から何人逮捕者出たのか知らんけど。裏金で捕まらなくてよかったね。左派政党からはとりあえず逮捕者は出てないみたいだけどね。でも支持者の態度とか振る舞いとかって、政治家と直接関係ないじゃん
そもそも自民党支持してるやつの中に韓国カルトの統一教会いるんだから、支持者の態度で投票先決めるんならそれは統一教会のやり方を問題視してないことになるよね?っていうロジカルシンキングもできないんだろうねそういう人たちは
なので、日本にはロジカルに思考できる人が少ない結果自民党が勝ち続けてるっていう現状について、左側に投票してる人たちは別に驚いてないと思うよ。態度を改めるようなこともないだろう。感情に訴えかけるということをそもそもやりたくない人たちだろうからね
で、フェミの話に戻るんだけど。フェミの言うことってほぼほぼロジカルじゃないんよ。草津だけじゃなくてほぼほぼすべての主張がおかしい。「お気持ち」と揶揄されるように感情的でもある
だから、別にリベラルを標榜してるわけじゃないけどロジカルに物事を考えてる人たちからすればフェミって邪魔なんだよね。左派政党がフェミとくっついたのが本当に理解不能
なので、こういう人たちの投票先がないわけ。まあ俺はれいわに入れてるけどね。あそこもフェミ汚染しつつあるけれど、表現の自由を守るということは山本太郎は明言してるのでね。怪しいものがあるとは睨んでるけど鼻をつまんで票を入れてる
だから「リベラル左派」から離脱してる人が多いように見えたとしても、まあそりゃそうだろうなとは思う。マジでフェミが邪魔っていうお話
フェミは女性だけの党を作って人口の過半数を占めるマジョリティの女性たちから広く支持を得ろよ。男の作った政党に寄生するのやめてもらっていいですか?
まあ何にも考えずに感情だけで自民に入れていた売国奴のみなさんは、少しでも頭を働かせることができるんならせめて次の選挙は維新とかに入れたらどうですかね。左派が維新もNOと言いたい気持ちはわかるけど、それでも自民に入れるよりは1.2倍くらいましでしょ
もしくは棄権されてはどうですか?この期に及んで統一裏金自民なんかに入れたら売国奴だと思いますけどね。肉屋を支持する豚さんたちここ30年どんだけ平均賃金あがってないんw
まあどうせ小泉あたりが総裁選に勝利してイケメンでさわやかだからとか言う理由でうれしょんして自民に投票するんだろうけどね、馬鹿国民は。レジ袋のこととか忘れてね。おぼろげながらに浮かんでくるわ、その未来がw
共産主義は、進化と変革の原動力を、変革の担い手である「主体」に求めすぎているのだろうと思うね。
連帯、戦線、同志、団結これらの共産臭のするターミノロジーは、その時代時代で、変革の担い手と目された人々へ向けられる。
古典的な資本主義の確立した時代に「労働者」という概念を再構成したのが、たぶん最初かな。
日本共産党の歴史をふりかえると、労働問題においても農民組合闘争においても、被差別部落問題にしても、変革の担い手を自分たちに取り込むことに知らず知らずのうちに夢中になっていた。その力ずくなやり方への反発へも少なくなく、運動からの離脱、分派を促進していた。
結果として共産党は思想の核である「労働者階級」すら満足に取り込めず、高度経済成長期が終わると、次第に、連帯のターゲットを主婦とか消費者とか言い始めた。そうした社会階層に媚びを売るために、自らの綱領をあいまいにしてブレた主張を繰り返しては運動の広がりが得られず、連帯の同志候補として次のターゲットを探してきた。
あげくの果てには性的少数者、LGBTQを守る(田村氏)とか言い出して今日に至っている。
他方で、資本主義社会の進歩史観は共産主義のそれとは趣が異なる。
根っこには、社会ダーウィニズム的な、進歩への信頼というか期待がある点では、帝国主義も共産主義も同根。
ただ、その実現が「強いもの」による自然淘汰によってなされると考えるか、闘争によってなされるかの違い。
「強い者」が先験的に理解されてしまうと、「弱い者」を排除してしまえばよい(優生学など)という発想になるし、差別の絶えない社会となる。帝国主義やナチズムは典型。
一方、一体なにをもって「強い者」かを人間は前もって知ることはできない、結果から判断するしかないとプラグマティックに考えると自由主義社会となる。理念ではなく、利害で集う社会はこの考え方から支持される。
先日、福岡支部のどなたかを除籍した日本共産党が今もって理解していないことの一つは、日本国憲法がもつ表現の自由の考え方だ。
実は、憲法第21条の源泉は、「一体なにをもって「強い者」かを人間は前もって知ることはできない、結果から判断するしかないとプラグマティックに考える」自由主義の考え方を基礎としている。
これは、表現の自由をめぐる憲法判例のうち「思想の自由市場」という考えから、典拠をどんどんさかのぼってゆくと理解できる。
そうすると、20世紀初頭の連邦最高裁ホームズ裁判官の考えにつきあたり、そのホームズからパースプラグマティズムに行きつく。
そしてさらにさらにさかのぼると、唯一正しい真理を押し付けてきたカトリックの猛威を振るヨーロッパ、お互い不寛容なプロテスタント同士の修羅場のヨーロッパから逃れてきた巡礼始祖たちの考え方に行きつく。お互いに自分が正しいと言い切れないなかでどういう社会を構築するかを模索したところからアメリカ合衆国は始まっているので、表現の自由というのは、国の成り立ちを土台で支える重要な考え方だということがわかる。
政治体制 | 言論自由 | 進歩史観 | プレイヤー |
---|---|---|---|
自由主義 | どちらかというと放置 | 蓋然的・客観的 | 多様性重視 |
共産主義 | どちらかというと統制的 | 必然的・主体的 | 一体性重視 |
同志の団結を迫りまくるという意味では、根性論とか暴力で一定の方向に人々の顔をむかせ社会変革をしようという路線になりがちなのが共産主義。
多様性を重視するあまり、どんなに社会が乱れようが差別が根深かろうが、偏見による暴力を許容してでも自由に奉じるのが自由主義。
日本共産党は、何かにつけ、ひとの横っ面を自分たちと同じ方向へ向かせたがるが、それは自分たちが嫌われて終わるだけというのは、これまでの歴史が証明している。
日本共産党は、自らの綱領に一言も書いていない、表現の自由の意味を社会のプラットフォームの視点から今一度振り返るべきだと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20240817215752
興味深い増田だったのだが良く分からない点があったので書く。なお本文章は山田太郎議員を擁護する意図を持たないが、結論としては「ワード規制を行わないと言質を取ったこと自体は、やはり暫定的に正解だったのではないか」になってしまうこと御了承頂きたい。もちろん私の書いていることが全部間違っててトンチンカンな可能性はある。
まず元エントリは(うがった読み方で恐縮だが)CSAMなら自動的、いっそ自然現象的に止められるようにも読めてしまうが、それは違う。誰かが声を挙げなければどんなCSAM(か何か)でも野放しにされてしまう。
だからある人は声をあげ、またある人や組織は声をあげられる面倒を怖れて自発的に規制する。空気や忖度(この言葉は好きではないが)、大企業が勝手にびびるのもGoogleがなんか言い出すのも、「現実的には野放しになるわけねーだろ」も、立派な「声の結果」なのだ。
言い換えれば、VISAだろうがアクワイアラーだろうがなんだろうが堂々と「fanzaやDLsiteはCSAMを扱いまくってるので抑圧します!」といくらでも公言していいはずなのだ。人を助けたり守ったりすることの一体何が問題なのか。もちろんVISA本社はやってないんだから公言もクソもないだろというのが正解なのだろうが、だとすれば誰が具体的に声を挙げた(あるいは架空だが重要な声をおそれた)のか。
とらのあなの例では『決済会社様より』と、VISA本社ではないにしてもプラットフォーマー側から文句が来たことは明言されている。だから我々が本当に要望しなければいけないのは、『犯罪とみなす基準を変えろ、である。』ではなく、『お前らのやってることは犯罪だから諦めろ、という主張を、隠さずきちんと署名入りで公言してほしい。』ということなのだ。生活や尊厳のために匿名性を必要とする個人や集団なら、そのような暴きは許されない場合も多く強くあろうが、クレジットカード関連のプラットフォーマー側企業なら署名入りでいいはずだ。
結果としてホッブズ的なつまらん万人泥試合が起きるかもしれないが、本来「話し合おう」とか「相互理解」とか「対話を拒否するな」ってそういうものである(そして繰り返すが相手は企業であり人間ではない。人間の集合体ではあるにせよだ)。まあ単に理念面ではなく実装面で難しいということもありそうだが(なんせクレカでお金を直接やりとりする界隈なれば、守秘義務はいろいろ大変だろう)。
もうひとつ気になったのは、CSAM(か何か)の具体的な抑圧方法についてこそ、ワード規制が十分有効と思われていることである。思われているってまあ私とかその辺のオタクが勝手に思っているだけかもしれないが、少なくとも「あいつらワード規制してるに違いねえ!」と推測(あるいは誤解)するに至った経緯ははっきりとある。DLsiteの用語言い換え問題だ。
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2403/27/news095.html
元エントリの例えと推測を借りて言えば、DLsiteは「コカインを”雪だるま作ろう”に、LSDを”TB-303なかよし”に……と淫語じゃなかった隠語に置き換えればなんとかセーフでは?」とあくせく努力していた訳だ。そもそもそういう手段に至ったことからも、ワードとCSAM等が密接に関連していた(あるいはDLsiteがそのように勝手に判断する事情が生じた)ことは伺える。
そもそも、あるコンテンツや表現がCSAMやそれに類する要規制表現であると——どちらかといえば理念より実装的レイヤーの話として、また基準が甘くなる売り手側ではなく厳しくあるべき規制側として——断定するにはどうするのか。いちいち一個ずつ動画やCG集を開いて確認するのか。確認者の価値観や倫理観(あと健康)はどう担保するのか。もちろん世の規制や確認には、マジで人力頼みでやってるケースがかなりあるそうだし(本当に健康を崩す人もいるという)、これをAIに代替させようという話は(2024年8月現在の日本国内では)実例あろうともまだまだ発展途上で「話を逸らすな」になる。
確実性はある程度妥協するとして、素早くCSAMっぽいものを一網打尽にするにはどうすればいいのか。というとやはりタグ、タイトル、それらに紐づく検索性……言葉を狩るのがもっとも効率的だろう。素早く、というのは社会に於いてクソ大事であり、表現で傷つく人を一刻でも早く助ける必要もあれば、その辺の暗黒メガコーポ風情の株価が分単位で傷つけられるのを防ぐ必要もある。
以上から、とりあえず心当たりのあるところ、のそれも上位から、「お前ワード規制した?」と聞きに行くこと自体は、そこまで無意味やナンセンスではないと考える。二次元CSAMが規制されて当然というのなら(まあ当然っちゃ当然だとは思う。程度問題に留めたいところだが)、堂々と「この基準と理由により我々が規制してやりましたぁ!!!」と首を獲った旨叫べばいいのであり、そうでないから我々オタクが「えー、基準が不明瞭ですと、CSAM以外の表現の自由も危ういのであり……」などとダラダラと騒いではいるのだ。
法的には「二次創作」のほうがグレーな領域にあるものの、個人的には「考察」のほうが問題だと感じている。
二次創作は作者自身が願望や妄想だと自覚して作られるが、考察は作中で描写された事実と混同されることが非常に多い。
たとえばサツキとメイは死んでいるという「考察」(スタジオジブリが否定済のデマ)が広められたことにより、
となりのトトロはサツキとメイが死んだ作品だと認識する視聴者が出てきてしまった。
明確な妄想である二次創作と違って、考察は原作についての認知を歪ませやすい。
問題のある考察として、以下のようなものをSNS上でよく見かける。Xでキャラクター名を検索すると出てくるnoteの記事などに多い。
・特定のカップリングや登場人物に対する偏った見方が注意書き無しに露骨に考察に反映されているもの。
・作品内で明示されていない情報を、根拠もないのにあたかも事実のように扱っているもの。
・考察が広まりすすぎて、公式設定と混同される。時には原作者の発言や原作の展開が否定されるケースも。
・専門知識なしに登場人物の精神状態を分析し、安易に精神疾患のレッテルを貼る。
著作権をグレーに侵害している二次創作ですら多くの権利元が放置している状態で、違法性のない「考察」はまず何にも引っかからない。
読んでしまうと地球平面説に当たったような衝撃を覚えるが、表現の自由の範囲内であり、作品内カルト的な考察集団はどうすることもできない。
・自分の意見はあくまで一つの可能性に過ぎないという認識を持つ。
こうした姿勢で書かれた良心的な考察に当たると非常に好感が持てるが、日に日に陰謀論的な考察の割合が増えているようにも思う。
また、陰謀論的な考察をする人間を惹きつけやすい作品というものがあるようで、
良識的かつ穏健な考察が多い作品と、そんなシーンは作中に全くなかった完全な妄想をもとにループに入ったような陰謀論的な考察だらけになっている作品がある。
キャラクターアンチがモチベーションのチェリーピッキング、カップリング厨の幻覚が入っている自覚がない幻覚、キャラクターに対して精神分析を始めて精神疾患認定、
なぜ、タリバンが女性を家に閉じ込め、読み書き以外の教育を実質的に制限するのかわかるような気がするよ
タリバンみたいなことをすれば女性がこのような思想に取り憑かれることも無くなるしね
これ以上、自由を制限されたくないなら、まじ足切りラインは全ての女性が下げたほうがいい
このまま少子化が進んだら、中国に乗っ取られて、中国の考える自由国家(表現の自由はほぼないし、政治的なデモもできない国)になる可能性も否定できないし、そこまでいかなくても、すべての国民が年を取った頃にろくな福祉を受けられない可能性がある
なぜかというと、昔は大資本によるエロの供給、というものが存在しなかった。
そのころはホームページでエロイラストやエロドット絵、エロFLASH、
無料だから誰もが対等、提供してくれている人は称賛だけが対価だった。
今よりも「表現の自由」があったのだ。
あの時代と比べて、今が良いかと言われれば、当たり前のことだが良くない。
エロでのビジネスを、アンダーグラウンドも含めてありとあらゆることを禁止する。間違いなく世の中は良くなる。
悪い魔法使いが撒いた黒い霧のような表現規制は、1人の勇者によって一瞬にして晴れたよ。
外圧って、海外クレカ会社の表現規制について言ってるんでしょ?
表現の自由のために労力を惜しまない、とある勇者の勇気によって、淀んだ闇は取り払われた。
マジで一瞬で消え去ったのさ。
正直、なんだったのw、って印象だわ。
トランスジェンダーの権利の拡大は、言論や行動に対する国家や制度的な規制の拡大と密接に関係している。 このことは、今日のトランスジェンダー活動家と、一時代前のゲイの権利運動との大きな違いを浮き彫りにしている。
ゲイの権利運動が、人々が法律に制約されずに自分の性生活を決定できるよう、国家からさらなる自由を要求するものだったのに対し、トランスジェンダーの運動はその逆を要求している。つまり、アイデンティティ・グループ以外の人々の行動を規制するための介入という形で、国家からの承認と保護を要求しているのだ。
かつて進歩的であることは、国家や制度的権威からより大きな自由を要求することであったが、今日、「進歩的」であることは、女性の表現の自由に対する制限を要求することである。
https://www.civitas.org.uk/content/files/2454-A-The-Corrosive-Impact-of-TI-ppi-110-WEB.pdf
著者ジョアンナ・ウィリアムズはシヴィタスの自由・民主主義・被害者プロジェクト・ディレクター。以前はケント大学で教鞭をとり、高等教育研究センターのディレクターを務めた。
それってあなたの感想ですよね。確かに外圧が一つの契機になることはあるかもしれませんけど、結局は個々人の意識や行動の問題ですから、一概に外からの圧力だけで全てが変わるわけではないですよね。表現の自由に関する議論も多角的で、一概に「責任感がない」と言い切るのは問題だと思います。アメリカの視点も一つの見方ですけど、それが全てではないですしね。他国の目を気にしすぎるのもどうかと思いますよ。