はてなキーワード: 穿った見方とは
なんかTwitterみてても言論弾圧という意見が多いしこれはもうダメだな
誰が誰に対する弾圧をしたのよw
過去ツイートが出てきてビジネス上でかいマーケットである中国の反発、
それをみた出版社とか声優事務所、広告代理店だかの自己判断でしょ。
なにか穿った見方が多すぎるな。たぶん、言論弾圧と意見している人たちは、
気づいていないだけでレイシストの素地がもう整ってしまったのかもしれない。
むしろ逆にみたら、中国で日本人を斬り殺す描写とか作者がヘイトツイートしてて
自分らが好ましく思うかって話よな。そんなの買うわけないし制作に関わった人たちも
泥が塗られる。それを避けただけだし、言論弾圧ですらなくね。
まあ大学スポーツなんて言っても75%ぐらい看板に偽りありなんだよね
最大限穿った見方をしちゃうと、学生とは名ばかりのスポ薦と称する傭兵が朝から晩まで部活して、母校の名を売るべく代理戦争を繰り広げているに過ぎない
だから勝利至上主義・宣伝至上主義・その他全部軽視になるし、勝利のためならしごきと区別のつかない指導もトップダウンの組織運営も平気でやる
そして厳しく、時に理不尽だからこそ、それに耐えた学生がその後の就活でも優遇される
でもそれ、別に日大に限ったことじゃなくて、ああもうるさい関学もたぶんそうだし、そもそもどこの私大も大体はそうじゃない?
宣伝の役に立たなかったら、どこが金かけて寮建ててグラウンド整備して、おまけにスカウトだのセレクションだのまでやるんだよ
全部宣伝のためだろうが
確かに、今回の件はそういうシステムの悪い面が一度に出て、結果こういう事件になってしまったわけだけども、
だからって今更どこの部活も勝利至上主義を捨てられるかって言ったら無理だし、今あるシステムから抜け出すつもりはどこの誰にもない
次世代に借金を残すのか、というが、そもそも今の若い世代が子供を産むことすら出来ないほどに酷い経済状況であれば、もはや心配する次世代そのものが未来には存在しえない。
格差の上のほうにいる人は、下に人に何か施しをするのがそれほどまでに嫌なんだろうか?今お金をたくさん持っている人は、本音ではますますデフレになったらいいと思っているのだろうか?自分たちはあらゆる面からみても選民であって、下々は下々たれ、ということなのだろうか?これは穿った見方だろうか?しかしこんな風にでも考えなければ、これほどまでにふざけた経済政策が何十年も続くだろうか?
ということはわかっているのだが、私には何の手立てもない。為政者の心根がまっすぐで、物事の正統を理解できることを、あるいは、心根がまっすぐで、物事の正統を理解できる人こそが為政者になれるよう、心から祈るばかりである。
つもりもないのだが
違和感はぬぐえない。
娘が被ったことは親として決して許せるものではありません。ただ、娘にも山口にもこれからががあります。この過ちで一人の人間の未来がすべて奪われてしまうことは私達も望んでおりません。山口氏には娘の心の傷に向き合いながらこれからを考えていただき、また、娘についてもそっとしておいていただきければ
と。。。。
こんなことより
どういった経緯で被害届を取り下げたのか
被害届取り下げたくせに
被害者面してんじゃないし
感じてしまうのは
50前のおっさんの家に
ノコノコ上がり込んで何をしてるのか
そんな娘に育てた
親の責任はどこへやら
と、思われても仕方ないと
考えるのは間違っているのだろうか?
大学院や研究が身近な存在にとって、単著論文が査読付き学会誌に載ったことは、その人間の能力を示す1つの指標となるわけだが、果たして身近でない存在にとってはどうなのだろう。
皆が働いている時期にまだ学生をやっている、そんな穿った見方をしている人たちに、在学中は論文通したりとかそこそこ頑張ってたんですよと話しても、きっと遊んでたっていう認識は覆らないんだろうなぁ。
作品を観るときに自分が男だか女だか腐だとかそんな妙な自意識を持ち出す必要が本当にあるだろうか?
ずっと観ているが、おそ松さんは一貫してアバンギャルドな表現をし続けていると感じる。なかなかそういう作風のものが他にないから、いつも興味深く観させてもらっている。なに受けを狙っているだとか、そういう穿った見方を払拭するくらいに多様な切り口でショートショート的な作り方をされていて、合成や宇宙海賊のようなSFの切り口にしろ、実松さんやイルカのようなドキュメンタリー/ハートフルストーリーのような切り口にしろ、結局はギャグとしてまとめていても風刺やパロディ、寓話的要素を詰め込む作りになっている。映像表現的にも多彩だ。それをみるに、この作品はクリエーターたちの創造力が発露される場となっているように感じる。そういう作品は観ていて気持ちがいいし、よい作品だと思う。
それを見る側の卑小な自意識によって、なに向けだとかに矮小化して、それでもってつまらないと断ずるなど、笑止千万というところだ。昨今、インターネット上の貧相なコミュニケーションに晒されているうちに、ずいぶんと傲慢な思考をする鯉になっている人間がたくさんいるように見受けられる。たとえば自分が絵を描くとき、それを鑑賞してくれる人のために受けをねらって描くのだろうか?そういう部分がないわけでもないが、それ以前に、まず自分の内に描きたいという思いがあるから描くのだろう。例えそれがビジネスであったとしても、その根本的な順序を違えていると創作なんてものは出来なくなる。おそ松さんという作品は、とりわけそうしたクリエイティブの欲望に忠実で居続けようとする思想性を帯びた作品であるように思う。その点で、誰に媚びているわけでもない作品であり、媚びているように見える部分は多分に風刺表現なのだ。
私たちは創作を見せてもらっている側であって、創作する側も、さきほど絵描きで例えたように、人間である。その人その人達の創作姿勢を汲み取ろうという親和的な姿勢なくして、見せてもらっている側が楽しむことなど到底できない。それはどんな作品についても言えることだが、その基本的なことを忘れて、自分の好きな要素だけ食べようとパクパクと口をあける鯉になっていないか、そのせいで認知が歪んでいないか、謙虚に自省する機会をすべての人が持つべきだと思う。
もとのセクハラ・パワハラ親父が糞で、当然罰を受けるべきなのは当然として、
それを告発した告発者が実は共犯だったんじゃね?という点についてなんで皆しらんぷりするのかな?
普通に自分のかわりに知り合いを贄に捧げて自分は利益を貪ってたわけでしょ?
童貞とかそういう点もだいぶ問題だと思うけど、それよりもそこがもっと問題じゃないの?
セクハラの構造問題が議論されるべきなのに、被害者同士の殴り合いで発散していく地獄
https://note.mu/fladdict/n/n666b0d9aaa4f
これも、なぜか被害者が、元の告発者と、その告発者が同じようにセクハラした人間だけのように
扱ってるけど、なんで身代わりに差し出された女性たちを無視してるの?
はあちゅうの件、読んだ。
電通時代の事とはいえ、退職してから7年も苦しめられてきたのは苦痛だったろう。
パワハラやセクハラは根絶すべき課題なのはその通りなんだけど、このタイミングで
はあちゅうがぶっこんできたのは、自身に染み付いたネガティブなイメージを帳消しにしようと
炎上芸人も、過去にはいろいろあった。パワハラ・セクハラ被害者、かわいそうな人。
でも今は頑張ってる感。なんか気持ち悪い。
相手もかなりのクズだけど、電通のちょっとした有名人ならみんなあんな感じだろう。
しかも、火消し対応がなかなか悪くない。昔の事だけど反省して謝罪したい、と繰り返す。
これ、炎上期間は短いだろうな。
俺らの手足になって深夜でも作業してろや。
アニ研連こと「アニメーション研究会連合」が解散するという情報を見たので、あくまでアニ研歴ゼロな外野の立場から。
※以下Twitterに投げようと思ったけど如何せん時機を逸したかもなので増田に。
いつぞやのコミケで入手した某まにけんOBの作品で、アニ研でのアニメを自作することの醍醐味として「自分で声をあてる」が結構重要なポイントに挙げられていて、ああこの一点だけでもニコ動とは決定的に文化が違うなと。
ニコ動にもそのものずばり「演じてみた」「アフレコしてみた」があって、そっちはまさにギャグ・ネタとして演じてアフレコしてみた風潮が主流だけど、一方でアニ研作品は、ギャグ・パロディであっても「作った自分たちで声をあてる」ことについては結構真剣に捉えている印象がある。
どんなに拙くても自分で声をあてることに意義があるし、よっぽどじゃないとそれを笑うことはない。一方これをそのままニコ動でやったら容赦ないツッコミの嵐だろう。特にストーリーがシリアスだったりすると。
逆にアニ研でゆっくりとか使うのはむしろ邪道って雰囲気も感じる(研連で上映されたのもそういうのは、吉野家パロのゴノレゴのさらにパロでTTS使った一本、softalkとか使ってたの二本、これぐらいしか記憶に無い)。
なんというか、同じアニメ制作でも柔道と高専柔道ぐらいの違いというか。ちなみにニコ動の流れの元はFlashアニメで、ここからしてアニ研とは断絶された全く違う文化だ。
あと短い作品でも結構な人数のスタッフが投入されていて、これもニコ動ではどうなんだろう。こっちはいちいちスタッフロールないとはいえ、基本一人での製作だろうし、だからこそFlashとか「一人でも作れる」ためのツールを使っている。
なぜか思い出したのは「大量の隊員を動員しながらほんの一握りしか登頂できない極地法に疑問を持った」という植村直己さんのWikipedia記事。
何事も基礎は肝心で、それこそ柔道とかプロレスとかは受け身は基本中の基本で欠かしたらケガしてしまう。然るにアニ研の方は「受け身の練習と同じように大事なこと」としてコマの描き方から教えていて、ちゃんとした創作はそれがモノになってから、みたいな教育をしているのではないか。
で、一枚一枚コマを描くことはそれは大事だろうけど、ぶっちゃけ受け身のようにケガをしないために必須なものなのかというと…?新人の側も「いいから作らせろ、Flash使わせろ」て思ってるところがないかなとも。
研連では「4年かけて精一杯短編作りました」とか「予告編だけで結局本編作られず」とかが多い印象で、そういうのニコ動で受け入れられるかというと疑問符がつくし、ニコ動では「アニ研で4年かけて作られる短編」レベルを長くても数ヶ月で仕上げるクリエーターの方が目立つ感じが。
名前は挙げないけど、いつぞやの研連上映会ではアンケート1位だった作品。「アニ研ってとにかく本格的にかっちりやることに拘るんだな、結局『アニメ作りを楽しむ』よりも『アニメスタジオ(というかジブリ)の真似ごと』やるための場所なんだ」というすっごく穿った見方をしてしまった。
ともあれそういうのについていけなくてドロップアウトしてニコ動で一人でこそこそ作ってるって人もいるんじゃないのかな?とも思ったりした。
といっても自分の結婚式ではない。中学時代の友人の結婚式に呼ばれている。
この数年で友人たちが次々と結婚していく。もうじき三十路を迎えようという年齢だが、田舎という地域性のためか結婚は皆早い。
特に“マイルドヤンキー”と言われるような人間たちではなく、ごくごく普通の社会人でも30前には身を固めている。
自分の周りだけかもしれないが、中学時代の友人達で地元に残っている人たちは、ここ1,2年であらかた結婚した。
特段これと言って恨めしいとか、妬むとかそんな思いはまったくない。
財布へのダメージは頭が痛いが、素直に祝福できる間柄だ。参列するつもりでしっかり準備も整えている。
新郎は公務員。田舎では羨望の眼差しを贈られる、エリートの代名詞だ。
で、そのお相手、新婦側も公務員と、なんとまあお固い雰囲気になるのかどうなるのか、少し下世話な好奇心も湧いてくる。
ところで新婦側のプロフィールを確認してみると、何となくその経歴に覚えがある。
数年前、居酒屋で男女2対2で飯に行ったときのこと。男側は今回の新郎と自分、女性側は今回の新婦とその友人だったか同僚か。
これがきっかけで新郎と新婦が出会ったのかと思うとそうではなく、実はその以前からお付き合いをしている関係だったらしい。
となると、あの食事会って何だったのだろうか。
新婦の友人さんが、誰か紹介してほしい、とかいう流れにでもなったのだろうか。
よくよく考えると、この新郎にはとても世話になったもので、何度も合コンやら異性の絡む飲み会などに呼んでもらうなど随分気を使ってもらった。
実際のところ、中学でもクラスは違うし、高校も違う。中学時代も一緒に遊んだ覚えはあんまりなく、共通の友人を介して絡みがあったかどうかくらいの仲だった。
社会人になってから何人かで集まった飲み会でたまたま再会して、それから飲みに行ったり遊びに行くようになった。
特に、これと言って彼女がほしいとか誰かを紹介してとは一言も言ったことがないが、自分の恋愛遍歴について話すことも無かった。これは当然の話で、今まで彼女がいたことが無い以上話せることが欠片も存在しないのだ。
だから恋愛ネタを振られたときは「彼女いない=年齢」を全く隠さなかったのだが、かえって彼に気を遣わせていたのかと反省。
そしてわざわざ気を遣わせたにも関わらず、恋人ができるなどの成果を出せなかったのが大変申し訳無い。穿った見方だが、この結婚式に呼んだのも無理にでも出会いの機会を作ろうと取り計らわれたのかと思ってしまう。
この新郎だけではない。
年収は20代後半男性の平均程度はあり、極端に悪いわけでもなく性格も特に問題ないと思われているようで、「彼女いない=年齢」である旨を告げると驚かれ、何度か会う内に「女性を紹介したい」と持ちかけられる。
だが如何せんコミュ障の身には、いきなりLINEのIDやメールアドレスを渡されただけでは、相手に興味も抱けず、特に話すこともないなぁ・・・と思ってしまうのである。それでも20代前半の頃は「いい加減この歳になって彼女がいないのは気持ち悪いと周りに思われている」と考えて、何とかメールやLINEのやり取りをしたりアポを取って飯に行ったり頑張ったが結局「彼女いない=年齢」のままだ。
ここ最近も友人と職場の人からそれぞれ女性を紹介されたが、片方については1通目のやり取りの自己紹介で力尽き、もうひとりの方はとうとう何も連絡を取らなかった。そんな訳で、ここ最近は女性を紹介される流れになると、「いきなり連絡先渡されても相手に興味を持てないから連絡しないんですよね」と言ってしまうようにしている。その方が相手に失礼もないし、今後の面倒も減るだろうし。
結婚式に行くために、散髪にも行ってきたが、そこでも「紹介したい女性がいる」と言われ、連絡先を渡されそうになった。「連絡取らないかも」と匂わせても「なんならこっちで日程調整しようか?」と一歩も引かない。個人的に仕事や趣味で予定が12月半ばまで詰まっている以上、アポ取ってもらっても予定通り動けるかもわからない。
何とか結婚式終わってから考えると答えて解放されたが、次の回避策を検討しなければならない。
心配してもらえるうちが華なのかもしれないし、とても贅沢な悩みかも知れないが、正直恋愛も結婚も諦めているし、したいとも思えない。
今でさえ家に帰ったら一言もしゃべらないしメールもLINEもやり取りはしない。家に帰ったらコミュニケーションのスイッチを完全にオフにしたいのだ。恋人や家庭を持ってしまったらそういう訳にはいかないだろう。
まして、恋人を持ったことが一度もない以上、恋人がいることの良さもわからない。甘い蜜を一度でも吸ってしまったら、無くてはならない物のように認識するかもしれないが、経験がない以上そんな心配もない。
https://anond.hatelabo.jp/20170828024450
記事内の、オタ・非オタであるか、アマチュア・プロ(法人)であるか、営利・非営利であるか、などは本件に関係ない見当違いな意見だと思う。
真木よう子のコミケ参戦はコミケの目的に反している。というより、全くの逆の考え方をしていると思うのだ。(目的と理念については後述)
コミケは同好の士の為の場だと思う。自分の好きなものを表現したり、見つけたり、仲間を探したり、そういう場ではないだろうか?
しかし今回の真木よう子の作品は、そこに当てはまるように思えないのだ。
理由は、彼女のクラウドファンディングのページにある。参考:https://camp-fire.jp/projects/view/40020
皆様と一緒にフォトマガジンを作ろうと、試みて居ります。 出版社を挟まず、皆様の御希望の写真、ワタクシの本音。等、多数載せる予定で御座います。
とある。
つまり皆様と一緒に、皆様のご希望の写真+αをクラウドファンディング――出資者を募って皆様のお金で作ろうとしている。
先述した内容の通り、コミケが同好の士の為の場だとしたら、彼女は一体なにが好きなのだろう?
写真だろうか、それとも二番目のワタクシの本音だろうか、あるいは自分自身が好きでそれを表現したいと考えているのか。
究極的に創作はそういうもので、何らかの形式やジャンルを倣って表現するのは、その為の手段のはずだ。
彼女が自分自身を写真という媒体で表現したいなら、写真という手法で自分というオリジナルのジャンル(或いは自分の好きなもの)を表現するとも解釈できる。
しかし今回の件は違う。
彼女は、皆様をしきりに強調している。
皆様のお金で、皆様の御希望の写真を、皆様と一緒に作りたい、と。
さて、最初に『全く逆の考えをしている』と述べたのはこの為である。
つまり、彼女は表現者として自己から他者へ好きなものを提供するのではなく、他者から自己へ好きなものを提供してほしいと言っているように思えるのだ。
クラウドファンディングの使用は、この点をより顕著にしている。
より皆様とお近づきになりたく、この様な企画を思いつきました。
とあるのもそうだ。
上記の文は明らかに、好きなものを外に出したい=表現したいとは書かれていない。
(もし自分の本音やそれに類する表現したい内容があるなら、ここに書かないのは不自然だ。穿った見方をすれば、他者の好きなもの(或いは自己への好意)を内に取り込みたいようにも見える)
この根本的な表現の間違いが、"真木よう子コミケ参戦問題"の肝だと思う。
自分の好きなもの(内)を他者(外)へ出す、のではなく、他者の好きなもの(外)を自分(内)へ入れる、という目的では、まるで読者(受け手)の目的である。
例え結果的には同じ出版物であっても、コミケの、そして表現者の目的に反しているという点が、この件の問題ではないだろうか。
真木よう子氏は既に本件について謝罪しており参加中止を表明している。ネット上のコメントやまとめには、当記事と同じような発言も幾つか見られる。
それをわざわざ取り上げ反論したのは、記事の内容に不満があったからだ。
筆者に悪気があったとは思わない。コミケ文化を憂慮して書かれた記事だと思うが、結果として悪い印象を与えていないだろうか。
彼は真木よう子氏に問題はないとし、各々の批判に問題のない理由を挙げている。
(なお、当記事への批判は以下が該当するように思われる。しかし交流と表現は別物であり、作家は表現を前提に交流している。当記事の反論はその表現が目的に反しているというものだ)
彼のいうように、オタ・非オタ、アマチュアや法人、営利や非営利はコミケには関係ない。それには同意だ。
だが、最終的にオタが非オタを排除したような結論になっているのはどうなのだろう。
とあるにも関わらず、皮肉にもこの記事はその境界問題を蒸し返しているように思える。
個人的な話をさせてもらえば、自分が子供の時分は、まだオタクが犯罪者予備軍という印象が強く、オタクというだけで世間から白い目で見られる時代だった。
だが、様々なメディアを介して有名になり人気も上がり色々な人が集まるようになり、現在は既にオタクと一般人の境界は限りなく薄く微かなものになったと思う。
そうした時代にあって、この記事は結局はオタクと一般人(あるいはそれに類する言葉)の影に怯えているように見えるのだ。
彼にはそう思えたのかもしれないし、実際そのような考えの人もいるかもしれないが、オタクであるかどうかはこの問題を正しく捉えていると思えない。
と言っているではないか。
コミケの参加に関わる内容は、コミケ参加者とすべきで、不要な言葉のくくりを認めるべきではないのだ。
これからの時代に大切なのは、曖昧な境界に怯えるのではなく、境界を取り払い同じであると主張する勇気ではないだろうか。
最初、タイトルに理念と書かず目的にしたのは直観的なものでした。(タイトルを先につけた)
なんとなくコミケの理念なんて仰々しいものでなく、もっと単純で根本的なものだと思ったからです。
記事を書いている途中で見つけたのですが、http://www.comiket.co.jp/info-a/WhatIsJpn201401.pdf
コミックマーケットは同人誌を中心としてすべての表現者を許容し継続することを目的とした表現の可能性を広げる為の「場」である
とあります。
当記事は、その理念の前半の表現者について、表現の目的に反している、延いてはコミケの目的を満たしてないと論じて、後付けですが一応タイトル回収?できているのではないでしょうか。
いやほんと、長々と失礼しました。