はてなキーワード: 福音書とは
number_55
@room_number_55
・申告を推奨
ってことでいいのかな?
非実在青少年の年齢をどうやって判断するか(見た目? 設定?)がハッキリしないのが気になるが…
午後1:05 · 2019年2月24日 · Twitter for iPhone
https://twitter.com/room_number_55/status/1099520769405546496
ななしぃ@七志乃七介 @Nanacie_ 2日前
webisu_vip キリスト教的に欧米は「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイによる福音書 5:28)って考えですもの。しかし人は抑圧を受け過ぎると暴走する面がどうしても存在します。仏教は思想まで禁止してませんから、この辺の考えは諸外国のキリスト教的思考とはかなり相容れないものだと思われます。
返信 4
『新約聖書』(しんやくせいしょ、ギリシア語: Καινή Διαθήκη, ラテン語: Novum Testamentum)は、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『旧約聖書』とならぶキリスト教の正典。また、イスラム教でもイエス(イーサー)を預言者の一人として認めることから、その一部(福音書に相当するもので現在読まれているものとは異なり、アラビア語で「インジール」と呼ばれる)が啓典とされている[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8
最近、この手の西海岸系サービスで規約レベルのイラスト排除がすごい進んでるんだよな。日本でいくら騒いでも、意思決定が西海岸でキリスト教徒によって行われる以上はまなざし論の侵攻を遅らせることはできても押し返すことができない。どうしたもんかね。やはりブロッキングしかないのか? はてなハイクに日本人が閉じこもればはてなの京都本社と俺たちの京都府警がすべてを決定することになるわけだから…
10:34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
10:35 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
10:36 そして家の者が、その人の敵となるであろう。
10:37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
ま、少なくとも信仰の篤い地域では普遍的な道徳ではないんじゃないかな。イエスさんも家族愛よりも神への愛が大事だと語っているし、ゴータマさんも悟りに近づくためとはいえ息子に悪魔くんなんて名付けたり後に家族を捨てたりしているし。
しばらく前の話。同僚が韓国のことをえらく悪く言いだした。最初は聞き流していたんだけど、あんまりにも根拠不明のことをガンガン言い募る。コスモポリタンを自認する自分としては、たしなめざるを得なくなって、「その話、根拠なんなの?ソースちゃんと確かめてる?」って訊いた。するとその同僚はあろうことか「増田さん、在日ですか?」と明後日の方向で、息巻いて来た。まあどちらでもいいんだけど、うちの親が言うには我が家は第30代敏達天皇の後裔らしい。なので(笑)論点も外してる上に、事実からも遠い反応なのだが、見当はずれな反論に再反論しても議論は深まらないのでヘラヘラと流した。
そんなことがあってしばらくした盆休みの午後、福音書を読んでいたら、既視感を覚える記述があった。ヨハネの福音書の7章辺りにニコデモって男が登場する。この男は当時のユダヤ人の貴族が集まるサロンの会員で、そのサロンではイエスがえらくヘイトを集めている。理由は、漁民や小役人らと徒党を組んだ田舎者(イエスはエルサレムから3日くらいの道のりのガリラヤ出身)の大工が、生意気にも貴族たる自分たちの既得権益に何やら悪影響を及ぼしているってことだ。そのサロンでの、イエス問題を議題にした会議の最中、あまりにもイエス憎しで結論ありきな議論に嫌気がさしたニコデモは「あんまり予断で話をせずに、本人呼んで話聞いた方がよくなくない?」と発言する。すると「お前、在日?ガリラヤ出身??」みたいな明後日の方向の言いがかりの総攻撃をうける。記述はそこでおわっているが、おそらくニコデモは話す気なくしてヘラヘラしてたんじゃないかなと思う。
その人は、真面目で成績も優秀、周囲から敬意を表されている。
その人は、常に人に優しく、周囲を和ませ、耳を傾けさせる話術と相応の知識量を身につけている。
その人は、SNSでも才能を認められて多くの支持者を持っている。
誰から見ても非の打ち所がない。
機嫌が悪い時に人に八つ当たりをするなんて以ての外。
人の心の上に胡座をかいて弄ぶ真似だって、それに潮時が来たからといって掌を返すような真似だって当然しない。
ただ、「私以外の人間」には。
いつか、その人とこんなやり取りをした。
「言いふらせば良いじゃない!その人さんってこんなに嫌な奴なのよ、って!(ユーザー名)さんって実はこんな人間なのよ、って!」
ーそんな事、するつもりもない。しようと考えたことすらない。
「だろうね、だって私はお前がそんな事を絶対にしないってわかってて言ったのだからね!」
その人はこのやり取りを忘れている事だろう。
いや、このやり取りだけの問題ではない。
私に言った暴言も無意識の心無い言葉も、私に八つ当たりした時間も、
一晩眠れば綺麗に忘れる。
その人は私に「怒る事」を禁じている。
また、その人は私の「自分にされた事を覚え続けてしまう事」を嫌がる。
「だって、お前といると何だか私がどんどん悪い人間だと刺されているような気持ちになるんだもの」
その人という清浄な器官を清浄に、正常に保つためには私は余りにも異質だという事なのだろう。
気付くものなど要らない。
裏切り者は要らない。
誰よりもキリストを恨み、誰よりもキリストを愛し、誰よりもキリストを敬っていた。
それは私がその人に告白した日のことだった。
友達としていて欲しい
だが、確かに持っていたはずの慕情が、少しずつ黒く大きくなっていくのを感じる。私は少しずつ「ユダ」になってゆく。
以前その人に言われた言葉だ。
今もなお、言われた日からずっと私の心に染み付いてやまない言葉。
どの染みよりも濃く、深く染み付いてやまない言葉だ。
私はその人に訴えた事がある。
「消えてくれないんだ」と。
するとその人は私を睨みながら
「過去の私が言った事に、それを知らない今の私にどう責任を取れば良いというのか。どうも出来ないししたくもない。勝手に病院にでも行ってくれ。」
また、その人と犯罪者についての話になった時、その人が
「正しい倫理観を身につけて、ある日ニュースで痛ましい事件の報道を見て酷い、とか可哀想と思った瞬間に自分も同等かそれ以上のことをした事に気付いて絶望して欲しいよね」
と言った時、私はその人の片腹に刺すように返した。
私にとって責任も賠償も意味がなかったのだと、その時気付いた。
全ては自覚して欲しいがためだと。
その人の清らかさを信じてやまない人に知られたところで私の胸中の告白は意味をなさない。
その人に許され、その人の慈愛を甘受する私の抱える汚れた福音書が世間一般の倫理においてどれだけ異端かを、私は自覚している。
その人に許されているというだけで喜んで受け入れた幾多の我儘も暴言も、呑み込んだ怒りも染みこんだ異端の一頁を、ここに流そうと思う。
いつかその人がこれを見て、その清らかさを持って私の醜さと共に
まったく意味不明でクソワロタが、ふと以前の「高校に漢文は不要か否か」論争を思い出した。
「不入斗」って地名の読み方を理解するには、高校漢文程度の知識は最低限いるだろ。
漢文で広がる知的世界をないがしろにするから「不要」だというのであって、
史記なんて、白文に補助訳着けて読んだら面白すぎて徹夜するぞ。
まぁ加えてラテン語も覚えると面白いよ!ウルガタ聖書とガリア戦記読むだけでもいいから。
というか、ヨーロッパ文学読んでると、ラテン語知ってると元ネタわかって楽しすぎる。
あ、ウルガタはギリシャ語の翻訳じゃないか、というならこいネーもついでに覚える
のもいいか。マタイの福音書なんてすごく稚拙にかかれているのがバレて面白いぞ。
あとはサンスクリット語かね。
バーフバリ好きだという人はサンスクリット覚えてバガヴァット・ギーター
とりあえず古典語は年取って勉強してもなかなか身につかないんで、10代、20代でなんとか
及川眠子先生がデレマスの「未完成の歴史」という楽曲の作詞を担当することが公開されました。
及川眠子先生といえば、残酷な天使のテーゼを作詞したにもかかわらず、エヴァンゲリオンを一度も見たことがないことで有名です。
ですが、この話落ち着いて考えると、残酷な天使のテーゼに関しては終わった仕事だからいいとしても「魂のルフランのときにはテレビ版見ろよ」というツッコミもいれれます。
そこで、原作にあまり興味がない可能性が高い彼女が突然アイドルマスターのパーティーに呼ばれたら、困惑してしまいます。
なので、及川眠子さんの知り合いから知り合いへと10人挟んで、彼女をパーティーに招待しましょう。
かみさまから、「マルコ福音書にある言葉だ。神はひとりであって、そのほかに神はない」
後期クイーン的問題の本質とは論理的な誤謬の可能性ではなく、犯罪者を断罪する倫理的な問題への問いかけだから。
「マルコ福音書にある言葉だ。神はひとりであって、そのほかに神はない」から、さくらももこ。
2人は、ブレイブストーリーという熱い絆で結ばれている。
2人は、模倣犯とう熱い絆で結ばれている。
ちょっと待って!
終了ー。
https://anond.hatelabo.jp/20180116001948
「去りぬ」の意味が理解されなくなった一方で、今ではあちこちで耳にするようになったのが、「○○ありき」という表現だ。
「経費削減ありき」とか「廃止ありき」とか、「確定すべきでないことが当然の前提とされていること」への批判的言及として用いられる。
もともとは文語訳新約聖書ヨハネ福音書の「はじめに言葉ありき」のもじりだったのだろう。
この表現、本来「はじめに」の部分がキモだった。「はじめに○○ありき」で「○○を当然の前提にしている」ことを意味する表現として成立した。
ところが、みんなで使っているうちに、いつのまにか「はじめに」が消えてしまった。「○○ありき」は「○○があった」という意味だ。「はじめに」抜きでは前提視を指す表現として成り立たない。
しかしながら、もはや誰も気にしない。「ありき」の意味が顧みられなくなったからだろう。かくして謎日本語「○○ありき」が現代日本に定着することとなった。
この世(宇宙)の始まりは知性とともにあった。即ち「光あれ」(※1)の言の波とともにこの世が生まれたとあるように、「光とこの世」の前に存在したのが知性なのだ。この状態は混沌というわけではない。知性とは「Cogito ergo sum」※2 が個に生じた状態であり、その思念こそが創造の源となる。
自己を知覚した存在が「光」を欲すれば、「光」が生まれる。そして「光」の前に存在した「言」(※3)こそが、知性が行動を起こしたときに生まれる「想い」、即ち「思念」なのだ。知性の存続は時空間という概念を超えたところにある。つまり「Cogito ergo sum」という瞬間がいずれかの時空間軸で萌芽した時点でそれは「有る」。またそこに「有り続ける」。結果として、知性の存在は「場所や物質的なものに一切依存する必要のない」(※4)、言い換えれば、知性は時空間という概念から独立して存在しうる。つまり、これは世に出現するあらゆる現象(色)は本質ではなく(故に「空」であり)、世におけるあらゆる現象から独立して存在する知性(故に「空」)こそが本質(故に「色」)であること--「色即是空、空即是色」(※5)を意味する。
知性の繁栄とは、複数の知性が如何に結びつくかを示し、そこには2つの類型しかない。一つは、相互依存による共存共栄による知の拡大である。もう一方は、一個性による他、そして多の支配による侵略の拡大である。一方は永遠なる存続と相互補完により実現する存在であり、他方は、一個性の支配下により存続が左右される。
Cogito ergo sumは一般的に「我思う故に我あり」と訳されるが英語などでは、「I think Therefore Iam」、直訳すると「I think Therefore Am」となるためより「I」の存在そのものを強調した表現となっている。
※5 般若心経
けものフレンズという物語は、キリストの言行録たる福音書である
ジャパリパークに女性のフレンズしかいないのは、キリストの処女懐胎を暗示している
フレンドにとってのヒトとは、人類にとっての神。
サンドスターがなぜかばんと一体なのかというのは、もとのキリスト教の三位一体説もかかえる矛盾
かばんが現れるなりセルリアンに襲われるのは、ヘロデ王が赤子を皆殺しにしようとしたことに相当する
そこでかばんを助けるサーバルは、イエスを救うためにエジプトに逃げた聖母マリア
サーバルは同時に、イエスの最後を見とるもう一人のマリア、すなわちマグダラのマリアでもある
かばんを導くラッキービーストは洗礼者ヨハネ。不幸な最後が予想される
かばんを泥棒扱いするが後に改心するアライグマは、改宗者パウロおよびサウロ
ジャパリパークに広がるサンドスターローとは、サンドスターにより知恵を得たフレンズが同時に得た原罪
サンドスターローにより力を得るセルリアンは、蛇であり、悪魔であり、同時にイエスに害をなすヘロデとその一党
原罪(サンドスターローにより力を得たセルリアン)を背負って倒れたかばんは、神性をあらわしミライとして蘇り、フレンズがいつか神の国(彼の世界の人間の世界)へ召されること、またミライがいつかふたたびジャパリパークに現れることを告げて去っていくだろう
さっき初めて読んだんだけど、めちゃくちゃ感動した。
このお話のラストは、王子が蛇に噛まれて死ぬという、びっくりするオチで終わる。
んでこのオチの解釈を巡ってはさまざまな議論があって、ネットの解説を何個か見ているのだけど、どれもいまいちピンと来ない。
そこで自分で書く。
ネットでよく見る言説。
この説は、聖書の創世記にある「イブが蛇にそそのかされて知恵の実を食べてしまい、楽園を追放される」という話を類推する。
すなわち、王子≒イブ、蛇に噛まれたこと=蛇にそそのかされたこと、と考えるのだ。
そして『星の王子さま』で「楽園」と言えば「子供時代」を意味するであろうから、そこからの「追放」とは「大人になること」であろう、と推測する。
ただこの説の難点は、キリスト教においてイブは罪人であるということだ。この話をどう読んでも、王子が罪人であるというようには読めない。
しかも、『星の王子さま』の主題の一つが徹底した大人に対する批判にあることからすると、王子が大人になってしまうというオチはこのテーマにいかにもそぐわない。
したがって、この説のような読みは不可能ではないにせよ、本作の意義を極めて矮小化するもので、あまり採りたくない。
この説は、お話の全体にちりばめられた聖書的なモチーフに加え、①天から降りてきた王子が②死んで③天に帰るという展開が、福音書に描かれるキリストの生涯に似ていることを指摘する。
確かに指摘された点はキリストに酷似しており(モチーフの1つにしたのは間違いないと思う)、主役≒キリストという構図はいかにもそれらしい。
ただこの説の難点は、王子がキリストであると解したところで「だからどうした」という点がはっきりしないところにある。
聖書においてキリストが処刑されたことの意義は、過去・現在・未来における人類の罪を、神であるキリストが代わりに贖うことにある。
他方、王子は蛇の言葉に騙されて殺される。ここに何かの意義を見出す解釈もあるだろうが、キリストのような贖罪の意味はここにはない。
つまるところこの説を採用すると、ラストに王子が死ぬ意味がよく分からないことになる。なのでこれも採りたくない。
説って書いたけど、いまの俺の理解がこれ。
王子は基本的に生き死にに頓着が無い。砂漠の真ん中で水の最後の一滴が尽きた時、焦る主人公に対して王子は呑気にこんなことを言う。
「友だちがいたっていうのはいいことだよね、たとえもうすぐ死ぬとしても。ぼく、キツネと友だちになれてよかったなあ・・・・・・」
また、王子が蛇に噛まれて死んでしまい、魂が天国に召される際に、追いかけて来る主人公に対してこう言う。
「きちゃだめじゃないか。つらくなっちゃうよ。きっとぼく、死んだみたいに見えると思うけど、でもそうじゃないんだからね・・・・・・」
「わかるでしょう。遠すぎるんだよ。あそこまでこの体を運んではいけない。重すぎるんだよ。」
これらの台詞からうかがえる王子の死生観は、クリスチャンにそれによく似ている。
クリスチャンにとって魂の本籍は天国にあり、地上での体は仮初めの姿に過ぎない。したがって、死は消滅を意味せず、むしろ始まりであると言える。
だから王子は生き死にに頓着がないし、自分の死を悲しむ主人公に対して悲しむことはないと断言できるのだ。
この解釈を採れば、王子の死に対する向き合い方(≒クリスチャンの死に対する向き合い方)が分かることになり、本作のテーマを損なうことなく、王子の死が意義あるものとなる。
なのでこの説を採りたい。
出エジプト記終わった。
「偽証してはならない」のところの説明が、注釈者(内村鑑三)が不敬事件で世間からボコボコにされた経験からか、めちゃくちゃ熱くなってて笑った。俺も小保方さんのことを悪く言わないようにしよう。
マタイ福音書に「人を裁くな」っていう言葉が出て来て、注釈者によっていろんな解釈がされているんですが、そういうものを読んでいると、どうもこの言葉の射程は①他人を宗教的に裁く場合だけでなく、②裁判官が被告/被告人を裁く場合にも及ぶらしい。
しかし、ネットに転がっている牧師さんの説教なんかを読んでみると、どうもこの立場を徹底しておられない。どういうことかというと、牧師さんは②の場合にこの言葉を適用することはするのだが、裁判官が合理的な判断をする限りで、この言葉の例外なんだ、罪ではないんだ、ということを言っていたりします。
ただ、ここには2点疑問がありまして、一つは、不完全な被造物である人間同士に起こった紛争に、これまた不完全な人間が作った法律を適用して解決しようとしているわけですから、真に合理的な解決なんか出てきやしないんじゃないかという点。
もう一つは、多数の裁判官に対する取材によれば、実際の訴訟においては結論が先に直観という形で現れ、それに合わせて法を解釈していくというのだから、その判断が合理的な解決であるという保証は何もない(せいぜい国民の常識に適っているかどうかが確認できる程度)んじゃないかという点です。
誤解とは、聖母マリアに神性はなく、信仰の対象ではないということだ。
正確に言うと、聖母マリアを信仰の対象とする宗派もあるにはあるが、それらは多数派の聖書解釈からすると異端・カルトとされる。
聖母マリアが信仰の対象でないことは聖書にも書かれていて、聖母マリアと息子キリストとの間にこんなやり取りがある。
ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
つまり聖母マリアというのは神であるキリストに人の肉体を与えるための機械(言い方は悪いが)に過ぎないということで、神性は全くないのだ。だからこういうずさんな扱いを受けているわけだ。
ただ、ちなみにキリストを産んだ功績があるということで、一般的な尊敬(私たちが偉人の母を尊敬するという程度の意味で)は受けている。
フランシスコ・ザビエルが日本に上陸した際、マリアにこの日本を献上したというエピソードがある(真偽は不明)が、これはこういう文脈で理解される。
「shi3zの長文日記」がホッテントリに入っていますが少し言葉足らずかなあ…
http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20160607/1465246379?_ts=1465261918
”また、いま普及している聖書は基本的にさまざまな本の断片を集めた合本であるため、訳者によっても微妙に解釈が違う。そもそも原著はヘブライ語で、ヘブライ語聖書からそのまま翻訳しているわけでもなくて、一度英語になったものを翻訳したりするわけだから話がさらにややこしい。”
上記は旧約聖書にはあてはまりますが新約聖書にはあてはまりません。
http://www.bible.or.jp/know/know07.html
”旧約聖書はヘブライ語で記されている。ごくわずかの部分はアラム語である。”
ですが
”新約聖書はギリシア語で記された。このギリシア語はヘレニズム時代に地中海世界で共通語となったコイネ-と呼ばれるギリシア語で、古典ギリシア語とは異なるものである。使徒たちによってキリスト教が伝えられていったのは、このコイネ-・ギリシア語の世界であったので、新約聖書はコイネ-・ギリシア語で記されたのである。”
イエスが生きた時代のパレスチナの日常会話はアラム語であり、ローマからオリエント世界における国際共通語はギリシャ語でした。
一般にイエスが実際に発した言葉はアラム語で、その言葉を使徒が書留め、書簡に記したり布教に使用したのはギリシャ語だったと考えられています。
”イスラエル民族はカナンの地(パレスチナ)に定着してからヘブライ語を使用したが、後にアラム語が使われるようになった。このアラム語はアッシリア、バビロニア、ペルシアで用いられていた。エズラ記のアラム語部分はペルシア王との間に交わさた手紙であるが民衆は理解できなかったことを示す記録が列王記18:26にある。アラム語は次第にイスラエルに浸透するが、バビロニア捕囚はそれに大きな役割を果たしたと考えられる。ギリシア支配時代以降ヘブライ語は聖書その他の宗教文書に用いられ、一般にはアラム語が日常化していった。イエス時代のパレスチナではアラム語が用いられていた。福音書記者はイエスの語られた言葉の中に、ごく少数ではあるがギリシア語と並行してアラム語を保存している。「タリタ・クム」(マルコ5:41)「エッファタ」(同7:34)「アッバ」(同14:36)「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(同15:34)がそれである。”