はてなキーワード: 詭弁とは
最近某アニメの影響でネットでロックバンドの話や歌詞の良し悪しについて聞くことが増えました。
こういうとき、昔は聞いたのに今はすっかり聞かない言葉があるんです。
消えましたね完全に。
まあ当たり前でしょうね。
当時の時代背景を前提としますし、特定の歌や状況に対しての返しだったりするわけで、聞いてすぐに現代人が共感を得るのは難しいので。
なにより和歌を残しているのは当時のお貴族様ばかりでして、ロックバンドのような金なし時代を長く経験したほぼメンヘラギリ健常者とは全く違う人種です。
つまる所、件のフレーズは定番の言葉に雑な逆張りをかましているだけのチャチい詭弁でしかないわけで、皆がそれに薄々気づいていくうちに使われなくなったのでしょう。
いやーまさに今の状況によく当てはまってますねー。
こういう言葉に騙されたら恥ずかしいですよっていうのが今の主流みたいです。
つまり同じ100のポテンシャルがあっても男性は10、女性は6の仕事しかできないわけか
実際にはこれ続けると男性150、女性75のポテンシャルになっていったりするんでとんでもない差がつくわな
で、お前が経営者ならどちらに高給払う?
にしても元増田、こんな算数理解してたら騙されないような詭弁使うとかホント中身syamuでもまんこ付いてたら許される方の性だなホントに
それって詭弁ですよと真っ向から「どこで論点のすり替えを相手がしたか」を問い詰めていくってのは、そもそも「論点のすり替えをするのが悪いことである」と学んでいない人には通用しない。
そして日本っていう国にはまだまだその「詭弁はせいぜい言葉遊び以上の価値がない」というコトの理解が進んでいない。
全くそのことを理解できていない人たちも大勢いて、「え?議論ってそもそも屁理屈合戦じゃないの?」みたいに考えてしまっている人も少なくない。
そういう人に一から説明するのは完全に無駄なので相手にしないのが本来であれば正解なんだが……相手にしなかった場合は勝手に勝利宣言かました挙げ句関係各所に「じゃあそういう方向になったんで。皆了解取れてますから」と言いふらしかねない。
身内の中だけで済む分には「あの人っていつもこうなんですよね~~」で終わりに出来るが、よその組織まで波及すると「オタクの所の人間が確かにそう発言してるんですけどね」と言われてしまうとこっちとしても責任を持たないわけにはいかなくなる。
究極の解決策としては自分も詭弁力を鍛えまくって詭弁合戦では引き分けに持っていき、その上で詭弁禁止のルールが敷かれた議論が始まるように仕向けるぐらいしかない。
とりあえず今後NPOには一切寄付しないし、赤い羽根共同募金は論外ですね。
仁比議員は
・当事者・支援者の安全を脅しかねない情報は非公開とされるのが当然
と言っているのに、これをツイート主は
・女性支援事業について、情報公開請求を拒否し、情報を非公開にしろと内閣府に要求
とまとめてるんだよ。
つまり税金チューチュースキームが危なくなると加害者の悪行を隠蔽しろと国に迫っています。したがって条項公開請求を拒否にして黒塗り(=非公開)にしろと迫っているということになります。
このようにまとめられてもおかしくないです。
字面だけよむという感じの誤った読み方をすればこのような詭弁とも取れる主張ができてしまいますが、日本共産党、立憲民主党がなにをやったかを考えれば、内閣府に税金チューチュースキームを隠蔽しろと圧力をかけたことになります。
すべからく政治家の活動はその時何を言っているか、だけでなく、過去何をやっているのかが分析の対象に入ります。
しかも赤旗の記事はプロパガンダという分析もあり、それが事実なら情報公開請求を断念させるためにこうした行為を行っているわけです。
なので陰謀論でもなんでもなく日本共産党仁比聡平議員は内閣府に圧力をかけて税金チューチュースキーム疑惑を隠蔽しろと圧力をかけたわけです。だってこれを書いた人も日本共産党はコラボを支持しているという文脈で書いているからです。
別に出してもいいけど、買わないし子どもに読ませたくないな、そもそもネット上の負の歴史を担ってるし、詭弁が得意で通ってるし、その考え方が子どもに悪い影響与えたらやだし…
わたしは「もにょる」という言葉が嫌いです。しかしその理由をここで開陳するのはやめておきましょう。そんなことを書き出したらわたしが本来書きたいことが書けなくなってしまいますから。
ということについてです。
元増田さんはきっと「繊細さん」ではないのでしょう。「繊細さん」を「(笑)」などと言って嘲笑しているのですから。
なぜそう判断するのか。簡単です。多くの人は自分を嘲笑したりしません。というか、できないのです。自分をあざ笑う為には自分を客観的に観察する必要があるからです。多くの人が自分の心は、胸若しくは頭の中という自己の体内にあると認識していて、それを自分の外部に持つことができないのです。自分をあざ笑う為には自分の体の外部に視点を持って自己を点検してみなければなりません。目の玉を切り離してその目で自分を見るというようなホラー映画のようなことを言っているのではないですよ。思索のことです。そういう思索が多くの人はできません。元増田さんはきっとそうできない、そうしない人でしょう。だからこんな一文を全世界から閲覧できるインターネットに放つのでしょう。でもご心配なさらないでください。元増田さんはきっと多くの人と同じですから。マジョリティですから。マジョリティであることほどこの社会で生きていく上で安泰なことはないのですから。
すいません。元増田さんが繊細さんではないという説明に字数を費やしてしまいました。わたしが書きたいことはそれではないのです。ただ元増田さんが繊細さんではないという前提で話は進めさせていただきます。その条件は整っているので。
話を進めます。世の中を白か黒かに二分することをわたしは悪手だと思っています。が、しかし、世の中は繊細さんと鈍感さんに二分されると思っています。その間には大きな中間部が存在して実を言うと彼らこそがマジョリティです。中間層にもグラデーションは存在しますが、しかし繊細さんが問題になるときには、その中間層と鈍感さんが結託して繊細さんを苦しめるのです。だから中間層も鈍感さんの寄りの人々は鈍感さんの一部であると言ってもよいとわたしは思っています。
わたしが言いたいのはここからです。この世界は未だに鈍感さんに支配されているので残酷極まりないのです。あなたたち鈍感さんが何も気にしていない、どうってことこと無いと思っているせいで、環境問題や、地球人口の増大や、資本主義の行き過ぎや、貧富の拡大や、男女格差の問題や、女性の生き辛さや、男の苦労や、結婚できない若しくはできなかった男女の苦悩や、結婚と子育ての大変さや、資源を浪費することや、核爆弾で人類が死滅してしまうかも知れない危険性や、科学を軽視しスピリチュアルに心の癒やしを求める問題や、インターネットによる陰謀論の拡散や、差別発言の問題や、利己的でなければ敗者に陥ってしまうことや、障害者の生き辛さや、あらゆる犯罪や、共産主義の不自由さや、綺麗で印象の良い言葉を次々に無思慮な人々が汚染していくことや、労働者の酷い待遇や、権力者の横暴や、腐敗や、既得権益や、行政の不作為や、ルッキズムに関することや、子どもたちに真っ当な教育が届けられない問題や、人口の減少問題や、マチズモや、自己責任論や、著作権や、資本を持つものが資産を拡大し維持しつづけるというシステムの問題や、詭弁や、宗教原理主義や、知識人の軽視や、警察の横暴や、勘違いしたフェミニズムの行き過ぎや、儲かれば法に触れない程度で何をしても良いと思っている人たちの問題や、暴力の連鎖や、権力者を批判することを揶揄する人々の薄気味悪さや、都会の若者の孤独や、高齢者の孤独や、詐欺しを教祖だと勘違いすることや、自然が日々損なわれいてる問題や、性的な表現の問題や、商業の無法さや、法の軽視や、音楽家に対価が支払われない問題や、過去の発言を顧みないコメンテイターや、氾濫する性的な画像や、右派の暴力的な言説や、倫理を超えた技術の有用性や、左派の極端な規制主義や、識者を名乗る人が権力者に寄り添った発言しかしない問題や、労働者を軽視する経営層の発言や、異常気象や、生活が困窮していく人が日々増えている問題や、あらゆる問題を世代間問題にして解決しようとする安易な言論や、質疑応答で言語の共通理解が破壊されている問題や、良い権力者には権限を無制限に与えてもいいという安易な強権国家の入り口や、南北極圏の氷山が融解する問題や、グローバルノースとグローバルサウスの問題や、エネルギー問題や、自由を制限することで効率化がはかれるのならそれを推し進めようとする人たちがいることや、税金の使い途や、政治家の不透明性や、核廃棄物を万年単位で管理し続けない問題や、日々劣化していく倫理観の問題や、不採算部門は切り離してもよいという行政に営利企業の目的を導入することや、美しいもの以外は滅んでもいいという傲慢さや、情報発信が容易になっていくことになることで不確かな情報が拡散していく問題や、伝統が失われていく問題や、科学の軽視や、豊かさという強さに人々が憧れを抱き思慮もなくそこに追随していく問題や、権力差の強さに同調して同じ論調を繰り返す愚かな人々の問題や、後先顧みずに営利原理主義で法の穴をつく者がいる問題や、弱肉強食が種の起源の本質であると勘違いしていることや、戦争や貧困や倫理や常識や平等や公平や優しさが失われること、は改善も改革もされず放置されています。
もう少し真面目に繊細さを獲得すべきだと思います。というか、これらは繊細差の問題ではなく、あなた達が鈍感過ぎることによる弊害です。
この記事で気になるコメントがあったのでつっこみを入れておく。
<重要>
まずはじめに自分はあのポスターについては疑問派(あえてこの言葉を使う)であって、フェミでも規制派でもないことを断っておく。したがって最初に訴えを起こした尾辻氏については正直よく知らないし興味ない。したがって彼女にフォーカスしたコメント(お気持ちだの党派性など)にもいっさい興味なし。ただただ話題のポスターを見て「なんだこりゃ!?」と思ってる人間だ。
yujimi-daifuku-2222 表現の自由は子供からお年寄りまで、日本人なら誰もが無条件に持つ基本的人権だから、「憲法の話はしていない」なんて言い草は通らないんですよ。
ここでいう「法律の話などしてない」というのは、法律(憲法)では何も出来ないなんてことは最初からわかってるって意味なんだよ。したがって「裁判所に訴えればいいじゃん」なんてコメントもあったが、訴えてもどうにもできないこともわかってる。ただ「おかしいな」と思うから話題の尻馬にのって疑問の声をあげているわけであって、ポスターを擁護してる皆さんとはそこが噛み合ってないと強く感じた。
getchagetcha 弁護士の話は「この人何の話してるんだ?」って感じだったな。2次元絵が人によってエロに取られるかどうかの話なのに
エロかどうかと問われれば明確なエロです。しかも対象が未成年。高校生って設定の未成年少女に「ウサギはいつでも発情期=いつでもやれる女」が由来のバニーガールという衣装を着せるのはド直球のエロなの。つまりあのポスターは「さあ、みんなで未成年を性消費しよう!」ってポスターなのであって、その異常性がひたすら擁護派の皆さんから無視されつづけてることに疑問をもっている。
したがって萌えポスターなんて矮小化してる時点で、この記事は本質からズレてると言わざるをえないのよ。あれは大阪駅に「未成年性消費促進ポスター」が貼られてるって異常事態なんだよ。
記事はこのように主張するのだが、「人間性を傷つけ、その尊厳を損なう」ような広告を鉄道の駅に掲示することは現在でも自主規制の対象になるだろうし、そのことについても社会的に広く異論はないはずである。
性的な広告を鉄道駅に掲示することの是非は、その自主規制のラインをどこに引くべきであるのかという、より繊細な議論を必要とするのだが、記事はただ「規制は慎重であるべき」という何の役にも立たない一般論を述べているに過ぎない。
なに?
自虐?
「人間性を傷つけ、その尊厳を損なう」広告なの?という話なのに
「より繊細な議論を必要とする」とかいう人間が書いちゃダメな奴だろ?
そもそもさ
「あの広告は嫌だ」という人が、どういうわけか増田にポツポツと現れては
あれはないよねー?
さすがに昨今の何でもかんでも噛みついて差別だと叩く運動が忌避されてやり方変えたのかな?っておもったんさ
なのにさ、結局我慢しきれずに、「差別ザマス」ってやっちまってさ
同じじゃねぇかよ、結局それかよってなるわけよ
これさ、みんな口をそろえて言うわけよ
だけどさ、「差別ザマス」って叩いた表現が、公共で一般販売されていいわけ?差別ってそういう物?とか思うじゃん?
そうこうするうちにさ
「パンツをはいてない漫画を公共に持ち出すな」とか言い始めてさ
結局、原作も気に入らないわけじゃん
叩いてる奴らはさ、だれも「慎重な議論」なんて望んでねぇよ
断言できるよ
みたいな話をするとかさ
それが詭弁でなくて何なのよ?
(いう事を聞かなければ、議員連盟を投入することも辞さない、何なら法規制だ)対話(して、我々の望む結果を出せ)
とかもう取り繕うのやめろよ
"ワンピースが馬鹿売れしても日本人の子供はソマリア沖でタンカーを襲わないでしょう。"
恥ずかしげもなくこんな詭弁を言い出せる人が世の中にはいるんだよね
それしないんじゃなくてできないだけだろ
大阪駅の萌え絵ポスター、憲法解釈論では「問題なし」 平弁護士と考える「表現の自由」 - 弁護士ドットコムという記事にブクマが集まっているのだが、弁護士らしいよくできた詭弁だなと思った。
はてなーはいつから憲法の解釈で戦ってると思ってたの?と増田でも言っているが、他にもいろいろとおかしいところがある記事だと思った。
1. 大阪駅に掲示された麻雀ゲームのエロイラストは法的には問題ない
3. 国会議員には憲法尊重擁護義務があるので、広告などの表現への批判はするべきでない
記事はまず「今回の広告は「法的」に問題があるのか?」という記者(無記名なのでこの記者が誰なのかはわからない)の問いかけから始まるのだが、このような論点では誰も争っていない。確実に否定できる問いから始めて、自分の正しさを演出する典型的な詭弁術である。
裁判例結果詳細 | 裁判所 - Courts in Japan
市営地下鉄の列車内における商業宣伝放送は、業務放送の後に「次は○○前です。」又は「○○へお越しの方は次でお降りください。」という企業への降車駅案内を兼ね、一駅一回五秒を基準とする方式で行われ、一般乗客にそれ程の嫌悪感を与えるものではないなど原判示の事情の下においては、これを違法ということはできない。
記事は何度も「とらわれの聴衆」判決を引き合いに出して広告批判をするべきでないと主張するのだが、「とらわれの聴衆」判決で問題になったのは市営地下鉄の車内放送で「○○へお越しの方は次でお降りください」という広告を行うことである。駅の構内に性的なポスターを掲示することを同列に扱って議論をすることに意味があるのかは疑問だ。仮に市営地下鉄の車内放送で性的な広告が流れたとして、それについて裁判を行えば判決もまた違ったものになるのではないのだろうか。
ちなみに「とらわれの聴衆」判決は以下に引用するように商業宣伝が表現の自由の保障をうけるものであるかは明らかでないとしているのだが、記事はそれについてはふれていない。自説を展開するうえで都合が悪いからだろう。
およそ表現の自由が憲法上強い保障を受けるのは、受け手が多くの表現のうちから自由に特定の表現を選んで受けとることができ、また受けとりたくない表現を自己の意思で受けとることを拒むことのできる場を前提としていると考えられる(「思想表現の自由市場」といわれるのがそれである。)。したがつて、特定の表現のみが受け手に強制的に伝達されるところでは表現の自由の保障は典型的に機能するものではなく、その制約をうける範囲が大きいとされざるをえない。
本件商業宣伝放送が憲法上の表現の自由の保障をうけるものであるかどうかには問題があるが、これを経済的自由の行使とみるときはもとより、表現の自由の行使とみるとしても、右にみたように、一般の表現行為と異なる評価をうけると解される。もとより、このように解するからといつて、「とらわれの聞き手」への情報の伝達がプライバシーの利益に劣るものとして直ちに違法な侵害行為と判断されるものではない。しかし、このような聞き手の状況はプライバシーの利益との調整を考える場合に考慮される一つの要素となるというべきであり、本件の放送が一般の公共の場所においてプライバシーの侵害に当たらないとしても、それが本件のような「とらわれの聞き手」に対しては異なる評価をうけることもありうるのである。
記事はここまで一応は法律論にのっとって議論を展開してきたのだが、ここから内容は抽象的で曖昧なものになっていく。広告主に表現の自由があるのなら、国会議員にも表現の自由があるし、思想・両親の自由もある。広告を批判した内容についてではなく、批判したという事実そのものを非難するのは難癖としかいいようがない。記事で展開される論に従えば、国内の民間の活動は経済的自由はじめほぼすべてがなんらかの形で憲法によって保障されているのだから、国会議員は憲法尊重擁護義務のせいでいかなる民間の活動に対しても批判することはできないということになってしまうだろう。
記事は広告が法的に問題があるかというだれも気にしていない問題は取り上げるのだが、自主規制のあり方がどうあるべきかという本来の関心が集まっていた問題については驚くほど無関心である。
また、松井茂記教授(ブリティッシュ・コロンビア大学)は、ポルノによる性表現が女性の「人間性を傷つけ、その尊厳を損なう表現」だということで問題にするのであれば、「女性」の場合だけに限定すべき理由が乏しいことから、「およそ人間性を傷つけ、その尊厳を損なう表現はすべて禁止されうることになろう」とし、さらに「おそらく戦争の犠牲者やテロ行為の犠牲者の写真や映像も、公表できないことになろう」と解説しています(松井茂記『インターネットの憲法学 新版』(岩波書店/2014年)169頁)。
このように、「ジェンダー構造を再生産する」とか「女性の人間性を傷つけ、その尊厳を損なう表現」だといった理由で、表現の自由を制限する方向の議論を展開することは、表現の自由が広く制限されすぎてしまうことにつながりかねず、問題でしょう。
記事はこのように主張するのだが、「人間性を傷つけ、その尊厳を損なう」ような広告を鉄道の駅に掲示することは現在でも自主規制の対象になるだろうし、そのことについても社会的に広く異論はないはずである。性的な広告を鉄道駅に掲示することの是非は、その自主規制のラインをどこに引くべきであるのかという、より繊細な議論を必要とするのだが、記事はただ「規制は慎重であるべき」という何の役にも立たない一般論を述べているに過ぎない。
記事はわざとらしく「立憲」という言葉を繰り返し強調したり、以下のような文言をはさむなどしており、極めて強い党派性が感じられる。
なお、国会議員等が、与党の解釈改憲や検察庁法の改正問題を批判した際には、憲法学や法律学の通説あるいは多数説によるべきとしつつ、別の局面では少数説の立場に立つという態度は、結局のところ、憲法学や法律学の専門家の意見を尊重して判断をするというのではなく、自分たちの立場と意見が合致するのであれば、専門家を都合よく利用するといった態度である可能性が高いといわざるを得ないでしょう。
常に通説や多数説に従えというのはある種の見識なのかもしれないが、「とらわれの聴衆」判決から「広告表現は憲法で強く保障されている」という通常と真逆のメッセージを引き出す記事でそのように訴えられてもどう受け止めればいいのか困るというのが正直なところだ。
自分の都合の良いように話を作り替えて、その上に積み上げていく。曲がるしかないよね。
まー、ある程度仕方ないところもあってどこに線を引くかは考えどころだね。脳みそを交換して会話する訳にはいかないのだから100%伝達することは不可能で、なので、情報は落ちるし曲がるのはそういうもの。
だからこそ、100%に近づける努力をしたいよね。ここの精度(姿勢)が合わない人とは、仲良くなれない。
話は変わるけど、
この感度がひどい人が往々にする考え方で、相手を悪い事にして人の話を無効化するようなコミュニケーションをとる人が多いと思っている。
どういうことかというと、怒られたときなど、他の人もやってるのに私だけ怒るのはどうなのか、と、反論することで、怒られているのだからそこに目を向けてる話をするべきなのに、怒る行為の価値を下げに掛かってくる。そうする事で当人は怒られた事を聞かなくても良いポジションを作っているんだろう。
世界は自分だけで出来ているんだろうと思う。元増田の話にも似ているが、こうやって見えている世界を曲げているから、自分都合だけのとても心地いい世界になっている。