はてなキーワード: 聖人とは
ムカつくやつに、あなたのことが大嫌いであなたの不幸を心から願ってるっていうのを送ることがある。
これがまあきくんだわ。
生霊じゃないけど、実際存在しているどこかのだれかに、自分の不幸を本気で願われているっていうのは
どんな人でもこたえるみたい。
表では無視、笑い飛ばし、ユーモア返し、煽り返したりしてるような人でもね
実際すげー効いてるから。
裏垢でこんなの来た~えーんってよしよしのための公開は当たり前だし
無視しておいて、実際一ヶ月から一年とか普通に引きずってて、数ヶ月ぶりのリアルイベントで会う人会う人に自分から話したりね
だから、どんどん送ろう。ときには、完全合法に潰せる。お気持ちバトルですからね。
ちなみに毒マロの良し悪しについては
申し訳ないけど、私の怒りを買うほうが悪いという気持ちしかないからなんにも良心が咎めない。
神経逆なでするようなダブスタや有言不実行や贔屓や擦り寄りを見えるところで数え切れないほど繰り替えされて
なんで黙っていなければならないのか。
好意的なメッセージだけもらいたいなら、好意的なメッセージだけもらえる振る舞いをして欲しい。
実際そうしてるひとはたくさんいて、成功してる。
匿名で送れる手段を用意しておいて、好意的でないメッセージだけ送りたくなってほしい?無理だよ。
あなたの行いによる他人のリアクションを支配することはできない。
身を振り返り、自制心と常識と倫理を持って限りなく統一することはできても。
芸能人の悪口を本名でやってないSNSに書いたことない人だけが石投げてね。
そもそも「この人のここ最高だけど、ここ最悪なんだよな」っていうのは
どんな人に対しても当たり前にあるよね。
作品が最高なので、追いかけたい・最新の更新を見たい、という気持ちを人質に、見ているだけでイライラする言動を日々許容させられている、そういう状況だ。
なお、自分の場合、最高の部分は直接伝えて、最悪な部分は匿名で伝えてるようにしている。
本当に見過ごせないと感じたときは、時間をかけて言い回しを考えその人のプラスになるように努力をするし、伝えるよ。
そのせいか、勝手にいい人として信用され、そのまま相談されることもあったりする
こんなご意見もらっちゃって…と、自分の送った毒マロをみせられるんだけど
ああ~辛いですねえってふんわりした共感しか言えない(もちろん、それが赤の他人でも)
そういうところで「たしかにそういうところありますよあなた」ってセリフは期待されてないのは手にとるようにわかるので
やはり厳選フォロー:万フォロワーみたいな、ファンを「なんかすごいいっぱいの数字(でも感想は一人一人手間かけてよろしく)」としかみてない人間へのご意見は匿名に限る。
相手や状況に合わせ、相手がみずから用意したものをつかって、ただ思ったことを伝えているので、あまり悪いことしてる気はしない。
あと毒マロをイキリ返しされないコツは
その人が絶対に切られたくない相互大手の汚い部分を例に挙げつつ名前いれちゃうこと
これだけで泣き寝入り率ぐっとあがる。
それだけで原文公開ができない=自作自演では、という空気を作れる。
匂わせお気持ちで界隈を不穏にする痛い人にするなんてことも。
ちなみに、マロといいつつ、実際はお題箱。
キエフ大公国のキエフ大公、ウラジーミル1世(Vladimir the Great)からなのは言うまでもないんだが、これだけだと単に過去の偉人でしかない。
だがウラジーミル1世はキリスト教を国教化したので同教の聖人となり、更にロシアの守護聖人となっている。
守護聖人としてのウラジーミル1世は「キエフのウラジミール(Vladimir I of Kiev)」という名で呼ばれる。
その為にクリスチャンネームとして名づけに使われるようになった。
ソ連邦時代は宗教は基本的に禁止または抑圧されていたが、ミシェルなど命名にはキリスト教由来の名前が使われていた。
サンクトペテルブルグ近くのノヴゴロドにあるロシア建国一千年祭記念碑では一番目立つ位置にウラジーミル1世像がある。
当然、ウクライナのキエフにも 聖キエフのウラジミール由来のものが沢山ある。
ルーシはノルマン系、つまりバイキング勢力がスラブ民族圏に侵入したもので、キエフ公国もその代表格。
しかもウラジミール1世はバイキングを率いて戦い、彼らを植民させる政策を行った。
ところが近代になるとロシアの民族主義が勃興、ノルマンのバイキング由来説が否定されるようになった。
これはソ連時代にも発展し、共産党機関紙などの宣伝を通して国定歴史となっていった。
しかしソ連って本当に何だったのか?こういう覇権的民族主義にも背を向けるのがマルクスの思想だったんじゃねーの?
プーチンと元KGBのカルト保守のお友達がロシア国紀みたいなのにやられちゃったのにはこの辺の背景もあるんでないのけ?
ロシアのオリジンに自らの名の由来のキエフの聖ウラジーミルを重ね、一方でバイキング由来の部分は都合よく無視する。
だとしたら親は罪作りだ。もっと穏当な聖人の名前はあったろうに。
本人の方も、「静香」なんてお淑やかで女性的な名前を親に貰ったのに、全然静かにしてなくてうるせーわ、男社会の警察組織で上り詰めた上に政治家になるわ、高速道路走行中に石原慎太郎と喧嘩して車から引きずり落として高速の路上に放置するわと親の心なんて全然知ったこっちゃない亀井を見習ってほしい。
かといって5chとか好き嫌いとかで愚痴を吐き散らかすのも趣味ではない。
仕方ないので増田に書くことにした。
古くて新しい問題は色々あるが、日本のネットだとトレパクもその一つに数え上げられるだろう。
それでもツイートで上げる程度ならまだ可愛いもんだが、よりによって自身のオリ曲のジャケットのための描き下ろしでやらかした(=完全に商業目的)。
これがどれくらい悪質かといえば、著作権侵害だけでなく景表法にも引っかかりかねない、要は犯罪になる可能性が普通にある話だ。
だからこそ、運営も事の重大さを踏まえたのか、炎上当日のうちに100%非を認めるツイートをした。
あれを聞いて「なんで悪いのかよくわかってないけど、しょうがないから謝ります」以外の印象を抱ける人は、殆どいないと思う。
我が身可愛さとか自己顕示欲の強さばかりが目を引き、こちらも苦笑を通り越して頭を抱えてしまった。
そもそも高名かつレッスン代も高額な先生のところへボイトレに通うくらい歌に熱心な人が、なぜイラストをトレパクするのか意味がわからない。
正直、社会人として情けない話ではあるけど、頭が足りていないだけのほうが犯罪傾向が進んでいないぶん、更生の可能性があるのでマシかも知れない。
あるいは本人が筋金入りのドルオタだったこともあり、「何でも自分の手作りにするのがファンサ」という決意ばかりが先行し、煮詰まったとか?
だったらトレパクするくらいなら落書きレベルの駄作のが全然マシというか、たとえ落書きであっても熱心なファンは買うし。
というか、歌にあれだけ真剣に取り組んでいるなら、たとえ音符一つを満足に音にするだけでも、並々ならぬ努力と工夫と、そして膨大な時間がかかることはよーく分かるはず。
絵だって同じだろう。
何気ない線一つ取っても、それは作者の渾身の一筆だと思うべきじゃねーの?
それとも、「歌って踊れて絵も描けちゃう私を見て」という誘惑に勝てなかったのだろうか。
あと本件については、自分よりも遥かに絵の経験を持つ人がこんなツイートをしている。
@aiue_etizenn
またトレスが話題に上がってる。絵の練習が模写とか上手い人の真似から始まるというのが実は罠で。
どこかで踏み出す勇気出して、自分の頭で考えて創作するという事を覚えないと、見ながら描く技術だけ向上、何かを模写して描く癖がついてしまう→後に引けなくなる。というドツボにハマるのだと思う。
そもそも誰かの表現をいくら真似した所で、真似したとおりには絶対ならないわけで。
作者の生き方までパクれない時点で、もともと無理筋でしょっていう。
当然、見る人が見たら不自然極まりない、悪い意味で「作り物」感が出まくった仕上がりになる。
もちろん、誰かの真似をしないのは楽しいばかりじゃないどころか、むしろ苦しいことだらけだ。
本件の当事者の同僚で、ものすごく絵が上手い人(昔プロ漫画家もやってたレベル)が
と言い放っていたけど、これはガチで何かを生み出す人として、嘘偽りのない、正直でまっとうな感想だと思うんだよね。
ともかく、一部のドルオタやバンドの追っかけが、昔からこういうことにどれだけ悶々としてきたか、身を以て体験させられた。
勝手に侵略戦争始めたロシアが100%悪いのが前提だとして、昨今の「ウクライナ英雄視」ムーヴメントが気持ち悪い
プーチンはヒトラーだが、ゼレンスキーも国体の為に人民捧げるただの典型的な政治家じゃん
侵攻されたらさっさと投降してりゃ犠牲者も少なくすむのに、国内外でウクライナの士気煽って抗戦続けるのは、ウクライナ国民の命の為じゃなくてウクライナ国家体制と自分達のポスト維持の為だ
そのプロパガンダにまんまと乗せられて極東の日本人まで「ゼレンスキーKAKKEEE」、アホか
徴兵制に男性差別だと怒る割に、その男性差別を行う大統領は応援する(一方、一般女性は徴兵制に反対しないクソフェミ扱いする)ってアホか
落ち着けよ
ロシアがウクライナ侵攻したりした日に某所で引退発表があってダブルパンチを受けた層は一定数いるのではないかと思うし、増田にも前者の記事はあふれ返っているので後者について語る。
(別に前者と比較できるほどの話だと思っている訳ではない。戦争より大きな芸能問題なんてあるわけがない、当たり前だ)
ただまぁ、遠い国で戦争があっても「怖いな」「ロシア史にこういう流れあったな」とは思っても、現地で起きた悲劇のすべてに感情移入することはない。『アクタージュ』の原作者が前科者になって連載が打ち切られても「続きが読めなくて残念だな」とは思っても、原作者に同情はしない。どちらも遠い話だし、後者であっても自分が好きなものと作者は別物だからだ。世の中の悲劇のすべてに感情移入していたらどんな聖人でも発狂してしまう。よそはよそ、うちはうちだ。
その『よそ』を『うち』に変えてしまうのがライブ配信型の魅力であり、最も恐ろしい地獄でもあるという話。
Vtuberというのは、元々『二次元のキャラが本当に生きていたらいいのに』というオタクの願いを部分的に叶えるものだった、と思う。
2017年末にキズナアイの動画を始めて見た時は「はー珍しいことやる人がいるもんだ。面白いな」ぐらいの感想ではあったが、確かに感動した。ニコニコ動画時代には謎技術で見たこともないような動画を投稿している投稿者がわんさかいたが、その一種のような認識だった。その後四天王だの何だのと次第に盛り上がり始め、新しい時代が来たなぁと眺めていた。配信型を見るようになったのはブームの始まりより後だった。2020年末頃だ。
元々東方Project好きだったこともあり、ハードシューターがいるという話を聞いて観始めたのがきっかけだった。観てみると確かに面白い。バラエティ番組で芸人のトークに笑うことに抵抗はなかったし、配信系に馴染みがなかったのも「男女を問わず別に人間の顔を画面で見続けたいと思えない」という理由だったので、『アニメキャラがゲームやトークをしている』感覚で観ることができた。(この辺りは「中身の人間がいるのは論外」派も根強いようなので人によるらしい)ともあれ日常的に配信を観るようになっていくと、学生時代のボーカロイド全盛期を思い出してどこか懐かしかった。何事も流行りというのは流行っている内に楽しんでおくと、時代の空気を味わえるものだ。ミーハー万歳。
そのうちにわかってきたのが、このジャンルの本質は『コンテンツ』ではなく『コミュニティ』であるということだった。考えてみれば当然でもある。作品を一方的に受け取るのが『コンテンツ』なら、コメントを本人に送り、配信内でやり取りし、あるいはリスナー同士の横の繋がりも増える。(そういえばラジオ同様「リスナー」という表現を使うのは何故だろう? ライブ動画を観てはいても、本質は声ということだろうか)これほど双方向的ならば、それは勿論『コミュニティ』だ。
『コミュニティ』に加わるということは、例えばMMOオンラインで深夜までチャットで盛り上がる仲間ができるようなものだ。毎日のように遊んでいるから、相手が大体何をしているのかわかる。家族や友達、と言っても言い過ぎでないのは昨今増えたという「オンラインゲーム婚」とやらを鑑みても明らかだ。画面の中から一方的に渡されるだけの『コンテンツ』と違い、『コミュニティ』では画面の向こう側に自分から何かを届け、加わることができる。実社会にとても近い。精神的な、代用品にもなりうる。
そして人気の高いライブ配信者、特にそれがグループであればクオリティも保証されている。その『コミュニティ』はいつも楽しく、賑やかで、甘酸っぱく、可愛い。現実の自分の人生では味わうことなど到底不可能なほどに。この構図は従来の何かによく似ている。そう、『二次元』だ。現実逃避をして二次元コンテンツに耽溺し、そこに行きたい、加わりたいと考えるオタクはずっと昔から存在していた。
ライブ配信型Vは二次元そのものではない。だが、二次元と同じ効能を果たしてくれるから、その代用品にはなり得る。かくしてオタクは『画面の向こう側の二次元コミュニティ』に加わる手段を手に入れた。これこそ可視化された楽園だ。この世の何処かにはあるかもしれない、いいやあるはずもない、と諦めていたきらら世界観。それが実在すると思えた。何割かは演技かもしれないが、しかしすべてではない。あまりにも長時間、毎日のライブ配信がある。『素』を隠し通すのは不可能に近く、むしろ『素』をある程度出すことが人気の秘訣にもなっている。
演技ですらなく、『素』で『楽園の二次元キャラ』が現実の過酷さによって苦しむ姿をリアルタイムに眺め、想像することができるのだから。百合に男を挟むな、なんて次元ではない。きらら漫画を読んでいたら急に震災やコロナが登場してメインキャラが何人も死んでしまうようなものだ。大炎上間違いなし、トラウマものである。
結局のところ彼女達(あるいは彼等)は現実を生きる生身の人間だ。現実の過酷さの中で当たり前に生きている。だからろくでもない事態にも見舞われる。本人が原因になることも、しょうもない理由で叩かれることもある。それは別にこれまでもごく普通にあったことだ。
ただ、可視化されただけ。家族でもなければ身近に感じることがなかった苦痛を、日本中や世界中に分け隔てなく配って共有することができるようになっただけだ。
タイトル通り、この変化はあくまで二次元オタクかつ、ライブ配信型Vを許容できる層に限られる話でもある。人気アーティストや声優が死んだり結婚したり引退したりで阿鼻叫喚の嵐になるのはいつものことだ。珍しくもなんともない。ただ「二次元イラスト」が聖域で、仮に宇崎ちゃんポスターのように現実で炎上したところで、作者に何が起きたところで、作中世界のキャラには何の影響もない、という感覚はここにはない。
『画面の向こう側』に手を伸ばせることはとても魅力的で、そして地獄だ。
何度か自分でそれを経験してからは、二、三歩引いた距離感で観るようになった。離れて見れば『コンテンツ』として面白いのは変わらない。ただ『コミュニティ』にまで加わると、火傷をするからだ。古き悪しき2ch時代のROM専文化は、ここにきて自衛の意味を取り戻しつつある。
(別に前者と比較できるほどの話だと思っている訳ではない。戦争より大きな芸能問題なんてあるわけがない、当たり前だ)
ただまぁ、遠い国で戦争があっても「怖いな」「ロシア史にこういう流れあったな」とは思っても、現地で起きた悲劇のすべてに感情移入することはない。『アクタージュ』の原作者が前科者になって連載が打ち切られても「続きが読めなくて残念だな」とは思っても、原作者に同情はしない。どちらも遠い話だし、後者であっても自分が好きなものと作者は別物だからだ。世の中の悲劇のすべてに感情移入していたらどんな聖人でも発狂してしまう。よそはよそ、うちはうちだ。
その『よそ』を『うち』に変えてしまうのがライブ配信型の魅力であり、最も恐ろしい地獄でもあった。
Vtuberというのは、元々『二次元のキャラが本当に生きていたらいいのに』というオタクの願いを部分的に叶えるものだった、と思う。
2017年末にキズナアイの動画を始めて見た時は「はー珍しいことやる人がいるもんだ。面白いな」ぐらいの感想ではあったが、確かに感動した。ニコニコ動画時代には謎技術で見たこともないような動画を投稿している投稿者がわんさかいたが、その一種のような認識だった。その後四天王だの何だのと次第に盛り上がり始め、新しい時代が来たなぁと眺めていた。配信型を見るようになったのはブームの始まりより後だった。2020年末頃だ。
元々東方Project好きだったこともあり、ハードシューターがいるという話を聞いて観始めたのがきっかけだった。観てみると確かに面白い。バラエティ番組で芸人のトークに笑うことに抵抗はなかったし、配信系に馴染みがなかったのも「男女を問わず別に人間の顔を画面で見続けたいと思えない」という理由だったので、『アニメキャラがゲームやトークをしている』感覚で観ることができた。(この辺りは「中身の人間がいるのは論外」派も根強いようなので人によるらしい)ともあれ日常的に配信を観るようになっていくと、学生時代のボーカロイド全盛期を思い出してどこか懐かしかった。何事も流行りというのは流行っている内に楽しんでおくと、時代の空気を味わえるものだ。ミーハー万歳。
そのうちにわかってきたのが、このジャンルの本質は『コンテンツ』ではなく『コミュニティ』であるということだった。考えてみれば当然でもある。作品を一方的に受け取るのが『コンテンツ』なら、コメントを本人に送り、配信内でやり取りし、あるいはリスナー同士の横の繋がりも増える。(そういえばラジオ同様「リスナー」という表現を使うのは何故だろう? ライブ動画を観てはいても、本質は声ということだろうか)これほど双方向的ならば、それは勿論『コミュニティ』だ。
『コミュニティ』に加わるということは、例えばMMOオンラインで深夜までチャットで盛り上がる仲間ができるようなものだ。毎日のように遊んでいるから、相手が大体何をしているのかわかる。家族や友達、と言っても言い過ぎでないのは昨今増えたという「オンラインゲーム婚」とやらを鑑みても明らかだ。画面の中から一方的に渡されるだけの『コンテンツ』と違い、『コミュニティ』では画面の向こう側に自分から何かを届け、加わることができる。実社会にとても近い。精神的な、代用品にもなりうる。
そして人気の高いライブ配信者、特にそれがグループであればクオリティも保証されている。その『コミュニティ』はいつも楽しく、賑やかで、甘酸っぱく、可愛い。現実の自分の人生では味わうことなど到底不可能なほどに。この構図は従来の何かによく似ている。そう、『二次元』だ。現実逃避をして二次元コンテンツに耽溺し、そこに行きたい、加わりたいと考えるオタクはずっと昔から存在していた。
ライブ配信型Vは二次元そのものではない。だが、二次元と同じ効能を果たしてくれるから、その代用品にはなり得る。かくしてオタクは『画面の向こう側の二次元コミュニティ』に加わる手段を手に入れた。これこそ可視化された楽園だ。この世の何処かにはあるかもしれない、いいやあるはずもない、と諦めていたきらら世界観。それが実在すると思えた。何割かは演技かもしれないが、しかしすべてではない。あまりにも長時間、毎日のライブ配信がある。『素』を隠し通すのは不可能に近く、むしろ『素』をある程度出すことが人気の秘訣にもなっている。
演技ですらなく、『素』で『楽園の二次元キャラ』が苦しむ姿をリアルタイムに眺め、想像することができるのだから。百合に男を挟むな、なんて次元ではない。きらら漫画を読んでいたら急に震災やコロナが登場してメインキャラが何人も死んでしまうようなものだ。大炎上間違いなし、トラウマものだ。
結局のところ彼女達(あるいは彼等)は現実を生きる生身の人間だ。現実の過酷さの中で当たり前に生きている。だからろくでもない事態にも見舞われる。本人が原因になることも、しょうもない理由で叩かれることもある。それは別にこれまでもごく普通にあったことだ。
ただ、可視化されただけ。家族でもなければ身近に感じることがなかった苦痛を、日本中や世界中に分け隔てなく配って共有することができるようになっただけだ。
タイトル通り、この変化はあくまで二次元オタクかつ、ライブ配信型Vを許容できる層に限られる話でもある。人気アーティストや声優が死んだり結婚したり引退したりで阿鼻叫喚の嵐になるのはいつものことだ。珍しくもなんともない。ただ「二次元イラスト」が聖域で、仮に宇崎ちゃんポスターのように現実で炎上したところで、作者に何が起きたところで、作中世界のキャラには何の影響もない、という感覚はここにはない。
『画面の向こう側』に手を伸ばせることはとても魅力的で、そして地獄だ。
何度か自分でそれを経験してからは、二、三歩引いた距離感で観るようになった。離れて見れば『コンテンツ』として面白いのは変わらない。ただ『コミュニティ』にまで加わると、火傷をするからだ。古き悪しき2ch時代のROM専文化は、ここにきて自衛の意味を取り戻しつつある。
意外とみんな心広いんだな〜と思った…
自分は申し訳ないけど中身が三次元の生きた人間なものを二次元キャラとかみれないから、
オッサンオバハンが無理にイケメン/美少女ぶるのキショ…と思うのでVにはハマれないのだが、
少なくとも「自分にガチ恋してね」って、直接的でなくてもアピールしてファンから金むしってるのに、
そのキャラではない完全な「中のオッサンオバハン」が出てきても頭に来ないの聖人だと思う
自分は割と声優がスキャンダルしたらすみませんがこのキャラそういうことしないんで、
次回から声帯変えてもらえます?ってタイプだから余計そう感じるのもあるんだけどさ。
中の人はすべからく恋愛するなとかではなくて、「そういう」売り方してんなら着ぐるみ脱いでんじゃねえよって話なんだよね
某不倫男性声優もそうだけどさ、自分のキャラをつくっててそれに対して金もらってるんだから
「飾らないありのままの自分」をその人たちに受け入れてほしいは無理なんだよ。
だったら初めから顔出してそのまんまの自分でお金もらったらいいのよ。
それじゃ稼げなくて、いろんな人が関わって作り上げた「その子」だからみんなお金出してくれてるんじゃん。
「その子」じゃない行動が出てきて叩かれるの嫌ってよくわかんないんだよね。お前のプロ意識どうなってんの?ってこっちは思ってるよ。
パパラッチに抜かれたとかじゃなくて自分からボロ出してんのに叩かれないわけないだろって思う
毎度こういうくだらんミスで燃えては「○○ちゃんにはぼくたちがついてまちゅ!」ってファンが吉牛してるから誰も反省も何もしないんだろうね