はてなキーワード: 感情移入とは
ほんとにそうかなあ。
日本でも他のアジア諸国でもだけど求められているのは反省を可視化するための手続きだと思うよ。
精神の部分に異常にこだわるのは悪目立ちする活動家みたいな人だけ。
パラに関わるわけではないとわかって落ち着く人もいる。
実際に精神の部分は関係ないよね。反省の手続きが行われたかどうか。
元増田の「許す」についてだけど。
手続きとしての禊が済んだと見做すとか武士の情けとして温情をかけるとか「許す」とは関係のない受容がいくつもあるので、社会的には形式が重視されているんだと思うよ。
当然その形式を逆手に取る人は出てくるわけだけど、そこを追求しすぎても社会的な利益がないという判断をするのが一般的な考え方だよ。これは形式的なものを受容することで、社会が罪を共有したとか内面化したとかというスタンスだろう。
ただし、直接の被害者は別。直接の被害者が心の中を整理する過程は社会とは距離ができるのが当たり前。
被害者に過剰に感情移入する人は、社会に対する形式的手続きを受容する性質がない。想像上の被害感情に基づいているのだから、追求することを延々と止められない。
加害者が被害者に対してする手続きと社会に対しての手続きは別のもの。
パラリンピックに参加するアスリートってのは、もともと健常者だったけどバイク事故か何かで片足失っちゃって仕方なしに別の生きがいとしてパラリンピック競技になるようなスポーツを選んだ名誉アスリートであって、人々の前で唯々諾々とうんこ食って全裸オナニーするようなパンこねガイジとは訳が違うし、なんならそういうのを笑って眺めていた側の人間たちだろ。パラリンピックに相応しくないだの、パラリンピック競技者は抗議や辞退をしないのかだの、沈黙は賛同だの、全部ズレてる。そもそもパンこねガイジに興味ないっしょ。どうなろうと知ったこっちゃない。だって、パラリンピック参加者はアスリートだから。障害者って言葉に釣られて勘違いしがちだけど、パンこねガイジはパラリンピック出れないからな。まずルール分かんねーだろうし。だから、五輪のセレモニーの作曲者が昔パンこねガイジをいびっていたとしても、昆虫を突っついて遊んでましたくらいにしか思わない。せいぜい、良い趣味とはいえないですね、で終わり。パラリンピックだから云々なんて感想はないわけです。インターネットのみなさんがパンこねガイジに近しいから、感情移入しちゃって激高する気持ちはわかる。でもこれが現実です。はい。わかったらパンこね作業に戻ろうな。
好きなことに文句言うんじゃねえよ
お前あれだろ、いじめられた側に感情移入するタイプのチー牛でしょ?
お前みたいな「○○やらかしたやつの作品は糞、それが好きなお前らも糞」っていうやつ、ひいては「○○という問題を起こしたとこに所属する人間全員同罪」って理論は見飽きたんだよ、ダボが
ってか同じでしょ?書いてる人、ねえ、いつかベルセルク作者訃報の不謹慎ネタ書いた出版社に漫画を一度でも書いたことあるやつは謝罪しない限り全員同罪って言ってたやつと
顔真っ赤の再追記、おまちしてまーーーす♡
言いっぱなしは雑魚だよ?
おいおい、俺は見ないふりかい?
結論から言うと、この作品は低品質なタイプのクソ映画ではない。
たしかに動きは少ないが「100日後に死ぬワニ」の作画としては妥当な範囲内だ。
劇判がでかすぎるとかそういうことはなくちゃんとコントロールされてるし、役者もさすが一流どころなだけあって違和感のある演技には感じなかった。
ただ良くも悪くも原作の雰囲気が再現された結果、演出に抑揚がなく多くの人はつまらないと感じるだろう。
63分の上映時間で1900円のフルプライスをとってることに目を瞑れば、100ワニに相応な映像化といってよい。
ではクソ映画ではないのか?
以下にその理由を記す。
無駄に音がデカかったり音割れしてたり演技が棒だったり合成されたCGがショボすぎたりして興をそがれるタイプだ。
主人公に目的が設定されてなく、起きる物事をカメラが追いかけるだけでただひたすら時間が経過していくタイプや、物語の展開の仕方が強引を通り越して牽強付会でぐちゃぐちゃになってるタイプなどだ。
原作のキャラクターなどの要素を使ってるだけで全く別の作品となっててファンが怒り狂うタイプの原作付き映画がこれに当たる。
この作品は前半でワニが生きた100日間、後半でワニが死んでからの100日間を描く。
そして、前半で描かれたワニを中心とした友達のコミュニティにこのカエルが入ってくるのだ。
これは見方によってはワニのポジションをカエルが乗っ取ったように見える。
しかもこのカエルは観客のヘイトをめちゃくちゃ稼ぐ立ち回りをしてるので余計にこのクソガエルが!という心情になってしまうのだ。
この点で、ワニが好きだった人ほど、この映画は受け入れがたいものになってしまった。
友人が死んだとしても、残された人は生きていかなければならない。
しかし、ワニを主人公にした物語でその主人公が死んだあと、その主人公の代替品を手に入れて乗り越えましたという印象になりかねない物語展開はワニが好きだった人ほど受け入れられないだろう(ワニのことを忘れたわけではないという演出はされているが、観客の印象をコントロールできるほどかというとそこまでではない)。
ではどうすればよかったのか?
残された側のネズミを主人公にすればこの問題は回避できたと思われる。
これならワニという親友を失ったネズミの心情に観客は寄り添うので、ワニを失った悲しみを乗り越える様子にも肯定的な感情を抱くことができただろう。
実際、監督としても可能な限りネズミに感情移入してもらおうとしたのか、その工夫をした余地は作品からもうかがえる。
例えば前半のワニのエピソードはネズミとのやりとりが多く、後半もネズミのシーンが多い。
しかし、原作はワニの物語、映画のタイトルもワニ、前半のエピソードもネズミと関わってるものが多いもののネズミが絡まないワニのエピソード(特にワニと先輩ワニの恋愛模様のシーンのほうがネズミとのものより観客には印象に残った可能性が高い)も多く、ネズミが主人公であるという刷り込みを観客にするには不徹底なため、ネズミを主人公と捉えることは難しい。
結果として、観客は主人公はワニだと思い込んだまま、ワニが死んだ後のコミュニティにカエルが入り込むのを眺めるというグロテスクなシーンを見せられることとなってしまった。
とはいえ、ワニではなくネズミを主人公にするのはマーケティングの観点から言っても難しかったと思われるので、その点は監督に同情する。
何者かになりたいという話になると、大抵は有名になりたいとか何かで成功したいみたいな話になりがちだけど
そうじゃなくて
「あるコミュニティの中でポジションを獲得する」というのが根源的な「何者かになる」ことだと思っている
例えば学校のクラスの中で一番おもしろい奴とか、クラスの中で一番頭がいい奴とか
そういう認識がクラスの中の皆の中に共通認識として存在することがその人にとってアイデンティティになる
人間にとって社会性や社会的役割に対する渇望というものは強いもので
この発想は持論だけど
そう考えると「何者かになりたい」はつまり「アイデンティティが欲しい」となり「現状アイデンティティが欠如している」となる
ざっくり言えばそれは「自分がモブ過ぎて辛い」とか「誰かの役に立ててなく、尊敬もされていなくて辛い」となる
およそ最小の「何者か」は誰かの知人だと思う、あとは趣味とか特技とか好みとか
例えば誰かとの関係について考えると
「Aさんの知人」より「Aさんの友人」がより強くて、「Aさんのパートナー」「Aさんの家族」のように徐々に強くなっていくと思う
例えば好きなものについて考えると
「お酒が好き」より「お酒に詳しい」がより強くて、「お酒のプロ」「お酒の仕事をしている」「お酒のインフルエンサー」「お酒の専門家」と徐々に強くなっていくと思う
こういうのって強くなるほど他のコミュニティでもアイデンティティを確立しやすいんだよね
強さについてもっと考えてみると
1人あたりの認識の強さx人数 だろうか
「Aさんの知人」より「Aさんの恋人」の方が強いだろうし
「クラスで一番足が速い」より「全国で一番足が速い」の方が強いだろうし
そのポジションは有限なんだ
より妥当なラインは「Aさんの恋人」とか「Bちゃんの親」のようなポジションだろうし
そこで強い結束ができれば「何者かになる」は成功するんだと思う
逆にそれができない人、要は満たされない非モテとかコミュ障とかが「何者かになりたい」と強い存在を目指してしまう
このアイデンティティへの渇望って、人生の時々や個人によって差が大きいと思う
例えばアニメ・ゲーム・映画・スポーツなどで誰かに感情移入してるときなんかは
コンテンツがそれを肩代わりしてくれるので擬似的に満足してしまうことがある
しかしふとした瞬間に自分に何もないことに気づいて途方にくれるんだと思う
自分より強い人が現れたり、コミュニティが解散したり、自分が去るケースがあるからだ
アイデンティティが「1人の強さx人数」によって変動し、かつポジションが有限だとすれば
複数のコミュニティに所属してそれぞれの場所で工夫してポジション取りをするのが一番効率がいい
そもそもポジションというのは皆から与えられるものだから、「コミュニティの中で一番強い」というのは皆に認識させる必要がある
そのためにはそれなりのコミュニケーション能力が必要だし、そもそもコミュニケーションが生まれなければならない
あとは「一番煙たいやつ」みたいなマイナスの評価もあり得るから難しい
コミュニケーションしてくれないのが最もキツイ、だから無視は精神的に来る
そうなってくるとやはりどこへ行っても通用する分かりやすいバッチが欲しくなる
容姿・筋肉・身長・奇抜な格好・トレードマークのような見た目があれば一番楽なんだけど
案外難しいのは「金持ち」という属性だ、使い方次第でマイナスになる
あとは似たりよったりな面子で集まるとモブ化しやすいというのもある
東大生だって、東大生のグループに入ってしまえば東大生という属性は通用しなくなる
それなら却って中卒とかの方が良い
しかし似たような面子の方が話がはずむというのもまた事実なんだ
そこが難しい
強さというのは何も一方向だとは限らない
愛されてるというのはこの渇望に対する裏技だと思う
あらゆる要素において「あなたが一番だ」と言われ続けるのは渇きを抑えるのに十分だと思う
逆にそれが無いとか、そういう経験がないのは大きなハンデだと思う
どうしてBL同人で受け役になった男は、言動が女っぽくきゃわゆく描かれるのがメジャーなのか。
それは、腐女子の中には女体嫌いの女好きがかなり多いからなんだろうな。
女体は見たくないが、女の子みたいに照れたりキュンとしたりする言動は好きだし、そんなかわいい存在が男女恋愛のテンプレをなぞって女役として愛されたり挿入されたりしてるのが好き、という多くの腐女子のホンネが、受けを女の子っぽくするのだ。
ケンコバは自分のことを女体は好きだが女嫌いと称したけど、その反対だな。
(ちなみに、ミソジニー男を叩く時に「女体好きの女嫌い」を使う人が多いけど、ケンコバの自己言及が元だと知らない人が多そう)。
ケンコバは他者である女についての好き嫌いだったけど、腐女子の「女体嫌いの女好き」は自己嫌悪が混じってくるのでグチャグチャしてるんだよな。
物語には女キャラが少ない方が嬉しいけど、現実の女性アイドルは好きですみたいな腐女子は、女体全般ではなく自分の女体への嫌悪がデカい故とも考えられる。
リアルのアイドルの女体は感情移入しづらいのであくまで他人の存在と感じやすいが、物語の女体は自分を重ねて読んでしまいやすい、だから物語で女キャラが目立ったり性に絡むと苦痛、という心理だな。
自分の女の体は嫌いだしそれを思い出させられるのも嫌だけど、女性的な振る舞いをする存在はかわいくて好き、男女恋愛テンプレに則った交際やセックスが好き。
そして受けちゃんを女化したうえで自己投影することで、自分の女体は脱ぎ捨てつつ、女性的人格を承認され、女性っぽく愛されてる気持ちになれる。
浅ましく感じる人もいそうだけど、別に悪いことじゃあないよなコレ。過剰に浅ましく感じる人は、自分の女的欲望を憎んで抑圧してるから解放した方がいい。
ただし、男役女役の恋愛テンプレが大好きなくせに、表面的な肉体が男キャラのBLを好んでるってだけで「腐女子はジェンダーフリーだ、先進的リベラルだ、マイノリティに理解がある」みたいな態度を取る腐女子はよくない。
自分の女体嫌いと女好きの欲望不一致を無理矢理解消してるだけじゃねーかっての。
世間一般の男女恋愛に馴染めなかった私たちって異端だよねフフ、みたく悦に入ってんじゃないよ。女体嫌いという意味では少数派だけど男女恋愛規範好きという意味では多数派だから、思ってるほど異端じゃねーよ。
オメガバースなんかも「男役、女役は完全固定! 世界設定として覆らないことにします! だけど女体は嫌いなので、体は男同士でもアルファとオメガという性別を加えておきます! 女体を見ることなく男女恋愛テンプレに則った話をどんどん書こう!」って欲望発散に便利だからあんだけ流行ってる。
オメガバは悪くないが、オメガバがセンス・オブ・ジェンダー賞の大賞もらったのは流石にガバガバよって感じだ。
BLもオメガバも、ムリヤリ大義名分を持ったり社会運動に繋げずに、真面目に快楽エンタメとしてやってけってね。(真っ当にリベラル思想からやってるタイプのBLだったら、それをかかげるのは正しい)
ちなみに、「女体好きだが女は嫌いなケンコバ」の反対としては「男体好きだが男は嫌い」も考えられる。
こっち方向だとミサンドリー腐ェミっぽさが強くなる。
もちろん、腐ェミと非フェミ腐女子はパッキリ別れるわけじゃない。
「女体嫌いだが女好き」という、自己肉体嫌悪と、かわいく優しく柔らかい人格への好意に関心が強ければ、イチャつきメス化恋愛作品を楽しむ腐女子っぽい活動が多くなる。
「男体好きだが男嫌い」という、男の肉体への好意と男の人格への憎しみが強ければ、腐ェミとしての活動が多くなる。
ということで元増田のこの疑問の答えもわかることでしょう。
なんで自分に自信満々な筋骨隆々ガハハな男が、突然内股になって下げ眉困り顔で頬赤らめて生娘みたいな貞操観念の鈍感男になって「ふぇっ?」とか声あげて攻め「可愛い…っ!」ってなんのよ
受けの皮を被ったそいつは誰なんだ
そりゃそうだよ
腐女子の言う受けっていうのはゲイで言うネコじゃなく女としての役割のことだから
女が感情移入しやすいように男性性を排除したのがBL創作なんだから
リアリティがなくて当然
色んな男に求められる女=受け
色んな女にチンコ入れる男=攻め
とすりゃわかりやすい
ゲイは浣腸してアナル洗浄するけど女はマンコの中まで洗わないだろ?
エヴァの元ネタはウルトラマンだとよく言われている。ウルトラマンは巨大で強く、強い自己の化身でもあり、男の憧れる父親そのものでもあり、自分を包み込んでくれる母親でもある。
庵野秀明にとって、エヴァンゲリオンという「作品」は外界と自分を繋げる唯一のものであり、庵野秀明は監督としてそれを操作していた。同時に、エヴァという機体は自分自身の才能でもあった。
同時にその「巨大で強い自己の化身」は、自分のコンプレックスの表れでもある。シンジの持つエヴァの搭乗への葛藤は、創作の才能一つで生きてきた庵野にとっての葛藤そのモノであったのだろう。
エヴァを作るころには周囲には才能を認められていた。宮崎駿やその他の監督、自分の親からの期待、「逃げちゃダメだ」という言葉は、まさに当時の庵野秀明の感情でもあったのではないか。
同時に、当時エヴァの最終話での制作の難航と、それに伴うネットからのバッシング。そして思った以上の膨大な反響、オタクたちはエヴァ作品にのめり込み、数々の作品がエヴァに影響を受け始め世界の潮流を変えた事。
自分の人格を込めたエヴァへの批判は、シンクロすればシンクロする程思い通りに動く作品の代償として、そのまま彼の精神自体に傷をつけただろう。心を無にして、ダミープラグを使いたいと思ったのではないか。
これはエヴァの暴走そのもので、彼自身にとっての作品の勝手な暴走、庵野にとっての一番大きな原体験となっただろう。同時に作品にそれらを「重ねる」という事もまごころを君にでやり始める。
エヴァに頼るな、現実を生きろ。そういうオタクへの批判は同時に、自分自身への批判でもあったんじゃないだろうか。
新劇場版はそういった「エヴァンゲリヲンという作品の制作」を通じて感じたことを再度「エヴァと言う作品」に落とし込む作業だったんだろう。新エヴァでは特に、「エヴァへの搭乗に対するシンジの心の変化」について重点的に視点がある。これは庵野のエヴァ作品への向かい合い方を落とし込んだに違いない。
やれと言われてやった(作った)→批判された(バッシング)→自分に選択肢はない(拗ねる)→他人に任せる。批判されて辞める(エヴァから手を引く)→やっぱり調子に乗って自分の為に乗る(つくる)→失敗……そこから先は庵野の「エヴァと言う作品の向き合い方」そのものなんじゃないだろうか。「エヴァと言う作品」を作った事により、他人を虚構へ誘った罪の意識から同時に、「ニアサーも悪い事ばかりじゃなかった」という言葉は自己への客観視と許しにも思える。ニアサーが起きた後の世界は、エヴァのテレビシリーズが出てからの彼から見えた世界。自分が引き起こした破片があちらこちらに浮かぶ。シンゴジラと言う作品は彼にとって第三村のようなものだったのではないか。
おそらく新劇の時から欝の兆候があったんだろう。周囲に「エヴァを作るな」と言われたことは、そのまま脚本へ落とし込まれていると思う。それでも乗り、精神を壊し、作品を狂わせてしまった。
その作品の中で、異色の存在が出てくる。エヴァを難なく乗りこなし、明るく自分に接してくれた存在。これって妻である「安野モヨコ」そのものなんじゃないかと。いろいろな「エヴァ」つまり「作品」を吸収し、精神も病まず自由に乗りこなす彼女。友達に紹介されたそうなので、パラシュートで降りてきたような物だろう。今まで他人に拒否される事に恐れていた庵野にとっての救済だったのではないか。
庵野にとっての「人類補完」へのあこがれはこの結婚によって無くなったんじゃないかと思う。この時点で多分、「妻にもう一度会いたいゲンドウ」にしか感情移入できなくなってる。
世界を変えてしまった庵野にとって、ニアサーの後の世界は、新劇を作り始めた時の世界そのモノだったんだろう。やっぱり彼は止められても新劇を作り、自分を傷つけた。そしてギリギリ自殺しそうになったのをニアサーで表現したんじゃないか。自分を、他人を変えたいと思い始めた創作、エヴァ化しそこなった首の無い人はファンたちの事だろう。
ミサト率いるヴィレは自殺を止める自分の理性であり、シンエヴァの幻想的な戦いは彼の心象風景そのものだったんじゃないか。
・エヴァの居ない世界は、そのまま庵野にとって「エヴァを作る必要のない世界」の事
作中の突如現れる空白の14年は、庵野にとってエヴァを作らなかった数年の事だろう。当時の声優も、アニメーターもファンも大人になってしまった。
第三村で、嘗て殴ってきた友達も、カメラ片手にちょこまかしてたアホガキも、かたや医者になり子供を作り、かたや一人で生き抜く一人前の男になっていた。
色に乱れてた赤城リツコも「煩悩」を髪の毛と一緒に切り、ミサトは母になった。その中で、エヴァを作り続けて悩んで苦しんでる庵野は自分自身を「何も変わってない少年」だと思っただろう。
庵野にとってそんな自分に優しく手を差し伸べる周囲の人間は、なお一層コンプレックスを掻きたてたに違いない。しかし一方で、「エヴァで皆を助けただけでも偉い」という自己肯定の言葉もちらほらみられる。
シンゴジラも成功したし、安野モヨコの夫婦漫画でありのままの自分を受け入れてもらえるし、庵野は社会的地位を手に入れて金もある。尊敬もある。
彼は自分自身を知ってもらうために「エヴァ」を作る必要などないのだ。エヴァに乗る必要なんかない。エヴァを作らなくても、エヴァに乗らなくても自分を認めてくれる人が沢山いるから。
もう他人の血も、友達を殴った手の感触も、やけどする程の熱さも、自慰で流した精子も、彼の右手には必要ない。だってもう彼の右手には握ってくれるもう一つの手があるのだから。
・雑感
無責任。これに尽きる。最近の監督は無責任だ。新宿を綺麗に描くのが得意な監督は、今まで自分が作ってきた、願った世界を子供に押し付けて「大丈夫だ」なんて言わせるし
庵野秀明は勝手に悩んで、勝手に大人になって、ずっと自分しか見えていない癖に、子供のままの俺たちを置いて去ってしまった。
世の中にはな、世界を作れなかった人間、人を気にして何も動けず下敷きになってしまった人、大人になれない髭の生えた子供たちが沢山いるんだ
そういう人に寄り添ってくれる作品を作ってくれる人はおらんのかね。若者に厳しい世の中になってしまった。
酷い目にあってる子に感情移入してるんやで
絶対に許せない
これほんとカス "田舎"の人と東京の人が入れ替わりってコンセプトがまずムカつくんだよな
そんで、ラストは東京で邂逅ですか イケてる人間はみんな東京に出るんだもんな?すばらしいですね
田舎を描くにあたって、東京から見た辺縁であるって描写をどうしても入れないといけないの、精神病だろ
舞台は田舎の農村だが、主人公たちは都会から引っ越してきた一家だ
田舎生まれ田舎育ちの人間には感情移入できませーん、ってか?ふざけやがって……
田舎の山には謎のデカい変な化け物がいます ハートウォーミングですね、っていう話の建て付けもナメてるよな いねーよそんなもん
東京の地下にいる気色悪いくっせえヘドロのバケモノの話のほうがリアリティあるんじゃないですか?
いけないんだろうなあ
某Vtuberのお別れ配信で、スパチャの総額が1000万超えたとか話題になっているけど、
Vtuberに高額なスパチャをしている人は、潜在的にストーカーや危険なアンチになる可能性が高いということを認識している?
Vtuberへの感情がプラスの時は、スパチャを投げたり、ファンレターやプレゼントを送ったりで、応援になっているが、
度を越して、高額なスパチャを投げたりしている人は、感情の制御ができておらず、感情移入してしまっているので、
何かの拍子に、そのVtuberへの感情がマイナスにて転じてしまったら、そのままストーカーや、危険なアンチになってしまう可能性が高い。
感情がきちんと制御できている普通の人なら、高額なスパチャなどせず、常識的な範囲でスパチャも収まるけど、
高額なスパチャを投げている人は、感情をきちんとコントロールできていない可能性が高いので、
非常に注意した方がいい
長には感情移入できない。ヒラじゃないと
現実世界で大したリスクですらない「転職」すら怖がってまともにできないような、30、40にもなって10代からの延長線上で惰性でゲームばっかりやってる保守的なオッサンが世界を救うために大冒険する同年代の主人公に感情移入できるのかよ。
できねぇだろ。
そういうおっさんって大概「転職しよう」とか「起業しよう」とかいう連中に対してすら「意識高い系wwww」とか小ばかにするだけじゃん。彼らは普通に冒険家じゃん。自分の人生の主役を張ってる「同年代の主人公」じゃん。感情移入できてる? できてねぇじゃん。
いいんだよ、日本のゲーム内で冒険に出るのは10代の「まだ何者にでもなれた」若者で。メインターゲットの若者はそれを見てワクワクする。いつまでも惰性でやってるオッサンも当時の気持ちのままワクワクする。
47歳なんか自分の舵は自分で取るべき年齢だろ。いつまでゲームに代わりに冒険に出てもらってんだ。いつまでも惰性でゲームばっかしてないでお前が冒険に出ろ。
ハゲ。