はてなキーワード: 学術とは
『人々を魅了する野心的な目標を掲げて世界中の研究者の英知を結集しながら困難な社会課題の解決を目指し、挑戦的な研究開発を進める研究開発制度』
ふむ、これだけ聞くととてもいいことに思える。学術分野や研究活動にお金を出し渋り長年非難されてきた日本政府もこの世界規模の動きには同調していて、平成30年度補正予算で1,000億円を計上し基金を造成、令和元年度補正予算でも150億円を計上した。まあ額の是非は今はどうでも良いので話を進める。
1、2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現
2.2050年までに、超早期に疾患の予測・予防をすることができる社会を実現
3.2050年までに、AIとロボットの共進化により、自ら学習・行動し人と共生するロボットを実現
4.2050年までに、地球環境再生に向けた持続可能な資源循環を実現
5.2050年までに、未利用の生物機能等のフル活用により、地球規模でムリ・ムダのない持続的な食料供給産業を創出
6.2050年までに、経済・産業・安全保障を飛躍的に発展させる誤り耐性型汎用量子コンピュータを実現
7.2040年までに、主要な疾患を予防・克服し100歳まで健康不安なく人生を楽しむためのサステイナブルな医療・介護システムを実現
SFの世界かな?という感じである。身体という制限からの解放が軸になっているのは明白だろう。
HPを見てもらえれば詳細が載っているので、詳しく知りたい方は自分で調べて欲しい。
https://www8.cao.go.jp/cstp/moonshot/index.html
本題は、このMS計画が誰のために作られたものであるか、ということである。
『Moonshot for Human Well-being』だかなんだか御託を並べるのも大概にしろと思う。
身体に障害を持つ方々や病気に悩まされる方々を救うのに、べつに全人類をサイボーグ化する必要なんてないのだ。
これは、今現在社会の様々な分野で決定権を握っているクソ老害どもの、クソ老害どもによる、クソ老害のための、身体からの解放を目指した夢もロマンもないクソみたいな計画である。
こんなことに使われるくらいならば科学も情報技術も死んでしまえ。
僕たち若者の、未来の人間と人間の繋がりの中にある社会を壊すな。
さんざん地球環境を汚染し、グローバリズム化を無理に推し進めて差別や格差をまき散らした奴らが!
この後に及んで僕たちの未来を、自分たちの都合がいいようにどうにかしようとしている。
あいつらは30年後もサイボーグ化した身体で地球を、いや月も火星ものうのうと牛耳るつもりらしい。
まっぴらごめんである。老害にはさっさと死んでもらわなければ困るのだ。
30年後の地球にお前らのための場所はないし、僕たちが作り上げる30年後の未来は、人間と人間同士の確かな繋がりの上に立つ生きた社会だ。
『人々を魅了する野心的な目標を掲げて世界中の研究者の英知を結集しながら困難な社会課題の解決を目指し、挑戦的な研究開発を進める研究開発制度』
ふむ、これだけ聞くととてもいいことに思える。学術分野や研究活動にお金を出し渋り長年非難されてきた日本政府もこの世界規模の動きには同調していて、平成30年度補正予算で1,000億円を計上し基金を造成、令和元年度補正予算でも150億円を計上した。まあ額の是非は今はどうでも良いので話を進める。
1、2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現
2.2050年までに、超早期に疾患の予測・予防をすることができる社会を実現
3.2050年までに、AIとロボットの共進化により、自ら学習・行動し人と共生するロボットを実現
4.2050年までに、地球環境再生に向けた持続可能な資源循環を実現
5.2050年までに、未利用の生物機能等のフル活用により、地球規模でムリ・ムダのない持続的な食料供給産業を創出
6.2050年までに、経済・産業・安全保障を飛躍的に発展させる誤り耐性型汎用量子コンピュータを実現
7.2040年までに、主要な疾患を予防・克服し100歳まで健康不安なく人生を楽しむためのサステイナブルな医療・介護システムを実現
SFの世界かな?という感じである。身体という制限からの解放が軸になっているのは明白だろう。
HPを見てもらえれば詳細が載っているので、詳しく知りたい方は自分で調べて欲しい。
https://www8.cao.go.jp/cstp/moonshot/index.html
本題は、このMS計画が誰のために作られたものであるか、ということである。
『Moonshot for Human Well-being』だかなんだか御託を並べるのも大概にしろと思う。
身体に障害を持つ方々や病気に悩まされる方々を救うのに、べつに全人類をサイボーグ化する必要なんてないのだ。
これは、今現在社会の様々な分野で決定権を握っているクソ老害どもの、クソ老害どもによる、クソ老害のための、身体からの解放を目指した夢もロマンもないクソみたいな計画である。
こんなことに使われるくらいならば科学も情報技術も死んでしまえ。
僕たち若者の、未来の人間と人間の繋がりの中にある社会を壊すな。
さんざん地球環境を汚染し、グローバリズム化を無理に推し進めて差別や格差をまき散らした奴らが!
この後に及んで僕たちの未来を、自分たちの都合がいいようにどうにかしようとしている。
あいつらは30年後もサイボーグ化した身体で地球を、いや月も火星ものうのうと牛耳るつもりらしい。
まっぴらごめんである。老害にはさっさと死んでもらわなければ困るのだ。
30年後の地球にお前らのための場所はないし、僕たちが作り上げる30年後の未来は、人間と人間同士の確かな繋がりの上に立つ生きた社会だ。
自殺自体を減らせとコメントしてる人や、それにスターをつけてる人たちは詭弁だって理解してる?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20210409/k10012965401000.html
高校までの数学、物理、化学は役に立つし、英語が読み書きできないと本当につらい
でも、最近の中国では、英語はあんまり勉強せんでええで、という話になってる?らしく、
どうせ自動翻訳がやる、バンバン名著は中国語訳されるし国もバックアップする、
どうせ中国が世界征服したら英語より中国語の方が世界の共通語になるから、
みたいな話らしい
あと、ちゃんと日本語で思考できないと英語やっても無駄と同じで、
ちゃんと中国語で思考できないのに英語やっても国語力、読解力がなければ無駄、
ということでもあるのだろう
本当に要領がいい人はこだわりがなく、卒なく何でもこなすものである
寧ろ、学校の勉強ができない人の方がこだわりがある、ということの方が多いように思う
学校の勉強ができない人は、〜はできるが、学校の勉強はできない、とか、
なんかよくわからんが、自分は学校の勉強ができない、と思い込んでいる節がある
小手先のテクニックだけでも行けるところまで行けるのに、先入観があるからか気が付かないのである
安野モヨコ氏が庵野氏がズッキーニとか知らない食べ物を食べないとテレビで語っていたと思うのだけど、
こだわりが強いと、こだわっていることには強いが、
自分は学校の勉強ができない、と思っている人は、まずそれが思い込みでないか疑ってみることである
もしかしたら他人に、親に、教師にそう思い込まされてるのかもしれないし、
ちょっとでも疑問に思うことがあるとそこで止まってしまう、というのがある
というか、自分にもこの毛がある
要領のいい人は、その疑問をとりあえず飛ばして、これはこういうものだ、と理解するのではなく納得するに近い形でスルーする
スルーしないと先に進めない
なんかよー分からんが、えらい人がこれでオッケー言ってるんだからオッケーなんや、
と思って、細かい疑問は飛ばし、それを定着させる練習問題を多くこなすとか、とにかく先に進めることである
しかし、要領のいい「だけ」の人は、この自分で考えて疑問に思う、ということに無頓着であるため、
社会に出てから意外なことでトラブルを起こしてしまうこともあるように思う
上述のように、えらい人が言ってるのだから間違いない、というのが実際は罠であることが社会では往々にしてあるため、
要領がいい「だけ」の人は何の疑問も持たずにそれを信じ、結果としてトラブルに繋がってしまうのである
まず、いわゆる受験勉強、試験を突破するためには要領が良くなければ駄目である
学校の勉強を真面目に学問として考えすぎてしまうと、試験を突破できない
試験を突破するのは要領であり、テクニックの面が強いからである
しかし、要領がいい「だけ」の人には学問、学術的な思考ができないのである
そうでありながらも、詰め込み教育で英語や数式に慣れていなければ、学問や学術にも支障が出てしまう
詰め込み教育を否定しすぎても、結果的には学問や学術ができない人を生み出してしまうだけである
どうしても学校の勉強が自分はできない、苦手だと思う人は、ここまで述べてきたことを逆に考えるならば、
寧ろ何か学校の勉強以外にこだわりがあったり、特技がある可能性があるかもしれない
しかし、そのフィルターにはじかれたとしても、それはマイナスなことだけではないはずである
自分に向かないということが分かるだけでも、人生は前進したと考えるべきである
研究・教育・言論・メディアにかかわるすべての人へのオープンレター:女性差別的な文化を脱するために
https://sites.google.com/view/againstm/home
要旨としては、
「公正で冷静な学術的議論・論争を実現するために、中傷や差別的発言をアカデミズムから撲滅しよう」
で、その通りだと思う。
ただし、だとすればなぜ、このような曖昧な書き方をするのか。
また私たちは、中傷や差別的発言とそうでない発言との境界が時に明瞭ではないことも理解しています。
しかし、事実として両者のあいだに明確な線が引けない場合があることは、その概念的区別を求めることが無意味であることを意味しません。
明瞭な線引きが難しいにせよ、「何が中傷や差別的発言に当たるか」が最大の論点であることは、論を待たない。
「何が中傷や差別的発言に当たるか」についての基準を明確にせぬまま「私たちの思う中傷や差別的発言」を列挙するフェミニズムの不誠実なやり方を、今まで何度となく見てきた。
「お気持ちと揶揄するな」と言うが、そのように揶揄される原因は、毎度毎度、フェミニズム側の論理に内在している。
今回の件については、呉座氏の発言の中に、はっきりと中傷や差別的発言が含まれていたから、多くの人が声を上げたのだという以外にはない。
何が中傷や差別的発言に当たるかについて、定義することは不可能ではない。
例えば中傷については、
のように、不完全であっても、文言に起こすことの意味は少なくない。
フェミニズムの側は、今までそうした振る舞いと無縁だっただろうか?
差別的表現でないもの、例えばただ性的な表現について、根拠なく「差別的表現だ」と呼んで糾弾する行為は、誹謗中傷に相当する。
同じにされたくないので「横である」と明記しておくけど、さすがに職業養成機関としての専門学校や、職業養成機関としての色が混ざる短大と、学術の中心と明記される(学校教育法ね)大学を同じ扱いするのは無理があるとは思うんだよね。
当然、その差は年を追うごとに埋まり、現在では大学進学率の面ではほぼ均等な機会が得られる状況にある。入試に関しても一部の許しがたい不届きな大学を除き、不公平な取り扱いはない。
では中身(学部指向等)が社会的役割や圧力の影響を受けていないか、という次元かと。ただ、これ本当に難しいんだよね。高校生が学部選ぶ段階ではもう固まってるし、それを変えるわけにはいかないので。
私は人の話を聞いてられないし、誰かと話してても急に興味を失ったりするし、決まった時間に人と待ち合わることは不可能に近いし、朝は起きられないし、夜も眠れないし、忘れものばかりするし、スケジュール管理なんて一度も成功したことがないし、ちょっと長い時間働くとすぐ倒れるけれど、それでもなんとかやっていけているのは頭が生まれつき良かったからでしかなくて、頭が良く生まれて本当に良かったと思います。
世にいうようなきちんとした努力とかも別にしていないまま、よく分からないまま、なんか大学に行くことになって、院に行って、院に行ったら教授に誘われて博士号を取れて、なんか頭良いことが気に入られて就職できて、頭良いことが気に入られて転職したりできて、本当に頭が良く生まれてよかったと思う。
エリートの人達ってすぐ努力がどうとか言うけど、私自身は実際には学術面での努力をほとんどしていないのでちょっと罪悪感がある。本当にただただ頭が良いだけ。偏差値は少なくとも努力が出来ることを証明するとか言うけど、私は兄弟や親戚に比べても全然努力していないまま彼等よりずっと高い偏差値の大学に行った。
ちょっと付き合えば分かるくらい私は頭が良いらしいです。若い頃は自分が頭が良いなんて気が付いていなかったので「なんでこんなこともやらないんだろう?ふざけているのかな?」とか思ってました。できないとかは想定の範囲外でした。
そこまで言うならいかにBLが「正しくない」ジャンルなのかを説明してあげるね。まあどうせ釣りなんだろうけど。
なんか勘違いしてるかもしんないけど、BLの最大の問題点はエロとかじゃないからね。エロはあくまで付随的な問題。
女性を一方的に鑑賞される側におき、客体として消費することはフェミニズムにおいて長年批判の対象になってきた。女が、男に都合の良い客体である鑑賞物のように扱われることはよくないことである、という主張は強い賛同を集めてきた。とりわけ、女性差別が存在する現状においては。
であれば、同性愛者差別が存在する現状において、ゲイを、女に都合の良い鑑賞物のように扱うこともまた、よくないことだと言わなければならない。これは論理的に当然導かれる帰結だ。
要するに、BLはエロいから問題なのではない。マイノリティを客体化し、都合よく消費しているから問題なのだ。
とはいえ、抽象論だけ言われてもわけがわからないと思うので、具体的にどういう点が問題なのか説明してみよう。
何年か前、人工知能学会をめぐる炎上が起きたことがある。人工知能学会という学会が出している学術誌の表紙に、箒を持っている女性型ロボットのイラストが掲載されたのだ。これはまったくエロではないがフェミニストを中心に猛烈な非難が浴びせられた。
このイラストが批判されたのは、女は男に従属して家事をするものである、という女性に対する偏見やステレオタイプを助長するからだ。もちろん、日本には多くの専業主婦がいる。だが、たとえそれが統計的傾向として事実であっても「女は家事」というのは偏見でありバイアスである。そのようなジェンダーバイアスはけしからん、というのが批判側の主張だった。
NHKによるノーベル賞解説記事で聞き手役としてキズナアイが選ばれたとき、番組の構成や彼女の振る舞いに対して「男が解説し女はふんふん頷くものだというジェンダーバイアス」「女に理数系のことはどうせわからないという偏見」のような批判が浴びせられたのも記憶に新しい。
ところで、現代において、男同士のカップルには「男役と女役がある」あるいは「挿入する側とされる側は固定されている」というステレオタイプがある。実際に固定しているカップルもいるだろう。しかしそういう問題ではない。問題はそれが偏見やバイアスを助長するということなのだ。
つまり、攻めと受けとを固定している時点で、「女キャラは全員家庭に入って家事をしている/することを希望している」並の偏見に満ちた作品であるということになる。あるいはそれを暗示するのと同じことだということになる。
すなわち、CPの左右を固定している腐女子には、「この作品におけるこの描写はジェンダーバイアスなのでは?」などと物申す資格はない。
なるほど女がBLを真似て性犯罪を起こすことは身体の構造上ありえないかもしれない。だが女もゲイへの偏見の流布の加害者になりうる。
これはあくまで一例に過ぎない。他にも「『優しい世界』は差別の透明化なのでは?」「非当事者がマイノリティのセクシュアリティを題材に創作するのは文化の盗用だ」「同性愛かどうかを明示せずに『匂わせ』て視聴者を釣るのはクィア・ベイティングであり搾取だと思う」など、ポリティカル・コレクトネスの観点から見たときにBLは様々な観点から問題視されうる。
繰り返す。エロの問題ではないのだ。女性文化としてのBLは根本的に「正しくない」。
そしてもちろん、「正しくない」ことは「滅ぼすべき」を意味しない。開き直って「正しくない創作でも堂々と存在してよい。それが表現の自由だ」と吼えることもできる。というよりも、そう吼えるしか、BLにとって生き残りの道はもはや存在しない。
あなたは言語的多様性についての研究をしている、権威ある学術団体に所属しています。
この度あなたは、消滅の危機に瀕しているというある少数言語の研究・記録チームの一員に選ばれました。
すなわち、アフリカのどっかのあたりにあるベラルリ島に住むリコネポ族のリコレポ語についての研究に携わることになったのです。
ところで、リコレポ語では黒っぽい色彩のことを「バジャネエサ」と呼びます。これはリコレポ語で「人の肌の色」という意味の言葉です。
.
「肌の色は黒とは限らないのに、黒を肌の色と呼ぶのは不適切ではないか。前近代的で、野蛮な習慣だ。記録から削除し、リコレポ語をより正しく進歩的な言葉にしてあげよう」と。
別の一人が言いました。「記録から削除するのはやりすぎだ。だが、今後リコネポ人にはこの差別的な単語を使わせないことにしよう。愚昧で愚かで醜悪なリコネポ人を政治的に正しく我々が導いてあげよう」
もう一人が言いました。「野蛮だ愚かだと言わせておけば、傲慢な連中め。この言葉は彼らの文化、尊重され、大切に記録されるべきもの、そして今後も使われ続けるべきものだ」
.
呉座さんの一件で、呉座さんの研究と性向との関係が問いただされている。トゥイターでは、エースの呉座さんがあんなのでは日本中世史は高が知れている、という話も出てきている。
ある人が書いたモノと、その人が持つ性格・性向をどこまで切り離せるのか? はよく話題に上る。私なりに今回の事柄において作品(研究)と作者の性向とがどう切り結ぶのか考えてみたいと思いつらつらと書き始める。
おおよそ史学では以下のプロセスで発表したり論考を著していく。
このプロセスを繰り返していく。
もちろん、あらゆる段階(ゼミ、研究会、学会発表、書評、反論の論文)で他者の批判にさらされる。
さて呉座さんの評判は、一件が露見するまで悪くはなかったですよね。
これはAからBにかけての能力に長けていたからだろうと思います。
もちろんA、Bに立脚した論の部分もしっかりしていたのだと思います。
ただ、Cの論の部分のすぐ背後には、2ch的なノリが隠然とあった。
もしかしたら、解釈部分のBにも批判された様なバイアスがあったかもしれない。
要するにBからCにかけてのプロセスには論者の主観が入り込む余地がある。
ただ、もしかしたら史料を読み込んで論を立てる場合においては、ミソジニー的、あるいは安い弄りを繰り返す的な性向は顔をのぞかせない可能性もある。
だから声望を得られる。
呉座さんの研究に疑問を投げかける人がいる。あるいは、「どこまで信じたら」というようなコメントを書く人もいる。
引く史料と、そしてその読み方の精確さは信じてもいいのではないか、というのが私の考えだ。
今回はその基本的なところからあまりに遊離した部分での性向が露見した。
史料に基づかない頭でっかちな部分が露わになった。そこは批判されるべきだし、職場からも然るべき譴責を受けるべきだろう。
だが、見てきた通り連続しているとはいえ、史料を読み込んで解釈して室町時代の民衆がどのようであったか組み立てていく作業は、そことは一線を引いても、間違いではないのではないか? そこは呉座さんを信じてもいいのではないか。
私たちはもちろん今後『応仁の乱』を読む時は、今まで通りには読めない。けれども、史料とその解釈は変わらずにそこにある。その学術的正しさを論及することはまた行うべきだが、そこに論者の性向を過度に見るべきではない、というのが私の意見。
こんなあたりに、研究と作者の性向とを隔てる線引きがあると思っている。要するに、史料をしっかり用意して読み込む、ってのが肝だ、ということだ。
また、やらかしが露見して大変なことになってしまった呉座さんだが今後も人生は続いていくわけで、大変だけれども頑張っていかなくてはならない。明日も明後日も来るし、出勤停止と何ならない限り職場に行かなくてはならない。
きっとそんな時に大切になるのは、やっぱり史料とその読みなのではないだろうか。偉そうな意見を学者にするのはなんだかアレだが、ひたすらこれを積んでいくしかねーんじゃねーかって思う。一発アウトになりやすい中世と違って人生が長く続く現代だが、史料と向き合い、史料に沈潜してこれからも頑張って欲しい。
まず第1にオリンピック開催地で発生する投資や消費は、地方などで発生するはずだった投資や消費を
開催地に集中しただけの物がほとんどなので、国というトータルで見るとプラマイ0
東京という一地域のみ切り取って見てるから、なんかオリンピックやったら経済効果があったように見えるだけのインチキ
この点は学術論文でもオリンピックの経済効果としてちゃんと分析されておるぞ
第2にオリンピックの経済効果は、大会開催前に大部分が発生している
この点でオリンピック決定前の経済効果の試算○×兆円が、大会を中止したことによって丸々失われるという議論はインチキなのである
経済損失がーなどという主張は利害関係者による我田引水のインチキだから。