はてなキーワード: マイナスイメージとは
これって、「増える時は雪だるま式に増えるけど減る時も同じように減るよね」みたいな意味で言ってる感じ(全体的に投資にマイナスイメージを植え付けようって文章なので、そういう文脈でしょ?)なんだけども、ちゃんと計算すると、そんな事ないんだよね。
分かりやすくするため、ちょっと大袈裟な例で。年1割増えた場合、10年経つと、直感的には10割、つまり倍になりそうだけども、実際は、1.1の10乗で2.59倍になる。これが複利効果ってやつなんだけども、
減る場合は、年1割減った場合、10年で10割、つまりなくなっっちゃうように思うけども、実際は、0.9の10乗で、0.349倍になる。
つまり、増える時は雪だるま式に増えていくけども、減っていく時はより緩やかに減っていく、というのが「複利効果」なんだけども、この著者は何が言いたかったんだろう?
自分は昔図書館情報学をやってたから周りに司書の知り合いは多いんだけど、公立図書館とか学校図書館でやってる子たちはみんなしんどそう。(給料だけじゃなくてその他の条件等含めてね)
非正規図書館員だけが悲劇のヒロインのように扱われることに不満かもしれないけど、司書って国家資格を持った人しかできない専門職なんだから、やっぱりそれなりの待遇で扱われて然るべきだと思うんだよね。一般企業の事務で非正規雇用やってますとか、派遣先の作業所で流れ作業やってますとかとは話が違うんだし。
正直一般企業勤めの自分なんかより司書やってる子たちの方が面倒なことやってるよなーと思う。
非正規のくせにそんな条件が通るわけないって言いたいんだろうけど、司書っていう職業が非正規雇用だらけの現状はおかしい。司書に限らず保育士とかもだけどね。
司書という仕事に手取り20万の価値があるかはまず置いといて、声を上げることは良いことだと思うんだ。別にこの署名が通ったから絶対手取り20万になるわけではないでしょう。
司書の待遇を考えるきっかけになるのであれば、この署名にデメリットはない。これで司書の待遇を見直そうっていう風潮になれば、20万とは言わずとも少しずつ良い方向に進むかもしれない。
確かに財源の問題はある。でも、もしかしたら国や都道府県が司書や図書館の価値を再検討してくれて、何かが変わるきっかけになるかもしれない。
もしかしたら、司書に限らず、非正規雇用そのものを考えるきっかけにもなるかもしれない。
まずは声を上げなきゃ誰も動いてくれないんだから。
努力して正規雇用の座を掴んだ増田からしたら「非正規の座に甘んじてる癖に偉そうなこと言うな、そんな内容が罷り通ってたまるか」っていう気持ちなのかもしれないけどさ、この署名の内容はあくまで理想なんだから、別に高望みしたって良いじゃない。
一般企業だって労働組合で賃上げ要望やってんだから、要望なんて出し得でしょうよ。
この署名による増田へのデメリットは財源問題くらいなんじゃない?
むしろこのまま図書館と司書の地位が低下していって、正規雇用の数もどんどん減らしていきましょうってなったら困るのは増田のはず
正直自分も「その勤務時間でその給与はちょっと高いんじゃないか」と思ったけど、バズって多くの人が司書の価値を再認識しようと動いていたことはすごく意味があることだったと思う。内容はちょっとぐちゃぐちゃではあったけど、あれによって司書にマイナスイメージを持った人より「どうにかしてあげて!」っていう気持ちになった人の方が多い。
それはそれとして、司書になるには司書課程取ったり講習会に行ったりする必要があって手間がかかる割に、求人も少ないし非正規での求人ばかりだからコスパの悪い職業だよなあとは思う。なりたくても簡単にはなれない職って言うのは同意するなあ。
まず、最初に共有しておきたい認識として「ガバガバという言葉にグダグダという意味が生まれたのはここ10年のこと」「語源となったのは『真夏の夜の淫夢』」の2つがある。
細かい経緯は発生源とも言うべきニコニコ動画がさすがの詳しさで書かれているので気になる人は目を通してくれ。
同性愛者を笑うという行為のリスクについて日本はもっと真剣に考えた方がいい。
同性愛保護の動きはいまやポリコレ・SDGsの一部となり、その勢いはキリスト教の価値観さえも丸ごと変革を迫るほどのものだ。
日本のフェミニストのように力もなく戯言を繰り返すだけの集団ではなく、同性愛者保護は確かな権力と行動力、そして正当性を持って行われている。
現代においてはもうレイザーラモンはテレビで扱えないだろうし、猫ひろしのようなネーミングセンスの芸人は誕生と同時にバッシングを受け干されるだろう。
今や淫夢語録はSNSやYoutubeを経由して日本中に広がってしまった。
誰もが当たり前のように使っている。
そのせいで淫夢語録を使うことがリスクであることを認識していない人が多すぎる。
当たり前のように使っているという状態が皆で渡れば大丈夫だと思っていられるのはそれが外側で問題として扱われる前までだ。
たとえばここに世間から隔絶された人肉食とそのための殺人行為を繰り返す村があったとして、その内側で暮らす人はそれを問題としないだろうが、もしそれが世間に見つかれば彼らにとって問題がないとされていた行為も咎められることになるだろう。
その際には「そこにいる多くがそれを異常と思っていないこと」こそが大きな問題とされより激しい「矯正」が待ち受けることになる。
恐ろしいことに逆に淫夢語録を覚えることを目指している界隈もある。
界隈に既にある文化に馴染むためにリスクを冒して異常な言葉を使うか、そういった風習から距離を置くために今からリスクのない言葉遣いを意識するか。
情強を気取るはずのはてなーの中でも使用者が多いのが「ガバ」という淫夢語録であるわけだが、さて使っている連中はどこまでの解像度でその状況を客観視出来るているのだろうか。
リスクのある異常な言葉をあえて選んでいるという自覚があるのか、普通の言葉だと思いこんでいるのか、それとも異常な言葉ではあるがリスクはないと思いこんでいるのか。
そこを自覚した上であえてその最悪であることを楽しむ愚行権の行使者もいるのだろうな。
ネットは未だにアングラであり世間から外れた態度を気取ることこそがここでの作法だと思いこんでいる頭の硬い老人ぐらいここにはいくらでもいるのだろうな。
追記:
なんか伸びてるな。
伸びてる理由の半分ぐらいが「ガバガバという単語自体は昔からありますけど?」っていう文章読めてなさ凄すぎる人達によるものなのがちょっと不満ではあるが。
まあそういうアホはスルーするとして、「そもそもガバガバ・ユルユル・グダグダ辺りは意味が元々近いから、淫夢の影響なしでもこの表現へと派生していけるパスはあったろ」という指摘については素直に頷いておくか。
ただ個人的な体感としてこの使われ方、特に「ガバ」「ガバる」「ガバってる」という形で使われる頻度が増えていった時期を考えると淫夢やbiimの影響は感じるんだよね。
そうして偶然ついたマイナスイメージに対して配慮をしていくべきなのかって話をしたかったんだが……まあ最初に言ったように「ガバガバというオノマトペは大昔からあっただろ」という反論が多数でそこまで話してくれる人が少なくてせっかく伸びたのになあという気分だ。
淫夢語録がどこにでも出てくることに違和感を感じる人がいたり、逆にそうやって違和感を感じること自体を言葉狩りとして敵視している人がいたりするのは再確認できたが、じゃあどうすんのって話が聞きたかった。
いやまあここについては「使う」「使わない」の2択だって分かりきってるじゃんって話ではあるんだが、じゃあ他の人に「使わないことを推奨する」はどこまでやるべきなのかなと。
まあ「ガバ」については定着しすぎて気づかずに使っている人が多すぎるからもう気にしてもしょうがない感じではあるな。
「微粒子レベルで存在している…?」ほどは露骨じゃないから「昔からありましたけど?起源主張する人がおかしいんですけど?」で言い張った方が皆幸せな可能性はあるわなあ。
「微レ存」「(便乗)」みたいなネットミームであることが明らかであるものについてだけ気をつけりゃ良いのかなあ。
「それさえ気をつける必要ないぞツイフェミレベルのキチガイ言葉狩りガイジ」みたいなコトはてなーからは言われちゃいそうではあるが
今って学校では教えないのかな。
コロナの関係で学校にいけない期間はあったからね、今の学生は仕方ないかなって思わなくもないんだけど
って聞いてみるとできるって答えるんだけど、実際に入社させてみると研修中に使えないって言う子が出てきた。
面接の時に使えるって言ったよね?って聞くと、大抵の子は使えるって答えれば入社できると思ったって言う。
今の若い社会人は嘘も平気でつくのも当たり前のようにやってしまうのが悲しい。
うちの会社はPCの基本的な操作について使える?と聞いて、「使えませんが、入社して学ばせてもらうことはできないか?」って前向きに考える子は雇用する事もすくなくない。
まあ、面接を受ける側からすればマイナスイメージになる事は答えないようにするのは、セオリーなんだけどね。
だけど、募集要項にPCがある程度使える人って書いていても使えないまま使えると嘘をつく若い子がいるのがね…。
使えるって言って、合否が決まった後であってもそこからPCを学ぶくらいの向上心があるなら、入社した後で使えないって言ってもどこまで覚えた?って感じで教えてあげることはできるんだけどね。
使えないのに使えるって言った挙げ句に、使えるって言えば雇用してもらえるって思ったっていう考えがもう信用に値しないって気づかないんだろうかと思ってしまう。
今はタブレットだ、スマホだとPDAから進化した端末が当たり前のように存在する時代だからね、何でもそれらで解決できなくもないんだけど。
仮にスマホやタブレットで処理できるって言う事を主張するのであれば、それらで仕事をしている企業に入ってもらわないと困る。
それはウチの考えが古いのではなく、スマホやタブレットだけでなくPCも使えるハイブリッドのスキルを持ってないのでは意味がないという話。
外出先でタブレットを使うのは構わない、だけどオフィスならPCを使ってもらうというルール。
全てスマホとタブレットで仕事をしている企業なんて、そんなに多くないよ。
PCがうまく操作出来なくても怒らない。だけど雇用してもらうために嘘をつくのは駄目だ。
嘘をついたなら、仕事が始まるまでに嘘を本当にしてもらわないと。
https://twitter.com/cyxuaxfglffzzct/status/1549879862239760384?s=21&t=gljo-cRqUQxZOX4wsbT3fA
https://twitter.com/nikone_25/status/1549901843265753088?s=21&t=gljo-cRqUQxZOX4wsbT3fA
ひろゆきが創価からお金をもらって統一教会を叩いてるという説が囁かれてる。
彼らが自民党員なのか統一教会信者だからこのような理論をかましてるのかわからないが、
どっちにころんでもマイナスイメージは現与党にふりかかってくるというジレンマ。
つーか、こいつが創価だったら山口たいしてこんな批判浴びせないだろw
https://twitter.com/hirox246/status/1550010363814776832?s=21&t=gljo-cRqUQxZOX4wsbT3fA
直近でPCのUSB-Cポートが全然足りないから調べてたんだが、ほぼ存在しないといっていいレベルで見つからない。
海外でも碌に見つからない。聞いたこともないブランドの怪しい製品がいくつか見つかっただけだ。
USB-Cが世に出て何年も経つのになんでこんな惨状なのかちょっと考えてみた。
USB-Cにはうんざりするほどの企業の欲望が詰まっている。セットで導入されがちなUSB-PDも同じだ。
様々な機器メーカーの要求をごった煮にしてしまってるのでスペックはオプションも含めて膨大な規模になっている。
18Wと240Wの給電ポートの口を共通化するなんて愚の骨頂としか思えないが、そういうことになっている。
alt modeのディスプレイ信号も、電源供給も、データ通信レートも、群がる亡者の欲望を可能な限り詰め込んでしまっている。
個人的にはalt modeもUSB-PDも不要で単なるUSB-Cポート増やす機能さえあればいいんだが、オプション機能がないとそれが
「商品としてのマイナスポイント」になる。下らねぇ話だが、そう見えてしまうのは仕方ない。
「ディスプレイとPCをUSB-Cケーブル一本で繋げる」とか「すべての機器の充電ケーブル統一」といった見栄えのする機能は高値で売れるので
機器メーカーとして単なるバカHUBを作る動機が無いんだろう。
ポート数を増やしても大元のPCとつなぐ部分の帯域には限度があるから、通信速度も遅くなるし、電源やディスプレイ信号も処理が面倒だろう。
何でもかんでも規格に詰め込んだ結果、基本機能だけの製品が生まれづらくなっているんだろう。
笑える。
ガチでクソ規格だよ。
増田は信徒じゃないから、教会と与党がズブズブなんて事実はそこまで大きいこととして捉えてなかったってのが大きいんじゃない?
信徒にしてみたら、霊感商法とか巨額のお布施とか合同結婚式とか世間的にはマイナスイメージが強い教団に帰依するにあたり「首相や与党、有識者も応援している」って事実は後押しにはなってたと思うんだよね。
一般信徒にとって自民党とか安倍一族との結びつきはブラックボックスだったかというと絶対そんなわけない。内部に向けての広告塔として使ってたでしょ。
で、犯人は分派にいたんだから、当然それも近くで見てるわな。少なくとも、インターネットだけがきっかけで安倍一族と統一教会との結びつきにたどり着き憎悪をつのらせたってことはないよ。
今度の参院選、コンテンツ系の表現の自由保護に関して勢力的に活動してくれている候補者が多くて嬉しい。
この分野では知名度トップクラスの赤松健と、同じく自民から藤末健三。
表現の自由イシューに関してはマイナスイメージが広まっている立民からも栗下善行が出馬。
俺はよく知らんが、維新の松浦大悟って人もそっち系に強いらしい。
(敬称略)
こうやってコンテンツを守ることをメインイシューに置いた政治家が何人も出てきてくれるとは、良い世の中になったもんだ。
政治全体で見たら目くそ鼻くそを比べ合うような悲しい選挙になりそうだし、あくまで限定的なジャンルの話ではあるけれど、ともあれ。
唯一の懸念は投票先がバラけることで一人一人の票が伸び悩んで共倒れになることだけど、そのリスクはまあ民主主義なら仕方ないことか。
表現の自由問題は54万票獲得で山田太郎議員が有名になった時よりもさらに加熱していて、所謂"オタク票"はもっと伸びると思うし、一人でも多くの表現の自由系議員が国会に立ってくれると良いなぁ。
「結婚に対してマイナスイメージしかないので」というごもっともらしい理由からは
男女問わない質問がひり出されそうなはずなんだけど
あれれ?
本当は何が言いたかったの?
創作者である私は今でもpixivのタグに「腐」を付け続けているが、この語の使用について眉を顰める層が一定層居ることも認識している。しかしそのうえで私は「腐」の使用に差別性は無いと主張してこの語の淘汰に抗いたいと思っている。
まず私は「腐」を同性愛者及びそれをモチーフとした創作の愛好家に対する侮蔑用語だと考える人はどうして「BL」なら問題ないと思えるのかを問いたい。
言葉というのは程度に大小あれども事象へのラベリングに他ならないが、「腐」が異性愛者に対して同性愛者を異常なものとしたうえでの差別的なラベリングだと思うのなら、恋愛そのものを性別で区別することだって立派なラベリングになる。「BL」を完全に差別と無縁な語としたいのなら必ず異性恋愛のことは「HL」と呼ばなくてはいけなくなるけど、それができないならまず恋愛を性別で括ってはいけない。
じゃあなぜわざわざ差別の危険性を孕んだ語を使ってまでラベリングを行わなくてはいけないのかといったら、それは「棲み分け」のためになる。見たくない人が見ないため、その為に使われる語はどうしたって「区別」が生まれる。
区別するための語には性格上どうしたってマジョリティを軸とした差別化が行われる。それによって生まれた語に発音の違いはあれど意味と用途の違いは無い。
なのになぜ、「BL」は良くて「腐」は駄目なのか。恐らくそれは「腐」という言葉自体へのイメージが悪いからだろう。「腐女子」という言葉を用いる事が「同性愛」を腐ったもの、汚いものとして差別している印象が付きまとうためその使用を嫌がる人がいるのは理解できる。
しかし「腐」=「汚いもの」という認識にすら、ラベリングが付きまとっていることを忘れてはいけない。
例えば「〇〇に親でも殺されたのか」という有名なネットミームがあるが、この表現にも異議を唱える人は多く居る。なぜかと言えば、「憎さ」の表現に「親を殺される」という例えを使うことが不謹慎かつ過激すぎるためだ。
しかし、親子関係がもともと良くない、虐待などを受けた子供がこの言葉を聞いたところで「親を殺された」=「凄く憎い」の解釈にはならないのである。
これほど一見過激な言葉ですら言葉から受けるイメージは総一致しないのに、「腐」=「汚い」の決めつけは、「同性愛」=「異常」の決めつけと何が違うというのか。
かといって一般的な大多数が「腐」という語にマイナスイメージを持つのは真実である。
しかし私がこの語の使用について問題は無いという立場を取る根拠には「差別をする人は言葉を使うが、言葉が差別を生むわけでは無い」という前提があるからである。
言葉は意味から生まれるが、定着した後、文字としての意味は形骸化して、音声:意味のみの関係となる。
例に挙げるなら「さようなら」という語は「左様なら(そうであるならば)」という意味の言葉から生まれた語であるが、私たちが実際にお別れの挨拶として「さようなら」を使うときは「左様なら」と一回一回意識をして言葉を発していない。
あるのは「さようなら」の音声が「お別れの挨拶を意味する」という事実のみである。
つまり私たちが「腐女子」という言葉を使う時、「男性同士の恋愛をモチーフにした創作が好きな女性」の認識はしても、「腐」という字面による意味は関与してこないのである。
汚いものを蔑みたい人は「腐」を使うかもしれないが「腐」が使われているとき全てに汚いものを蔑む意図はない。これが「言葉は差別を生まない」の真意だ。
長々と書いて、よほどこの人は「腐」という言葉に対しての思い入れが強いのだろうと思われてしまうかもしれないが、そもそも私自身がLGBTの当事者である。一方で日本語学を学ぶ学生でもある。私は偏った方法で平等を目指す社会が文化を潰すことを恐れている。差別をなくしたいと思ったとき、言葉の使用を制限することが本当に最も適切な手段なのか、その内実を検討した上で考えてみて欲しい。