はてなキーワード: 「生きる」とは
最近の私はめっきりしていません。
地球上の生物が連綿と続けてきたこととして、種の保存があります。
つまり、セックスをして子孫を繁栄する、ということをしない人間は生物としての役目を果たせていないではないかと思うのです。
生物が持つ「生きる」という意味・価値が無いのではないでしょうか。
さて、私の話をしましょう。
セックスの経験人数は風俗を含めないと6人。恋愛を通しては4人です。
セックスによる射精は、オナニーでは得られない快感を教えてくれました。
心が満たされるのです。これが動物・生物として、本当に満たされる瞬間だと確信しています。
ただ、私は他人の気持ちを察するのが苦手な軽度のアスペルガーを患っており、日常生活に支障をきたすレベルのADHDを患っています。
学生の頃は、自分が知的障害を持っているなど露知らずに、性欲と酒に任せた勢いだけでセックスをすることが出来ました。
しかし、社会人になり、計画性を持ち、衝動的になってはいけない常識・文化に染まってしまいました。
そして、順当に女性とコミュニケーションをして、セックスまで持ち込む事が本当に苦手だと自覚してしまったのです。
とても苦しい思いをしてでも、私は性欲に駆られて女性にアプローチしてしまいます。
なぜこんなに苦しい思いをして生きなくてはいけないのか。
オナニーでは得られない快感を求めて、苦しい道を進んでいくしか無い運命にはもうこりごりです。
こんな事ならセックスなんてしたくない。
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと
――谷川俊太郎「生きる」
生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。
死ぬ時は、たゞ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
「俺はな、この世界に招かれてない。用無しなんだよ。異世界に行きますか、イエス、ノーって、選んだか? お前は。――俺は選んでない。無断で俺はこの世界に連れてこられた。俺に選択肢はなかったし、招かれてもいないんだよ。お前たちは、招かれたんだろう? だからそうして呑気にしてられるんだろう!?」
「ちがう、我々は、誰ひとりとして招かれてないのにゃ」
「お前たちがどうかなんて興味はない。だが俺は少なくとも招かれちゃいない。俺は俺の意志とはかかわりなくこの世界に連れてこられたんだ。この世界は俺を俺の意志とは関係なく、俺を勝手にしようとした。だから俺も世界に勝手なことをしてやる。俺は間違ってるか、〈盗剣士〉!」
(中略)
理不尽な強制としてこの世に生を受けた幼子は、若者となり、己の意志でもう一度生誕を決意する。
自分が何者であるかを胸に刻み、望んでこの世界に生まれた二度目の赤子として自分自身の人生を歩み出すのだ。それは神聖なる契約であり、人はそうして連なってきた。それが人をいままで繋いできた。
にゃん太はそれを守るためならば、我が身を灰にしても構わないと思った。ロンダークがそれを知ってくれるのならば、どんなことでもしてやりたいと思った。
「私の読んでいる作品では「世界との仲直り」がテーマになっているものが多い気がする」
そう書くと「それは、あなたがの内面がそのように作品を捉えるという文脈にあるからだ」という他者の意見が内言として聞こえる
どうなのだろうか
現代においては、私においては「世界との仲直り」という形で象徴されているに過ぎないのではないだろうか
人は世界と仲良くできない
世界はすぐに過ぎ去って、私から感傷に浸る時間すら取り去っていく
そして、世界は私から様々なものを奪い取ったその後ですら、私を生かそうとする
世界は私の期待通りには動かない
望むと望まざるとにかかわらず、世界はただそこにあるだけである
小癪な世界のせいで、私は生き続けなければならない
「ただ生きるだけ」では世界の思い通りだ、負けたようで非常に悔しい
(きっと、世界の方もほくそ笑んでいるだろう。顔があるならね)
鼻を明かせるとするならば、それは自分自身で世界と契約するしかない
不貞腐れながら、いじけながら
それでもただ「この世界に生きるために」という本末転倒な動機から
喧嘩には“限度”がある
勝利することはないのだ、恐らくは
しかし、何かを勝ち取る事はあるのかも知れない
私は明日も、ただ生きる
未明に鳥は“諦く”だろうか“噎ぶ”だろうか、それとも“号ぶ”だろうか
5年近く勤めていた会社でやっと管理職の立場を得たのに、気づいたら動けなくなっていて会社を休むことになってしまった。
うつ病のため3ヶ月の療養を必要とするらしい。いやさすがに3ヶ月は長すぎやしないか、せめて長くて1ヶ月と思っていただけにショックだった。
職場ではそれなりに良い評価を得てきたと思う。幼い頃から頑張り屋さんと言われてきたが、自分にとって頑張るというのは当たり前のことであって半ば無意識に近く頑張ることを続けてきたと思う。それだけ頑張っていれば、それ相応の評価などの見返りがあり、それこそが私が生きていくために必要だったのだ。
自分にとっては「仕事」も「結婚」も「友人との交遊」も全て頑張らないといけないと思ってきた。そう気づいたとき、自分にとって「生きる」とは頑張らないとやっていけないことだと気づいてしまった。
医者は「貴方は頑張りすぎたんだよ」と言っていた。頑張りすぎも何も、頑張ることが当たり前だったのだから。その様な生き方に何の疑問も持っていなかったのだから。
生きることは頑張ることと考えていることに気づいたら、生きていくのが嫌になった。物心ついたころからこのような生き方をしてきたと思うが、これを4、50年続けて生きるなんて、到底持つはずがなかった。
だけど自分は頑張らないで生きるということが怖い。頑張ってようやく得られた評価が、頑張らないことで失われてしまうのではないか、そしたら自分に生きる価値なんてないのではないか。怖い。
休むことが必要だとわかってはいるのだが、頑張らないことが怖いので休めない。
つらい。
「こちとらいつでも死ぬことができるんだぞ!」と思うと心が急に軽くなる。
なぜだろう。
「死ぬ」ことを選択肢として自分の手中に収めると、急に自由になった気がする。人生の幅が広がり、大空に飛び立てそうだ。
だれに向かって叫んでいるのだろう。
自分か、世間か、「死なないで」といってきそうな家族や友人か。
「自分が死ぬ」という武器を手にした自分は、身体の底から理解不能の勇気が湧き大胆になれる。
あえて生きているんだと。生きてやっているんだと。
得も知れぬ不安に襲われる時、不安の原因を辿ると往々にして○○な自分という自己像に囚われているに気付く。
結婚している自分、友人に囲まれてリア充生活を送る自分、親に喜ばれるような自分、
イケメンな自分、高給取りの自分、意義深い、他人に誇れるような人生を送っている自分。
そんな理想の自己像達の触手に絡めとられ、首をじわじわと絞められ息苦しくなった時、
私は顔を真っ赤にして脅すような口調で叫ぶ。
すると楽になる。そうか、無理して生きなくたって良いんだ。死んだっていいんだ。
自殺はダメ、安楽死もダメ、生きなければならないと思っていると苦しい。より良き生を送らねば!
実際問題、死ぬことは何か怖いし、完遂するまでに様々な手順を踏まなければならない。
結局惰性で続けられる「生きる」を選ぶ。
冷静になって考えてみれば、生きていて幸せを感じる事だってある。ラーメンは美味しいし、漫画で涙を流しもする。
とか言いつつ、私はどうせまた不安に襲われ苦しくなる。
そのとき私はまた叫ぶのだ。
4年つきあって結婚、5年続いた結婚がだめになってしまって2年が経った。
再婚にはあまり興味はないのだけれど、実子を持つならそろそろぎりぎり、という年齢になろうとしている。
結婚せずに実子を持つなら、わたしの子供となる人は「遺伝子上の父親に会うことがかなわない人生」が最初から確定して生まれてくることになる。諸事情あって金銭的に苦労させることはないと自信を持って言えるけれど、「父親のいない人生」っていかほどのものだろうか。ふた親揃った環境で育った自分には想像することしかできない。
どんな親の元にどんな生まれ方をしても、人生とはどのみち葛藤の多い、苦悩に満ちたものであって、それを乗り越えて自己を確立することこそが「生きる」ということなのだろうか。自分はもう大人だから、「幸福とは自己の意思によってのみ決定されるものであり、所与の条件で決まるものではない」と確信を持って言えるけれど、この心境に到れるまでに30年以上かかっている。
囲碁のルールは、「周囲を全て囲まれたら盤上から排除される」これに尽きる。他の全ての細かいルールはこの派生に過ぎない。
その上で多くの地を囲えば勝ち、というだけのゲーム。
そのシンプルさから生じる多様性は、限られた素粒子が集まり、わずかな規則のみで形作られる現実世界の縮図と言える。
一つ一つの石は単独では命を持たない。集まってある特殊な形態を持って初めて「生きる」ことが出来る。
それはまるで、一つ一つの細胞が寄り集まって一つの生物と成るさまを見ているかのようだ。
つまり、囲碁を解明するということは、この世界を解明するのと同じことなのだ。
その意味で、人工知能が人間に将棋で勝ったのと囲碁で勝ったのでは価値が全く違う。
しかし、人工知能には弱点もあった。石塔しぼりという中級者でもわかる手筋がわからなかった。
人智を超えた強さを持ちながら、素人レベルの手筋が理解できない。
不成や入玉という特殊ルールに対応できなかった将棋とは質が異なる。石塔しぼりはシンプルなルールからはみ出したものではない。単に人工知能が気付けなかっただけだ。
人に簡単に出来ることを人工知能にさせられないのは、人自身がなぜそれが出来るのか、その仕組みが分かっていないからだ。
人工知能を知ること、そして囲碁を知ることは、人自身を知ることに帰着する。
ディープラーニングだけでもここまでの能力が確認できたわけだが、それ以外にまだ人間にしか持っていない、簡単なシステムがあるのだろう。
それを理解し、人工知能に導入すれば、さらに大きなブレイクスルーが起きる。
そのような大きな夢を見ることのできる、貴重な機会だった。
人間には勝ったが、まだ強化を続けて欲しい。
人でなくて良い。
今はもうなくなったけど、サイト名忘れたがなんかいっぱい映画評論やってたサイトがあってそこのほうが好きだったな。
亡くなった親父が黒澤明の大ファンで、黒澤明全集みたいなの持ってたな、ぼくは読んだ事ないけど。
ちっちゃい頃から「七人の侍」は凄いとか、「生きる」を見ろ、とか「乱」は流石黒澤だ、とかよく聞かされたもんだ。
スターウォーズをテレビで一緒に見たときは散々、この映画は「隠し砦の三悪人」の真似だ、とか言ってたっけ。
なので一発目はこれ。
マニアックな事はおらっちにはわかんねーけど、めっちゃ面白いよね、これ。
三船敏郎演じる素浪人の「桑畑三十郎」がかっこいいし、仲代達也演じるやくざもかっこいい。
また殺陣が素晴らしいし、オイラは素人だから専門的なことはよく分からんけど構図とか色々めっちゃ凝ってる。
七人の侍同様凄すぎて、アメリカ映画とかに真似されまくったらしいけど。
パート2に当たる「椿三十郎」も同じくらい名作だよ。最後の血飛沫が出すぎだけどw
でもオイラは最初の方にある馬の首のシーンが恐すぎて、ちっちゃい頃はそれ以上見る事が出来なかった。
マーロン・ブランド以上に凄みのある人なんて入るのかなぁ?と思ってしまうくらい。どう見ても明らかにほっぺた脱脂綿含んでるけどw
とにかく、マフィアこええええええええって映画ですけど、人間愛・親子愛・兄弟愛みたいなのが実に濃く描かれてます。
なお親父に言わせれば、コッポラもこの映画で黒澤の真似してるんだってさ。
「悪い奴ほど良く眠る」だったっけかな、なんか真似されてるらしい。
いやこれは正確には親父のおすすめではないんだけどね。
たまたま親父がテレビつけたまま寝てて、そこに映ってた映画がこれだったってこと。
なぜか親父がイビキするその部屋でじっと見てたわけ。
かなり昔の話なので、内容はあんまりはっきりとは覚えてないが、とにかくぼろぼろ大泣きした映画。
わけも分からずに見ててこんなに大泣きした映画はこれしかないw
最後のシーンと言うか景色がめっくちゃ素晴らしいと言うのは強烈に記憶に残ってます。
偉い古い映画ばっかりの紹介だけどこれは最近。つっても公開は多分10年前かな。
ぼくは前評判も聞かず大した情報もないまま映画見て感動するのが好きで、なので10見たら9は失敗なんだけど、そんな中で当たった映画の1つ。
脚本が物凄く良く出来てて、調べるとボール・ハギスは同じくアカデミー賞取ったクリント・イーストウッド監督の「ミリオンダラーベイビー」の脚本書いた人って言うじゃないか。
とにかくすんばらしい!手放しで絶賛。・・・親父は何の関係もないがw
親父は生前、繰り返し「砂の器」がいいって何度も言ってたんだけど、オイラはあんまりそうは思わんかった。
ハンセン病? これがよく分からんかったからかも知れんけど、何せ起きた犯罪が殺人一件としょぼくて・・・ごめん。
ただ、親父も言ってたけど、ゴッドファーザーの曲を真似したとしか思えんテーマ曲はなかなかいいとは思った。
とりあえずこんな感じで。
成人式ということで新成人がたくさんいたが、東京の新成人はとても品が良くて感動する。田舎とは大違いだ。
とりあえず意識を高めるために業界本を立ち読みしにBookFirstに向かう。がん保険1位とのこと。
会場に行くとカジュアルなスーツかスーツを着た人がたくさんいた。(案内には出来る限りスーツで来るなと書いてあった)
説明会はアホでもわかるように「相互扶助の精神」とか「収支相等の原則」とか「第一分野・第二分野」から始まる。
一番最初に「人生という航海に一つだけ持って行くとしたら何を持っていきますか」とかいう文系のアホくさいアイスブレイクの質問が入る。
会場内「スマホ」と答える人が3人もいてビビる。ちなみに僕は最初は妻が欲しいと思ったんだけどそんなことは恥ずかしくて言えないので奇をてらって「飛行機」と答えた。奇をてらったのはわかっているが、実際飛行機があって操縦できたらいいと思う。ちなみに模範解答は「コンパス」らしい。コンパス持ってても自分が今どこにいるかわからなければ意味が無い。やっぱり僕は飛行機で俯瞰したいね。
「当社は外資系の張り詰めた雰囲気と違って、社員をとても大事にしています」「創業以来リストラを行ったことはありません」
「If we take care of our people,the people will take care of our business」とかホンマかいなと言いたくなる御託が並ぶ。
インターンで学ぶこと:自分自身の大切なこと・どのように成長できるか・仕事内容・当社の強み弱み
とかはえんとりーしいとぉを書くときに使えそうだと思った。
人生の4大リスクとは:「しぼう・にゅういん・ながいき・かいご」と言っていて、さすが第三分野の人だなあと思った。
「生きる」を創る。というブランドプロミスには第三分野でやっていくという意味が込められているとわかると確かに面白い。
てがきでえんとりーしーとぉ書かされる。字が汚すぎて絶望。その後帰ってすぐにえんとりーしいとぉ通過のお知らせがくる。
その後丸亀製麺を食べて帰宅する。ジムの説明会に行こうと思っていたが寝落ち。今日は7km走った。東京マラソンに出たいとか富士登山したいとか意味不明な感情が沸き上がってきて僕自身知らないうちに心が病んでいるだなと思った。
[書評] ハーバード大学は「音楽」で人を育てる 21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育(菅野恵理子)http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/
音楽がなぜ重要かというと、頭と肉体とどちらも使うから、だから音楽は大事なんだと。
頭というのは、音楽に関する理論や知識。肉体というのは、楽器の演奏あるいは声楽。
頭で勉強したものは、演奏として応用されないと意味がないし、肉体を通じて出される音・演奏は頭で勉強したものがないといけない。
どちらもいる。
頭だけでもダメだ、肉体だけでもダメだ、そのどちらも使うのが「生きる」ということだ。それを教えてくれる、一番わかりやすい形をしているのが、音楽だ。
だから、音楽をただ「聞く」だけでは足りない。享受するだけでは足りない。楽器を立派に演奏しろとは思わないけれども、せめてあなたが今聞いている音楽に対する積極的な姿勢が必要だ。そうすれば、その音楽がもっと面白くなるだろうし、楽しくなるだろう。
音楽は、自分の外にあるものではない。iPhone に入っているデータをイヤホンを通じて聞いているなにものかは音楽ではない。音楽は自分の中にあるものだ。自分の中にあるものを聞くこと、それが音楽だ。
頭と肉体、どちらも働かせて音楽に接することは、そのことを教えてくれる。
忙しい。とにかく忙しい。今は●●で忙しいからと、先方から言われて断られる事が多い。
こちらから、お忙しい中恐れ入りますが。とビジネスマナー的なフレーズで使うけど、自らの行動が忙しいとは言わないようにしている。
仕事はお世辞にも能率が良いとはいえず、時間が足りないのは変わりはない。一件片付いたと思えば、また新たな課題を突きつけられる。
それでも、「忙しい」というフレーズは使わないようにしている。
言葉は生き物とおっしゃる方がいますが、そのとおりかなと思う。
「忙しい」の文字を分解すると、りっしんべんに「亡」と分かれる。りっしんべんとは、「心」の部首名の一つで、「心部」という。詳細はWikipediaをご参照いただければと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E9%83%A8
すなわち、「忙しい」とは、「心が亡くなっている」ことを表している。
このフレーズを連発している人は、心が亡くなっている(柔軟に表現するなら余裕がない)と思ってもいいだろう。
最後に、「亡くなる」の対象語が「生きる」となるが、これにりっしんべんを加えれば、「性」となる。
「性」行為したい。
長いので長文読むの嫌いな人はそっ閉じ推奨。
最近増田界隈で結婚というか子供の話がホッテントリ入りし始めて久しいので
結婚しているが子供のいない共働き夫婦である我が家の話をしようと思う。
子供がいないのは単に今までできなかったというだけのことだ。
できなかったけれど、お互い子供に関しては「いてもいい、いなくてもいい」というスタンスだったので
特別不妊の検査をしようとか不妊治療をしようという話にもならなかった。
本当にどちらでもよかったのだ。
「いてもいい、いなくてもいい」などと表現すると、
「結婚したなら子供は必ずつくるべきでしょうが派」の文章の主旨を読み取ることが苦手な人から
鬼の首を取ったように責められそうなので一応解説しておくが
「できたなら頑張って育児したよ、でもできないからといって頑張って作ろうとは思わなかったよ」
子供のいる知人友人と子供を交えて会ったりすると「子供やっぱりおもしれえな」と思うし
未知ながらもやはり子供がいたら楽しい嬉しいということが多いのだろうなとは思う、
なぜかリアルな子持ち友人知人からは子供を持つことは勧められないが
不妊で悩んでいる夫婦も多かろうから気を遣われているのかもしれない。
とはいえ、やはり勧められようが勧められまいがスタンスは変わらず
いてもいいしいなくてもいいと思っている。
子供のコスパの増田で「自分は子供を持たなかったのに老後は誰かの子供の世話になるんだろ?なら叩くよ」
このブコメをつけた人、それに賛同した人は、病気で子供を持てなかった人や
結果的に未婚で過ごすことになってしまって老人になってしまった人たちについてはどう思っているのだろう?
「その人たちは仕方ない」?「仕方なかった人たちなのだから許してやる」のだろうか?
万一、我々夫婦にこの先も子供が出来なかったら、この人たち(恐らく子持ちの人たち)に
許しを得られないなら、この先ずっと叩かれながら生きていかねばならないのだろうか?
子供を持たないというのはそんなに罪なことだろうか?
確かに、種の保存という観点からいえば、子供を持たない・持てない生物は生きている価値がないともいえる。
しかし我々は人間だ。人間は、脳の発達・文明の発達に伴って「生きる」ということに繁殖以外の目的を見いだしてきた。
そもそも子供を持つというのは、繁殖期をとうの昔に失った「人間」にとっては本能ではなく文化的な活動だ。
人がその人の人生を生きるための考えとして、子供を持つも持たないも、いずれも認められて然るべき選択肢だと思う。
「俺いまニートだけど親死んだら俺も首くくるわ」
と言う人がたまにいる(ネットに)。
彼が本気かどうかはわからないが、日本のニート人口は2014年の調査で56万人らしいので
どうしても働くのがイヤであるだとか、身体的・精神的な事情で働けない場合
自死という選択をせずとも、そのまま亡くなってしまわざるを得ない人は少なくないように思う。
働けるのなら働けばいいのに、とは思うが、私には彼らを責める気はない。
「親の金で楽して羨ましいなあ」とは思うし僻みもするが、責める権利はないと思っている。
自分の選択を他人から責められたくないのと同様に、他人を責めるのも嫌なのだ。
自分は責められたくないが他人は責めるよ、というのは卑怯な気がするのだ。
多様性が認められているように感じられていたはてなでさえこの有様なのだから
それが世間にまで広がるのはまだまだまだまだ時間がかかりそうだ。
自分がマジョリティな選択をしている可能性があるからというのもあるが
ロバート・エドウィン・ピアリーは、その生涯をかけて北極点到達に挑んだ探検家。
幾度もの失敗の中、彼は凍傷で足の指8本を失うが、1909年、西洋人として初めて北極点に到達した。
自らの死に向かって突き進んでいるとも思える彼ら探検家を、常人は、ただの自殺願望者と理解を示さないだろう。
ただ少なくともオレには、彼らは「死ぬ」ことを含む「生きる」自由を叫んでいるように見えた。
それに比べて今のオレはどうだ?
安心・安全・保険・保障…生レバー一つも自身の責任と選択で食うことを許さない国に生まれ、過剰に擁護され、片時も「死」を意識させない環境に育ち、いったいどうやって本来の「生」を感じろというのか?
もういい。
悪意をもって書かれた文章だと分かったので、こちらからも悪意をもって返しますね。
増田を見ると酷いしつらい。
「酷い」という状態と「つらい」という感情を並列しているのでおかしい。
低学歴でも生きてたりしてたらいけないの?
「~たり」は並列か例示で使うが、「生きる」の他には並列しておらず例示としても使われていないのでおかしい。
「でも」「ても」は前後で対立する内容を示し、「頑張ってても」以外は関係的に順列とした方が妥当なのでおかしい。
彼女居なくたっていいじゃないか。
親友がいなくたっていいじゃないか。
特におかしい部分は無いけれど、縦読みと横読みでほぼ同じ言葉(いいじゃない)を使っているのはナンセンス。
この文だけ字数稼ぎのために「がんばってる」を平仮名にするのはナンセンス。
また、「いい加減」は「だいっきらいだ」を修飾するが、「いい加減だいっきらいだ」と被修飾語の直前に置かないと読みにくい。