はてなキーワード: 描写とは
売れたねえ
百合好きは
後半たきなが蚊帳の外
百合バディモノじゃなかった
と文句を垂れていたが、売れたねえ
今年一番の初動記録達成で一つ分かること
やっぱり百合という関係性だけで売るのは、とてもキツいんだということ
ギャグでも、シリアスでも、日常描写でも、なんでもいいから百合以外の見所を作れ
メインのキャラ作りました、それらのやりとり描きます、だけでは弱すぎるんだ
そこがヒットの秘訣
吉村はともかく、声優人気もある真島を軸に据えたのは、結果として幅広い層にウケる結果になったんじゃないか?
百合好きは粗末な餌で釣れる
売上的には最適解と分かったのは
売れたねえ
百合好きは
後半たきなが蚊帳の外
百合バディモノじゃなかった
と文句を垂れていたが、売れたねえ
今年一番の初動記録達成で一つ分かること
やっぱり百合という関係性だけで売るのは、とてもキツいんだということ
ギャグでも、シリアスでも、日常描写でも、なんでもいいから百合以外の見所を作れ
メインのキャラ作りました、それらのやりとり描きます、だけでは弱すぎるんだ
たきなより真島や吉村にご執心する様子を描いた
吉村はともかく声優人気もある真島を軸に据えたのは、結果として幅広い層に受ける結果になったんじゃないか?
売れたねえ
百合好きは
後半たきなが蚊帳の外
百合バディモノじゃなかった
と文句を垂れていたが、売れたねえ
今年一番の初動記録達成で一つ分かること
やっぱり百合という関係性だけで売るのは、とてもキツいんだということ
ギャグでも、シリアスでも、日常描写でも、なんでもいいから百合以外の見所を作れ
メインのキャラ作りました、それらのやりとり描きます、だけでは弱すぎるんだ
たきなより真島や吉村にご執心する様子を描いた
吉村はともかく声優人気もある真島を軸に据えたのは、結果として幅広い層に受ける結果になったんじゃないか?
旧字で旧仮名使いの古い本を読むわけでもないのに、どうしても活字の本の中での描写が頭の中でイメージしきれない。
読めない本の種類としては圧倒的に小説が多い。
一番の問題は、風景などの視覚的な描写を頭の中でしっかり思い浮かべるのができてないことだと思う。
知識が足りてないという事もあるし、ひとつひとつのパーツは理解できてもそれを頭の中で映像化するのが難しいのだ。
例えば
私は墓地の手前にある苗畠の左側からはいって、両方に楓を植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。 するとその端れに見える茶店の中から先生らしい人がふいと出て来た。
夏目漱石はかなり分かりやすい素直な文体の作家だと思うけど、自分にはこういったちょっとした描写ですらイメージするのが難しく感じる。
墓地は思い描ける、苗畑は普通の畑とは違うのか?と不安になったのでググった画像で補完するがまあ大丈夫。
楓、広い道、茶店、どれも単体では想像できるけど、問題はこの光景が俯瞰で見えない、地図のように絵を描こうとしてもかけないのだ。
まず「左側」でつまづいて、苗畑と広い道の位置関係もわからない。
漫画ならこれらが全て背景絵として描かれてると思うので、なんの引っ掛かりも感じないだろうと思う。
小説だと光景を事細かに描写する必要もない場合もあるわけで、そういう時はある程度読者が好きにイメージすればよいんだけど、自分の場合あまりに曖昧にしかイメージできなくてその場面の全てがぼんやりしたものになってしまう。
小説自体は、場面ごとの描写がはっきりと頭の中で映像化できてなくても読み進めることはできる。
でも頭の中で映像化されていないとぼんやりした空間に登場人物がそれぞれ現れるだけという味気ないものになる。
ミステリー小説なんかでトリックとして建物の構造だとかが描写されてる時もだいたいよくわからない。
特に空間把握能力が著しく欠けているのかなとも思う、実際地図を読むのは下手だし方向音痴だし。
ただそれだけじゃなくてちょっとしたディテールとかも掴めない事が多いし、それが気になって中々先に進めなくなったりする。
小説の中で描かれる描写が、全部ちゃんと自分の頭の中で思い浮かべることができたらどんなにいいだろうと思う。
でもどうしてもそれができなくて、結局集中しきれず最後まで読みきらないことが多い。
子供の頃からあまり読書はしてこなかったし、漫画ばかり読んでいた。
今は漫画はたくさんあるから漫画でいいじゃんと開き直ってもいいんだけど、やっぱり小説をもっと読み込めたら楽しいんだろうなと思う。
なにか特訓の方法などあるんだろうか?
追記:
コメント色々ありがたい。
一番驚いたのは「そこまでイメージする必要はないのでは」という意見が多いことだった。
みんな小説など読んでる時は頭の中である程度具体的にイメージしながら読んでるものだと思いこんでいた。
ただ、言われてみれば登場人物の顔はおぼろげなまま読んでるのにそこは気になってないとか、自分の中に矛盾もあることに気づいた。
アファンタジアではないかという意見もあり、初めて知った言葉だけどこれも興味深かった。
自分がアファンタジアかどうかは分からないが、記憶をイメージとして思い出すことはできるので、そういうのとはちょっと違うのかもしれない。
でもコンプレックス持たれてる対象の子はいわゆる巨乳サイズじゃなくて、女からみたところの美乳サイズかつスレンダー美少女だし、それならまああるかなと思う。
過剰なバストサイズにせず全体的なスタイルの良さの一貫として胸が描写されてるのは、作者やキャラデザ担当が女性であるということと無関係ではないのでは。
といっても、こういう描写が必要だしやられているのは、名作であるべきではない感じのアニメだろ。日常系ってやつ。
毎日疲れ果てて帰ってくると、カロリーの高い名作はむしろ見れないって体験をするんだよね。
CGDCTは素晴らしい文化だ。
つまり風が吹く描写を入れるというのは男性にある種の期待を与えているということであり、その裏には女性の性的搾取を固定化しようとする意図が見える
女性は抑圧されている
これは俺(おじさん)の性欲なんだけど、俺は貧乳が好きなので、貧乳が巨乳よりも劣っているような描写を見ると、それを好む俺も劣っているのかなと思って嫌な気分になってしまう。
「えっ、でも小さい方が好きでしょ?」って煽ってくる生意気なメスガキがいい。
ほぼほぼ毎日レベルで耳かきをしてしまっている。出張先にも耳かきを持っていく。細いタイプの「匠の技」が一番のお気に入りだ。
耳かきをするときには、耳かき小説を読みながらする。あの効果音の表現や、耳が綺麗になっていく一連の描写が、より一層耳かきを気持ちよくしてくれる感じがするからだ。
冷静に考えるとこれ、エロ小説を読みながらオナニーするのに近いんだよな……。オナニーも映像より文章派。耳かきも、あのスコープ映像を見ながらしたりASMRを聴きながらするのはちょっと違う気がしている。こんなところに共通点ができるとは思わなかった。
オタク「これはフィクションですが?www何が悪いの?www現実の性犯罪に物申せよwwwお気持ち乙www」
オタク「けものフレンズ2でイエイヌちゃんやアムールトラちゃんが可哀想で傷ついた!あの作品は犬好きを敵に回した!許せないぃぃぃぃぃぃ!!」
罪のあるものには見当外れでもあることないこと何を言ってもいいことになってんだよ
でもキモヲタシコらせアニメに女の描写に対象外の女がリアリティ云々するのはアンパンマンに対象外の成人が「アンパンが自我を持つなんてリアリティがない」とか言い出すレベルの愚行じゃん
これは実際には「男子校描写にリアリティがない」から叩かれてるわけではなく
リコリスはキャラデザと声優の演技、いかにもSF好きにウケそうなディストピア的世界観はほぼ満点だった。ただ脚本が軽すぎたので10話以降見るのがキツかった。
千束とたきなのDAでのアクションや友情パートとかは見ていてアツくなれたけど、、真島とヨシさんのストーリーラインはみんな動機が軽すぎるしギミックの説得力も正直うすい。
ヨシさんは千束に人殺しになれ!と言い続けるだけの壊れたロボットないし長引いた厨二病患者にしか見えない。千束が不殺を貫くのはいいが、そのために電波塔からあっけなく落ちるのはそれでいいのだろうか。楠木司令は深い考えがありそうに見せかけるだけで行き当たりばったりの無能、ロボ太は国の中枢にハッキングできるけどちょっとしくったらすぐに逮捕されるというパワーバランス。先に逮捕しとけよ。真島も愉快犯なのか偽善を暴く志士なのか、どちらにしてもただのチンピラ感が抜けずラスボスとして凄みに欠ける、というかあまり怖くない。千束を殺せるのに殺さない、というシーンが多すぎた。
金ローを録画しておきながらプライムビデオで見るのが最近のパティーン
細田監督はここ何回かの「家族観が合わねえな」って感想が重なったせいで全然期待してなかったんだけど、竜そばは主人公とその周りの関係が家族じゃなかったので良かった
そこだけを評価軸にしてる訳じゃないけど、とりあえずそれがラストに絡まなかったので気にならなかった
話は良くあるというか色々な過去作のつまみ食い。これはわざわざ語るほどでもないくらい知られた事だろう
主人公がクラスで炎上した時がイメージとしてボードゲームが描写されてたのがボドゲ好きとしては嬉しかった。ラストのその後が再炎上だったのかは知らない
主人公たちの声の演技に関してはまあしゃあない
忍のあご上げて話すザ・イケメン!って感じのしぐさはやっぱ慣れない
「人魚の肉を食すると不老不死・不老長寿となる」という物語は、八百比丘尼の伝説・昔話として有名でもあるし、仮にそれらを読んだり聞いたりしたことは無くても、高橋留美子の連作漫画『人魚の森』シリーズを読んだから何となく知っているという人も少なくない。
しかし、そもそも何故、人魚の肉を食したら不老不死・不老長寿となるのか?その理由というか説明については、知らない人も多いのではないだろうか。
これを書いている増田が、その理由らしきものについて書かれたものを最初に読んだのは、神話学者・大林太良の著書『神話の話』(講談社学術文庫)であった。この現物を、確かに所有しているはずなのに本棚や倉庫の中から見つけられないので、ここでは記憶を頼りに大林説を書き起こすが、もしも『神話の話』の現物を持っている人は、そちらを見た方が早い。図書館で探してもよい。
まず、八百比丘尼伝説の概要は、大同小異、以下のようなものである。「龍宮の主を助けた漁師が、龍宮に招待されて主から宴などの歓待を受け、家路につく際に主からの土産として、人魚の肉を貰い受ける。聞けば、それを食した人は、不老長寿となるという。家に持ち帰ったはいいものの、人魚の肉を食べるのに怖気づいた漁師は、いったん戸棚にそれを保管する。しかし、漁師の留守の間に、彼の娘が人魚の肉を食べてしまう。人魚の肉のことを父から聞かされるが後の祭り。はたして、娘は不老長寿となってしまう。父親である漁師も、娘が結婚した夫も、近所の人たちも、漁師の娘が愛した人たちは皆、寿命が尽きて世を去るが、彼女だけは不老長寿の若々しいまま、この世に取り残される。その孤独な境遇を嘆いた娘は、仏門に入るものの、その後も長く若々しいままで生き続け、とうとう八百比丘尼(八百歳の尼僧)と呼ばれるようになり、最後は洞窟の中に籠もり、人々の前から姿を消す」
大林太良によれば、これと殆ど同じ内容の話が、朝鮮半島・平壌の仏教寺院の伝説として残るという。但し、日本の八百比丘尼物語には見られないディテールとして「結婚して夫を迎えたが、子宝に恵まれない」という描写が、朝鮮半島版の物語には有る。
つまり、人魚の肉を食することによる不老不死・不老長寿の獲得は、生殖能力を喪失するというトレードオフになっている。このような不老不死性と生殖能力のトレードオフは、八百比丘尼の物語にだけ見られることではないことを知っている人もいることだろう。
例えば日本神話では、人間の寿命に限りが有る理由として、ニニギノミコトがオオヤマツミノカミから娘の女神を嫁に迎える物語が語られる。オオヤマツミには二人の娘、姿形が麗しくないイワナガヒメ、姿形が麗しいコノハナサクヤヒメがいた。ニニギノミコトは、見た目を重視してコノハナサクヤヒメを選ぶが「イワナガヒメを選んでおけば、不老不死でいられたものを」とオオヤマツミノカミから言い渡される。花が咲き、実を成し、種を残して枯れる植物のように、こうして人は有限の寿命となった。岩石のような、長い年月が経過しても残るような不老不死性は、こうして人から失われた。
女性を差別・侮辱する古語として「うまずめ(=子を産まない・産めない女)」というものがあるが、これを漢字で書けば「石女」である。言うまでもなく、この言葉にはイワナガヒメ(岩石の女神)とコノハナサクヤヒメ(植物の女神)の嫁取り物語と同じ考え・物の見方が、素朴な形で反映されている。
昔の人たちが呪術的な発想として、生殖能力の有無と不老不死性を結び付けて考えたであろうという仮説自体は、現代人も自然と受け入れられるであろう。
問題は、何故、人魚のイメージと生殖能力の有無が結び付けられたか、その点が定かではないところである。これについて『神話の話』の中で大林太良は、一つの示唆として、中国の人・袁枚(えんばい)の残した『子不語(しふご)』という書物に収められた、次のような挿話を紹介する。
「袁枚の甥が、地方の役人として赴任する旅の途上で立ち寄った集落で、住人たちが騒いでいた。何があったのかと尋ねると、その集落に住む或る夫婦の妻の下半身が魚になってしまったという。彼女の証言によれば、昨夜は夫と同衾し(夫婦の夜の営みを行い)、眠りについた。夜更け、下半身がむず痒くて堪らず、手で搔いていた記憶があるが、疥癬のように皮膚がポロポロと剥がれ落ちる感触が有った。朝になり、彼女が目覚めた時には、下半身は鱗の有る魚のものになっていたとのことである。剥がれ落ちていたのは、どうやら鱗だったようである」
大林太良は、この『子不語』の挿話について、わざわざ夫との同衾について言及しているのは「下半身が魚になる前の女性は、二本の脚を開いて男性を迎え入れる性行為が可能であったが、下半身が魚になったことで、脚を開くこと、すなわち性行為が不可能な状態になった」と言っているのだと考える。そして、人魚の肉による生殖能力の喪失も、これと同じ発想なのではないかと言うのである。
個人的には、この大林太良説を初めて読んだ時は「ううん、ホンマかいな?」という半信半疑の感想であった。しかし『神話の話』を読んでから暫く経過した後、大林説を補助するような話を、別の学者の著作で見かけた。が、やはりこの著作も、本棚や倉庫で見つけられずにいた。それがつい最近、その本を古本屋で発見して再入手した。嬉しい。だから舞い上がって、ここで記念にメモを残そうと思い立ったわけである。
件の大林太良の説を補助する記述が載っていたのは、金関丈夫の著作『木馬と石牛』(岩波文庫)である。ちなみに、解説は大林太良その人である!
この『木馬と石牛』に収められた「榻(しぢ)のはしがき」という論文が、人魚による不死性と生殖能力の喪失のイメージの結び付き仮説を補助するような記述を含むものである。この論文は何について書かれたものか、簡単に説明すれば、国文学におけるオナニー文学について論じたものである。これは、悪巫山戯で書いているのでも、嘘を書いているのでもない。本当のことである。初めて読んだ時は「お硬い岩波文庫で、こんな珍論文を読めるとは」と、かなり吃驚したものである。
本題に入ると、金関丈夫によれば、天明六年の自序がある東井春江による『譬喩尽(たとへづくし)』という俚諺(りげん)辞典の「い」の部には「一夢二千三肛四開(いちむにせんさんこうしかい)」という俚諺(ことわざ)が収められている。その意味は「性行為の中で快感が大きいものランキング・ベスト4」である。念のために言うと、男性の立場でのランキングである。4位の「開(かい)」が「女色すなわち男女の営み」を指す。この「榻のはしがき」の一節を初めて読んだ時「なるほど、『開(かい/ひらく)』の語と『男女の性行為』のイメージは、昔の人の頭の中では自然に結び付いていたのだなあ」と納得し、大林太良説も納得して受け入れられるようになったと、そういった次第である。
何?ベスト3の意味が知りたい?いちいち言わなくても、字を見れば薄々察しがつくだろうから細かい説明は書かない。なお、同「榻のはしがき」によれば、戦国時代頃に来日したポルトガル人宣教師たちが、布教活動を行うために編纂した日本初の日本語/ポルトガル語翻訳辞書『日葡辞書』には「Xenzuri」という単語が収録されているとのことである。
とりあえず『神話の話』も『木馬と石牛』も、どちらも非常に面白い本なので、機会があれば図書館などで探して一読することをお勧めする。
また、人魚の話に関しては、椿のモチーフなど海女文化が八百比丘尼伝承などにおける人魚のイメージに影響を与えた可能性の話、人魚の肉はフケツノカイ(キュウケツ[9つの穴]ノカイ)すなわちアワビのことではないかという可能性の話など、色々ほかにも面白そうな話が有るので、興味が有る人は調べてみることをお勧めする。
先決問題要求の虚偽とは要するに、証明されていない勝手な前提をさも大前提のように持ってくる詭弁の一種
わかりやすい例でいくと大昔に進化論を否定する際によく使われてて、
「すべての生物は神が作ったのだから、進化論は矛盾している よって進化論は間違っている」
というように、そもそも『すべての生物を作ったのは神である』という前提が怪しいのに大前提として持ってくる感じ
大体は「○○が正しいのは大前提として~」として疑わしい『正しさ』の前提を前置きで持ってくる人が非常に多い気がする
ぱっと思いつくのでいうと、「(性的消費は滅ぼすべき社会悪だというのは大前提として)この作品の描写は性的消費にあたりますよね?」
「○○の格差が間違っているのは大前提として、格差を生み出している○○は滅ぼすべき悪である」みたいな
「いやそもそもそこの前提あってます???」って言いたくなることがめちゃくちゃあるのだが、リベラル自身はどう思ってるのだろうか
題名の通り、他人の解釈が怖くなった。漫画とかアニメとか映画とか小説とか、そういうのを読んだ後に他の人の感想とか反応を見たりするのが好きで、アニメなんかも2周目は感想付き(アニメをリアルタイムに実況するやつ)をよく見る。普通の感想だったらまだいいけど、表現とか、描写とかに筋道立てて作者の意思とか何を表現したかったのか、といった風な考察とか解釈が怖い。現代文の答え合わせをしているようで、とても怖い。文学的要素、というか行間を読むような作品とか。具体例を出すとシャニマスのような作品。趣味の範囲内なんだし個人で楽しめばいいというのはもちろん分かるけどそういう他人の解釈が自分が思った事と違うと、とても悲しい。間違いじゃないと分かっていても、そっちの方が確かに正しいなってなって。自分はなんて浅いんだろう。これで好き、なんて言えるのかとか。けれど見ずにはいられない。自分の「好き」が正しい好きかどうか確かめなくちゃいけないから。ここまで書いてみて自分の自己肯定感の無さを感じるなーとか、他人からどう見られてるか気にしすぎじゃない?とか思った。SNS、やめた方がいいのかも。分からないけど
で、他の人はどうだったかなと調べたら設定ふわふわでストーリーガバガバと微妙な評価だった
言われてみれば、と思ったので思ったことを書き出してみる
犯罪を隠蔽するといった機能を考えると、そもそもこの大前提から無理がある
ここに違和感を抱いた人はまずこの作品を見ないであろう、てか見てないよね?
なので、この組織に関しては真面目に考えずにファンタジーであるという認識を持った方がいい
最終回前に、銃を持って犯罪者を粛清するリコリスの存在が全国ネット(暫定)で公開され、その誤魔化し方にアニメの視聴者かギョッとした
最もその後、全ての人々がガバガバ工作を信用しているわけではないという描写が成されたが、DAという組織が隠れて治安を維持するという設定そのものがミラクルであることを考えると、そういう世界なんだろうな、という理解に落ち着くのが無難かもしれない
要するにつっこんだら負け、なのだが、どんでん返しを期待する視聴者側としては肩透かしを食らったのも同然なので、もうすこしなにかいい案はなかったのですかと思わなくもない
ミシュランの星つけるみたいに、才能ある人にペンダントを送る、ある種の慈善活動をしているような印象がある
才能に対して支援するアラン機関は犯罪組織とイコールではないが、現在テロリストとして活動する真島を支援している背景もあるので何がしたいのか謎
……ではあるが、それはそれとして、組織全体としては犯罪組織ではないと思われる
今回の延空木の1件は、エージェントである吉松によるもので、そこだけを見れば彼は立派な犯罪者である
じゃあ彼は何をしたかったの?という疑問の答えは「自分が才能を見出した少女が思い通りに成長しなかったから解らせに来た」だろう
殺人の才能を生かすことでどんなメリットが得られるかなどについても言及はない模様
舞台装置として認識してるので、理由はさておき、ばやっとした理念を理解出来ればいいかと認識している
あるいは今後の話の展開のために敢えて何も語っていないのかもしれないが、そもそもメインとなる話はリコリスであるから、続編があったとしてもアラン機関が登場する理由はないだろう
・真島
ぽっと出じゃなかった髪がすごい人
弱者の味方と語るが、強者を蹂躙することで弱者の味方になるという認識なのだろうか
所謂ラスボスのポジションで、尽く千束に絡んでくるある意味人間味のあるテロリスト
バランスを取るためにテロを起こすのは割高ではないかと思われるが、広く世間の弱者ににアピールするために事を大きくしている……のかもしれない
自分なりの美学があるらしく、破壊の限りを尽くすと言うより、何かしらの爪痕を残すことを目指している?
で、結局最終的には千束と命のやり取りがしたいと語るあたり、バランスとは何だったのか
およそ美学に基づいてテロを起こすという点においてはヒールとして興味深い
とはいえ、結局何がしたかったのこの人V2であることには変わらない
大衆にリコリスの存在を認知させることで、日本の闇を暴いたのだとして、それがどうバランスを取ることに繋がるのか不明
「美学のもとに世間をさわがすテロリスト」くらいの認識に落ち着けば特に何も思わない
・たきな
結果、DAの支部にて感情豊かになり、命令を無視するような狂犬と化した
しばしば話の展開が早いと語られるが、千束の心臓の件もそうだろう
個人的にはたきなが千束に情を抱き始めているのはよく分かったので、戸惑うところまでは理解出来る
がしかし、いくら感情豊かになったとはいえ、理性を失うほど突っ走るキャラだったのだろうかという疑問は残る
命のやり取りしてるんだから必死になって当然!とは思うけれど、突然好感度が50が5000くらいにぶち上がった印象で、ちょっとびっくりしてしまった
吊り橋効果かもしれない
あと単純に疑問なのですが、命令無視しまくった結果左遷続行ということなのですよね?
左遷先の方が伸び伸び過ごせそうなあたり、楠木さんどうなんですか?
とまあ主に後半戦の疑問をまとめた
カッチリしたバトルものというより、女子メインの日常ガンアクションもの、という認識だったので、ふわふわした設定はさほど気にならなかった
キャラの掛け合いというか、場面の切り取り方がアニメというよりドラマというか、そっちを彷彿とさせたので会話劇が気に入った結果かもしれない
当然キャラが合わない人は合わないだろうし、ストーリーおもんなって人は何度見てもおもんな、って思うだろう
色んな設定が他作品を模したコピーアニメって評価も見たが、この令和のご時世、見たことも無いオリジナリティ溢れる作品の方が珍しい気もするんだがなあ
母一人子一人の環境で、強烈な個性を持つ母親の肉子ちゃんにやや振り回されるように生活している喜久子の成長を描いたアニメ。喜久子は母子家庭ということもあり、母がダメ男に引っかかりがちなこともあって、子供なりに自分がしっかりしなくてはいけないと思っているふしがある。
喜久子が、二宮という男の子のチック的な症状を見たことをきっかけに、彼と親しくなる。後に明かされるが、実は喜久子にもちょっとそれっぽいところがある。二人の関係は恋というよりも親友や同志を見つけた感じに近い気がする。普通とはちょっと外れたところにいる仲間を見つけたような。だから二宮に対しては気を許して、母親にもしないような友人とのトラブルについての話ができるし、感情をあらわにしてぼろぼろ泣いたりもできる。
このアニメ全体が喜久子の主観を通したイメージを描いているようなところがあって(同じ町に住む同級生のまりあの家が異様に豪華だったり)、その中で喜久子自身は一貫してリアルなタッチで描写されているのだけれど(逆に母親の肉子は徹頭徹尾マンガ的な存在として描かれる)、喜久子が二宮と会話して、二宮のマネをして変な顔をするときだけは、顔がぐにゃっと歪んでマンガっぽくなる。二宮の前だけは母親の前ですらあまり崩そうとしない大人びた顔を取り払って、子供っぽい表情ができる、ということかも。
肉子ちゃんに対しては自分が面倒を見なくてはいけない相手だと感じていて、母親として頼ったり甘えたりできる存在だとは感じていない。大人を頼れる存在と見なしていないから、自立しなくてはいけないと思いこんでいるところがある。彼女が切実なほどに寄る辺のなさを抱えて日々を送っていることに周囲の大人たちは気づいておらず、その認識のギャップが終盤の展開を導く構成になっている。そういう意味ではあのラストは、大人が自らの役割を説明して大人と子供の関係を再契約する話だったのかもしれない。デウス・エクス・アッペ。
キャラクターの関係性で言うと、肉子と喜久子の関係性は千束とたきなの関係性と近いかもしれない。「私は君と会えてうれしいうれしい」みたいな。
喜久子のキャラクターデザインがカチュア・ピアスンぽくてものすごくかわいい。フィギュア化されたりすることはまずないだろうけど、フィギュアが欲しい。
アニメの仕掛けとして、トカゲやセミの声がCocomiでないのは見るものに対してちょっと誠実でない感じもした。本職の声優でない人にそこまで演技はさせられなかったのかもしれないけれども。