はてなキーワード: 社会権とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1548212
ポリコレ持ち出してる人までいて
子育てにも日本の義務教育にもポリティカル・コレクトネスは何も関係ないでしょうが、シアトルまで出向いたらポリコレ棒で頭でも殴られたのか?
他もここまで極端でないにしろ勘違いしてる人が多いので書いた。
まず法令の話でいうと
ただし罰則を実行するかどうかは自治体に広範な裁量があるし、就学させる義務に違反することに刑事罰は無い。
就学させる義務は
「三大義務」と呼ばれる
でもだからといって勤労義務に違反しても刑罰ねえだろ?そういうことだよ。
頭からっぽのほうが夢は詰め込めるけど
憲法で定める「普通教育」の範囲は学校教育法で規定されており、一条校での教育に限る。
また学校教育法は憲法と違って今までに何回も改正されているから、今後改正されんじゃねーの?
なお余談だが、日本はICESCR第13条に留保をつけていて、高等教育を受ける機会均等と無償教育の漸進的導入がいまだ未実施。
ただし民主党がここに関しては留保撤回済みで 自民党でも国として一度留保撤回したものもとに戻せない(韓国ならやるかもしれんが)
だからといって出世払いという借金制度を「高等教育無償化」と言い出した自民党には呆れるばかりである。
一応注釈をつけておくとICESCRでいう高等教育は大学のことです。高校じゃないよ。
とほざいて子供に義務教育をさぼらせ、教育を施す場合に子供の学習権を保障できなくなるね、だから「全面的」な教育権を親には認めていない。
他方、国や地方団体、教師にも全面的な教育権は認めていない、それぞれに一定の権利がある、としている。
つまりは親に義務教育"相当"の教育で十分とする権限は認められていない。
なお日本語を読み慣れてない人が
「ナチス教育が義務教育相当なわけないww」とか言い出しそうだが
線引問題はこの話の本質じゃないから大多数がNGとするであろうレベルを例にしているんだぞ
どんな教育法であれ親の考える教育が子供の学習権を侵害しないとされるか、合理的な方法が立法されていない、18歳時に高等学校卒業程度認定試験に合格できりゃいいんじゃねえの?ならナチス万歳教育だって高卒認定取れるならOKになっちゃうだろ。いいのかそれで?そして繰り返すがこの点は話の肝じゃありません。
第十六条 保護者(子に対して親権を行う者(親権を行う者のないときは、未成年後見人)をいう。以下同じ。)は、次条に定めるところにより、子に九年の普通教育を受けさせる義務を負う。
第十七条 保護者は、子の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満十二歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校、義務教育学校の前期課程又は特別支援学校の小学部に就学させる義務を負う
これは大事な指摘で
だが法の精神が唱えるところには足りていない
コメの中でこれが一番正しい。 子供には学習権を基にした国、教師、地方自治体、そしてなによりも親に対して自分の学習権の保障を要求する権利がある。
子供の学習権の保障は「第一義的に親」が行うことになっている、なのでまずは親に要求するのが子の通すべき筋であり、応えるのが親の義務でもある。
もちろん親からさらに地方自治体や国に要求するのも権利関係としては正しい、正しいだけで現実的な解は別だけどね
ついでに学習権の要求ができるまで学習権について深く理解し自己の尊厳を守るための意識発達が行われたならその子供は褒め上げてあげるべきだし、みんなに自慢して良いと思う。
しかしながら「子供には就学する義務は無い」程度の浅薄をほめれるやつがブクマカに多数いて、おつむが中学生と同レベルな事はかわいそうに思うが、義務教育は年齢で区切られているからもう手遅れなんで勤労と納税の義務をはたせよと思うばかりである。
http://yakanchugaku.enyujuku.com/shiryou/unescogakushuuken.pdf
この中でも謳っている通り
親の義務とは何か?就学義務なのか?と言われれば法令上はそうなる、あってる。
しかしながら、条約や法の精神が求めるところはそれでは足りていない
と謳った
第1条である。
その具体的な権利の一つとして「学習権」が子供に認められた、だからこそICESCR 第13条にはこう書かれる。
教育についての権利。教育が人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し、人権と基本的自由の尊重を強化すること。
学習権とは人間的発達のために必要なものであり、自分が唯一無二の人であること、それと同じくらいに他者も唯一無二の人である、そのように世界を認識するために必要なものだ。
BLMもそうだし男女の殴り合いもそうだが、自らの人権と相手の人権を守ることができる人間を増やすことが今、世界の抱える病魔を解決するための道だろう?そのためにも必要なものの一つが学習権なわけだ。
そして「権利」とは「環境」があってこそ初めて実質的な意味をもつ。絵に書いた餅じゃなくなる。
例えばこの世に男子校しかないのに「子女には学習権がある」なんて謳って終わりにしてたら絵餅だろ?
他の権利も全てそう、
コロナ対策で君たちには10万円受け取る権利をあげよう!ただし実施がいつかは決めていない、私の気持ち次第でそれは明日かもしれないし100年後かもしれない
とか言い出したら、なるほどボケてんのか、ってなるだろ。
ただし国内での販売は禁止するし国内での譲渡も禁止、国内での栽培も禁止、海外から持ち込むことも禁止
ってなってたらそれは実質禁止とかわらんだろ?
自由権であろうと社会権であろうと、「権利」を行使できる「環境」を整える事が「権利の保障」であり、環境を奪っておきながら「お前にも権利はある」って言っちゃう人、自分が学習権の行使できなかったんだねーって思うわ、可哀想なので哀れんであげる。
さてそういうわけで
つまり「親の義務」として日本国憲法でも義務化されているものとは法令上は確かに就学させる義務だ、
しかしながら、人類普遍の法則である人権と日本国憲法が要求する義務とは「子供が学習権を十全に行使できる環境を整える事」であり
自由主義増田とかいう適当なこと書いてるやつが900user超えててビビるわ。
しかも好意的な反応がほとんど。マジで?はてブの知性やばない?
Twitterでも消極的自由・積極的自由についてさも前から知ってましたみたいな体で誤った知識を語りだすやつが増えてて笑える。
お前ら騙されすぎで本当不安になるよ。
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そもそも、今回の件は消極的自由・積極的自由の議論と関係がない。
消極的自由というのはつまるところ自由権(=国家からの自由)のことで、積極的自由は社会権(=国家による自由)のことだ。ここはもう1回Wikipediaでも読んでくれ。
察しのいい方はこの言い替えだけで先のエントリの違和感に気づくかもしれない。
バーリンは国家と個人の自由との関係を論じているのであって、個人間の自由が衝突しているのをどのように調整するかという議論である今回の件とは全く別問題。
「表現する自由」と「それを見たくない自由」は、どちらかを優先すればどちらかが損なわれるというトレードオフの関係性だ。
一方、自由主義増田が例示しているような「六本木から強制排除されない自由」と「六本木に住むための補助金を受ける自由」って別に衝突していないしトレードオフの関係じゃない。
強制移住させずに住む自由を保証しても、補助金は出せるでしょ。実際出すかはともかく。
(というか、この例示も「消極的自由が優先される」という結論を印象づけるために恣意的に選ばれていて卑怯だよね。強制移住させられて居住の自由が直接侵害されるような状況だと補助金が重要じゃないのは当たり前。)
誤読マンが多いのも、自由主義増田が国家対個人の自由なのか個人間の自由対自由なのかを混同して意味分からんこと書いているから仕方がない。
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ちなみに、消極的自由が積極的自由に優先されるのが現代の自由主義の主流なんてことはなく、この点でも間違っている。
自由権と社会権は両輪であり、一方を欠けば他方も真には達成されない。また、教育を受ける権利と教育の自由など、どちらにも峻別できない権利もあるし、環境権などのどちらの特色も持った新しい人権も出てきている。
こうしたことから、現在では、この2つをある程度区別することに意義はあるが、厳格な峻別が不可能だし両方重要だよねってのが一般的な学説。
バーリンの主張では、当初他者からの強制や干渉のみを消極的自由の欠如としていたが、貧困などの手段や能力の欠如といった積極的自由の要素も含むことになった。こういう点でも当然批判も多い。
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自由主義増田の主張に従えば、献血ポスターが仮に適法的に作成されたヌードやAVだって問題ないということになる。
なぜなら、今回の宇崎ちゃんの表現者の自由とそれを見たくない人の自由と、より過激な表現の場合の、表現者の自由とそれを見たくない人の自由とに法益の差がないから。
「よほどの理由がない限り」消極的自由は制限されない世界で、見ない自由・子どもに見せない自由はよほどの理由じゃないらしいので、表現をより過激にしたところで条件は同じだ。
でも、実際のところそれでよしという人はおそらくほとんどいないだろう。
結局、国家による表現の自由が保証されている中で、どのような表現までならOKかというのは、市民の中で議論して線引きを決めていくしかない。
なお、私見を述べれば、今回のポスターは、場にふさわしくない程度に性的ではあるが、セクハラというほどではないと思うので、全く問題ないとも絶対にありえないという意見も持てない。
ポスターに反対しないという意味では自由主義増田と同じ立場だが、元増田のような健全な(=暴力的ではない)批判を誤った原則論で封殺してしまう自由主義増田は、むしろ悪貨であると言わざるを得ない。
胸が性的かどうかを思春期以降に知って欲しいっていう性教育をしたいと思う自由も欲しいよー。
自由ってなんだ??
割と本質的な問いだと思うので真面目に答えると、アイザイア・バーリンという哲学者が「消極的自由」と「積極的自由」という概念を提唱している。
詳しくはWikipediaでも読んでほしいけど、要するに
の違いね(cf. anond:20191017201230)。
現代の自由主義では、色々と議論はあるけれど、おおむね消極的自由の方がより重要な自由とされている。
これは増田もそうだろう。「俺が六本木ヒルズに住む自由を実現するために家賃を補助しろ」と言われたら、おかしい、と思うよね。でも、「金持ちの俺が六本木ヒルズに住んで何が悪いんだ? 俺の自由だろ」って言われたら、当然、って思うんじゃないかな。
というのは積極的自由に属する。
その環境を増田が個人の努力あるいは財力に頼って実現する(例:ひきこもる、ゲーテッドコミュニティを作る)のはもちろん自由だ。でも、それをもって他者の消極的自由を制約しようというのなら別の話になる。
積極的自由と消極的自由ならば、基本的に後者の方が重い。よほどの理由がない限り、前者を理由に後者を制約すべきではない。そして、増田が子供にどんな教育をしたいかという話は、「よほどの理由」ではない。
(「よほどの理由」が認められるかどうか争いになっている事例として、たとえば、「感染症にかからず健康に生きていきたい」という積極的自由と、「どんなワクチンを打つか政府に強制されたくない」という消極的自由が対立する局面を考えてみよう)
ところで、
思うだけなら自由ですよ? それは人を殺したいと思おうが誰々くんとセックスしたいと思おうが日本は天皇中心の神の国だと思おうが自由なのと一緒。そこの自由を制約している人はどこにもいないよね。どうぞご自由に思っていてください。
その思いを他者への要求として口に出す(増田に書く)から他人の自由に口を出すなと言われるわけで。
なので、
思春期前の子供に見せたく無い自由は?献血ルームにあるのは別に良いんだけど、公共の場にあるのを見たくない人の多様性はどう思う?
「見せたくない自由」というのも、ご家庭の中でお色気漫画は読ませないラッキースケベアニメは見せないとかそういう話ならどうぞご自由に、お子さんの教育に関しては親御さんに自由裁量があります、という話だけど、他人が自分の敷地に(あるいは借りたスペースに)設置したポスターを取り外させようとするなら、それは他者の消極的自由を侵害してよい理由にはならない、という話になる。
何度も書いているように、積極的自由より消極的自由の方が重いので。
「多様性を見たくない人も多様性に勘定すべきか」というのは難しい議論だけど(「戦う民主主義」を調べてみよう。民主主義を破壊しようと主張する政党を民主的選挙に参加させるべきか?)、そういう多様性も認められるべきだとは思う。他者の消極的自由を損なわないという前提のもとで。
なので、そういう多様性の持ち主がゲーテッドコミュニティ作って暮らす分には、そこにわざわざポスター貼りに行こうとは思いません。ご自由にどうぞ。そういうコミュニティが存在するのも多様性の一貫だとは思うので。アーミッシュのコミュニティとかと同じで。
ところで、私たちが暮らすこの日本はゲーテッドコミュニティではありません。
人を殺す自由はない。人を殺せば刑務所行きになる。他人を誹謗中傷する自由もない。誹謗中傷すれば民事裁判で敗訴し賠償金を科せられる。
既に自由は整えられているのでは……? 現状の日本が無法地帯じゃないのは、ある程度自由が制約されて整えられているからだよね?
私は宇崎ちゃんの胸は揉みたい感じの魅力的なおっぱいに見えるのでやっぱり子供に見せないように気をつけて歩きます!!!自由!!!
はい、それもあなたの自由ですね。宇崎ちゃんのポスターなり看板なりを見かけたら子供の目をふさぐとか、子供に声をかけて注意をそらすとか、見て見て~と逆方向を指差してそちらを見せないようにするとか、そういう自由をどうぞ行使なさってください。誰もそれを邪魔したりなんてしないから。
これはそのとおりで、要望する自由はあるし件のポスターを批判する自由もある。要望を無視したり批判に反論したりする自由もあるというだけの話なので、気にくわないなら文句をつけてりゃいい。今回の増田は「自由」について混乱しているようだったから雑な説明になっちゃって、そこは申し訳ない。ご指摘ありがとう。
消極的自由をより重視するのはどちらかというと英米系で、大陸系だと「政治参加の自由」とか「健康で文化的な生活を追求する自由」とかの積極的自由も重点おいてるんでわ。
いや、積極的自由を重視する人たちも、積極的自由より消極的自由の方が重要という点では一致しているでしょう。意見が分かれるのは、積極的自由はどこまで保障されるべきか、とか、ある行為が消極的自由か積極的自由か、とか、そういう点では。積極的自由の保護自体には私も異論ないですよ。特に社会権は国家がケツを持って下支えしないと自由が掘り崩される。そういう意味で夜警国家やリバタリアニズムは支持できない。
ポスター非難派の言い分はとどのつまり「他者の消極的自由よりも私の積極的自由のほうが優先されるべき(少なくとも対等)」なので、なぜ前者が後者に優越するか、そこにどういった議論があるのか説明しないと無意味
上で色々例を挙げたけど、わかりにくいかな。
じゃあ「山間部の過疎地に政府が十分なインフラを整備していない」と「政府が過疎地の住民を強制移住させる」だったらどうよ。
前者ももちろん問題だけど、どっちがより重い問題? って聞かれたら後者の方がより重大な問題だと答えるのが普通だよね。
言わずもがなのことだけど、前者が積極的自由の侵害で後者が消極的自由の侵害です。消極的自由が積極的自由よりも重要な自由であるのは当然ですね?
(前者は軽んじてよい、と言っているわけではないことに注意。19世紀的な自由主義が消極的自由ばかり重視し積極的自由を軽んじていたことに疑問を呈して積極的自由「も」重視すべきだと主張しているのが現代自由主義です。前者は気にしなくていいよって言ってるのがリバタリアニズム。でもどちらの立場にせよ、消極的自由の方が重いことは否定してないと思うよ)
わかりやすくて納得した。と同時にシートベルトを着用せずに自動車運転して事故即死亡する消極的自由が認められていないのはおかしい、、、のだろうか?とも思った。
レーガン大統領はカリフォルニア州知事時代にそういう理由でバイクのヘルメット義務化法案に拒否権行使してますね。
個人的には、子供には自己の生命・安全を危険にさらす方向での自己決定権を十全に認めるべきではないと思うので、チャイルドシート義務化には賛成。でも大人がシートベルトやヘルメットをつけるもつけないも個人の自由で(だって、究極的にはそれで損をするのは自分じゃん?)、法律で取り締まるのはおかしいと思う。自動車メーカがシートベルトしてないと警報が鳴る車を設計して売りに出すのは商売の自由。
概ね同意だけど、最後のシートベルト義務化の話、日本では車対車の事故で死亡事故だと相手の運転手は過失が多少でもあれば重い罪に問われるので、シートベルトをしない自由を制限する合理的理由があると俺は思うね
相手がシートベルトをつけておらず、それによって生死が左右された場合は情状酌量で減刑すればよいのでは……。
シートベルト義務化については社会的損失を低減する観点から合理性があると思うけどね。『それで損をするのは自分』だけじゃないわけで、治療費、障害、家族の貧困化など・・・結局は社会的負担になるからね。
ここでは合理性の話ではなくて、自由と自己決定権の話をしているので……。
そのへんを表す自由主義の言葉に、「善に対する正義の優越」というのがある。
何が「良いこと」かは人によって違う。倫理観や道徳観(=善)には多様性があって、政府が「お前たちはこの道徳に従え!」なんていうのは押し付けだ。
大切なのは、色々な道徳の持ち主が公平に処遇されること(=正義)だ。他人の自由を侵害しないかぎり、自分の道徳を追求する自由と権利がある。異なる道徳同士のコンフリクトは、公平な制度によって調整される。
だから私は一貫して、最初の増田がどんな性教育を子供に施すのか、については干渉していない。ある人がどんな倫理観を持っていて、それをどんなふうに子供に教えるのかは、虐待とかの形で子供の権利を侵害しない限りにおいて自由なので。
でも、それを口実にして他者の自由を制約しようとするなら反対する。それが自由主義者としての私の一貫した立論。
そういう意味で、自由主義って社会全体にモラルの共有を求める考え方とは水と油なんだよね。大政翼賛会にもスターリニズムにも反対だし、天皇の写真を焼いた! けしからん! も、巨乳を強調したイラストだ! けしからん! も、どっちの表現規制にもNOと言う(正確には、「けしからん!」と思ってもいいし「けしからん!」と批判してもいいけど、それを理由に作品を撤去させたりしてはいけない。右翼やフェミニストが雑誌やブログに「この表現がいかに許しがたいか」みたいな文章を掲載する分にはどうぞご自由に)。
オタクって自由主義者が多いと自分基準で勝手に思ってたんだけど、意外とそうでもないのかな? というのが最近わかってきて、ちょっと驚いてる。周囲のオタク仲間が社会問題でそのへんのおっさんみたいな保守的な認識を示したり、自分に興味がないイシュー(博打とか刺青とかね)だと平気で規制だとか口に出したり(ちなみに、わいせつ物頒布罪と同様に単純賭博罪は廃止すべきだと思ってる。賭博開帳図利罪も「無許可or無届けで賭博の胴元をした罪」とかに変更して民営賭博を合法化するべき)、BL好きの人たちが美少女のイラストをお気持ちで殴ったりしてるのを見てると、オタク界隈でも自由主義の理念は強固なものじゃないんだね……って感じになるので、リベラル派として自由主義はいいぞというのを地道に伝えていきたいですね。
しかし例えばリアルな死体や糞尿の画像をレストラン街の入り口に貼ったら、消極的自由だでは通らないだろう。これはゾーニングの問題で、線引きは色々。そう簡単ではないのでは?
私はヴィーガンじゃないけど、ヴィーガンの人たちが肉フェスの前で動物の屠殺写真を展示するのは表現の自由だと思うよ。
肉フェスのときにこれは不法だ取り締まれって言ってた人たち大勢いたけど、私はそれに与しない。その写真の前で肉料理食べながら自撮りしてヴィーガンを煽るのは対抗言論なので表現の自由。なんでみんな、気に食わない表現に対して表現で対抗するんじゃなくて取り下げさせようとしたがるんだろう。
当たり前でしょう。刺青を入れるのは自由だし刺青を入れて公共空間を歩き回るのも自由。なぜならそこは公共空間なので。刺青を入れた人には公共空間を自由に歩き回る権利があるので。刺青を入れた人が公衆浴場に入れないのはおかしい。自由主義の理念に反している。
刺青を見たくない人は自宅風呂に入る自由とかお庭でビニールプールで遊ぶ自由とかを行使してください。
なんで「他人の自由な行動を見たくない自由」が「他人の行動の自由」を抑圧してまで叶えられるべきだと思っているんだろう。本当に謎。
自由を「権利」に置き換えてもいいよ。「刺青を見ることなく公衆浴場に入る権利」よりも「刺青を理由に入浴を妨げられない権利」の方が重要でしょ。少なくとも前者の人は、公衆浴場に入る権利は奪われてないよね。公衆浴場の光景が自分が望んでいるものではないってだけの話で。でも公共空間に自分が望まないものがあるのなんて当然なんだから、望んでいる光景を見る権利よりも誰かに望まれてないって理由で入浴を拒否されない権利の方が遥かに重要。
刺青も少女像も巨乳ポスターも、「(ある種の人にとっては)見ていて不愉快」程度の害しかない(ナイフで刺すみたいな具体的な加害ではない。ちなみに、私はどれもまったく不愉快とは思わない)。見たくないなら目を背けるなりすればいい。どうしてそんなに自由を制限しようとしたがるんですか?
ネタバレをする自由は当然あるので好きな作品はネタバレ踏まないように注意する派です。基本的にはネタバレ踏むのは自己責任だよね。ネタバレ踏んでチクショウって思ったこと何度もあるけどそれは踏む私が未熟なだけでネタバレ感想書く人のせいじゃない。
もちろんあなたのフォロワーにはネタバレを理由にあなたをリムる自由がある。
100字じゃ説明できないよね。ありがとう増田。原理原則から考えないと、金属バットや愛トレ、今回の胸などで手首がねじ切れちゃう。
ほんとにね。あいちトリエンナーレ問題で一緒に表現の自由のために戦ったはずの人たちからさんざん弾が飛んでくるの、裏切られた感がすごくて絶望的になるよ(公的な施設は抑制的であらねばならない、とか、お前それ愛知芸術文化センターでも同じこと言えんの? っていうね。TPOとかくっそ笑う。じゃあビジネスシーンではカカトの高い靴を履くのがマナーとか言われても文句言うなよと。まあ私はスーツの強制もヒールの強制も間違ってるそんなTPOはクソくらえって主張するけど)。左右の表現規制派からあいトリの天皇アートも日赤の宇崎ちゃんポスターも守り抜いていこうと改めて決意。とりあえず来週にでも久々に献血してくるわ。
染めたいかという話。
先日、友人と飲んでいた時に話題に挙がり、うまく説明できなかったのでまとめてみる。
その場はぼくを含め3人で、男性の友人M、女性の友人F。趣味を人と共有することについて、ひいては彼女が自分の趣味に関わる場合の話題になり、3人の意見は次のとおりだった。
M「彼女と趣味が共有できたら楽しい。自分が興味なかったことでも、彼女をきっかけに知れる。」
F「ぼくの言うこともわかる。」
当然、ぼくも彼女と趣味を共有できたら楽しい。彼の意見が正しい。ならば、ぼくの意見はどのような論旨だったのだろうか。
前提として、ぼくはそれなりに駄目な人間であり、これまでに趣味を人と共有した経験が少ない。「趣味とはひとりでこっそりこつこつやるもの」であり、好きであることを大っぴらにするものではない、というイメージがある。例えばアニメ。深夜アニメにハマりだしたのは小4あたりで、当時いわゆる「オタク」は今のような社会権はなく、ぼくは家族にも隠れて膨大な量のビデオテープと過ごしてきた。中学の頃に「おとぼく」の録画が姉にバレた時は脂汗をかいた。これがぼく自身の原因の1つ。
次に好みの問題。ぼくが自立していない分、ぼくは自立した女性が好きだ。相手から一方的に寄り掛かられると倒れてしまう。なので、普段はわかりやすく「歳上が好き」と言っている。彼女に頼られるというのは大変嬉しいが、依存されるとなれば話は違う。パートナーとして精神の拠り所になるのは理想的だけど、人生の意味に(必要以上に大きな割合で)組み込まれるのは辟易する。そんな感覚。そんなに変なことは言っていないと思う。
彼女が「自分の意思で、その趣味そのものに興味を持ち、楽しんでくれる」場合。これは大いにハッピーだ。彼女の人生も豊かになるし、ぼくも趣味仲間が増える。
彼女が「大好きなぼく君のために、趣味に合わせる」場合。これが駄目なのだ。気を遣われている。彼女がその趣味を楽しむためには、ぼくが必要になる。ぼくがひとりでその趣味を楽しんでいたら、誘わなかったことに怒られるようなイメージ。
また「大好きな彼女ちゃんが、ぼくなんかに合わせる」ことにも、ちょっとだけ、違和感を感じるかもしれない。ぼくたち自己肯定感低い族からすると、惚れた人が墜ちてくるように感じるかもしれない。Fも自己肯定感低い族なので、「わかる」の発言はここから来ていると思う。
結局は「趣味は好きにやりたいので、そんなに気を遣わないで欲しい」と言えばよかった話だったのかもしれない。Mの主旨と相反することでもなかった。
ヴィーガンは食生活についての主義で、増田の言いたいのはアニマルライツ(動物の権利)論者のことと思われる。アニマルライツを実践すると大抵ヴィーガンにならざるを得ないが、ヴィーガンが必ずしもアニマルライツ論者というわけではない。美容・健康、宗教的戒律、食の好みでヴィーガンをやってる人もいるからな。フェミニズムを実践するとヴィーガンにならざるを得ないというのも、あんまりメジャーな主張ではないと思われる。全ての差別を否定するならヴィーガン&アニマルライツにいきつく、というのは概ね正しいが。
で、アニマルライツも一枚岩ではないが、メジャーな考え方としては割と能力主義的なところがある。例えば痛みやストレスを感じる能力がある動物は、人間社会においては人間と同じように痛みやストレスを出来るだけ受けないよう配慮される権利があるってことだ。
つまり能力に対して相応の権利が生じる。日本国においても社会的能力が足りないと見なされる未成年には選挙権が与えられないのだから、同じくコミュニケーション能力不足な動物だって参政権などの「社会権」は相応に制限されるって寸法だ。社会権や財産権は生存権などの肉体的な自由と比べて一歩劣る扱いをしてもよい、というのはアニマルライツに限らず極端な無政府主義者以外ならある程度賛同するものと思われる。
ただ、近代国家は知的障害者にも参政権を与えたり、必ずしも能力と権利を全面的に対応させたりしない。アニマルライツは能力差別なのではないかという批判は昔から根強くあり、それに対するアニマルライツ側の反論もあるのだが、俺はアンチ・アニマルライツなのでここまでにしておく。
そこは勘違いだよ。徴税は私有財産権の侵害にほかならない。ただ、私有財産権は公共の福祉の制限を受けているから、実際的には私有財産権の完全な発露を抑制されている状態ってだけなんだよ。公共の福祉のためにということで個人の財産の一部を徴収するのが税というシステムだと言いかえることもできる。
税金を払いたくない(多くの人はそうだろう)に対してそれを徴収することができるというのは、これは前記事でも触れたとおり「暴力」なんだよ。前記事やここで「暴力」としているのは「対象の意志を無視して自分の意志や行動を強行/強要する能力、行為全般」だ。
もちろん公共の福祉という概ね良い目的のために、国民が監視可能な形で、適切に運用されているから課税/徴税は現代日本において「悪い暴力」ではない。
でも歴史を見れば分かる通り、財産の徴収が国家独裁者の一方的な都合で行われて、戦争などに使われた例なんてざらにあるわけ。だから、「徴税は暴力ではない」なんて詭弁だよね。まさに暴力にほかならない。大多数にとって納得できて現代日本の社会では善として扱われている(あるいは近代国家運営のための必要悪)だけであって、暴力であるのは否定できない。これは警察(治安維持)なんかもそうで、僕らの日常にも暴力は溢れているわけ。
選挙を始めとした多数決だってアレは暴力だ。数が多い事をてこにして少数者の意見を踏みにじるためのツールだ。もちろんその暴力が適切に、みんなを幸せにするために使われることはあるし、事実現代日本では多くのケースでそうだろう。でもだからといって、そういう暴力性を無視しちゃいけないんだよね。無視したところから民主主義の崩壊は始まる。だからこそ多数決で勝った側が負けた側
少数者)の声に耳を傾けることが重要なわけ。民主主義=多数決ではなくて、むしろ多数決をした後あるいはする前の合意形成技術や、それを支える民度が民主主義の精髄だ。
さらに例えば、経済的な地位を濫用して企業が労働者を搾取するってのも(経済的あるいは社会権力的な)暴力だ。暴力だからこそ法で規制する必要があるわけだよね。またその逆側の、労働者が数を頼んで選挙やストなどで他者(多くは富裕層)の財産や権利を奪おうとするのも、これまた暴力だ。
人間社会は(先進国では概ねちゃんと制御された)暴力の応酬で形作られている。長い歴史の中で人間は(人間の政治は)暴力の範囲を限定してきた。ロングソードで農民の頭蓋骨を数個割れば村の徴税権ゲットだぜ! なんて時代に比べれば文明的になった。
でもブコメなんかに見られる「現代日本で暴力は駆逐された」みたいに信じている人のそれは正しくないんだよ。むしろありとあらゆる接触に暴力が上乗せされているのが現代社会というものだとおもうよ。
多少ひねくれた表現が許されるのならば、政治とは「利益の異なる個人や集団の暴力の相克を、なんとか社会崩壊しない範囲内で収める術」だと言いかえることもできると思う。それに失敗すると、ベネズエラとかジンバブエになるし、その手前の「社会の分断」段階でもEUやらアメリカみたいになる。
「富裕層から税をぶんどれば良いんだ」「AIに課税してしまえばいいよ」「共産主義にして金持ちの資産を国有化しよう」これらはすべてコメにあった無邪気な意見だけど、それらは「あいつを殴って奪おうぜ」という暴力肯定の意見だとちゃんと自覚して発言しているのか、そこが疑問だ。別に富裕層をかばうつもりは全然ないんだけど、「あいつを殴って奪おうぜ」に賛成するのならば、当然に「自分が殴られてすべてを奪われる」覚悟が必要だよね。
一番最初の記事(https://anond.hatelabo.jp/20171115141727)に感じたのもそういう懸念だったんだ。「俺はあいつを殴っても殴り返されないし許されるだろう」みたいなふわっとした(悪い意味での)信頼感。
いやいやとんでもないそれ暴力だから。記事中ふれたように暴力は社会のあらゆる場所に(表面的にはあたかもそうではないようなカモフラージュをされて)存在するものだから、殴るなとも暴力を振るうなとも全く言わないのだけど、でも振るうのならばせめて自覚しないと危険だよ? と思った。
全力で殴り返されて半死半生になった後に「そんなつもりはなかったのに」って言っても手遅れなわけで。
18・19歳、自民に4割傾く 立憲民主は高齢層支持多く:日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22561000S7A021C1EA2000/
日経の記事が話題になっていて思い出した選挙前のラジオですが、若者の保守化論に関して是非とも紹介したい内容なので途中からですが文字に起こしました。
https://youtu.be/l7_mlqvCB8s?t=15m11s
北田「安倍内閣の支持率が東大生で高いっていう記事が流れてきて、実際そうなんですけど。上がってるんですよ昔より。東大生は強いものに巻かれるんだなって左派的な人から批判があったんだけど、同時に他の大学と比べてみて一般的にどうかっていうと若者全般がそうである。どっかの調査でもありましたけど若者自身が保守化していると言えるのか、現状の閉塞感みたいなものに関して安倍さんの方を革新と見ている可能性がある」
宮崎「読売新聞に早稲田大学の研究所と一緒にやった世論調査があって、50代まで(50代以上の意)は共産党を革新だリベラルだと評価するんだけど50代を境にして(下の世代は)一転して保守的だと共産党を。じゃあ(下の世代にとって)一体何がリベラルかって言うと維新が1番リベラル」
北田「そうなんですよー」
宮崎「維新のイメージって50代を境にして(50代以上からは)保守だと見なされてしまうと。これが典型的に表れているようにリベラルと保守っていう言い方っていうのが世代で違っている。特に50代を境にして全然違っているということになるんですね」
北田「50代までは恐らく冷戦までは通用したような右左とかタカ派ハト派の論理で政党名と繋ぎ止めているんですけど、40代から怪しくなり始めてもう20代30代になると大きく変わってきてしまっている。この状況を踏まえないと従来型の左右というかリベラル、保守という分け方もそろそろ賞味期限というか少し組み替えないといけないんじゃないかと思うんですが、少なくとも左右の対立項が大きくイメージが変わってるのは確かなんですよね」
宮崎「うん」
北田「宮崎さんがおっしゃって頂いたやつは今の中央公論の最新号で高知大学の遠藤先生たちによる『世論調査にみる世代間断絶』っていうのがあるんですけど、今みたいなお話がでています。19歳から29歳は日本維新の会を1番リベラルだと思っていると。先行世代からはなかなか不思議な構図に見える。そのあとも面白い研究をされていて本来であれば社会学者がちゃんとやるべきことなんですが、安全保障、社会的平等、ジェンダーの質問項目を元にどういう軸が区別の指標になっているか因子分析っていう手法でやってるんですけど、そこに3つ出てて安全保障の軸、社会的価値観(女性の社会進出、差別)、第3に税金負担の軽減とか自国利益の強調とか経済的な側面というか自国のあり方のような・・・」
北田「この3つの軸を出されて研究されているんですが、これが綺麗に当てはまらないんですよね。民進党なら民進党とか自民党なら自民党とかパッケージに対応してなくて。経済とか社会的なところで凄く我々から見ればリベラルな態度をとっている若者が、安全保障では我々から見るとタカ派的なことを言っている。どちらも共通してたぶん現状を変えていくというような意識では一貫しているんだと思うんですね。これ分析する側が旧来型の軸に頼っているようではおそらく民意をつかめないのではないか」
宮崎「遠藤さんが取り上げているか分からないけれど、同じ調査の中で50代以下の人に政党イメージについて改革に積極的か消極的か問うているわけよ。1番改革に積極的だと評価されたのがなんと自民党。次が維新。あとの政党っていうのは改革に対して消極的であるという評価。つまり私より下の世代、50代より下の人たちが何に着目してリベラルと保守と言ってるかというと経済体制の改革っていうのが積極的かどうかが鍵になっていると思うのよ。それがなぜそうなるのかというと、20年も続いたデフレ。先輩たちが就職難で就職氷河期で喘いできたのを見てやっと自民党が変えてくれたという実感に根ざしたものではないかという気がするんですけどね。どうですか」
北田「間違いないと思います。民主党の岡田代表だった時代にリベラル懇話会という形で・・・」
北田「今でもです。勉強会みたいなものを何度かやらせて頂いたんですが、その時に簡単な世論調査をしても安保法制で盛り上がる前くらいから分析してても民意は明らかに経済を重視していて、政党支持率と経済政策の推進というのは関係が強いんですよね。一貫してそうなのに何で今ここでアベノミクスを超えるアベノミクスをやるって言わないの?っていう」
宮崎「アベノミクス内部で考えても消費増税はマイナスだったし2013年以降は第2の矢っていうのはちゃんとやってないわけ。GDP比で財政を考えても明らかに緊縮財政になってる。ここを突いてこんなんじゃ駄目だって言うのこそがリベラルだろって私はずーっと言っていて。リベラル懇話会の経済政策提言の中にもそのことが書かれているのに何でリベラルはこれを受け入れないの?」
北田「そこが本当に私も分からないというか。安倍政権のパッケージングとか安保法制とか・・・」
宮崎「そういうのを全部評価するとかまったくなくて、少なくとも第1の矢と第2の矢を評価して第3の矢に成長戦略ではなくて再分配政策をもっと多様化政策を持ってくるべきだ」
北田「アベノミクスを超える財政出動をするぞっていうような、金融緩和についてはあるジゲン(次元?)を設けて消費税についても上げるなんて問答無用な話でそういうジゲン(次元?)をつけて考えていく。再分配の仕方を再考していくっていうのがイギリスでいうとねコービンとか、ポデモスとか世界標準的な左派の普通になってるハズなんですよ」
宮崎「金の問題も重要なんだけどそれは単純に金の問題じゃなくて、そうやって人々の所得が増えていくことによって貧困率だって下がっていくし人間の生き方の多様性、可能性、ケイパビリティ・アプローチですよ。アマルティア・センが言う。それを増やしていくことがリベラルの理念に適っているんだっていう。何でコレが日本では通用しないの」
北田「それを私も聞きたいっていう。あまりにも安倍さんとの対抗軸を立てたいっていうのか強いのか、民進党のDNAの中に刻み込まれているのかどうか知りませんけど、少なくともやるべきことというのは緊縮の話ではないし、アベノミクス全批判ではないハズですよね。政治家だけだったら敵味方の論理で話が分からないでもないんですが、論壇とかに出てるような左派とかリベラルっていう人たちが経済っていう問題を軽く見ている感じというか、経済の問題をを考えなくても他の部分こそが大切なんだっていう。もちろん大切なんですけど、経済の問題が宮崎さんがおっしゃったように人々の可能性とか潜在能力みたいなものの平等を図っていく上で重要な要素であることは間違いない」
宮崎「あなたがね『現代ニッポン論壇事情』の緒言の部分で言ってることがさ、経世済民は思想にして卑しい事柄でも何でもなく自由権と社会権という基本的な人権に関わる重要な社会的行為なのだと。これは本当にリベラルと自認していらっしゃる政治家や言論人に拳拳服膺してもらいたい」
アナウンサー「リベラルの偉い学者さんとかそういう方々は武士は食わねど高楊枝じゃないですけど・・・」
宮崎「食えてるんですよ。あの世代の人たちは食えちゃってるんだよ。豊かさは限界だろうとかさ」
宮崎「そう江戸時代に戻れとかさ。ほんっとに無責任なこと方言するわけ」
北田「でも若い人は絶望してなくて経済指標がよくなったら嬉しいし雇用状況が良くなれば満足度があがっていっていて、それなりに彼らなりに合理的に見ているわけですよ。成熟してこんな成長いらないとか思ってるのは正直な話、若者じゃないんですよね」
北田「バブルでおいしい思いをしてバブルへの絶望みたいのが過度な形で出てるような気はしますけどね」
宮崎「それもあるでしょうね。でも彼らはバブルの受益者だったわけじゃん」
北田「そうそう受益者で、だからこそ割れた時の記憶が強烈なんでしょうけど、だけど、それを20年間散々下の世代が味わってきたわけだから逃げ切りは私は許されないと思います。それと団塊の中でも逃げ切れるの一部ですよ。だから社会保障の問題が重要になってきて財源論だって色んなところで議論が出てるわけ。逃げ切れる成熟しましょうなんていうことは正直申し訳ないけども呑気な話だと僕は思います」
北田「だーれも言ってない」
宮崎「でも2~3%のパイを増やす政策を取らなければだんだん縮小均衡になって1番割を食うのは若い世代。弱者。この人達ですよ」
北田「だから僕は成熟社会論というのは冷たい冷徹な思考だと思いますよ」
宮崎「でもこれがイギリスのギデンズが唱えた第3の道とかさ・・・」
宮崎「だから左派版、新自由主義でしょ。そういうのと一緒に上の世代の人たちの・・・固有名上げるなら民進党の前原さんの頭にね固着しちゃってるんだよ」
北田「前原さん聞いてるなら経済だけどうにか考え直して頂けないでしょうかっていう気持ちが。僕は枝野さんに心配していたんですが、枝野さんがこういうこと言うんだって。ブレイディみかこさんと松尾匡さんと対談している時にニュースが入ってきて、枝野さんがこんなこと言っている!って衝撃を受けて」
宮崎「賃金を上げるために赤字国債発行するとかさ、ここでは私は枝野支持です」
北田「僕もびっくりしましたよ。それが一番求められていることであり、簡単な思考で言うと経済を椅子の数が決まったゲームと考えずに成長していくことによって維持できるっていう、そういうシステムだってことを考えないと公正性とか格差の問題も広がっていくだけと思いますね。だからこれはリベラルというよりソーシャルと言った方がいいかもしれませんね。ヨーロッパ型のソーシャル」
宮崎「ソーシャルって話をすると、もう少し先の話。フォワード・ルッキングしないといけないと思うので言うと、井上智洋って知ってる?マクロ経済学者。汎用AIが開発されて簡単に言うと色んな産業分野に汎用AIと汎用ロボットが広がっていって失業がどんどん増えていくと。そのとき何が必要かというと、経済構造っていうのは消費の部分がなければ成り立たないでしょう。消費っていうものを担保するためには所得を与えないといけない。でも失業してしまったりどんどん賃金が下がっていけば当然消費も縮退していくわけ。それを補填するためにベーシックインカムは必要だと。汎用AIができるかは別にして産業部門で色々使われることによって人減らしがどんどん起こっていくということはほぼ間違いないですよ。その時にどう対処すべきかっていうことを、今この経済政策で、生物学の前適応じゃないけどもやってるような気がするの。今の長期停滞に対処するのならその政策の延長線上でその状況にも対処できる。その観点から言うと消費税って駄目だと思うんだけどな」
北田「だめだめだめだめだめだめ。少なくとも今は駄目で、経済を社会の中でどう位置づけるのかっていうのを考えないといけなくて。公正かどうかっていう比較分析は社会学は得意なんですけど、財源どこかとか国債どうする金融政策どうとかそこがないんですよね。不平等を見つけるのは上手いんだけど、それをどうやったら直せるかって言うと財政を均衡させるしかないって話になっちゃう」
「コスパ悪い人を殺したい」じゃなくて「オレの足を引っ張るな!」じゃないかな。
「オレの世界に足手まといは要らない≒オレのリソースを無駄遣いするな」って言う、ケチの発想。
「オレの払った税金を無駄に使いやがって」みたいな発想の延長に有る気がしてる。
(生存権に努力義務を課すと、どういう社会になるか深く考えてないとか、そのレベルの話でもなく)
だから、その手の人が弱ったときにサポートを受けるのは、今まで払ってきた税金等を考えればアタリマエで、
その手の人は「自分の払ったカネで、(その人から見て)自業自得な連中に、カネを渡すのは無駄遣いだ」と思ってる。
ボケちゃった老人を生かしておくのは双方のためにならないとか、
そういうのコスパって言うよりは、「オレのカネを無駄に使いやがって」って発想からきてると思うんだよね。
(正確に言えば、そういう「オレのリソースを無駄に使うな」というケチさが、コスパ発想に繋がる)
これって、無い袖は振れないから選択すべきとか、底辺層を養ったほうが治安維持に有効とか、そういうのとは違うと思うんだよね。
賢い人も愚かな人も、弱い人も強い人も、担税力のある人もない人も、全員で集まって集団として生きていこうっていう発想からの逸脱だと思う。
まあ、個人主義の行き着く先と言うか。
国家が国家であるために、国民に対して社会権(生存権)を責任として明記しているけど、それはオレの知ったこっちゃないっていうそう言うケチの発想。
払える人が払うべきって、担税力の話とかすると真っ赤になったりするから、そういう税金の話で相手の立ち位置測ると判りやすいんじゃないかな。
「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」を読むと、彼の主張は
ではなく
「生活習慣を帰院として糖尿病を罹患し、人工透析に到った患者は全額自己負担で医療を受けさせろ。それを拒否するなら死んでもらっても仕方ない」
であろうと思います。なのでここで
という反論をしてもきっとかの御仁の胸に響くことはないでしょう。なので反論すべきは
「なぜ自業自得の透析患者を殺してはいけないのか」あるいは「なぜ自業自得の透析患者を全額自己負担にしてはいけないのか」です。
まず自業自得による糖尿病ってなんなの? という問題があります。
糖尿病は生活習慣病ですから、食べ過ぎ飲み過ぎ、体重増加、運動不足によって病気にかかるリスクが高まることが知られています。
糖尿病 | 生活習慣病 | 一般社団法人 日本生活習慣病予防協会
と思いがちですが、どこからが食べ過ぎ飲み過ぎになるのでしょう?
・毎日、ご飯3合と焼肉400g、ビール1リットルを飲んだら自業自得?
・ケーキが大好きで毎日ショートケーキを1ピースずつ食べている人は自業自得?
・一日おきに牛丼を食べてる人は……?
食べ過ぎ飲み過ぎの線を引くだけでもこれほどあいまいで、境界などありはしないのに、糖尿病は遺伝などによっても発症しやすい体質か否かの差が生じます。毎日ケーキを食べて糖尿病になる人もいればならない人もいるわけです。
長谷川豊氏は一体どこに「自業自得」の線を引けというのでしょうか?
「ああ、あの時、ビール一杯ガマンすれば保険で治療できたのに、あなたはお酒飲みすぎラインを越えちゃったから今後は全額自己負担ね」
国民皆保険制度を壊し、こんな医療制度を実現することが可能だというのでしょうか。
100歩ゆずってみんなが納得する自業自得の線が引けたとしましょう。けれど、その線を引けたからといって、やはり自業自得な患者の医療を全額自己負担にするわけにはいきません。
我が国は国民皆保険制度の下で、どんな人も低額で医療サービスを受けることができるようになっています。これは日本国憲法第25条の第1項に
『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』
と規定され、第2項には
『国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない』
全国民に認められたこの「社会権」の下、医療保険制度は国民が保険料を負担し、健康機能がおびやかされるに至った別の国民は低額で医療サービスを受けることができる「相互扶助」の精神で運営されています。
つまり、「全員が健康で文化的な最低限の生活ができるように、みんなでお金を出し合って支え合っていきましょう」と決められているわけです。病気を発症する原因を問うことなく、「みんなで病気になった人を助けましょう」というのが日本の医療保険制度です。
人工透析の話に戻れば、長谷川豊氏はこの制度を否定し、「助け合える人間だけで助けあえば良い」「助けたい人間かどうかは助ける側(保険料を支払っている側)の人間が評価すべきだ」と主張されているわけです。
「自堕落な生活で病気になった奴を我々の金で助けるなんて不愉快だ」という感情をベースに人が人の生き死にを左右しようという考え方に見えます。
これほどに極端な記事を掲載した彼の思惑を察するに、「これを起点に医療皆保険制度の議論が活発になれば」ということなのでしょうが、人工透析が医療財政を圧迫していると考えるのであれば、透析医療の値段(診療報酬)を引き下げることを議論すれば良いのです。
あるいは腎臓移植、特に死後移植の活発化を訴えるべきなのです。
彼の極端な記事を読んで
「俺はそんなこと言ってないし、やっぱりネット民はバカばっかりだな」
となお一層調子に乗るだけでしょう。そうではなく、
・国民皆保険制度がなぜ今の日本に存在し、それを破壊することがどのような影響を及ぼすのか
・人が人の生き死にを決めることはどれほど危険な考え方かなのか
条文が削除されたのはデマではなかろう。意味がない、と言うが、意味がないなら削る意味もないだろう。意味がないということにしたい勢力がいるのではないか? と疑われかねない他の文言改正とあわせて読めばさらに。例えば人権が自由への努力の成果ではなく、「おカミによって与えられ(また奪われる)もの」としているように個人的には感じた(そしてそれは許し難い)。14条は差別の禁止しか言ってないし、11条はわざわざ「将来の国民」から権利を奪うことを明示しているとも読める。
その上、「公益及び公の秩序に反しない限り」だ。
例えば人権が自由への努力の成果ではなく、「おカミによって与えられ(また奪われる)もの」としているように個人的には感じた(そしてそれは許し難い)。
おカミて、神?上?紙?どういう意味で許し難いの?
法律専門じゃないけれど、人では無い憲法という抽象物から権利を与えられ、というのが世界的によくある形態。
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
③ 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
自民党案
第十四条 全て国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
??差別の禁止だけでもないし、これ以上何を入れろと?
余計な文章を入れ込むことによって、裁判でおかしな判決で不利益こうむる人も出てくるんだよ?
それに、障害の有無を入れたあたり、評価すべきじゃないの?
侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
「永久に」が残っていれば将来に渡って、の意味も含まれているでしょ。
それより、「国民に」を削って国民以外も視野に置いた点で、在日○○人らには良かった改正じゃないの?
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
自民党案
(人としての尊重等)
第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
その上、「公益及び公の秩序に反しない限り」だ。
公共の福祉、これは論争がある用語らしいね。面倒だからコピペ。
もっと明瞭な用語に変更して誤用や乱用を防いでいるように取れるんだが、具体的に何が「危険思想」なの?
公共の福祉の意味については、古くは争いがあった。尚、現行憲法では「公共の福祉に反する場合」国民の基本的人権(言論・結社・身体の自由等)を制限できるので、極めて重要である。
一元的外在制約説
公共の福祉という用語は、当初は人権の外にある社会全体の利益を指すために用いられ、公共の福祉を理由として人権を制約することが判例上広く認められていた。この説は、もっぱら人権の外部に「公共の福祉」なる概念が存在し、あらゆる人権保障に制約を加えることができる、という意味で「一元的外在制約説」と呼ばれる。
この説は現在では全く支持されていない。なぜならば「公共の福祉」を根拠にいかなる人権も制限可能であるならば、大日本帝国憲法の“法律の留保付き”の人権保障と全く同じ運用が可能になってしまい、個人の自由を最高の保護法益とする日本国憲法とまったく相容れなくなるからである。
二元的内在外在制約説
公共の福祉により制約が認められる人権は、経済的自由権(22条と29条)と社会権に限られ、12条・13条は訓示的規定に過ぎない、とし、右の権利以外は憲法的制約はなく、それぞれの社会・文化関係から自律的に制約されるのみとする説があり、これを「二元的内在外在制約説」と呼ぶ。
一元的内在制約説(通説)
宮澤俊義により主張され現在の通説とされる学説[1]。公共の福祉を人権相互の矛盾を調整するために認められる実質的公平の原理と解する。この意味での「公共の福祉」とは、憲法規定にかかわらず、すべての人権に論理必然的に内在しているとする。この「公共の福祉」原理は、自由権を各人に公平に保証するための制約を根拠付けるためには"必要最小限度の規制"のみを認め(自由国家的公共の福祉)、社会権を実質的に保証するために社会国家的公共の福祉として機能する、とする[2]。
例えば、憲法上保障される表現の自由は、同じく憲法上、幸福追求権の一種として保障されると解されているプライバシーの権利と衝突する。このような事態が生じる場合に両者の調整を図るための概念が「公共の福祉」である。
もっとも、このような理解に対しては、いかなる場合にいかなる程度の人権の制約が可能であるのか明らかでなく、結局「社会全体の利益」と理解した場合と同程度の不明確さが残るのではないかとの批判がある。このため、一元的内在制約説を人権制約に関する具体的な違憲審査基準の規準として準則化したものとして、「比較衡量論」(ad hoc balancing)や「二重の基準」 (double standard) の理論が提唱されている。なお、公共の福祉による人権制約は法令によってのみ行われ、法令による規制が合理的であるかどうかは違憲立法審査によって行われる。法令以外によっての公共の福祉による人権制約は許されない。例えば契約書や約款・就業規則等の規定が公共の福祉の根拠となることはない。なぜなら民法90条「公序良俗に反する契約は無効」とは全く異なる概念であるからである。
>「善良だが愚かな政策」と「邪悪だが賢い政策」の選択肢があるとすれば、常に前者を優先するべきというわけだろ?
>あのさ。増田は延命治療への医療費支出が「善良だが愚かな政策」だと思ってるの? それとも「善良で賢い政策」だと思ってんの?
たぶん善良で賢い政策だと思ってるよ。印象としてはね。
つーか逆だな、延命治療への医療費強制打ち切りについて、もしやるとなれば邪悪な上にバカな政策になると思ってる。
それよりは断然マシだ。
>いや、選挙の結果にしたがうってことさ。社会権については、立法を超えて人権を主張することはできない。通説判例に従うならね。
日本国憲法が基本的人権の尊重を原則としている以上、刑事罰でもないのにその制限を行う事自体憲法違反ではねつけられんじゃないの。
「善良だが愚かな政策」と「邪悪だが賢い政策」の選択肢があるとすれば、常に前者を優先するべきというわけだろ?
俺はそうは思わないが、それはそれでひとつの価値観として尊重するよ。価値観つーかメタ価値か。
お前の問題はさ、「ほぉーら合理性ないじゃん、懐痛むだけじゃん!だからさっさとやめるべき!続ける理由ない!」とか短絡的になっちゃうとこなんだよ。
あのさ。増田は延命治療への医療費支出が「善良だが愚かな政策」だと思ってるの? それとも「善良で賢い政策」だと思ってんの?
そこがさっきからよくわからなかった。だから論拠を聞いたわけ。合理性も論拠だっていうからびっくりしたよ。
いや、選挙の結果にしたがうってことさ。社会権については、立法を超えて人権を主張することはできない。通説判例に従うならね。
は? 何がおかしいの。
まずは人権って言ってるじゃん。人権の上に政策立てるんだから、合理性とか事実は人権に先んじるわけにいかんでしょ。
>延命治療って合理的なの? すればするほど社会が潤うの? さっきから俺が「政策的見地から正当化してくれ」って言ってるのに全然してくれないよね。
「合理性」ってのが何なのかはっきりしないけど、要するにカネとの帳尻が合うか否かだと捉えておく。
すればするほど社会が潤いはしないかな。今の医療技術とビジネスモデルじゃいろいろと厳しかろう。
ただし、だからと言って非合理性故に延命治療をある条件下で打ち切ることには正当性が無い。
というか義務化して打ち切ることこそ、政策的見地から正当化のしようがない。人権見据えてない政策なんて論外。
宙づりの状態。
お前の問題はさ、「ほぉーら合理性ないじゃん、懐痛むだけじゃん!だからさっさとやめるべき!続ける理由ない!つーか俺の財布だし!」とか短絡的になっちゃうとこなんだよ。
>人権は、社会権はプログラム規定または抽象的権利説だから、結局は既成事実に収束するな。
何が言いたいんだかよくわからないけど、つまり延命治療はやるのがスタンダードで当然っていう日本医療の現状に収束するわけかい。
元増田です。
能動的ニヒリズムというニーチェの概念をググりました。多分、ニーチェは大いに不満を抱くと思うが、これまでの俺の理解だと、今回の積極的人間不信の考えはある程度能動的ニヒリズムに近い考えだなって思った。
それで、弱者が生きる方法に関する積極的人間不信に基づいた俺の意見を書きます。
現時点の環境に順応して生きていける能力の度合いが、強さの話と仮定する。
現代社会は、資本主義ゆえ、腕力でなく金の有無が生きていく能力だと考えてる。
この場合のお金は、キャッシュのストックとフローの両方を含めている。
基本的にはお金がなくては、食べ物が取れなくて死ぬから、その能力の低い人を弱者として定義。
ただし、そこには永久的にお金を手に入れられないか、一時的に稼げないかである程度は違いが出る。
永久的とは、お金がない状態がなくなる目処が全くつかず、かつその可能性も低い状態。
人間の行動規準として、苦しみからは逃げるように出来ている。だから、死ぬというある程度高いレベルの苦しみから逃れるため、まずは永久的に金を稼げない状態から逃がれようとする。
しかし、それがいよいよ不可能になると、死ぬこと以上に苦しくなるから、命を絶つか、命を懸けるか、死ぬまで待つという行動を取る。
ただし、ここで一つ問題がある。
食うだけの金を得るための、人間としての基礎的な学習能力があるにも関わらず、何らかの理由で一時的に稼げない人間も死んでも良いかというと、それは違う。
人間は「誰でも」突発的に一時的に稼げなくなる事もあり、そこからは自分の身を守る行動を取る。
そこで仲間という補完し合う関係が生まれる。一時的に何も出来ない状態でも、死から自分を遠ざける手段。
現代社会においては、国や会社が仲間と言える。結局の所、これはわかりやすい積極的人間不信で、それを金とルールで契約を交わすことで、国民や従業員をある程度信頼足る存在にする。
さて、そうした時に一番問題になるのが、一時的と永久的の線引きが人によって曖昧だということ。
職業を例にすると、足がなくなった鳶職の人は金を稼ぐすべを最低でも一時的に失う。人によっては、そこで新しいキャッシュフローを永久に産み出せない。
しかし、プロのデイトレーダーはそれでも一般的に羨む額の金額を稼ぎ続ける。
そうなると、何を持って一時的とするか、永久的とするかの線引きが個人で変わってしまう。
そのため、その線引きは相当低いラインに下げて、基本的には永久的に弱者に近い仲間も補完せざるをえない状況になる。
そこで国家は社会権を組み入れ、弱者を保護する仕組みを作らざるを得ない。
そして、弱者は生き続ける社会の方向に現代社会は進まざるを得ないと考えます。
ここから先の理想の話は、社会学、経営論、国家論から始まって民族学まで発展するもので、
収拾がつかないと思うので、一旦終わりにしたいと思います。
ただ、弱者は果たして遺伝子的に最後には淘汰されないのだろうか?
というと、その可能性は強者と比べるとある程度相関関係はあるだろうと思います。
そのため、数世代という流れでは、結局社会が変わって行かない限りは死滅すると考えています。
積極的人間不信の考えにおいては、とりあえず自分を否定する行動はやめましょう、ということで、
まずは苦しまないように強くなる、程度に生きるようにして、
その後は自分で決めていく(強くなるのも、自由になるのも)のが生きて行く事だろうって思う。
http://togetter.com/li/254721を読んで、ブコメにまとめるには量が多いので、こっちにまとめる
「生活保護受給者に「社会権」を持たせる必要はない」とか普通に若者が言うしTwitter外でも言う人いますからね。私の周りにも・・・。このような「生活保護バッシング」の今を見てると生活保護を受けてる人の就労は極めて難しいと思うよ。逆にこの状況をみると即時就労する気もうせるのも納得。
そういえば、pukumaだかなんだか忘れたけど、どっかの研究員だかが同じような主張してたなあ
誰かが何かの権利を持っていないことを指して、権利を「与えられていない」と言うか、権利を「奪われている」と言うかでニュアンスがだいぶ違ってきますね。
「権利と義務はバーター」っていう言葉、まあ間違ってはいないけど、「社会権や生存権は納税、勤労、教育の義務とバーター」っていうと変だよね
私ね、思うんだけど、生活保護って労働制にしたらイイと思わない? 1日自転車どれだけ片付けたとか、駅などの公衆の掃除とか。 病気で動けない人以外は参加させるって言うのかな。そしたらそこから社会復帰のキッカケになるかも。
これ自体はベーシックインカムあたりの落とし所のひとつにはなりそうだなあと思う。というのも、そういう制度を導入するにあたって、勤労の代わりになるものは何かさせないとたぶん反発する人は絶対に折れないから。
思い方の問題なので、その人間の生い立ちなどにも関係します。 そこから逃げて、痛い現実を受け入れられない甘えが思考にあるのです。
こういう思想って受験とか他のところでも散見されるよね。特にセンター試験を受けずに入ってきた人らに対しての見方は近いんじゃないかな。「俺たちはこんなに睡眠時間削って勉強して試験に臨んでいるのに、なんなんだあいつらは」みたいなね。ちなみに僕は部活して帰ってきてからの一時間ぐらいの勉強時間だけで旧帝入りました。でも今は親のすねかじりだけどね。甘え乙
というか、根性と気合がないと健常者にすらなれないジャパンマジジャップ。
真の健常な日本人ならB29見てから竹槍余裕でしたってことっすよ(16連射)
精神疾患は甘えって言ってる奴は会社で「なんであいつ休みなんだよ!何も進められないじゃねーか!」とリスク管理していない確率90%
甘えって言ってなくても今の企業ってそんなもんじゃないかなあ 僕がバイトしてた小売は夕方バイト一人とかザラ。代わりいないよ。インフルエンザでも出勤しよう
差別されるのは「される側が悪い」論ですな。
いじめられるのは理由がある。レイプされるような服装してるからだ。万引きされるようなザルセキュリティなのが悪い(ぷんすか
その人は病院ですよね?
僕はウナギだ
ってのはあほらしいけど、「日光を浴びてビタミンDを生合成しましょう!」というと違和感がない。違和感はないが、こういう勝手にできるものを「しましょう!」だなんて言われても鼻くそほじりたくしかなりようがない。そういえばこの人福山雅治が「生活保護は甘えじゃない」って言ったら折れるのかなあ。ただイケ壁殴
いるよ。というか100%除菌できないのになんで売り物にしてるんだ!という意見さえあるよ。小売怖いよ。