はてなキーワード: リバタリアニズムとは
一般的には社会民主主義の言い換えだが、古典的自由主義もリベラル
リバタリアニズムとも言うが「元々こっちがリベラルであいつらはリベラルでは全然無い」とリベラルを使い続ける人もいる
共産主義がリベラルかといえば、左派リベラルがなぜ「リベラル」なのかといえば
国による平等の実現無くして自由は無いという意味だから、共産党でさえリベラルに含むことは可能
よってみんながリベラルで間違っちゃいないが
「共産党の言うリベラル」はあくまで「共産党の言うリベラル」であって、他の人が考えるリベラルとは違うと考えなければならない
「表現の自由戦士だが...」も同様で、これもはてな等で使われる「表現の自由戦士」ではなく
海外特にアメリカのインターネットってリバタリアン的な傾向が強くてシルクロードとか作ったりしてるわけじゃん
でもことサイトのモデレーションに関して言えば日本のほうが圧倒的にリバタリアンだよなと
海外のフォーラムってルールがガチガチに決まってて少しでも違反したら書き込み禁止になったりしてかなりオーソリタリアン的で自由がない
一方日本は5chやふたばを初めとして運営者の介入は殆どなされず、荒らしに対しては自分たちでNGするなどして自衛するしかない
海外のフォーラムにありがちな垂直的な権力構造はまず存在せず、ほとんどアナーキーと言ってもいい状態
日本のネットフォーラムは組織構造を作りたがらない、と言ってもいい
海外の場合は国家や体制に対するレジスタンス的な思想が背景にあって、体制からの独立・自由みたいなものを積極的に目指したがる
要するに彼らのリバタリアニズムはあくまで体制に対する姿勢であって、サイト内の管理については別なんだなと
一方で日本のネットにはそういう思想はない。けど結果としてサイト自体はかなりリバタリアン的な運用がなされる傾向にあると思う
(某所で)多少の文字数でもって何らかのharmを論証することは不可能であるという術中に嵌まっている者が多い(必要なのは個別の問題であり、ディティールである)。ただ、それ以上に、「自由」至上主義者に、それ以外の価値との調和を求めても無理な話であろう。
憲法21条だとかFirst Amendmentの話をしたいわけでもないくせに「表現の自由」とラベリングして、無用の混乱を捲き起こしているのが本邦Civil Libertalianの一番の害悪ではないだろうか。「表現の自由」の保護は当該表現が持っている価値に依存することになるし、公権力による規制と私人の活動については分けて考えねばならないという、憲法解釈上当然の話が通じないのはそのせいである。
むしろ、あらゆる私生活における放縦に対して公権力による規制も、言論ないし行為による批判も許容されるべきではないというリバタリアンの観点※が背後にあるのだろう。もっとも、たいていの者はここまでラディカルな想定※※はとっておらず、自己にとって好ましい放縦は規制も批判も許容しない、というものであろうが(そこがまた了解困難なところであり、真面目に取り合うべきではない)。
個人的に疑問を感じるのは、真面目に上記のごとき「自由」論に立てこもっても、逆にその価値を共有しない者を説得することが難しいという点にある。現実の規制廃止論として役に立ってくれないのではないかと思うのだが。リバタリアンにあらざる者に、リバタリアニズムを受け入れろと言っても無理な話である。
※リバタリアンといっても色々な考え方や基底となる価値があることは重々承知の上。a libertalian viewという趣旨。
※※たとえば合衆国のリバタリアンは、シートベルトの着用強制も認めないことがある。「馬鹿やって死ぬのも自由」というわけである。そこまで(本気で)突き詰めている者を説得することは難しい。価値観の対立であり、神々の争いだからである。
散々に語られ尽くしていたように思ってたけど、まだまだ似たような議論が絶えない雰囲気なので、論点整理をしてみたいと思って失敗しました。
ちなみに私は左翼とか右翼とかよくわかんないので特に意見はないです。自由研究みたいなものと思ってください。
まず、今回の意見を分割するとそれぞれの極がきれいに分割できる。
もちろん両方とも極端な例であるし、時には「そもそもテロに該当するものではない」とか「救済されるべき被害は存在しない」とかいった意見もあり得るので、あくまで捨象された極であることは見ての通り。
ここでAとBの意見において、一般に(あくまで自分の私的な視界の範疇ですが)前文については一般に肯定されており、後文においては一般に否定されている。これはおそらく、世間の道徳的直観と一致しているように思う。しかし、その因果(?)関係からは、お互いの前文を肯定することは、相手の前文を否定せざるを得ない側面がある。
(ツイッターやはてブもそうだが、短文でのコミュニケーションでは得てして後文に触れず正しい前文だけで意見を発表できるので、どこまでも正しいままそれ以上の踏み込みをする必要がないのは、脱構築的な気がする。デリダエアプだけど)
特にA→Bの観点からは、被害者救済という観点を取り上げることは、加害者の要求を満たしたという点で、テロリズムを許容することと見なされるものとして反駁されている。
今回このあたりがすごい揉めているように見えたので、一回この論点を詰めてみたい。
まず、テロリズムの要求を肯定することが、テロリズムを有効な手段として世間に認知させることとなる、という点については特段の疑義のないところと考えるので、問題は「テロリズムという不正な手段で、被害者救済という公正な対応を求める」というところにあるように思う(厳密には暗殺事件が被害者救済を求めていたのかとかそういうのは置いておく。世間での認識によって議論を継続する)。
こういうときは、一旦他の例から問題を比較して考えてみたいが、公正な手段で公正な対応を求めるとか、不正な手段で不正な対応を求めるなんてのはもう特に言及する意味もないので、今回は「公正な手段で不正な対応を用いる」ケースというのが何があるかを考えてみたい。
今回は自分の趣味の範囲から引っ張り出すことになるので、不適切な側面があることは否めないが、端的に言えば「ナチス法」の問題が散々に語り尽くされた例として挙げやすい。戦後において「法とは何か」を法実証主義に散々に突きつけ続けた大問題であり、これでもかと議論され続けたから。
例えば、「悪法もまた法なり」としてナチス法に従い、敗戦後には当然罰されることとなったが、裁判例(密告者事件判決とか)からは結構特殊な意見が出た。
例えばラートブルフが「制定法による不法」を克服するために「制定法を超えた法」なんてものを提示することになったり、フラーが法には8つの道徳的原理を含める必要があるといったりといった具合に。
そもそも公正な手段というものは単に物理的法律によって規定されるラインを上回る、なんて言い方をすると、おそらく過言であって適切な読解に基づくものではないと思うが、そういう考え方もあるだろう。テロリズムを許容する、という片方の極の意見には、そうしたものもあるかもしれない。というか革命ってそういうのじゃないの?
もちろん、(新)自然法的な考え方が現行において主要な説ではないことなどもあるが、まあいいや。これ以上進みそうにないから別の話をしよう。
一般に、不正な手段によって被害が生じた者を救済するというのは国家の責務の一つと言って良いと思う(少なくとも被害を防ぐ必要があるということについてくらいは、リバタリアニズムのレベルでも肯定されるように思う)。
その一種の根幹的利益とも呼ぶべき法益の侵害について、それがテロリズムによって判明した場合、その法益侵害に対して触れるべきではない、ということは、なぜ必要となるのか?
まぁ、それは単純で今回のような「不正な手段」によって与えられた課題が「不正な対応」ではなく、「公正な対応(と一般に受け取られているように見える)」であったからだろう。でも、これは実は順序が少しだけおかしい。テロリズムという「不正な手段」で与えられる課題というのは、因果としては常に「不正な対応」になるのではないか? 今までの議論は大概がそこをスルーできてきた(もちろんきちんと対処述べてきたものもあり、その上で議論を重ねている者もいるように見える)、今回の議論はそこが他の価値とバッティングしてしまって、バグが起きているせいで余計にこんがらがっている。
逆に、敢えて今までの議論を全てごちゃまぜにしてしまうなら、おそらく世間一般の意見というのは、先程のA、Bにおける前者を肯定しながらも、双方の後者を否定するというロジックになる。無論、それは矛盾を必然的に孕んでいるが、おそらくそれが一番良く見る意見だった。
まず単純に、道徳的直観から。目的として、双方前文が正しいという直観から、双方を推進すべきであるという素朴な意見。当然ながら前文を進めれば後文を毀損する。それを、時には毀損したままであれ、進めるべきであるということ。所詮理屈なんてものは道徳的直観による結論を推し進めるための道具なんだからと。開き直りと言ってもいい。とはいえこれは、単に世間が「正しい」と「わかってる」ことをを推し進めたいという素朴な意見の衝突による勢いだけの(あるいはリベラルな恣意的妥協による)ものであって、問題解決につながるかは知らない。つまるところ、結論が先にあって、理由があとにあるんだから(クリーレの視線の往復的な、あるいはダンカンケネディの「基準」による法執行的な?)。
まあいいや。
全く関係ない個人的な意見なんだけど、何で他人の意見を否定する時に人格否定をすべきでないってみんな言ってるのにみんな人格否定してるの? やっぱ何か効果があるの?
そういう集権機構の危うさをアメリカ人とか中国人はよく分かってるから
法とかガン無視で(権利者に何か言われたら取り下げはするけど)とにかくネット上にあらゆる刊行物のデジタルデータ集積しておくサイトとか各分野で作ろうとするし
そういうサイバーリバタリアニズム的な発想を結構(おおっぴらにではないけど)支持して協力する人が多いんだよね
そうやって組織化されるから収益性も最低限しか求めないかボランティアやカンパで維持してるイメージ
なるべく健全にみんなでアカシックレコード作ろうとしてる雰囲気すらある
一方で日本では日本人からそういう発想が出たとしても個人レベルでしょっぼい商業系作品の違法upサイト作って広告で派手に稼いでしょっぴかれることを繰り返してて海外とは発想の次元が違うんだよな
日本共産党が民主主義的な変革を通じて、ゆくゆくは社会主義を目指している政党だというのは知っていた。
ソ連や中国の方向性に異を唱え、社会主義の前に、まずは民主主義の確立を目指すという意味では、共産党は憲法の擁護者であったし、自由と議会制民主主義の擁護者としてふるまっていると思っていた。
そういうことを知っていたつもりだったけれども、このたび、異論を許さない態度で党首公選制を訴えた党員を除名処分にするニュースはあまりにも自由や民主主義の考え方と乖離する、という違和感が強い。もちろん、50年代、60年代に、ブントからさまざまな新左翼党派が生まれた経緯を反省すると、党の結束重視、分派につながる動きへの警戒は理解できるものの、なんとなく民主主義を擁護している風の皮をかぶりながら、やっぱり統制好きな人たちなのか?という印象はぬぐえない。
そこで日本共産党綱領を民主主義というキーワードがどういう文脈で使われているかを改めて読み直してみた。
まとめると、以下の特徴が読み取れた。
・民主主義的な変革(革命)は専制政治や覇権主義との闘いである
・変革(革命)の担い手は労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生からなる統一戦線である。
民主主義は設計された所与のプラットフォームというより、【変革】により戦った【主体】が勝ち取る動的な運動と認識されている。その主体が定義されリスト化されており、その【統一】には社会構成員全員が含まれているわけではない、というのも注目に値する。はっきり書いてないが打倒されるべき悪しき存在の匂いがぷんぷんする。昔よりマイルドになったとはいえ、人民が戦って勝ち取るぞ的な歴史観がすごい。
綱領は最後に、現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容として、国の独立・安全保障・外交の分野から憲法と民主主義の分野、そして経済的民主主義の分野で目指すべき方向性を示している。
この中には安保破棄といったおなじみのものから、ジェンダー平等など最近になって共産党自身が認識を改めたものも含まれている。
経済的民主主義の分野においては、労働規制、食糧安保などが強調されているが、自由主義経済の擁護はやはり、というか、やっぱり記載がなかった。
憲法・民主主義の分野の記載で、もうひとつ特徴的だと思ったのは、民主政にとって、ある重要なメカニズムが全く記載されていないことだった。
ははあ、と腑に落ちたところがあった。なぜ民主政にとって、もっとも重要な概念が抜け落ちてしまうのか。
共産党の考え方では、民主主義は、戦いと表現されることから象徴されるように、そもそも主体的に、イデオロギーの進歩として達成されるべきものと認識されており、しかもそれは社会主義革命に至る途上の段階とされる。
民主主義が革命に向かう運動と理解され、この革命の担い手「主体」がキーワードになるんだな、と改めて気が付かされた。運動主体が【統一】されるべきである、という共産党員の自画像が、今回の件で、党外発言を攻撃とまで罵る背景にあるように思えた。
というのは、いわゆる自由主義社会においては、「主体」について全く異なる理解をしている。多様な主体のもとで、社会が進展するという考え方のほうが支配的だからだ。
広い意味でのリベラリズムでは、リバタリアニズムやレッセフェールなど完全放任まで幅があるものの、経済や社会の進歩は、特定のイデオロギーによって達成されるのではなく、優れたものが自然に選択されるという淘汰圧が客観的な社会のダイナミズムとして理解されている。
表現の自由についていえば、特定のイデオロギーの正しさは、歴史が自然に結果を出すものであって、教会や政府が真理として押し付けるものではない、というのがヨーロッパでもアメリカの政治体制でも共通の前提となっている。
そのような認識の下では、多数の目から一見すると正しくない言論や行い、考え方についても、その考えが社会に存在することを排除しないのが美徳となる。
差別的言論しかりであり、正しくないと思えるものが一定程度、社会に蔓延するのを認容する、というのは、長い目でみて、社会が進歩するための副産物と考える。
したがって、雑にまとめれば、自由主義社会の制度設計では、ブルジョアやプロレタリアートといったイデオロギー的な主体の覚醒は必要とされないし、イデオロギー的な主体の覚醒や人民の団結を呼びかけるような政治体制は、資本主義的な搾取構造以上に、暴力装置である、というのがリベラル側からみた共産主義の問題点といったところだろう。自由主義では、イデオロギー的に多様であっても、そして無自覚であっても成立し、発展しうる社会設計を構想しているのに対し、共産主義では、変革の主体が強く意識され、その主体が統一(戦線)されることが変革のキーだと考えられている。
民主という言葉が登場するたびに、それは専制によって奪われてきた歴史であり、覇権主義との闘いであり、それに抗い変革を進める担い手が強調される。
そして、ひとたび担い手に注目するやいなや、担い手の気づきというか覚醒が求められる。革命は待ってても自然には起こらないということだ。
これは共産主義独特の進歩史観だ。ここに、担い手を教育し、同じ価値観やイデオロギーを共有させようとする契機がある。
これは、党首公選制を唱えた者を破門する、という最近みられた動きと表裏一体ということになる。
綱領に言論の自由の記載が一行も存在しないのも納得である。言論の自由のもつ社会のダイナミズムを理解しつつ、イデオロギーを啓もうすることは自己矛盾だ。
というわけで、社会の変革にとって、イデオロギーに共鳴する主体醸成を重視するか、
それとも自由のダイナミズムを重視するか、ここに分かれ道がある、というありきたりな結論に至ってしまったな。
政治体制 | 言論自由 | 進歩史観 | プレイヤー |
---|---|---|---|
自由主義 | どちらかというと放置 | 蓋然的・客観的 | 多様性重視 |
共産主義 | どちらかというと統制的 | 必然的・主体的 | 一体性重視 |
みたいなイメージになった。
しかし、共産党の皆さんに是非、戦後の世界の歴史をもう一度振り返ってもらいたいと思うのは、
言論表現の自由がもたらす社会の不協和音、暴力という副産物をある程度社会が許容できたからこそ、社会運動が大きく広がった。
この運動はもちろん差別と闘う社会変革の主体抜きには語ることはできないが、過激な言論を民主主義の副産物とする社会のプラットフォームがあることによって、運動の価値が昇華された。
暴力性という点では労働権の暴力性(争議権)も社会改革の進展のかぎだ。今では自明性に埋没して疑いもしない労働者という言葉、実は【労働者の概念】とその暴力性は、革命の概念と地続きり、出自はもちろん自由主義ではありえない。
異なる出自をもつ二つの権利、争議権と言論の自由は、社会変革のダイナミズムに伴う暴力という意味では実は共通項だ。
他者危害原則が基本の社会において、なぜ規範からの逸脱という暴力、そして異端の存在を、広く多様性という価値を認めて、一定程度、許容する仕組みを自由主義社会は構想しているのだろうか?同一コミュニティに閉じている限りは進歩も進化もない、という、それはやはり、進化のプロセスに対する直感が働いているといわざるを得ないだろう。
争議権というのは、学校が停止したり電車を全面的に止めたりと経済に甚大な被害を与える超暴力的な行為を時に伴うが、そのような痛みを社会が許容することによって社会が改善することがある。自由主義社会はこうした社会変革に伴う暴力を一定のコントロールに置いたうえで社会の進歩を進めてきたといえる。
ちょっと余談になるが、日本での社会権の受容はGHQ改革に始まって、やや独特の経緯をたどって欧米とは異なる展開となった。
敗戦直後、それまでの動員される勤労者から主体的な労働者へ突然、主体の変換が起きた。その結果としての、労働者階級の過剰な希望、そして暴力に伴う社会的な混乱は、失望と社会秩序維持へのさらなる圧力を生み、やがて国労と新左翼だけが残った。そして秩序を乱す奴イコール、テロリスト、という空気が蔓延した。
日本は国労が新左翼と一緒になって調子に乗りすぎた結果、争議権は骨抜きになった。日本では社会秩序と暴力が明確に対立概念となり、争議はなれ合いとなり、労使協調という言葉に象徴されるように、労使間の秩序模索にすぎなくなった。ただ一方、ヨーロッパではそんなことはなく、社会権の潜在的なラディカリズムが広く受け入れられている。病院だろうが航空機だろうが、誰が困って死のうがストが決行される暴力性が顕在なのだ。なんなら革命で政府を転覆させるぜくらいの勢いで。
ともあれ、自由主義社会が社会主義的な発想でラディカルな主体の考え方を一部取り込んでいる、という動きは、自由主義VS社会主義と単純に括ることができないことを示している。
絵画にトマト投げみたいな環境急進主義しかり。ヨーロッパになぜあれほどラディカリズムがパフォーマンスを繰り広げられる余地があるかというと、そもそも自由主義社会は社会変革の萌芽を言論統制などによって政府の力で摘まない社会設計になっているからだ。彼らはヨーロッパのニュース上ではResistantと表現されてもテロリストと表現されることは少ない。それは「労働者」という主体を仮構したうえでの争議権の意義とパラレルなのだ。
なんなら、「LGBT」しかり、なのだ。共産党は実は、長い間、同性愛者を差別してきた歴史がある。かつては「労働者」という概念が主役で争議権という武器が社会変革上、最重要な部分だったので性的マイノリティに考えが及ばない時代だった。LBGTというイデオロギー的な主体の意義に気が付き、公式に考えを修正したのはつい3年前の2020年のことだという。
https://www.sankei.com/article/20210706-L4MJ2RSGZFLHJLGW2LWKXILBGI/
LGBTの存在に気が付き、こうした修正が可能になるのは、自由主義社会が、ラディカリズムも含めて、多様な言論を放置できる社会だからだ。そのくせ日本共産党がLGBTをあたかも自分たちの応援団かのように仲間に入れようとするのは、労働運動が退潮し、運動の屋台骨が骨粗しょう症のようになってしまった日本の文脈を思い起こすと、図々しいという気もする。皮肉なことにこの記事を執筆した元板橋区議の男性も、党本部から除名処分を受けている。
結局のところ、共産主義においては、社会変革のための主体を重視し、その統一をもとめるがゆえに、主体そのものの議論が決定論的なものになってしまい、議論されにくい。
その結果、主体自身の変革は阻害される、というジレンマというか自己矛盾をはらんでいるといえるだろう。社会を変革したがるくせにね。これはある意味自らの正義の禍々しさに苦悩するヒロイズムのジレンマだ。自由主義社会でダークヒーローのドラマや映画のプロットが西部劇の昔から最近ではジョーカーに至るまで一定の需要があるのは変革の萌芽は必ずしも正義によって見出されるものではないという世界観の違いに由来する。
でも、自由主義社会にいる日本共産党としても社会の変化にも気が付かざるを得ない。
その過程で、弱体化した【労働者】を補完するべく、新興の主体、LBGTグループを統一戦線の一員として、ちゃっかりと追加したりする、ということが起こったりするわけだ。
であれば、社会主義革命を目指す共産党においても、内なるノイズをある程度、コントロールしつつ許容し、社会変革への考え方をより確実にする、という方向性もありうるんじゃないだろうか。その結果、やっぱ内ゲバをコントロールできなくなって、この調子じゃ人を教育して主体構成を前提とした社会主義化って無理じゃね?となって解散するならそれもよしなんだよ。
今回の除名騒動を受けて、党内で議論すべきことは党内で、というのが統治の基本、という主張が共産党から強調されているようだ。
一見正論だが、しかし、俺はちょっと違うと思う。それは、つまり【寄り合い】だ。
なぜなら、そのようなガバナンスの考えこそが組織の硬直化を招来し、日本の労働運動が労使間の秩序模索に堕落した一因であるし、日本的組織風土に風穴があかない最も大きな要因だからだ。寄り合いといえば、かつて日本の農村漁村を調査した宮本常一は、寄り合いによる時間をかけた合議の意思決定を観察し、他者の信頼醸成のプロセスが共同体のしきたりにない、外部社会の新しい事柄の受容のキーとなっていることを見抜いた。宮本はまた、共同体を飛び出し、放浪の旅を経て戻ってくるようなアウトローの存在を外部の知識をもたらす【世間師】として共同体が受け入れる様子も描写している。寄り合い的なコミュニケーションにおいても、異物を内部化するプロセスはあるということだ。
民主主義という視点に戻ると、言論の価値、そして、争議という変革の手法が組織どころか社会に迷惑をかけることを前提に行われることの意味をもう一度振り返ってもらいたい。
複数のMastodonサーバーが存在し、それぞれが異なるレギュレーションを運用しているという時点で拒否感が出るだろう。
何せリベラリストが信じる公正公平という基準的価値観が、その他のMastodonサーバーでは基準的価値観であるとは限らず、しかも価値観の違うその他のMastodonサーバーの書き込みが連合(グローバルタイムライン)で普通に流れてくる。
本来ならばリベラリストだからこそ理解できる概念なのだが、今のリベラリストからするとMastodonの仕組みはリバタリアニズムなので受け入れることが中々難しいのだ。
有識者に言わせればMastodonやActivityPubプロトコルなどの背景はハッカー文化であるし、ハッカー文化が影響受けたのはヒッピー文化であるので、むしろ今の日本のリベラリストよりもMastodonなどのFediverseネットワークSNS界隈はずっとリベラルなのだ。
しかしTwitterを愛用したい今のリベラリストは「Mastodonはリバタリアニズム」「陰謀論者が使ってる」「移行するのは意識が高いやつだけ」などとキャンペーンを打ち、どうにかしてMastodonはリベラルでないという印象を作りたがっている。
自称リベラリストでありながらレギュレーションやルール、価値観が単一でないという状態へ「理解」を示すことができない今のままでは日本のリベラルは嫌われたままなんだろうと思う。
Mastodonへ移行するもしないのも「自由」なので好きにしたら良いとは思うけどMastodonがリベラルでないというレッテル貼りはやめた方が良いぞと個人的に主張したい。
GNU宣言とフリーソフトウェア運動を誤りのおそれなく端的に説明すると「自分自身が所有するコンピュータの制御権を自分自身が掌握する」である。
これを座右の銘と表現しても良いし、スローガンと表現しても良く、理念と表現しても良い。
基礎的でかつ根源的、基準であり最低限この「自分自身が所有するコンピュータの制御権を自分自身が掌握する」から外れたものは何処かに誤りがあると判断している。
ボクは思想家ではなく、GNU宣言とフリーソフトウェア運動という言葉を目にした有識者がお察しの通り情報技術者だ。
思想家ではないので政治や経済に専門家ほどの知識を持てておらず、おそらくはこれまで語れてきた思想の中にGNU宣言とフリーソフトウェア運動を包括する思想概念が存在するであろうけれどボクはその思想概念を知らない。
ボクは思想をよく知らないが、ボク自身がよく知るハッカー文化の文脈で理解しやすいGNU宣言とフリーソフトウェア運動をボクの価値観の基準にしているのだ。
そしてボクはこのGNU宣言とフリーソフトウェア運動をすべての人権にまで拡大して考えている。
つまり「自分自身の制御権を自分自身が掌握する」だ。
この考え方は究極的にアナキズムやリバタリアニズムへ繋がるのだろうけれど、そこまで過激な考えを持っているわけではない。
何故なのか?理由は至極単純なもので「あなたの制御権はあなたが掌握すべき」という価値観で、あなたの主義主張をボクが曲げるわけにはいかず落とし所としてあなたの主義主張を認めて折り合いを付けてるわけだ。
そういった意味では既存のリベラル政党にボクが求めている政党はない。
自由民主党だろうが立憲民主党だろうが国民民主党だろうが日本維新の会、共産党だろうが、ボクが求めるハッカー文化文脈上の「自分自身の制御権を自分自身が掌握する」を党是、理念、綱領にしている政党は存在しない。
はてなやTwitterには情報技術者が多いだろうから意外とボクの言っているハッカー文化文脈上の「自分自身の制御権を自分自身が掌握する」を理解できている人が多いのではないかと思うし、俺も私もそうだよ!と声を上げてくれたら嬉しく思う。
そして同時に賛同する前によく考えてみて欲しい。あなたが特定の政党や現在主流のリベラリズム、いわゆるインターネットのフェミニズムなどを支持しているのならばほぼ100%の率でボクのような考え方に気に食わない部分が数多く出てくると思うよ。
あなたは他者の気に食わない部分を容認しなければならなくなるのだから。
説明読んだけど、リバタリアニズムというのは思考実験の域を永遠に出られないように見える。
ルールそれ自体によるアップデート機能を含んだ最適で属人性を排した統治ルール、
この2つが完成するまでお試しの一歩すら踏み出す事ができないのでは?
「ベーカム」に人格的なものを見いだしているが、リバタリアニズム下における分配システム、それはルール、システムにすぎない。
だから政府側も(究極的には政府も不要になるだろうが)、高額納税者側も、「施しを与えてやってる」みたいな意識は存在しなくなる。享受する側も誰かの顔色を伺う意識はない。そもそも自分がどの立場にいるかの区別も曖昧になっていくだろう。生き方は多様で、社会に寄与する部分、助けられる部分は複雑に入り組んでいるのが自然であるはずだ。本当に自由な環境下で活動する人間は、もっぱら与えるだけ、もっぱら受け取るだけみたいな動き方をしない(健康である限りは)。
ルール至上主義だから、ルールに対してすべてのプレイヤーは対等であり、立場や状況の違いがあるだけだ。すべては移りゆくもので、そこに人間性的な驕り高ぶりを混ぜ込んでしまうような共産主義的な発想は厳格に排していかないといけない。自由主義のマインドを市民が理解した上で維持するは高度な教育が必要で、その練度を維持するのも課題ではある。
勾配や格差があっても、自由と権利が保証されていれば人は満たされる。
トップに立たなければ気がすまないような人ばかりではない。
GAFAに勤めていなければ生きている価値がない、なんて人はそういないし、そんな言説が溢れているわけでもない。
勾配の上にいる者が支配しようとしてくることもあるだろうが、それに囚われない賢さをすべての人間が持っている(ようにするのが前提)。
リバタリアニズム下では、すべての人が、経済的にも社会的にも精神的にも、束縛を受けず生きていけるような自由のリテラシーを備えているべきだし、社会上もそのサポートが当然なされているはずだ。
つまり、技術によって絶対誤らないサイボーグかAIのような理想的リーダー像を創造できる、ということなら、確かにリバタリアニズムの終着点と外見上は同じかもしれない。
けれど、共産主義の土壌からそういうものが作り出せるとは俺は思わない。指導者というアイドル像を掲げている時点で、人間がそれに勝手な期待を寄せて勝手な解釈をしてしまうからだ。人間性はシステム上のノイズだ。
国家が直面するあらゆる経済的・社会的局面に対応する、AIが導いたかのような万能の虎の巻、という万国の宝となるルールブックが作れるとして、そのページを着実に増やしていけるのは、自由主義経済下の国々だけだろう。
その虎の巻をオープンソースにしていくことが世界の均衡のためには重要になるが、そういうことをできるのもリバタリアニズム精神が混じっていないと不可能だ。