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はてなキーワード: リバタリアニズムとは

2024-03-27

anond:20240313155404

リベラル」には多様な意味がある

一般的には社会民主主義の言い換えだが、古典的自由主義リベラル

リバタリアニズムとも言うが「元々こっちがリベラルあいつらはリベラルでは全然無い」とリベラルを使い続ける人もいる

共産主義リベラルかといえば、左派リベラルがなぜ「リベラル」なのかといえば

国による平等の実現無くして自由は無いという意味から共産党でさえリベラルに含むことは可能

よってみんながリベラルで間違っちゃいないが

共産党の言うリベラル」はあくまで「共産党の言うリベラル」であって、他の人が考えるリベラルとは違うと考えなければならない

表現の自由戦士だが...」も同様で、これもはてな等で使われる「表現の自由戦士」ではなく

単に「表現の自由を守るために戦う人」とでも捉えてたら、「表現の自由戦士」と対立する側でさえ

自分達は表現の自由規制しようと考えてない、それどころか自分達こそ表現の自由戦士だ」みたいなこと言いかねない

2023-11-26

anond:20231125160654

自民よりさらに左よりの政策を掲げる、左よりの人を集めようとするからこうなってしまった

そして日本有権者意識は諸外国と比べてリバタリアニズムが強く左派は弱い(三浦瑠麗調べ)

はてぶを見ていても自民支持者も引くような(本人にとって都合のよい)小さな政府を求めるようなコメントは多い

野党アンチ自民を含む野党支持者は自民中道左派であることを素直に認めて、自民よりさらに左よりの政策を無理やり掲げるのを見直すべき

2023-11-07

海外特にアメリカインターネットってリバタリアン的な傾向が強くてシルクロードとか作ったりしてるわけじゃん

でもことサイトモデレーションに関して言えば日本のほうが圧倒的にリバタリアンだよなと

海外フォーラムってルールガチガチに決まってて少しでも違反したら書き込み禁止になったりしてかなりオーソリタリアン的で自由がない

一方日本は5chやふたばを初めとして運営者の介入は殆どなされず、荒らしに対しては自分たちNGするなどして自衛するしかない

海外フォーラムありがちな垂直的な権力構造はまず存在せず、ほとんどアナーキーと言ってもいい状態

日本ネットフォーラム組織構造を作りたがらない、と言ってもいい

海外場合国家体制に対するレジスタンス的な思想が背景にあって、体制から独立自由みたいなもの積極的に目指したがる

要するに彼らのリバタリアニズムあくま体制に対する姿勢であって、サイト内の管理については別なんだなと

一方で日本ネットにはそういう思想はない。けど結果としてサイト自体はかなりリバタリアン的な運用がなされる傾向にあると思う

2023-08-31

リベラルliberalの違い

まず英語版ウィキペディアのliberalism

リバタリアニズム混同するな!)

一方、日本語版ウィキペディアでは「リベラル」の意味は主に3つ

  1. 思想信条言論個人等の自由平等皇帝教皇主義から解放(主に欧州での概念
  2. 福祉政策重視派(主に米国での概念
  3. 経済活動自由主義新自由主義リバタリアニズム規制反対派

日本語ではリベラルリバタリアニズム混同されており、どこの政党リベラルと言えることになる

アンチリバタリアニズム(反新自由主義規制派)とアンチリベラル自由平等反対派)を混同させる点がこのトリックキモであろう

私はリベラルだと言えば、聞いた人が好きなように解釈するから大きな勘違いが生じやすくなる

クルマ」に自転車を含めて「私は車を持っている」と言うぐらいおかし

2023-06-20

リバタリアン自由妥協を求めても無理な話

 (某所で)多少の文字数でもって何らかのharmを論証することは不可能であるという術中に嵌まっている者が多い(必要なのは個別問題であり、ディティーである)。ただ、それ以上に、「自由至上主義者に、それ以外の価値との調和を求めても無理な話であろう。

 憲法21条だとかFirst Amendmentの話をしたいわけでもないくせに「表現の自由」とラベリングして、無用の混乱を捲き起こしているのが本邦Civil Libertalianの一番の害悪ではないだろうか。「表現の自由」の保護は当該表現が持っている価値依存することになるし、公権力による規制私人活動については分けて考えねばならないという、憲法解釈上当然の話が通じないのはそのせいである。

 むしろ、あらゆる私生活における放縦に対して公権力による規制も、言論ないし行為による批判も許容されるべきではないというリバタリアン観点※が背後にあるのだろう。もっとも、たいていの者はここまでラディカルな想定※※はとっておらず、自己にとって好ましい放縦規制批判も許容しない、というものであろうが(そこがまた了解困難なところであり、真面目に取り合うべきではない)。

 個人的に疑問を感じるのは、真面目に上記のごとき自由」論に立てこもっても、逆にその価値を共有しない者を説得することが難しいという点にある。現実規制廃止論として役に立ってくれないのではないかと思うのだが。リバタリアンにあらざる者に、リバタリアニズムを受け入れろと言っても無理な話である

リバタリアンといっても色々な考え方や基底となる価値があることは重々承知の上。a libertalian viewという趣旨

※※たとえば合衆国リバタリアンは、シートベルトの着用強制も認めないことがある。「馬鹿やって死ぬのも自由」というわけである。そこまで(本気で)突き詰めている者を説得することは難しい。価値観の対立であり、神々の争いだからである

2023-04-17

テロ被害者救済の論点整理がやっぱうまくいかなかった

散々に語られ尽くしていたように思ってたけど、まだまだ似たような議論が絶えない雰囲気なので、論点整理をしてみたいと思って失敗しました。

ちなみに私は左翼とか右翼とかよくわかんないので特に意見はないです。自由研究みたいなものと思ってください。

まず、今回の意見を分割するとそれぞれの極がきれいに分割できる。

A:テロリズムは許容すべきでない ので 被害者の救済問題対応すべきでない
B:被害者は救済されるべきである ので テロリズム肯定されるべきである

もちろん両方とも極端な例であるし、時には「そもそもテロに該当するものではない」とか「救済されるべき被害存在しない」とかいった意見もあり得るので、あくまで捨象された極であることは見ての通り。

ここでAとBの意見において、一般に(あくま自分私的な視界の範疇ですが)前文については一般肯定されており、後文においては一般否定されている。これはおそらく、世間道徳的直観と一致しているように思う。しかし、その因果(?)関係からは、お互いの前文を肯定することは、相手の前文を否定せざるを得ない側面がある。

ツイッターはてブもそうだが、短文でのコミュニケーションでは得てして後文に触れず正しい前文だけで意見を発表できるので、どこまでも正しいままそれ以上の踏み込みをする必要がないのは、脱構築的な気がする。デリダエアプだけど)

特にA→Bの観点からは、被害者救済という観点を取り上げることは、加害者要求を満たしたという点で、テロリズムを許容することと見なされるものとして反駁されている。

今回このあたりがすごい揉めているように見えたので、一回この論点を詰めてみたい。

まず、テロリズム要求肯定することが、テロリズム有効手段として世間認知させることとなる、という点については特段の疑義のないところと考えるので、問題は「テロリズムという不正手段で、被害者救済という公正な対応を求める」というところにあるように思う(厳密には暗殺事件被害者救済を求めていたのかとかそういうのは置いておく。世間での認識によって議論継続する)。

こういうときは、一旦他の例から問題比較して考えてみたいが、公正な手段で公正な対応を求めるとか、不正手段不正対応を求めるなんてのはもう特に言及する意味もないので、今回は「公正な手段不正対応を用いる」ケースというのが何があるかを考えてみたい。

今回は自分趣味範囲から引っ張り出すことになるので、不適切な側面があることは否めないが、端的に言えば「ナチス法」の問題が散々に語り尽くされた例として挙げやすい。戦後において「法とは何か」を法実証主義に散々に突きつけ続けた大問題であり、これでもかと議論され続けたから。

例えば、「悪法もまた法なり」としてナチス法に従い、敗戦後には当然罰されることとなったが、裁判例(密告者事件判決とか)から結構特殊意見が出た。

例えばラートブルフが「制定法による不法」を克服するために「制定法を超えた法」なんてもの提示することになったり、フラーが法には8つの道徳的原理を含める必要があるといったりといった具合に。

そもそも公正な手段というものは単に物理法律によって規定されるラインを上回る、なんて言い方をすると、おそらく過言であって適切な読解に基づくものではないと思うが、そういう考え方もあるだろう。テロリズムを許容する、という片方の極の意見には、そうしたものもあるかもしれない。というか革命ってそういうのじゃないの?

もちろん、(新)自然法的な考え方が現行において主要な説ではないことなどもあるが、まあいいや。これ以上進みそうにないから別の話をしよう。

一般に、不正手段によって被害が生じた者を救済するというのは国家の責務の一つと言って良いと思う(少なくとも被害を防ぐ必要があるということについてくらいは、リバタリアニズムレベルでも肯定されるように思う)。

その一種の根幹的利益とも呼ぶべき法益侵害について、それがテロリズムによって判明した場合、その法益侵害に対して触れるべきではない、ということは、なぜ必要となるのか?

まぁ、それは単純で今回のような「不正手段」によって与えられた課題が「不正対応」ではなく、「公正な対応(と一般に受け取られているように見える)」であったからだろう。でも、これは実は順序が少しだけおかしい。テロリズムという「不正手段」で与えられる課題というのは、因果としては常に「不正対応」になるのではないか? 今までの議論は大概がそこをスルーできてきた(もちろんきちんと対処述べてきたものもあり、その上で議論を重ねている者もいるように見える)、今回の議論はそこが他の価値バッティングしてしまって、バグが起きているせいで余計にこんがらがっている。

逆に、敢えて今までの議論を全てごちゃまぜにしてしまうなら、おそらく世間一般意見というのは、先程のA、Bにおける前者を肯定しながらも、双方の後者否定するというロジックになる。無論、それは矛盾必然的に孕んでいるが、おそらくそれが一番良く見る意見だった。

まず単純に、道徳的直観から目的として、双方前文が正しいという直観から、双方を推進すべきであるという素朴な意見。当然ながら前文を進めれば後文を毀損する。それを、時には毀損したままであれ、進めるべきであるということ。所詮理屈なんてもの道徳的直観による結論推し進めるための道具なんだからと。開き直りと言ってもいい。とはいえこれは、単に世間が「正しい」と「わかってる」ことをを推し進めたいという素朴な意見の衝突による勢いだけの(あるいはリベラル恣意的妥協による)ものであって、問題解決につながるかは知らない。つまるところ、結論が先にあって、理由があとにあるんだから(クリーレの視線の往復的な、あるいはダンカンケネディの「基準」による法執行的な?)。

あいいや。

全く関係ない個人的意見なんだけど、何で他人意見否定する時に人格否定をすべきでないってみんな言ってるのにみんな人格否定してるの? やっぱ何か効果があるの?

2023-04-13

anond:20230413162714

そういう集権機構の危うさをアメリカ人とか中国人はよく分かってるから

法とかガン無視で(権利者に何か言われたら取り下げはするけど)とにかくネット上にあらゆる刊行物のデジタルデータ集積しておくサイトとか各分野で作ろうとするし

そういうサイバーリバタリアニズム的な発想を結構(おおっぴらにではないけど)支持して協力する人が多いんだよね

そうやって組織化されるから収益性も最低限しか求めないボランティアカンパで維持してるイメージ

なるべく健全にみんなでアカシックレコード作ろうとしてる雰囲気すらある

一方で日本では日本からそういう発想が出たとしても個人レベルでしょっぼい商業作品違法upサイト作って広告で派手に稼いでしょっぴかれることを繰り返してて海外とは発想の次元が違うんだよな

2023-02-06

共産党民主主義理解について考えた。

日本共産党民主主義的な変革を通じて、ゆくゆくは社会主義を目指している政党だというのは知っていた。

ソ連中国方向性に異を唱え、社会主義の前に、まずは民主主義確立を目指すという意味では、共産党憲法擁護者であったし、自由議会制民主主義擁護者としてふるまっていると思っていた。

そういうことを知っていたつもりだったけれども、このたび、異論を許さない態度で党首公選制を訴えた党員を除名処分にするニュースはあまりにも自由民主主義の考え方と乖離する、という違和感が強い。もちろん、50年代60年代に、ブントからさまざまな新左翼党派が生まれた経緯を反省すると、党の結束重視、分派につながる動きへの警戒は理解できるものの、なんとなく民主主義擁護している風の皮をかぶりながら、やっぱり統制好きな人たちなのか?という印象はぬぐえない。


そこで日本共産党綱領民主主義というキーワードがどういう文脈で使われているかを改めて読み直してみた。

まとめると、以下の特徴が読み取れた。

民主主義的な変革(革命)は専制政治覇権主義との闘いであ

・変革(革命)の担い手労働者、勤労市民、農漁民中小企業家、知識人女性青年学生からなる統一戦線である

民主主義が達成されたのちは社会主義を目指す


民主主義設計された所与のプラットフォームというより、【変革】により戦った【主体】が勝ち取る動的な運動認識されている。その主体定義されリスト化されており、その【統一】には社会構成員全員が含まれているわけではない、というのも注目に値する。はっきり書いてないが打倒されるべき悪しき存在匂いがぷんぷんする。昔よりマイルドになったとはいえ人民が戦って勝ち取るぞ的な歴史観がすごい。

綱領最後に、現在日本社会必要とする民主的改革の主要な内容として、国の独立安全保障外交の分野から憲法民主主義の分野、そして経済的民主主義の分野で目指すべき方向性を示している。

この中には安保破棄といったおなじみのものからジェンダー平等など最近になって共産党自身認識を改めたものも含まれている。

経済的民主主義の分野においては、労働規制食糧安保などが強調されているが、自由主義経済擁護はやはり、というか、やっぱり記載がなかった。

憲法民主主義の分野の記載で、もうひとつ特徴的だと思ったのは、民主政にとって、ある重要メカニズムが全く記載されていないことだった。

それは言論表現の自由記載だ。

ははあ、と腑に落ちたところがあった。なぜ民主政にとって、もっと重要概念が抜け落ちてしまうのか。

共産党の考え方では、民主主義は、戦いと表現されることから象徴されるように、そもそも主体的に、イデオロギー進歩として達成されるべきもの認識されており、しかもそれは社会主義革命に至る途上の段階とされる。

民主主義革命に向かう運動理解され、この革命担い手主体」がキーワードになるんだな、と改めて気が付かされた。運動主体が【統一】されるべきである、という共産党員の自画像が、今回の件で、党外発言攻撃とまで罵る背景にあるように思えた。

というのは、いわゆる自由主義社会においては、「主体」について全く異なる理解をしている。多様な主体のもとで、社会が進展するという考え方のほうが支配的だからだ。

広い意味でのリベラリズムでは、リバタリアニズムレッセフェールなど完全放任まで幅があるものの、経済社会進歩は、特定イデオロギーによって達成されるのではなく、優れたもの自然選択されるという淘汰圧客観的社会ダイナミズムとして理解されている。

表現の自由についていえば、特定イデオロギーの正しさは、歴史自然に結果を出すものであって、教会政府が真理として押し付けものではない、というのがヨーロッパでもアメリカ政治体制でも共通の前提となっている。

そのような認識の下では、多数の目から一見すると正しくない言論や行い、考え方についても、その考えが社会存在することを排除しないのが美徳となる。

差別的言論しかりであり、正しくないと思えるもの一定程度、社会蔓延するのを認容する、というのは、長い目でみて、社会進歩するための副産物と考える。

したがって、雑にまとめれば、自由主義社会制度設計では、ブルジョアプロレタリアートといったイデオロギー的な主体覚醒必要とされないし、イデオロギー的な主体覚醒人民の団結を呼びかけるような政治体制は、資本主義的な搾取構造以上に、暴力装置である、というのがリベラルからみた共産主義問題点といったところだろう。自由主義では、イデオロギー的に多様であっても、そして無自覚であっても成立し、発展しうる社会設計を構想しているのに対し、共産主義では、変革の主体が強く意識され、その主体統一戦線)されることが変革のキーだと考えられている。

翻って、共産党綱領を拾い読みすると、文脈としては

民主という言葉が登場するたびに、それは専制によって奪われてきた歴史であり、覇権主義との闘いであり、それに抗い変革を進める担い手が強調される。

そして、ひとたび担い手に注目するやいなや、担い手気づきというか覚醒が求められる。革命は待ってても自然には起こらないということだ。

これは共産主義独特の進歩史観だ。ここに、担い手教育し、同じ価値観イデオロギーを共有させようとする契機がある。

これは、党首公選制を唱えた者を破門する、という最近みられた動きと表裏一体ということになる。

綱領言論自由記載が一行も存在しないのも納得である言論自由もつ社会ダイナミズム理解しつつ、イデオロギーを啓もうすることは自己矛盾だ。

というわけで、社会の変革にとって、イデオロギー共鳴する主体醸成を重視するか、

それとも自由ダイナミズムを重視するか、ここに分かれ道がある、というありきたりな結論に至ってしまったな。

政治体制言論自由進歩史観プレイヤー
自由主義どちらかというと放置蓋然的客観的多様性重視
共産主義どちらかというと統制的必然的主体一体性重視

みたいなイメージになった。


しかし、共産党の皆さんに是非、戦後世界歴史をもう一度振り返ってもらいたいと思うのは、

例えば、黒人差別撤廃をめぐるダイナミズム

言論表現の自由がもたらす社会不協和音暴力という副産物をある程度社会が許容できたからこそ、社会運動が大きく広がった。

この運動はもちろん差別と闘う社会変革の主体抜きには語ることはできないが、過激言論民主主義副産物とする社会プラットフォームがあることによって、運動価値昇華された。

暴力性という点では労働権の暴力性(争議権)も社会改革の進展のかぎだ。今では自明性に埋没して疑いもしない労働者という言葉、実は【労働者概念】とその暴力性は、革命概念と地続きり、出自はもちろん自由主義ではありえない。

異なる出自もつつの権利争議権言論自由は、社会変革のダイナミズムに伴う暴力という意味では実は共通項だ。

他者危害原則が基本の社会において、なぜ規範からの逸脱という暴力、そして異端存在を、広く多様性という価値を認めて、一定程度、許容する仕組みを自由主義社会は構想しているのだろうか?同一コミュニティに閉じている限りは進歩進化もない、という、それはやはり、進化プロセスに対する直感が働いているといわざるを得ないだろう。

争議権というのは、学校が停止したり電車全面的に止めたりと経済に甚大な被害を与える超暴力的な行為を時に伴うが、そのような痛みを社会が許容することによって社会改善することがある。自由主義社会はこうした社会変革に伴う暴力一定コントロールに置いたうえで社会進歩を進めてきたといえる。

ちょっと余談になるが、日本での社会権の受容はGHQ改革に始まって、やや独特の経緯をたどって欧米とは異なる展開となった。

敗戦直後、それまでの動員される勤労者から主体的な労働者へ突然、主体の変換が起きた。その結果としての、労働者階級の過剰な希望、そして暴力に伴う社会的な混乱は、失望社会秩序維持へのさらなる圧力を生み、やがて国労新左翼けが残った。そして秩序を乱す奴イコールテロリスト、という空気蔓延した。

日本国労新左翼と一緒になって調子に乗りすぎた結果、争議権は骨抜きになった。日本では社会秩序と暴力が明確に対立概念となり、争議はなれ合いとなり、労使協調という言葉象徴されるように、労使間の秩序模索にすぎなくなった。ただ一方、ヨーロッパではそんなことはなく、社会権の潜在的なラディカリズムが広く受け入れられている。病院だろうが航空機だろうが、誰が困って死のうがストが決行される暴力性が顕在なのだ。なんなら革命政府転覆させるぜくらいの勢いで。

ともあれ、自由主義社会社会主義的な発想でラディカルな主体の考え方を一部取り込んでいる、という動きは、自由主義VS社会主義と単純に括ることができないことを示している。

絵画トマト投げみたいな環境急進主義しかり。ヨーロッパになぜあれほどラディカリズムがパフォーマンスを繰り広げられる余地があるかというと、そもそも自由主義社会社会変革の萌芽を言論統制などによって政府の力で摘まない社会設計になっているからだ。彼らはヨーロッパニュース上ではResistantと表現されてもテロリスト表現されることは少ない。それは「労働者」という主体を仮構したうえでの争議権の意義とパラレルなのだ

なんなら、「LGBTしかり、なのだ共産党は実は、長い間、同性愛者を差別してきた歴史がある。かつては「労働者」という概念が主役で争議権という武器社会変革上、最重要な部分だったので性的マイノリティに考えが及ばない時代だった。LBGTというイデオロギー的な主体の意義に気が付き、公式に考えを修正したのはつい3年前の2020年のことだという。

https://www.sankei.com/article/20210706-L4MJ2RSGZFLHJLGW2LWKXILBGI/

LGBT存在に気が付き、こうした修正可能になるのは、自由主義社会が、ラディカリズムも含めて、多様な言論放置できる社会からだ。そのくせ日本共産党LGBTをあたか自分たち応援団かのように仲間に入れようとするのは、労働運動が退潮し、運動屋台骨が骨粗しょう症のようになってしまった日本文脈を思い起こすと、図々しいという気もする。皮肉なことにこの記事執筆した元板橋区議の男性も、党本部から除名処分を受けている。

結局のところ、共産主義においては、社会変革のための主体を重視し、その統一をもとめるがゆえに、主体のもの議論決定論的なものになってしまい、議論されにくい。

その結果、主体自身の変革は阻害される、というジレンマというか自己矛盾はらんでいるといえるだろう。社会を変革したがるくせにね。これはある意味自らの正義の禍々しさに苦悩するヒロイズムジレンマだ。自由主義社会ダークヒーロードラマ映画プロット西部劇の昔から最近ではジョーカーに至るまで一定需要があるのは変革の萌芽は必ずしも正義によって見出されるものではないという世界観の違いに由来する。

でも、自由主義社会にいる日本共産党としても社会の変化にも気が付かざるを得ない。

その過程で、弱体化した【労働者】を補完するべく、新興の主体、LBGTグループ統一戦線の一員として、ちゃっかりと追加したりする、ということが起こったりするわけだ。

変革主体の変遷は、共産党自画像の変遷でもある。

であれば、社会主義革命を目指す共産党においても、内なるノイズをある程度、コントロールしつつ許容し、社会変革への考え方をより確実にする、という方向性もありうるんじゃないだろうか。その結果、やっぱ内ゲバコントロールできなくなって、この調子じゃ人を教育して主体構成を前提とした社会主義化って無理じゃね?となって解散するならそれもよしなんだよ。


今回の除名騒動を受けて、党内で議論すべきことは党内で、というのが統治の基本、という主張が共産党から強調されているようだ。

一見正論だが、しかし、俺はちょっと違うと思う。それは、つまり寄り合い】だ。

なぜなら、そのようなガバナンスの考えこそが組織の硬直化を招来し、日本労働運動が労使間の秩序模索堕落した一因であるし、日本組織風土に風穴があかない最も大きな要因だからだ。寄り合いといえば、かつて日本農村漁村調査した宮本常一は、寄り合いによる時間をかけた合議の意思決定を観察し、他者の信頼醸成のプロセス共同体のしきたりにない、外部社会の新しい事柄の受容のキーとなっていることを見抜いた。宮本はまた、共同体を飛び出し、放浪の旅を経て戻ってくるようなアウトロー存在を外部の知識をもたらす【世間師】として共同体が受け入れる様子も描写している。寄り合い的なコミュニケーションにおいても、異物を内部化するプロセスはあるということだ。

民主主義という視点に戻ると、言論価値、そして、争議という変革の手法組織どころか社会迷惑をかけることを前提に行われることの意味をもう一度振り返ってもらいたい。

そうであれば、組織内の問題に対しても、規範からの逸脱に対する寛容度はかわってくるのではないかな。

以上が、今回の件を機に、日本共産党綱領を読み直した感想だ。

2023-01-29

小さな政府を支持するようなブコメに大量のスターが集まるとかはてブって本当に変わったんだなって

はてなーはもともとアナキズム多そうだし、日本人リバタリアニズムを支持する人が多いらしいけれど、それにしたって小さな政府を上から1番か2番めくらいに星を集めるとは

前々回の衆院選から自民より左派政策は支持されないって言われていたけど、はてブくらいね

2022-11-21

今のリベラリストMastodon理解できないだろうと思わざる得ない

複数Mastodonサーバー存在し、それぞれが異なるレギュレーション運用しているという時点で拒否感が出るだろう。
何せリベラリストが信じる公正公平という基準価値観が、その他のMastodonサーバーでは基準価値観であるとは限らず、しか価値観の違うその他のMastodonサーバー書き込み連合(グローバルタイムライン)で普通に流れてくる。

本来ならばリベラリストからこそ理解できる概念なのだが、今のリベラリストからするとMastodonの仕組みはリバタリアニズムなので受け入れることが中々難しいのだ。
有識者に言わせればMastodonやActivityPubプロトコルなどの背景はハッカー文化であるし、ハッカー文化が影響受けたのはヒッピー文化であるので、むしろ今の日本リベラリストよりもMastodonなどのFediverseネットワークSNS界隈はずっとリベラルなのだ
しかTwitterを愛用したい今のリベラリストは「Mastodonリバタリアニズム」「陰謀論者が使ってる」「移行するのは意識が高いやつだけ」などとキャンペーンを打ち、どうにかしてMastodonリベラルでないという印象を作りたがっている。

自称リベラリストでありながらレギュレーションルール価値観単一でないという状態へ「理解」を示すことができない今のままでは日本リベラルは嫌われたままなんだろうと思う。
Mastodonへ移行するもしないのも「自由」なので好きにしたら良いとは思うけどMastodonリベラルでないというレッテル貼りはやめた方が良いぞと個人的に主張したい。

2022-07-12

ボクのリベラルの根源はGNU宣言フリーソフトウェア運動

GNU宣言フリーソフトウェア運動を誤りのおそれなく端的に説明すると自分自身が所有するコンピュータ制御権を自分自身が掌握する」である
これを座右の銘表現しても良いし、スローガン表現しても良く、理念表現しても良い。
基礎的でかつ根源的、基準であり最低限この「自分自身が所有するコンピュータ制御権を自分自身が掌握する」から外れたものは何処かに誤りがあると判断している。

ボクは思想家ではなく、GNU宣言フリーソフトウェア運動という言葉を目にした有識者がお察しの通り情報技術者だ。
思想家ではないので政治経済専門家ほどの知識を持てておらず、おそらくはこれまで語れてきた思想の中にGNU宣言フリーソフトウェア運動を包括する思想概念存在するであろうけれどボクはその思想概念を知らない。
ボクは思想をよく知らないが、ボク自身がよく知るハッカー文化文脈理解やすGNU宣言フリーソフトウェア運動をボクの価値観基準にしているのだ。

そしてボクはこのGNU宣言フリーソフトウェア運動をすべての人権にまで拡大して考えている。
まり自分自身制御権を自分自身が掌握する」だ。

この考え方は究極的にアナキズムリバタリアニズムへ繋がるのだろうけれど、そこまで過激な考えを持っているわけではない。
何故なのか?理由は至極単純なもので「あなた制御権はあなたが掌握すべき」という価値観で、あなた主義主張をボクが曲げるわけにはいかず落とし所としてあなた主義主張を認めて折り合いを付けてるわけだ。

そういった意味では既存リベラル政党にボクが求めている政党はない。
自由民主党だろうが立憲民主党だろうが国民民主党だろうが日本維新の会共産党だろうが、ボクが求めるハッカー文化文脈上の「自分自身制御権を自分自身が掌握する」を党是、理念綱領にしている政党存在しない。

はてなTwitterには情報技術者が多いだろうから意外とボクの言っているハッカー文化文脈上の「自分自身制御権を自分自身が掌握する」を理解できている人が多いのではないかと思うし、俺も私もそうだよ!と声を上げてくれたら嬉しく思う。
そして同時に賛同する前によく考えてみて欲しい。あなた特定政党現在主流のリベラリズム、いわゆるインターネットフェミニズムなどを支持しているのならばほぼ100%の率でボクのような考え方に気に食わない部分が数多く出てくると思うよ。
あなた他者の気に食わない部分を容認しなければならなくなるのだから

2022-07-07

NHK党って基本的リバタリアニズムなんだな

今回選挙どっとこむで公約比較してて初めて気づいたんだが

NHK党って基本的リバタリアニズムが徹底してるんだよな

感染症対策に国が出張ることは拒否してより厚生労働省による規制を緩和しろと主張したり

高等教育無償化は耳障りがいいからたいていの党が賛成してるなかで

大学自由競争を阻害するから真正から反対するし

同性婚に反対してるかと思いきや小手先でなく憲法改正しろと主張するし

少しだけ見直し

まあただ経済的自由についても思想は伝わってくるが、

リバタリアニズムのもう一つのである個人的自由については何も伝わってこないので

リバタリアニズムを都合よく利用してるだけなんだろうな

2022-07-02

anond:20220702140822

libertarianもliberalもbなのでヴにはならない

libertyは解放、とくに~から解放(消極的自由)を社会的に実現していこうという発想だ

~する自由であるfreedom(積極的自由)とは異なるし

リバタリアンと言われる学者たちは別に自由放任主義者ではない、独裁的な人間が好む個人裁量による(時に不透明な)制裁ではなく計算しつくされたルールによる規制重要性を説く人々だということからも分かるだろう

リバタリアニズム自由放任主義というのは、愚かと見做した他人を抑圧・攻撃することでコミュニティ粛清していく思想を抱えた人々による悪意的なレッテルの側面が強い

2022-06-17

anond:20220617101600

何度も言うけどリベラル自由より上に規律を置くから

リベラルを自認する当事者が「自由を最重視する思想リベラリズムではなくリバタリアニズム」って説明していたので既に広く合意

2022-03-17

みらい選挙プロジェクト三春充希ってリバタリアンだったんだな

今までリベラルの人とか、まぁ極端に振って共産主義の人って思ってたけど極左極左リバタリアンだったのか

しろリベラルとか共産主義者の皮を被ってリバタリアニズム布教するのが狙いだったとは気付かなかった

2022-03-11

anond:20220311035811

ブクマカ基本的竹中平蔵系の思想で、リバタリアニズムだよ。

とにかく規制を緩和して、子供たちを自由にさせてあげたい。

大人たちがくだらないルールで縛る必要はないし、髪型威圧感や華やかさを表現するのも個人自由

2021-09-29

anond:20210929144434

説明読んだけど、リバタリアニズムというのは思考実験の域を永遠に出られないように見える。

ルールそれ自体によるアップデート機能を含んだ最適で属人性を排した統治ルール

それをあらゆる恣意を排して運用可能システム

この2つが完成するまでお試しの一歩すら踏み出す事ができないのでは?

信じて模索し続ける行為自体尊いが、そんな都合のいいルールがあるというのは仮定に過ぎないし、

世界適用しようとする事は神様を探して世界中歩き回るようなもので、半ば宗教じみて聞こえる。

anond:20210929142746

まずその「ベーカム」の認識が間違っている。

「ベーカム」に人格的なものを見いだしているが、リバタリアニズム下における分配システム、それはルールシステムにすぎない。

から政府側も(究極的には政府不要になるだろうが)、高額納税者側も、「施しを与えてやってる」みたいな意識存在しなくなる。享受する側も誰かの顔色を伺う意識はない。そもそも自分がどの立場いるか区別曖昧になっていくだろう。生き方は多様で、社会寄与する部分、助けられる部分は複雑に入り組んでいるのが自然であるはずだ。本当に自由環境下で活動する人間は、もっぱら与えるだけ、もっぱら受け取るだけみたいな動き方をしない(健康である限りは)。

ルール至上主義からルールに対してすべてのプレイヤーは対等であり、立場や状況の違いがあるだけだ。すべては移りゆくもので、そこに人間性的な驕り高ぶりを混ぜ込んでしまうような共産主義的な発想は厳格に排していかないといけない。自由主義のマインド市民理解した上で維持するは高度な教育必要で、その練度を維持するのも課題ではある。

anond:20210929142021

勾配があることの何が問題なのかが分からない。

勾配や格差があっても、自由権利保証されていれば人は満たされる。

トップに立たなければ気がすまないような人ばかりではない。

GAFAに勤めていなければ生きている価値がない、なんて人はそういないし、そんな言説が溢れているわけでもない。

勾配の上にいる者が支配しようとしてくることもあるだろうが、それに囚われない賢さをすべての人間が持っている(ようにするのが前提)。

リバタリアニズム下では、すべての人が、経済的にも社会的にも精神的にも、束縛を受けず生きていけるような自由リテラシーを備えているべきだし、社会上もそのサポートが当然なされているはずだ。

anond:20210929140951

まり技術によって絶対誤らないサイボーグAIのような理想的リーダー像を創造できる、ということなら、確かにリバタリアニズムの終着点と外見上は同じかもしれない。

けれど、共産主義の土壌からそういうものが作り出せるとは俺は思わない。指導者というアイドル像を掲げている時点で、人間がそれに勝手な期待を寄せて勝手解釈をしてしまうからだ。人間性はシステム上のノイズだ。

そのせいでビルドアンドスクラップの繰り返しになるだろう。

国家が直面するあらゆる経済的社会的局面対応する、AIが導いたかのような万能の虎の巻、という万国の宝となるルールブックが作れるとして、そのページを着実に増やしていけるのは、自由主義経済下の国々だけだろう。

その虎の巻をオープンソースにしていくことが世界の均衡のためには重要になるが、そういうことをできるのもリバタリアニズム精神が混じっていないと不可能だ。

anond:20210929135946

人間は必ず誤る。だから善悪を決める裁量を少数の人間にゆだねてはいけない。

リバタリアニズムは、フェイルセーフシステムを探求していく思想

共産主義は、「俺に任せろ」の思想

どちらがモダンなのかは明らか。

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