はてなキーワード: 個人的見解とは
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なぜ有機は機械を使ってはいけないという発想になったのかわからないが、こんな誤解をする人はさすがに少数だろう。
僕は慣行農業でやっている。慣行農業とは、有機農業以外と考えてもらっていい。
では有機農業とは何かというと、化学合成農薬と化学肥料を使わない農法のことだ。ポイントは化学という言葉。化学合成とは自然界に存在しないということで、逆を言えば自然界にあるものなら農薬でも肥料でも使っていい。具体的には消石灰のような資材や、農薬としては塩化銅や微生物農薬としてバチルスチューリンゲンシス剤などがある。マルチのようなものは合成物でもよい。土にいれなければよいということなのだろう。有機には厳しい認証制度があるので、この認証を取らない限り有機農作物を名乗ることは許されない…はずだ。たしか。
僕の個人的見解だが、有機農業というのは肥料農薬を使いすぎた慣行農法へのアンチテーゼなんだと思う。四大公害とか出てて、沈黙の春とか書かれて、ベトちゃんドクちゃんとかそんな時代の話。
僕の近所で有機農業をやっていて名前が思い出せるのは農家は10名くらいだろうか。その範囲で見る限り、有機を稼げるからという理由で選択している人は一人もいない。共通しているのは、みんな有機農業こそが正しい農業だと信じているということだ。正しいというのは主観であって、それはつまり信念を持って農業をやっているということだ。それは意味がある素晴らしいことで、ほんと尊敬する。
稼ぐという点だけなら、有機より慣行の方が良い。そういう理由で慣行に転向した人もいる。これも一つの選択だ、全然悪いことじゃない。僕らが離農するということは、農地の放棄を意味する。無理してどうにもならなくなって放棄するぐらいなら、とりあえず稼ぐというのは重要なことだ。その土地の生まれであればもちろん、移住だろうと農業を長くやっていると、金銭とかではなく守るべきものが生まれる。簡単に廃業しますってわけにはいかない。
慣行農業であっても、有機の技術から学ぶことは多い。有機農業は基本的には土を大切にする農業だ。植物の土台はやはり土で、悪い土は肥料成分などの化学性を改善する努力ではどうしようもないことがある。柔らかく保肥力があり、水はけが良く水もちがいい土。その視点は有機農業にこそある。有機物が全くない土というのはただの鉱物だからだ。
有機農業の難しさは、その理論が本当に信用できるかいかがわしいということだ。でも科学的根拠なんて農家に求めるものじゃない、彼らは研究者ではないし現場では科学はいつも現実の後追いでしかない。科学的に否定されてるなら間違いは明確だが、否定も肯定もされておらず正しそうという農家の経験則の域を出ないというものが多い。僕らはそんな中から手探りで、正しいと思える技術を選択していく。どうだろう、こんなのAIが出てきても絶対取って代わられることはない、僕はそう信じている。
閑話休題。もう一つ、何かと敵視される農薬についてわかって欲しいのは、慣行農業であっても農薬はできるだけ使いたくないということだ。金はかかるし、手間もかかる。毒性はほとんど否定されていても、やはり体に良いものではない。みんな必要最小限にしているというのは理解して欲しい。それに心配するほど毒性が強いなら農家なんかみんなもう死んでるよ。僕らが1番浴びてるんだから。
1動画の収入数万円のために今後50年の仕事を干されることになるだろうね
思想じたいがNG。歴史的にとか科学的にとかどうでもいい。人間としてNG。
優秀クラスとフツークラス、さいごに知恵おくれっぽい扱いされるクラスがあった。小学校のときに。いまはしらんけど。
知恵おくれっぽい扱いされたクラスで、図工や体育がめっちゃ得意な子がおった。
彼らは小学校ではバカにされてたけど、中学高校で芸術やスポーツ系にいって専門分野でそこそこ成功したよ。
中には経営者になって何人も人を雇ってるのもおる。
もしローマ人だけに特権をゆるしていたらとっくにほろんでいたろう。
障碍者を虐待していた小山田圭吾に五輪の音楽を担当させて、政府がそれを承認し、NHKがそれを放送するわけですから、誰にも迷惑かけてない大麻使用の芸能人すべてを復権してくれないとなー。
=引用ここまで=
今回は小山田圭吾の件で一丁噛みしている町山智浩ですが、大麻使用芸能人を擁護する程度に留まるだなんて、パトリック・マシアスにパワハラしていた頃の町山智浩にタイム電話で聞かせたら「オメエのtweetは退屈なンだよ! 一般人がオメエに訊きてえことはソコじゃねえだろ!」と怒鳴られるのではないでしょうか?
では、一般人が町山智浩に聞きたいこととは何でしょうか? それは、小山田圭吾のイジメ自慢インタビューを擁護する人間たちが口にする「90年代にはワル自慢、悪趣味自慢を許す鬼畜系ムーブメントとでも呼ぶべき風潮が存在した」という主旨の主張に関してです。
この鬼畜系ムーブメントの有無については、90年代当時に物心ついていた年齢の人たち同士でも、認識には差と言うかグラデーションがあるようです。ムーブメントそのものの有無について、私の個人的な見解を述べると「有った」という人の記憶も「無かった」という人の記憶も、半分づつ当たっていると思います。「有った」と記憶している人は、何らかの形でその狂った風潮とその産物に触れた人間で、「無かった」と記憶している人は、そのような狂った風潮に触れなかった人間というだけのことです。
個人的見解としては、鬼畜系ムーブメントは「限られた領域の、少数の人間による、小規模の狂ったムーブメント」と言っても構わないと思います。だから、あんなムーブメントに触れたからと言って別に偉くも何ともないですし、むしろ「無かった」と記憶している、鬼畜系ムーブメントに触れなかった人の方が正常なのですから安心して下さい。
こういう鬼畜系ムーブメントに触れたことによって「自分は他の人間とは違う!」と、己が偉くなったと勘違いした人間が何をするか知っていますか?一例を挙げると、何か「切り株映画はセカイのシンジツを描いている!」とか馬鹿なことを言うわけです。耳(目?)にタコが出来るほど聞いた、この"切り株映画讃歌"の決り文句を此処で持ち出したのは、別に牽強付会ではありません。
例えば、90年代の鬼畜系ムーブメント、悪趣味系アンダーグラウンド文化を象徴するような出版物として『危ない1号』という鬼畜系ムックがあります(このムックは、90年代の半ばから終わりにかけて発行)。その執筆陣の中には、町山智浩と柳下毅一郎の名前を確認できます。
また別の例を挙げると、一部の精神疾患罹患者が示す"電波"妄想及びそれに翻弄される彼らを、特殊漫画家・根本敬が「電波系」と呼び始め、面白コンテンツとして消費するような悪趣味な風潮を生み出したことは有名ですが、この「電波系」を面白がる風潮に乗っかって雑誌『宝島』『宝島30』でも記事を掲載したり、別冊宝島を出したりしていました。その頃、彼らの言う「電波系」に該当する人が店主として経営する喫茶店に行って、店主が示す奇妙な言動などを陰で嗤ったり面白おかしく記事にしていた人間の一人に、町山智浩がいます。宝島における根本敬の担当編集者は、町山智浩でした。また、根本敬のツテで「電波系鬼畜ライター・村崎百郎」という悪趣味なギミックによるデビューを果たした編集者・ライターの黒田一郎は、ペヨトル工房時代から柳下毅一郎の友人でした。蛇足ですが、根本敬は、嫌韓/嘲韓ムーブメントを生み出した張本人の一人でもあると私は思います。
ここで幾つか例に挙げたのは一部に過ぎませんが、90年代の鬼畜系、悪趣味系の系譜を辿れば、その中に旧体制『映画秘宝』の源流の一つが有ることは確かです。あるいは、悪趣味系のムーブメントを作り出したのと同じ人間たちが生んだものこそが、旧体制『映画秘宝』と言っても過言ではありません。
さて、今回ようやく小山田圭吾は断罪の火刑場に引かれていく羽目になった訳ですが、爆笑問題の太田をはじめ有象無象のギョウカイジンは、小山田圭吾、Rockin' on、Quick Japanを擁護する為に「90年代には悪趣味系が流行ってたという、時代の空気も考慮しないと」などと言っています。
これらの擁護を見た時に私が感じたのは、関東大震災当時の朝鮮人虐殺事件や、戦争当時の性暴力や虐殺のことについて「当時の時代の空気を考慮しないと」と言う人間を見た時に似た気持ちです。
百歩譲って、90年代当時「一般人」だった人間が言うならば、たとえ許容は出来なくても、まだ理解が可能です。90年代後半からはインターネットが少しずつ一般人に浸透し始めていたとはいえ、Twitterのような高い情報拡散性と手軽さを兼ね備えたSNSの普及以前には、まだ名も無き一般人が社会的な流行や風潮を生み出すレベルの情報発信を行うことは、事実上の不可能に近かったからです。また、虐殺事件などにおいて、武装した多数の暴徒を目の前にして怖じ気づいた一般人が、独りで立ち向かうことができなかったと告白・懺悔するのも、これもまだ理解は可能です。
しかし「90年代鬼畜系ムーブメントの流行」を根拠にして、小山田圭吾を擁護しているギョウカイジンの多くは、既に90年代にメディア活動、芸能活動をし始めていて「ムーブメントを作り出す、或いは、影響を与えることが可能だった立場の人間」ではないですか。「オレたちギョウカイジンは、お前ら一般人と違って、世間を動かせるんだよ!」という考えの持ち主だったはずです。例えば、爆笑問題の太田は、当時から過激な発言が売りだったのだから、得意の毒舌で小山田圭吾を「アイツ、イジメ自慢して格好悪いな!」とか攻撃することも、やろうと思えばやれたはずです。反権力的な言動がウリのミュージシャンや文化人も同様です。なのに、それをやらなかったのは、結局は彼ら自身の打算や保身が理由でしょう。ならば彼らは「90年代の時代の空気や風潮」のせいにするのではなく、せめて己自身の問題として「打算や保身、我が身かわいさから、自分という個人は、小山田圭吾の蛮行を批判せずに見過ごした」とハッキリ言うべきなのです。先に虐殺に立ち向かえなかった一般人を例に出しましたが、90年代当時のメディア関係者や芸能人が「当時の空気」と言い訳するのは、関東大震災当時に「不逞朝鮮人」などと世間を煽っていた官憲の人間が、いざ朝鮮人虐殺が起きたことの批判を受けたら「時代の空気が」と言い出すのと同じぐらいには無責任且つ卑劣だと、私は思います。
更に、小山田圭吾を擁護する人間たちを卑劣に感じるのは、彼らが小山田圭吾のしていることを勝手に「過去の話」にしようとしているからです。私は「していること」と書きました。そうです。あの暴力事件を犯して以来、そして雑誌インタビューによって一般人に広く認知されて以来、小山田圭吾は被害者に対して謝罪も償いもせず、謝罪や反省を促す一部のファンからの真摯な声さえも無視し、逃亡し続けているのですから、これは「したこと」ではなく「していること」つまり「終わってしまった過去の話」ではなく「継続している現在の話」です。小山田圭吾の盟友である中原昌也も、小山田圭吾のしていることを「あの頃は」と「終わってしまった過去の話」にしようと画策した卑劣な人間の一人です。渋谷系って本当にダサいですね。石原慎太郎を罵倒することは出来ても、オトモダチのギョウカイジンの悪さは批判出来ない、そんな自称"反権力"作家は、毎朝鏡を見て恥ずかしくなったりしないんでしょうか。
長くなったので、今回は一旦ここまでにします。
ずっと君に伝えたかったことがある。どうか俺たちも、ラップでバトルをさせてくれないだろうか。
このことを言いたくて言いたくてずっとモヤモヤしていたので、今日は匿名で吐き出せる場所をお借りして、ヒプノシスマイクくんへの思いを伝えたいと思います。
ここ数日(いや数ヶ月)、ヒプノシスマイクのオタク界隈はザワザワしている。バトルシーズンだからだ。
今でこそ、界隈はそれなりにザワついている。けれどヒプノシスマイクくんはバトルシーズンの手始めに、高いクオリティと圧巻のパフォーマンスと配信であることを生かしきった演出と、何より演じている方それぞれの魂がこもった素晴らしいライブを見せてくれた。
昨年3月、コロナウイルスの影響によって配信にならざるをえなかったライブだって、もちろん素晴らしいものだった。でも今回のライブは、バトルであるという特性上「勝ちたい」という演者の方々の思いがビンビンに伝わってきて、その熱量とか気迫にグワッと心を掴まれるものだった。画面越しなのに、こんなに熱くなれる、こんなに泣いて笑えるエンターテイメントがあるのか。そんな風に思わせてくれるライブだった。
この配信ではじめて聴くことになった新曲たちも、そのチームらしさが全開だったり、逆に今までにない曲調や歌詞だったり、心を鎮めないと冷静に聴けなかったり、逆に中毒になったように再生してしまったり、「待ってました!」と手を叩いて喜んだり、逆に「こんな風に来るの!?」と度肝を抜かれたり、どれも本当に最高だった。
それぞれのバトル曲も、言葉の応酬と韻の踏み合いとそれぞれの信念のぶつかり合いを感じられて、どれも違う味わいながらも、たしかな満足の得られる仕上がりだったと思う。
視聴期間中、毎朝毎晩繰り返し観てもまだ足りないぐらい、プロフェッショナルによる最高のエンターテイメントを存分に味わわせてもらうことができた。関係者ご一同には、本当に頭が上がらない。早く円盤購入という形で感謝を伝えたい。
そしてここでは、観た人がどちらかのチームに一票を投じることができた。ひとつのライブにつき一票。単純明快で、シンプルな仕組みだった。
「良すぎて選べない」という贅沢な悩みこそあれ、最終的に投じる票はひとつしかない以上、どちらかを選んでボタンを押すしかできなかった。
そしてこの時点で我々は、この一票が後に控えた投票形式での「一票」と同じ重みとして扱われるのかどうか知らなかった。(と、記憶している)いま思うと、それが不穏な空気の前触れだったんだろう。
最高なライブの余韻の醒めないまま、現金を投票券に換えてCDを積む形式のバトルが始まった。
前回のバトルでは、街からCDが消えたとか、相手チームのファンを装ったアンチが偽装工作をするとか、「〇〇のアニメイトにはもうCDがありません!」みたいな虚偽の情報が流れたりしたらしい。それは怖いな、と思っていたけれど、個人的な印象では、案外そうでもなかった。
後から判明したところによると、「サイレント投票」といって、相手方に悟らせないように黙々と積むことが推奨されていたらしい。投票期間が終わると、「微力ながら〇票を投じました」というCDタワーの画像がタイムラインに乱れ咲いていて、なるほどこれが令和のバトルか、と思った。
まあでも、外から見ている分には、比較的穏やかなまま過ぎていった期間だったように感じられる。
そのCD積みバトルが終わった段階で、中間発表をするのだと言われていた。
正直、なんでだろうとずっと不思議だった。戦いの火蓋が切って落とされた当時、我々は三次投票にあたる「VRバトル」の詳細を知らなかった。MAX一人6票らしい、というような情報はあったかもしれない。
とすれば、中間発表で僅差でも大差でも、ファンの母数が急激に変わらない以上、結果に大きな影響は与えられないだろうに。それなら、たくさんCDを積ませるためにライブでの投票が終わった時点でいちど結果を出せばいいのに。
不思議なことをするなあ、という疑念を抱きつつ、「VRで積めない可能性があるなら、実質CDで勝負するしかない」と覚悟して積んでいる方々を見て、そういうものだろうかとアッサリ流していた。
で、中間発表があった。大差のついた戦いと、僅差の戦いと、逃げ切り/逆転を狙いたくなるような戦いがあった。(これ、あまりにも綺麗な分かれ方だったけど、ヒプノシスマイクくんの予想通りだったんだろうか)
そして中間発表と前後して、「VRでも積める」ことが判明した。しかも、一票あたりの単価が最もお得だ。(ライブはたしか四千円ぐらい、CDが二千円、VRは千円)そして、金額によって票の重みが変動することはないらしい。たぶん。
阿鼻叫喚、ってこのことか、と思った。タイムラインを眺めていると、めちゃくちゃに人間の感情が乱高下していて、見ているだけで酔いそうな感覚になるほどだった。
すでに(単純計算で)十億円を超えるカネが動いていて、その上まだ、ヒプノシスマイクくんは人のカネと感情を動かすつもりらしい。
せめて少しでも巻き返したい、という気持ち。
なんとか逃げ切りたかったり、猛追して逆転したかったりする気持ち。
同じチームを応援する者同士の連帯感が高まる一方で、自陣への不信感を募らせたり、相手方への攻撃に転じたりする心情だってある。そして、今まで投じてきた票の意味を自問したり、疲れて何かが折れてしまう気持ち。
金銭によるバトルをはじめて間近で見る身として、ものすごい世界だなあと溜め息が漏れた。
中間発表の形式やタイミングは、ここまできて振り返ると、それなりの合理性があったのだろう。
単に「VRも始めたからみんな観てね」って言うよりも、ずっと効果的に多くの人にアプリのインストールやプラットフォームへの会員登録をさせられる。
「現金」や「CD」という物理空間での制約を受けない形式での投票は、よく言えばエコだし、わるく言えば金銭感覚をより麻痺させる。
「中の人」を表に出して結果を発表するグロテスクさだって、結果的にはこの札束バトルを過熱させる要因のひとつになっている。
ごく個人的見解では、収益化のうまいコンテンツは見ていて信頼できる。そういう意味で、カネの集め方や人の心理の誘導の仕方として、ヒプノシスマイクくんには一定の信頼を置いている。そのうえで、私は思うのだ。
ダッセーーーーー!!!!!
と。
ダサい。あんまりにもダサい。やってることが格好悪い。ヒップホップってもっとイカした世界観じゃないのか?ここは昭和でも平成でもなくて令和、あるいはH歴じゃないのか?なんでこんなダサい商法を、君は性懲りもなく続けられるのか?答えてくれ、ヒプノシスマイクくん。
ヒップホップとか、ラップミュージックの歴史にあまり明るくない人間でも、少なくともこのジャンルは「富める者によって独占されるべき音楽」ではないんじゃないかと突っ込みたくなってしまう。資本主義が一番偉いから、カネや地位や権力のない人間は虐げられて一生地べたに這いつくばってるべきだっていう世界に反逆できなくて、何がペンは剣よりヒプノシスマイクなんだ?教えてくれ、ヒプノシスマイクくん。
私には純粋に、それが疑問なのだ。コンテンツの維持にはお金が必要なのは百も承知で、それでもなお、音楽(あるいは魂)の在り方と商法の相性が悪くて、これじゃああんまりにもダサいんじゃなかろうかと思ってしまうのだ。ダサすぎて仕方なくて、コンテンツとして廃れてしまうんじゃないだろうかと思って、そこに私はずっとヒヤヒヤしているのだ。
だから、私は提言したい。せめて、俺たちもラップで戦わせてくれ!と。言葉がいまやマシンガンであるなら、ライムが脳漿をかき回せるなら、金銭以外のフィールドでも戦わせてくれないだろうか。
たとえば、CDを買ってシリアルコードを使って普通に投票すると、それは一票としてカウントされる。でも、リリックを添えて投票すれば、それが二票としてカウントされる。そういう仕組みはどうだろう。
こういう仕掛けなら、お金はあるけど時間のない人は、CDをたくさん買って黙々と投票すればいい。逆に、時間はあるけどお金のない人でも、リリックを練り上げることで力添えができる。今までたくさんヒプ生で学んできた知識も生かせるし、日本語を母語としない人でも参加できるんじゃないだろうか。
日本語ラップは押韻判定が難しそうだけど、それを見極めるために人が雇われれば雇用の創出になるし、AI的なシステムを作ればラップの発展に貢献できるかもしれない。
今までプロとして歌詞提供してきた方々も、ひょっとしたら参戦してくれるかもしれない。それを見て、まだヒプノシスマイクに触れたことのなかったラッパーの方も、面白いと感じて参加してくれるかもしれない。総力戦である。
こうなってくると、同じ「二票」になるのなら、CD二枚を買うのではなくてリリックを考えることを選択する人も出てくるだろう。演じている方への愛を伝える手段としても、体温のこもった一票を投じることができるというのは、悪い選択肢ではないはずだ。
それで、できれば、そうやって集まったリリックを選び抜いて、それを楽曲に使ってくれないだろうかと思うのだ。
それもまた、想像すら及ばないほど難しいものなんだろうということは、今まで世に出てきたヒプノシスマイク楽曲を聞いていればわかる。一連の曲の中で無駄なフレーズなど一つもないほどに、リリックというのは緻密に組み上げられているのだ。
でも、たとえワンバースであっても、自分のリリックが使われるかもしれないという可能性が見えていたほうが、ずっと張り合いがあるしドリームがあるじゃないか。CD一枚、二千二百円に全身全霊をこめたリリックを乗せて票として投じて、それが「推し」のパンチラインになるかもしれない。そんなビッグドリームを抱けずして、何がヒプノシスマイクなのだろう。
ラップミュージックは、その人の人生を背負う音楽なのだという。だとしたらやはり、キャラクターへの愛やヒップホップへの造詣の深い人がより力を持つ投票の仕掛けとしても、リリックバトルをやってみてくれないだろうか。きっと面白いだろうから。それで盛り上がる世界を、私が見てみたいから。そんなムーブメントを巻き起こせるだけの力がヒプノシスマイクくんにはあると、私は特段の根拠もなく信じているから。
数年後には、「来たぜホンモノのDRB(絵文字) 燃やせ闘志入れてけよ気合い(絵文字) リリックバトルこれこそ新時代(絵文字)」みたいなフザけたお知らせとともに、本気でリリックバトルをブチ上げて欲しい。そういうヒプノシスマイクくんであってくれると嬉しいなと思っている、一人のファンの気持ちでした。
なんだかんだ言いつつも、私はこのバトルシーズンをそれなりに楽しんでいるので、まずは今のバトルの結果を最後までキッチリ見届けたいと思います。
人によってコロナへの警戒度にギャップが生じている現状では、お願いベースでの行動抑制はアンフェアかつ効果が薄い。外出した人が得をしつつ、自粛した人(低リスク者)は外出した人(高リスク者)と接触することで、自粛したにも関わらず二重の負担を強いられる。本当に人流抑制が必要なら、短期間の罰則付きロックダウンをすべき。GWに入った今ではもう間に合わないので、必要なら法改正の議論を。
ロックダウンを行う場合でも事業者への全額補償は財政上厳しいし、法的にも必須と言い切れない(社会全体への規制は特別犠牲と言えなくなるため)事業者への協力金(というよりお見舞金)は増やしつつも、最後は政治家が覚悟を決めて国民にお願いする必要がある。
病床(医療関係スタッフ)をこれ以上増やせるかどうかはよく分からない。お金で解決できる問題なら政府はもっと支出すべき。
尾身氏によると、人流抑制に舵を切った理由は、変異株の流行・経路不明感染の増加・感染対策を十分行っていない人の増加とのこと。理由としては了解できるが、この方針転換については、もっと丁寧に国民に周知する必要があるのでは。(菅総理の会見で行うべきだった)
オリンピック中止は必ずしも自粛要請とバーターではなく、特に入国選手・スタッフによる感染対策が、専門家の目から見て科学的に安全と言えるのであれば、開催の選択肢もありうる。ただ、オリンピック開催が人々の自粛意欲を失わせる、悪い意味でのアナウンス効果は大きい。今すぐ中止にしないまでも、最低限、国・組織委員会として、場合によっては中止もありうる選択肢を示すべき。
関東と関西で1年半くらい遠距離恋愛してて、私は実家、彼氏は一人暮らしなので私が彼氏の方へ行くことが大半だった。(彼氏にこっちへこられても余計にホテル代がかかってしまうので)
その際の交通費は全額私持ち。
私はまあまあいい給料を貰っていて、実家暮らしで、毎月彼氏のとこへ行ってても月10万貯金できるくらい余裕があったので、特に苦しくはなかった。そりゃあ彼氏が払ってくれるなら貰いたかったけど、普通に自分に充分な稼ぎもあって、彼氏に会いたくて会いに行ってるんだから、別に不満はなかった。彼氏に現金を渡される方が、なんかめちゃくちゃ気が引けるから、だったら自分で出しちゃお〜って思えた。その分東京での食事は奢って貰うとかしてるし。
その事を知り合いの男性に言ったら、「え、交通費出してくれないの?彼氏ケチすぎじゃない?」と嗤われた。
殺したろかと思った。
遠距離恋愛における交通費って実は物凄く見えづらいお金だと思う。
頭では大阪-東京の新幹線代¥15,000×往復=¥30,000と言うことはわかっている。
会いに行く側はそのお金を支払って、2時間半新幹線に乗って好きな人の元へ迎う。待ってる側は待ってるだけ。チケット売り場で現金を支払うことも、駅弁どれにしようかなって選ぶことも、ちょっとお尻痛くなってきたなって思いながら新幹線に揺られることもなく、ただ家で待ってるだけ。
自分が経験していない事象に対して淡々と金を払うのって、結構キツイと思うんですよ。
“自分のところまで会いに来てくれた恋人に、かかった費用の半額を負担して支払う”行為であることを頭で解っていても、実際に彼氏側が経験するのは“恋人に現金を渡す”行為だけ。新幹線にも乗ってない、500km移動もしてない、何にもしてない。でも、現金を払う。
これを淡々と継続すると、“恋人は現れるたび現金を渡さなければならない対象”になる。
自分と相手の意識に明らかなギャップがある状態で現金を受け取るの、私はめちゃくちゃ嫌でした。
充分な稼ぎがあるから出来ること。
充分な稼ぎがあってマジで良かった。
そりゃ彼氏が億万長者なら交通費請求するけど、別に大した収入じゃないのはわかりきってるんだから、交通費は自分で出して、その分東京で沢山楽しいこと出来ればいい。
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と言う日記を1年ちょい前に書いていたのを発掘。その後、私は無事彼氏と結婚し、交通費のかからない生活に。彼氏のことケチだと言った男は当時付き合っていた彼女と遠距離になり破局。ざまあみろ〜!!!!
追記:5.25
2ヶ月ぶりにログインしたら意外とコメントもらってて笑った。ざまあみろは良くなかったですね、反省。今更追記しても誰も見ないかもだけど、念のため「遠距離恋愛 交通費」って検索したらこの記事ヒットしたので、遠距離の交通費で悩む誰かがいつか漂流してくることもあるかもしれないので。
あくまで上記は私の個人的見解だし、全額負担できたのは私が実家住み・家に金入れず・給料高めと言う条件で、東京1人暮らしの彼より圧倒的に可処分所得が多い自覚があったからなので行く方が全額負担すべきってわけでもないし、男が負担すべきとか女は出さなくていいとかじゃなく、2人で決めることだと思います。うちも話し合った結果、私が自腹で東京行って、デート代は出してねってことだったし。
ただ、一つオススメしないのは中間地点での逢瀬。お互い負担はトントンかもだけど、多分片方が片方のとこ行くより金かかる。交通費×2人×往復+宿泊費だからね。遠距離続けるうえで最小限に抑えるべき項目の交通費・宿泊費がもろにかかっちゃうので。もちろんたまに旅行的な意味ならいいんだけども。
今、遠距離してる人たちは私の時よりもコロナとかあって大変だろうし、遠距離してると「遠距離じゃなかったらしなくて済んだ苦労」とかいっぱいあって、今は尚更それが沢山あってしんどいと思うけど、遠距離でも続けたい関係の人に出会えたのはきっとそれなりに幸運なことなので、無理せず、頑張って、幸せになってください。
あと、コメントで結構たくさんおめでとうって言ってもらえて凄く嬉しかったです。ありがとうございます!
横入りだけと、増田の意見と元の意見、次のように整理できると思う。
なお、比喩がしばしば問題を誤魔化す可能性があることは承知だが、適切に使用すれば、問題の構造を単純化するのに有効なツールだとも思う。だから、あえて比喩を使って整理してみる。
「嫌うこと」=嫌うこと
「差別」=被害が生じるような行為(だから、社会的に許容されない)
「批判」=注意する
これを用いた私的整理
元の意見は、「嫌いな奴を叩いたら痛いでしょと注意された」という人に対して「嫌うのと叩くのは別で叩いたら注意されるでしょ」
……こう整理してみると、問題は2点ある。
(1) 元の意見は、「注意は正当だよ=君は行為を改めるべきだ」と相手を諭す意見。つまり活動家の立場。それに対して増田の意見は「社会的公正さ」に関する話。これは理論家の立場。主張のレイヤーが全然違うので、これはそもそも「議論」にならない。
(2) 元の意見に対する増田の批判を上のように要約すると分かるが、増田の意見が「叩く行為」と「被害が生じる行為」の区別が難しいことを前提としていること。
(1)は理解しやすいと思うが、(2)の問題がどこにあるかを少しだけ付言。「区別できないケースがあること」は「区別できないこと」を意味しない。だから「区別できないケースがあること」をもって「区別した行為」を批判するのは筋が悪い。現代社会で「オレはLGBTが嫌い」を公言することは、明らかに差別になり得るし、それを指摘したこと自体は適切だ。それは、増田も認めるのではないだろうか。
その上で、増田の意図が「区別できないケースもある」だからそういうケースでは当然「手加減すべき」という趣旨にあるのは理解する。(ポリコレ棒を用いて人を殴りまくる行為は、確かに最悪だ。そういう光景に覚える怒りにも共感できる。)たとえ相手が強者であっても、叩かれて被害がゼロというわけではないので、それが受忍すべきものかそうでないか判断が難しいケースもあるだろう。弱者に人殺しのフリーライセンスがあるわけではないのだから。だがそれは、元の意見の人も当然認めるのではないか。
では、問題はどこにあるか。私は、強者は当然のこととして「痛くない程度には叩かれるべきだ」と思っている。多分、このあたりが増田と私の違いではないか。
おそらく、増田は公正さに敏感で、かつ、強弱に関する自己責任論をどこかで軽く前提しているのだろう。それなら、「自分の責任で弱者になっている人間」に少しでも「余計に権力がもたされる」ような行為に社会的不公正さを感じる(言い換えれば「頑張って強くなった人間を、頑張らずに弱者である人間がバチバチ叩くのは間違ってる」という感覚)のは当然かもしれない。それに対して前に述べた私の個人的見解は、強者・弱者は社会が構造的に作り出している部分が大きいという考えをベースにしている。それは、言い換えれば「強者は社会の中で置かれた立場で強者として役割を与えられて振る舞っているだけであって、強者としてのメリットを享受するなら当然そのデメリットを受忍する義務がある」と考える立場である。たとえばノーブレス・オブリージュもその一つだし、なんなら民主主義も(どんな強者も、その権利については弱者と同じレベルまで切り下げられることを認める、という意味で)その一つだ。これについては、強者は泣き言を言うべきではないとも思っている。なぜなら、まず先に社会は構造的に弱者を痛めつけていると考えるからだ。強者が気づきもしない痛みを弱者は日々甘受させられている。ならば、強者もまた同様に痛みを甘受すべきだ。これが私の思う「公正さ」だ。増田は「それなら、誰も強者になろうとしないし社会の発展も無いでは無いか、それは資本主義的ではないではないか」と言うかもしれない。だが、資本主義にも無限の自由が許容されているわけではないし、無限の自由を許容しなければ発展が見込めないというはずもない。むしろ「適切に強者を弱める」方が社会の流動性を高め、健全な競争を促し、社会全体を活性化させることが見込めるという考え方もできるだろう。「だから、その『適切さ』が問題なのだ」……と言うなら、もちろんその通りだ。そしてそれは、個々の場面について論じることでしか解決できないと思う。
だから、元に意見については〈今回の指摘は適切だった〉。だが、増田が言うように〈それは常に批判が正しいことを担保しない〉。それでいいのではないだろうか。
これは個人的見解だけれど、パト2という存在があったからこそ日本アニメ界の実写に対してのコンプレックスというものが完全に払拭されたのではないかと思う。
アニメと実写どっちが上か?なんてことは令和の世では議題にすらならないのは言うまでもないが、昭和平成の世ではまだまだ意識されていることだった。
宮崎・富野世代ははっきりと実写に対してのコンプレックスを持っていたし、ゆえにアニメのほうが上だと主張するような場面もあったように記憶している。
しかし、その次の世代となると経験的にアニメのほうが上であると理解していたので実写に対してのコンプレックスのようなものはなかった。
ただ、白黒ハッキリとしないという雰囲気のようなものはあった。
アニメというのは結局、オタクが身内受けでしょうもないことをやっているだけではないのか?という劣等感のようなものが存在していたからだ。
その意識が何故か、実写に対しての劣等感のようなものにもつながっていたように思う。
そういった中登場した、パト1は非常に優れた劇場作品だが、「アニメ」をひきづっている部分が多くやはり「アニメ作品」だった。
その部分に対しての反省があったのかどうかはわからないがパト2では見事にアニメ臭さを払拭していて一般映画としての鑑賞が可能なものへと変化を遂げている。
そして、その内容は極めて実写映画的でありながら当時の日本映画界では絶対に制作不可能な実写映画的アニメとして成立していた。
この時点を持って、日本アニメ界は実写というものへのコンプレックスを完全に払拭したと個人的には考えている。
その後、世の流れの中で実写とアニメを対立的なものとして捉えるという考え方自体がなくなってしまったので、あまりマイルストーンとして意識されることもなくなったが、パト2が存在していない世界線というものがあるとするのなら、その世界の日本アニメ界は随分と違ったものとなっていたのではないかと想像する。
フェルスタッペンの父ヨスが、ハミルトンと同じマシンにマックスを乗せることを世界中が望んでいるという記事を拝見したので、個人的見解を述べさせてもらいます。
結論から言いますが、たとえW11にマックスを乗せて直接争わせたとしても、彼がハミルトンに勝てなかった可能性が極めて高かったと考えられます。それは、レッドブルのハイレーキマシンからメルセデスのローレーキマシンに乗り換えることで、異なる挙動のマシンへの対応に時間がかかるという意味ではなく、ドライバー個人のドライビングの総合的なスキルが、ハミルトンに遠く及ばないという意味です。
まず第一に、フェルスタッペンはシーズンを通して、ドライビングに一定の波があります。近年のレースで例を挙げるなら、2018年メキシコGPや2019年オーストリアGP、そして同年のドイツ、ハンガリー、ブラジルのように、あるレースでは支配的、ないしそれに準ずるレースペースで走れても、2018年中国GP、同年のモナコなど、別のあるレースでは、自らのミスで取れるべきポイント、または優勝すらも取りこぼしています。一方のハミルトンは、自らのミスでポイントを取り損ねたレースは、選手権の行方が確定した後のものであれば、2019年ブラジルGP、そうでないものでは、2020年ロシアGPなどですが、さらにもう1つ直近のミスを列挙するためには、なんと2016年スペインGP、実に4年以上もの時間を遡ることになります。1ポイント差でチャンピオンが決まることもある選手権では、これほど走りの一貫性に差があっては、対決させる前から敗北は確定しているようなものです。
第二に、これは同じ世代の期待の若手ルクレールにも言えることなのですが、フェルスタッペンは他者との接触や、際どいバトルが非常に多いドライバーです。デビューイヤーと比べると改善され続けてきてはいるのですが、それでも多すぎますし、第一の理由と関わってくるのですが、それでポイントを取りこぼす場面が見られます。
具体的な例を2つ挙げてみましょう。1つ目は、2018年ブラジルGP。記憶に新しい、周回遅れのオコンとの接触で優勝を失ったあのレースです。多くの視聴者はフェルスタッペンが一方的に被害者だと考えているでしょうが、実際にはそうではありません。リプレイをよく見てもらえればすぐに分かるのですが、フェルスタッペンはオコンにスペースをほとんど残していません。オコンはフェルスタッペンと並んでターン2に侵入した際、イン側の縁石の内側に設けられたソーセージ状の縁石ギリギリまで寄せていますが、互いのタイヤのサイドウォール同士ではなく、互いのタイヤの接地面同士が接触しています。ルールでは、バトルの際車1台分のスペースを残すことになっていますから、もしスペースを残していてそれでも接触したのなら、互いのサイドウォール同士が接触するはずで、今回は互いのタイヤの接地面同士ですから、どちらかがスペースを残していなくて接触したことになります。そしてオコンは目一杯イン側に寄せているわけですから、スペースを残さなかった犯人は当然フェルスタッペンとなります。フェルスタッペンは、自らの「だろう運転」で、優勝を失ったのです。勿論、オコンは周回遅れですから、周回を取り戻す際にはノーリスク、ノーバトルで追い抜かなければなりません。レース中に科せられる罰則のうち、失格の次に重い10秒のストップアンドゴーペナルティが科せられたことからもそれが分かります。しかし、インシデントに対する裁定を根拠に相手をいくら非難したところで、目前だった優勝は絶対に返ってきません。したがって、自分は出来るだけのことをして接触を避けながら走行しなければならないのですが、この時のフェルスタッペンにはそれが出来ていませんでした。同年アメリカGPの、ハミルトンとフェルスタッペンの終盤のバトルを見れば、その技術、リスクを見極める力の差は明らかです。ハミルトンはフェルスタッペンとのバトルの際、もし自分が強引に抜きにいけばどんなリスクを伴うか、非常によく理解していました。接触を避けるために常に細心の注意を払っており、レース後のインタビューでフェルスタッペンにスペースを与えすぎてしまったと話していたことからもそれが分かります。もし接触すれば、タイトル争いの終盤で痛すぎるポイントの取りこぼしがあること、つまりタイトルを争っていないフェルスタッペンと、争っている自分が、それぞれ何をどれくらい失うのかということを、よく分かっていました。これがハミルトンとフェルスタッペンの差なのです。
もう1つの例が、2019年メキシコGPです。辛辣な評価になりますが、トップチーム、トップカテゴリーに在籍しているドライバーにあるまじきミスが目立ちました。まず予選での黄旗無視。これは非常に危険な行為です。もしマーシャルがコース上に出ていたらと考えると、3グリッド降格で済んでラッキーだったと考えるべきでしょう。そしてこのほんのささいなミスが決勝で大きく響いたことは、周知の事実です。スタートでは繰り上がりでフロントローを獲得した直線の非常に速いフェラーリに前を塞がれ、ターン1、2では一緒に並んでコーナーに侵入したハミルトンと軽い接触があり、互いにマシンのコントロールを失ってシケインをショートカットしながら通過。これによりフェルスタッペンは、アルボン、ボッタス、ハミルトン、そしてマクラーレンの2台にすら前に行かれて8番手まで後退してしまいます。そしてさらに悪いことに、スタジアムセクションでボッタスを強引に抜いた際に接触によりタイヤがパンクし、最後尾まで後退し万事休す。ハードタイヤに交換した後は、6番手まで追い上げるのが精一杯でした。このレースで所謂3強チームは全車完走していますから、事実上の最後尾フィニッシュです。レッドブルはここ数年メキシコで非常に競争力のあるシャシーを持っていたこと、ホンダPUもその設計上高地でシャシー同様非常に競争力があったことを考えれば、この結果がいかにチームの期待を下回っているか想像するのは容易です。まず、予選中の初歩的なミスが、スタートでの混乱と接触を招きました。黄旗無視によるグリッド降格が無く、ポールポジションからスタート出来ていれば、ターン1までの長いストレートでフェラーリの脅威に晒された可能性は否定できないものの、最初のシケインをトップで通過することは、4番グリッドからスタートして同じことをするよりも遥かに簡単だったでしょう。それどころか、4番グリッドスタートはハミルトンとの接触を招き、8番手という順位を彼に与えます。そして失った順位を取り返そうとボッタスに仕掛けた際には、さらに接触し、パンクしたタイヤで1周してからピットインを余儀なくされるという最悪の事態を招いてしまいます。予選のたった1つのミスが、次々と別のミスを連鎖的に、とりわけ接触を招いているのが分かると思いますし、ボッタスとのインシデントに至っては全く不要な接触だったと思います。レースペースは最速なのはほとんど間違いないのですから、直線まで待ってパワフルなホンダPUを使って安全に抜けば良かったのです。これは後付けの理論ではありません。フェルスタッペンがボッタスを抜いたのが4周目のスタジアムセクションで、残り周回数は67周もありましたから、オープニングラップのツケを払う余裕は十分にありました。しかし「自分と相手がそれぞれ何をどれくらい失うのか」を見誤ったばかりに、そのチャンスすら失ったのです。今のF1は競争が非常に激しいので、ほんの僅かなミスにつけこまれますし、ここまで幾重にもミスが重なれば、勝ちようがありません。ハミルトンが同じ立場であれば、間違いなく直線まで待ってからオーバーテイクを仕掛けたでしょう。
これで、フェルスタッペンが将来的に良いマシンを手に入れた場合にも、タイトル獲得の望みは薄い理由が説明できたと思います。確かに彼の走りは活気があり、見ているものを熱くさせる、一番見ていて面白い走りをするドライバーです。フェルスタッペンの走りに見惚れてファンになる気持ちが凄くよく分かります。一方のハミルトンは、リスクを最小限に抑えた、悪く言えばとにかく目立たない走りをするドライバーです。フェアですが、隙が無いだけにその分派手さも無く、見ていてあまり楽しい走りをするタイプではないでしょう。しかしながら、これはあくまで見ている側の視点です。ドライバーは、熱い走りをするドライバーと呼ばれるためにF1で走っているわけではありません。シーズンが終わった後に、その年のワールドチャンピオンと呼ばれるために走っています。フェルスタッペンがタイトルを取れないのは、メルセデスが圧倒的に速いマシンを持っているからというだけではないのです。彼が正しいドライビングが出来るようにならなければ、近いようで遠いタイトルへの苦難の道のりは続くでしょう。
ごはんを作っても買っても「野菜が取れていない」ことに罪悪感を感じている。
平日は朝食無し、昼はカップ麺かコンビニ弁当が多いので、夜には「野菜取らなきゃ!」となる。
自炊すると野菜を使ったおかずを考えるのが面倒だし、コンビニで野菜が入っている商品を探すのも面倒だ。
ごはんが決まらない時はスーパーやコンビニで20分くらいウロウロしている。
この迷っている時間もなかなかしんどいのだ。他のお客さんの邪魔になるし。
「野菜ジュース飲んでるから野菜は取れてるぜガハハ!」とか言えるようになりたい。
キャベツの千切り
カレー(家庭用)
【追記】
みんな色々教えてくれてありがとう!
何のために野菜をとるのか、目的と手段がごちゃごちゃになってた気がする。
食物繊維は芋やゴボウとかシリアル、ビタミンは果物で補えばいいし、
カット野菜とか冷凍野菜は、鍋・みそ汁・スープ・トマト・ポン酢などで
一通り書き連ねて気づきましたがポエムです。読みたくなければ便所に流せ。
昨日数年ぶりに恋人ができた。多分。
お互いに探り探りだったが好意はあるのでお試しで付き合ってみる?というかんじに。
自分は創造的な事が好きだ。相手は表現者を目指しているが創造的な事は苦手らしい。
自分は理屈っぽい自覚があるので考え込んでしまわないように気を付けながら己の感覚に従ってその時その時の人生を生きている。ノリで生きる人生は楽しいと学生の時に気づけた。
相手は誠実で、まじめで、良く言えば思慮深い。理屈っぽく成りたがっている。
自分は傷つくことを言われても寝れば忘れられる&基本的に気にしないので過去を引きずる発言をしない。気に入らないことを言われたらその時に言い返すなり反応を返す。根に持っていてもよっぽどのことがなければ表に出さない。言わない。
相手は自分が前に言った発言をよく覚えていてこちらに伝えてくる。その時に何も言わないで、相手の中に一度しまい込んでじっくり考えて時間が経ってから「あの時こう思った」を伝えてくる。
自分は自覚のある無神経だ。相手がこう言われたら嫌だろうな、とか、試すような発言を意識してできる。自衛の為でもある。それで離れていくなら最初からそれまでの人間関係だな、といつも覚悟の上だ。
相手は円滑な人間関係にしたいから、といってそういうことはしないと言っていた。人が離れていくような、試すような言動をする自分を狡いと言った。
自分は自分の考えをはっきり主張する人間だ。要望も口に出すし、上司相手でもNOと言える日本人だ。
相手は主張をあまりしない。どうしたい?と聞いてもこうしたい、ではなく選択肢を並べてくる。恐らくこうしたいのだろうな、と受け取った自分がじゃあこうしようか?と問えば嬉しそうに同調する。イニシアチブを握りたくないのだろう。余談だがイニシアチブを握りたがらない人間は有事の際に責任から逃れようとするというのが個人的見解だ。先ほどと観点がことなるものの、さて狡いのはどちらなのだろうか。
自分達は同い年。自分は社会人だ。相手は夢を追う学生フリーターだ。
自分はどれだけ親しくとも血縁以外の人間と会うのはそれぞれ多くても月1で十分だ。満足できる。
相手は週1回・少なくとも隔週で会いたいそうだ。
自分は人間不信だ。相手はそうではないが恐らく自己完結型のケがある。
まだ出会って日が浅いが、決定的に価値観が違うところがあると感じる。
付き合うことになって嬉しいのに、嬉しいはずなのにもやもやする。
自分はあの人とこの先長く付き合っていけるのだろうか。
昨日、帰り道にうっすらと一日を振り返っていて、これからのことを考えて、もやもやして、不安になって、自分では処理しきれないさみしさと悲しさ、遣る瀬無さに襲われてしまい、つい友人に電話をかけてしまった。
他愛のない話しかしていないけれど、家に着くまでの10分間話しただけで安心した。
嫌いなはずの電話を頻繁に連絡を取り合ってるわけでもない(でも長い付き合いだ)友人に掛けて、はじめて自分の情緒が不安定になっていると自覚した。友人に何度もいきなり掛けたことを謝罪して、感謝して、何も聞かずに取り留めない話をしてくれる優しさに救われた。
けれど、昨晩少しましになった虚しさをいまも引きずっている。
この言い表しようのない虚しさは何なんだろうか。答えを探している。
よく界隈では「自分の実体験を元に書きました!」と後書きに書かれてて吐き気がした……という話を目にするし、確かにそういうことをわざわざ書く必要もないだろ……と思いつつ、その本は執筆者が作ったものなんだから執筆者が好きなこと書いたっていいだろって気持ちもある。(個人的見解)
でもそう言うことが書かれてなくても描(書)いた人の性事情は垣間見れて当然だと思ってた。
マウント取るつもりはないが、まだ経験がない、もしくはあったとしてもリアルでのエロに嫌悪感しか抱かれなくて早々に離脱して妄想の世界でエロを堪能してる作家さんなんだな……くらいは分かる。
そう言う人の作品読んでたら、リアル男とエロするのがダメすぎて行き着く先がリアル百合になっちゃうんだろうか……とかそこまで読んでた。(それが悪いわけじゃない)
「BLはファンタジー」という常套句への疑問はLGBTからの声を反映してのことだと思っていた。観測範囲がはてなブログだったからかもしれないけど。
最近この話題についてゲイの作家さんが「BLはファンタジーって言っとけば(よかったのに)」と言うのを見て拍子抜けした。
(2007年)「百合は/BLは/やおいはファンタジーなんだから、何したっていいだろ」というノンケの発想って「旅の恥はかき捨て」っていうのと同じだよな
https://miyakichi.hatenadiary.jp/entry/20070625/1182747500
https://ry0ta.hatenadiary.org/entry/20080202/1201956488
(2008年)堺市図書館論争 まとめと個人的見解 後・BL問題編
https://kanatam.hatenablog.com/entry/20081113/p2
最終的には増田のような「注意書き」を添えることが落としどころだとわりと真剣に思っていた。
腐女子が「ポリコレ」に関心を持つ一因はゾーニングや言葉選びに敏感になれと内外から言われまくってきたことかなあ(10年ぐらい前までは)。
個人的には黎明期のニコニコ動画やpixivのオタクが「腐向け」の作品に苛烈な態度で検索避けを強いてきたことが根っこにある。
かたやマナー喚起のつもりの「同性愛を扱ったBLは嫌悪感を持つ人が多いので隠れましょう」みたいな文言が差別を助長するとゲイの人から指摘されることもあった。
当時とは状況が反転したようでいて、ニコ動やpixivの中は変わっていない。二次創作にあって男性向けは自由、女性向けは検索避けさせる状況のまんまだ。
「男女カップリングや百合には何も言わないのに、男性向けのきわどい女キャラの絵は野放しなのに、そっちは隠さないの?」という反問はその中で繰り返されてきた。
検索避け反対派は「みんな隠れろじゃなくて、みんな隠れなくていい、じゃないと互いの首が絞まる」と言ったが結局「どっちも隠れろ」に傾いていって今がある。
「BLのつもりはないけど書いた人が腐女子なので…」と健全系までカップリングタグにばらばらに隠れていたりして作品タグ検索がますます寂しくなる。話がそれた。
じゃあ最大限善意を持ってそう解釈するとしても、他のVや3Dやってる人を差し置いて自分の分野が一番高度だとかいうのはあまりにも世間が狭い気がするけど。明言してはないけど比較対象として述べてる時点で言ってるようなもの。それに高貴ってんなら(もしかすると洒落っ気のつもりかもしれないけど)どちらかといえばハイコンテキストな文学に当てはまることで、挿絵付きで想像の予知を奪う同人小説やラノベに言うのは違うような。
それと個人的見解なんだけど、いわゆるマニア、蒐集家タイプの人は面白い作家であることもある、程度の話だと思う。こういう人たちの作る話は緻密で圧倒的な話になる傾向はあるけど、ぶっ飛んだ表現や飛躍した表現という意味では直感的な人には及ばない。そればかりか設定ばかり前面に出てきてつまらない話を作ることだってある。最善の読み手や最善の批評家が最善の書き手にはならんのだよね。これはちょっと悲しいことなんだけど。つまり勉強しても報われない人もいるということ。
1. 旅行
趣味としての旅行は今後数年は戻ってこない。そして再び旅行へ行けるようになっても世界中どこへ行ってもよそよそしい世界しかそこには待っていない。
2. 外食
自粛明けに生き残っているのは大多数がチェーン店になり古き良き街の中華料理店は絶滅してしまう。肉スタミナ野菜炒めばっかりじゃなくて他のメニューも頼めばよかった。Uberに適応して生き残る店は商売上手なだけで味はいまいち(個人的見解)
3. 婚活
With Coronaの時代まで売れ残ってしまった30代以上はゲームオーバーになり成婚率は著しく落ちる。俺は独居老人となりさらに凶暴化したウィルスによって孤独死する。な〜んてね
お前ら国民もさぁ...そろそろ賢くなろうぜ...
「赤字国債は国民の借金で、このままだと日本は財政破綻する。財源は限られているし子ども達の将来にツケを残したくない」
通貨発行権を持つ日本は、必要なだけ赤字国債を発行して問題ないの。
そして国の借金は国民の借金ではなく、その逆。国民の富なわけ。税金の役割は財源を賄うことではないからな!
だから国民が長い間デフレで苦しめられるのはおかしな話なんだよ。
ましてやコロナ禍の有事にもかかわらず、政府が国民を欺いてまで財政出動を渋るのは異常事態。
じゃ何で政府はこんなことするの?
規律重視による財務省の言いなりという理由も大きくあるが、それ以上に大きな権力を持つやつら、つまり裏で日本を弱体化させることに都合のいいグローバリストたちがいるのさ。
んで、それに漬け込んでC国の資本家らがハイエナのように横から狙ってるわけ。
その元締めであるLチャイルドまでいきたいところだが、日本人にとっては現実離れし過ぎて陰謀論で片付けてしまうようだから、とりあえず「日本は財政破綻しない」「税は財源ではない」
今日はこれだけでも覚えて帰ってください!
ちなみに安倍政権が倒れたところで、同じく洗脳された議員が蔓延しているのでその議論には意味がない。
日本の未来のために、まず国民がこの洗脳支配と平和ボケから抜け出して真に賢くなることなのだ!
※あくまでも個人的見解だ。個人や団体を誹謗中傷するつもりはない。これをきっかけに、異常な安倍政権の裏で何が起こっているのかに危機意識を持ち、自分たちは今後どうするべきなのかを考えてほしいということだ