はてなキーワード: 2010年代とは
増田で糞アニメとして名高いので一体どんなもんかなと思って視聴終了。
このアニメを簡潔に述べると、まず政治・経済的な前提なしで帝国とソレイユ王国の開戦状態から始まります。片方の国ソレイユの姫様ユウキは最初戦争状態にあるとは知らされていません。しかし彼女は幼馴染の死から真実を知らされ、なんとか両国の人間が死なないように軍を指揮しようとします。その作戦手法とは主に両国の兵士たちが最小限の犠牲で済むというものでした。いろいろ省略して最終的には両軍の兵器のエネルギー源を止める方法が見つかり、両軍の兵器は沈黙して終了、仕方ないから両国の国交が暫定的に回復するという話です。
で、そこそこ背景があります。まずソレイユ国。これは新型兵器クラルス(作中であまり触れられないが、動力源。動いてるロボの名称は別にある)を擁していて、この動力源はもともとベルデ公国を仲介して帝国とソレイユが共同開発していたものでした。そして12年前にテロ事件が起こるのですが、ソレイユの幹部が「帝国のせいにしちまって新兵器の動力源はうちに牽引しようぜ」、と画策します。このやり口が帝国の逆鱗に触れて戦争状態となります。
まあ政治的背景を真面目に考えりゃソレイユが資源独占して相手が帝国主義だったのは、なんかかみ合わせ悪かったねとしか思えまえん。というよりソレイユが資源を独占しようとしたという背景が姫側近のレイラから伏線で話されるのですけど、帝国からしたら王国が資源独占した挙げ句攻め込んだら全部破棄にされた話でしかなく、そういう側面から考えるとちょっと身も蓋もない感じがしました。ソレイユって国家としては悪じゃんと。背景には明らかに利益の綱引きがあったと思うんですけど、冷戦構造みたいなものは全く無い描かれ方をしている。だけど途中で第二次世界大戦をモデルにしたような描写は出てくるので、多分作品としてやりたいことが違うんでしょう。あと、共同開発していた新動力へのテロリズムを一方的に強大な敵国のせいだ、としてしまえる外交手腕って何なんでしょうか。素人目に日本とアメリカをモデルにして考えても、まずありえない行動です。
ただこれ、いわゆる戦略戦術政治の面から見るもんではなく、全体の逼迫した状況下で個人の思いが殺されてゆく話だと思うわけです。かつてのアニメでいえばヤマト、ガンダム、銀英伝のような敵の事情もはっきりわかった上でどっちも死んでほしくない、という感情を想起させてゆく作りではあります(必ずそうなるとはいってませんけど)。ヤマトの場合好敵手、ガンダムや銀英伝の場合主義思想の違いで殺し合うわけですが、エガオノダイカにはなぜ殺し合うかというテーマは希薄です。実際に武人が生き様のために死ぬ、という描写は控えめですし、そういった時代錯誤的な意志の強さはあまり重視されません。それはテーマが "生きる" ことに集約されているからです。
ステラは常に生き方を探します。ユウキは戦時でも生かすことを見出し、ゲイルも孤児を引き取りながらメンバーを活かすことを考えて行動します。イザナの子は戦争の途中で父の死と引き換えに生まれてきます。このように戦争状態という皆が嫌々参加している状態からもキャラクターたちは生きることを見出します。このため前項における全体的な利益のために死ぬ武人、という自己犠牲的な生き方は重視されていません。そんな意味でユウキというキャラクターは最も自己犠牲的であるにも関わらず、最後まで両軍を生かすために我を通した、という意味でコンセプトは一貫していました(戦争中にあんな指揮官いたら嫌ですけど)。反面帝国は死を利用してプロパガンダを行い、分隊の隊長の死など気にもとめません。このへんの対比はやりたいことが出来てるとは思います。
ただ、視聴者的に言えばハロルドとゲイルという二大キャラがなぜ衝突しなかったのか、と思うことしきりだったでしょう、参謀的なイザナがモブに撃ち殺される、というあっけなさもよくありません。
タイトルのエガオノダイカは自明で、沢山の笑顔が犠牲になって平和が訪れた、あるいはたくさんの犠牲により笑顔がもたらされた、という意味です。
戦争をやめる=科学を否定する、という流れになりがちなのは、多分脚本家がアレルギーなのではなく、おそらくそう見せたほうが演出として開放的だからでしょう。実際にそうなってしまえば作中でステラが疑問視したように文明自体が後退してゆきますし。
というエントリにあったような読み方は流石にまずいかなと。一応コンセプトと設定とキャラクターの持つテーマはしっかりつくっていってるのでそこは読んだ上でケチつけたほうがいいかなと思いました。
自分の周囲のクラシックファン、ジャズファンは何故にあんなにCD買うのだろう。奥様の堪忍袋が尾がよく切れないものだと思い、つくづくよくできた奥様だと変な方向に感心してしまう。
俺は少年のころから相当コアな音楽ファンであることは彼に引けを取らず、90年代は彼らと同じくらいCDを大量に買っていたんだが、21世紀になってAppleがiTunesを出したときに音源をすべてハードディスクに取り込んで、ディスクは全部リサイクルショップに売ってしまった。
ハードディスクは二重化してそのための費用も結構かかったのだが、2010年代になってSpotifyの日本上陸とともにそれらのハードディスクも廃棄。
音楽にかける予算は年間12000円。配信バンザイ!と思っているのだが、周囲の友人たちにはそういう話はできず、いつもモヤモヤを抱えている。
目的と手段が逆転することを趣味というのだそうだが、彼らは明らかに音楽ファンというよりはむしろ鉄道模型マニアに近い人種なのだと思う。
それが証拠に。
・彼らがSNSにアップする写真は、CDと高級アナログオーディオと膨大な書籍(ミシェル・フーコーとかウィトゲンシュタインとか本当に読んでいるのか?)に囲まれたマイルーム。あんなにモノにあふれて狭かったらオーディオもいい音で鳴るまい。
・通販で届いたCDボックスを発送箱の開封すらしていないことを自慢している。彼らのCDコレクションの半分近くは一度も聴いていないのだと思う。
男女の違いを解説したとある本に、「男は役に立たないものを集める。女はまだ使えるものを捨てられない」とあって、彼らの集めているCDは観賞用(音楽鑑賞ではなく飾って眺めるための鑑賞)なのだろう。
なぜこの芸風が現代にきちんと受け継がれていないのか疑問だ。
モデルによっては、「ナチュラルな表情がたいしてかわいくないから取り澄ました表情に徹している」という消極的な選択もあるのだろう。
また、「表情の豊かさ」に対する誤った解釈から突然変異的に誕生した天木じゅんの百面相も、あれはあれでまあ面白いんだけど、見ていて心が自然と安らぐようなものではない。
なんだろう。2010年代のグラビアDVDはモデルの身体的スペックを重視しすぎと言うか、「個の魅力」をあまり重視していない感じがする。
たしかにお人形さんとして見れば、星名美津紀や奈月セナといった現代のモデルの「完成度」はとても高い。
だがそこには、田代さやかがそのDVDで終始放散しているような人間臭さ、いわばぬくもり、といったものがあるかというと、希薄だと言わざるを得ない。
田代さやかには、「飲み会で酔っ払うとキス魔に変貌するバイト先のちょっとかわいい先輩」みたいな距離の近さ、リアルさがある。
そういう意味で、田代さやかのおっぱいは、気持ちの上では「まかり間違えばうっかり揉めてしまうかもしれないおっぱい」なのである。
星名美津紀や奈月セナ、青山ひかるらのそれは「こんなおっぱいが揉めたらいいなあ、でも一生揉めないんだろうなあ」というあこがれのおっぱいであり、田代さやかの胸とは本質的に立ち位置が異なる。もちろん田代さやかのおっぱいも一生揉めないんだけれども。そして俺はどっちのおっぱいも大好きなんだよ。
壁とか床に投影して使えるキーボードとかホログラムとか会話ができるAIとか、いろいろ期待できそうなやつが2010年代前半には出てきてたじゃん
こりゃあ2020年になる頃には相当SFっぽくなるぞと思ってたんだけど、どうにも地味だ
Iphoneの新型なんかも確かに凄いんだけど、どこまでもこれまでの延長線上感が拭えない もっとこう「こんなの見たことない!」ってものはないのか
それに加えてこのコロナ騒ぎ 2020年って言ったら病気なんかには全然ビビらず、自動化された清潔な病院でシュシュっと治してるようなイメージすらあった
2010年代になってSNSと音楽映像配信が安価に楽しめるようになり、最近はコロナ騒動で友人とも会えないので、zoomミーティングで宅飲みというのをやりだすような状況らしい
自分はなるべく物欲を最小限に抑えて、食欲、性欲に限定してカネを使うはずだったが、コロナ緊急事態で個室型風俗といいキャバクラといい、誰も恐ろしくて行かないと思う。もちろん自分も終息宣言が出てももう行きたくない。
昨今の風俗嬢のレベルは店内教育がしっかりしている店なら、ある程度の男あしらいは心得ているんだけど、それが逆に楽しくさを増長している気がいる。
最近は年に数回行く程度になっているんだが、それでも年間数万円は使うわけだし、もう終わり!!
お気に入りの嬢が何人かいたけど、あいつら食い詰めて立ちんぼでも始めるんじゃなかろうか。コロナ騒動はあらゆる業態変革をもたらすと思うので、収束後の日本がどんな世の中になっているのか楽しみな気がする。
https://twitter.com/sbr_m/status/1235187365867446274?s=20
こーいう若経営者おじさんみたいな発言をよく見るようになった。
つうかこの人知り合いでごめんね!直接言っても聞こえなかったふりつうか
いつものように小洒落たこと言って受け流すだろうから、匿名で書いてみるね。
1000億万年前から女性向けメディアなどでは言われ続けていたことなのだが、
最近30-40代の男性(ビジネスつぶやく系)が「女性誌を見てこういう言葉が流行ってるみたいだけど、
このままではサステナブルもエシカルもただ消費されるだけなのでは〜?」とか憤ってるのを
SNSでよく見るようになったのである。この人だけじゃないんである。
しかし観測範囲をつまびらかにすると身バレするので書かないのである。
で思った。「ん?今更ナゼ?」
だって女性誌でサステナブルとかエシカルとか、1000億万年前は冗談だが、
自分はエシカル周りのことを生業にして約15年以上経つ人間である。
そんな人間からすると、逆に「あぁ、こういう層にもやっと浸透しだしたのかぁ〜」と思ってしみじみする。
が、同時に「こういう言われ方は普通にムカつく」というのが正直なところ。
「お前が注意して見てきてなかっただけじゃ」って感じで、今更消費もクソもあるかいな。
消費されとるとしたら、もうとっくにされとるわ!高ぇアサイーボウル屋とかを駆逐してくれ頼む!
つーかサステナブルが形だけでも流行ることの何がお前に不満なんじゃ!
んで考えてみたのだが、これは「体制寄りとかの、情報鈍めな人にも
そういう言葉が浸透したからなのでは」というふうに感じている次第。
というかもっとあけすけに言っちゃうね。体制側系の金持ってるおじさんたちに対しての
オーガニックとかサステナブルとかエシカルとかSDGsのロビイングが効き出したっていうことだよね。
実際、某区の某シェアリングエコノミーとか某日本財団からの(以下略。)だよね。
そういう、下準備のために2010年代後半からそういうエシカル界隈にお金が回り出すようになって
ニブめ系のおじさんたち(5thペンギンぐらいの一般経営層)が「金になるぽい!」って飛びついて、
更にその周囲のみんな(10thペンギンぐらいのネットの流行りに敏感な人達)が
「言葉ばかりが消費される〜」って言い出している…って感じで、、、
そういう考え方をすると、冒頭の人はそういう体制からのうまい汁すすれてないってことやんなという意味で
ある意味正直だし、まっすぐで好感が持てなくもない。
が、今の状況を見てずっと前から携わってる人ほど「わ〜皆が知ってくれて口にしてくれて嬉しいよ(涙)」
といっている現状に「言葉が形ばかりで消費される〜!」とかほんと、うっせーわと。
ほんと、ほんと、ほんと、ほんと、ほんと何度も言うけど…
もちろん中には男の人だってそういうことを話している人はいたが、ごく少数だったのは間違いない。
もしくは黙って畑を耕してた。
企画を立てればやれ「数字にならない」「意識高い系w」とか言って
おじさんに却下されまくる1X年間だったので、ほんと「今更かよ?マジかよ?おじさん…」って感じである。
何度も言ってたからね、ほんと何度も言ってた。
飽きるぐらい毎月そういうプロダクト紹介してた。
あなたが気づかなかっただけやよね?
金儲けばっかしてると、そういう小さな声に気づけないもんなんやなぁ😲
ずっと気にかけていた身からすると、「格好だけでもなんでもいいから、
ジャンクよりも高くてエコなプロダクト選んでくれるならそれでいいやん?
「消費しないを消費する」っていう現象、ホント歓迎…。福音…。て思ってるんで。
自分の売ってる物が売れるとかそういうそういうことでなく、そういうムードになって
息しやすいし、良いと思ってたのを社会が肯定してくれてホント涙出るほど有り難いんで。
気がつけばラブライブ!サンシャイン!!の人気が物凄いことになっているらしい。
無印のラブライブ!がヤバいくらいの支持を集めたこと、それも男性ファンのみならず多くの女性ファンも獲得したのは知っている。
JKが主要登場人物というゆるいジャンルでくくれば、ガルパンと並ぶ2010年代の覇権タイトルの一つだろう。
いや、男女両方から熱い支持を得たという点はガルパンより凄いかもしれない。
ついでに言うなら両方とも筆者もかなりハマった。
翻ってサンシャインだけど、アニメ第1期が思ったほど面白くなかったせいで、そのまま追いかけるのをやめてしまった。
個人的にウケたのはヨハネのコブラツイスト→黒澤姉妹と、ぴっかぴか音頭の鞠莉パートだけレベルが違うことくらい。
そもそも聖地である沼津って、無印の聖地が都心の秋葉原とその近辺だったのとはえらい違いで、東京からだと距離的時間的に大洗といい勝負?という意味ではむしろガルパンに近いかも。
てか沼津といい大洗といい、舞台が田舎という時点で女性人気の観点では元来不利で、あの花の秩父や響けユーフォの宇治が例外と言ってもいいくらいだから。
そんなこともあってか、どうやらファン層も男性に偏っている時点で、こう言っちゃなんだが無印に対して色々と見劣りしてしまう。
というかμ'sに勝っている(?)のはメンバーの平均年齢くらい?
だから、大洗と同じく沼津への移住者が出るくらい人気と言われても全然ピンとこないのだ。
っていうかもう何が言いたいって単純にキレ散らかしてるだけなんだけどさ。
そもそもフェミニズムって歴史からして「女性の人権獲得」がスタート地点で色々活動していく中で、そもそも「女性」って何? って言う壁は何度もぶつかってるわけじゃん。
古くは「白人女性以外は女性じゃないよね」みたいなレベルで白人女性しか想定していないような運動だったし、1970年代にはすでにトランス女性の排斥みたいな運動までしてた。
その問題を反省して、どんどん克服していった中で、一気に視界が開けたのがここ10年だと思うわけよ。
2010年代は本当に一気に変化していて、例えばHeForShe運動だって2014年の設立当初は「女性の権利向上活動を男性も理解してください」みたいな運動だったのに、その2年後の2016年には「そもそも男性とか女性とか古かったね、ジェンダー平等になるべきだよね」って運動に変化したじゃん。
一部のアンチフェミニストは2016年のエマワトソンのあの演説を意味わかんない文脈で批判してたけどさ。
1990年代後半に登場したLGBTだって同様に2016年に「LGBTTQQIAAP」って11種類にまで増えたじゃん。多すぎて意味わかんないけど。
こうやって2010年代は「男性VS女性」の対立軸を壊していって、「性差を超えるための運動」に変化していったと思っていたし、一人のセクシャルマイノリティとしてその流れを歓迎していただけに、一気に議論を20世紀に戻した千田論考は本当にショックだったし、それに対して「勉強になった」とか言ってる一部の人に対する絶望感が凄い。
ブログの隆盛に始まり、ツイッターなどのSNSの台頭、さらにジオシティーやインフォシークがなくなったことでほぼ消滅したといわれる個人サイト。
個人サイトは、まだ、「オタク」を公言することが世間で後ろ指さされる時代の産物だった時代に「オタク」を開放し、密かに、だが確実な仲間を見つける唯一の手段だったように思う。
そして、唯一だっただけに、裏切り(嗜好の移り変わり)も少ない。
味噌汁に例えるなら、
個人サイトは、その分離して底によどんでいる部分
とてつもなく濃いので、とっつきにくいが、嗜好がハマればとても有用(下手すると市販品よりも使えたり、面白かったりする)
一応、2010年代初頭あたりまでは、動画サイトもその傾向にあったが、(著作権侵害もあったが、後ろめたさも残っていて、ひっそりとしていた)
金儲けができるようになると、似たような、そして勘違いしたものが量産された。
味噌汁に例えるならレトルト物に各自で具材を足したもの。うまく出来たものもあるが、大半がケチってレトルトを半分以下しか使わずに味がほぼ無く、話題に上がるものは具材の味が味噌汁の味をじゃましていたり、砂糖山盛りでもはや味噌汁じゃなくなっていたり、下手するとう〇こを使ったものなど。
そして、自分に合った「よどみ」に近いレトルトを見つけても、それ以上に製作者に目の前でチップを期待するまなざしで見つめられるものが多い。
個人サイトは、見る方に「気軽さ」があった気がする。