「霊魂」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 霊魂とは

2017-07-16

https://anond.hatelabo.jp/20170712041319

まだまだ可能性はあるとは思うけどね。俺なんか、女のトラブルで望む分野の研究ができない瀬戸際で、成果も出せなかったんだから。それでも、その分野の勉強だけは一生懸命した。

ただ、いろいろ考えすぎて疲れてると思うね。マインドフルネス瞑想瞑想あたりの本を読んでみるのを薦める。

ただし、あのへんの分野はスピリチュアルとか、霊感商法も手をだそうとしてるから、読み比べていいの選ぶこと。

徹頭徹尾ただの脳の休息だからあれ。霊魂だの、霊的世界が入り込む余地は一ミリもない。

あと、セミナーには一切行く必要ない。むしろ、変な連中が増えすぎたか読書実践だけで十分だ。

あえて一冊上げるとしたら、久賀谷 亮「世界エリートがやってる最高の休息法」

なお、俺は修士ボロボロで、ベンチャーいって、この切り口どうだ?ということで、在職中サブで自分で色々作って、

あちこち大学先生にあたって、結局修士先生のつてのつての大学院博士に進学+起業してる。初年度は国プロとって、人雇ってた。

まあ、正直ボロボロだったが一人に戻って今立て直し中。

修士時代テーマからめちゃくちゃ遠く離れてる。

うまくいけば、いい論文も色々かけるだろうけどねぇ。どっちかと言ったら起業でうまく行くのが本道だけどね。

まずは、少し休め。そして、なんとか修論をかき上げて、近い分野に何とか就職してみ。

近い分野に何とか潜り込めれば、その分野に足りないものを見つけれるかもしれないし、そこから再び研究者の道も開けるかもしれない。

やはり、その分野に欠けてるゲームチェンジングのテーマを見つけることができたら強いよ。

2017-05-06

死という概念

ただ生きてるだけでも辛いのに、敢えてより辛い自死を選ぼうとする人の思考が全く理解できなかったんだが、そもそも死への理解が間違っていたことに最近気付いた。

可愛がっていたペットが死んだ、身内が死んだ、という出来事がなかったわけでも無いが、自分イメージしていた死とはたとえば「入院して動けない状態」のようなものに近かったのだと思う。だからきっと、死んだらあー死んだのかーって霊魂にでもなって現世を彷徨うのだろうとか。

しかし考えてみれば、死者は自分の死を自覚できない。死を認知できるとしたらそれは死の瞬間。その瞬間を越えた後はもう、死んだということすら気付けない。

死を意識できる方法があるとしたらそれはきっと身投げなんだろう。飛び降りた人は地面にぶつかる瞬間まで生きてはいるが、同時に死んでいる。

死の瞬間さえ越えてしまえば、形の無い不安に怯えることも、孤独に震えることも、誰かを妬むことも、くだらない人間関係に苛まれることも無くなるのだから、なるほどそれは大層な救いだと思う。誰かに迷惑を掛けるかも知れないが、それを知ることは無いし心痛めることも無い。

元より悼んでくれるほどの他人なんていなかった。親ぐらいは自分の死を悼んでくれるかもしれないが、いつまでも生きているわけでは無い。

誰も悼む人がいなくなったあと、生きてる自信が無い。

2017-01-31

遺骨と記憶

昭和集合住宅に住んでいて平成不況人口流出で空室が多いんだが、火災報知器が昨日誤作動して消防出動の事態になったからか、工事をしていてうるさい。うるさくてつらいので、ヘッドフォンで昔に買った音楽を聴いている。それでふと思い起こしてこの人のブログを見たんだが、いまも死んだペットのことに執着しているらしい http://ameblo.jp/mariko-kouda/entry-12243053638.html

さて、私は仏教徒から遺骨には執着しない。遺骨に後生大事に執着するのは儒教徒だ。ちなみに中国仏教儒教習合してしまって渡来たか日本では混同されている。

私は数年前にもペットが死んだけど、遺骨は残さずにパアッと処分してしまった。私は、片親殺されているが、親の遺骨を相続したくないし、親の遺産相続したくない。

遺骨が残るのは、超高温でもなければ燃え残るからだ。火葬にするのは、インドではおそらく、遺体が腐ってむごくなるのを避けたかたか火葬にしたわけで、そうやって火葬された人の霊魂は報われていいとこに生まれかわると信じられていた。だから、偉い人、偲ばれている人は、火葬にされる。火葬にもされなかった人はいいとこに生まれかわれないと思われていた。

遺骨は残さない方が本当はよい。遺骨に執着するのは凶相だ。ちなみに世の中には「お焚きあげ」というのがあるが、捨てるに捨てられないものを焼却処分してもらう、ごみ処理である。以前流行った(流行らせた)ことばでいえば「断捨離である。例えば写真にしても、焚きあげて処分してもらう。それを、いまでも世の中にはなんでもかんでも写真に撮りたがる人々がいるが、画像データが大変だ。そして、見て記憶に残すことを忘れて、カメラで撮るのに必死になっている。

千の風になって」ではないが、遺骨はナノ単位にでも砕いて風葬にでもした方がよい。それとも、処分に困ったら一心寺にでも持っていけばいい。遺骨を墓碑か寺院にでも納める人は多いと思う、遺骨を手元に置いて仏壇にでも納めていると大変だ。ましてや、遺骨や位牌に執着して逃げ遅れて死ぬ人がいるが、正直に言って客観的にみて、滑稽だ。

遺骨は生きていないし、生前のものでもない。古代エジプト人ではないから、ミイラにしたらいつか復活するとも思っていないし。

生きているというのは状態であって、実体ではない。生きものというのは状態である

死んでもうこの世にない生きもののことは、記憶には残る。忘れられない。しかしその記憶所詮細胞状態しかない。記憶している人もそのうち死ぬ。残された記録もデータであって、実体ではない。

日記であろうが、枕草子であろうが徒然草であろうが愚管抄であろうが、経典であろうが、データである日本では驚異的なまでに昔の経巻が保存されているそうだが、それも経巻の内容より経巻そのものに執着し信仰してきたかららしく、「御真影」ではないが火事になっても必死に経巻を運び出したからだそうだ。しかし経巻を後生大事にとっておいてもしかたがない。それなら中村元岩波文庫のやつでも読んだほうがよい。

そうならないのは、貴重な経巻が残っているということが寺院資産であり「箔」が付くからでもあり、それで檀信徒から財施(供養)をもらっている。法要にでもなれば、漢訳経典暗誦するんだが、聞いている方は意味不明だ。我々は漢文ネイティブではないし、そもそもその漢文はいま「生きている」言語ではなく中国に行っても話さないだろう、ラテン語みたいに学術のものしかない。それでもその檀信徒財施をするのも、彼らがモノに執着しているからであり、だから古い仏像とか経巻とか建物とかをみて大したもんだといい、布施をするのである。そして、経典の中味ではなく、経典を読むこと自体目的化している。

あの人も、遺骨もアロマドームも生きていないしうまくすれば朽ちないだろうから後生大事に持っていれば何十年後かわからないが自分死ぬ方が先だろう。

忘れられないのはわかるし、忘れてはいけないのかもしれない。死なないと消えない記憶というのは、ときには快いかもしれないし、ときには残念かもしれないが、ある。空襲だか「鉄の暴風」だかに遭ったり、ベトナム戦争だかイラク戦争だかに行ったりした人は、忘れられないトラウマが残ってつらいものである。ヘタすれば人は80年とか100年とか生きられてしまうから大変であるしかしその記憶データであって、細胞状態である

本当に火事になったら私は死ぬかもしれないし、そうでなくとも私もいつか死ぬ。いま聴いている音楽も、データしかなく、ディスククラッシュでもしたら消える。人類が滅亡したらヒトの遺伝子も失われる、それがいつのことかは、ちょっと、わからないけど。

それにしても、あの人もそのうち50である。どうなんだろう。たしか40を「不惑」とかいったと思うが。当人も、未だに残っているファンも、互いに執着して、共依存して、期待される姿を互いに演じて定着してしまっているということもあるかもしれない。しかしそうした姿は、私の望んでいることではなかった。

私も歳とった。個人的には早く死にたいんだけれど、それもエゴか。

なお、この日記にはオチはないしTL;DRも書かない。

2017-01-20

日本人が親切だとか心が優しいとか、嘘だからな。

日本人が親切だとか心が優しいとか、嘘だからな。

人を苦しめて、それによって霊魂成長できるといって、さんざん苦しめた挙げ句に恩を着せてくるのが日本人

2016-05-23

http://anond.hatelabo.jp/20160523204030

えっ嘘そっち?

霊魂見えてる系友達

あの満面の笑みでスピッツの向こう側を見てたのか…

2016-02-10

日本人宗教に寛容とかいうけれど

多数派日本人は「クリスチャンから毎週日曜日は必ず教会に行く」とかいう人を、なんとなく敬遠したりするんじゃないかという気がする。

厳密に浄土真宗教義に厳密に従って「初詣はしない」とか、「霊魂など存在しない。葬式というのは死者の魂を供養するものではなく、残された者たちが心を整理し、生き方を考える場所」とか主張したら、たぶん、メンドクサイ人と思われて友達減りそうだ。

なんか、日本人が寛容と信じている「宗教に対する態度」ってのがあって、それに外れている人に対しては、結構不寛容じゃなかろうか。

まあ、厳格なイスラムの国とかに比べれば、全然寛容なんだろうが。

2016-01-29

サンタクロースはいないといいながら前世霊魂存在を語る人間を見ると頭が痛くなる。

ただし、そいつものすごく美人で今にもやらせてくれそうな雰囲気をまとっていたら、チンコが痛くなる。

いや、嘘だ。

もはや痛くなるほど堅く勃起をするほど若くない。

……セックスをしたい。

2015-09-05

幽霊の来ている洋服はどういうシステムになっているのか?

幽霊どころか金縛りにすらあったことがないほどに「霊感」というのがなく、

UFOというのも見たことがないのだが、

一生一度くらい、UFOに遭遇したり、幽霊に驚かされてみてもいいかなと思っている。


で、何となく疑問に思ったのだが、幽霊って素っ裸なことないよね?

あの世にいけない魂が幽霊になってこの世に現れるとして、

身にまとっている服は、「衣服の霊」なのだろうか?

それとも幽霊と一体化しているのだろうか?

服は脱げるのか?

仮に脱げるとしたら、脱いだ後の服は、どういう存在になるのだろうか?

自体にも霊魂があって、この世に何か思いを残しているということなのか?


古典的幽霊は、いわゆる経帷子三角形のヤツ(名前わからん)をつけて出てきたりするから

そういう場合は、「この世で最後に来ていた服装を身に着けている」ということなのかもしれないが、

必ずしも、そういう服装をしているとは限らない。

鎧兜に身を固めた武士幽霊、なんてのもいるみたいだし

「枕元に父親の霊が現れた」なんていう話に出てくる父親は

仕事をしているときの格好だったりもする。

「こういう服装で現れたい」という幽霊意思が、服装に反映されるということだろうか?

死に装束で出てくる幽霊は、その辺にこだわりがないということなのか?


自分は、基本、メガネをかけていることが多く、

仕事上の付き合いの人は「黒縁メガネの人」という認識があるみたいだけれど

死後、どうしてもこの世に用があった時、メガネをかけたまま出てこられるだろうか?

そうしないと、最初「え? 誰?」とか言われてしまいそうだ。

すっぴんと化粧顔に落差がある女性場合、ちゃんと化粧して出てくる必要もあるよね?

本人は大丈夫なつもりで、すっぴんで恨みのある男性の前に現れたら、

本人と認識してもらえなかった女性幽霊とか、いないのだろうか?

入れ歯をしている年寄場合は、その辺もちゃんとしてないと。

あ、カツラしてる男なんか、怖がられる前に笑われたりして。

このあたり、こういう問題に詳しい界隈では、理論的に説明されているのだろうか?

美輪明宏あたりに聞いたらいいのかな?

2015-06-13

psycho

研究社 新英和辞典

研究社研究社

psycho

音節psy・cho 発音記号/sάɪkoʊ|‐kəʊ/

名詞】【可算名詞

(《複数形psychos) 《口語精神病者[患者].

形容詞】【叙述的用法形容詞

精神病の.

PSYCHOTIC の短縮形]

psych‐

音節psy・ch(o)‐ 発音記号/sάɪk(oʊ)|‐k(əʊ)/

[連結形] 「霊魂」「精神」の意.

2013-12-31

http://anond.hatelabo.jp/20131231170528

靖国参拝に反対してる連中は、霊魂や死者の尊厳なんて気にせず、韓国人中国人の心情なんてものも気にせず、単に気に入らない政治家を叩ける機会に興奮してるだけのフーリガン

本気で世界平和を思ってるのなら、中国領海侵犯北朝鮮の核開発に徹底的な抗議を行うはず。所詮は自らの中の憎悪をまき散らす機会を待ってるだけの俗物であり、中国朝鮮沖縄などは、自分たちの発言を「正義」とするために利用してるだけ。

なぜ科学の発達した現代日本で霊の実在を信じる人がいるのか?

国益を害してまで英霊とやらを崇拝してしま政治家を見かけると腹が立つというよりも

守護霊イタコ霊感の壺を信じる人々と同様に無性に可哀そうな気分になってしま

霊魂存在しないなら合法合憲であろうと民意支持率が高かろうといくら熱心にお祈りしても故人には届かない

どれだけ信心深い人間でも死後の世界引っ越しできることな完璧に消去されるんだから

逆に言えば墓参りを阻止したところで物質世界には何の影響もないので反対派の行動も無益ものと言えるが

2013-12-27

靖国神社参拝問題について御霊信仰観点で調べてみた


御霊信仰とは

どの国でもあるいはどの宗教でも、死んだあとどうなるのか? は一大テーマだ。キリスト教神の国に行くし、仏教輪廻転生するし、神道は死んだら神様になる(そしてまた人間に戻ったりする)。

http://www.hachimangu.com/cgi/kouwa/kouwa.cgi?mode=one&namber=199&t...

 神道では、人間死ぬと、すべて神になると考えています。これは、私たちの魂は神から頂いた、神の分け霊、分霊と考えるからです。神の分霊なんだから死んで霊界に帰れば神に戻ると考える訳です。

 私たち死ぬと肉体と魂は別々になります。死んでまもない魂は、霊界での初心者若葉マークの霊であると思います。肉体と魂が離れても実感として分からない時期、まだ死を認められない霊なのです。病気やケガで足を切断した人が、ないはずの足がかゆくなったり、痛くなったりすると聞きますが、そのような、まだ肉体のあった頃の感覚が離れられないでいる時期が若葉マークの霊であろうと思います。肉体の感覚が残っている内は、この世での執着心も残っているのです。

 「自分は死んでしまったのか。それではもうこの世にはいられない。神の世界、仏の世界、御先祖様の世界へ還ろう。そして、魂の修行をして、神となって子孫を守っていこう」と決心したならば、執着心も切れて、迷うことな霊界へ行くことができるのです。

この引用は一例だが、洒落怖あたりをみてもなんとなくこういう意識を持っている日本人は多いように思われる。仏教が入ってくる前の神道だと魂の修行とか言うのはなかったと思うが、その代わり祈祷などで鎮めていたのではないかな。

この執着心が災いをなす場合に、それを怨霊という。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A8%E9%9C%8A#cite_note-Yahoopedia-2

憎しみや怨みをもった人の生霊や、非業の死を遂げた人の霊。これが生きている人に災いを与えるとして恐れられている[2]。

霊魂信仰の考え方では、霊魂が肉体の中に安定しているときその人は生きていられる、と考える[2]。怨みや憎しみなどの感情があまりに激しいと、霊魂が肉体から遊離して生霊となり災いを与える、と考える[2]。


ちなみにこの死者が安楽に辿りつけない場合もあるという考えは日本固有ではないが、一神教系だと地獄にいくことがおおいようだ。アミニズムは現世に災いをもたらすらしい。

有名なのは平将門ですよね。生霊といえば源氏物語の御息所。医療科学が発達していなかった時代に、アミニズムはそれを神様がやったってことで納得していた。一神教場合も神の試練だと、仏教功徳が足りないと思っていたのか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0

政争や戦乱の頻発した古代期を通して、怨霊存在はよりいっそう強力なものに考えられた。怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣井上内親王他戸親王早良親王などは亡霊になったとされる。こうした亡霊を復位させたり、諡号官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。また、その鎮魂のための儀式として御霊会(ごりょうえ)が宮中行事として行われた。記録上、最初に確認できる御霊会は、863年(貞観5年)5月20日に行われた神泉苑で行われたもの日本三代実録である

仏教的にはどちらかと言うと荒神信仰に近いものかな。阿修羅とか。

靖国神社もそもそもはこの御霊信仰のもと建てられた神社である

http://www.yasukuni.or.jp/history/index.html

靖国神社は、明治7年(1874)1月27日明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的創建された神社です。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和国家建設する」という願いが込められています

前進明治2年にできているので、戊辰戦争御霊供養のために建てられた神社であり、その後の日本内の内戦および諸外国との戦争でなくなった人々の供養をしている、ということになっている。

政府のたてまえとしても、靖国神社参拝は御霊供養のため、ということになっており、単純に墓地に行くのとはまた違う意味合いを持っているようだ。そもそもが怨霊を鎮めるためのものなので、死に方(戦死・処刑)に関しては問わない。ところでここって空襲で亡くなった人は入ってるんですかね?それはまた各自か。そもそも神社って系列があるし、霊魂はどこでもいけるしな。

こうしてみると、靖国A級戦犯が眠っているから参拝してはいけないというのは的外れで、むしろそういう人がいるからこそ供養はせにゃならんということになる。祈る内容は「もうしません」でも「つぎはぜったいかます」でもなんでもいいわけだが、とりあえずこの観点から反対するのは無理筋だろう。

んで次に気になるのは、別に首相いかなくてもいいんじゃね?という点である

国のトップ御霊鎮魂に参るのはなぜ?

多分これは崇徳天皇のせい。

瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ

いろいろとロマンチックなひとだが、気性が激しいともいう。

[要出典]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

一方『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はない。承久の乱隠岐国に配流された後鳥羽上皇が、「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」(『遠島百首』)と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的である

崇徳院は、配流先の讃岐鼓岡木ノ丸御所国府役人の綾高遠の娘との間に1男1女をもうけている。

しっかり子供作ってエンジョイしてんじゃんとは思うが、日によっては荒ぶっていたのかもしれない。どちらかというと彼に対する罪の意識で、後々伝説が作られたような気がするが、なんせ千年前である。確かめるすべはないな。まぁいいや。とりあえず天上人天皇が荒ぶって怨霊になってしまったので、天皇御霊鎮魂をするようになったもよう。これが国のトップ御霊慰霊を行うようになった理由だろう。

政教分離的にはOKなの?

日本国憲法第二十条では

1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

ちらっと調べた限り3がある以上それをひっくり返すのは無理筋だが、いまのところ行くこと自体は1で押し通している。奉納するとなると3に引っかかるのでそれが争点になるようだ。もし私費で奉納とかしてりゃ1があるので反対するほうが悪いが、そうではないのなら違憲判決が出されるのは妥当な所。

しかしそこまできっちりとやってしまうと、天皇制がそもそも違憲内閣総理大臣天皇から任命されるのも違憲になってしまうので極めてグレーである

ただ天皇戸籍がないので、日本国籍を持ってない。例外として日本国民ということになってはいるが、主権もないしこのへんもグレー。突っ込んではいけない領域である

靖国問題とは
  1. 信教の自由に関する問題
  2. 政教分離に関する問題
  3. 歴史認識植民地支配に関する問題
  4. 戦死者・戦没者慰霊の問題
  5. A級戦犯に対する評価の使い分け

このうち1は明確に信教の自由があるので以降といくまいと自由。

2は前述のとおりグレー。

3は参拝が軍国主義につながるというのが主な反対の理由のようだが、参拝は御霊供養のためであり、反省するのも軍国主義を目指すのも当人次第(しか信教の自由があるのでそれを規定することはできない)ので的外れ一般的キリスト教では参拝は神への信仰仏教は魂は輪廻転生してしまっているので特に意味のない行為(参拝自体功徳を積むため)で、御霊供養の概念はきちんと説明しないと伝わらないと思われる。4,5も同様。

したがって、問題の争点は政教分離観点でOKなの?という部分だけだな。ちなみに諸外国がこれに反対するのは内政不干渉原則に反するが、言うの自体は自由である

2013-12-26

http://anond.hatelabo.jp/20131226125131

「素朴な」信仰かどうかは別として、「霊魂」とか「神」とかの超自然存在実在を前提にしなければ「神社」って建てられなくない?

神社」と言う形式はとらないだろう、というか。

http://anond.hatelabo.jp/20131226122446

靖国神社明治政府国策によって建てられた施設であり、素朴な霊魂信仰とは全く無縁なので。

http://anond.hatelabo.jp/20131226122446

霊魂なんか無くたって、遺族をはじめとして、生きてる人の感情に影響は与えるわけだから

から靖国神社なんてタダの建物で、そこで首相が何をしようが実質的意味は何もないのに何やってんのバカじゃね?

ってことにはならないでしょ。

靖国参拝云々のニュースを見ていて。

日本人(だけかどうか知らんけど)ってなんだかんだ言って霊魂存在とかそういうオカルト信じてるんだなぁ、と思う

なんか、首相にしてもマスコミにしても、霊だかミタマだか英霊だか知らんけど、そういうものが一応「ある」前提で話してるよね

霊魂なんか存在しない、だから靖国神社なんてタダの建物で、そこで首相が何をしようが実質的意味は何もないのに何やってんのバカじゃね?

…みたいなこと言う奴が、少なくともテレビなんかには出てこない。

左翼インテリとかの中から、もうちょっと唯物的な見方する奴が出てきてもいいような気がするんだがな。

不思議だ。

2013-11-18

http://anond.hatelabo.jp/20131118162853

単純に、大川隆法が「守護霊」と呼ぶのは死んだ人間霊魂的なものであって、神が行使する能力的なものである聖霊」とは全くの別物だろうというだけ。

元増田の主張については肯定も否定もしないので安心して議論を続けてどうぞ。

2013-11-03

大宝

1970年代の有名な作品で何度か借りたのですが、読みづらくてその度に挫折。先日ブックオフで入手したので再挑戦。いや~、やっぱり読みづらいわ(笑) 句点が多すぎるせいだと思うんですよね。

なので句点だけ調整してみました。ここを読むとライトノベルのようですね。

さて、何の作品でしょう。




「嘘だ!」 少女が鋭く叫んだ。「そんなの、作り話だ」

男はあっけに取られて、少女の顔を見た。

「どうしてわたしが嘘をつくんだね、○○○?」

「ふん、この○○○を馬鹿にして。自信を失わせて、怖気づかせようって魂胆なんだろう。 頭がいいだって? 勇敢だって? すごい力を持ってるって? 竜王だって? よくまあそんなはったりを。 ああ、お前は見てきたろうさ。竜が飛び舞うところも、■■■■の塔も。そりゃもう、なんだって知らないことはないだろうよ。ところがこっちはなんにも知らない。どこへも行ったことがない。

 だけどね、おまえの知っていることなんて、みんな嘘っぱちさ。 ふん、おまえはただの盗人じゃないか。囚われ人じゃないか。 霊魂も持っちゃいない。二度とここから逃げ出せもしないくせに。 海があろうが、竜がいようが、白い塔がそびえていようが、そんなことが何になる。おまえはもう二度とそういうものは見られないんだよ。日の光も二度と拝めないんだ。

 この○○○が知っているのは暗闇だけ。地下の夜の世界だけ。だけど世の中、ほんとうはこれだけしかないのさ。闇と静寂と、人が知るのはこれだけさ。おまえは確かになんでも知っている。この○○○はひとつのことしか知らない。だけどそれは紛れもない、たったひとつ真実なんだ!」

 男はうなだれた。長い褐色の手は、静かにひざの上に置かれていた。○○○は男の頬の四すじの傷痕をあらためて見た。この男は、自分が闇の世界を極めるより遙かに遠く、広い世界を旅している。死についてだって自分より多くを知っているに違いない。にわかにこみ上げてきた激しい憎しみに、○○○は一瞬息がつまりそうになった。この男はなぜこうも無防備に、こうも毅然として自分の前に座っていられるのか。なぜ自分はこの男を片付けてしまうことができないのか。

 「実はおまえを殺さずにきたのは、」 ○○○は突然、後先も考えずにしゃべりだした。「おまえに、妖術師の魔法がどんなものだか見せて欲しいと思ったからさ。こちらに見せてもらうものがある間は、おまえは生かしておいてやる。だが、無くなってつまらごまかしでもやりだしたら、その時は命はない。わかったね」

「ああ」

「よし。じゃあ、おやりよ」

~小略~

 今度は、男が笑いだした。ふたりひとつの命を、ボールのようにころがして遊んでいた。

「何を見たい?」

「何を見せられる?」

「なんでも」

「ほら、また! 偉そうに!」

「いや、」 少々癇にさわって、男が言った。「嘘じゃない。偉そうにするつもりなどあるものか」

「なんでもいいから。見る価値のあるものを」

 男は頭を垂れて、自分の手を見つめた。五秒、十秒。何も起こらない。○○○のカンテラではろうそくが静かに燃え、鳥の翼をもった壁画の化け物たち――その目はくすんだ赤と白――は暗がりの中からじっと、ふたりを見下ろしていた。さらに五秒、また十秒。だがなんの音もしない。○○○は気落ちしてため息をついた。なぜか悲しかった。言うだけは言って、何もできないんだ。こいつは泥棒もろくにできない、人のいいホラ吹きにすぎなかったんだ。

やれやれ」 彼女はついに声に出して、立ち上がろうとスカートをたぐりよせた。と、毛織りの布が妙な衣ずれの音をたてた。○○○はわが身を見なおし、とたんにはじかれたように立ち上がった。

 何年もそれしか知らずに身につけてきた厚地の黒い衣は、あとかたもなく消えてなくなり、いつの間にか淡く、明るい夕方の空を思わせるトルコブルーの絹のドレスがその身を包んでいた。スカートウエストから大きくふくらみ、ふくらんだスカート一面に細かな真珠水晶の粒が、細かい銀の糸でぬいつけられてちりばめられており、それがまるで四月の雨を思わせて、きらきらと輝いていた。

 ○○○は言葉をなくし、黙って魔法使いの顔を見つめた。

「気に入ってくれたかな?」

2013-05-31

私がPATMになった経緯と僕の思い

PATMについてあなたはどれくらい知っているだろうか

この前、上記の日記を書かせていただきました増田です。

PATMについてご存知ない方々のためにPATMについての記事を書いたが、

思っていたとおりの反応だった。

PATMに関してご存知ない方は上記の記事を読んでいただいてから本記事を

お読みいただくとよりいっそうわかるかと思われる。

改めて思うのは人間という生き物は自分の見たことのないものというもの

信じない傾向にあるということだ。 それは宇宙人であったり、未知の惑星

いるかもしれない生物かもしれない。 あるいは、写真に写りこんだ霊魂かも

しれない。

とにかくそういったものは普段の生活の中で遭遇することがない。

そのため、多くの人はそんなものがあるのかと疑ったりする傾向にある。

ほとんどの方々は私が精神病であるという風に思っているようだが、

実際にはそうではない。 実際に自分の発する何かで自分の鼻が

痒くなったりすることがかなりある。 目が痒くなったりすることも

数多くあるのだ。

まず、気のせいだとする方々に私のあるエピソードを書いて説明することにする。

現在アルバイトをしていて、専門学校に通っていたことは前回の記事でも記させて

いただいた。

私は3年間、専門学校に通っていたのだが、1年、2年は教室内で咳き込みがあったり

マスクをされるなんてことはほとんどなかった。 3年目も最初のうちはのどをえへん

えへんと授業中に鳴らす人がいるのが気になった程度だったが、ほとんど気にして

いなかった。むしろ学校生活が楽しくて楽しくてたまらなかったのだ。3年目は!

後半は夏の実習(どっかの施設に行って研修をうけること)が終わって学校に帰ってきてほとんど休みがない中、

アルバイト現在も同じ)をやりつつ学校も通いで週に1日休みあるかないかだったときがかなりの期間続いた。

ちょうどその期間は学校文化祭(11月中旬)に向けて劇の練習があったりするなど、毎日遅くまで残って

練習が続くなど心も体もハードだった。

そんなストレスが続く中、汗をかいていたこともあって女の子から「汗臭い」と言われたのが

きっかけだったかもしれない。

11月頃になると私のストレスは半端なかった。元々電車に乗るのも苦痛だったが、

さら電車に乗れなくなってしまって、電車に乗ると体が熱くなって汗がダラダラと

出てしまう症状に悩まされた。 満員電車には乗っては降りて乗っては降りてを

繰り返しながらの通学だった。

ある日を境にマスクをする人数がどんどん増えだした。 クラスの7割ぐらいがマスクをしだしたのだ。

今思えば一体何が起こったのだと思うくらいなのだ。 よくよく振り返ってみると

僕が教室に入る前と後で見ると入った後でマスクを着用する人が結構多かった。

マスクしない人に目立ったのは咳とか鼻水をすする音が目立った。

無理をしてマスクをしないでくれた人には敬意を表する。

そんなこんなでクラスマスク多数になる日が多くて僕はノイローゼになってしまい、

12月頃には学校を度々休んだりする日が多かった。

しなしながら、この学校は休む日数に厳しく、ある日数以上休んだら単位をもらえない

ということがあってなかなか休むことが難しい学校だった。 つまりこういうつらい思いをしても

学校に通わなければならないことこそがありえないと思いながら登校していた。

お金を出して通学させてくれている親のことを思うと何とか卒業したいと思う気持ちで

毎日通ってはいたが、実習の結果がよくなかったため、卒業することができなかった。

最後のチャンスで実習を15日間ある施設で行うことになり、それを全部行けば卒業

することができるというチャンスをいただいていた。ところが、そのころすでに学校では

咳き込まれるようになって皆がマスクを着用し、僕に対する視線がつらかった。

そんなこともあってか、実習に行く気力や気持ちが完全に失われてしまった。

それでも私は一日だけでも実習にはがんばって出ることにした。僕の精一杯の一日だった。

ちなみに夏の実習は30日間である。 それをクリアできたのはPATMを自覚していなかった

のとそこまで酷く物質を発していなかったかであると思う。

ときどき先生とも面談することがあるのだが、先生研究室に長くいると途中で先生が咳き込み出し、

窓を開けてから話すみたいなことになった。 そういった先生の反応はすごくストレスになったし、

それが僕に影響を与えているという認識先生は持っていなかったにちがいない。 ほかの生徒が入っても咳き込みだして

窓を開けるなんてことはしなかったのに。。。なぜ僕だけ毎回咳き込まれるのだろうと思った。

先生に咳き込まれたのは一回の面談でではなく、毎回の面談で酷く咳き込まれ、窓を開けられるのだ。

それが非常につらくてしょうがなかった。

こうしたことが積み重なって学校のすべてが嫌いになった。

二度と学校には行きたくないという気持ちになってしまったが、アルバイト先では咳き込まれることも

あったが、僕の名前を呼んで必要としてくれるお客さんもいるということもあって僕はなんとか

生きていることができる。

いつもその方には「増田ちゃん、やさしいね」と言われ、そのときは本当にうれしいというか

波が出そうなくらいうれしい。 僕は性格ホント腐ってるけど、人に対してはやさしく接している。

僕が生きていられるのは今のアルバイト先でお客さんから必要とされているということもあるからだ。

それだけで生きていていいのだという気持ちにさせてくれる。

でもいつか僕はみんなと同じように電車に乗って渋谷に行ったり新宿に行ったりして

いろんな人に出会って遊んだりしたい。

ずっと同じ生活範囲で生きるなんてつらい。 自由に生きたい!

僕にとっては彼女がほしいとか童貞卒業したいとかそんなレベルよりも先に普通生活

できるようになるということが今一番の課題かもしれない。

2012-10-07

http://anond.hatelabo.jp/20121006211528

相変わらず批判が多いのでもっと納得してもらえそうな理屈を考えてみた。


霊魂が憑くという表現オカルト宗教じみて理解し難いと言うならば、単純に豚や牛や犬猫には感情があるから

悲哀や苦痛想像されて気分が悪くなる、と言っとく。

豚肉や牛肉を食べてる身分だからなおのこと、

「よくも殺したな~、苦しかったんだぞ、痛かったんだぞ」

って豚たちの怨念が彼の手から向けられている気がして、罪悪感を刺激されて、いたたまれなくなった。

自分自身も菜食主義者じゃないからこそ、原罪の自覚を促される気がして、つらかったんだ。


あと、豚殺せる人は、人間が同じような表情と動作と鳴き声を発して命乞いしても、

必要さえあれば容赦なく殺せるんじゃないか、私のことも・・・と思えたのかもしれない。


豚や牛だけでなく鳥にも感情があるのが分かるから殺してる人がいたらぞっとするけど、

まり表情や体のつくりが豚や牛ほどは自分と似ていないからか、苦痛や悲哀を豚ほどはリアル想像されない。

蛙やトカゲや蛇や魚でも痛いであろうことは分かるけど、

表情や体のつくりが自分と違いすぎて、その痛み方が自分の痛み方と同じかどうか分からないし、

人間ほど複雑な感情があるようにも見えない。

子供や仲間が死んで悲しいとか、一生を幸せに生きたいとかそこまで考えてるように見えない。

昆虫に至ってはじたばた暴れても苦痛というより生化学反応でそうしてるだけに見えるし感情があると思えない。

植物は脳も神経もないし、若干動く種類もあるけど、基本的に光合成するだけの物体だと思う。


あるいは「自分が触れる生き物」だから殺されることにショックを感じるのかも。

触るということは生きていること、存在していることを確認することだから

から豚牛や犬猫や鳥を殺されたら、ひとつの命が消されたという実感を持つのかも。

http://anond.hatelabo.jp/20121006211528

そういうのを職業差別者というんだろう。

血肉に霊魂が宿るなんて。俺達は毎日それを食っているんだよ!もし祟られるなら人間存在のものだろう!リアリティなさすぎ。

このドキュメンタリーは良かった。

いのちの食べかた

http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/

この予告編は少しグロいけど、これが現実だ。

http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/main/wmv/movie.asx

俺達は毎日無機質ではない「いのち」を食べている。忘れるな。

2011-03-09

日本人、その不思議信仰に実在するのであろう何か

日本人という民族宗教と聞くと、まず怪しむか馬鹿にすることから入る。

いまどき神を信じてるとか気持ちが悪い、馬鹿馬鹿しいと言い、ありもしない存在言葉を信じるのは馬鹿しいと付け加える。

しかし、日本人は実生活の中では実に面白い行動を見せる。

食事の前に「いただきます」「ごちそうさま」と呪文を唱えて料理食材となった生き物に対して感謝と供養を告げるのだと彼らは言うのだ。

彼らの話ならば霊魂など存在しないと言う、また、近代科学に則れば動物植物に意志などなく、その行為を人間に頼んだという現象は存在しない。

多くの日本人達はありもしないものや、想像上の意志に捕らわれて、それをモラルに則った行為だと信じている。

食べ物を粗末にするな」と言う言葉もあり、なぜありもしない存在に気を遣って実際に存在している人間が苦しい思いをしているのか不思議に感じるが、彼らにとってはごく当たり前の考え方だという。

日本人霊魂を信じることを、幼稚な物と考えているような場面に出会うことが比較的多い。

しかしながら、日本人は故人に対する慈しみと敬いを強く持ち合わせている。

故人の遺族や友人に対して行う物ではなく、故人そのものに対して自ずから行っている。

その大きな矛盾に対して彼らは自覚しているが、自らの中に整合性を持っていない、それでいて放置したまま普段の生活では背反する二つの信念からくる行為を見せる。

また、彼らは故人に敬愛と悲哀を忘れないが、故人の肉体に対しては強い拒否感を持つ。

多くの場合日本人は故人の墓が日常の近くにあることを酷くいやがる、それが土葬である場合の反発はさらに大きい。

さらに日本人は故人を燃やすことを常として、土葬に対して嫌悪感を持っている場所が多い。

故人に対しての非難や無礼を働くことに強く憤りを覚えるが、故人の肉体を火にくべることにはむしろ積極的である

彼らはこの不思議と相反する行為を特に違和感も感じずにやってみせる。

日本人に見えている物は何なのであろうか。

彼らの中で霊魂や神は存在しない代わりに、なにか実在するものが見えているのだろうか。

彼らはそれを否定するが、決して彼らは行為をやめようとはしないのだ。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん