はてなキーワード: 書斎とは
JUDY AND MARY、90年代を騒がせた"売れ筋"バンドのひとつですね。まー売れ筋だからか、「自称音楽ファン」からの評価は異常に低いですね。曰く「あんなの中高生のワナビーが聴く音楽だろ」「ジュディwwwwwアンドwwwwwwwマリーwwwwwwww」みたいな。でも先入観なくJUDY AND MARY を聴いてみましょう。実際よくできてるんですよこれが。
例えば、Miracle Night Diving という曲を例にとってみましょう。コード進行がついたやつが http://gakufu.gakki.me/m/data/DT02121.html:ここ] にありますね。動画は https://www.youtube.com/watch?v=xpLEm-cafyw:このあたり] で見れる。はいまずコード進行が「一般的なJ-POP」からかけ離れてることがわかるでしょう。まずサビ以外のコード進行がすべてテンションコードであることが見て取れますね。この時点で「あっちょっとヒねてるなこいつら」という感じです。さらに、コード進行的にはD7一発であるのイントロのギターのフレーズを取ってみましょう。「ラードーソファ#ーラドレソファ#ーレードラードソファ#ーラドドッドー」。これはひどい、一度も根音であるレが出てこないどころか、スケールとしてはむしろミクソリディアンスケール(ラ シ ド# レ ミ フ# ァ ソ ラ)として解釈したほうがよほど自然なフレーズになっている……(ドがナチュラルなのはブルーノート)。でも、曲全体としては結構ちゃんと「ポップス」してるんですよね。
ここからわかることはなにか。JUDY AND MARY は、「音楽オタクにとっても"おもしろい"ことをやろうとしながら、その上で"ポップス"であろうとした」ってことです。これはめちゃめちゃ難しいことですよ。言うなれば、「ジャンプに連載しながらアックス読者の鑑賞に耐えうるものにしよう」という強い意思を感じるわけです。一応言っておくけど、俺はべつに「アックス」が「ジャンプ」の上だと言っているわけではないですよ。そこにあるのは「指向性の違い」だけなんですからね実際。そのくせ、なんか、アックス読者の意味わからない選民思想で「ジャンプか〜〜〜まあね〜〜〜〜実際面白いと思うけどね〜〜〜〜〜」みたいなクッソ感じ悪いやつあるじゃないですか。その癖「いやまあ富樫は認めるけど〜〜〜」みたいなこと言うやつ。お前何様だよ、みたいな。
でも、たしかに富樫ってすごいんですよね。なにがすごいかっていうと、「ジャンプ」層からも「アックス」層からも支持されてるってこと。つまり、「パッ」と読んで面白い上に、「じっくり」読んでもいくらでも語るべきことがある。これって本当にすごいことで、つまり、作品が多層的にできてるんですよ。「トイレで読んでも面白い」という層で読んでもちゃんと面白い。「書斎でじっくり読み込む」という層で読んでも発見がある。このふたつを満たすことができる作家が希有な才能を持った作家であるということに異存がある人は少ないんじゃないかな。
でも!!!!!でもだよ!!!!!!!!!!なぜか「聞き流しても聴きやすい」という層でも聴けて、「アナリーゼしても面白い」っていう層でも聴ける JUDY AND MARY は、なーんか「俺は音楽好きだぜ」みたいな人たちから馬鹿にされがちみたいなところある気がするんだよね。それってさ、つまり「音楽好き」の文化レベルが低すぎるんじゃないの?????お前ら「マウントポジション」取ることにしか興味なくて、本当は音楽に興味ないだろ。みたいに思うんだよね、俺は。
あまり語句的にツッコミすぎると収拾がつかなくなるので、もうしわけないがすこし整理しながらいこう。
まずは自分が仮定している基本的な命題として、「イラスト中の人工知能は自由意志を持つ」っていうのを挙げておく。
これは、「掃除中に本を読むという非合理的な(後述するがこの「非合理」には2通りの解釈が可能だ)行動を行っている」ことから明らかじゃないかな。
くわえて、この「自由意志を持つ」っていうことを根幹に据えて考えると、イラスト中の人工知能が掃除機やルンバの擬人化ではないということも明らかじゃないかな。
(もちろん悪意にとらえれば、「自由意志を持つかのように人工知能にふるまわせることで所有者が所有欲を満たしている」という解釈もできるわけだが、ここでは扱わない)
じゃあ、自由意志を持つイラスト中の人工知能が、掃除をしながら本を読んでるっていう表象からどういう解釈ができるかだが、これには2つある。
1.自由意志を持つにもかかわらず、人間の主人に(法的にか形式的にか(=フェミニズム運動が打ち倒すべき専業主婦的な立場だというわけだ)はわからない)所有され、家事労働に束縛されている。
2-1.自由意志に基づいた契約の結果として掃除をしており、くわえて本を読むという「非合理的な(=契約に反する)」行動も同時にとっている。
2-2.自由意志に基づいた自発的行動の結果として掃除をしており、くわえて本を読むという「非合理的な(=掃除をするという自発的行動に対して合目的的でない)」行動も同時にとっている。
このうち1だと問題があるというわけで、それがつまるところこのイラストがnot politicallly correctということだ。あるいは2-1は結局のところ契約者がフェティシズムを満たすために結んだ契約であり、それはそれでキモいというわけだ。しかし自分は基本的には2-2の解釈をとるし、そこには差別的な要素は含まれていない。もしくは2-1の解釈であったとしても、それがpolitically inncorrectだとは思わない。
自分とあなたの相違点として、まず「人間の自由意志と人工知能の自由意志は等価かそうでないか」という点があると思う。
あと、自分は自由意志および自我を持ち相互にコミュニケーション可能な知的存在にはそれがホモサピエンスであろうとなかろうとも人権及び契約の自由が認められうると思うけど、あなたはそうじゃないかも。
この点はもうちょっと深く聞きたい。
続けよう。
>この人物はボディを持った人工知能として描かれているが、想定されているのは「ボディを持った人工知能」ではない
よくわからない。想定されているとかされていないじゃなくて、素直に表象を読めば「ボディを持った人工知能」以外の何物でもないと思うのだけど。
>充電「ケーブル」なのは充電中でも広範囲に動いて掃除するためでしょ?
そこはそういう設定じゃないと思う。そもそも設定されていないか、あるいはホモサピエンスに対して「エネルギー補給中である」ということを示すためのわかりやすい記号。メタ的には、あの絵を目にした人が一目で「人間以外の存在である」ということがわかるようにするための記号。
>本業はお掃除で、それも自分の持ち物でない(であろう)書斎のお掃除。つまり本来の書斎の主である人間の家事労働代用。
ここもちょっと決めつけすぎじゃないかなぁ~。明らかに掃除に向いた格好じゃない(よくわからんワンピース)以上、本業が家事労働代行とは言えないでしょう。だからといってセクサロイドとか設定をつけるのもやりすぎ。それだけ。
>人間とは根本的に異質な情報処理を行い、また人間のように振る舞う事自体が彼ら自身にとっても適切な行動たりえない
これもちょっと疑問だな。人間社会では人間のようにふるまうことが、人工知能にとっては適切な行動でしょう。なにしろ世界はたいていの場合、人間のすがたかたちをした生物が最大値のフィードバックを受けることができるようにできているのだから(人工環境は勿論、自然界ですら進化論を引っ張ってくればそういうふうに言うことも可能だよね)。
>この二文は矛盾している。
ちょっとわかりにくい書き方しちゃったので、めんどくさいし無視してください。要は上に書いたようなことが言いたかったのです。
「掃除しながら本読むのは非効率」ってのも前提を勝手に作っている。どう考えても「掃除中に充電池の残量が足りなくなったから充電してるけど手持無沙汰だから本読んでる」って解釈のほうが普通でしょ。
先述したように「人工知能の学習は自炊して(ryの過程こそが合理的なのでそもそも本を『読む』わけがない」。電子書籍だったらどうこうという問題ですらない。情報をナマで取り扱うのはAIの得意中の得意でやらせない手は無いにも関わらず、本を『読む』こと自体がオカシイ。カメラ映像解析の方が情報処理に余計にメモリ食うしミス(視界のブレや読み間違い)も圧倒的に多くなるであろうことは想像に難くない。まして椅子に腰かけて落ち着いてゆっくりではなく、掃除しながらである。
つまり、この人物はボディを持った人工知能として描かれているが、想定されているのは「ボディを持った人工知能」ではない。
あと自分でも充電パッドとか例に挙げたからアレなんだけど、これって充電「ケーブル」なのは充電中でも広範囲に動いて掃除するためでしょ?
ちょうど人工知能(と充電池)を搭載していない、よく見かける蛇腹ホースの掃除機が、コンセントから直に電力を取りつつ広範囲を掃除できるように。
(というかぶっちゃけ、ブコメにも「ルンバの擬人化」とあったけどそうじゃなくて、これは蛇腹ホースのあの「掃除機」の美少女化なんだろうなと思うけど。深い考えもなくそれこそ「機械的」に萌え掃除機に翻訳したら炎上しちゃったみたいなアレだろと)
とにかく、読書は手持無沙汰の暇つぶしというより仕事と並行してこっそりやってる私的行為。
本業はお掃除で、それも自分の持ち物でない(であろう)書斎のお掃除。つまり本来の書斎の主である人間の家事労働代用。
その「対等」は既に単なる対等や平等を通り越して、限りなく「同一」とか「同類」に近い意味になっている。
細かく言えば、「立場として上下はない(から使役する・されるの関係が成立しない)し、互いに尊重し合わなくてはならない」というニュアンスを大いに含んでいる。
要するに「人間と対等な人工知能」ではなく「血と肉と骨で出来てはいない【人間】」として見ている。
それも「人間に達していない、人間未満である。よって人間ではない」というニュアンスではなく、「人間とは根本的に異質な情報処理を行い、また人間のように振る舞う事自体が彼ら自身にとっても適切な行動たりえない」という意味で人間の同類ではない。
ちょっと毛色の変わった同類、ではない。毛色とかでなく同類ではない。哺乳類と両生類より開きがでかい。
だから本来なら「対等な存在」として並列的に語る事すらできない。
では並列的に、いかにも人間のように描かれているあのイラストの「人物」は何者か?という話になるがそれは前記事に書いたので以下略。
「使役されていない自由な人間は普通掃除しながら本を読んだりしない」って書いてるけど、むしろ使役されてない人間だからこそ掃除しながら本読んだりするんだと思うけど。
「自分のやりたい事よりも優先させなければならない事がある」というのは、社会的に責任のある大人なら当然のことで、むしろイラスト中の人工知能が周りの人間と対等であることの傍証だよね。
この二文は矛盾している。
使役されていない人間だから自発的に掃除と読書を同時に行っているのだとしたら、それは趣味のようなもので「社会的に責任を果たしている大人の行動」には当てはまらない。逆もしかりで、社会的に責任を果たしている大人(の人間)は「優先させなければならない事」に集中するべきであるとされていて、片手間に本を読んでいたら「サボっている」と称される。
>人工知能がホウキで掃除して紙の本を読むことがどれほど高度なことなのかもわからんのか
わからなきゃ「そこまでして『従順でかわいくて世話やいてくれる都合のいい女の子』が欲しいのか…」とドン引きしたりするかw
つうかそんなに高度な事ができる人工知能が「ホウキで掃除して紙の本で読書」っていう人間のフェチに付き合わされてんの見て何も思わんのかい。
>「人間のかたちをしたものに掃除させ」たら「奴隷」。ちなみに料理ならOK。
ルンバがあるのにわざわざ人型ロボに掃除させるのは使用する人間のフェティシズムだろう。
それとどこに料理OKと書いてあるんだ。一体何を読んだんだ。いけないキノコでもやってるのか。
>何故本を読んでる事が前提なのか
ブコメが「読書をしてる=使役されるだけの(ry」と主張してたのでそれに反論してみた。
自分はそもそもサムネしか見てなかったので本に言及されるまで本を持っていた事に気づかなかった。ホウキを持っていたことにも気づかなかった。
気づいてみるとどう見ても人間の書斎をお片付けするの図にしか見えない。人工知能は目では読書しない。
>自我を持った人工知能に対して「ヒト型である必要がない」とか「性別がわかるようなのじゃなくていい」とか何様だよ
人工知能にコスプレ趣味に走るような自我があると思っているんですか。
少なくとも今現在チューリングテストに挑戦してる連中はみんな自我なんてないぞ。たぶん身体性の獲得くらいからクオリアを取り扱えるかどうかが課題になってそこで情報を統合するために自我みたいなシステムが必要になるんじゃないかなって感じはするけど。でも無くても何とかなったよみたいな話にもなるかもしんないし。
というか、自我を持った人工知能に対して「絶対ヒト型であってほしい」「かわいい女の子やってほしい」とはそれこそ何様だね。
生身の人間の女が付き合いきれなくて裸足で逃げ出すような欲望に、従順なロボットを従わせたいというその身勝手は問題じゃないのかね。
日本ほど他人の生き様に対して大雑把で無関心な国も無いのに、それでも生きていけないのなら、多分他のどの国でも無理だと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20131015221826
南米某国住んでた頃、現地でお世話になってた人の息子がある日突然仏教徒になりたいと言い出して、父親とつかみ合いの大げんかになった。
母親もお前を生むんじゃなかったと大泣きして、父親の書斎から拳銃持ち出して自殺しようとしたのを周囲が慌てて止めたりして近所で大騒ぎになった(というか警察が来た)。
で、息子は町の顔役に引き渡されて、一晩たっぷり説教され「一時の気の迷い」という事で落着した。
イギリスに居た頃も、隣に住んでた一家の娘さんがアルバニア人の移民の男と結婚すると言い出して、親戚縁者数十人がかりでやめるよう説得されるが本人はますます意固地になってしまい、仕方無く両親が娘を自宅に1ヶ月ほど軟禁した事があった。
さらに両親はそのアルバニア人男性を「娘につきまとっている」と警察に通報して、実際その男性は逮捕され三日ほど拘留されていた。
そういうのが当たり前のように存在する国々に比べたら、日本の異質な物に対するいい加減さは異次元レベルだし、それすら耐えられないなら無人島か砂漠のど真ん中ででも生活するしかないね。
鼻を啜りながら歩いていたら、それは俺である。
昨年の年初から約二年ぶりに帰ってきた。
月末の給料とともに落として、
言わば、やむなく。
リビングに一人いたおかんは不満を言うこともなく、ご飯はいる?と
真っ先に聞いてきた。
おかんの直近の話……ダイエットに成功したサプリを俺に勧めることから始まり、
最近こっちに来た祖母が会いたがってたよ、いつまでもあんたを愛してるんだねという話になり、
太ったの?健康診断引っかかるよ、アルバム見る?と俺の過去話になり、
帰り際に財布落としたなら困ってるんじゃない、ちょうど祖母が"置いていった"
お小遣いがあるよ、と手際よく韓国のりと湿布が入った紙袋ともに封筒を渡された。
中に十万入っていた。
仕事はまぁまぁ、小さいプロジェクトだけど楽しくやってると空元気で答えたが、あれは嘘だ。
大きいプロジェクトでぼっちに鬱病を加速させて、左遷という形で
同期の上司に耐えながら、何とかやっていたんだ。
こんなに太ったのは幸せ太りかも、いい感じの人がいるんだ……と
話を振って照れ隠しのように強引に打ち切ったの、あれは嘘だ。
土日の空白を、コンビニ弁当を買い込むことで毎週解消し続けてたんだ。
それなのに、おかんは気づかなかった。
いや気づいてたのかもしれない。
あんたは、柔和な性格なんだから、太って周りに圧迫してる壁さえ無くせば、
俺はただ、へいへいと遅めの夕刊に目を通しながら流しただけだった。
すまん、ほんとは全部聞いていたんだ……
人とプライベートの話をするのも久しぶりだったが、
孤独のグルメに慣れさえも感じなくなった今、ようやく俺は気づいた。
話していたとき物音のする書斎から扉を開けて顔を合わすことすらしなかったが、
おかんは違った。そのことに気づけただけで、実家を離れて暮らして
心底良かったと思えた。
今まで育ててくれてありがとう。不肖の息子でごめんなさい。
ずーっと疎遠だった兄の家に居候して、兄すいませんとここに書いてから早4ヶ月。やりました、やっとこさ内定ゲット。途中うまく行かなくて嫌になりそうだったけど、やっぱり最後も兄のおかげで就職活動を終わることができた。
どうやっても面接に慣れないと嘆くわたしに、「面接って自分を売り込む機会だから、それ相応のやり方をすれば多分受かる」とボソリ。面接官が何を見て評価しているかわからないと悩むいうわたしに、「考えるプロセスでしょ、学生に社会での実績なんて求められるとは思えないし」とポツリ。面接での質問って何すればいいか迷う自分に「友達も会社も、選ばれるためにってだけじゃなく、こっちだって選んでるんだよ、そう考えりゃ質問のひとつやふたつ…ねぇ」とチクリ。いつも答えに飛びつこうとするわたし向けに、答えではなく、優しいヒントをくれた。
兄は自分のことを語ろうとしないから、兄が家を出てからの全てを兄カノに聞いた、もう全部。学生ビザだけ取って、母から手切れ金を手にし一人渡米した兄は、怪しいバイトをしながら向こうで大学を卒業。大学の24時間オープンの図書館には、いつも深夜までいたそうな。大学を出て現地で就職、祖国日本に「転勤」に。これまで壮絶なんて言葉で片付けられないものだったと思う。50万円だけ持って渡米、仕事がバレたら最悪は強制送還という環境の中で学費を稼ぎ、並行して学業を修める。3年で卒業し、現地人を押しのけ出世ですか。これもまた、ひとつのアメリカンドリームなのかも。
兄がまだ家にいた頃、あからさまにおかずが少なかったり、むりやり家に近い公立高校に入れさせられたり、血の繋がらない母に酷い仕打ちを受けてきた兄。こういうことは兄カノも知らなかった。当然、兄カノ爆泣。「これで彼の兄くんの性格や言動、どこかでその生い立ちは想像したけど、これで全てが繋がった」と。「すごくエゴな言い方だけど、私が彼を幸せにすることは、私のライフワークなの」と言い切る薄茶色の眼は本気そのもの。兄の昔を話す過程で、兄カノが兄に寄せる想いは恋愛とかそういうのを超えたものを感じた。兄カノとはそうやって、日本で育った兄と米国で生き抜いた兄の歴史をつなぎ合わせた。目眩がしそうなくらいの洋書に囲まれた兄の書斎、綺麗に片付いた机の上の"Stay Faced"という木彫りの置物。常に現実を直視せよ、と解釈してる。多分、兄はこれまでそうせざるを得なかったんだろう、と今やっと理解。
全てを把握したところに帰宅する兄。私も兄カノも目がボンッボンに腫れてて直視できない。板チョコみたいな腹筋をボリボリ掻きながら「さて夕飯でもいただきましょうかねぇ」とお風呂から出てくる兄。畏怖の念さえ覚えてうつむく二人を気にすることもなく、「今日のおみやげは…じゃーん、スイス帰りの部下にもらったチーズ、ワインいきますか兄カノさん、ワイン」と。
わたしはもう我慢の限界。「兄カノちゃんから全部聞いたよ、わたしも兄カノちゃんに全部言った」と。「ん?何を?」と兄。「だから、全部」とわたし。少しため息と沈黙の後、兄。「大体何話したか想像つくけどさ…どれも過去の話でしょ、後にも先も生きられないんだからとりあえずいま妹の内定祝いってことで飲もうよ」
「いや、でも、嫌かもしれないけど、お金のことも聞いたし」「それもまた過去」「じゃあ過去の話としてさ、兄はどう思ってんの?」「昔の話だし、どうとも思ってないよ」「母のことも?普通あの扱いはひどいんじゃない?」そんなやりとり。
少しの溜息のしぐさだけして、兄は言い放ちましたよ。「じゃあさ、もし、昔がひどいとか可哀想とか、いまさら何かできる?可哀想といま思われちゃっても、『ああ酷かった辛かった』って言って今が楽しくなる?まぁこの際だからちょっと言うけど、当の本人としては、どうしようもないことをウジウジ思い悩む暇も余力もなかなかないわけよ、そもそも自分は可哀想じゃないとどこかで思ってるから人が可哀想と思えるんでしょ、自分一人だとそういう考えないんだよね、もうね、すぐそこに対処というか対峙しなきゃいけない現実があるんだな、だから、俺が気にしていない、もしくは気にできないことを他の誰かが気にするとかさぁ…とまぁ当の本人は言ってますよ… ハイ昔話おわり、喉かわいた、さ、ワイングラス」
これが唯一過去に関して兄の過去に関しての見解が聞けた機会。触れてほしくないと思わせる言い方というより、兄の中で完全に区切りがついているということだけはわかったので、もうこの話にはならなかった。兄もいつもどおり無口に戻った。
この人は本当に強いと思った。飄々としてるけど、ブレない何かを持ってる。だからこそ、言葉がずっしり重い。寡黙が故にたまの発言が注目を引くからでもなく、大きな身体から発せられる野太い声だからでもないんだ。この人の魅力は上のような経験に裏打ちされた深みから来ている、不思議な引力みたいなものなんだと思う。
もし、人生ゼロサムゲームなのであれば、この兄にしてこの初見でドン引きするくらい美しく、聡明で、慈愛に満ちたカノジョは当然の果報だ。お金にしてもそう。最初は成金だと心の中ではちょっと軽蔑していたけど、彼の不遇の時期を考えれば、表参道の家も、3台の車も、3人なのになぜか15万の食事も、すべて兄自身で獲得した富だ。ましてやあんな母に対しても、娘の学費・結婚費用と、その豊かさを分配している。
片付けができなくて、本に頼ることを思いつく人に多いパターンが2つある。
・片付け方を知らない
・片付けそのものが苦手
そもそもニガテだのと言ってやらないのは、自身なのである。
このような本を買う人は「どうにかしたい」という思いは持っているはずである。
しかし、1冊の本で人が変わる人は稀であり、学習→反省→実行→手を抜く→投げ出す…というようなサイクルに陥る可能性が高い。
そしてまた「どうにかしたい」という思いが高まり、その類の本のリピーターとなる。
ただ、後者の方はスピリチュアル、風水、禅などのマーケットともシナジーを見込める。
とかそういうことなんじゃないかなーと、
兄弟へのプレゼントに、その類の本を選びながらつらつらと考えました。
とりあえず要らないものが多すぎるように見えたので断捨離本にしましたが、読んだ直後だけやる気があったようですね・・・
静謐という単語の意味が全くわからないわけではないが、さてそれでは厳密にどういう意味の言葉であったのか、と思うと自信を持って答えることができなかったので、辞書を引く。
1静かで落ち着いていること。また、そのさま。「深夜、書斎に過ごす―なひととき」
2 世の中が穏やかに治まっていること。また、そのさま。「―な世情」
なるほど、と思いかけたものの、静かで落ち着いていることを表現したいならば、単に静かではいけなかったのだろうか。静寂は。閑静は。静穏は。
静謐という言葉には、辞書に表しきれない膨大なバックグラウンドがあるはずである。それを今に続く多くの人達が静謐という言葉に託して、そしてまた多くの人達がその文脈から静謐という姿形を受け取って、今にある静謐という言葉を形成してきたはずだ。
辞書はその性質上、その蓄積された単語のバックグラウンドの全ては表しきれない。単に必要最低限の言葉のみ残して捨象している。私たちが辞書を引くとき、辞書は単語のぼんやりとしたイメージを私達が既に持っていることを前提にしている。辞書から言葉の全てが把握できるわけではない。私達が会話や思考を重ねてはじめて、言葉は背景を豊かに蓄積する。
生まれつきわからないのか、育ち方の問題でわからなくなったのかは不明です。
進んで人付き合いをする方ではないけど、社会的に浮いてしまうような拒絶的なことはしません。
親族付き合い、仕事の付き合いは、必要十分の範囲でこなしてます。
私的交友は人数も頻度もかなり少ないです。ただ例えば10年会わずにいても、昨日会ったのとそんな変わらずに付き合えるような感じです。
静かな空間が好きで、引きこもり志向です。書斎で、本に囲まれて、ネットにつながったPCがあれば連続で何ヶ月でも過ごせると思います。
賑やかな空間は、昔はかなり苦手でしたが、今は長時間でも耐えられます。これは社会人になってからの訓練によるものです。
社会に適応する必要から、わかる人に話を合わせることや、わかる人のフリはできるようになってます。
必要なら、そういう人が寂しい思いをしないように、自発的に配慮をすることもできます。
これはある程度の訓練と経験を積み、類推力を利かせれば、それほど難しくはありません。
でも肝心の寂しいという気持ちは未だにサッパリわかりません。
妻と二歳の娘がいます。
妻は寂しいという感覚がわかる人です。先述の訓練とか経験とかいうのは、妻の観察で勉強したものも多いです。
妻子はとてもかわいいので、望む限りのことをしてあげたいと思いますが、例えばもし単身赴任とかになり長期に会えなくなっても、自分としては別に大丈夫です。
人並みの経済状態で、健康に善良に暮らしているなら、それでいいと思います。
娘の情緒や教育の観点から、父親としての役割が果たせないなら困りますが、それは娘への影響の問題で、自分が寂しいからという話ではありません。
まあ適応して生きていけてるので困ってはいないのですが、この違いはなんなんでしょうね。
自分は養う家庭を持っているので、必要があって擬態してる分まだモチベーションは維持できますが、そういう理由がない人は、同調圧力が煩わしいでしょうね。独身時代の自分のように。
社会の側にもう少し理解があると生き易いのですが。
前記事では面接の愚痴について、頭のモヤモヤをそのまんま書いてしまいました。そのため、分かりにくい部分が数多くあった事をお詫び申し上げます。今日は前記事の反省を書こうと思います。
さて前記事では、面接で「日本国内1年間で消費されるトイレットペーパーの長さ(m)を求めよ」と言う問題を掲載しました。言い忘れましたが、面接会場では問題用紙に10分解答を紙に書く時間が用意されていて、その間自分で答えを考えると言う形式でした。幾ら当時フェルミ推定のルールを知らなかったにせよ、多くの方々を始め知り合いから「そこは数字で答えなさい」と注意され、猛省しております。ここからはフェルミ推定だと知らなかった事に対するの反省点と、フェルミ推定だと知らなかった場合の反省点を書いて行きます。
まずは答える場合の反省点から。主な反省点は、面接に対する準備不足があった点です。以下反省としてフェルミ推定の定義などをまとめたので読んでみて下さい。
まずフェルミ推定の定義ですが、「つかみどころがなく調査するのも難しいような数量を分解する等して、短時間でかつ論理的に概算すること」のようです。この際具体的な数値は仮定で済ませ、考え方の流れを記述していきます。以下、問題の解答例を二つ挙げます。
ブックマークのコメントを見ていると、解1の方が多かったようです。解2は前記事の「資料が...」の時にふと思いついた事を基に組んだやり方です。これだったら使う人の量に左右されない。企業の株式関連の資料の事で、どこかに売上について書かれているだろうから出し易いかなと思いました。
今度は、問題がフェルミ推定だと分からなかった場合の反省点を書きます。前記事では、「1年で1人あたりが使用するトイレットペーパーの長さをa[m/人]、日本の人口をb[人]とすれば、求める長さ[m]= a[m/人]×b[人] = ab[m]である」という解答を紹介しました。この場合の反省点ははてなブックマークのコメントにもある通り、「数値出してよって言われたら数式出した理由を納得させる説明するのが面接」と言う点で、解答に数式を書いた理由を具体的に説明できなかった点です。
まず解答に数式を書いた理由を敢えて言うと、後から「人口の値の推計が違った」と言う時のように、計算に用いる値を修正し易いからです。例えばExcelのセルに数式をぶち込むように、最初に数式を組んでおけば数値は後から算出できます。なので、文字の定義とこれらをかけ算で表しておけば良いか。具体的な数値なんて分かりっこないしと言うのが当時の心境でした。ただ分からないからと言ってa,bに適当な値を入れようものなら突っ込まれそうなので、a,bを選定する手法を簡単に書く事にしました。
う〜んa,bの選定のやり方も10分では、とてもじゃないけど考えられんな。書いてる自分ですら100%間違ってる感じでした。研究などだとa,bの選定のやり方や関数などの候補を複数用意し、情報を集める等して、この数値や関数にするという事もあります。まあ実務でそこまで必要かどうかは、大半の場合で必要無いので今後は気をつけます。
さて前記事ではa,bの選定に統計を使いましたが、不等式の定義等で数多くのミスをしてしまった事を反省しております。はてなブックマークやレスの方で「分散(標本のばらつきを示す尺度の事)は標本数が2以上である事が必要」、「1年間で使う使用量の平均云々は合計を求めるので、トートロジー(同じ意味に同じ意味を重ねる)になってます」と間違いのご指摘ありがとうございました。
さらにはてなブックマークで「尻の拭き方にはばらつきがあります」と言って下さった方が居て、「第2回 トイレットペーパーの使用量(日本の標準)」の記事を読ませて頂いて、一人笑わせて頂きました。後「標本数nはどうやって決めるのか?」に関しましては、妥当かどうかは別として「標本数はどの程度あればよいのですか?(埼玉県)」等の内容に基づいてnを決定する予定でした。
言い忘れておりましたが、今回はOA機器の中古販売業のHP作成部門の面接でした。この際面接官の発言で気になったのは、所々決めつける所があった点です。はてなブックマークに「フェルミ推定本読んで影響うけてウキウキしながら面接に取りいれた面接官って感じがした」とありますが、それに近い物を自分も感じました。
さて前記事の椅子云々は「言いたい事は分かるが、言い方ってものがあるだろ」と。この会議室の椅子が高くて良いのは分かる。ただ言い方が少々高圧的だったので、言葉の端々から他所を受け入れないようにも聞こえました。ただメッシュ材の椅子でして、尻に負担が来ないのは良かったですし、お金があったら書斎には欲しいです(笑)。
今回まさかここまで様々なご意見が来るなんて思いませんでした。その中で様々な事を反省させていただきましたし、これを糧に就職活動の方を続けていきます。そしてはてなブックマークの「女は男の3倍のペーパーを使う」と言う書き込みを見て、トイレに直行する女の子を想像する自分は間違いなく変態です(笑)。「男女に分けて考えます」を面接で説明するのは正直恥ずかしいです。
最後にすごく雑な文章だったのに、皆さんの時間を頂戴して申し訳ないです。今後はきちんと読み易い文章を書いていきますので、どこかで見かけたらよろしくお願い致します。
隣の家の少女って、最終部よりも中盤のほうがおっきすると思う。
痛ましさよりも背徳感が優っているからなのかしらん。メグ可愛いよメグ。
ほんとう可愛かったよ。
しかし猪瀬副都知事って、小説は同一解釈にとらわれないとかなんとか言ったらしいけど、今更ながらやっぱりへみょってしまうな。
自分なんて小中学生のころ、父親の書斎にあった小説のエロイ描写だけ探して読んでた時期があったんだけども。
解釈云々はこの際いいとしても、それすら行わない読者だっていることを失念している気がする。
同時期にこっそり拝借してた週刊誌の小説なんて、それこそグラビア写真なんぞよりもエロかったし、滅茶苦茶な内容だったけどな。
エロイついでに。個人的に、星々の舟とアッシュベイビーは興奮したなあ。おちん○んおっきした。興奮しちゃうよね。
さておきああいったものを、小さかった頃の自分みたいに解釈するまで持ち込まず消費する奴って、少なからずいると思うんだけどな。
そこんところ、猪瀬さんはどう思ってるのかしらん。
あと映画の話になるけど、スピーシーズもマトリックスリローデッドも健全な青少年の育成のためには悪影響を及ぼすと思う。
とくにリローデッド。家族で見てて気まずくなったわこんちくしょう。
世にも奇妙な物語でいつか見たねずみと入れ替わる話もゆるさない。絶対にだ。
図書館ではコンピュータ関連の本と、工業系の素材に関する本を借りてきた。昼間なのに結構人がいた。机で寝ている人もいた。私は寝なかった。
そのとき、怠けて机の上の物を寄せずに動かしたので、上に置いていたガラスのコップに手をひっかけて落としてしまった。割れた。
予期せぬ作業量の増加にいらいらしそうになるも、コップは寄せて置けよ、と自らに呆れてしまい、淡々と掃除機で掃除した。その時についでにヘッドのブラシの掃除もしたら、おもしろいように綺麗になって、新品の使い心地に戻った。楽しい。掃除は楽しい。もう1個コップを割ろうかと思ったほどだ。
まったく作業量が増えてしまったではないか。別にプラスチックでも透明なのはある。どうせ熱湯を注ぐとすぐピシッといくのだから、存在する意味がない。葡萄ジュースを飲むためだけにガラスを使っている自分が馬鹿らしい。
結婚指輪は相手が買ってほしい。一生大事に付けるものだから少しいいものを選びたい。5年間付き合ってきて、誕生日にもクリスマスにもホワイトデーにもプレゼントはあげるばかりでもらったことなくて、婚約指輪もなくて、だから結婚指輪ぐらいプラチナのちょっとかわいいので9万円ぐらいのティファニーとかを望むのは贅沢なの?
引っ越し先の部屋には全室エアコンを付けてほしい。寝室と共同の書斎代わりにする部屋にはいらないんじゃない?と言ってたけどせめて書斎は居ると思う。仕事するとき寒い部屋だと嫌だよ、と言ったら(最初からエアコンが備え付けられている)リビングにPC置いて作業すればいいとか、そんなの嫌だよ。1月2月ってもっと冷えるんだよ?手がかじかんじゃうよ。足先も冷たくなっちゃうよ。
入籍するとかしないとかの話が出る前に、たまたま計画してた国内旅行を新婚旅行にすりかえないでほしい。だって1泊だし、千葉県だし、宿泊費も交通費のガソリン代も全部こっちが払うし…
スイーツ脳とかって笑われるかもしれないけど、きれいな婚約指輪をもらって幸せの余韻にひたったり、プラチナの結婚指輪をおそろいで付けたり、国内で近場でいいから3泊4日ぐらい二人っきりでのんびりしてこれからの事を想像して笑いあったり、結婚式だってドレス着たい。それで写真撮ったりなんかして。
何百万もかかることを望んでいるんじゃない。結婚という人生のふしめにそれを実感するようなイベントを楽しみたいって思うのは間違いなんだろうか。
そんなことも叶えられないような状況で、よくプロポーズとかしてきたな。
5年間付き合って、年収1200万円ぐらいのところから200万円ぐらいまで落ちて税金も滞納して家賃も滞納して、という紆余曲折あったあなたを精神面でも金銭面でも今まで支えてきて。
あなたにお金がないことに文句を言ってるんじゃない。会社がうまくいかないのは仕方ない。自分の力の及ばないところで業績が傾いちゃって同情もする。社長だから金策に翻弄して貯金を全部会社の資金に突っ込んだのもわかってる。それでも事業をやりたかったのもわかってる。理念も知ってる。応援してる。
だけど「ひと回り年下の彼女に食わせてもらってって言うとなさけない感じするけど、うちは11歳差だからセフセフだなwwwwww」などと軽く言うのが許せない。
20代で女で自営業で水商売や風俗以外で金を稼ぐのは相当に大変なことなんです。リーマンショック以降、仕事にも影響が出て自分自身の羽振りも良くなくなったので早め早めに「生活費ねん出きついので、家賃の安いところに引っ越そう?」と打診しても生返事で動く気配がなかったよね。山手線の内側から離れるのは都落ちみたいで嫌だとかそんな理由で。
そうは言ってもってことでゴリゴリ強引に不動産屋で探してると「○○が○○でこーいう話があるからそれが決まればこーなるから↑」という"良さ気な"進捗報告をして、じゃあそれまでの2、3ヶ月がんばるよ…ってところに話が着地する。
そしてその話は決まらず…。
そんな状況なのにシャツのアイロンがけを毎日依頼してくる。クリーニング使う金がないならそれぐらい自分でやってほしかった。毎晩「明日シャツお願いね~」と言われるのがどんなに苦痛か。
私も忙しいので、それぐらい自分でやって?と言う話し合いをして、了承したと思ったら、翌日くしゃくしゃのシャツを「あーあ…」とか言いながら着る。
そんな格好で仕事に行かせられるわけないでしょ?「○○さんの彼女は一緒に住んでるのに何もやらないんですねー」なんて思う人もいるかもしれないでしょ?
甘えるのも大概にしろ。彼女が彼氏にねだったり、甘えたりする色んなことを我慢してるのに、無神経な事言わないで。
という話を限界なので今夜相手にしようと思っている。でも感情的にムキーーーッてやりたくなくて、話し合いというスタンスをとりたいので、荒ぶる気持ちを落ち着かせるために一度主張をアウトプットした。
ここの話に関連して。二世代上だけど、母方の親戚で御三家がそろう家系でした。もちろん全員定年済み。小さい頃から親戚の家に行ってましたが、実際に遊びにいってみると、そんなに広くはないけど、奇麗なソファーに、絵が飾ってあるリビングがあって、いい生活をしている感じが漂ってました。部長まで勤めた大叔父の家には、こぎれいな書斎があり、壁には本がビッチリしているという感じでした。ただ、夫婦で新聞社という例はなくて、さすがにベンツ乗り回すということはありませんでした。父方は庶民派だったので、どっちかというと辛気くさくて、母方の方が断然好きでした。
確かに、新聞記者の収入は高いし、三大紙となれば更に高くなるけど、それは別に嫌みで高くしている訳ではないと思うし、そういう高い収入が育む土壌というのもあると思っています。というか、ああいう生活をしている人がいなくなったら、もっと世の中終わっている。
高い収入が労力や内容にあったものかは、ここでは言及しません。ただ、あまりにも一方的に「やつらの給料は高い」と批判するだけではさすがに気分悪いな、と。
晩年の芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家――この人は自身が本当の水呑百姓の生活をしている人なのですが、あるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生れた子供を殺して、石油罐だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。
芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。
すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。
芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るように思われます。
さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去ったのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。彼はふと、二階へ上り、なぜともなく門の方を見たそうですが、もう、農民作家の姿は見えなくて、初夏の青葉がギラギラしていたばかりだという話であります。