はてなキーワード: 救急車とは
でも「なにを助けてほしいかわからないけどとにかく助けてください」にはみんな飽き飽きしてるんだよね。
病院があるのにどの科に何時にたどりつけば治療をうけられるかわからないしちょっとググればでることを調べもしないで「病院がこっちに来い」しかたなく救急車呼んできたらきたで「おまえじゃない」と喚くのがセルフネグレクトの果てなんだろ。
もうこういう子供大人のセルフネグレクトからの「他人がネグレクトする」と喚く虐待には世間は飽き飽きなんだよ
5歳だったらあらあらかわいそうねよしよしってなるだろうけどおまえら何歳だ
お 前 ら 何 歳 だ
オッスオラ主婦!
連休どこにも行けないからドライブついでに普段行かないちょっと遠めの複合施設に家族で食料品買いに来たぜ!
密にならない範囲で施設外を散歩した後、密になるから旦那だけが食料品の買い物に行って主婦と幼児と赤子が立体駐車場の車で待ってることになったぜ!
幼児は大人しく本を読み始めたけど、主婦車で待機し始めてから腹の調子が悪くなってきたぜ!
ピンチになった主婦は旦那に鬼電したけど、店の中が混んでいて旦那は結局電話に出なかったぜ!
大人しく旦那の帰還を待っていた主婦に幼児が「おしっこ」と残酷な台詞を吐いたぜ!
トイレに行きたいのはお母さんじゃこりゃあ!
急いで赤子を抱えて幼児の手を引っ張って車の鍵を締めて駐車場を爆進したけど、店舗と反対側に止めていたから店舗までが長いぜ!
何とか連絡通路まで来た!
しかも赤子を抱きながら幼児の手を引くというお腹に集中できないステータス異常!!
間に合うのか!!!
トイレのマークの下に「この階にトイレはありません」の非情な文字。
主婦無事に死亡。
なんでエレベーターしかないのだ階段を設置しろよぉとかエレベーター待ちながら思ったぜ。
1階のトイレにも「工事中。3階のトイレをお使いください」の非情な文字。
主婦は幼児に「頑張って」と言いながら3階のエスカレーターを登ったぜ。
100均の前を通ってトイレのマークを探して、50mくらい歩いたぜ。
時既に全てが終わって始まるところなんだぜ。
とりあえず赤子をオムツ替えシートに縛り付け、幼児のおしっこの世話をしたぜ。
おむつしていたのにすごいぜ。
母ちゃんとは大違いだぜ。
旦那にトイレの場所を伝えるも、別のトイレに向かってしまったようだぜ。
おむつ替えるわけでもないのにいきなりオムツ替えシートに乗せられて泣く赤子。
「赤子の泣いてるトイレに来い」と告げ、主婦は被害状況を確認。
パンツだけ何とかすれば何とかなる。
「何が壊れたり誰か他人が傷ついたわけじゃないからヨシ!」と旦那。
確かに主婦はよく緊急事態に陥るので慣れっこだけど、ここまで過酷なミッションは今までなかったぜ。
救急車沙汰にならなかった分本当によかったんだぜ。
赤子もすまなかったな。
そしてそんな緊急事態にも冷静に対応してくれる旦那には頭が上がらない。
誰も悪くないんだ。
運か、そうかもな、HAHAHA。
トリアージ始まってんね。命の選別。大阪人が命を選別してもいいよって政党に入れたんだから仕方ないね。好きでしょ?自己責任。
維珍なんかを選んでた大阪人の自業自得だから。苦しんで死ねば?それかリコールでもしろよw大村にやってたみたいにさw
維新の議員って中国のホテル会社に金もらってたよね?秘書が車で人をひき殺そうとしてたりしたらしいね。ねえなんで支持してるの?
何をもって売国と言ってたの?日本政府を批判したら売国?「貶めた」ら売国?維新は愛国心にあふれる素晴らしい政党なの?韓国とか在日とか、それお前の生活に関係ある?
イラつくとかそういう感情抜きにして。いい?慰安婦像作られてイラッとするのは単なる感情なの。わかる?その感情って、今まさに大阪で命の選別が行われてるけど、それよりも大事なことなん?
これも結構前の話になる。
「そういえばあの時、どんな気持ちだったっけ?」と思い返す機会があったので、折角なので文字に書き残しておきたい。
そうすれば胸に落ちるものも、もしかしたらだけど多少はあるんじゃないのかな?って感じで。
内容が内容なので、少し長くなるかもしれないけど、お暇な方がいらっしゃいましたら読んでやってください。
あんまり仔細に年月日を狭めすぎるとアレなので、時期は今から7年ほど前。
ちょうど今のような、若干寒さも落ち着いてきたかな?ってぐらいの春頃のお話だと思って下さい。
兄の方がとても優秀だったんで、随分と見劣りはするけれど、俺の通っていた高校のレベルからすれば「まあ頑張ったんじゃないの?」程度の大学へと入学。
その筋のマニアには結構有名な、二郎インスパイアの名店が近くにある登り坂の長い大学ですね。
あれは本当に数少ない良い思い出です。メチャメチャ美味かったな。店狭いし、オッサン怖いし、汚いけど。
オススメは小ラーメン・麺少なめ・ニンニクマシ・アブラマシマシです。
しかし高校まではチャリ通で10分だったところが、電車を乗り継いで1時間半になったのは本当によくなかった。
職場と学校は、絶対に自宅から近い場所を選びましょう。近い場所にないのなら、あなたが引っ越してしまいましょう。(経験則)
そんなこんなで深夜までゲームやらアニメにうつつを抜かしては、中途半端な時間に目覚めて、一限は余裕でアウト。
気付いた母親に叩き起こされて、仕方なく起床。もそもそと着替えて、遅刻前提の移動。
それで素直に大学まで向かえばいいものを、「途中で行くのも面倒くせえな」と地元のカラオケで朝割フリータイムしてたり、本屋で立ち読みしてたり。
入学当初からそんなんだから、とにかく授業内容は良く分からないし、眠くて眠くて仕方なかった。
何よりも人見知りだったもんで、良くも悪くも自由な大学形式の授業とサークル活動に、いまいち馴染めずにいた。
大学は少中高と違って、能動的に働きかけないと友達はできないもんなんです。あの頃の俺に教えてやりたい。本当に。
夢見ていた大学生活は、俺にとってはただの眠気との闘いに成り代わっていたのである……。
そんなんで仲の良い友達も全然いないもんだから、授業サボりまくって、図書施設のビデオ設備で「ロード・オブ・ザ・リング」とか「戦場のピアニスト」とか見てたな。
いや、完全に余談でした。すみません。
とにかく、こんなカスの具現化みたいな大学生活を送らないよう、新入生の皆さんは頑張ってください。
話を戻します。
俺が小学校に上がるぐらいの前に、うちの母親は一度離婚している。だから俺は種親の顔をほとんど覚えていない。
「自分はママとパパと話すけど、ふたりは全然しゃべらないなぁ」とか「やたらと関西の実家に行ったり、親戚の子がうちに来るのはなんでだろ?」とか。
そんなことを子供ながらに思ってたんだけど、今思い返せばそういうことだったんだと。
そんなこんなで気付いたら第一の父親が消えて、俺が小学校二年生ぐらいの時に、新しい父親が来た。
そりゃ向こうも腹を据えて、血の通ってない兄弟二人を抱えるわけだから、多少の上っ面は確保してくるには違いないんだけど。
一緒にお風呂に入れてもらったことが嬉しかったのを覚えてる。そんな第二のお父さんの背中には、ご立派な龍のモンモンが彫られていたけど。
仮初でも、その人は優しくて良い人で、色んな場所に連れていってくれたりした。なんかホテルが多かったな。海ほたるとかもよく連れていってもらった。
多分これまでの人生25年、その人が来てからの数年が一番幸せだったんじゃないかな?
中学に上がる前ぐらいの、それぐらいの間。ホントに幸せだったと思う。ボンボンもボンボンで、当時Xbox360でCOD4のネット対戦してたの俺だけちゃうかレベルで。
俺も兄貴も母親も父親も、心から「家族」を感じてた最後の瞬間だったと思う。
で、俺が中学に上がった頃に、第二の父親が手掛けていた事業が一気に傾いてしまったと。
これは直接見たわけでもなんでもないけど、父親の元同僚の方に聞いた話なんで、間違いないことだと思います。
そっからの酒乱っぷりたるや本当に凄くて、中学生ぐらいになると俺も兄貴も(特に俺は)夜更かしをするようになってるから、
ベロンベロンの状態で帰ってきた泥酔親父に、子供相手に何を言い出すねんみたいな絡み方をされだして。
うわぁ、イヤやな……って、毎日夜になる度に鬱になってたのを思い返します。寝てたら寝てたで起こしにくるし。逃げようないやん。
この一言が本当に忘れられなかった。シグルイのあの人ばりに、(この傷は二度と戻らんな)と泣きながら感じたのを覚えてます。
しかもこれ確か、母親の目の前だった気がするんですよ。なんか二人で揉めてて、俺が仲裁に入るじゃないけど、間に入ろうとしたらこうなったみたいな。
酔うと貯め込んだ本質が出るタイプの人っているじゃないですか。つまりはそういうことだったんだな、と。
それ以降、父親と心を通わすことは一切なくなった。もちろん話したりってことはあるけど、他人みたいなことで。
そんなこんなで、それでも気付いたら中学生になって、高校生になって。
第二の父親は家からはいなくなって、お金だけを入れながら、たまに連絡を取るぐらいの関係になって。
小中校まではすごい楽しかったんですよ。面白い友達もいたし。なんで急に大学でダメになったのか、不思議だなぁ。
母子家庭であんまり余裕のある生活じゃないけど、塾にも行かせてもらって、奨学金も出る。
大学にも行けるんだと思えば、ちょっとぐらいの家庭内のゴチャゴチャがあるぐらいで不幸ぶんなよ、俺よりひどいやつなんて山ほどおるぞと自分で自分を戒めたりもして。
そして母親の様子がおかしくなりだしたのは、このあたりだったと思います。ちょうど俺が大学受験を終えたぐらいの時分。
深夜、お腹すいたなーと思ってリビングに行くと、母親がワインと大き目なビニール袋みたいなんを用意してて、一人で黙々と飲んでて。
で、ちょっとなんか変な感じがして、母親の目から。据わってるって言えばいいのかな。とにかく、明らかに普通じゃないけど、普通を装うとしているのが伝わってくるような、そんな感じで。
無言でいるのも変なので、「なにこれワイン?家での飲んでるの珍しいね、いいやつなの?」みたいなことを訊いた覚えがあります。
うちは父親の件もあったので、母親とはすごく仲良しだったから。
思い返せば、極度のマザコンだったんだと思います。特に兄貴が遠方の大学にいってからは、実家には俺と母親の二人だけだったから。
とにかく変な雰囲気だったから、「お酒家で飲むの初めて見たかも!俺もひとくちもらおっかなぁ」みたいな、おどけてなんとかしようみたいなムーブをした記憶があります。
「いいよいいよ。飲んでみな」と、母親が余裕で許可をくれたことも結構意外でした。酔ってたのかな?分かんないけど。
ド深夜、テーブルライトだけつけたリビングの机、ワイングラス、謎の大きなビニール袋。
なんかすげえヤバイことになってんのかな?と。
なんでだろう、このあたりから薄々感じ取り始めたというか、そんな気がしました。今までにこんなことなかったよな?って。
そして寝て起きたら、横に母親がへたりこんでるんです。体育座りを右斜めに崩したみたいな恰好で。
俺は一瞬、本気で死んでると思った。でも慌てて抱き付いたら、ちゃんと体温も呼吸もしてたので、本気で安心したのを覚えてます。
えっえっ?ってなって、どうしたん?って聞いたら「いや、ちょっと……」みたいなことで、手元を見たらスカーフ?とハンカチを束ねて作ったような、首吊り用の縄?があって。
正直ワインのときから厭な予感はしてたから、メチャクチャ驚いたし、なんで?ってなった。
「それはだめだって、それだけはだめだよ。これからどうすんの?」って泣きながら問い詰めた記憶があります。
人間、本当に近しい人であれば、ちょっとした行動から、「なんとなく自殺しそうだ」というのが分かるものなんだって思いました。
マジでここらへんの記憶が、ずっと頭からこびりついて離れない。身体を下ろした時よりもキツかったかもしれない。
未だに良く分からない。要するに母親は、部屋のドアノブに縄を引っかけて、首吊り自殺をしようとしたんだと。
しかも俺の部屋のドアノブだった。誰のだったらいい、ということじゃないけど。この時には、兄貴はとっくに外に出ていたはずなのに。
首元を見たら、真っ赤っていうか、うっ血したようなアザになっていて、「失敗しちゃった」みたいなことを半笑い、作り笑いで言っていたような記憶があります。
未だに後悔しています。
あれだけ明確に希死念慮を見せていたにも関わらず、なにもできなかった。
母親がこのとき、俺に助けを求めていたのかは分からない。あるいは本当のショックを与える前に、「私は死ぬからね」という予告をしたのかも分からない。
兄にも周囲にも連絡をしなかった自分の愚かしさ。せめて身内だけには言うべきだった。
でも、言ってもどうにもならないんじゃないか、言われた側に負担を強いるだけになるんじゃないかと、どこかで想ってしまっていたのも事実です。
「母親が自殺をするかもしれない。どうか助けて下さい。」この言葉を俺はいったい誰に伝えればよかったのか、いまでもわからない。
救い方があるとしたら、それは俺がどれだけ母親が好きで、愛していて、感謝しているかということを、心変わりするまで何度でもいうことしかなかったんじゃないかと。
ちょっと早めに授業が終わったのか?サボったのか。正直どっちでもいいけど、俺は家に帰った。
なんだかすごい胸騒ぎがしてた。兄も俺も家にはいない。家にいるのは母親だけ。
ただいまとドアを開けた瞬間、やはり自分の部屋の前で、足元に椅子を置いて、スカーフで作った縄を首にかけて、うなだれて扉にもたれかかる母親を見つけた。
凄まじい衝撃と同時に、「やっぱりこうなった」とどこかで思う自分がいた。
首にかけているスカーフは素手では取れなかったので、キッチンからハサミを持ってきて、片方の刃で切り落とした。
抱き抱えた母親の身体は、思い返せば想像よりもずっと軽かった。
「誰か、誰か助けてください」と今までにいったことのような言葉を金切り声で叫びながら、居間の上にあおむけにさせて寝かせた。
兄は大学二年生で、本来なら学生寮にいたはず。この日はたまたま里帰りをしてきて、何かを読みに本屋にいってくるといっていた記憶がある。
もしかすると母親は、この日を待っていたのかもしれない。兄弟が揃う日じゃないと死ねないと思ったのか。分からない。
「ママが首を吊ってた。いま俺が下ろしたけど、意識がない。救急に連絡するから、すぐに帰ってきてほしい」
と言って、すぐに電話を切った。兄は「わかった」とだけ言っていたような気がする。
家の場所を伝えて、どうか助けてくださいというと、すぐに救急車と救助隊の方々が来た。
俺は人命救助の方法とかがまったく分からなくて、もしかすると心肺蘇生とか、胸骨圧迫とか、本当はいろいろなやりかたがあって、
待っている間にそれができていれば、母親を助けられたんじゃないかと思う。
でも本当に現実を現実として受け止められてなかった。頭がヘンに冷静だったのは、「こんなことになったけど、きっと助かるよな」と無根拠に信じ込んでいたからだと思う。
ハサミで深く切った指から血が流れていることに気付いた。痛みはまったく感じなかった。
俺「こんなんなっちゃったな」
兄「俺、これからどんな顔して顔あわせればいいかわかんないわ」
俺「そうだなぁ」
こんな会話を、兄弟で悠長に会話していたのをハッキリと覚えています。
ここまではすごくハッキリ覚えているのに、ここから先があいまいなのが不思議で、不思議で。
確か夜の病棟に運ばれて、「自意識が戻る可能性はない」と言われたこと以外は、実はほとんど覚えてないんです。
翌日の病室の面会で、意識のない母親を前に過呼吸になるぐらいに泣いてしまったことを覚えてます。
そして「自意識が戻る可能性はありませんが医療を続けますか?」というような旨を医師の方に伝えられて、「もういいです」と伝えたことは覚えてます。
そしてずっと病院に居るわけにもいかないから、家に戻って、母親のいない家で過ごして。
三日後か四日後、電話の連絡で「お母さんは亡くなりました」と同僚の方から連絡をいただきました。
母親の死に目に会わなかったのは、自分にとって幸運だったのか、不運だったのか、未だに分からずにいます。
わからない、本当に今でもわかりません。
あのワインの日から、自分に何が出来たかをずっと考えています。
間違いなくサインとなっていたあの日、ちょっとでも行動を起こす勇気が自分にあったのなら、もしかすると母親は今も生きていたのかと。
今の神戸の実情です。
神戸の訪問看護師藤田愛さんの投稿をコピーして皆様にご紹介させていただきます。
自分事としてどうぞ皆さんお考え下さい。
敗戦中の従軍看護師はこんな気持ちだったのだろうかとか、毎日ぼきぼき心が折れてゆく。1日回れても8人、重症者が増えてきたので1件ずつの訪問時間が長くなる。
「せめて入院までの間、訪問してくれる訪問看護ステーションをご存じないですか?」
知っているけどないとは言えなかった。「行きますよ」と返事してしてしまうのが、自分の弱さだと分かっている。
有料道路を乗り継いでいく初めての土地、真っ暗だからここは県外か?どこに向かうのかとか訪問先のことなのか、自分のこと何か分からん問いがわいてくる。
到着が21:00になった。家のドアを開ける時に心が定まる。できることをする。
待たせてごめんね。病院の廊下でもいいですから、入院させてほしいとお母さんに手を合わされても、私にはどうすることもできない。咳き込んでいるので、窓全開でも気が散りそうになる。集中して血管を探す、よし入った。ステロイド入りの点滴、焼け石に水でもないよりまし。来てくれただけでも命が見捨てられてないと感じて希望が持てます。
こんなこと誰が知っているのか、どう発信すればいいのか。
今ここに居合わせている私でさえ、信じたくなさの気持ちが反発しているくらいなのに。
大病院で陽性だけ検査して帰宅後、1週間。おいおい、これはこのままじゃ今夜死ぬかも。持病の薬が床に散乱してる飲めないよね呼吸数54回じゃ、まだ30代できることは正しく、危機感が伝わる報告をすること。
保健センターに、数値と判断を伝える「早急な入院治療が必要です、そうでなければ感染症か呼吸不全か心不全かで急死の可能性があります。」
どれだけ同じような報告を保健師が聞いているだろう、悲鳴の向こうにまた悲鳴がある。
「○○病院です。」
「ああ、よかった、ありがとうございます。」
保健師とほんの数分言葉を交わし、一緒に悲しんだり喜べるのが支えとなる。
コロナの訪問は100件を超えただろうか。入院調整中の数の増加に1000分の1と思う。急変を見つけても頼るかかりつけ医も入院もないなら私のやっていることに意味があるのか。いや、あるからやっているのだ。信じたくなくても、一丸となって本気の緊急事態宣言を皆でがんばるしかない。飲食や観光、私の人生の一部だ、絶対に守りたいと思う。だけど今の命なくして、未来はない。
全例入院治療がいいに決まっている。でも叶わないなら、医師にコロナ特例で免責されて、対面なしで在宅酸素、ステロイド、抗生剤、解熱剤、点滴をコンフォートセットにして処方できるようにしてほしい。まだ私自身は実施例は少ないが、これで救える命もかなりある。滞在時間も30分以内に留められる。
でも回復を約束できるわけじゃない。何もせずにいつとも分からぬ入院を待つよりいい。それを離れた家族は知っておいてほしい。たかがそれでも引き受け手がない中で全力を尽くしていることを理解してほしい。この事態について全国民の理解が必要である。県外に住む家族に「おいこらオマエ、治療せんか、入院させろ」とすごまれたってできんものはできん。
ご心配でしょう、そうですよね。私たちが生まれて、急病なら医師の診察、救急車があたりまえでしたね。残念ながら今の神戸はその状況にありません。静かに強く現実を伝えてゆく。もう何回目か覚えていない。30分から1時間はかかる。10人しか担当していない私でさえそれだから、保健所の電話がそんな電話で埋まる。保健師が次々倒れて、より人が減るのもあたりまえだ。倒れなければ休めない。
今、酸素飽和度85%だった方、あかんかと思ってたら酸素、ステロイド、抗生剤3日目、94%にあがったと電話。そんな会話できる人だったことを今初めて知ったわ。私、こう見えて商売人やもの。話得意やねんで。うれし泣きで始まる今日の朝。
どれほど声をからしても増加の一途だった大阪の感染者数が、いよいよ医療が崩壊か、と報じられた途端に再生算数が0.996。
そうだよねー。どんなに行政が声をからしても、結局は市民一人一人の心がけでしか感染は防げない。
「まだ病院は空いてるでしょ。へーきへーき」と思っている間は決して自粛はしない。
「もう病院が溢れてる」とか「救急車が患者を運ぶまで47時間かかった」とかの報道があると、ピタリと行動を変容する。
ならもう、その時期を早めるしかないじゃないか。じゃぁ、病床を最初から減らした方がマシだわな。
東京も再生算数が全然下がらないので、このままじゃ2週間後に大阪のようになる、と思って先手で緊急事態宣言したけど、Twitterで溢れる声は「まだ病床余裕があるのになんで?」の疑問の声。
挙げ句の果てに、「うちは営業を続けます」という寄席とか、全然危機感がわかってない。
深夜のネットカフェ、隣の部屋から「くちゅくちゅ」聞こえて、吐息も聞こえて、
メンブレンのキーボードを打つ音だって自分で気を使うくらいの作りの店で、
天井の空調の銀色の配管見たら、眼鏡の女の子がヘッドホンしてスカートを腰まで上げて、
大股開きでおなにーをしてるように見えた。上を向いて目を閉じてかな。
衣擦れの音の速さと息を止めたときとその後の10秒くらいの無音と、
神田のとあるネットカフェは「完全個室防音」ってあったから行ってみた。
部屋に入ると確かにしーんとしていて静かだった。が、「ハックション」とくしゃみが聞こえてきて、
部屋で1人で喋ってると大声になるし、防音して静かにする方向だとむしろうるさい。
鶯谷のラブホもいいけどネット回線が「Wi-Fi完備」だから心もとない。光回線引いて欲しい。
反対側のmonopolyは部屋はまあ良いけどPCがゲロすぎ。
部屋の作りは他より良いけど、それでもワイの向かいの部屋のバカがリモート面接してた。
それ、周りが静かだから防音と勘違いするけど、喋ってるのは筒抜けだからな。
実家暮らしを続けている社会人です。この度、両親がコロナになりました。
できればそのまま死んでほしいと思っている。最低なのは分かっている。誰にも言えないから増田に失礼してる。
ヒステリックで子に依存してる母親、他人の批判しかしない大して能力もない父親。
ヒトとして、どちらも嫌いだ。
私自身の性格はなかなか酷く、その原因は育った環境。頑張って矯正中だ。
とにかく否定されて育ったせいで、自己否定と希死念慮に苦しめられてきた。今も完全に治っちゃいない。
ならば家を出れば.......と思うだろうが、試みた際に母が自殺するんじゃないかって勢いで止めてきた。
私を育てるしかなかった両親への同情から、実家に留まることとなった。
可哀想なのでそばにいて、優しくして、まるで幸福な家庭を作り上げている。褒めてほしい。
心の中ではずっと、早く死んでくれないかなあと願いつつ。
そこでコロナが広まった。
ずっとずっと願ってた。両親が感染し、亡くなることを。
ついに、その時がきた。あと少し。
早く私を解放してくれないだろうか。
もはや気をつけても罹るみたいだから、みんなはどうか生き抜いてください。