はてなキーワード: 内心の自由とは
■子育て、やってみたらとっても楽しかったんだ!この楽しさを知らせたい
だかそれを直接聞かれてもいないのに周りに漏らすという行為は、
たとえ本人にその気がなかったとしても相手を不快にさせる可能性が常に存在する
ましてやそれが不特定多数に対してならばその確率は跳ね上がりほぼ100%に近くなるわけで、
内心の自由は制限してはならないというか、そもそも制限のしようがない。
お宝の在り処や仲間の情報は爪を剥がしたり石を抱かせれば確認出来るかも知れないけど、本当に信仰を捨てたかどうかは踏み絵を踏ませたところで確かめようがない。
人を疑い始めれば果てがないし、だから適度に他人の善性を信じる、適度に無関心でいる事が他人を信用するという事になる。
スラム街で札束見せびらかしながら歩きはしないが、気心の知れた友達に財布を預けた後いちいち中身の勘定を始めたりもしない。
そういったバランスがないとパラノイアになって狂うか、全てを悪い方に邪推する鬱陶しい人間になる。
目に見えないものに気を揉むのが怖くて、目に見える部分で全てを判断するようになってしまうかもしれない。
このヒトには沢山お金をつぎ込んだんだから、それは間違いなく自分への好意に繋がるはずだ、とか。
人の善性を手放しに信じたいけど、それだと裏切られた時にツライ。だったら最初から全てを疑おうというのはとてつもなくナイーブな態度と一体のものだ。
でも常に邪推をするのがリアリストである事だ、なんて思ってる人も割といるみたい。
まあ疑う分には別に勝手だと思うんですけど、その猜疑心を相手にぶつけるのって果てしなくウザいですからね。
いちいち人の動機とかを邪推する人もいますよね。とてもウザい。
例えば「音楽が大好きでバンドでギター弾いてます」って人に、イヤお前の本当の動機はモテたいだけだねとか言ったりする。
露悪的な思考を拗らせて、人の動機とは常に損得勘定であったり不純なものであるという事にしたくてたまらないらしい。
イヤ仮に嘘だったとして、だったらどうなるってんだよって話で。
対人関係において自分の問題にならないところでまで邪推を始めてしまう。
ギターに憧れて練習したけど挫折してしまった、という話に対して「それは本当に好きじゃなかっただけの話だ」みたいな事言う人もいる。
どうしても本気でなかったという事にしたくてたまらない人。
こういう時に言う「本当の」という前置きは、概ね「私の考える、こうあるべき姿」と言い換えられる。
もし本当に「本当」があると決めたのなら、それは宗教なので。
本当の鮎があるのは美味しんぼの世界だけです。美味かろうが不味かろうが養殖だろうが冷凍だろうが鮎は鮎です。
他人の言葉をすぐ「それはお前が~だっただけ」と相手の「本当の」内面を決め打ちしてすぐ矮小化しにかかる。
どんなありきたりな悩みにも、そこには当人ごとの個別性がある訳で。それを無視してお前がカスなだけだと言っても、それは言った側が気持ち良くなるだけ。
まあウジウジした人間見てイラつくという気持ちもあるだろうけど、勝手に苛立った側が一方的に憂さ晴らしをするのってただのイジメですからね。
ハナから相手の悩みに寄り添う気なんてない事もあるだろうし、それなら適当に流せばいいだけでいちいち人の心を邪推する道理はない。
世の中もっと無関心でいい。どこまで疑った所で他人の心の真実は手に入らない。
そもそも相手がウソツキであった所で問題がないのなら、いちいち邪推する必要もない。
気に入らない事があればカッコつけて「お前が~だっただけだろ、どうでもいいけど」なんて言わず、素直に「俺はお前が気に入らねえ」と言って欲しい。
そもそもどうでもいい旨をわざわざ伝えるってどういう了見だよ。
「国の方針として、法的な場では子供の声を騒音として扱いません」ということと、「子供の声が騒音として苦痛を感じてしまう人に配慮する」ことは両立させるべきだと思う。俺も感覚過敏あるし、「普通じゃない」ものには配慮しなくていい、という社会こそ不寛容だと思うんだよな。
お前も表現の自由戦士なんだな?
もう一回言ってやる
何も分かってない人間が適当に内心の自由とか表現の自由とか言い始めるのキツすぎる
ググっただけw聞き齧り程度wの知識で自由や正義の本来の意味を改変しないで?バカが勘違いするじゃん
表現の自由戦士が出始めたあたりからキモオタがわけ分からん正義や自由を捏造し始めたよな
黙った方ええで
一応断っておくが、本稿は岡田索雲によるwebアクション掲載『アンチマン』( https://comic-action.com/episode/4856001361287348513 )のネタバレ論評である。ネタバレが嫌な人は先のリンクから漫画を読んでからお進みください。
父親を介護しながら食品会社に勤務する溝口。彼は、日常で蓄積した鬱憤を“ある方法”で発散していた……。『ようきなやつら』の岡田索雲が描く、アンチの哀歌。
公式のこの紹介文のなかの“ある方法”がダブルクオーテーションで括ってあるのは、それが妄想である事の示唆となっている。その妄想と現実の境界線をどこに引くか、実はそれは本作においてあまり重要ではない。溝口のポジションが少し変わるだけだからだ。
だが、一応妄想と現実の区別を付けておこう。妄想の範囲を広く取りすぎると発散してしまうので、できる限り狭くとる方向でいく。
1回目ヘルパー、2回目同僚田山への描写が妄想である事に異論はそうないはずだ。実際に手を出すまでのマッサージ依頼や、ジャスティスブレードマグカップの部分を妄想に含めるか否かは本稿ではあまり問題にならない。個人的な感想としては、田山がジャスティスブレード好きと言うのは都合が良すぎるように思えるので、妄想だと思う。
こちらははてブ内では結構割れているようだが、どちらともとれるよう曖昧な描写に留めているようにみえる。それでも、スマホ破壊率100%やウキウキでぶつかり3連発があまり現実的描写には思えない事と、本稿の前提である「溝口に同情的に」という前提のもと、妄想であるという前提で進めていく。その方が溝口の悪質性が弱まるからだ。
この場合も、1回目の妄想対象を見つけて横目で追いかけるコマまでは妄想ではないとする。漫画では描かれていないが、対象を決めて尾行を実際に行いながらぶつかり妄想をしたとしておく。3回目で、ぶつかりターゲットのストーキング中に田山を見つけ、尾行対象を変更しているからだ。
こちらもそこそこ割れているように見えるが、正直どちらでも良い。レスバトルに完全勝利していない事から、紹介文での「鬱憤解消」には当たらない。なので、現実であってもおかしくはない。しかし、特にここが溝口の感情読み解きにかかわる事はないので、好きな方を採用してほしい。2回とも父親のうなり声で中断される所が、目覚ましで中断される強姦妄想と似ているな、とは思う。
同僚、結果的に通り魔から庇った女性、母親の3組が溝口の見舞に来るが、こちらもレスバトルと同様、溝口の感情読み解きにはかかわらないので、好きな方を採用してほしい。
まず、溝口の心に一番重くのしかかっているのが、幼少期に自分を連れずに去って行った母親である事に異論はそうないだろう。
それを埋める代償行動として、溝口は女性嫌悪、ミソジニーに嵌ってしまう。これが如実に表れるのが、2回目のレスバトルでの「女は戦えないから逃げる」(女性ヘルパーも入るかもしれない)、そして直後父親に言い放った「あんたがあの女殴って愛想つかされなかったら」というセリフのなかの「あの女」だ。「母さん」や「母親」じゃなくて「あの女」と呼んだ所にミソジニーの染みつき方が垣間見える。
母親への執着は、父親の葬式後、戸口の方を眺めるコマでも強調される。来るはずのない(恐らく連絡もしていない、そもそも知らないかも)母親を期待する視線だ。
2回目の会議後、「繊細さは女性ならではのものじゃない」という発言にお礼を言われて溝口は浮かれる。ただ、これは田山をフォローしようという意図はなく、直後に描写されるように、自分が父親の介護をしていたり、ジェンダーロールの押し付けをつらいと思っているから出てきた言葉だ。だからお礼を言われても第一声が「へ?」となる。
溝口の目に目にハイライトが2つ入るのは全編で2回あるがその内の1回が本件である。なお、お礼を言われた直後は何のことかわかっていない様子で、その後も本当に分かったのかは不明瞭だが、「溝口に同情的に」ルールで、分かったという事にしておく。
その後スキップのような軽い足取りでぶつかり3連妄想に繋がる。上機嫌なのに何故、鬱憤発散行為であるぶつかりをするのか?という疑問が沸くが、自分はこれは妄想の習慣化と考える。電車事件の前段階だ。
溝口の目にハイライトが2つ入る2か所の2つ目が、ネットで情報を仕入れて実際にスマホで女性ジャスティスブレードを観た瞬間だ。ミソジニーを忘れた、女性主人公への純粋な好意の表れ。しかし、ネットの声ですぐにミソジニーが戻ってくる。
溝口は他人が居るスペースでは基本的にマスクをしている。自宅でもヘルパーを迎える時はマスクONだ。これは、社会的な望ましさに合わせようとする意図の表れで、やったらまずい事・言ったらまずい事を出さない様に自制している事の表れでもある。
社内会議1回目での、女性モデルの胸の強調をマスクON状態で「気にしすぎ」と言ったのも、溝口が考える社会的望ましさのラインを越えていないという事だ。
また、喫煙所ではマスクをあごに寄せて口を出し、眼鏡の同僚にあまり望ましくない「狙ってんの?あの女」などというセリフをはいてしまう。
溝口の考える社会的望ましさのラインは恐らく一般社会が考えるそれよりも低い。
まず、女性ヘルパーをジロジロと眺めて嫌がられ、男性に交代されてしまう。男性ヘルパーへ「急に変わるものなんですか?」と質問しているが、自分の行為によるものだという自覚があるか否かは特に描写されない。同情的ルールに基づいて、本稿では質問の時点で気づいた(それが出来るだけの知恵がある)ものとする。
また、この件の前には、電車内で女性を盗み見するコマがある。「見る」事が加害行為になりうる事は分かっていなかったのだ。
スマホ歩き女性へのストーキングも、毎回ターゲットを変えているから発覚・問題化しないだけで、少なくとも一般社会では褒められた行為ではない。これに溝口が気づいているかは明確ではないが、先ほどの盗み見と同様に、気づかれなければ問題ないと思っていたのだろう。
父親の死後、栄養ドリンクの空き瓶の山が、ハードワーク・オーバーワークの忙しさで気を紛らわせようとする溝口の心情がうかがえる。
父親は、母親を失う原因であり、憎む対象であってもおかしくないのだが、基本的には社会的望ましさに従ってか、無言で介護をする。
2回目のレスバトルで劣勢だった怒りに任せて本音をぶつけはするが、その後もすぐに介護を続ける。
微妙な関係性ではあれど、自分の言葉が父親を自殺に追いやった事は溝口にとってつらい事実だったんだろう。
結果、残業のしすぎで上司に「最近厳しくなってる」と残業を禁止される。そこで1回目の会議で「女性の体の強調」を問題視した田山と眼鏡に目をやり、ハイライトの無い目のコマの後、「そうやって男の仕事も奪っていくんだよなぁ…」「お前たちは…」というセリフ。これは父親死亡前までなら出さなかったセリフだ。上司も大丈夫か?と違和感を示している。
溝口はここではマスクをしている。先ほど示したとおり、本稿ではマスクを溝口の社会的望ましさへあわせる態度の象徴として考えるのだが、ここでのセリフはそれに合致しない。ここに歯車の狂いが見える。自分で自分を制御しきれなくなってきている描写なのだ。
その後、ぶつかり妄想の対象を公園でみつけた溝口は、その対象を尾行中にスマホを見ながらすれ違う田山に気づく。尾行対象を田山に変更するが、これはぶつかり妄想対象としてはないように思える。その後、田山が眼鏡と会い、2人で車に乗り込んで走り去るのを目撃する。
溝口にとってこれは不倫の現場で、喫煙所での眼鏡の「狙ってませんよ、結婚してますし」というセリフが嘘だったという認識になっているのだろう。
電車の中で、溝口はだらしなく寝込んでしまう。この際、マスクが片耳にかかっているだけの状態になり、それを両脇の女性が嫌がっているコマが挟まれる。
これは溝口本人がマスクを外そうとして外したものではないと考える。片耳は残っているので、寝ぼけて意図せず「外れて」しまったと考えることが出来る。
これは直後の事件と関係する。目の前でコケて四つん這いになった女性の尻を見て、襲い掛かってしまった事だ。マスクと同じく、これはきっと溝口は意図せずやってしまったのだ。いつもしている妄想だと思い込んで乗り掛かってしまったのだ。それを補強するためのストレスが父親の死、過労による疲労、同僚の密会だ。
意図せず女性に襲い掛かってしまった瞬間に通り魔に後頭部を刺されてしまう。
最初に確認したとおり、見舞客が妄想か否かは本稿では問題にならない。同僚達や庇った女性たちは、ただ淡々と見舞に来る様子だけが描かれ、溝口の感情が動く様子はみられないからだ。どうでもいいのだ。
だが、死の間際(飛び立つトンボ、落ちる最後の一葉、飛行機雲の3重の示唆がある)に母親が見舞に来て、手を添えられた時に溝口の目からは涙がこぼれる。結局溝口が欲していたのは母親だけだったという事だ。余りに単純すぎる解釈だと思うかもしれないが、であればこそ溝口の哀れさが際立つ。
ここからはIFの話だ。母親を失った悲しさで得たものは偽の名誉であり、それは溝口にとって何の意味も無かったことは言及した。
孤独は闇の感情を加速させる。孤独な以上、「ケア」される機会もない。ネットのレスバトルはネットで完結してしまい、その先に居る個、溝口を慮ることは無い。
割れたスマホとのレスバトルで、溝口は一端の真実を話してもいる。「(ぶつかり)被害者は女だけじゃない」「役割を押し付けられて辛いのは女だけじゃない」。ただ、それは加害の理由にはならないのだ。内心の自由はある?ただの妄想?私見では本作ではそれが現実に結びつく危険性が示唆されている。
一方で、割れたスマホから流れてくる溝口に敵対する意見にも論点ずらしやただの悪口になってるのも多い。
大前提として、レスバトルで人は考えを変えないのだ。カルトや悪徳商法に嵌った人は、ただ事実を突きつけられても意固地になって更に悪化する事がある。そこから抜け出させるためには、親身になって付き合ってあげる人が必要になってくる。近年の反ワクチン問題やカルト問題でもそういう記事をたくさん見た。
作品中には溝口が心を許せる相手は一人も出てこない。友達の影すらない。同僚とすら付き合いは希薄だ。助けが必要な人ほど助けて!と言いづらい構造もある。
朝日新聞の記事に、『「死刑囚の元同僚」ツイッターで実名発信 孤独な人の相談に乗る理由 (https://www.asahi.com/articles/ASR655CM1R65UTIL015.html)』というものがあった。
「最後にアクセルを踏むか迷った時に、頭に浮かぶ人になりたい」そうだ。溝口はアクセルを踏んだのではなく、うっかり道を踏み外したわけだが、彼に必要だったのはこういう人の存在だったんだろう。時には赤の他人の方が悩みを打ち明けやすい場合もある。チャンネルは多い方がよい。ただ、こんな重い事自分に出来る気は全くしない。
孤独による不幸を減らすために出来る事を考えてみよう。
「やらしい目で見ないで」
「やらしい目で見てもいいけど、隠れてやって」
もし言動・行動として表面化した行為だけを批判するなら後者のような言い方になるはず。
でも実際は前者だ。
内心にクレームを入れている。
なるほど…… その発想はなかった。
しかし当たり前ではあるか。
シロクマのことを考えないでください?
——…なに言ってんだ内心の自由侵害だ憲法違反だぞ、とはならないよね。
なんか過去を振り返ってみて、それだと色々と話が変わってくるな………。
事件1
助教と飲んでいた。
男女二人組が入店してきた。
「パイスラっていいっすねェ」
と呟いたら。
そういうのって止めた方がいいと思う、と文句を言われた。
事件2
思い出してムカッ腹が立ってきた俺。
すると1日も経たないうちに知らん奴からDMが来た!
それも2人も。
2人とも何かまわりくどい説教をくれていたが。
要するに、パイスラにエロを感じるのは止めろ、と言いたいらしい。
この話の恐ろしい所。
DM事件は数年後の話だという事。
『パイスラ』という抽象的な女性の様態に萌えていた、「概念」を欲望していただけなのだ。
それにも世間の連中は物申してくるのか。
俺に内心の自由はあるが、内心に文句を言う表現の自由はまあ、ある。
だけど通常どんな性的妄想でフィクションを描いても、誰にも咎められないはず。
メガネ巨乳女教師の漫画を愛好しながら教員を勤めてたって構わないだろ。
同僚の教員や生徒児童や、親から文句を言われたりしない…、個人の自由だからだ。
なのに、どうしてパイスラは許されないのだろう。
DMの奴らの言いたい事は分からんでもない。
パイスラがエロだと見なされる程に、女性はカバンをたすき掛けにしにくくなる、ってのは分かる。
でもさ。
アメリカ大統領の自認の男がいたとしよう
そりゃもう自認だろうが同一性だろうが関係ないくらい完全にアメリカ大統領だと感じて信じている男だ
もちろん信仰の自由も思想の自由も内心の自由もあるのだし、自分で認じるのは自由だ
自分の範囲で認じるのは誰も否定しないし、もちろん存在を否定なんてしない
ただ、彼にアメリカ大統領の立場や権限を与えるべきかといえば、無論それは違う
社会の中での立場はそれなりの手続きや資格が必要で、それは自認の範囲を超えているからだ
自分に関する範囲内において、男性が女性文化(そんなものがあれば)を纏おうが、その逆だろうが自由である
しかし社会制度に関わる部分については、それなりの手続きや資格が必要となる
トイレや浴場、またスポーツにおける男女区分は、単に文化によるものではない
男女には体格、筋力といった埋められない身体差があるため分けられている
トランスジェンダリズムでは身体差を外性器にのみフォーカスしようとするが、この点は明らかにトンデモである
さて、こんな当たり前のことをなぜトランスジェンダーや支持者は理解できないのだろうか
その原因はトランスジェンダーの教祖、ジュディスバトラーにある
攪乱を目指すバトラー信奉者の言動が支離滅裂になるのは当然のことなのだ
象牙の塔の中で攪乱を起こしても、学者が騒いであわよくば有名になれるだけだ
こういえばわかってもらえる?
女子トイレに女装して侵入する男がいるどころかトランス女性が問題を起こす事だってあるのに「トランス女性は女性、工事しなくても女子トイレに入っていい」なんていうのは
男性オタクが引き起こした問題が多い上、それは都合のいい空想を摂取しまくった結果ああなってんのに
「オタクから萌え萌えの美少女やレイプファンタジーをとりあげるな~!」っていうのと同じなの
別にトランス女性も男性オタクもおとなしくしてるんならいいけど
内心の自由とかゾーニングすらも効果無さそうに見えてきたからそれ自体を認めない方向に行ってるんだよ
一部のオタクが~
じゃねえよ
そういえばボカロと結婚したようなのが啓発ポスターを見てセクシズム発揮して炎上した時、トランスカルトに加担してるようなのが「彼のセクシズムは否定していいけど、彼のフィクトセクシャル性まで否定するのは差別だ」とツイートしてるのを見た
JKは脚を出し過ぎだ。
膝上まで上げたスカートはもちろん、ギリギリ見えない限界までスカートを上げているJKもいる。
おっさんはJKの脚を見る。前からジロジロ見るのではなく、後ろから見るのである。
階段の後ろで。エスカレーターの後ろで。向かい合った車内の椅子で。
「焼けている脚だ。部活してるのかな」
「引き締まっててかつ白い脚。見てるだけで元気が出る」
そんなことを、言葉にはしないが無意識に品定めをしてしまっているのだ。
これは本能に近い思考で、内心の自由を考えれば表明しなければ許される範囲である。
ただ、表明しないだけであって実際はJKの脚をおっさんは見ているのである。
JKの脚を見て、仕事のやる気を回復させ、疲れを癒すのである。
通勤・通学時間帯は特に回復ポイントが多く、回復ラッシュである。
セーブすらしたくなるが、それはできない。
心にその脚のイメージを抱え、仕事中のふとした時に思い出し、ポーション代わりに体力を回復させるのだ。
もう脚を出すな。
こんなふうにおっさんに君の脚を使われたくないだろう?
多くのおっさんが君たちの脚で気力体力を回復させてるなんて、そんな世界は地獄だろう?
だから脚を隠しなさい。
せめて膝下までスカートを下すように。
スラックスもいいぞ。
この件に関しては、黒人差別を例にあげるやつが一番差別主義者だと思うわ。
まぁ、少なくとも世界中見渡して、黒人差別はまだまだ根強いのはお前がいうトップダウンが招いた弊害なんでねーの?
一方的な権利の押し付けなんて、嫌われる以外のなにものでもないからな。
少なくとも本件について、強引に進めればすすめるほどT女性は嫌われるし社会的な立場がなくなっていくと思うんだわ。
関わったら差別と言われるなら距離をとる、いない場所で生活するが最適解になる。
しかしそれでも構わないというやつが居るとすれば、性犯罪者くらいだと思う。