はてなキーワード: 先入観とは
せっかくの忠告ありがたいのだが、まるで「うまくいったらおもしろくない」かのような言い方。
仕事や職業に貴賤があることは認めざるを得ないが、それでも私は水商売をしている人だからといって先入観や偏見は極力持たない。
単に客として接するだけだとしても、相手に対して失礼じゃないか。
たとえ「そういうこと」なのだとしても、相手の事情を慮り、それらすべてを包み込み受け入れてあげられる"客"であったほうが、相手は喜ぶのではないだろうか。
実写は率直に言うと期待したような作品ではなかった…安直な言い方で面目ないけど解釈違いだった。原作クラスタには楽しめなかったひと多かったと思う。
だから好き嫌いはいいよ。嫌いだけど気になって見ちゃうのもわかるよ。ただ言葉の定義うるさいマンとしては
「原作読まないで作ってる!」ってディスりが多いのには納得いかなかった。
読んでんじゃん!
明らか読んでんじゃん!
読んだ上でなんでこうなったか疑問はつきませんけどどう考えても読んでんじゃん…。
そんでそういう全否定の仕方は舐められると思うよ。
「読んでない!」
「いや読んでるしw」
で終わりじゃん?なんでも文句つけるタイプのヲタクと思われて終わりじゃん?
心のファイティングポーズを取りそうになった。でも心のナウシカが立ちはだかって止めてくれた。うん、意味のない戦いは避けよう。だって実写擁護派じゃないんだもの。
あと、これはあくまで個人的な感覚なんですが。自分は2次創作読んだりなんなら作ったりするタイプのヲタクでもあるので、グレーゾーンのファンなんですよ、おのれの認識では。公式の実写化ってさ、なんだかんだちゃんと許可とってお金払って作ってるもんだから。リアルな大人の社会で骨折って筋通してるんだから。どれだけ自分が原作を「好き!!」って思っててもどっちが原作を「大事にしてる」かって話になると、考え方次第なんだよな…。
2次創作なんて見たことも聞いたこともない読者のほうが数としては多いだろうし、それが普通の「原作ファン」かなと思うけどなんか、周りにそういう層があんまりいないので比較できてないから先入観かもしれないけども。怒ってるひとってほとんど2次(読み専オン専含む)に足突っ込んでない?原作と違うことでも自分の好みに合うからって受け入れてない?そのうえで「蹂躙された」「こんなの公開を中止して欲しい」とか主張できちゃうのがな!なんか腑に落ちなくてな!
大声で公式批判してる人ってそのへんどう捉えてるんでしょーか、モヤモヤする。
アンチの主張に納得いかなかったせいで二重に疲れたんだ…。眠らせてよママン…目が覚めたら一緒に帰るから…(謎のフラグ)。
当時言えずにメモしてたことを匿名で供養です、読んでくれてありがとね。
追記:マトモな反応してくれたひとがいてありがたかったので補足する。
改変や何かに不満があって「読んでない」って表現してるのはわかってるんだ。で、その言葉のチョイスが批評とか感想として浅い気がどうしてもするんだ(だから言葉の定義うるさいマンとか書いた)。
育ちがいい人を気取っている人ではないかという先入観が私にはあった。
しかし、どうもインターネットを見ていると、底辺を自称する人でも階級社会を肯定している人がいる事に気がついた。
自分自身が底辺だというのであれば、育ちがいい人を気取っているわけではない。
「ファイアーエムブレム 聖戦の系譜」でもプレイして、フィクションだと割り切れず影響を受けてしまった人なのだろうか。
「児童の権利に関する条約」の
国際連合が、世界人権宣言及び人権に関する国際規約において、すべての人は人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又は他の地位等によるいかなる差別もなしに同宣言及び同規約に掲げるすべての権利及び自由を享有することができることを宣明し及び合意したことを認め、
に抵触するので、世界から階級が無くせなくても、少なくとも肯定は出来ないだろう。
そういう階級社会を肯定する人々は、子どもの頃に夢見た理想郷を持っているピュアな心の持ち主なのではないかと私は思っている。
…うまく説明できないけど。
この世には汚れのない血筋があるんだとか、世の中のものは良いものと悪いものに分けられるんだ、じゃあ分けたら自分の好みの世界が出来るんだという思想。
そういう天国を求めるピュアな心を大人になっても持っている人が、子どもを差別し、階級社会を肯定し、きれい事を吐く理想主義者の大人になっているのではないか。
そんな気がする。
あの頃は、めちゃくちゃセックスをしていた。
ゼロ年代後半、いわゆるオフ会が流行っていた時期。都内にいたわたしは、若さもあり、性欲もあり、オフ会で出会った人とスキがあったらセックスをしていた。不思議と(?)、同じ人と二回以上することはなく、どれもワンチャンに終わっていた。ごく稀に(たぶん2〜3人)、継続する関係の人もいたが、恋人でもセフレでも、なんら名前のある契約あるいは口約束を交わしたことはなかった。
オフ会以外のひとも、サークルコンパ、街コン、ナンパ、クラブであったひとともセックスした。楽しかった。
でも周りがだんだんとバディを作り始めるようになった。彼氏いない歴=年齢(当時)だった友達も、彼氏ができるようになった。遊ぶのはめちゃくちゃ楽しかったけど、就職したり生活が変わると同じように遊べなくなったし、なによりもやっぱり「ワンチャンはよくないよなあ」みたいな思いも募り始めた。
2017年は述べ2人しかセックスしてないし、2人目は3ヶ月くらい遊んだけど最後にセックスしたのは夏前だったと思う。(1人目はワンチャンだった)
今はワケあって海外在留中だけど、セックスがしたいとか彼氏が欲しい(彼氏は欲しいけど)とかじゃなくてもっと、ワクワクするようなことがしたい。「ワンチャンはしないほうがいい」とかそういう価値観が生まれる前の、あのドキドキが懐かしい。
あのころの価値観に戻れるわけじゃないけど、「やったほうがいい」「やらないほうがいい」とかの先入観に左右されずに、自分の感覚をもう一度研ぎ澄ませてエンジョイライフしたい。
それを字義的に捉えたら、特定の車両に性別を原因にして乗ることを禁じるのは不利益で不平等なのだから差別である、という結論が補強されない?
あくまで、社会全体で性暴力の横行などの女性に対する差別があって、それを是正するためにはある局面で男性が一時的に不利益・不平等を被る施策も必要だって話だよね?
権力勾配っていうのも、要するにそういうことでしょ。女性専用車両に乗れない男、という構図だけを見るんじゃなくて、全体として女性の移動の自由という観点から見るってことだよね。
私はそれに大いに賛同する。まったく反対しない。
でもそれは「より大きな差別を解消するために、小さな局面で差別する」ってことでしょ。
正当だ、とか、やむを得ない、というのは、「より大きな差別を解消するために」という目標のための施策であるからで、それはその排除が差別ではない、ということにはならない。
それを否認してしまったら、「より大きな目的のためなのだから、これは差別ではない」という理屈が通用しちゃうことになるよね?
そっちの方が危うくない?
「外形」とロジックにこだわる増田に質問だが、「優遇」と「不利益」というのは、「外形的に」は区別できないな?
例えば、「レディーファースト」は、「外形的」には女性優先だがもともとは女性に危険の露払いをさせるという「不利益」から生じている。「特別扱い」という意味では、優遇と不利益はまさに外形的には区別できない。従って、それは男性差別ともいえるが同じくらい女性差別であるともいえる。同様に、「女性専用車両」もまた「外形的に」女性優先に見えるが、安心を得るためには特定の車両に押し込められ晒し者にされることを女性に強いているともいえる。つまり、男性に対する差別であると同時に女性に対する差別であるともいえるわけだ。ここまではいいか?
私は「差別に気付いていない人に確認したい」という、まさに増田と同じ動機で増田に確認したいのだが、増田のロジックとまさに同じロジックで、「女性専用車両は女性に対する差別でもある」と認められるよな。社会、あるいは鉄道会社は、専用車両というやり方で差別を実施、または容認している。
私は、「差別」という言葉が、特にそれが社会的・政治的な文脈で用いられるときには、その定義に「不当な・是正すべき」という意味が入っていると思う。辞書を引いても、そういう狭義の意味合いではやはり「不当な」という種類の文言が入っているようだから(※)、これはそれほど不当な定義ではないだろう。よって、「専用車両は差別であり無くすべきだ」という主張に組する者だ(増田は「そこまで主張しない」との立場のようだが)。優先順位の差はあれ、原理的になくなるのが好ましいのが差別というものだと私は考える。
(※「2 取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。(デジタル大辞泉)」「② 偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。(大辞林)」など)
しかしながら、それが女性に対する差別を無くすという意味を含む施策である以上、当該の差別を被っている女性にとって利益となる方向の対策でなければ意味がない。現状で女性専用車両を無くすことは、多くの女性から「通行の安心」を奪うこととなり、現状で「男性の被るデメリット」がそこまでのものでない以上(※)、トータルで見て社会的に益が無い。従って、「すべての女性が原則安心して通行できる」という形態での「専用車両の撤廃」が目指すべき目標であると考える。すなわち具体的には「痴漢の事実上の撲滅」である。どのような方法によっても、最終的にこれが実現されることが譲れない理想である。その意味においてのみ「専用車両は差別である」という主張は正当であり社会的に有益であると考える。
(※女性専用車両があるせいで「安心して電車に乗れない」という男性が相当数に上るとは思われない。)
しかるに増田は、男性への差別性にのみ着目して、女性への差別性、その解消の必要性に全く言及していない。論理の中立性というのは、一切の政治性によらず、客観的公平に事象を分析することでしか担保できないはものだろう。公平な分析という部分が担保されず、片側にのみ着目する論理は、論理の皮をかぶってはいるものの政治的主張であることを免れ得ない。利益対立する一方を論理の名のもとに分析しながら、もう一方に対して全く言及しないのは、単なる無知不見識では済まされない、論理の誤用・悪用の類である。
さらに、「こうして論理的に分析するのは将来の差別を無くすためだ」と言いながら、一方で「やむを得ない差別もある」という立場を取っているのは、詭弁である。これは、増田自身が言う「将来的な差別」を呼び込む根拠になりかねない重要な、看過しがたい立場である。一体、増田の考える「許される差別と許されない差別の線引き」はどこにあり、その線を決めるのは誰なのか? 増田の恣意?そんなわけないよね。では?
つまり、増田が言っているのは戯画的に言えば「専用車両は差別だって認めようね? うん、でも差別だけど『許してあげるよ』」ということであり、この言葉は二重の意味で間違っていて危険だ。一つには論理の皮をかぶった政治性によって。もう一つは、現状肯定に見せかけた権力性と差別容認への道を開く行為として。
これを分かってやっているとすれば、相当念の入った悪質な主張だ。この件について増田がどのように見解を述べるか、いささか興味もなくはないが、私の個人的な興味よりも、このやり取りを見る方は、増田の応答によって(あるいは応答の「無さ」によって)、彼の主張の真意を見ていただければと願う。
すげぇ面白い悔しいとすら思わされたなろう発原作の異世界転生ものの、漫画を読んで、原作も読んどくべきだろうとなろうで読み進めたんだけど、なんつーか、これでも、いいんだよなぁ。
ワナビだった僕が求めていた洗練された文章とは全然違う、けれど単純に世界観が面白くて、きちんと書き進めていて、これだけの物量を書き終えていて、それが、才能か。
俺にはなかった、才能か。
やってらんねーなぁ。
僕と彼らを隔てるものは、先入観なくものを書ける、その心持ちだろうなぁ。
流行り物に流されてたまるかとか、こんなレベルで人に読ませらんねーとか、そんなんクソクラエで。
書きたかったよ。書きたいよ、畜生。けど、今更誰が読むんだよ俺の書いたものなんか。
本当。やってらんねーなぁ。
二度となろうなんて近づくかよ。
人前に出る業務にはなるべく見目の麗しい人を選ぶし、
男性保育士が事件を起こせば保育士さんは女がいいと言い出す人は出る。
それはもうしかたがなく、我々は差別者である自分を自覚しながら、
それでも、自分にできうる限りに、公正で善良であろうと努力する以外にない。
個人的な見解としては、あれはその理屈自体に筋は通っているものの
という希望を語るだけでよかったろう(第二回のイラストはずいぶんとんちんかんなアンサーだったが)
女性だけの街がほしいなあと言うぼやきは、ミサンドリーから来る差別ではあるだろう。
しかし、具体的にそれを実行しているわけでもなく
一部の人は「男に汚れ仕事をやらせるとかいていたから問題だったのだ!」と吹き上がっているが、私はそれは欺瞞だと思っている。
「ああ、たまには家で一人でのびのび好きなことをしたい」と呟いた父親に
「洗濯は、料理は、掃除が誰がするんだ!?」と詰め寄って失言を引き出したとして、それが一体なんだと言うのだろう。
単に言い勝てるところがそこだからあげつらっているようにしか見えない
(しかもそもそも元発言の人は「男にやらせる」なんていっていない。曲解したらそうも読めるかもしれませんね、というだけ)。
「差別が嫌いなんじゃなくて、それをやった(言った)人が嫌いなだけなのでは?」
である。
それを攻撃する理由には単純に「オタク絵は、女性差別的な人間が好みがち」という先入観があったように思う
(そしてそれを補強するような擁護が吹きあがった)。
「女だけの町」も、「フェミはどうせ汚れ仕事はしたがらない」だとか「解決策を真面目に考えたりはしない」という、
人は差別をしてしまうし、してしまったときは襟をたださなければいけない。
差別は「差別するつもり」かどうかは関係なく、した結果のみが問われる。
自分が「大したことではない、気にしなくてよい」と思うことだからといって、他者にとってそうであるとは限らない。
それは全くその通りだと思っている。
けれどそれを思ってなお、
「差別」という概念を自分の嫌いな対象への攻撃手段に活用しているように見える例がこの二つだ。
だからこそ、「差別」という概念の取り扱いかたをもっと洗練させていかなければ、
単にぶん殴りあうだけの世の中になってしまうと
今回の流れを見て強く思った。
また別の商業物書きです。
この増田の話にうなずきながらも、実情を顧みるに、ぼやかずにはいられなくなったので書きます。
『アニメやゲームと言った企業の営利創作のなかで「自由にかけない」「ストーリーは終わった」と嘆く人間よりも、「オレはこういうのが好き」「金とは無関係に書く」と活動できている彼らのほうが、よほど物語る事に対して建設的だと思いますよ。』
元増田は制約の多い商業作品の対比として、web小説について作者が自由に書けると述べられていましたが、実態はそのようにはなっていません。
私も元増田のおっしゃるように、アマチュアは自由に好きなものを書いてほしいと思っているクチです。
しかし、小説家になろうに代表されるweb小説サイトを00年代後半から眺めてきて今思うのは、みんなお金にならない物語は書きたくないんだな、ということです。
“みんな”と言ってしまうと主語が大きすぎるかもしれませんが、そうじゃない人たちはすっかり埋もれてしまって、なかなかお目にかかれなくなってしまいました。
魔法課高校の劣等生がまだランキングにあったころの小説家になろうは、皆が自分の好きや面白いを信じて自由に書いていたと思います。
だけど、震災から数年が過ぎたぐらいから雰囲気が変わりはじめ、今ではほとんどの人が流行りや読者のリアクションを強く意識し、書籍化というプロデビューを先に見据えながら作品を書くような場へと変わり果ててしまいました。
「ラノベ新人賞に応募するよりも、なろうに投稿するほうがデビューの近道」というようなことを耳にしたのは、いったい何年前でしょうか。
特に2chのなろう系スレなどは流行りとPVの話ばかりになってしまい、覗く気力はすっかり失せてしまいました。
そういう風潮を気にせず自由な作品を書いている人もいるでしょうが(実は私がそうです。アマチュア時代のPNでひっそり書いてます)、プロを夢見る人たちが溢れかえっている場で、自由気ままに物語を綴るのは異端者扱いを受け入れねばなりません。
特に私が危惧しているのは新規のユーザーへの影響で、創作について右も左もまだよくわからない若者に対して、創作とは流行り意識せねばならぬものだというような要らぬ先入観を与えねばいいのだが、と気をもむ次第です。
ただ、こう言ってる私自身なんだかんだでプロになってしまったように、あわよくば自分の作品をお金に換えたいと考える人の気持ちも本心ではよくわかります。
少し前にこんな増田がありましたが、
この手の表現規制だって、商業化を諦めさえすればいくらでも回避は可能なんじゃないでしょうか。
でもそれはやっぱり無理でしょう。