はてなキーワード: 上座部仏教とは
仏の教えは合理的。基本的な理屈の前提となっているのは、この世界には「因果関係」があって、あらゆる物事は因果関係の連鎖で成り立っていますってことだけ。
・絶え間ない因果関係の連なりがあるから「諸行無常」。諸行無常ってのは、あらゆる物事は変化し続けているってこと。
・諸行無常な世界を普通の人間が経験すると、「一切皆苦」と感じる。あらゆる物事が変化し続けているってことは、やがては人の望まない状態になり得るし、たいていはそうなるから。人生には「四苦八苦」がつきもの。
・普通の人間は、永遠不変の私がいることを素朴に信じていて、その『私』に強く執着している。しかし実際は、「諸法無我」。つまり、永遠不変の私は存在しないということ。なぜなら、私はこの世界の一部であって、世界の一部であるからには因果関係の連鎖によって一時的に立ち現れている物事でしかないから。身体も五感も思考も欲求も一時的に立ち現れているものに過ぎない。私という存在もまた、諸行無常であり、ゆえに諸法無我。
・普通の人間が諸行無常な世界に在って一切皆苦と感じるのは、『私』に強く執着しているから。世界も私も変化し続けているものだから、『私』の思い通りになるとは限らない。それなのに、思い通りにならないとそのたびに苦しい。
・一切皆苦と感じる原因が『私』に対する強い執着であるなら、その執着を薄め、消し去ればいい。この世界は諸行無常であり諸法無我であることを、知識としてではなく、感得することができたなら、『私』への強いこだわりは霧散し、世界を一切皆苦とは感じなくなるし、副産物として利己性も消える。これが悟りの境地。
・この世界が諸行無常であり諸法無我であることを感得するには、感得するトレーニングを繰り返して感得する認知能力を高める必要がある。自転車に乗れるようになりたいなら自転車に乗るしかないのと同じ。このトレーニングが仏教の修行の中核。昨今では「ヴィパッサナー瞑想」とか「マインドフルネス」とか呼ばれている。ヴィパッサナー瞑想で得られる認知能力を「智慧」あるいは単に「慧」と呼ぶ。
・『私』に対する強い執着を薄める方法はヴィパッサナー瞑想以外にもう一つのアプローチがある。「慈悲」つまり、利他的な心を育てる瞑想や利他的な実践を繰り返すこと。
・ヴィパッサナー瞑想だけしていれば悟れるかというと、そうでもない。「戒」:瞑想に集中するための環境や習慣を整え、「定」:ヴィパッサナー瞑想に必要な集中力を高めるための瞑想も行う。これらをヴィパッサナー瞑想と合わせて「戒定慧」と呼ぶ。仏教の実践は基本的にこの三つ。もう少し詳しくは「八正道」と言う。
というのが、私の理解。もっと詳しく知りたければ「」でくくった単語を検索して一つずつ調べるか、書籍なら仏教思想のゼロポイントをおすすめ。
思想史的な観点をちょっとだけ補足。仏教は教祖である釈迦の没後、スリランカやミャンマーあたりに伝わったものが初期のノウハウを比較的色濃く伝えている。これは上座部仏教、南伝仏教、小乗仏教とか呼ばれてる。一方、中央アジア等を経由して中国に至るうちにかなりの変貌を遂げたのが、北伝仏教、大乗仏教とか呼ばれてる。日本の仏教は中国経由で伝わったもので、基本的に大乗仏教。輪廻転生は仏教のオリジナルのアイデアではなくて、インドやネパールあたりにもっと昔から根付いていたアイデア(輪廻転生だの神や悪魔だのの有無は、今生きているあなたが苦から逃れるために重要なことではないですよ、肝心なのは八正道の実践、ってのが仏教のスタンス)。天国地獄のアイデアはおそらく中央アジアあたりで仏教に混淆した。先祖の供養が大事みたいなアイデアはたぶん中国で混ざった。
インフルエンサー的な人がいろいろ情報つまみ食いしてキュレーションしてくれてるのもそれはそれで助かるが、やはり本職の学者の一般向け解説は勘所をついていて一発で視野が開けるなあと感心したことである。動画探して見てみるといい。
内藤正典は存在は知っていたがなんとなく食わず嫌いしていた。あの方面変な人が多いし。
内藤の言うにはパレスチナ問題というか広くイスラム絡みの問題を宗教対立と捉えるアングルは全くの的外れであると。
まずムスリムは教義によってユダヤやキリスト教徒を敵視しているということは全くない。(内藤でなく自分の例えだが)日本仏教が東南アジアの上座部仏教を異端として敵視するか?「本家筋」と見なしてお座なりにでもリスペクトするだろう。
あの地域のグッチャグチャに「宗教対立」という補助線をひくことは全く補助線になっておらず単なる1ビット脳の所業である。イスラムもアラブも本当は全く一枚岩でないからこその現状であるという話。詳しくは本篇で。
2022-07-23
■創価学会3世で未活動、関係も断っているが、公明党に票を入れてる
物心つく前から「勤行しないとバチがあたるよ!!」と、幹部だった祖母に仏罰の恐ろしさ刷り込まれ、学生部や男子部に上がるにつれそれが学会組織、公明党になり、学会と疎遠になっても私は票田として機能している。
一定の年代以上の福子は、絶縁されたり破門(って今は言わないのか?)される=仏罰が下る、という畏怖があって活動続けている人も多いと思う。
だから「創価学会はカルト」って誰かに言われると、反射的に「いやそれは違うよ」と言ってしまうのは、否定しないと自分にバチがあたるという恐怖が少なくともあるから。
興味深い。
波羅夷罪(はらいざい)[1]、あるいは単に波羅夷(はらい、巴:梵:pārājika, パーラージカ、波羅市迦)[2]とは、仏教の出家者(比丘・比丘尼)に課される戒律(具足戒)の内、僧団(僧伽)永久追放に値する最重罪の総称。
上座部仏教のパーリ律の場合、比丘(男性出家者)は淫・盗・殺・妄の4つ(四波羅夷)、比丘尼(女性出家者)には更に触・八事・覆・随の4つを加えた8つ(八波羅夷)がある[2]。
もし、出家者にして戒律や身分を捨てて還俗をしないで、この戒を破った際には、全ての資格ととを剥奪され、仏教教団から追放されて仏教徒では無くなり、二年間、一切の宗教活動を禁止しなければならない重い罪となる。
また、後に罪を悔い改めたとしても、仏教徒に戻ることは許されるが、再び出家者である僧侶となることはできない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E5%A4%B7%E7%BD%AA
[B! 宗教] 財政難の京都市で「寺社から税金取るべき」の声 戸惑う宗教界、市の見解は(京都新聞) - Yahoo!ニュース
別に京都特有でもない。田舎でもちょっとした人口密集地なら普通に高級車や外車に乗っている。
仏教が拝金主義だったのは室町以後も同じ。むしろ檀家制度の後の方がひどい。
仏教僧の戒律に肉食妻帯禁止があったと思うんですが…坊主は戒律くらい守ってから、色々主張しようぜ。 - scluge のブックマーク / はてなブックマーク
戒律重視は上座部仏教。日本仏教は全て大乗仏教であり、解釈改憲の如き屁理屈で破戒を推し進めてきた長い歴史がある。日本の坊主に「戒律を守れ」と言うと長い弁明がスラスラと出てくるか、もしくは「あなたの仏教理解が足りない」で一蹴される。
仏教史を勉強すると最終的に「日本仏教は仏教ではない」という辛い事実に突き当たる。誠実に勉強した坊主ほど御高説を垂れることができなくなるジレンマ。
じゃなくてさ・・。
キミ話し聞いてないでしょ。
あれを武術家の代表として扱っていつまでもやり玉に挙げてんの君等みたいな奴らでしょ。
まあそれにしたって術理とか使える部分に関しては公開してほしいけどね。
要するに競技の場に出したら使えんかもしれんが、競技をやってるやつが参考にするならいいものだってある。
残念だけど武術家って偽物が圧倒多数なので叩かれるのもわかるよ?
ただ良いものは取り入れたら良いだけ。
それとオウムのことに関してごちゃごちゃ言ってるけど、あれだって部分的にクムパク(クンバク)とか正しい呼吸法を取り入れてたりする。
そういう意味で被害を被ったのはむしろ仏教というよりヒンディだろうね。
教条に関しては詳しくないが、上座部仏教を目指してたようにも思う。
君は1間違ってたら全部間違いなわけだ。
おれはとてもそこまで断ずることはできない。
emuaeda 仏教を研究しても仏教からは何も学べなかったのかな。個人的な感覚だけど、上座部仏教を学ぶ人は本当の仏教だと主張が激しく攻撃的かつ排他的な人が多い気がする。実際、大乗仏教と比べて紛争なども絶えないし。
2021/01/30
上座部仏教と大乗仏教なら確かに前者が後者に対し批判的になりがちだと思う。
(そういう対立が出る場合はということであって、その二者が同席したって99%そんな論争なんかしないが)
大乗仏教って何をやるんですかっていうと、お葬式やって、ふにゃふにゃしたお説教して、いい加減なもんでしょ。
だから地元檀家が減ったり葬式ビジネスが揺らいだりした途端に大乗仏教のお坊さんには売るものが無くなっちゃった。
だから上座部のお坊さんが売ってるような瞑想を急ごしらえで真似る大乗のお坊さんとかが増えてきた。
このあいだ増田でバズってたお坊さんだって、出家比丘の智慧と言えるようなものがどっかにあった?
どこにもないでしょ。
お説教慣れいい話慣れした学校の道徳の先生とかが言いそうな話でしかなかった。
色んな呪術的な儀式や祭礼とその格式みたいなものは構築してた。
でもそういうのに檀家としてガッツリ付き合ってくれる人達が減れば立ち行かなくなってくるよね。
その儀式に何の意味があるんだって言われると文化財的な価値認めてもらえない限り「無」だしさ。
情念というか、元増田に対する寄り添いの感情で押し切るような話だってでしょ。
上座部のお坊さんはあんな風に「温か」くはなくて、結構突き放したようなことを言う。
もっとましなことで悩んでもらえませんか?ぐらい言うことだってある。
鈴木大拙は大乗を情の仏教で上座部を理の仏教だみたいに書いてたけどまさにそれ。
なんとなく寄り添って、肩入れして、励まして、あとはお経を唱えるだけで阿弥陀様が救ってくれるからねとかいって、それで解決するのかと。
ちゃんと仏法を説いて、理屈で説明して、実践手段を与えて、やらせて、指導して、時に「だらしねえぞ」としばいて、頑張らせる、当人が頑張るのが仏教でしょうと。
もともと大乗仏教という名乗りは上座部仏教を「小乗」として見下し自分達を持ち上げる名乗りだったわけ。
念仏を一回唱えただけで極楽往生間違いなし!みたいなことじゃなきゃ世の中を広く救う、大多数のバカまで救う事なんてできないでしょうと。
いや念仏唱えて救われるってもう仏教でも何でもないし、呪術と迷信の凡庸な宗教ですよねと。
そんな話を広めたって迷信広めてるだけで誰のことも救ってないじゃんと。
自分達の教えは自分で頑張る人しか救わないけど、でもお釈迦様の教えがそうなんだからさと。
お釈迦さまは救い主じゃなくて教師だと名乗っていて、頑張るのはあんたらだよと言ってたよねと。
このような大乗VS上座部の激しめの論争がかつてはあり、(何百年以上前、さかのぼれば二千年前からの話よ)
大乗の方が後からできたものの常として勢いも鼻息も強くて攻める側だったの。
でも現代では大乗の大衆向けヒット商品だった呪術的な儀式とか念仏とかが全部通用しなくなって
上座部の教えとか瞑想のメソッドが「マインドフルネス」なんてパチモンが出回るぐらいに売れるようになったわけ。
だから今は上座部側の方が理屈で大乗に攻め込む立場で、大乗の方がそういう場面ではまあまあと誤魔化す、ぐらいになった。
ただ大乗仏教に紛争がないなんて言われるとそれはさすがにどうなのかってことで
日本の歴史の中で寺同士で殺し合い燃やし合いした荒くれ坊主は全部大乗仏教ですからね。
今でも創価学会が仲間割れした兄弟みたいなとこと争いまくってるけどあれだってどっちも大乗仏教の中の近い宗派でしょ。
世界的に見れば上座部仏教で仏教徒とイスラム部族と争ってるとことかあるけど
あれは上座部だから大乗だからっていうよりも政情とか民族とか経済の問題なんじゃないのかね?しらんけど。
“当人が頑張るのが仏教” こういう考えが嫌い。どうしようもなくなったときに、絶望しないためにあるというのは宗教の一つの機能の気がする。それがないなら、大乗でいいです
だから上座部仏教は宗教ではないという人が上座部のお坊さんにもいます。
中島: ポストモダンというのは基本的に「色即是空」としか言っていない。
仏教はそこから「空即是色」としてこの世界を引き受けようとするところがある。
ポストモダン的に言うと、すべてのものには本質や根拠、意味なんかなくて、単に名前をつけられた存在にすぎない。
でも仏教は、であるが故にこの世の中をどういうふうに引き受けるのか、この現世の中で意味ある生を生きていくのか、その精神をもう一度問う。
色即是空というとニヒリズム的な響きがあるが、ニヒリズムといえばニーチェである。
科学的知性や理性によって神を殺した我々は、もはや神によって与えられた生きる意味や価値を信じることはできない。
そうして無意味になった人生に対して、彼はニヒリズムの打倒を叫び、生の肯定を要求した。
大乗仏教の色即是空から空即是色へという流れはこれに似ているようにも思える。
もしかすると次のようなことが言えるかもしれない。
仏教とは、あらゆる物語を剥ぎ取った上で展開された思想である。
色即是空的な宗教的真理に基づき、初期仏教や上座部仏教は現世からの解脱を志向し、大乗仏教はあえてこの世界で生きようとする。
仏教は物語の喪失の彼岸にある思想であり、神の死を乗り越えて生み出された価値である。
あのさあ、
さすがに雑すぎない?
返信すんのやめようかなってなっちゃったけど一応やるわ
でもヴィーガンは非ヴィーガンに注文をつけてるから言い返されてるわけじゃん?
「加担したくないと言ってるだけ」ってのは嘘だね
加害行動に加担したくないし、加害を減らそうぜ、って言ってんの
あのな、俺は上座部仏教徒なんだよ
肉なんて食ってねえよばーか
そりゃまあよかったわ、これからもがんばってよ
いや、「肉を食べることが善い人生だって奴と何一つ共有する気が無い」なんていうからさ、あんたが肉食うの大好きなんだと思ったわ
それでいて反発された途端被害者ぶるひ弱さ、
そういうものを笑ってるだけなの
お前の頭の何が弱いって
相手の話もきちんと読めないことだよ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E4%B8%8A%E6%85%A2
なるほどね
別にそこまで自分の頭がいいと思ってるわけじゃないから否定はしないけどさ
あとヴィーガンは宗教ってわけじゃないんだよね。宗教っぽくなっちゃってる人もいるけど、基本的には思想と実践があるだけだからさ。
その背後のお気持ちを力説されても(しかも後出しで)相手にしないよ
つまんない漫画読まされて「つまんないですね」って評価して、「いやこの作品を描いた背景の気持ちを共有しろよ!」って始められたら困るだろ
そんなの無理だと思うけど一旦可能だとして、
すでに色々と威力で持って他人の生活に制限かけようとしてるんだから「倫理の話だ」じゃないでしょう
ただ社会活動家っていうのは結局人の生活に介入して嫌がらせすることに快感を感じる変態集団にすぎないことが大半なので
ヴィーガンを早めにぶちのめしておこうっていう反発する人達の動機もわかる
>肉を食べることが善い人生だって奴と何一つ共有する気が無いくせによくそう一方的に被害者ヅラ出来るよな
>とにかくお前らは性格も頭脳もひ弱で、そのひ弱さは何から生まれるかというとその常に被害者ヅラして拗ねて逃げ出す習性だよ
俺自身の肉体と頭脳と性格がひ弱であることは否定できないけど、自分が被害者であると主張はしてないぞ。俺はあくまで、家畜たちを犠牲にし続ける活動に加担したくないと言ってるんだ。
でもヴィーガンは非ヴィーガンに注文をつけてるから言い返されてるわけじゃん?
「加担したくないと言ってるだけ」ってのは嘘だね
あと肉を食べて美味しいと思うこと自体は良い人生だと思うよ、その瞬間はね?
でもさ、例えば人を騙してゲットした金でうまいもん食うことがいいとは思えないだろ?
肉は美味いよ、でも肉を食うには殺さなきゃいけないだろ?
もう生きてるやつを食べるために殺すことを(俺は)否定しないけど、食肉産業でやってることは、殺すためにバンバン産ませることをやってるわけじゃん?そこまでする?
あのな、俺は上座部仏教徒なんだよ
てめえがそのひ弱なお気持ちをひねり出すずっと前から不殺生戒を守ってるんだ
それでいて反発された途端被害者ぶるひ弱さ、
そういうものを笑ってるだけなの
お前の頭の何が弱いって
相手の話もきちんと読めないことだよ
俺はこのツリーで不殺生という価値観について一度も否定してないからな
われわれ仏教徒はお前等の「なんとなく可哀想」なんてふわふわなお気持ちとは隔絶したビシッとした理論で不殺生です
よくヴィーガンごとき新興宗教が不殺生について俺達に説教垂れようとか思い上がれたなw
俺はお前等のだらしない議論姿勢や、倫理や戒律の不洗練、どうしようもない頭の悪さを非難してるだけ
肉なんて食ってねえよばーか
君が君の思う正しい仏教なんてものをやりたいのならそれは知らんよ。
もともとは、いかにも苦しんでるやつを助けるのが第一だったから。
でさ、「これこそが仏教だ!」という言い合いになるじゃん?
ちょっと違わない?
だってあなたは元から仏教の宗派の正当性の話なんかしてないもん
(たとえばあなたが「北伝こそ正しい!」と言う主張の持ち主なら言い合いになるけどあなたはそういう人じゃないよね?)
究極的にはそうなるけど
今ある記録からより近いところを探っていくことは出来るし
後世に付け足したことを隠してもいない北伝仏教はそういう意味で「お釈迦様のアイデアとははっきり違う」と言えちゃう宗派だよね
「釈迦といういたずら者が世に出でて 多くの者を迷わするかな」 一休宗純
挙句の果てに「開祖が言ったことと近いか遠いか」という元祖と本家の争奪戦になる。
え、えええええ…。
お釈迦さまが一番、ダントツ、ぶっちぎりで能力のある天才だったからだよ
だからなるべくお釈迦様の言ったことに近づいてその通りにやるのがいい
訴えたいのは保守本流だとか正統性(ここでは字はこっちでいいよね?たぶん)じゃなくて
「マインドフルネスは冒涜だからダメ」とか一度も言ってないでしょ?
そういうある種のラディカルさであなたとは通じ合うと思ったんだけど
君が君の思う正しい仏教なんてものをやりたいのならそれは知らんよ。
もともとは、いかにも苦しんでるやつを助けるのが第一だったから。
でさ、「これこそが仏教だ!」という言い合いになるじゃん?
君は君が理解している仏教とやらが普遍的だと思ってるようだけど、それは違うから。上座部仏教の中にも宗派は有るよね。
お釈迦様はこの世にいない以上どれが正しいかを認定できるやつは誰もいない。
「釈迦といういたずら者が世に出でて 多くの者を迷わするかな」 一休宗純
挙句の果てに「開祖が言ったことと近いか遠いか」という元祖と本家の争奪戦になる。
君から聞こえる正当性の根拠って、開祖が言ったことから遠いか近いかだけだよ。
僕に対してはもちろん、きみの宗教臭いのに免疫がない大多数の人に正当性を訴えて意味があると思う?
自称イスラムの開祖の教えに近いことをやってる連中がどういう目で見られてる?
そこで、検証可能性と再現性を保つ科学の立場になってくる。無論、そうやって切り分けできる範囲でしかまだ科学の立場になっていない。
今回挙げたのは今苦しんでるやつを救うためだからな。
科学的検証に由来しない誰かが正しいといったという時点でそれは宗教だよ。だから間違ってるというわけではないが。
科学的検証に耐えたやつが宗教から出ていったのと、霊感商法が跋扈してるから、怪しいものになるわけだ。
で、霊感商法が跋扈している以上、科学的検証に耐えたもので言えるのならまずそちらを先に言わざるを得ないと思う。
元増田はだいぶ弱っているし、そういうやつほど霊感商法のカモだ。仏教いいよ瞑想いいよマインドフルネスいいよと言って、偽装した霊感商法に走られては困る。
今の御時世広告で怪しい連中が構えてるしな。
まずは取っ掛かりで頭を休めて、落ち着いて関心があったら上座部仏教の方にいったらいいかもねぐらいの立場だ。
落ち着いて、ある程度理性的に考えれるのなら、怪しいやつなんて怪しいと逃げれる。
上座部仏教もいいと思うけど、今苦しんで訳がわからないやつにとっては、霊感商法も、上座部仏教も正しさが判別がつかない。
あと、悟ったってのは僕の主観だ。ひょっとしたら書いてるのかもしれんが知らん。
悟りって僕は「認知の歪みが取れた」ぐらいの意味だとしか思ってない。
悟ったって言ったらそれだけで怪しいと思ったんでしょ?だからこそ、科学的検証と、今苦しんでいることにターゲットを当てている本を書いてるやつを選んだ。
自分は海外の上座部仏教のお坊さんの本ばっかり。特にメソッドとしてはマハーシ長老系列のね。
読み比べて全然こっちがいいなとなった。
小池龍之介のようなスター坊さんにしても俗っぽさが強めに感じる。
マインドフルネスも、確かに科学的な検証を進めていくことは大事だと思うんだけど、
仏教を中途半端にちぎって美味しいところだけ食い逃げしたつもりで実は重要なこと沢山取りこぼして超劣化バージョンになってるような感じがあって。
瞑想は仏教という宗教由来のもの。で、宗教は昔のなんとなく正しい物詰め合わせだと思ってる。瞑想は科学的検証なんて無い時代に生まれたもの。
たぶんここが我々の考え方の決定的に違う部分だ。
自分の認識では仏教は釈迦と言う天才一代の完璧なアイデアであって宗教ではないし詰め合わせではない。
瞑想による心の観察は現代科学なんか全然追いつかないことは瞑想してる人なら同意すると思う。
(追いついていくための科学的検証はもちろん悪くないことだとおもう)
これは野口誠一氏の本になるが、実際苦しんだ人間じゃないと、他人を救えないという考えがある。地涌の菩薩という。まあ、自分で調べてみて地涌の菩薩は創価臭いのがあれだが、、、。
そういうのも典型的な、智慧ではなく情というか、嫌な意味での日本仏教臭さが敬遠したくなる
と同時に、宗教の名を語り、実際は弱った人間に漬け込んで依存させるタイプの霊感商法も多い。瞑想だのヨガだのを隠れ蓑にしてそういう団体がうごめいている。
ここは全く同感
前述のとおり釈迦のアイデアは現状では科学よりずっと先にいるから
科学がキャッチアップした部分だけで瞑想するのは重要なエッセンスの取りこぼしが激しいと思う
(自分でもこの立場は非科学的であり常識的に言えばヤバみがあるのはわかっている
あなたの態度の方が常識的かつ慎重で本来好ましくあらゆる場面でベースとなるべき態度)
結局無我ということをおさえていく道のバリエーションでしかなくそこを特別に大事にする感じはない
増上慢卑下慢同等慢という考え方とか聞いた時には面白いけどそれで面白がらせてもしょうがないというか
ただちょっと食わず嫌いもあったかもしれないから紹介してくれた人の本を改めて読んでみる